第七話 激痛のプロポーズ
激痛のプロポーズ
帰りの電車では何もなく、帰宅経路でも何もなかった。
―― 彩夏は芸能記者連中も何とかしたのだろうか… ―― と俺は考えながら家の玄関を開けた。
リビングにいる母は、やはりさびしそうな顔をして、テレビを見ている。
「ただいま」と俺が言うと、花が咲いたような笑みに変わり、「おかえりっ!」と言って、いつもよりもかなり喜んでくれた。
「仕事とか出ればいいのに…」と俺が言うと、母は一瞬きらめきの笑みを浮かべたがすぐに落ち込んだ。
「食事とか…
やっぱりね、主婦はそれが基本じゃないかって…」
母はまたさびしそうな顔をして言った。
「それはわかるんだけどね。
人生つまらないんじゃないかって思ってね。
父さんと話し合ってみたら?」
俺の言葉は禁句だったようで、母は少し怯えながら首を横に振った。
「短時間の仕事とかあるじゃないか。
時間指定しても雇ってくれるところは多いよ。
今はまた人手不足の時代になってきたから」
「でも、接客業ばかりじゃない…
それ、ちょっと苦手だし…」
やはりお嬢様育ちの弊害はある。
しかし外に出て働く意思はあるようだ。
「したい仕事とできる仕事」
俺が言うと、母は息せき切って、「したい仕事は女優っ! できる仕事は会計っ!!」と言って大張り切りで言った。
さすがに、―― 女優は無理だろ… ―― と思ったが、俺に少々ひらめきがあった。
「頼み込む必要はあるけど、心当たりはある」と俺が言うと、母は手を胸の前で合わせて喜んでいる。
「食事が終わってから、三人で俺たちの指定席に行かないか?」
俺が言うと、母は怪訝そうな顔をして、「あ、ドラマ…」と言い出したので俺がにらむと、しょぼんとして肩をすぼめた。
「録画して、明日見ればいいじゃないか…」と俺が言うと、「それでいいんだけどね…」と言ってから、食事の準備を始めた。
30分ほど経って父が帰ってきたので、すぐに夕食を始めた。
「母さんが仕事をしたいって。
まだ具体的なことは何も決めてないけどね。
食事の後に、三人で俺たちの指定席に行かないか?」
俺が父に言うと、「やはり、おまえが言ったか…」と言って父は苦笑いを浮かべて俺に言った。
「わかっていたんだったら言ってやればいいんだよ…
母さん、父さんにすっごく遠慮してるから」
俺が言うと、父はかなり反省したようで、黙り込んでしまった。
母はただただ、はらはらして俺たちを見ている。
「したい仕事は女優、できる仕事は会計、だってさ」と俺が言うと、父は眼を丸くして少しだけ笑った。
そして、「すまない」と母に向けて言ってすぐにまた笑い始めた。
「明るい家族でよかったよ」と俺が言うと、母も安心したのか少しだけ笑った。
「母さんは簿記認定とか持っているっていうことでいいの?
会計士ができるとか…」
俺が聞くと母は超高速でうなづき始めた。
「その程度はできないと、社長令嬢とは言えない…
などと爺さんに言われた…」
「そう。
女の姉妹はみんな庶務の仕事ができるわ。
私は高校時代に取ったのよっ!
