短編版 おっさん、高校生になる
少し硬く、糊の匂いのする、新品の黒のスーツと、同じく、新品のスラックス。
前髪は、丁寧に作って、顔の脇から下がる触覚は軽くカールの巻かれたナチュラルブラウンの、セミロングのウルフヘア。派手過ぎず、かといって地味過ぎず、適度な、メイク。
元の素材が良いからか、ナチュラルメイクでも、その顔は一級品。
ついこないだまで、学生だった彼女は、今日、四月一日。新任教師として、初めての出勤日だ。新潟県燕市の県立燕鳥高校、そこが彼女の職場である。
「君が、新任の若山栞さんだね? 早速で悪いけど、君……このくじ引いてくれる?」
*
燕鳥高校一年二組。くじ引きの結果、ここの担任になることになった。
ここまでは、問題なかった。全くもって問題はなかった。たった一つを除いて。
若山栞は二十三歳。そして、生徒の中に、三十四歳の男がいる。
なぜ、新米教師に自分より年上の生徒の指導を任せるのか……。
先輩の先生から、聞いた話だと、もともとどこかの会社の社長さんだったらしい。
「えぇっと、今日からみんなの担任になりました、若山です、担当は、古典です」
なんて言っても、教室のざわつきは、収まるわけがない。
教室の端に制服姿の、おっさんがいるのだから。
「みんな、話…… 聞いてほしいかな……」
おっさんのせいで、まったく、クラスの空気が纏まらない。
私の事なんて、一部の男子しかしてないし……。
男子生徒から向けられる、その目線から、下心を感じた。
怖い……。 心臓がドクドクと強く跳ねる。体がカタカタと震える。
まとまらないクラスに、下心の含んだその恐怖の目。……そして、このおっさんだ。
私が夢見ていた、教師という世界は、ひどくあっさりと崩れていった……。
*
「はぁ、教員人生最初が、こんなクラスなんて……」
放課後、生徒はみんな帰って一人、静かな教室で、不安という感情を吐露する。
その目からは、涙がこぼれる。メイクが崩れ、アイラインのにじんだ真っ黒な涙が……。
小さいころからの夢だった、教師という職業。
教員になるために、どれだけの努力を重ねただろう……。
それなのに、こんなことになるなんて想像できただろうか……。
「若山先生」
その声に、反射的に顔を上げる。
その先にいたのは、例のおっさん。名前は、桐生桐貴。
ワックスでの整えられた、七三分けの黒髪に、整えられた顎髭と、痩せこけた頬。
一目で、30~40代と想像できる、堀の深い顔。
なのに、高校生の着る今どきのセーターとブレザーを身に纏う。
何というギャップなのだろう。
「先生、申し訳ない!」
桐生さんは、深く頭を下げた。
「先生は、俺より若いだろ?だから、やりにくいんじゃないかって思ってよ?」
私は、何もできなくなっていた。年上の謝罪というのを受けたことが無かったから。
「え、いや……」
それに、ここで桐生さんが私に頭を下げて、何か状況が変わるのだろうか。
今から、クラスを変えることはできないし、私と、桐生さんの歳が変わるわけでもない。
この謝罪は、桐生さんの自己満足でしかないのだ。
「頭を上げてください。 これは仕方のないことなんです。 だから、桐生さんが謝ることなんてないですよ」
実際、悪いのは、学校側だ。すべての責任は、学校と、私にあるのだ。
それを、生徒である、桐生さんに押し付けるのはお門違いだ。
「確かに、やりにくいと思うところもあります、だとしても、私は、桐生さんの担任です。 この一年を過ごして、よかったといえるように頑張ります」
「先生……」
「私たちは、先生と生徒なんです。 だから、仲良くしましょ?」
これは、少しおかしな関係の二人のお話。
*
5月。クラスの中のグループが確立し始め、クラスの雰囲気も和やかとなった。
そんな中、みんなにとって、高校生活始めての行事。「体育祭」
クラス中は、体育祭に向けて、作戦会議中だ。
「騎馬戦どうする?」「綱引きは誰が出る?」
そんな会話が続く中、クラスの輪に入らない、二人の影。
一人は、桐生さん。そして、もう一人は、クラスで一匹狼の矢嶋くん。
「桐生さんは、出たい種目とかある?」
「いえ、特には……」
桐生さんは、この一か月でクラスでの立ち位置を確立させた。
クラスメイトの相談役。桐生さんは、クラスメイトの家族や、先生に相談できない、踏み込んだ、話をよく聞かされているらしい。放課後にいつも、誰が、どんな話をしたのか報告してくれた。先生も知っていればもし、何か起きた時に解決しやすいだろうと……。
だから、桐生さんはクラスに馴染めず、体育祭の話し合いに参加できない。というわけでもない。だからこそ、いつもより控えめな姿勢なのが気にかかる。
「あの、実は。自分、もう体がねぇ、痛むようになってきたのよ」
