第6話 二度目の自宅訪問
今更だが、そういえばつなぎは僕と仲良くなる前から、いつもとある小説を読んでいた。
だけど僕と知り合って仲良くなって、僕と話したりする時間が増えたせいか、ここ最近は余り読んでいる姿を見かけなくなった。
だけど、その代わりに小説を読んでいる時に時折、その小説に向けていた安らかな眼差しを何気ない会話をしている折に、僕に向けてくれるようになった気がする。
つなぎも僕もこの頃、頬の辺りが緩む頻度が多くなっているように僕には思われてならない。
だけど、これらの事が僕の思い違いである可能性もある。
本当に思い違いだったらどうすれば良いのだろうか?
もし思い違いだったら、僕は物凄く恥ずかしいうえに残念な奴という事になってしまう。
果たしてつなぎは僕の事をどう思っているのだろうか?
そういった頭から次々と浮かび上がってくる様々な雑念に近い疑問を払い除けようと、頭を左右に振って僕は散らかった思考を元に戻してみせた。
その途中で何について考えていたのかさえも忘れてしまいそうになったところを、すんでのところで思い返した。
それにしても、つなぎが読んでいるあの小説は何なのかという事が僕には気になって仕方がなかった。
澱んだ色をした雲がたなびき、青空を覆って空を僕達から奪う。
雲の隙間から弱い―優しい冬の陽射しが溢れて、その陽射しが彼女の住んでいる薄汚れたアパートだけを照らす。
どうしてこんなにも、つなぎと共に過ごしたあの夜と今とでは、彼女の住むアパートの持つ雰囲気が大きく異なっているのだろうと僕は感慨に耽る。
僕は彼女に渡すと約束していた例のバッテリーを渡す為に彼女の家に訪れていた。
実際の所、僕はバッテリーを渡す約束を口実にして彼女に会いたかっただけであり、後先を考えずに自分勝手に彼女の家まで来てしまったのであろう。
彼女の家の玄関の前で只、立ち尽くしているだけなのに胸が段々と温かくなってゆく。
しばらくするとそれは温かいを通り越して熱くなる。
雲がごうごうと叫びながら、たなびいているけれど、その雲の叫び声は僕の胸の高鳴りで掻き消されて聞こえなくなってしまう。
風が僕の胸を冷やそうとして吹き付けるけれど、寧ろ僕の高まる心はますます火の粉を上げながら、燃え上がるばかりだ。
そうなってしまうのも無理もない事だと我ながら思う。
女性の家に訪れた事は未だ人生でたった一度しかない。
あの雨の夜だけなのだ。
しかも、それさえも事の成り行きで訪れただけであり、しっかりと正式に認められて、女性の家に訪れるのは今回が初めてなのだ。
実際のところ、今日の僕はつなぎにバッテリーを渡すという口実が認められて、再び彼女の家に来る事が許されている。
あの日の夜と今日とでは訪れる理由もつなぎとの関係も全く違う。
だからと言って彼女が、僕を家の中に入れてくれるという可能性が100%ある訳でもないので―逆説的に言えば彼女が僕の入室を拒否する可能性が万が一にも無いと言い切れないので、僕は完全に安心する事はできなかった。
しかも今回は、あの夜と違って、余り自然な流れ(ハプニング)らしきものが無いだけに、流石にそんな事は無いと思うが、邪険に扱われないかと僕は少し不安にならずにはいられない。
恋人どころか友達も誰一人としていなかった僕にとって、他人の家に入るという事自体に結構な勇気を要するのだ。
取り敢えず僕は熱くて堪らない胸を冷やそうと、冷たい冬の冷気を思い切り吸い込んだ。
だけど一向に、僕の熱い胸の高まりは治る気配を見せない。
このまま心の熱は冷める事なく滾り続けるだろうと予感した僕はやけくそになってインターホンを押した。
「…」
だが返事は一向に無い。
只でさえ静まり返っていた辺りが更に静まり返ったような気がした。
つなぎは留守なのだろうか?
だとすれば、一人で盛り上がっていたこの数分間が恥ずかしくて堪らない。
些細な出来事にも靡いてしまいそうなこの場の雰囲気が妙に擬かしく、まるで揺れ動く感情と落ち着いてゆく虚無との狭間にいるみたいな摩訶不思議な感覚に陥る。
いったい僕は何をしているのだろうか?
