第1話 幸せの終わり、現実逃避するむすび
月が僕を見下ろしている。
つなぎの元へと帰る為に僕は一人、夜の街を足早に歩いていた。
「ちょっと良いかな?」
つなぎのいる廃ホテルに帰る道中、警察官二人に補導されそうになったが僕は彼らを無視して、ひたすら歩き続けた。途中から完全に僕は彼等から逃げる形となっていた。
そして僕は周りに僕を見ている人がいるか、いないかを確認してから、つなぎが待っている例の廃ホテルへと入った。
つなぎが待っている部屋に帰ると、つなぎが声を抑えながら―痛みを堪えながら、一人で過酷な運命と戦っていた。
悲鳴を必死に抑えているのは僕がいつ帰ってきても大丈夫なようにと心配させない為であり、不安にさせない為であり、痛みを堪えているのは僕を哀しませない為だった。
全部、僕の為だった。
僕はそういった彼女の優しさを敢えて見て見ぬ振りをして部屋に入った。
つなぎは僕に気付いて
「おかえり」
と優しく僕を迎えてくれた。
「ただいま」
と言うと同時に、僕は哀しみながらも何処か安心してしまった。
そんな僕の精神症状を、果たしてつなぎが何処から何処まで見抜いているのかが僕には分からなかった。
つなぎの僕に対する配慮の度合いが分かってしまう事が怖かったので、分かりたくなかった。
「ごめん、また駄目だった」
と僕は不甲斐無く只、謝った。
「ごめん、ぼくがこんなのだから…」
弱くて何もできない自分を責めた。
「そんな事ないよ、むすび…。君は、私なんかの為に頑張ってくれてるじゃない。『こんなの』とか言わないで」
「えっ?」
何故か、つなぎは微笑んでいた。
「君がこんなにも私の為に頑張ってくれたから、私はここまで来れたんだよ」
つなぎがそっと弱り切った僕の頬を撫でる。
「だから、むすび、ありがとう」
ねぇ、つなぎ。その「ありがとう」にはどんな意味があるの? どんな想いが込められているの?
「私は大丈夫だよ」
そう言いながら、つなぎはにっこりと笑みを浮かべる。
「ごめん、ごめん…。どんな事があっても、絶対に君を―つなぎを―助けてみせるから…」
僕はやっと掴んだ光を離したくなかった。
「ありがとう、むすび。でも…」
つなぎが優しく、温かい眼差しで僕を見つめている。
だけど同時に彼女の瞳には果てしない哀しみと遥か遠い所へと旅立つ者が見せる覚悟が窺えた。
「もう、いいよ」
生きる事を諦めてしまったのだろうか?
つなぎは哀しそうに笑っていた。
「ど、どうして…」
僕には、つなぎが心から笑っているようには見えなかった。
つなぎの瞳が全てを物語っていた。
「どうして、そんな事を言うんだよ? まだ諦めちゃいけないじゃないか!」
「もうね、色々と疲れちゃってさ…」
「確かに今は苦しいけど、明日には笑っていられるかもしれないじゃないか!」
「うん、むすびの言う通りだね。確かに明日には笑っていられるかもしれないね…」
「そうだよ! つなぎ…。良かった。そう言って貰えると僕は嬉しいよ」
「でも、明日はもっと痛くて、苦しいかもしれない」
つなぎは早とちりした僕を置いて、淡々と話を続ける。
「えっ…?」
「せめて明日があれば良い方かな…」
「何言ってるんだよ、つなぎ…。あるに決まってるじゃないか! 挫けちゃ駄目だよ!」
彼女は暫く押し黙っていたが、やがて決意を固めたように
「私なんかの為に走り回ってくれてありがとう、むすび。だけど私はもう充分だよ」
「なんで…。なんで、なんで!」
つなぎをこの世界に留められないかもしれない事が悔しくて、何よりも哀しくて僕は思わず泣いてしまう。
「…泣かないで、むすび」
「つなぎ、つなぎ…。つなぎ!」
今にも崩りしてしまいそうなつなぎを僕の傍に留めたいという思いが溢れ出して、僕は彼女の名前を反芻する。
「むすび…」
「絶対、何としてでも…」
「…」
「何としてでも僕は、つなぎを助けてみせるから…」
「むすび…」
涙が邪魔して、つなぎの表情が良く分からないけれど僕もつなぎも互いに互いの運命に触れて哀しみ合っていたのだと思う。
「僕とつなぎはずっと一緒だ!」
「っ…!」
僕達の叶わないであろう願望を力いっぱい約束するように僕は叫んだ。
「つなぎ、つなぎ…」
「…ごめん」
「えっ…?」
思わず声が漏れた。何か、見えない糸みたいなものが、ぷつりと途切れたような気がした。
「…私には生きる事が、辛い。辛いの!」
嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! そんなの絶対に嘘だ!
僕は哀し過ぎる現実を直視できなかった。いや、直視したくなかった。
「だから、もう良いよ。むすび」
つなぎは温もりに溢れた声で、僕にそう言った。
「つなぎは生きる事が辛いって言うけど、それでも僕は…。僕は諦めたくない!」
つなぎという希望の光に必死にしがみつく事しかできない僕がいた。
「私の事は、もう放っておいて…」
何故か、つなぎは崩れてしまいそうな瞳で、温かい心でにっこりと笑った。
「何で…。何で、そんなこと言うの?」
僕の何倍も苦しいであろうつなぎよりも、僕の方が先に泣き崩れてしまう。
「…」
つなぎは只、僕を見つめているだけだった。
いや、もう彼女には見つめる事しかできなかったのかもしれない。
哀しみと愛に満ちた瞳で…。
僕は哀しくて、悔しくて泣いた。
つなぎは哀しくて、苦しくて笑った。
「じゃあ、もう良いよ! もう、うんざりだ。僕はもう、つなぎの事なんか知らない!」
違う! 本当はこんな事を言いたいんじゃない! 僕はつなぎから逃げようとしているだけだった。
つなぎの背負っている過酷な運命を共に背負おうともしないで逃げようとしているだけだった。
恥ずかしくて最低だった。
自分自身の不安を一時だけでも紛らわせる為に、つなぎに暴言を浴びせた。
だけど、つなぎは優しいから、僕の弱さを全身で―心全てで、受け止めてしまう。つなぎの方が苦しいに違いないというのに…。
「僕には、つなぎを抱えきれない!」
僕は、つなぎに深い深い傷を付けて、つなぎから逃げた。