だけど一般じゃ、それほど求人ないもの…」
確かに母の言う通りでもある。
まずはそういった仕事から埋まっていくものだ。
笑っていた父は妙に真剣な顔になっている。
「おい、まさかだが…」
「そう、両方叶うかもしれないね」
俺が言うと、父は大きくうなづいた。
「やる気があれば、チャンスはきっと来るから。
つく相手は大物だからね。
あっという間に女優になっているかも」
「…なくはないな…」と言って父は認めた。
母には何の話だかよくわからないようで、ずっとほうけた顔をしていた。
しかし期待感があるのか、今日はいつもよりもかなり早く食事を終えていた。
オレたちが三人そろって指定席に行くと、きれいどころたちに大歓迎された。
早速飲み物を注文してから、「彩夏、話しがある」と言うと、何を勘違いしたのか、「はい、末永くよろしくお願いします」と言って静々と頭を下げながら、目を潤ませていた。
「逆だよ。
頼みに来たのは俺たちの方だ」
「ああん、だから…」と言って、彩夏は妙なダンスをするように、もじもじとし始めた。
オレたちが彩夏に結婚を申し込みにきたとでも思ったようだ。
当然優華も勘違いしている。
さらには千代は今にも泣きそうな顔だ。
「おまえ、本当はあんま賢くないようだな…」と俺があきれ返って言うと、「…勉強はできないけどぉー?」と彩夏は言って少しふてくされた。
「みんなのいる前で、しかも親を連れて、
結婚してくれなんていうやつがいると思うか?」
俺が言うと三人は一旦ほうけたが、『それはその通りっ!!』とでも思ったようで、彩夏以外は喜んでいた。
「…頼み、聞いてやんない…」と言って彩夏は珍しく拗ねた。
「ふーん… デートの約束…」「あら? なにかしらぁーっ!!」と言って、彩夏はすぐに手のひらを返して、満面の笑みになった。
「…デートって何よ…」と今度は千代がふてくされた顔で俺をにらんだ。
「彩夏の新たな決意の門出を祝ってのデートだよ。
千代も就職祝いのデートをしてやる」
あまり言いたくはなかったが、話しが先に進まないので妥協した。
すると、優華がかなりのふくれっつらを見せた。
「優華の場合は、今だったら恋人じゃなく兄妹だぞ?
それでいいんだったら一番にデートしてやる」
優華のふつれっつらは治ったが、かなり考え込み始めた。
俺はほっと一息ついて、彩夏に顔を向けた。
「女優志望の会計士、いらないか?」と俺が言うと、「かなり面白い人ね…」と言ったので、テレビを見ていた母に指を差した。
「うっそぉーん…」と彩夏と千代が同時に言った。
「マジメに就職するようだが、本人はまだこの事実を知らない。
テレビっ子だからな、今は許してやって欲しい」
俺が言うと、ふたりはくすくすと笑い始めた。
「付き人と会計士で。
お母さんと一緒に働けるなんて最高だわっ!!」
彩夏は本心から喜んでいると感じた。
「わかっていると思うが、お嬢様だからな。
少々面倒なこともあるので、
マネージャーさんともよく話しをしておいて欲しいんだ。
かなり面白い母だから、
きっと、楽しいチームになると思うぞ」
俺が言うと、早速彩夏はテレビを見ている母の邪魔をして、「一緒に女優、しましょうっ!」と言った。
母はかなりほうけて、「…あ、もう女優になっちゃった?」とかなりとぼけたことを言い始めた。
彩夏は親切丁寧に説明して、全てを理解したようだ。
「お母さんって若いけど、いくつよ」と千代が聞いてきたので、「41だ」と答えると、千代は目が点になっていた。
「おまえは12才だもんな、若いよな!」と俺が言うと、千代にイヤというほどにらまれた。
「あああああああ」と優華が狂ったような言葉を発して頭を抱え込んだ。
「コンピューターが暴走したっ!!」と俺は言ってから優華の頭をなでてやった。
「母さんに客商売は無理なんだよ。
それにかなり恐ろしいことになるからやらせたくないし。
なにしろ、お嬢様だからな。
まずはできることをやらせてやりたいんだ」
俺が言うと、優華は何とか理解して小さくうなづいた。
どうやら将来の母を彩夏に取られたとでも思ったようだ。
彩夏は早速マネージャーを呼んで、三者会議が始まった。
会計は彩夏の店とは別口で頼んでいたので、それを断ればいいだけのようだ。
