第4話 ファースト・コンタクト
それは只々、哀しくて、そしてひたすらに痛々しい現実だった。
僕と彼女の間には―生物と無生物の間には余りにも大きな壁が立ち憚っていた。
僕が求めていたものを唯一、持っていると感じた彼女は生物ではなかった。
衝撃的な現実を前にした僕は、衝撃の余り彼女が、僕に問いかけていた事を忘れかけていた。
その彼女の問いに、僕は返答しようと試みたが、彼女の問いかけに対して一体、何を言えば正解になるのか分からなかった。
適当な嘘を吐いたり、話題を変えたりして誤魔化してしまおうか? それとも、この場から逃げ出してしまおうか?
僕はこの一瞬の内に、今までの人生における苦悩の解決に掛けた労力を凌駕するくらい悩み尽くした。
その熟考の結果、僕は逃げる事にした。僕は逃げようと彼女の哀しい程に真剣な眼差しから眼を逸らそうとしたが、僕の心の奥の方でひっそりと息をしていたとある思いが弱くて惨めな僕を制止した。
「このまま、ずっとこうやって大切な事から眼を背けて生きて逃げ続けるのか?」
錆びて動かなくなった僕の少年性を孕んだ純粋な心が再び動き始めたような気がした。
僕は彼女を見て、彼女の電子回路が露出する傷口を見て思った感情をそのまま吐き出す事にした。
僕の放った言葉で彼女を傷付けてしまう事は確かに怖い。だけど適当に空気を読んで変に彼女を慰めたり、このまま何もせずに彼女から逃げ出してしまう方が彼女の心の傷を抉る事になるのだとすれば、もっと怖い。
それならば僕も彼女も純粋な心でぶつかって、当たって砕けた方が遥かにマシだ。
僕は彼女の透き通った青い瞳をまっすぐ見つめて純粋な感情を吐き出した。
「凄く綺麗だと思う」
これが彼女の問いかけに対する僕の率直な思い、つまり答えだった。
それを聞いた瞬間、彼女の澄んだ眼が大きく見開いた。
夕方の薄暗い教室の闇の中でも、彼女が驚いている事が分かった。
ここで敢えて素直に賞賛する事は間違いだったのかもしれない。
取り敢えず僕が謝罪しようとした瞬間、彼女が切実な眼差しで謝罪を制止しようとした気がしたので、謝罪はしなかった。
僕と彼女の間に何かしらの変化が生じた事が薄っすらと感じ取れた。
彼女の方から女性特有の甘い匂いが微かに感じられ、教室を支配していた緊張感は夕陽によって軟化し、和んだ。
だが、そうした変化も僕と彼女の無意識の恥じらいにより、互いの心の奥に隠されてしまい、また元のひんやりとした空気感に戻ってしまった。
僕は無意識の内に―深層心理―では、落ち込んでしまっていた。正に一喜一憂であった。
「そう…」
やはり彼女の声は透き通っていて聞き心地が良かったのだが、その声の中には少し濁りがあるように感じられた。
恐らく、その濁りの正体は僕に対する疑念であり、それは当然の反応だと言える。
良く考えてみれば、いきなり同級生の男に裸を見られてしまったうえに「綺麗だ」なんて感想を言われでもすれば当然、疑念も湧く事だろう。
そもそも彼女がアンドロイドでなければ、この教室での出来事は警察に通報されかねない事案なのかもしれない。
そんな事を考えていると、またもや二人の間に沈黙が流れ始めた。
夕陽は今にも沈んでゆき、空の上の方は紺色に染まってゆく。
僕みたいに普段から人と余り関わる事のない人間はこういった沈黙には滅法弱く、焦らずにはいられなくなるのだ。
だが、この場を和ませる為に何をすれば良いのかさっぱり分からない。
出来もしないのに、沈黙を壊そうと僕が必死になる必要は無かった。杞憂だった。
彼女は僕を見つめながら―またもや僕と彼女は見つめ合う形となる―滑らかな声で再び話し始めた。
「私はアンドロイドなの」
そんな事は、血管の代わりに回路が走っている大きな傷口を見れば直ぐに分かる。辛い程に…。
