第17話 君の傍で眠らせて
彼女も眠った事だからと僕も自宅に帰って早く寝ようと帰りの支度をしながらスマホで時刻を確認すると、既に終電も無くなっている時刻になっていた。
終電も無ければ、未成年の僕が宿泊できる場所も他に思い当たらなかったので、僕は半ば強制的に彼女の家に泊まる事となった。
彼女の部屋には壁側にシンプルなデザインをした白いベッドが一つだけ置いてあるだけで、他に使えそうな寝具は何も無かったので、寝場所が見当たらなくて随分と困り果ててしまった。
そこで僕は彼女の部屋にある暖かそうな服や布をできるだけ集めて三枚程、窓側の床に敷いて即席の布団を作った。
恐らく僕も彼女もこのまま朝まで眠るのだろうと考えた僕は部屋の照明を消そうと、照明のスイッチの方へと向かったが、その僅かな道中で彼女が椅子に座ったまま眠っている事を思い出した。
このままだと彼女の身体が冷えてしまうと思い、僕は起こさないように慎重に優しく彼女を椅子から抱き上げて壁側のベッドに寝かせた。
そして彼女の身体の上に毛布、更にその毛布の上に僕の外套を被せた。
念の為に彼女の顔色を確かめると部屋の照明を消して、そのまま僕は即席の布団に入って寝る事にした。
相変わらず外では雨が降り続けていたのだが、それなのに何故か妙にこの部屋は静かで、空から落ちて来る雨粒達が地面に当たる音一つさえも聞こえなかった。
カーテンの掛かってない窓の向こうには、雨雲に覆い尽くされている筈の空に何故か光り輝く銀の月が浮かんでいるのが見える。
空を覆い尽くしている雨雲の少し薄くなっている障子の穴のような部分が丁度、月の見える位置と重なっていた。
真っ直ぐな月の光が雲の薄い部分を貫いていて、何とも神秘的だった。
それはまるで暗闇と冷たさが支配する世界の中で、月が寂しさに堪え兼ねて只独り涙を流しているのだと、この光景を見た誰もが思ってしまうような何とも哀しいと同時に美しい眺めだった。
この光景に心を打たれてしまった僕は暫くの間、朧げな思考を脳内に散りばめる事すらできずに只、夜空に輝く月を眺める事しかできなくなっていた。
この数日の間に、僕と彼女の間で起こった数々の出来事は何もかもが濃密であり心に深く刻み込まれていて、何度も眠ろうと試みはしたものの彼女を意識し始めてしまってからの数日間の想念が瞼の裏に現れては消えて又現れるので一向に眠れそうな予感は無く只々、寝転びながら僕は煌々と光っている満月を眺めている事しかできなかった。
特に彼女の右肩に戒めのように刻み込まれていた白銀の傷口は脳裏から離れなかった。
あの金属製の冷たい傷口は彼女の心の悲痛な叫びそのもののよう思えて仕方が無かった。
彼女の身体に刻まれたあの傷は未来永劫ずっと癒える事なく残り続け、彼女の心を痛め付けて、苦しませる事によって残酷なまでに彼女を追い詰め続けるのだろう。
残酷な世界が誰よりも何よりも純粋無垢な彼女を虐め抜く理由が僕には少しも判らなかった。
極悪非道なるこの世界が彼女を虐めている理由を推察する為に何時間、何年掛けて考えたとしても恐らく答えは僕には一向に判らないままに終わってしまうだろうと考え着いた果てに諦めに似た結論が出た。
何にせよ世界がこれから先も僕達を虐め抜く事には変わりは無いと思い、思考を切り上げて眠ろうとした。その時…。
横向きに寝ていた僕は背中から温かく優しい息吹を感じ取った。
その透明感があり、安らぎを与えてくれる独特な息遣いから僕は色々と察して、いつの間にか彼女が僕の後ろに寝転がっているという事が判った。
心臓が躍るように高鳴っていたが、それと同時に僕の心は凪のような平静さを持ち合わせており、何とも不思議だった。
胸の高鳴りで火照った身体は窓の隙間から入り込んで来る冷気によって徐々に冷まされてゆき、最終的には、ほんの僅かな一欠片の体温だけが胸の辺りにこびり付くように残った。
「ねぇ、君の傍に居させて貰っても良い?」
と言いながら彼女は、僕の背中に縋るようにして身を寄せた。
人肌独特の温かい感触を背中に感じられた。
そしてその人肌の温かい感触と並行して機械独特の無機質―金属質―の冷たい感触も感じられた。