と自分でも良く分からないが、急にそんな疑問が頭の中を通り過ぎる。
「変な感じ…」
そう僕が独り呟いてみると…
「何が変な感じなの?」
という明るく綺麗な声と共に玄関のドアが突然、開いてそこからつなぎがひょっこりと顔を出す。
「うわっ!?」
不意を突かれた僕は驚きで飛び跳ねてしまう。
そんな僕をつなぎは清らかな青い瞳で不思議そうに見つめている。
「どうしたの? 何か私に用でもあった?」
と思わず不安で固まっていた僕の心を落ち着かせる柔らかな声で、つなぎは僕に尋ねる。
彼女のくりくりとした眼差しはとても愛嬌があって可愛らしくて、彼女はその光り輝く宝石のような瞳でまじまじと僕を見つめてくる。
僕の胸は沸騰してしまいそうなくらい熱くなる。
僕の頭の回路―脳神経が異様に熱くなり、思考回路がおかしくなってゆく。
「えっ!? あっ…。その、いや…特に何もない」
僕は慌てていた自分が何を言っているのか、自分自身でも全く分かっていなかった。
あれだけ用意していた「彼女にバッテリーを渡す為に訪ねてきた」という口実は、つなぎに逢えた嬉しさと緊張の余り何処かへ飛んで行ってしまい、行方不明になってしまった。
だけど、つなぎの表情が曇っているどころか、寧ろ明るかったので僕は心の奥では安心していた。
「そう? そんなに慌てふためいてるところを見せられたりしたら何もなさそうには思えないな〜。なんか隠し事でもしてるの?」
そう言いながら、つなぎは持ち物検査をする教師みたいな顔で僕を見つめる。
何故か、それはつなぎに直接、心を見られているみたいに僕には感じられた。
やはり言えない。
恥ずかしくて絶対に言えない。
ただ約束を果たす事を口実にして、実際の所は只々つなぎに逢いたいから来たと言う事は…。
誰も他人の心の内なんて分からない筈だ。
そう簡単に心を見透かす事ができる人なんかいないだろう。
流石に二人の心は繋がっているとはいえど、心を見透かす事なんて、きっとつなぎでも、できはしないだろう。
「もしかして本当に『何にも無い』の? それじゃあ、私に逢いたくて来た…とか?」
「えっ!?」
まるで、つなぎは僕の心を見透かしたかのようにピンポイントで、恥ずかしくて隠していた僕の本音を当ててみせた。
僕は驚きの余り声を上げてしまう。
ここまで正確に心を見透かされてしまうと、つなぎは千里眼でも持っているのではないかと疑わずにはいられない。
「…」
僕は本当の事も適当な嘘も言えなくて只、口を紡いで黙っている事しかできなかった。
つなぎは寸分狂わず僕の本音を当てているのだけれど「何となく会いたくて会いに来た」なんて事は恥ずかしくて、とても彼女に言えはしない。
頭の中で交差する感情が擦れる度に、心の摩擦熱が発生して頭が熱くなり、僕の顔は真っ赤に燃え上がる。
顔を赤くして只々、黙っている僕をつなぎがぽかんとした顔をしながら見つめている。
「…え? えぇ!?」
つなぎの声のトーンが高くなって、声量が大きくなってゆくと共に彼女のきらきらとした瞳が大きく開いて、彼女の顔も真っ赤になってゆく。
「えぇ〜!? 嘘でしょ!?」
もうこの時には既に、僕達の顔は熟し切った林檎みたいに真っ赤になっていた。
「嬉しいけど、むすびって正直過ぎるというか何というか、変わり者だね…」
とつなぎは照れながら、眼を逸らしながら僕に言う。
そんな彼女の可愛らしい反応を聞きながらも、僕は赤面して、黙って突っ立っている。
そんな僕達のやり取りを空を覆い尽くしている巨大な雲が空の彼方から眺めていた。
つなぎの部屋は以前に訪れていた時と殆ど変わっていなかった。
変わったところがあるとすれば、せいぜい窓の外の景色くらいで、哀しかったあの日の夜は雨が晴れて清く照りたる月夜だったが、それに反するようにどきどきと胸が高鳴る今日は曇り空から温かな光が差し込んでいる。
たかが、こんな事くらいしか変わっていないのだけれど、窓の外の景色の雰囲気が変わるだけで、こんなにも心は温かくなる。
そんな心というものは不思議だと深々と思う。
僕は辺りを見渡しながら、そんな事をずっと考えていた。
居間の真ん中に僕とつなぎは二人、座っていた。
僕は部屋を見渡しながら、そのついでにつなぎをちらりと見る。
つなぎは僕の隣で、いつも読んでいる小説を読んでいる。
そんな彼女の周りは不思議と、温かい空気で満ち溢れている。
小説を読みながらつなぎは時折、例の安らかな笑みを浮かべており、その今のつなぎの安らかな表情からは、あの雨の日の夜の哀しそうに涙を流している姿は微塵も思い浮かばれなかった。
つなぎの涙を流している姿も正直に言えば素敵だったのだけれど、つなぎの幸せそうに笑う姿の方が、もっと素敵だと僕は思った。
正直、つなぎに安らぎを与える事のできるあの小説は凄いと感心せざるを得なく、そして、それと同時に羨ましいとも思う。
つなぎを幸せにできるあの小説はどんな内容―物語なのだろうか?
