僕と彼女の60.5フィート
僕と彼女の60.5フィート
両手を高く振りかぶって……
白球を放つ。力を抜いたスローボール。
球は曇天にアーチを描く、計算通りの放物線。
ゴールは彼女のミット。狙い通りに、すぽんと収まる。
「捕れた、捕れたよ!」
ホームベースの上で彼女が小躍りする。
僕のマウンドから彼女までは60.5フィート。
18メートルと44センチと、4ミリ。
彼女の遠い声は、擂鉢状の観客席から流れ落ちる蒸れた風に溶けてしまう。だからスマホを使う。
チェックのスカートに真っ白な半袖セーラー服の彼女は、嬉しそうにミットの白球を見せる。ポニーテールの髪が清々しく揺れる。
僕の夏服シャツの胸ポケットのスマホから、イヤホンを伝って彼女の声。
『捕れたよ! ナイスキャッチって、言ってくれる?』
「ん、まあ……誰でも捕れるよ」
『なによ!』と彼女は口をとがらせて、『返球するよ、そーれ!』
通話状態のスマホを胸に、彼女はしなやかな脚を大胆に伸ばして投げる。
ここは憧れのマウンド。
足下は全国の球児がいつか踏みたいと願う、聖なる土だ。
でも、ここには監督もコーチも選手も観客も……だれもいない。
からっぽのスタンドがそそり立ち、僕と彼女を外界から遮断している。
忍び込むのは簡単だった。球場は閉鎖されて無人。先客の泥棒が鍵を壊し、窓ガラスを割って逃げていたからだ。
彼女とのキャッチボールを、何回繰り返したのか。
無限のような気もするし、初めてのような気もする。
あ、よそう、もやっとした、変な感覚になってしまった。
むせかえる熱気のせいだ。そして……
彼女の返球は途中で転々と地面を転がる。僕はしぶしぶ動いてカバーする。
「いつまでたってもヘロヘロ球。アイドルの始球式の方がましだよ。ヘタクソ」
『いーっ!』スマホを介して、彼女のむくれた声が直球で届く。
『あのねえ……君』と、僕を名指しで呼ぶと両手を腰に当てて、『ヘタクソが真実でも、顔はスカッと笑って、ナイス! とか褒めてあげなきゃ。それが仲良しキャッチボールの鉄則だよ』
僕はそっぽを向き、白球をグラブに弾ませて言う。
「ヘタクソはヘタクソ、それだけさ」
『へーっ、まことに客観的な分析で、恐れ入ります。じゃ何度でもご忠告申し上げますわ、周りの人の気分を無視して、球を見ても人を見ない天才気取りの君。でも、人は一人では生きていけないんだよ』
そこで諭すように、彼女の声がしんみりと心に響く。
『だから……君、苦労するんだよ』
そう、そのとおり。
僕はただ、いい球を投げたいだけだ。
あの小さなストライクゾーンの中の、バットに邪魔されない部分に球を通す、そのためだけに……
でも監督は言った、チームメイトも言った。
“お前は投げるしか能のない、ただの人間ピッチングマシンだ。人は一人では生きていけない。仲間に好かれなくては欠格だ”
要するに、チームプレイがヘタクソだったんだ。
僕はチームのぎくしゃくの軸になってしまった。軸受けの壊れた軸に。
野球部をやめよう、そう思ったとき、この国に疫病がやって来た。
感染は爆発し、何十万人も死んで社会は麻痺した。
大会という大会はたちまち中止。
チームは抜け殻となり、部員も罹患した。
あっという間に、なにもかも、なくなってしまった。
人は感染を恐れて離れる。並んで歩くことも手をつなぐこともない。
だから僕と彼女はここに来た。彼女が誘ってくれたのだ。
60.5フィート離れたキャッチボール。
これなら“安全距離”だからね。
『でもね』と彼女の“忠告”は続く。
『そんな君、あたしは好きなんだよ。一芸しか取り柄がなくてもいいじゃん。ボールを投げる君って一生懸命だよ。キャラがドヨ~ンで付き合い下手でも、そのかわり正直でズルが嫌いなんだもの。君のどこにも、いけないところはないんだよ』
「でも、“人は一人では生きていけない”んだろ?」
『そりゃそうよ、もちろん君は、ひとりぼっちじゃ生きられない、保証するわ』
彼女は笑う。屈託のない純真な笑み、誰だって心惹かれる優しい笑顔。
そして彼女は、全知全能の神様を代理して、宣言する。
『だから、あたしがいるじゃない!』
彼女は挑発する。
『さあ! 力いっぱい投げて! しっかり受けてあげるから!』
プロの捕手ぶってしゃがみ、ミットを構える彼女。
僕はあきれる。
「おい、怖くないのか? 本気の球は危いよ」
『そりゃ怖いよ、とても怖いよ。でも大丈夫、君ならドンマイ、投げてみな!』
さあ来い! と彼女はミットを拳で叩く。
「ダメだよ……」
僕は突然、怖気づく自分に気付く。60.5フィート彼方の少女は、とても小さく、細く、華奢で、壊れやすいガラス細工。
「危険すぎる。外して身体に球が当たったら、死ぬかもしれないぞ。プロテクターを着けたって、君みたいなヘタクソじゃ……無理だ、とても投げられないよ!」
『あはは……』全知全能の神様の代理人は、底抜けに明るい哄笑を返してきた。
『ありがとう! 初めてあたしのこと、心配してくれたね』
僕は息を呑む。そうか……そうだったっけ?
