第3話 廃ビルの女③
「良いなぁ、何だか羨ましいよ…。だけど程々にしときな。余り一つの物に縋り続けると、それを喪失した時の絶望ってものは計り知れないよ」
彼女は恐らく自身の経験を踏まえたうえでの忠告を悲しそうに、そして過去を懐かしみながら僕に告げた。
彼女は缶の中で揺れている黄金色をしたビールを涙を飲む代わりに思い切り飲んでみせたが、所詮アルコールでは彼女の心の渇きを収える事はできなかった。
「子供の頃の私の家って、かなり貧乏だったの。だから同じ服をずっと着回してたり、三日に一度くらいしか風呂に入れなかったんだよね」
と彼女は酔った勢いで話し始めた。
まるで彼女は過ぎ去った子供時代が、視線の先にあるかのように遠くを見つめていた。
その彼女の眼差しからは鈍感な僕でも気付いてしまう程に苦い郷愁が窺えた。
「そんな感じだったからさ、案の定、虐められてたんだよ。無視されたり、机に落書きされてたり、昼休みとかはボールをぶつけられたりしてさ。まぁ、その他にも色々あったんだけど…」
彼女が話す虐めの内容は人々を驚かせるような変則的なものであったり、残虐性が特段に高いものではなく、逆にありふれた内容だった為に、当時の彼女の感覚が妙に生々しく僕に伝わってきた。
孤独に苛まれた事によって、気付かぬ内に生じた心の傷が猛烈に疼き始めて堪らなかった。
「とにかく教師も含めて、全員と言っても良いくらい殆どの人が私を一人の人間として―一つの心を持つ存在として―認めてくれなかった」
話し続ける彼女の表情が沈んでゆく夕陽のせいなのか良く判らないが、暗くなってゆく。
「そんな心が壊れてしまいそうな時でも、同級生のある男の子はずっと私を守ってくれたんだ。私は何か事がある度に、その男の子に縋り付くようにして泣き付いたりしてたんだよ」
もしかすると彼女の話す絶望的なこの昔話は、その男の子の登場によってハッピーエンドに向かってくれるのかも知れないと、必死になって希望的観測を見出す事によって僕は心の平衡を保つ事にした。
そうすれば思いの外、気楽に彼女の身の上話を聞く事が楽になった。
「彼は当時の私にとって唯一の心の支えだった。今思えば私は彼に依存し過ぎていたよ…」
太陽がビルの影に隠れたせいで、彼女を照らす照明が消えてしまい、彼女の表情が判らなくなってしまった。
もしかすると彼女が沈み行く夕陽を操っているのかもしれないと思ったが、間も無くそんな馬鹿げた考えは消え失せて、徐々に沈んでゆく夕陽が彼女の精神を操っているのだという結論に落ち着いた。
哀しみと憎悪が眼下の街にちらほらと浮かび始める。
「だけど、ある日、偶然にも私は聞いてしまったんだ。彼が私の事を『塵女(ゴミ女)』と罵倒しているのを…」
それを聞いた僕は必死に何かしら表情で反応してみせようとしたが、どんな表情をすれば正解なのか判らなくて結局、少し口角の辺りを引き攣らせた暗い顔をする事しかできなかった。
「彼が私に優しくしてくれてたのは遊び半分だったらしくて、後は内申点を稼ぐ為だったみたい」
当時の彼女の壊れそうな心は少年の利益の為の偽善によって、悉く打ちのめされてしまったのだと思うと哀しくて、やり切れなくて堪らなかった。
「物凄く悲しくて、死にたいと思ったよ。何よりもひたすらに憎くて憎くて教師を含めた皆を―特に彼を―殺して自分も死んでやるって幾度と無く思った事か…」
彼女は相変わらず僕の方を見ないで話を続ける。
「こうやって彼は未だに時々、私の心を苛み続ける傷跡を残して行ったのさ。昔のアタシみたいに誰かに縋り続けると、それを失った瞬間に心は支えを失い、あっという間に壊れてしまうのさ。そのうえに喪失による悲しみや絶望は絶えず消えずに半ば永遠に心に入り浸りやがる。だからアンタは今の内に誰かに縋る事なんか止めて、独りで生きて行く練習を始めておきなよ」
いつの間にか彼女の缶ビールから僅かに聞こえていた揺れてはぶつかる水の音が聞こえなくなっていた。
彼女は空き缶を見つめながら言った。
「この世界は敢えて夢とか希望とか美しくて耽美なものを見せた後に、様々な手段を用いてあらゆる夢や希望を奪い、その代わりに絶望や狂気を押し付ける事が趣味なんだろうね」
彼女は夕焼けを睨みながら、そう言った。
そして彼女は手に持っていたビールの空き缶が少し凹むくらい憎悪を孕んだ力を込め、茜色と藍色が混じりつつある繁華街の空に向かって、ビールの空き缶を思い切り放り投げた。
夕焼けの空に空き缶が飲み込まれてゆき、消える間際に宛ら輝きを放ったようにアルミ缶が夕陽を反射した。
その輝きを見せた後、空き缶は眼下にある都会の影に飲み込まれて完全に姿を消してしまった。
憎念が少しずつ退いて行き落ち着きを取り戻した彼女が新しい缶ビールに手を付けようとしたその時、落下した空き缶が地面にぶつかった際に生じる衝撃音が廃ビルの敷地中にこだました。
空き缶が鳴らした衝撃音は僕と彼女の孤独感を妙に嫌な感じで刺激した。
こんな場所に逃げて来ている時点で、僕と彼女には安心して心を休める事ができる場所や人が無い事を―現状、僕達は孤独である事を―再認識させた。
自分自身にさえ隠していた苦しみが沸々と湧き上がって来て、今にも耐えられなくなってしまいそうだった。
恐らく彼女も同様に苦しんでいる事だろう。
僕の心は絶望で一杯になり只、その場に突っ立っている事しかできなくなっていた。
溜め込んだままで吐き出せる場所を見い出せずに居る僕の溜まりに溜まった苦悩は、もうとても自分独りだけでは耐え切れない程の大きさになっていた。
「それにしても私達の人生の歯車は一体、何処で狂っちまったんだろうね?」
打ちのめされて腐敗せざるを得なかった大人の持つ独特の雰囲気を放つ彼女は悲しそうに―切なそうに何処の誰かも判らない誰かに向かって問い掛けた。
もし彼女が僕に問い掛けているのであれば一体、僕は何を―どんな風に答えれば良いのだろうか?
そんな事は餓鬼の僕には未だ到底、判る事ではなかった。
僕達が黙り込んでいる数分の間にも、夕陽は都会の景色の中に沈んでゆき、今にも冷え込んだ外気が街を支配する夜が始まろうとしている。
僕の隣では碌に働いていないであろう彼女がビールを飲みながら、街の配色が変わりゆく様子をぼんやりと眺めている。
僕は僕で、機械仕掛けの少女が涙を流さなければならない悪趣味な夜が訪れる事を心から憎み、哀しんでいた。