果たして、つなぎにとってあの小説は一体どのくらいの価値を持つのだろうか?
「そういえばさ…」
「ん?」
「つなぎがさ、今、読んでる小説って何? 何となく気になってさ…」
僕は単純な好奇心とつなぎにとっての幸せとは、どんなものなのかが気になったので、傍に座っている彼女に素直に聞いてみる事にした。
「あぁ、これの事?」
つなぎは小説を閉じて、撫でるように優しくブックカバーを剥がし、そして小説の表紙を彼女は温かく柔らかい眼差しで見つめる。
その彼女の青い瞳には何処か切なさがあり、そんな眼差しを見せられてしまったら、やっぱり、つなぎの感情は僕達―人間よりも何万、何億倍も豊かなのではないかと思わずにはいられない。
最早、つなぎの感情―心の温度は言葉とか理屈とか、そういうあらゆる物事を通り越して肌で感じる事ができた。
「この小説ね…。シェイクスピアのロミオとジュリエットっていうの。知ってる?」
と彼女は僕の質問に答えると同時に聞き返してきた。
数十秒前まで小説に向けられていた優しいブルーの瞳はいつの間にか僕に向けられている。
つなぎの青くて温かい瞳に見つめられていると何故か僕の胸まで温かくなってゆく。
僕はロミオとジュリエットの内容を余り詳しくは知ってはいないけれど、確実に言える事が二つある。
それはジュリエットよりも機械仕掛けの少女の方が遥かに綺麗だという事…。
そしてロミオとジュリエットよりも僕とつなぎの結び付きの方が強いという事…。
だけど、これもやっぱり恥ずかしいから彼女に言う事は止めておこう。
それに、しっかりと彼女の質問に沿った返事をしなければならない。
「ロミオとジュリエットね…。名前とあらすじくらいしか知らないな」
僕は彼女が聞いてきた事だけを答えて、僕の脳内の中で発展させていった恥ずかしい思いや考えは答えなかった。
今までの僕の発言から、僕の考えている事なんて読まれているのかもしれないけれど…。
「…当たり前の事を言うかもしれないんだけど、私ね、ロミオとジュリエットの愛は報われても良いと思うの」
と僕の発言した時から数秒程の間を開けて、つなぎは哀しそうに青い瞳で小説の表紙を見つめながら言う。
このつなぎの言葉には彼女の強い願いが込められている事を、僕は真冬独特の部屋の中に生じる空気感を通じて感じ取った。
その、つなぎの温かく優しい願いは理屈とか―人間と機械との間にある壁とか、そういったあらゆるものを越えて僕の心をぼうっと熱くさせた。
「そうだね。僕も、そう思う」
つなぎの話に激しく共感した僕はそう答える。
二人の心を繋げている糸がぶるぶると震えている。
この糸を通じて彼女の温かい心の熱や切実に希望を夢見る彼女の心の震えが伝わってきて、僕の心まで熱くなり、夢見て震える。
「ロミオとジュリエットはさ、何があっても―どんなに大きな壁があっても、諦めずにお互いに手を伸ばし続けてた。そんなお互いを切実に求め合う二人の生き様はとても綺麗だった」
いつの間にか、つなぎの青玉の瞳は僕に向けられている。
「だからさ、この二人みたいに手を伸ばし合えば、人間と機械との間にある壁も―有機物と無機物の間にある壁も越える事ができて、いつか、きっとお互いの心は結ばれて、繋がると思うの」
つなぎは自身の心の中の抽象的な存在である願いを―希望を―言葉という形に変えて現世に―僕の心に残す。
僕もつなぎも人間と機械との間にある大きな壁を乗り越えたくて、むやみやたらに―がむしゃらに手を伸ばしている。
人間と機械が平等に扱われて、心から結ばれて繋がって欲しいと僕とつなぎは世界で一番強く祈っている。
ロミオとジュリエットが見る事のできなかった壁の向こう側の景色を―未来を、僕とつなぎで、二人で見に行こう。
「二人で一緒に『向こう側』の景色を見に行こう」と心の中で、僕はつなぎに語りかけた。
僕達の心は繋がっているので、言葉を交わさなくとも、お互いの想いは完璧に感じ取れていた。