同時に知る。かけがえなく愛おしい、ってどういうことか。
『さあプレイボール! これは絶対命令よ! 投げなさい、全力投球!』
僕は気付く。そうか、これは女神様が与える愛の試練。
いつか来るべくして来る、運命。
「じゃあ、ミットを動かすな。僕が投げる一秒間だけ、一ミリも動かすなよ!」
一秒でいい、動かさなければ、ボールをミットに的中できる。
『誓うわ、あたしは石になる』
彼女は息を止め、構える。
僕はうなずく。両手を高く振りかぶって……
大気を切り裂く爽快なサウンドを引き、真っ白なボールが一直線に彼女のミットにバシッ! と命中する。
派手にスカートを翻して尻もちをついたけれど、彼女はボールをこぼさなかった。
『手が痛い! 痛ァ~い、でも凄ぉ~い! 捕れたんだ、あたしにも捕れたんだ、よかったよ、ありがとう!』
彼女は立ち、何もかも忘れた目で僕を熱く射た。
あらゆる禁忌を捨てた忘我の視線。
いい? と問いたげに両手を広げて……
歩み出す、こちらへ。
返球の代わりに、僕の腕の中を目指して。
希望が湧く。なぜだろう? 真っ青な空に湧きおこる、まぶしいほど真っ白な入道雲に似た幸せのかたまりが、胸の奥から煌いて昇ってくる。
病魔に侵され、死神に支配された静寂の都市。暗い灰色が立ち込める、憧れのマウンドの頭上に……
頭上に。
刹那、ゾクッと身の毛もよだつ感覚が僕を貫いた。恐ろしい予感。
渾身の声で叫ぶ。
「ストップ、来るな! 戻れ!」
えっ? と驚愕して止まる彼女、でも……と戸惑う表情が凍り付いて……
ピカッ、と閃光の剣が落ち、まばゆい稲妻が僕を裂いた。
……そうだ、2020年の夏、僕はここで死んだのだ。
落雷で。
焼けて横たわる僕、突然の雷雨に打たれながら彼女は僕を抱き起こし、狂おしく絶叫して……
最初で最後のキスを捧げてくれたのだ。
『ごめんね、ごめんね……私がここに誘ったから……』
号泣し、嗚咽しながら詫びる彼女に、僕は動かない顔で微笑もうとする。
……いいんだ、君を止めてよかった。君が助かってよかった。安全距離をとれたんだ。
『でも、でも……私、あなたに何度謝っても、謝り切れない……どうか、許して……』
彼女は抱き締める、僕を、強く。
大人の腕、大人の感情で。
僕は悟る。彼女はすでに少女じゃない。
この電子的シチュエーションを先へ進めるために、サーバーのデータベースから情報が一部開示される。
“僕”が、仮想現実空間《VRスペース》に構成された人工知能《AI》であること。
そして、この世界の正体が。
呪われた一年が過ぎ、疫病が収まってゆくにつれ、人々は自分の中にぽっかりと開いたクレーターの存在を自覚する。
失われた2020年。
そこにいたはずなのに、なにもできず、立ち消えとなった一年。
心に穿たれた空虚は、疫病が去っても消えなかった。
“2020ロス”と称される、どうしようもない寂寥感が、疫病にかわって蔓延した。
そこで、旧型とはいえ汎用超電算機をまるまる一棟使い、政府は心病める国民に、精巧な仮想現実空間《VRスペース》を提供したのだった。
希望する人は、電子的に再現された“VR2020年”に滞在して、たとえ泡沫の夢であるとしても、“あの時”をやり直すことができるようになった。
中断したまま消えてしまった、あのときを。
心の渇きを癒すために、あるいは……
贖罪、そして鎮魂のために。
『ごめんね……私は生き延びてしまったの。あれから死のうと思ったけど、死ねなかったの。ごめんね』
彼女は繰り返す。何度も何度も。
その声はあまりにも優しく、切なく、だから哀しい。
今、現実世界に生きている彼女は、もう何年も過ぎてしまった彼女。それとも、何十年?
VRゴーグルで見つめ、VRチェアに身を沈め、VRグローブのセンサーを使って電脳化身の僕を抱き、泣いてくれている。
いいんだ、と僕はこたえる。これでいいんだよ。
だって、“人は一人では生きられない”から。
この言葉を裏返せば……
“たとえ一人でも誰かが望めば、人は生きられる”ということ。
だから、僕は、生きている。
誰もが無くしたがゆえに、あとからつくられたこの年に。
果てしなく繰り返される、かりそめの2020年、その夏に……
『ね、あの時に、行っていいかしら。あなたがこのマウンドに立ちたかった、あるべきだった、あの時に』
彼女は僕を誘う。とうとう来ることのなかった、あの時間に。
『そんな、2020年の夏の大会の、君が見たいのよ』
彼女のオーダーで演算されたデータが、僕たちを包む。
幾万の観客で埋められたスタンド。
人の波、滝のように流れ落ちる歓声。
ユニフォームの僕は、靴底のスパイクで、この聖なるマウンドを踏みしめる。
九回裏、あと一球で優勝だ。
僕は見上げる。
真っ青な夏空と真っ白な入道雲を。
両手を高く振りかぶって……