まずは付き人なので、彩夏の身の回りの世話をする必要がある。
会計士の仕事としては月割りにするとそれほど多くはもらえないが、付き人の給料を合わせると、月10万ほどはもらえるようだ。
「…ああ、久しぶりにお給料をもらえるのね…」と言って、母は喜んでいた。
学生時代にアルバイトとして祖父の会社で働いていたそうだ。
だが、高校在学中に父と見合いをして結婚。
そして、すぐに妊娠して俺を出産。
一年休学して、19の年に高校を卒業している。
勉強に関しては、子供のころから英才教育受けているので、経営者としての知識は持っている。
彩夏は明日は仕事があるようで、今度はその打ち合わせを始めた。
彩夏は基本、夜遅くなる仕事は受けない。
普通ならばこういったわがままな女優は干されるものだが、彩夏の場合は大物扱いなのでそれはない。
「…ああ、夕ご飯の時間…」と言って母は父を見た。
「ここに来て、好きなものを食べるから構わんぞ」と父が笑みを浮かべて言うと、母は子供のような顔をして微笑んだ。
「…うう、さらに若くなった…」と千代が言った。
「お嬢様だからな。
おばあさんになるまであのままのような気がする。
優華に少し似ているところがあるだろ?」
俺が言うと、優華はよくわからないようだが、「うん、なんとなくだけど雰囲気が…」と千代は認めた。
「彩夏も本格的な女優の仕事はこれから取るわけだから、
丁度よかったのかもしれないな」
「あ、だけど、どうして女優?」と千代が聞いてきたので説明した。
「あー、本当にお嬢様なんだぁー…」と千代はさらに母の本質を理解できたようだ。
俺は少々確認したいことがあったので、かけたくないところに電話をかけた。
コール一発で出て、『拓生っ!!』といきなり怒鳴られた。
「爺ちゃん、久しぶり」と俺が言うと、『あ、いや、まあ、悪かった…』と謝ってきたが、俺はさっさと用件を話した。
祖父の話しを聞き終えて、「ふーん、もめてるんだ…」と俺は答えて、―― これはチャンスッ!! ―― と思い、まだ決めないでおいて欲しいと言ってから、母が働く件を話した。
『まあな…
わからんでもないんだ。
昔からアイドルや女優にあこがれていたからな。
まだテレビっ子だろ…』
祖父の言葉に俺は一瞬だけ笑った。
「母の仕事の話しをしてたのに、上の空でテレビを見てた」
俺が言うと、祖父はかなり面白かったようで、大声で笑った。
「もし母が使えるのなら、かなり安価でいいものができると思うよ」
『使えたらの話だが、おまえなら使えるようにするんじゃないのか?』
祖父は様々な含みをもって俺に聞いてきた。
「ここには大物女優がいるからね。
そうなるかもしれないな」
『まさかだったぞ…』と祖父は少々の凄みを入れて俺に言った。
祖父は彩夏を俺の社に引き入れた件を言っている。
「何事もタイミングだよ。
本格的な女優になる前にひと仕事ってところだね。
…今の生活を変えないと何も変わらない。
母さんを放っておいたら、
若年性痴呆症にでもなるんじゃないかって思ってたから」
『…そうか、ありがとう…
連絡、待ってるぞ』
「あ、俺は窓口じゃないからね。
俺は爺さんの孫で、人を紹介しただけだ」
『わかっているっ!!』と祖父は大声で言って電話を切った。
俺が携帯をしまいこんでみんなを見ると、みんなも俺を見ていた。
「親族に仕事の斡旋だよ。
もしすぐにでも母さんが使えるのなら、
爺さんの会社のコマーシャルに出てもらう。
今、少々揉め事が発生している事案があるそうなんだ。
その間に、母さんの演技力を見ておきたいんだ。
指導できるところはして、
問題ないようだったら母さんはテレビデビューだ」
俺が言うと母はかなり緊張したようで、動きがカクカクして、ロボットのようになった。
「あ、その感覚、覚えといて」と俺が言うと、「うーん、わかったのだぁー」と言ってさらにカクカクしてみんなを笑わせた。
俺もついつい笑ってしまったが思い直して、「優華、ぬいぐるみ」と言うと、優華は笑いながら外に出て行った。
「ナチュラル… 俺と同じだぁー…」と言って彩夏は喜んでいる。
優華はまだ笑いながら戻ってきて、子供の客に配っているぬいぐるみを三体持ってきた。
