エピローグ
「愛」って何なんだろう?
かつての僕は、愛というものを賜った事もない癖に、ずっとそんな事を考え続けていた。
今思えば、心の奥底では憧れて、思い馳せていたのだと思う。
だからなのか僕は「温もり」というものを探していた。
そして今の僕は「温もり」というものを知っている。
かつての僕は温かいという感覚を知らなかった。大抵の人間は産まれると同時に親から「愛」というものを授かっているらしい。
恐らく僕も両親から愛されてはいるのだろう。だけど僕は温もりを感じなかった。
もしかして僕の心は産まれた瞬間から氷河の氷のように凍りついていたのかもしれない。
数年程前から僕は薄々、感じ始めていた。両親の愛情表現のようなものは所詮、形式に過ぎず、その実態は空っぽだという事に…。
生物は繁栄及び維持の為に産まれる前から「愛」という呪いにかかっているのだと僕は思っている。
その呪いは生物を繁殖させ、栄えさせる為に幾つかの簡単な規則を設けた。
「誰かを愛しなければいけない」という規則。「誰かに愛して貰わなければいけない」という規則。そして…
「同種以外を愛してはいけない」という規則だ。
だけど僕は、いや僕達は逆らってしまった。
その事について僕は、今は何も後悔はしていない。
あの日、僕と彼女は自然摂理に基づいたその規則を破って、超えてはいけない壁を―越えられない筈の壁を―超えてしまったんだ。
* * *
多種多様な救いようのない成らず者達が長い年月をかけて築き上げた歓楽街は目眩がする程に騒がしくてギラギラとしていて、その場に居るだけで疲れた。
そんな歓楽街は騒がしくして群れ合っている癖に、何処までも寂しそうで、それが哀れに思えて仕方が無かった。
そんな都心の繁華街の中を僕は一人、歩いていた。
やはり人々は寄り添う振りだけは立派なものだが、実際に他者に寄り添えば傷付けてしまうかもしれないし、傷付けられてしまうかもしれない。
そんな猜疑心で街中が張り詰めているので、人々はままならぬ時を、ままならぬまま過ごす事を余儀なくされている。
「私は誰よりも幸せだった。私には充分過ぎるくらい幸せだった」
君はこんな世界でも「誰よりも幸せだった」と僕に言ってくれたけど、押し潰されれば一溜りもないような世界の中で只々、呆然と漠然と生きている今の僕には、そんな模範的な事を言える君の気持ちが分からなくなってしまった。
「もっと君と一緒に生きていたかったな…」
それは僕だって同じだ。もし、この世界の理が許してくれるならば、僕も君と磐のように二人仲良く重なり合って、永遠に二人隣り合わせでいられる幸せを噛み締めながら、共に生きていたかった。
「だから生きて、私の分も…。君の思い出となる私を生きる為の糧として…」
そんな事を去りゆく君は取り残された僕に簡単に言うけれど、果たして君は、こんな先の見えないうえに、余りにも冷徹で酷い世界の中でも愛する人を失ってまで生きていたいと心から思えるのか?
