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第5話 輝く世界!

 あの気味の悪い研究室のドアの前で僕は只、突っ立っていた。


 特に用事も無いのだが、来たくもないのだが、それ以上に心の壁がぶつかり合って傷付き合い、無意味な苦痛を伴うだけの家にはもっと帰りたくなかった。

 僕の足は前にも後ろにも踏み出せずにいた。

 歩いた後の熱と疲労を帯びた脚は次第に吸い取られるように体温を奪われてゆき、最終的には僕の脚は冷えに冷えて氷柱みたいに固まってしまった。


 そんな風に行く先も決められないでいるのに、何故か僕はつなぎが今、何処で何をしているのだろうかと考えずにはいられなかった。

 彼女が幸せな時間を過ごしている事を願わずにはいられなかった。


 息を吐くと白い水蒸気が空気中に姿を現して、染み込んでいくかのように空気中に散らばっては消えてゆく。

 白銀の月光が窓の外から内側に溢れている。

 僕は光の源である輝く月を眺めて、思わず見惚れてしまう。

 やはり彼女も何処かで、この白銀の月を眺めているのだろうか?

 そんな事を考えながら、ある時の彼女の哀しげな眼差しやあの時の幸せそうな笑みを月を映写機にして映し出すかのように思い浮かべていると突然、向こう側から研究室の扉が開いた。


「やっぱりオマエか…。いつ迄こんなところで突っ立ってる気なんだ?」


 そう言いながら、ほどきが懐疑的な態度で僕を見ながら、カップ麺を持って研究室から現れた。

 珍しく僕はその彼の表情に苛立ちや不快感だとか負の感情を覚えなかった。

 これでも彼は素を見せていないつもりなのだ。

 彼が善人に見られようとして作る表情は余りにも出来が悪いので時々、滑稽に思える時まである。

 彼は社交専用の例の偽った表情のまま心配そうに話を続ける。


「こんなところにいたら身体冷やして風邪ひくぞ? まぁ中に入れよ」


 彼は親指で後ろの扉の先にある研究室を指差しながらそう言うと、くるりと僕の方に背を向けて研究室の中へと入っていった。


 研究室の中は温かいというより、寧ろぬるくて気持ちが悪かった。

 目の下が黒くなっている彼はPCの液晶画面と設計中であろう上半身だけのアンドロイドを交互に見つめながら、僕には理解が及ばないであろう思考を真剣に張り巡らしている。


 視界の端の方に見えるゴミ箱の中から捨てられた食料品の容器の臭いが、研究室の一角に漂っている。

 仄かにしか臭いはしなかったが何となく、見た目からして、この鉄製のゴミ箱にはインスタント食品の無表情で工業的な料理の臭いが染み付いているという事が難なく察せられた。

 目を凝らしてゴミ箱の中を見ると、中には製造会社も味もパッケージも全く同じ内容のカップ麺の空の容器が入っていたので、思わず僕は驚いてしまった。

 そしてそれと同時に、不覚にも彼の健康状態を少し心配してしまった。

 作業机の上に置いてあるエナジードリンクが更に僕が抱いている彼の健康状態に対する不安を煽ってきた。

 そんな事等で不安な表情をしていた僕に気付いたほどきは首を傾げて不思議だと言わんばかりの顔をしながら


「オマエさ、今日は何かおかしいぞ? 何か嫌な事でもあったのか?」


 と半分冗談、半分真剣に僕に尋ねてきた。

 何故、僕は数秒前まで自分が心配していた人間に、逆に心配されているのだろうか?