「どんな話でもいいから、ぬいぐるみにさせてみて」と俺が母にぬいぐるみを渡すと、ぬいぐるみの種類によって声色を変えて語り始めた。
俺は瞳を閉じて母の声を聞き入った。
なんだか懐かしい想いがした。
きっと、小さな俺を相手に語りかけていたようだと感じた。
そして、なかなかうまいと思った。
問題は彩夏のような声の抑揚がないことだ。
「彩夏、手本」と一瞬彩夏を見て俺が言うと、すぐに彩夏は別の人形をとって一人芝居を始めた。
やはりうまいと感じる。
彩夏の声に引き込まれそうになる。
きっと母もそれを感じていると俺は思っている。
今のままだと下手の横好き程度だが、使えなくはないと感じた。
「いいな、彩夏。
次、母さん」
俺はずっと目を閉じているので、母がどんな顔をしているのかはわからない。
だかきっと、楽しそうな顔をしているはずだと感じた。
この後は好きな女優のマネなどをさせて、みんなで笑い転げた。
「声使いだけは矯正する必要はありそうだな。
だけど体の動きは感情が乗っているようでいいと思う。
駆け出し女優レベル」
俺の採点は少々厳しかったようで、父まで俺をにらんできた。
「爺さんに差し出すんだから、もう少し立派な女優じゃないとな」
「はい、先生っ!!」とは母は陽気に俺に言った。
「じゃ最後に…
何でもいいから得意なこと」
俺が言うと、母は歌を歌い始めた。
俺の知らない歌で、最近のアイドルのもののようだ。
母の場合は語るよりも歌った方がいいんじゃないのかと感じた。
歌うようにセリフを語る。
抑揚にもつながるので、いいことかもしれないと感じた。
「もうひとつ。
何でもいいので歌うように語る」
「先生っ! 難しいですっ!!」と母にかなり困った顔で言われた。
「じゃ、彩夏、手本」と俺が言うと、彩夏は最近ヒットしているドラマのワンシーンを歌うように語った。
やはりうまいと俺は感心した。
母は彩夏の声を盗もうと必死の形相だ。
「母さん、その前に地声で話してくれないか?
普段から意識してトーンを上げてるだろ?」
「ばれちゃったっ!!」と言ってから母は、「低い声、イヤなんだもぉーん…」と母が響きのあるすばらしい声で言った。
「あー、そのせいだったんだな。
今の声、俺はいいと思った」
俺が言うと、彩夏もマネージャーも認めた。
「どんな要求がきても答えられるような気がしたな。
中堅女優手前といったところか」
今回はみんなの同意を得た。
母は実はなかなか器用だったんだと思って、俺はうれしくなった。
問題は緊張だ。
こればかりはどうしようもない。
「母さんは緊張を解きほぐしたい時はどうするんだ?」
俺が聞くと、「緊張することってなかったような…」と母の本来の声で答えた。
俺の耳にはこの声の方が演技をしているように聞こえるが、まさに女優の声のような気がした。
「さっきはロボットのようになったけど、今はもう緊張していない」
俺が言うと、母はうなづいた。
「じゃ、もし緊張したら、
今やったことを思い出してとにかく止まらない方がいいな。
そうすれば緊張感がすぐにほぐれるのかもしれない」
「まさかだけど、今から行くとか…」と母は言って、またロボットのような動きを始めたので、みんなで大声で笑った。
母はみんなを見ながら笑みを浮かべている。
「あっ! 母さん、今喜んでるだろ、笑われたから」
「えっ?! あ、そういえばそうかも…」
母の緊張は完全に解けていると感じた。
「笑われると緊張がほぐれる。
これが母さんがリラックスするための方法…
もう、何も怖くないね」
俺が言うと、母はうれしそうな顔をした。
俺と父が母に付き添って、久しぶりに祖父の家に行った。
相変わらすの和風の大邸宅で、城にしか見えない。
巨大な玄関で待っていた祖父は、オレたちを大歓迎してくれた。
俺たちは祖父にさらに巨大な居間に誘われた。
「コマーシャルの仕事だけど、台本ってある?」
俺が聞くと、もうすでに準備していたようで、俺に渡してきた。
俺はすぐに母に渡して、「よく読んで演じてみて」と言った。
「うん、わかったわ、先生」と母が言うと、祖父は驚いた顔を母に向けた。
「声、別人じゃないか。
よく響いている」
「だろ?
