第1話 廃ビルの女
小さい頃から自分ではどうする事もできない出来事が眼の前に立ち塞がると、足が勝手に高所を目指してしまう。
繁華街から少し離れたとある場所には、何時からあるのか、何時からこういう風になってしまったのか誰も覚えていないよくらい寂れた廃ビルが建っていた。
「立ち入り禁止」と書かれてある看板が視界の奥にちらりと見えてはいたが、僕は警告を無視して寂れた廃ビルへと吸い込まれるように入って行った。
経年劣化か何かにより、ひび割れたアスファルトの隙間から雑草が生えている。
都会のアスファルトに生えている雑草の漲るようなその生命力には度々驚かされてしまうものだ。
その雑草の中に時折、野花が入り混じっていたが何処か皆、都会の空気や酸性雨等で薄汚れていたので、それが僕の気分を余計に暗くして打ちのめした。
廃ビルの階段を見つけたので、僕は屋上まで登ってみる事にした。
ピクニックに行った際に、少し大きな丘があれば登ろうとする子供の頃からの本能的な感覚が、此処に来て急に呼び起こされたのだ。
先程まで降り続いていた雨は道中に止み、空は橙色の淡い光を帯び始め、雨が染み込んだアスファルトは日光を仄かに反射していた。
僕の気分は(恐らく何処かにいる彼女の気分も)全く晴れても居ないのに―寧ろ僕達の気分は土砂降りなのに―勝手に気持ち良く晴れるこの世界の事を恐らく一生、僕は好きになる事はできない事だろう。
空も地面も、そして空と地面を繋ぐ大気も全てひんやりとしていて涼しげであったが、それは同時に僕達に訳の分からない虚しさを感じさせた。
夕焼けが街に差し込みはしたものの、ビル群が夕焼けの光を遮っていたので、結果として高層ビルの形をした大きな影が繁華街の一画に寝転んでいるだけだった。
夕陽を受けた僕の足元にもはっきりとした影が映し出されていて、僕を形どったその影は何故かとても弱そうで、軽く押してしまえば今にも階段から転げ落ちて壊れてしまいそうだった。
廃ビルの中は今にも崩れ落ちて来てしまうのではないかと疑ってしまう程に欠損していたり、崩壊していたりする部分が多く、所々にある隙間にまた雑草が生えていたりした。
雨水が滴り落ちる音に少し驚いてしまったが、雨水が滴り落ちる音だと判ると心地良さを覚えた。
階段を登っている最中に突然、カランと足元で軽い金属の筒を蹴った音がした。
音に反応して足元を見ると何故かそこには缶ビールの空き缶が転がっていた。
改めて周囲を見渡すと同じデザインをした空き缶が辺りに三、四個転がっていて、空き缶の中には、まだ中にビールが少しだけ残っていたのか外に飲み残しが漏れ出している物もあった。
そこで、僕は此処が酒臭い事に今更ながら気付いた。
未成年には受け付けない臭いだ。
空き缶には「アルコール度数10%」と表記されてはいたが、酒とは縁の無い未成年の僕にはその度数が高いのか低いのかが良く判らなかった。
空き缶は僕が進むべき道を暗示するかのように転がっていた。
空き缶は僕に上へ向かえと示しているみたいに見えた。
階段を登るに連れて、アルコールの鼻を突く臭いが強くなってゆく。
臭いにも負けずに僕は階段を着実に登り続ける。
「冷たっ!」
天井から垂れた雨粒が僕の頬を濡らした。
その雫は無色透明である事には間違いは無いのだが、何故かは良く判らないが、その雫に何処か気味の悪い濁りを感じたので、僕は汚いものに触れてしまったような嫌な気持ちになった。
わざわざ雨粒を拭き取るのも億劫だったので、僕は頬に伝っている雨粒を拭き取らなかった。
天井から垂れた雨粒は僕の頬に落ちて、そのまま下へと頬を伝うように落ちて行き、最終的には僕の服の繊維へと染み込んで行ってしまった。
長い間、階段を登り続けていると似たような光景の連続で不意に自分が今、どの辺りに―何階に―居るのかが判らなくて不安になってしまう。
そんな錯覚に陥ったりしながら、階段を登り続けていると上の方から淡い橙色の光が差し込んで来た。
遂に―廃ビルの果て―屋上まで辿り着いたのだと思った僕は少し浮かれて淡い光の軌跡を辿った。
そこには淡い光が隙間から漏れ出ている錆びた鉄製の扉があった。
恐らく、この扉の向こう側には圧迫感を呼び起こす天井とかが一切無い広々とした屋上が広がっているのだろう。
僕は冒険心と現実逃避という相容れない二つの子供染みた期待に胸を弾ませながら、扉に付いてある冷たい鉄のドアノブを握り、そのまますっと押し開けた。




