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第10話 帰れない二人

 目を覚ますと橙色の光が目に飛び込んできた。


「むすび、おはよう。…って言っても、もうこんな時間なんだけどね」


「こんな時間?」


 寝起きで思考能力が低下していた為、つなぎが何を言っているのか分からなかった僕は、つなぎにそう聞き返した。


 状況が何となく分からないまま辺りを見渡すと、夕陽が残酷な迄に僕の眼を焼いた。

 それでようやく僕は朝と昼をすっ飛ばして、もう夕暮れ時になっているのだという事に気付いた。


「えっ、そうなの? もう夕方なのか…」


 と僕は少し遅れてから、しっかりとした返事をした。

 ぐっすり眠れたからなのか、それともつなぎが隣にいてくれたからなのか、僕は心身共に余裕ができていて、不思議と落ち着いていた。


「よしっ!」


 僕は微かに残る痛みを捻じ伏せて、ゆっくりと立ち上がる。


 僕はめげずにもう一度、助けを求めに行く事にした。

 夕焼けが廃れた彼女を彷彿とさせたからなのだろうか?


 とにかく僕は、あの女性がいるであろう例の廃ビルに向かう事にした。




 血のように真っ赤な夕陽が廃ビルに空いた小さな穴を掻い潜って、僕の足元を照らしている。


 かつては美しいと感じていた夕陽を、残酷なものだと感じるようになったのは一体いつからなのだろうか?

 そんな事は今となっては、もう分からない。


 結局、僕は必死に自身の過酷な運命と戦っているつなぎを一人にさせてしまう時間を造りたくも無いのに、造ってしまう。

 こうやって、この世界の残忍さと自分自身の弱さを僕は痛感し続ける。

 僕は錆びて変色した階段を登る。

 今にも崩れてしまいそうだと、そんな階段を危惧しながら僕は只、屋上へと向かう。


 当たり前だが、進むに連れて段々と屋上へと繋がる扉が見えてくる。

 屋上へと繋がる扉の前に辿り着いた僕は立ち止まる。


 そしてもう一度、勇気を振り絞って僕は酸化してぼろぼろになった手摺りを握りながら屋上へと力強く一歩、踏み出した。







 廃れた廃ビルの屋上は、いつにも増して異様な空気に包まれていて、まるでこの場所は世界から仲間外れにされているみたいだった。


 彼女は独り汚れた街を見下すかのように屋上の縁に立っていた。

 彼女の周りには酒類の空き缶や煙草の吸い殻が無数に転がっている。

 きっと彼女は恐怖や苦渋苦難といったものから逃れたいが為に酒を浴びるほど飲み、煙草を蒸していたのだろう。

 彼女は明らかに悪酔いしていた。


 妙な迄に、嫌な予感が脳裏をよぎった。

 ビルの屋上、独りきりの女性、幾つもの散らかった空き缶、ビルの縁…。


 もしかしたら彼女は自殺しようとしているのかもしれない。


「何だ、またオマエか」


 僕の存在に気付いた彼女は振り向いて、疲れ果てた眼で呆れたと言わんばかりに僕を睨んだ。


「何…しようとしてるんですか?」


 僕は腫れ物に触るかのように、慎重に分かり切った事を彼女に尋ねる。


「見りゃ、分かるだろ…」


 と彼女は冷たく、きつい口調で僕に言い放った。


「分からない振りしてんじゃねぇよ」


 更に彼女は僕に追い討ちをかける。

 それにしても彼女の後ろに見える夕陽が鬱陶しくて仕方がなかった。


「そんなところに立ってたら落ちますよ」


 僕は誤魔化すように明るい声で、彼女に話しかける。

 僕は顔を引き攣らせて無理矢理に笑顔を作ったりしてみる。


「誤魔化してるんじゃねぇよ」


 と言いながら彼女が呆れた眼で僕を見る。

 彼女が軽蔑の眼差しを僕に浴びせる。

 僕の心に黴が生える。


「どいつもこいつも…。オマエもそうだ。私を腫れ物扱いしやがる」


 悲哀と憤怒が混じった声で、彼女はそう呟いた。

 僕の余計で逃げ腰な気遣いが、返って彼女の傷口を抉ってしまったのだ。


「皆、アタシをボロ雑巾のように使っては捨てていく…」


 抉れた彼女の傷口がどんどん広がってゆく。


「オマエも所詮、私を捨てた奴等と同じなんだよ」


 僕は彼女の言葉を否定する事ができなかった。だからといって肯定する事もしたくなかった。


 確かに僕も彼女を憂さ晴らしのお供のように扱っていたかもしれないが、少なくとも僕と同じように僕を憂さ晴らしのお供として扱っていた彼女に、その事を批判されたくはなかった。