また日常風景のように裏路地の方から今にも消えてしまいそうな悲鳴が聞こえてきた。
人混みの人と人との隙間から、僕は悲鳴のした方を見ると寂れた通りの裏路地で、またまたあの時とは別の少女が数人の不良者達に囲まれていた。
やはり前にこんな事が合った時と同じように、この胸糞の悪い出来事に気付いている人は、僕の他に数人程いた。
なのに全員が自分に危険が降りかかる事を―傷付く事を―恐れて、傍観を決め込んでいた。
悩んで苦しんだ末に、僕も傍観を決め込もうとしたその時…。
突然、まるでつなぎが僕の背中を厳しくも優しく押してくれたかのように、冷たい雨が降る夜の中、彼女を連れ出した時の光景が思い出された。
手と手を取り合った瞬間の絶望に抗い、絶望を跳ね除けようとする何処となく熱い、僅かな期待が身体に齎された時のあの不思議な感覚が、再び走った。
気が付けば僕は少女が助けを求めている場所を目掛けて駆け出していた。
僕は不良達に飛びかかって無様ながら応戦したものの、瞬く間に決着は着いてしまい、力が及ばなかった僕は暫くの間、彼等に殴打され、蹴られたりして無情な程に暴行を受けた。
激しい暴力の中で断片的な情報から、僕はいつの間にか、襲われていた少女は逃げて姿を消していた事を知った。
どうやら僕が暴行を受けている間に少女は無事に逃げてくれたらしい。
無事に彼女が輩から逃げる事ができて良かったと思う反面、どうして助けに来た僕を置いて勝手に逃げたという憎悪の念も湧き上がってきたが、憎悪の念を膨らませたところで虚しいだけだと思ったので只々、今は静かに身を守る事に専念した。
散々、様々な暴行を受けた後、誰に助けられる事もなく僕は放置されていたし、僕も暫くそうしていたかった。
そうして仰向けになって鼻血を垂らしながら僕は只々、澄み渡った青空を眺めていた。
「君を必要としている誰かが、きっと何処かにいるから!」
夜空に一人漂う有明の月を見つけた瞬間、あの霊妙なる不思議な世界でつなぎが僕に投げかけてくれた言葉が思い出された。
彼女の言葉が僕の心中で、優しくも激しく響いたのだけれど、報われなかった僕の心中で響いたところで何の験も無く、虚しさと悲しさが只々、僕の環世界に霧のように立ち込めるだけだった。
「『君を必要としている誰かが、きっと何処かにいるから!』って君は言うけれど、本当にそんな人がこの世界にいるのかな?」
まるで黄泉国に渡ってしまった君に問い掛けるかのように、澄み切った青空に向かって問い掛けてみた。
どれだけ空に問い掛けたところで返事なんて返ってくる筈もないのに…。
そんな事を考えていると当然、返事なんて返ってこないと思っていた僕の予想を見透かしたかのように
「ここにいるよ」
という聞き慣れた女性から発せられた言葉と共に、僕の予想は外れてしまい、臆病そうで、でもそれと同時に柔らかそうな手が差し伸べられていた。
そうして手が差し伸べられている方を見ると、そこには廃ビルでの憂鬱を共に乗り越えた女性と先程、僕を置いて逃げ出した筈の少女がいた。
そして手を差し伸べてくれているのは逃げ出した筈の少女だった。
どうやら、僕が足掻いている隙に逃げ出した少女の行く先に、彼女が立ち塞がり、僕を置いて逃げようとした少女を嗜めたらしい。
そしてその後、僕が仰向けになって寝転んでいる方へと二人で戻ってきたという次第だろう。
今、僕の胸の中には一言や二言では言い切れない程の数多の感慨が降り敷いている。
その中には当然、今までの、もしくはそれ以上の、絶望や憂鬱を孕んだ物もあるけれど、その一方で希望や期待を抱いた物も芽吹いている。
このように僕の胸に数多の感慨が降り敷いているのと同じくらい、長く寒い冬が終わり、温かくて心安らぐ春がやって来る節を機に良い事が重なり、そして良い人と出逢い、そして共に幸せな時間を重ね過ごして行けたならば、それはどれだけ素晴らしい事だろうか。
差し伸べられている少女の手を、まるで母が愛しい子供の背中を後ろから優しくさする、もしくは押すかのように陽の光が照らしている。
もしかしたら、つなぎは姿形が無くなり、見えなくなってしまっただけで、実は今でも生きていて、僕等の傍にいて、僕等を見守ってくれているのかもしれない。
差し伸べられた少女の手とその少女の手を照らしている柔らかな陽の光に、最高に幸せだった日々の残滓と微か過ぎるものではあるが、確かな希望的観測を見出した事による多幸感を感じながら、僕は差し伸べられている少女の手を取った。
時に、この世界というのは残酷で、いとも容易く紐を解くかのように、僕達と僕達が大切にしているものを切り離してくる。
かと思えば、逆に情の縺れが酷くなったりなんかして、どうしようもない程に絡まったりなんかする事もある。
そうやって色々と一纏めにできない程に、余りにも色々とあるのだろう。
だけど、やがては、こうして僕達は結ばれて、繋がるのだろう。
僕とつなぎみたいに…。
僕とこの子みたいに…。
こうして僕達は手を取り合った。




