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第1話 ここではない何処かへ

 心の何処かで、そのうち、こうなってしまうのではないかと思っていた。


 だけど僕は残酷な運命が堪らなく怖くて、機械仕掛けの少女の影から目を背ける事しかできなかった。


 つなぎの青い瞳を見る度に、その瞳が幸福で満ちていっている事が分かった。

 しかし僕はその遥か先にある、つなぎの冷え切った憂いに気付く事ができなかった。

…いや心の何処かでは、その事を理解していたのに敢えて僕は目を背けていたのだ。


「つなぎ!」


 僕は自分でも気が付かぬうちに、つなぎの元へと駆け出していた。


 脇目も振らず人混みを掻き分けながら只々、つなぎ目掛けて僕は走る。


 過呼吸になっていた呼吸が更に乱れて最早、僕は呼吸をしているのかさえ分からなかった。

 息を吸う事さえ儘ならない程、心が乱れている僕と窮地の中の更なる窮地に陥ったつなぎをネオンライトが冷ややかに見下ろしていた。


「つなぎ!」


 僕は死にかけの子猫に触れるかのように彼女をそっと抱き抱える。


 彼女の温もりが残酷な世界によって奪われてゆく。

 つなぎの温もりが世界の冷たさによって侵されてゆく。


 そんな、つなぎが都会のビル群の圧力によって蝕まれてゆく感覚が僕には痛い程伝わってきて、思わず僕は大粒の涙を流してしまう。


 何故、つなぎの瞳の奥にある哀しい憂いと向き合う事ができなかったのだろうか?


 何故、哀しみに満ち溢れた君の後ろ姿を直ぐに追いかける事ができなかったのだろうか?


 僕は思いの余り、呪い殺せてしまうのではないかと思う程に、この容赦の無い世界と醜くて非力な自分自身を憎んだ。


「むすび、どうしたの?」


 つなぎは優しく、そして今にも消えてしまいそうな声で僕に尋ねる。


「大丈夫?」


 とつなぎが全てを見透かしたような瞳で僕に尋ねる。


 つなぎの温もりが―愛が―僕の中に満ち溢れる。


 只でさえ大粒である涙の量が更に増す。

 僕の潤んだ眼が氾濫して涙がごぼごぼと溢れ出す。


 ほんの数分前、僕は何も気付いていない振りをして事実から目を背けて、珈琲の味を感じたくても感じる事ができないであろう君に―哀しい憂いに満ち溢れていた君に―向かって何とも浅はかな言葉を掛けてしまった。


 何が「良かった」だ!


 何もつなぎにしてあげられなかった癖に…。


 心の何処かで薄らと気付いていた癖に…。


 何もかも良くないじゃないか…。


 大丈夫な訳無いじゃないか…。


 なのに、どうして今まで知らない振りをしてきたのだろうか?


 心の片隅では気付いていた癖に…。


 己の弱さとつなぎの優しさを胸一杯に感じて、僕は更に泣いてしまう。


「大丈夫?」


 泣き過ぎて目を真っ赤に腫らした僕を見たつなぎが、心配そうに温もりある声で僕に尋ねる。


 最早、冷え切った夜の中で彼女の優しい声だけが―今にも消えて無くなってしまいそうな彼女の声だけが―唯一の頼りだった。


「そうそう、むすび、珈琲おいしかったね。連れて来てくれてありがとう」


 どうして君はこの状況で涙を堪えて僕を宥めようとするのだろうか?


