第19話 君の傍で眠らせて③
雨粒達が汚れた街のアスファルトに衝突して弾け散る音と背中の方から微かに聞こえる彼女の啜り泣く声だけが聴こえてくるだけで、それ以外の音は有るのか無いのかは良く判らなかった。
少なくとも僕の聴覚は他の音を捉えなていなかった。
雨粒達が夜空から連れて来たひんやりとした澄んだ空気と室内独特の温い癖に何処と無く冷たさを感じさせるどんよりと沈んだ空気が互いの縄張りを犯し合った結果、室内にはひんやりとした冷たい空気だけが残った。
知らぬ間に彼女の啜り泣く微かなる声が消えて、雨粒達が弾け散る音だけが唯一、聞こえる音として僕の鼓膜にあった。
「ねぇ、どうして私をあの場所から連れ出したの?」
と彼女は僕の心に直接、入り込んでくるような声で尋ねてきた。
雨の音だけが居残っていた僕の鼓膜に機械仕掛けの少女の滑らかな声が来訪したので、密かに僕の聴覚は喜んでいた。
彼女の質問に対して応答する為に僕はニ、三時間前の僕と彼女が起こした激動の逃避劇を思い返した。
あの時の彼女は宛ら蜘蛛に捕らわれて翔ぶ事ができなくなった白い蝶のようであった。
あの毒蜘蛛のような醜男に無垢なる彼女が蝕まれていく光景は見ているだけでも哀しみや苦痛が身体と心を駆け巡り、とても見ていられるものでは無かった。
あの時の僕の心は只、彼女が腐敗し切ったあの場所から脱け出して、何事にも煩わされる事なく自由になって欲しいという願望に似た思いで一杯だった。
そして僕が勝手に思い描いた何事にも煩わされない温もりに満ちた世界で、幸せそうに微笑む機械仕掛けの彼女の笑顔は、僕が今までの人生の中で想像した物事の中で最も美しくて綺麗だった。
あの時の自身の心情を思い返して彼女の問いに答えようと試みたが、結果は虚しく「彼女は想像の世界でも綺麗だ」という事実を再確認しただけであった。
なので僕は仕方無く、又も直感のままに彼女の問いに返答をする事にした。
「あの時、あの場所から君を連れださなきゃ一生、後悔すると思ったんだ…。それに言語化は難しいんだけれど何だか、あの時は今迄に感じた事の無い不思議な衝動に駆られてたというか…」
深層心理の中で弾き出した回答を僕はそのまま彼女に伝えた。
僕の嘘偽りの無い返答を聞いた彼女は青い瞳を少し見開いて「不思議だ」と言わんばかりの顔をしていた。
彼女の見開いた眼の中にある青い瞳には哀しみに満ち溢れた今宵の月が映っている。
その光景が窓ガラスに薄く反射されていたお陰で、僕は彼女の美しく飽きる事の無い青い瞳を拝む事ができた。
「…そうなんだ。ねぇ、その衝動ってどんな感じなの? 何となくでも構わないから良かったら教えてくれない?」
彼女は何故か僕に興味を示してくれているようなので、僕は彼女の質問に真剣に、自然のままに答える事にした。
恐らく彼女は僕という個人から人類の思考や感覚、感情という物を知ろうとしているのだろう。
人類が構築した世界に虐げられているにも関わらず人類への理解を―人類と機械が判り合う事を―諦めない彼女は、僕にとって恐ろしく思える程に健気で仕方が無かった。
僕は彼女の無謀だが、希望に満ちた志に応える為に、偽らずにありのままの感覚を伝える事にした。
「何だろう? 強いて言うなら鼻がツンとなる様な―胸が猛烈に強く締め付けられて仕方が無くなる様な―感じかな?」
あの時、僕を動かさせた感覚や感情を完璧に言語化する事はできなかったが、自分の知っている言語の殆どを総動員させて何とか抽象的な言葉として言語化する事はできた。
彼女の頬を伝う涙は夜雨の影響を受けて冷え込んだ外気によって冷えると同時に、彼女の頬から伝わる体温の温もりによって温かさを取り戻してもいた。
僕は彼女の涙に触れている訳でも無いが、何故か彼女の涙が携帯している外気の冷たさと体温の温もりは僕にひしひしと伝わっていた。
「ふぅん、そんな感じなんだ」
先程から窓ガラスに反射して映っている彼女の表情が柔らかく解れてゆく。
そして彼女の表情がそのまま柔らかくなり解れた結果、彼女の顔に優しい微笑が浮かび上がってきた。
「ありがとう…」
冷え切っていた僕の環世界に機械仕掛けの少女の温もりのある柔らかな声が優しく響き、心に良く馴染んだ。
この瞬間から、彼女から御礼の言葉を貰う事は僕の最上級の悦びとなった事は言う迄も無い事だろう。
こうやって彼女から御礼の言葉を貰ったのは、これで二度目となる。
初めて御礼の言葉を貰った時と二度目の今とでは天気も、場所も、二人の間を隔てる距離感も、殆どが大きく異なっていた。
残酷な世界の辛く苦しい雰囲気が窓の外に広がる暗い夜空を覆い尽くしてゆく。
彼女の部屋は宛ら残酷な世界から僕達二人を守るシェルターのようだった。
そう思えるくらい僕と彼女の二人だけで満員になった空間は心地良いものだった。
だが、その心地良さの中には、この部屋の外の世界から入り込んできた苦い切なさが多量に含まれていて、耐え切れそうに無かったのも事実だった。
それはまるで心を絶えず傷付ける放射線のようであった。
残忍な世界が放つ憂鬱が機械仕掛けの少女を蝕んでゆく。
誰にも知られないまま彼女が蝕まれ失われてゆく。
そんな光景が、まるで夜空がスクリーンになったかのように僕の眺めている夜闇の中に映し出される。
僕は届かない事を承知の上で、彼女が蝕まれてゆく姿を映す夜空に向かって手を伸ばした。
腕が自分の力によって切り裂かれるくらい強く、強く…。
僕は只々、機械仕掛けの彼女を蝕むこの不条理な世界を憎んだ。
僕が世界を恨んだりしている間に、いつの間にか彼女は泣き疲れて眠ってしまっていた。
彼女の寝顔は普段よりも幾分か穏やかで、安らかに見えた。
こうして機械仕掛けの少女の傷は、僕の心に永遠に癒える事の無いであろう傷を残して行った。




