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第2話 教室の片隅の女神

 朝の冷気に凍え震えながら校門を潜り、朝礼五分前の暗く寂しい下駄箱で靴を履き替える。

 何故だろう、こういうしんみりとした場所にいると妙に寂しくなる。

 ずっと、このまま孤独は嫌だと思う反面、程度の低い世間の人々と関わるくらいなら死んだ方がマシだとも思う。


 僕は青白い貧相な手で下駄箱から薄汚れた上履きを取り、床に落とす。

 その床に転がった上履きを足でいじくるようにして履く。


 綺麗な人はこんな汚い空間に不快感を感じてしまうのだろうが、僕みたいに汚れてしまった人は不快感を感じないどころか、むしろこの下駄箱みたいな埃舞う不潔な空間に安心感さえ覚えてしまう。

 だが、そんな折にも僕のいる下駄箱に朝の澄んだ光が侵入してきた事によって美醜の均衡が取れなくなり、一気に僕にとって心地良かった安心感は消し飛んでしまった。


 何の合図も無しに光を浴びて弱った僕の卑しい気味の悪さが晒されてしまい、何とも情けない気持ちになってしまった。

 この時、この世界に自身の全てを憐れまれたような気がした僕は、透き通った太陽の光から逃げるようにして下駄箱から離れ、そのまま廊下に向かって歩き出した。


 汚れない為に―傷付かない為に他者と交わらない人生を選んだ筈なのに、僕は酷く汚れて傷付いてしまっている。


 廊下の深緑色の床は冷たく、その長く続く廊下の床の上には下駄箱の時と同じ透き通った太陽の光が僕の道を阻むかのように寝転んでいる。

 他に回り道も無い上に、そこまで日光に怯える必要も無いので、少しだけ強がる事にして僕は廊下に差し込む陽の光の中を歩く事にした。

 その光は、まるで赤子を抱く母の様に僕を温めてくれた。それでも僕の醜さが決して変わる事は無いのだけれど…。

 学校が刑務所だとするならば、教室は僕にとって監房だ。

 何故かというとクラスメイトというならず者達が教室の中に収容されているからで無論、教師も例外無くならず者だと思っている。


 僕は陽の差し込む廊下を去り、ならず者だらけの教室に入る。

 暖房が放つ暖気が僕の冷えた身体を温めてくれるのだが、また直ぐに僕は冷えを感じてしまう。

 クラスメイトの歪んだ心が―彼等のどす黒い性質が僕を360度あらゆる角度から僕の心の平安を侵略し、忽ち心身共に僕は緊張と恐怖の余り冷え込んでしまうのだ。

 だけど最早、そんな事は日常となっているので何とも思わない。

 黒板には今日の予定や要項が適当に書かれている。黒板は今日の陽の光を浴びながら、ホームルームの時間になるまで暇を潰している。

 陽の光は万物を照らし温めるが、可哀想な事に陽の光は誰にも温めて貰えない。

 光は誰よりも優しいが、それ故に気付かれず報われる事はない。

 教室では、女子生徒達は相変わらず恋の話に花を咲かせ、男子生徒達は下品な洒落を叫んで笑い合ったり、部活や趣味について各々語り合っている。

 友情という抗不安剤を服用しなければ生きていけない彼等も又、実に哀れだ。


 皆、何処か狂っている。そして僕もまた…。いや、僕が一番、狂っているのかもしれない。




 虚飾に塗れた人間社会に、ずっと僕は辟易している。何処もかしこも皆、経歴、容姿、財力、性別等の人間の表層だけで個人個人を判断して自分でも気付かぬうちに点数を付けている。

 そんな形だけのもので自身の生活を満たしたところで、果たして幸せなのだろうか?