「何の目的で使われているかは話したくない」
彼女は少し焦ってはいたものの、この状況の割には冷静な方だった。
彼女の影が少し濃くなったような気がしたが、恐らくそれは気のせいではないだろう。
「私がアンドロイドだという事がバレたら私は『人』として生きられなくなる。だから私がアンドロイドだっていう事は誰にも言わないで欲しいの」
僕は頷こうとしたが、その途中で躊躇った。
何故、アンドロイドだからというだけで人間に尽くさなければならないのか、縛られて迫害されなければいけないのかと疑問を抱いてしまったのだ。
「『人』として生きる為に必要な事なら、私は何だってするから」
そう言うと彼女は、僕に近付いてきて、おもむろに僕のズボンのベルトを外そうとし始めた。焦った僕は
「えっ? 何!? 何するつもりなんだよ!?」
と思わず声を出して咄嗟に制止した。
僕は、これから彼女が何をするつもりなのか理解できなかった。
だが、彼女が僕の足元にしゃがみ込んで上目遣いで僕の困惑した顔を覗き込んだ瞬間に、彼女がこれから何をするつもりなのかを理解してしまった。
不味い。非常に不味い。彼女は『人間』らしく生きて行く為に、口止め料として自身の美しい肢体や純潔を、醜き我々人間の欲望に捧げようとしているのだ。
恐らく、この慣れた手付きからして、このような行為はこれが初めてではないのだろう。
そんな推察が余計に僕の心を痛めたのは言うまでもない事だった。
僕は何も言わずに彼女を僕の下半身から軽く押して離した。
「そんな事やらなくて良いよ。やって貰わなくとも別に誰にも言わないから…」
僕は彼女から眼を逸らしながら、そう言った。
また何度目かの沈黙が僕達の間に流れたけれど、今度の沈黙は以前よりも苦では無かった。
教室を支配している緊張感が再び軟化し、和んだのだ。先程のように無意識の恥じらいにより、この軟化した空気感が心の奥に隠される事は無い筈だ。
恐らくだが、彼女は僕が普通の人間のような利己主義者では無いという事を理解して、ひとまず安心してくれたのだろう。
禁欲主義者だと思われたところで普段なら嬉しくも哀しくも無いのだけれど、今この瞬間に於いては、そう思われる事は限りなく嬉しい事であった。
僕達の間に流れる空気感は、まるで本物の空気と連動しているかのように感じられた。
実際に外気によって更に冷やされてゆく運命にある筈の教室内の空気は、僕達が築いた刹那の心理現象的な意味合いである空気感によって微かに温かくなっている気がする。
彼女の方を見ると、拍子抜けしたような表情をした彼女と眼が合った。
今では僕を禁欲主義者だと思っているのだろうけれど、この表情からして、ほんの数十秒前まで彼女は僕の事を何処にでもいる根暗な思春期男児だと思っていたに違いなさそうである。
彼女が僕の事を、そう思っていたのだと思うと落ち込まずにはいられなかったが、それと同時に「それも仕方ない事だろう」とも思った。
それはそうと、こんな風に感情というものは糸みたいに交わり合い、複雑に絡まり合ったりするものらしい。
僕の顔は赤くなり、緊張の余り身体は少し小刻みに震えていた。
その震えは恐怖が由来のものでは無い事は誰だって、僕の顔を見れば分かる事だろう。
ここで僕に生じた様々な反応を明確な言語として記す事は実に無価値である。
紺色の空と地上の街との境目は橙色に燃えていて、薄紫色の雲は遠くからでも動いている事が分かるような速度で漂っている。
夕空の上の方で、灰色の月が慎ましげに淡く光っている。
いつもと何も変わらない風景に、彼女を添えると、いつもの風景が印象派の名画よりも美しくなる。
彼女の存在を通す事によって僕は生まれて初めて、この世界にも美しい景色がある事に気付いた。