 君が一番苦しい筈なのに…。


 どうして、どうして僕とつなぎは只々、幸せになりたいだけなのに…。


 どうして、どうして…。


 これ以上、つなぎを心配させない為に僕は蠢く夜空を見上げるのだけれど、一向に涙は止まらない。


 大粒の涙達が頬を伝って露となり、つなぎの頬へと落ちる。


「止まれ、止まれ!」


 と僕は必死に溢れるばかりで止まる事の無い涙を抑え込む様にして拭う。

 だけど僕の涙は溢れる事を止めようとしない。


「パシャパシャ」と人集りの中から音がする。

 僕は反射的に音のする方向を見た。


 その瞬間、鋭いフラッシュが僕の目を刺した。


 人々のスマートフォンのカメラが僕達に向けられていた。


 機械仕掛けの少女の存在は否定される。


 この人々の心無い行動によって僕とつなぎの愛は極めて異質だと完全否定される。


 僕とつなぎの周りに集まっている人間達は、僕達二人を冷たい真っ黒な瞳で嘲るように見下ろしている。


「なんで…」


 僕は周囲の嘲ている人々を―この冷酷な世界を―睨み付ける。


「なんで只々、見ているだけで、誰も助けようとさえしないんだよ!」


 僕は傍観しているだけの群衆と嘲笑っている残酷な世界に向かって叫ぶ。


「…アンドロイドを愛する事の何がいけないっていうんだよ!?」


 僕は心の底まで冷え切った群衆に叫びながら問いかけてみせる。


「…」


 突然、辺りがしんと静まり返る。

 何故か僕と目が合った人間は慌てふためいて、次々と目を逸らす。


 確かに僕達の叫びは聞こえている筈なのに、誰もが聞こえない振りをする。

 僕達の何が駄目なのかと問われると、誰も答える事ができないのだ。


 それ以前に、人々は一人で突っ走って行く世界に追い付こうとする事に必死で深く考えられないのだ。


 どうすれば僕とつなぎの愛を認めてくれるのだろうか? 


 いったい冷徹なこの世界は、僕とつなぎの優しく淡く、時に激しく光り輝く愛の何が駄目だと言うのだろうか?


「誰か教えてくれよ…」


 心の底から叫んだ僕には、もう掠れた声しか出てこなかった。


 つなぎの機械の身体の温もりが、凍てつく夜の冷たさと中和してゆく。

 だけど僕にはこの冷たき世界が、つなぎの温もりを奪っているようにしか思えなかった。


「生産元不明のアンドロイドを確認!」


 突然、何処からともなく何人かの男の空気を切り裂くような声が、エラー音のように響き渡る。


「直ちに廃棄物の処理を行います!」


 警察官の温もりの無い声が冬の夜に響く。

 心が凍ってしまった人間達が機械仕掛けの少女に迫る。

 この光景は余りにも酷過ぎる光景だが、そしてそれと同時に実は日常に溢れ返っているようなごく普通の光景でもあるのだろう。


 機械仕掛けの少女を只、遠目で見つめているだけの群衆はまるで火を初めて見た人類のように、或いは雷を初めて見た赤子のように僕には見えた。


 そう、きっとそうに違いない。


 この世界は機械仕掛けの少女を恐れているんだ。


 アンドロイドや人工知能という新しいものを―自分達とは異なるものを―拒んでいるんだ。


 冷酷で残酷で過酷なこの世界はどうしようもない程の臆病者なんだ!


 未知なる存在が怖いんだ!


 人間と機械が愛し合ってはいけないなんて一体、誰が決めたというんだ!


 現に僕とつなぎの周りに蔓延る人間達は誰一人として答える事のできる奴なんていなかったじゃないか!


 もし僕が人間だから、機械であるつなぎを愛する事が許されないというのならば、人間なんて辞めてやる!


「例え、この世界が君を拒んだとしても僕はつなぎの傍に居続けてやる!」


 この世界に対する反抗心が昂ると共に僕のつなぎに対する想いが爆発する。


 僕は冷えた地面に倒れているつなぎを咄嗟に強く、だけど優しくそっと僕の背に乗せる。

 そして冷たいアスファルトを思い切り踏みしめ、立ち上がった勢いでそのまま僕は走り出す。


 いきなり立ち上がった事に加えて身体に何の合図も与えずに走り出したので、ぐらぐらと地面が揺れて夜空とアスファルトの境目が無くなり、喉の奥から濁流みたいなものが押し寄せてくる。


 それでも僕はがむしゃらに走る。


 僕はもう一度、何度でもつなぎの笑顔を、楽しそうに密かにはしゃいでいるつなぎの姿を見たいんだ。


 そして今度こそ、機械仕掛けの瞳の奥底にある哀しい憂いを取っ払った、つなぎの本当の笑顔が見たいんだ!


 つなぎ、僕と一緒に闇夜に紛れたビル群の影の中を走り抜けよう!


 僕があの場所から君を連れ出した、あの雨の日のように…。



 つなぎ! 腐りきったこの世界から出よう!



 ここではない世界へ行こう!



 後ろの方から「待ちなさい!」という警察官の心無い怒号が聞こえてくる。

 だけど僕は彼等の遠吠えを無視して只、ひたすらに走り続けた。


 愛する壊れかけの少女を背中に抱えて…。

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