 僕も彼も互いに「自分は問題無い」と思っているので、自分自身の欠点や弱みには気付きにくいのかもしれない。

 彼の健康状態は言う迄もなく悪いが、僕に関しては他人に欠点や弱みを見せる性格ではないので彼の僕に対する心配は勘違いに違いないだろう。


「いや、特に何もありませんでした」


 と僕は咄嗟に―適当に嘘を吐いてしまった。


 今日、僕はつなぎに会えたのだ。

 機械仕掛けの彼女の白銀の髪に―まるで青玉そのもののような瞳に、心を震わせられたのだ。

 つなぎの水素よりも遥かに透き通った声や心に思わず眠ってしまいそうな、懐かしいようで新しい心地良い温もりを感じずにはいられなかったのだ。


 今日、僕はつなぎに会って話して、二人でいつもの通学路を歩く事ができたので「何も無かった」という言葉は嘘に成らざるを得なかった。

 だが、それとは別に嫌な事があったのは事実であり、廃ビルの女性の憂鬱や機械仕掛けの少女と切っても切る事のできない社会的で歪な陰りは常に僕を悩ませ続けていた事は間違いない。


 何故、僕は本当の事を彼に言わなかったのだろうか?

 特に話す必要も無ければ、アンドロイドである彼女を求める僕の行為が虚しい事だと馬鹿にされるのを予想する事ができたからなのだろうか?

 恐らく僕はつなぎとの温かな時間を誰にも邪魔されたく無かったから、彼以外にも、誰にも言わなかったのだろう。




 帰りの電車に揺られながら、バッテリーを盗んだ事がほどきには未だ気付かれていないという事を知る事ができた僕は密かに安堵していた。


 つなぎの為にも、まるで煙草の煙のような精神衛生上に悪い独特な煩わしい気分から解放される為にも、バッテリーをできるだけ早く彼女に渡したかったので、一刻でも早く―明日か明後日には、渡そうと僕は心に決めた。


 既にビル影は夜の闇と一体化していて、そのせいか存在感が薄くなっており、今は夜の光の中で街のビル群やネオンライトが人工的な光を放ち、色々な色や形の光を反射し合う。そんな光景の主張の方が激しくなっている。


 ネオンライトの光は僕の脳を直接、苦痛に似た刺激を伴わせて来るので正直なところ嫌いだ。

 身体が受け付けなければ当然、それに追随して心も受け付けない。

 僕にとってネオンライトとは汚れてしまった光だと捉えており、頭を錯乱させる外敵でもあった。

 蠢めく蟲のように、都会の混沌とした攻撃的な光が車窓から流れてゆく。

 朝に見た街の景色と現在、僕が見ている夜の街の景色は、まるで別物のようだ。


 つなぎは今、一体、何処にいるのだろうかと、仮に車窓の先にあるこの街にいるのならば、この街の何を見て、彼女は何を思っているのだろうかと車窓の先に広がる都会の景色を眺めながら、僕は思う。


 僕は自分自身の知覚して見ている世界の果てに、彼女が知覚して見ている世界を見ようとしていた。

 そういった僕が抱く君に対する想いが、君の元へと届くのならば、それはどれだけ嬉しい事であろうか。


 そんな寂しいながらも少し嬉しかったりする擬かしい事をあれやこれやと考えながら、僕は月に手を伸ばす。


 月に手を伸ばす際の身体の感覚は、つなぎの温もりに溢れた心を求めるあの独特の感覚に良く似ていた。




 幾千度目の朝が訪れて、僕は温かな陽射しで眼が覚める。


 未だ眠たい身体をゆっくりと起こしてカーテンを開けると、窓の外では眩い光が住宅街やビル街の中で乱反射している。

 この乱反射している光の源は太陽だと誰もが知っている常識であり、その常識には間違いはない。

 だけど何故か僕は時々、この乱反射している光の源が、朝の青い空に浮かぶ有明月なのではないかと感じてしまわずにはいられない時がある。

 そして多分、一時間程後につなぎの眩く感じるくらいの美しい姿を見ているであろう僕は、僕にとってのこの世界の光源はつなぎなのだと勘違いしてしまうのだろう。


 あれこれと僕が考えている間に冬の陽射しを仄かに遮っていた雲が退いて、世界があっという間に温かくて柔らかい光に包まれてゆく。


 白銀の髪を靡かせる彼女を中心に置いて優しい光が広がっているような気がする。

 機械仕掛けの少女を中心に置いて、物事は運んでゆくような気がする。

 つなぎを中心に地球(天地)は廻っているような気がする。


 つなぎは僕にとって太陽以上の光源なんだ!



 つなぎがいるから世界が綺麗に輝くんだ!

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