僕の心は彼女が人間よりも優れた何者かである事を証明する感覚的な証拠を見つけた悦びと、彼女が何処まで美しくても機械である事には変わりは無いという感覚的な証拠を見つけてしまった哀しみによって震えた。
彼女が何よりも誰よりも優しい温もりを持つという僕にとって都合の良い感覚的な証拠と例え彼女が人間よりも情緒が優れていたとしても彼女が機械である事には変わりは無いという理由が原因で何処まで行っても虐め抜かれるであろう運命にあるという不都合な感覚的な証拠が僕の脳内に一気に流れ込んで来た。
それが災いとなり僕の感覚や感情は狂い始めて、今にも張り裂けてしまいそうになった。
今にも僕の心は無力感で壊れてしまいそうだった。
「…僕は別に構わないけど、ここら辺、めちゃくちゃ寒いけど大丈夫? 風邪ひいちゃうよ?」
思春期特有の病気を患っている僕には胸の高鳴りと暴れ回る絶望感に満ちた思考を隠す事だけで精一杯で、せいぜい彼女の体調を気遣う程度の事しかできなかった。
彼女が寝転んでいる背面の方へと振り向いて、思い切り彼女を抱き締める事なんか僕には全くできなかったうえに、思い付きさえもしなかった。
「それもそうなんだけど、独りきりで眠るよりも二人で身を寄せ合って眠った方が温かいと思う」
と彼女は僕に言った。彼女の声は耳を通じて脳に届き疲れ切った僕の心を癒した。
「それに、こうすればもっと温かくなるんじゃないかな?」
彼女がそう言ったその時、彼女と僕の距離が無くなった。
ぴたりと柔らかくて温かい何かが背中に触れた。
背中からは独特な柔らかさと弾力を兼ね備えた感触と人肌独特の安らぎを与えてくれる温度が感じられた。
僕は僕の背中に触れているものは一体、何なのだろうかと考えてみた。
それは今まで感じた事の無い独特で心地良い感触であると同時に、それは僕が本能的に求めていた感触であるような気が―確信が―あった。
これらの事から背中に密接しているものの正体が彼女の胸である事が判った。
背中に感じている心地良い感触の正体が、彼女の胸が僕の背中に密接に当たっている感触だという事を理解した瞬間、僕の思春期特有の病(妙な場面で異常な程に羞恥心が湧いて来る症状等)が発病して顔が林檎のように真っ赤になった。
彼女が僕に寄り添ってくれているという事実に浮かれていた僕は、自身の背中辺りがどんな状況になっているのかを確かめたくなったので背後の方を―彼女の寝転んでいる方向を―振り返って見てみようと後ろに振り向こうとした。
だが僕が振り向こうと身体を動かした瞬間…
「駄目! 振り向かないで!」
と彼女が突然に大きな声で背後を振り向こうとする僕を制止しようとする声が室内に響いた。
だが彼女の制止は惜しくも間に合わず、僕は現実の光景では無いのではと思わず疑ってしまう程の神々しさと悍ましい程にこの世界が無慈悲である事を知らしめてくれる生々しさを併せ持つ傷口を三度、目の当たりにしてしまった。
三度、機械の彼女の幾何学的な傷を見てしまった僕は又もや言葉が出て来なくなった。
未知なる引力の影響を受けて、僕は彼女の傷口から眼を放せなくなっていた。
「見ないで!」
彼女の悲鳴に似た訴えが、白銀色の傷口から僕の意識を逸らさせた。僕の意識を連れ戻した。
ハッと我に返って彼女の顔を見ると、彼女の青い瞳をした大きな眼からは今宵の月の光を取り込んだ涙が溢れ出していた。
その悲哀の美に満ちた光景を見て浮かれた僕の顔は林檎のように真っ赤な状態から一転して血の気が引き、星一つ無い夜空のように真っ青になってしまった。
「お願いだから、お願いだから、見ないでよ…」
彼女の訴えかける力は次第に弱くなりつつあったが、それに反比例するかのように僕に対する効果も強まりつつあった。
機械仕掛けの彼女の無惨な傷口は彼女の心を抉るのは必然として、それと同時に僕の心をも抉った。
途轍も無く重い精神的疲労が僕と彼女の上に伸し掛かって来て僕達を苦しめた。
「ごめん…」
僕は又もや彼女に謝罪する事で精一杯だった。
彼女の右肩から胸に掛けて刻み込まれた痛々しい銀の傷は僕にとって最早、他人の物では無くなっていた。
これから先も彼女の苦悩は己ずと僕の苦悩となって現れ続ける事だろう。




