消しゴム ラブレター
「ねえ、佐伯さん。消しゴム貸して」
古典の授業中。
先生が背中を向けたタイミングで、横から小声で話し掛けられた。
声の主は、隣の席の国見君だ。
私と目が合うと、国見君は頬杖を付いたまま口パクで催促してきた。
「か・し・て」
「……また?」
口元が緩みそうになるのを隠すため、私はわざと呆れたような顔をしてみせる。
急いで渡したせいで彼の手に少し触れてしまい、指先が火傷したように熱く感じた。
「さんきゅ」
普段は表情をあまり変えない国見君が、にっと歯を見せ目を細める。
動揺した私は「ん」と短く返事をすることしかできず、平静を装う為にすぐさま視線を黒板に戻した。
同じクラスになってから半年。
国見君と隣の席になったのは今回が初めてだが、そこで判明したことがある。
国見君は消しゴムをよく忘れる。
隣の席になってから、ほぼ毎日のように「貸して」と声を掛けられるのだ。
「はあ……」
放課後。
人が来ない三階の渡り廊下で、グラウンドに向かって私はため息を付いた。
この場所からは、テニス部の練習風景がよく見える。
力強くラケットを振る国見君を、私はぼんやり眺めていた。
「好きだな……」
自分で呟いた小さな声で、ぎゅっと胸が締め付けられた。
国見君が好きだ。
消しゴムの貸し借りをする以外、殆ど話したことはないけれど。
柔らかそうなさらりとした髪が好き。
少し垂れた目元が好き。
黒板を消している時の、広い背中が好き。
友達と話している時の、ふっと緩めた顔が好き。
試合に負けて本気で悔しがる肩が好き。
授業中、真剣な顔でノートをとる横顔が好き。
笑った時に見える少し尖った犬歯も、大きな手も、「ねえ、佐伯さん」って、私を呼ぶ声も。
溢れ出しそうな気持ちをどうにかしたくて、私は消しゴムを手に取った。
私の気持ちなんて知らない国見君は、きっと明日も「消しゴム貸して」と、私の心を無駄に跳ねさせるに違いない。
そう思ったら悔しくて、悲しくて。
知ってほしい気持ちと、知られたくない気持ちがごちゃ混ぜになった私は、消しゴムに巻かれた紙に隠れる場所に、シャーペンで薄く書いてやった。
『国見君が好き』
「ねえ、佐伯さん。消しゴム貸して」
案の定、小声でそう頼まれ、私はその消しゴムを渡した。
心臓が破裂しそうで、石になったように視線を黒板から動かせない。
気付かれないとはわかっててる。
でも、自分がとんでもなく危うい事をしてしまったことを今更ながらに悟り、先生の話なんてもちろん全く頭に入ってこない。
「佐伯さん」
小声でそう言って、国見君が私のノートの上に消しゴムを置いた。
「え?」
私は目を丸くした。
机に置かれたのは、私の消しゴムじゃなかった。
巻かれた紙の端には、小さく『国見』と書いてある。
驚いて思わず隣を見ると、顔を赤くした国見君が、自分の机に置いたままの私の消しゴムを、トントンと優しく指で叩いて、口だけを動かした。
「な・か・見・て」
震える手でそっと紙をずらすと、国見君の消しゴムには、油性ペンで書いた文字があった。
『俺も好き』
ぼっと赤くなった私は、消しゴムを握り締めてそのまま机に突っ伏した。
隣で、小さく国見君が笑う声がした。
その日から、国見君は消しゴムを忘れなくなった。
油性ペンで描き直しさせられた、私の消しゴムを持ってるから。