心が緩み、先程まで夕陽のように赤面していた僕の顔は、いつの間にか優しい月光のような様子に戻っていた。
今更かもしれないが僕は今までの人生の中で、こんな綺麗な存在を拝んだ事は無いと思う。
こう言った思いを彼女に伝えるべきか否か少し考慮した結果、彼女を賞賛するような発言は却って彼女を傷付けてしまうかもしれないので口に出さないように決めた。
実際に、人は自身が欠陥だと思い込んでいる部分を他者に賞賛されると、自身の価値観に違和感を持ってしまったり、他者が嘘をついているのかもしれないと疑心暗鬼になってしまったりするものだ。
このような思考がアンドロイドの彼女にも備わっている可能性は充分に考えられる。
僕がそんな事を考えていると彼女が拍子抜けしたままの顔で
「本当に?」
と僕の意思を確認した。まるで天使のように思える程の純潔さを感じる存在に疑われるのは、何とも哀しかった。
僕には想像も出来ない過酷な日々のせいで、彼女は信じる事を忘れてしまっているのかもしれない。
「本当に…。誰にも言わないの?」
やはり彼女は僕を物凄く疑っていた。
僕に自身の感情や思考を悟られたくないせいか、彼女は声に棘を生やして冷たい印象を持たせようと努めていたが、彼女は自身の持つ先天的な優しさや温もり? に満ちた性質が隠しきれていなかった。
僕と彼女は真逆のような存在であると同時に、もう一方で近しい存在でもあった。
例えば男と女は対をなす存在であるが、どちらも同じ人間だと考えれば大した差は無いどころか殆ど大差ない近しい存在であると言える。
要するに僕と彼女は性質も性別も真逆の様な存在なのだが、共通して二人とも愛に飢えているのではないのだろうか?
僕には愛というものが良く分からないが、敢えて僕は、まだ知らぬ愛という未知なる感覚を知っているかのように言ってみる。
そして互いに事情は違えど、僕達は共に、孤独だった。
「君がアンドロイドだという事を公にしたところで、僕に利点はないよ」
ついつい僕は照れ隠しの為に、論理的に話そうとしてしまう。
僕らしいようで、同時に僕らしく無いような気がした。
僕らしいとか僕らしくないとか思っているそんな僕自身が、自分らしい自分がどんなものなのか良く分かっていない。
教室のカーテンは音を立てず、静かに靡いている。
僕の心臓の鼓動も教室のカーテンみたいに静かになり、今は落ち着いている。
「…」
当たり前の事だが、やはり彼女は僕を信用してはくれなかった。
彼女の澄んだ瞳に入り込もうとすると、僕は不純物と見做されて外界に弾き飛ばされてしまうのだ。
だから僕は全く仲を深められていないのに、更に彼女と距離を置かざるを得なくなる。
やはり僕達は欠陥品だ。僕達は本来なら幼少期に授かる筈だった温かい「何か」を授からないまま成長してしまったのだ。
故に僕は他者に対する好奇心を持たなくなり、彼女は誰も信用できずに苦しむ事となった。
僕達は―少なくとも僕は―人々とどういう風に関われば良いのか分からないままなのだ。
僕にとって人間関係というものは相対性理論よりも難解な問題なのだ。
だけど僕は諦めきれなくて、凍えそうな夜空の下で一筋の光を求めるかのように、知らないその「何か」を追い求めて足掻いている。
果たして彼女も僕と似たようなものを求めているのだろうか?
僕はこれ以上、彼女と深く関わっても互いに傷付くだけだと思い、この場を去ることを決めた。
僕が彼女を慰めたり賞賛したりしたとて、決して彼女の右肩に刻まれた傷は癒える事は無いのだから…。
「…ごめん」
と一言だけ教室に残して、僕は半ば逃げるように教室を去った。
果たして教室を去る僕の背中を彼女は見てくれていたのだろうか?
仮に彼女が見ていたとしたならば、その彼女の青い綺麗な瞳にはどんな風に見えたのだろうか?
それは彼女のみぞ知る事だった。