ほんの短時間でここまでわかったから。
もう、まったくの素人っていうわけじゃないよ」
「わかったって、おまえ…」
祖父は驚いた顔を俺に向けた。
それほど長いセリフではなさそうで、母は台本片手に演技を始めた。
動きなども台本に書かれているので、気にしながら演じている。
撮影監督がどう思うのかはわからないが、祖父は満足そうにして見ている。
「いいだろう。
皐月、わが社のコマーシャルに出てくれ」
「いいの? 私なんかで…」と、母は少し困惑顔で言った。
「わしが気に入ったからいいんだ」と祖父は笑顔で言った。
この巨大な家には祖父しか住んでいない。
祖母は数年前に他界している。
どうやらひとりもいいようで、若い連れ合いなどはいないようだ。
祖父はお堅い性格なので、もしいい人がいたら結婚するだろうと思っている。
だがオレには気になる人がいた。
祖父の身の回りの世話をしているひとりの、秋山和子だ。
危険という意味とは違う別のピリピリした感覚がある。
何かの野望を持っているのかはよくわからない。
もっとも、話しをしたことがないので、俺の勘でしかない。
「秋山さんだけど」「辞めたぞ」と祖父は俺の問いにすぐに答えた。
「おまえ、気にしていたようだからな、
ひざをつき合わせた瞬間に頭を下げられて辞めていった。
何もかも見通されたとでも思ったんだろうな」
祖父の言葉を聞いていて、何かが違うと感じた。
「疑われたことが悲しかった…」と俺が言うと、「ふん、まさか…」と祖父は答えたが、一抹の不安も過ぎったようだ。
「だけどね、何かを持っていたことは事実だと思うんだ。
その逆の感情もあった。
敵なのに好きになってしまった、とか…」
俺が言うと、「ああ、なるほどな…」と言って祖父は見えていなかったものが見えたように思ったようで納得したようだ。
「和解して精査して、
うまく行きそうだったら結婚を考えてもいいと俺は思う。
だけど、みんな、かなりうるさく言うと思う。
それに、秋山さんだってわかっているはずだから
結婚だけは認めないかもしれない。
相続のトラブルには巻き込まれたくはないと思うから。
もっとも、じいちゃんが死んだら姿を消すかも。
そういった争いがイヤだから」
俺が語っている間、祖父は眼を閉じていた。
しかし、ゆっくりと目を開いて俺を見た。
「何とかして呼び戻そう。
だが、誰かに何かを言われていたのか…」
俺は笑顔でうなづいた。
「それは大いにあるよ。
見破られている、とか耳に入れておけば、
即そういった態度に出るだろう、とか…
考えられるのは、伯父さんたちの誰か。
俺のいとこたちは、そこまで見抜く力量はないだろうね、
翔君以外は」
「翔にも話しをしてみる」
祖父は笑みを俺に向けて言った。
祖父が今頼れる唯一だろうと俺は思っている。
「そうだね、きっと俺と同じことを言うと思うから」
祖父は笑顔でうなづいている。
父と母は妙にうれしそうな顔をしてオレたちを見ていた。
… … … … …
明日は土曜なので、誰かとデートをしようと思っている。
あまり待たせると、催促されて忙しいことになってしまうような気がしているからだ。
