第16話 インスタント・コーヒー
彼女は風呂から上がると身体を拭き、服を着て、髪を乾かしたりし終えて、部屋に戻って来ると本棚から文庫本を取って椅子に座って読み始めた。
何故か彼女は、あれだけの騒動が起こった後だというのに全く僕に注意を払わなかった。
またもや僕と彼女だけしかいないこの部屋に最早、僕達の間では定例となっている沈黙が産まれていた。
この独特な現象は彼女が僕を無視しようと決め込んだ(実際に彼女が僕を無視しようと決め込んでいるかどうかは僕には良く判っていない)結果として起きた現象という訳でも無ければ、僕と彼女が互いに相手の事を考慮し合った結果、気不味い雰囲気になって互いに話を切り出せなくなってしまったというような現象が起きている訳でも無かった。
この部屋に沈黙が流れていたとしても現在の僕と彼女は何も無理に話し合う必要は無く、僕は彼女と同じ空間に居る事によって一時の安らぎを得る事が出来た。それに仮に敢えて無理に話し合おうとすれば互いに疲れてしまうだけだと分かっていたので、僕には沈黙が産む些細な弊害は余り気にならなかった。
恐らくだが、些細な違いはあれど、彼女も僕と似たような事を考えているに違いないだろう。
数時間前までの彼女からは茨のような刺々しさを仄かに感じたり、何処か生きている世界が違うような気がして(実際に僕とは生きている世界は偉く異なっていた)何となく近寄り難く感じていたが、何故か打って変わって現在の彼女からは心を自衛する為の棘も有るように感じなければ、果てしない心の距離感も感じなくなっていた(僕と彼女だけが小さな部屋に二人きりで居るという事実が僕をそう感じさせたのかもしれない)。
ほんの少し前迄は彼女の事を何処か非人間的で(実際に彼女は人間では無かったが)、まだ少女であるにも関わらず、僕が今まで生きて来た人生の中で見て来た大人よりも誰よりも大人びていると思っていた。
だが、それは半分正解であり半分は間違いでもあった。
確かに何処と無く非人間的で偉く大人びてはいるものの椅子に座り、寛ぎながら小説を読んでいる彼女は一見すると何処にでも居るような年相応の普通の少女だった。
この事実は僕に取って何よりも大きな救いとなった。
これは僕の勝手な推測だが、本来の彼女は今の僕が見ているような自然体で、ごく普通の表情豊かな少女なのだろうが、機械の彼女が独特で過酷な環境で生き抜いていく為には、本来の普通の少女という性格を捨てて、大人にならざるを得なかったに違いないだろう。
そんな彼女が普通の健気で純粋な少女のままで居られる場所が残されていたという事が、何故か僕には嬉しく思えた。
只でさえ自身の事でも余り喜ぶ事の無い僕が、他人の事で喜ぶ事なんて初めての事だった。
弱いもの虐めが趣味の俗世はアンドロイドには感情が無く、文字通り只の人間の形をした機械だという事を、長たらしくて思わず眠くなるような学術や難解な憎たらしい資料を用いて、無知なる大衆を納得させ続けている。
だが何故か無知である大衆の中に含まれる筈の僕はどうしても納得する事が出来なかった。
寧ろ俗世の説明とは裏腹に時折、彼女の僅かに動く表情筋からは―俗世の所業によって哀しみで満たされた彼女の青い瞳や右胸の白銀の傷跡からは―人間よりも遥かに富んだ純粋な情緒が窺えた。
そういった彼女の機微だが情緒豊かで美しく優しい魅力を用いて彼女は無意識の内に、鬱屈とした無限地獄のような日常から僕を救い出してくれたのである。
兎にも角にも僕はほんの少しだけでも良いから―自己満足でしか無いのかもしれないが―彼女の支えになりたいと思った。
僕は今、いったい彼女に何をしてあげる事ができるのだろうか?
そうと考えるや否や僕は台所まで行って湯を沸かして、恐らく何処の家にも有る筈であろうインスタントコーヒーを探し始めた。
そしてインスタントコーヒーの粉末の入った瓶を見つけたと同時に湯が沸いたので、簡素な皿棚からマグカップを一つ取り出し、そして冷蔵庫に入ってあった牛乳パックも取り出して、卓上に置いてあった銀スプーンで適当にインスタントコーヒーの粉末を計量して豆、湯、ミルクという順番でマグカップに入れてかき混ぜた。
このようにして、でき上がったホットコーヒーを僕は、彼女の読書の邪魔をしないように彼女の傍にある机にそっと置いた。
そして、いつの間にか乾いていた僕の外套を、薄着で寒そうに見える彼女の肩に掛けてみた。
何故こんな事をしたのかと尋ねられたならば、元気になって貰いたいと思ったからだと正直に答える他なく、それが互いにとって一番楽だと思う。
長年に渡って凍え続けて来た彼女の心が、この部屋の暖房の温もりだけで温まるとは到底思えなかったのだ。
「…温かい」
マグカップを手に取り、柔らかな唇をマグカップの縁に付けて、僕が作ったコーヒーを体内へ注ぎ込んだ彼女はホッと一息吐くと同時に、心の声を漏らしたかのようにボソッと呟いた。
彼女がありのままの感想を漏らしてくれた事に、僕は少し驚くと同時に微かな感動を覚えた。
「そう? 実は余計な迷惑かもしれないかとも思ってたからさ…。良かった」
僕は彼女の呟きに反応してみせたが、彼女は僕の返事に反応する事なく本音を漏らすように呟き続けていた。
「何? こんな感覚、初めて…。胸が―心が―じんわりと内側から温まってゆく」
彼女はマグカップを抱き締めるように両手で持ちながら、そう言った。マグカップを両手で持つ彼女の姿は、宛ら微かに見つけ出した希望的観測を抱き締めているかのようだった。
「…ありがとう」
彼女は今頃になって漸く僕の返事に反応してくれたようで、マグカップの中で滑らかで静かに揺れるコーヒーの波を見つめながら僕に御礼を言ってくれた。
「ど、どう致しまして…」
と僕は思春期特有の何の意味も持たない恥ずかしさに心を焼かれながらも彼女に返事を返した。
彼女は母親に抱き付く子供のように何処と無く嬉しそうだったが、それは同時に初めて空腹が満たされた餓鬼のようでもあり、哀れにも思えて仕方が無かった。
彼女は温かい内にコーヒーを飲み切ると疲れ切っていたのか、そのままスヤスヤと眠ってしまった。