歳?と、クラスの中心人物の彼がそう笑う。それに、答えるように、そうだねと、桐生さんも笑う。クラスのみんなもそれに合わせて、笑う。
「それでも、できるだけ1種目ぐらいには出てほしいんだ」
「そうですか、なら個人種目がいいかもです」
んん~とクラスメイトは唸る。熟考のすえ、一人の生徒が借り物競争を提案した。
確かに、それなら個人競技だし、運によっては最下位から、一位に逆転できるかもしれない。そう考えると、桐生さんに一番合ってる種目かもしれない。
「……くだんねぇ」
そう言って、矢嶋君は、教室から出て行ってしまった。
矢嶋宏樹。成績不振で、授業態度もあまりよくない。
このままだと、留年してしまうだろう。
私としては、留年はさせたくないし、できればクラスのみんなと仲良くしてもらいたい。
どうしたものか……。
*
放課後、桐生さんが、私のもとを訪れた。
「先生、お話いいですか」
その横には、矢嶋君の姿も見えた。
「……場所移しましょう」
きっと、彼にとって私のもとを訪れるのはかなり勇気が必要だったから。一年二組の教室に行くまでの廊下。
その静寂が酷く、苦しかった。
ガラガラと音を立てて、教室の扉を開く。
数時間前の喧騒からは、想像もできないほど静かだった。
「先生……」
その静寂を終わらせたのは、矢嶋君だった。
「俺、学校にも行ってなかったけど、ある病気だった。 別に今すぐ死ぬような病気でもないし、症状は安定してる。 でも……肺が良くなくてよ……」
「体育とか、体育祭とかの参加が難しいってこと……?」
「あぁ……」
「矢嶋君は、病気のせいで放課後、みんなと遊んだりできない。 そのせいでクラスに馴染めないし、時間が経てばたつほど、距離を感じるんだって、相談してきたんです」
「……俺は、勉強もできないし、こんな性格で、強面だからさ、先生たちも俺のことを不良としてみてくる。 だから、桐生さんに相談したんだ」
……きっと、桐生さんに相談するのも、かなりの勇気が必要だっただろう。
私は、彼女の勇気に答えることはできるだろうか……。
「話してくれて、ありがとうね。 クラスメイトとのことも、勉強のことも考えてみるから、少し時間もらってもいいかな」
「はい……」
矢嶋宏樹という、少年を、私は。いや、この学校にいるほとんどの人が誤解していただろう。人から、誤解や、偏見をなくすことは、簡単ではない。
だからこそ、そう簡単に結論を出すこともできない。
「桐生さん、少し残ってもらえる? 矢嶋君は、何か他に聞きたいことある?」
「いえ、大丈夫です」
「じゃあ、今日のところは帰ってもらっても大丈夫。本当に相談してく
れてありがとうね」
矢嶋君は、何も言わず、コトコトと足音を立てて去っていった。
「桐生さん、今から話すのは……教師としてではなく、一人の人間として話を聞いてもらいたいの」
「ええ……」
「私は、どうすればいいと思う?」
矢嶋くんのことを知るのは、私と桐生さんだけ。秘密を広めることもできないが、他の先生に矢嶋君のことを相談しても、不良というイメージがあるせいで、まともに取り合ってももらえないだろう。
「これは、自分の考えなんですが……」
*
数週間後、体育祭本番。
クラスメイトはみんな、笑顔でこの時を迎えている。
「矢嶋君! ありがとう!」
矢嶋君は、あの後、クラスメイトに自分の事情を明かした。
そして、体育祭でクラスの写真の撮影係を名乗り出た。
みんなとの思い出を一つでも残したいと。
クラスメイトは、全員矢嶋君のことを快く迎え入れた。
百点の答えを出せたなんて、言えないが、それでも、いい結果にはなったという事ぐらいいいだろう。勉強も、クラスメイトとともに週に一度勉強会を開くようになってから、成績が徐々に良くなっているという。
「ありがとうね、桐生君」
「いえ、俺は何もしていませんよ。 結局、答えを出したのは先生です」
「それでも、私を答えに導いてくれた。 その事への感謝だよ」
「太山に登りて天下を小とす。 この言葉、俺すごい好きなんですよ。 その言葉をモットーに昔から、努力してきたんです」
「孟子が由来の言葉だね」
「やっぱり、知ってましたか」
「当然でしょ、私は古典の先生だよ?」
私の中で、桐生さんに特別な想いがあった。生徒と教師。その関係を壊してしまう想いが。
でも、この想いは隠しておくんだ。あたしたちを繋ぎとめるために……。
「桐生さん! 先生! 一緒に写真撮ろうよ! もちろん、宏樹も!」
その時、クラスの中心人物の成沢君が呼んできた。
私も、桐生さんもそれにこたえる。
皆で撮った、この写真は、きっと私達にとって大切な宝になるだろう。
このクラスは、私にとって、最高のクラスなのだから……。