 恐らく僕も形だけのもので人々を判別し、点数を付けている愚か者の一人なのだろう。

 だから僕は幸せ者だと胸を張って言えないし、先程の自分自身の疑問にも答えてやる事ができない。


 僕がそんな事を考えていると、またもや何処かで、温かい白銀の光が輝いた。


 再び僕は咄嗟に、その光を眼で追いかけた。そこには先程の電車で僕を魅了した白銀の髪の持ち主であろう少女が一人、冷えた青空を眺めていた。

 まるで彼女は朝の陽光を擬人化したみたいに僕には見える。僕の暗い日常の中で、彼女だけが輝きを放っていた。


 久々に何かを、誰かを美しいと思えた。そして僕の世界に彼女を認識した瞬間、ある思いが脳裏を掠めた。もしかして僕は…


 まだ何もしていないのに、愛する事を諦めていたのかも知れない。


 そのような思いが、一度でも脳裏を掠めてしまうと中々、忘れる事ができなくなる。

 彼女の白銀の髪に魅了された僕は時間の経過さえも忘れていた。

 そんな僕の視線に気付いたのか、白銀の長髪の持ち主である少女はゆっくりと振り返り、青く清い瞳で、僕の黒い瞳を遠くから覗いてきた。

 きっと僕は動揺を隠せていなかったに違いない。胸の奥で何かが跳ねて、心臓がキュッと熱くなり脈を打った。

 その時、チャイムが美しい一時の終わりを告げるかのように鳴った。

 自分の席に戻った彼女は再び、朝の青空を青い青い瞳で憂鬱そうに眺めていた。




 美しい物ほど謎が多い。あのたなびく銀の髪に気付かなかった数時間程前の僕には、この言葉の意味が今一つ理解できなかったが、今の僕ならば理解できる気がする。

 これを逆説的に言えば「謎が多い物ほど美しい」となる。

 探検家が秘境に憧れたり、科学者が何処までも科学の神秘を追い求めたりするその訳を説明するには「謎が多い物ほど美しい」という言葉だけで事足りるだろう。


 要するに謎は人類の成長の為に必要不可欠なのだ。また未知なるものに、人々は勝手に夢や希望―知的好奇心を抱いてしまうのだ。

 探究心と人々の努力によって世界の謎が明らかになってゆくと同時に、また新たな謎と出会ってしまうのが常であり、そうして気違い染みた探究心を持つ人類は様々な世界に入り込んでいき、そこで我々に欠けている物や見た事もないような美しい物を知る。

 そして未知なるものを更に渇望して探究を続ける。そんな事を永遠と繰り返し続ける。


 そして人間関係にも、ことさら恋愛に於いても、この現象は知らぬ間に生じている。

 基本的に恋愛に於ける行動の大半は、人間が自分より優秀な子孫を残す為に、若しくは確実に子孫を残す為に、交尾相手の候補の全てを詳しく知らなければならないという欲望を孕んだ危機感が原動力となっている。


 そして恋愛という名の生殖行為が社会の構成に必要な以上、人々は公に認められている欲望の赴くままに理想の恋愛像という色欲を追い求め、探究する。

 そして仮にある程度、そういった色欲も満たされて、安心を得たとしても人間という愚かな生き物は、どうやらそこでは終われないらしく、更に更にと到底叶わぬ幻想を追い求め続けてしまうのだ。


 既に満たされているというのに、更に満たされようと愚かにも今まで培ってきた物事を、あっさりと捨ててしまう者が後を絶たない。

 このような人間の愚行も一応「謎」ではあるのだが、こういった人々の苦悩愚行を美しいと僕は思えなかった。




 彼女の周囲だけに温かい陽射しが窓から差し込んでいる。その一方で僕の周囲には冷たく薄い暗闇が座り込んでいる。


 あの少女は謎に包まれていて神秘的であり、そして僕の世界を覆す様な「何か」を持っていると心の何処かで確信している。

 彼女が持っているその「何か」を僕は掴み取りたい。

 だが、その「何か」の正体が分からない僕は、教師の目を盗んで落書きなんかしたりしながら、彼女の持つ「何か」を掴めない事に苛立ちを覚える。


 それは果たしてどんなものなのだろうか? 何故、彼女だけが、それを持っているのだろうか?