「本当は酒も煙草も要らない。金も社会的地位も要らない…」


 彼女の酒灼けした声が揺れて揺らいで、僕の鼓膜に届いて響く。

 彼女の瞳が夕陽色に染まって潤む。


「アタシは只、温もりが欲しいだけなんだ」


 彼女の眼から涙が溢れる。

 大粒の涙が彼女の頬で渋滞して地面に零れる。

 彼女の叫びが僕の心に痛いほど響いた。


 僕と彼女の心はどんどん混乱してゆく。


「すっ…少なくとも貴女のお腹の中の子供は貴女を必要してる筈です。それで、きっと必ずお腹の中の子供が貴女に温もりを与えてくれる筈だと思います」


 つい僕は会話を繋げて成り立たせ、一刻でも自殺を遅らせようとする為に、彼女の心を逆撫でするような事を言ってしまう。


「知ったような口を叩くんじゃねぇ!」


 と彼女が僕を睨みながら怒鳴る。


「オマエに、私の何が分かるっていうんだよ!」


 彼女はそう叫びながら僕目掛けて足元に転がっていた空き缶を蹴り飛ばした。

 彼女が蹴り飛ばした空き缶が、僕の左脛に当たってカランという虚しい音が鳴った。

 避ける事ができない彼女の悲痛な問いに対して、僕は何も答える事ができなかった。


「何もできない癖に助けようとするな! 手を伸ばそうとするな…」


 と彼女が弱い僕を責める。

 弱り切った彼女の言葉一つ一つが僕の心の傷を抉る。

 弱い自分を恨むように僕は自分の手をギュッと握り締めた。


「確かに今の僕には何もできないかもしれません。でも例え何もできなくても、届けられなくても、僕は手を伸ばし続けていたい…」


 僕の心の声が彼女の言葉への回答として漏れた。

 彼女の後ろには、血の色をした夕陽と廃棄物処理場が僕達を嘲るように、どっしりと座り込んでいた。


「…それに今は苦しいけど、明日はどうなってるかなんて誰も分からないじゃないですか? とにかく明日じゃなくても必ず笑える日が来る筈だと思うんです」


 と僕は必死に彼女に説得を続ける。

 誰の為なのだろうか?

 彼女の為なのだろうか?

 それとも弱い自分の為なのだろうか?

 最早、そういう事さえも僕には分からない。


「私はそういう言葉が欲しいんじゃない!」


 と彼女は心を剥き出しにして僕にある特定の言葉を、一欠片の温もりを求める。


「誰でも良い…。誰でも良いから、ただ私は誰かに『生きて』って言って欲しかっただけなんだ!」


 彼女の心そのものが叫んだ。


 彼女の叫び声が、僕の胸にぐさりと突き刺さる。

 彼女の叫びが僕の眼にも刺さったのだろうか?

 僕の眼は涙で潤んで充血して赤くなってゆく。

 それに呼応するかのように夕陽が真っ赤に燃えてゆく。


 彼女は心の声を漏らしてしまった事に気付き、ハッとしたらしい。


「くそっ…!」


 感情を制御する事ができなくなった彼女は、この廃れた場所から泣きながら逃げ出そうとした。その時…


「あっ…」


 弱い僕の声と温もりを求めて彷徨う彼女の声がぴたりと重なった。


 一瞬、彼女は夕陽が輝く空に浮いていた。


 その数秒後、まるで人骨が悲鳴を上げるかのように砕ける音がした。


 彼女は足を滑らせて廃ビルの下へと―汚れた街へと落ちてしまった。


 僕の視界から彼女がいなくなって、血の色をした夕陽だけが僕の視界に残る。

 まるで僕達は、この世界に捨てられた産業廃棄物みたいだ。

 真っ赤な夕陽に夜の群青が混ざり、紫を帯び始める。

 どうやら彼女は下にあったゴミ袋の山に落ちていたので(幸いにもというべきか?)一命を取り留めた。


「勝手に落ちた彼女が悪いんだ…。だから僕は悪くない。僕は悪くない」


 と僕は廃ビルの屋上で一人で、何度も無理矢理、自分に言い聞かせた。

 そして僕は急いで地上に降りて只々、震える手で公衆電話を使って救急車を呼んだ。


 彼女のお腹にいた子供は死んだ。

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