 そんな事を考え続けていると皮膚の感覚が曖昧になってゆき、ここが温かいのか、それとも寒いのかが良く分からなくなってきた。


 僕が求めている「何か」の正体は今の僕にはまだ分からない。恐らく、それは気体や液体のようであり、掴んでも形を留めず、指と指の隙間や肌の細胞と細胞の間を流れては逃げてしまう。

 その「何か」は、そんな曖昧なものだという事しか分からないが、逆説的に言えば曖昧で形が無いとのだという事は明白であるとも言える。

 実は、もう僕が既に知っている筈のものに気付けていないだけなのかもしれない。

 果たして僕はその「何か」に辿り着けるのだろうか? 「曖昧」という概念は少なくとも辞書の中では明確に形付けられていて曖昧では無い。

 曖昧という概念さえも、哲学者とやらは捕まえてしまったのだから、僕の求めている「何か」もいつかは掴める筈だと思う事にした。


 彼女は陽の光を煌々と浴びているというのに、何処か月が隠れた夜のような哀しい暗さが彼女にはあった。

 僕は彼女をずっと見ていた。彼女は朝礼中なのにも関わらず、机の引き出しから文庫本を取り出して読み始めた。

 堂々とし過ぎているせいか朝礼中の教師は、彼女が読書を始めた事に全く気付いていない。

 彼女のきめ細やかな指が文庫本の上質紙をそっと撫でる。何故か僕の胸まで撫でられているような感じがして堪らなく心地良かった。

 黒板の前では担任の教師が朝と君達が嫌いだとクラスメイト全員に伝わってしまうくらいの怠そうで張りの無い声で、今日の予定を話している。

 彼の声は僕達の活力を奪う不思議な力がある。担任が話し終えると、まるで空気を読んだかのようにチャイムが鳴った。

 彼女は綺麗な文庫本をそっと机の上に置くと、音一つ立てない優しい所作で立ち上がった。


 長い銀色の髪は少し揺れて柔らかな希望の光を放った。その姿は僕がイメージする天照や聖母みたいで、何とも神秘的で綺麗だった。


 彼女が、窓を伝い教室を照らしている陽射しの中から出て、屋内の影に向かって歩き出した瞬間、彼女は小さな奇跡を起こした。

 窓から差し込んでいた陽の光は伸びてゆき、彼女の進む先にある教室の影を退けて、温かな陽射しは窓辺から離れゆく彼女を追いかけるようにして照らしたのだ。


 この奇跡を、僕だけが目撃していた。僕の他に、誰一人としてこの奇跡に気付いていなかった。

 それは孤独な僕だけが見ていた孤独な奇跡だった。




 彼女は謎に満ちていて美しかった。この学校の中で、彼女の住所や誕生日、詳細な性格を誰一人として知っている者はいない筈で、恐らく教師でさえ彼女に関する大切な情報は持っていないだろう。

 髪色や瞳の色なんかは極めて異質だというのに、指導を受けているところを見た事が無い。

 教師が多様性やダイバーシティとかいった流行りの思想に怖気づいているからなのか、彼女の長い銀の髪と青い瞳の美しさに免じて黙認しているだけなのか、それさえも良く分からない。


 そういえば、彼女をはっきりと僕の世界に認識してから改めて気付いた事だが、彼女は僕よりも他人と関わらない。

 僕が知る限り、彼女はいつも独りで小説を読むか青空を哀しそうに眺めているかの二つの光景しか見かけた事が無い気がする。

 そんな彼女は異質で、今にも深層心理を掻き立てられてしまいそうになる程の存在感を放っているのに、気付かれる事なく教室の片隅に隠れている。


 いつも彼女が眺めている青空の上には大虚や未知、そして孤独が漂う宇宙が殆ど無限に広がっている。

 そんな残酷な世界で彼女だけが、たった独り神々しく、でも何処か可愛らしく輝いていた。

 彼女を影から見ている事しかできない、その事実が僕には、どうしようもなく残酷に思えた。


 美という概念そのものが、彼女を照らしている。

 普通の女性ならば幸福の絶頂に至るであろう筈なのに、何故か彼女の瞳には寂寥が溢れている事が不思議で仕方がなかった。

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