彩夏は仕事の予定が入っていることはわかっている。
彩夏の隣に母がいて、その隣に千代がいる。
今のところ警察での千代の出番はないようで、ほぼ定時に帰ってきている。
「千代は明日非番か?」と俺が聞くと、その声と同時に俺を素早く見てきた。
そして、妙に照れた顔をしてうつむいてからうなづいた。
「じゃ、決まりな」「何が決まったんだぁー…」と彩夏がこれ以上ない迫力ですごんできた。
「内緒…」「デートだろうがぁー…」
「わかってるなら聞くな」「俺のいないうちに…」
「俺だって色々と考えたいことがある。
それを邪魔されないために先手を打つだけだ」
俺が言うと、千代も彩夏も、そして俺の隣にいる優華も申し訳なさそうな顔をして俺を見た。
「優華の洗脳の書の見直し、まだ序の口なんだよ。
読み落としたところがあるかもしれないからな。
できれば再確認しておきたんだよ」
俺の言葉が正論だったようで、誰も何も言わなかった。
俺が言ったのはもちろん事件の記述についてのことだ。
俺が小学五年から中学一年まではこれといって事件は起きなかった。
思春期に向かう同級生たちの、恋愛感情に振り回された思い出があるだけだ。
彩夏は知り合いのお目当ての素行調査などを俺に依頼してきた。
そして自分は菓子造り。
はなはだ迷惑な話だが、その中で一件だけ事件に巻き込まれた。
「じゃ、千代。
明日はよろしくな」
俺は極力爽やかに言った。
その方が雰囲気が出るだろうと思ったからだ。
『バキッ!! カン…』ととんでもない音がした。
彩夏がまたリモコンを床に投げつけたからだ。
だが、多機能リモコンを優華に渡しているので、何も問題はない。
「チャンネル権は優華だけの特権な」と俺が言ってから優華を見ると、こちらもホホが膨らんでいた。
「妹脱却…」「わかってるよ?」と優華は少し怒った顔をして言った。
すると俺の視界に、とんでもない人が映った。
「もう、帰ってきたのか…」
俺がぼう然とした顔を扉の外に向けると、爽太郎改め爽花が笑顔で俺たちを見ていた。
だが俺は愕然としたのだ。
まさかと思ったが、爽花はまるで社長令嬢のように鼻にかけた美人の笑みになっていたのだ。
この瞬間俺は、―― しまったっ!! ―― と思い、猛烈に後悔した。
これは俺の心に油断があったせいだ。
俺は小さなマリア像を出した。
『大丈夫…』と言ってくれた気がして、マリア像の笑みを見て少し安心した。
俺は構えず、だが、憮然とした表情をして爽花を見据えた。
爽花は素早く俺の感情に気づいたが、まだ表情は変えない。
爽花の異変に気づいたのは俺だけではない。
優華も彩夏も千代も気づいていて、俺に困惑の眼を向けてきた。
だが彩夏ひとりだけが表情を嫌な笑みに変えた。
爽花は部屋の扉を開け、「どういうことかしら?」と言って俺たちを見回した。
「歓迎してくれているのは彩夏だけ」と爽花が言った。
「爽花、悪かったな。
俺が油断したせいでとんでもないことになってしまった」
俺は心底悔しく思って、爽花に頭を下げた。
「必要ねえことは言わなくていいんだよっ!!」
彩夏が俺に少しだけ敵意を見せて言った。
彩夏の最大のライバルは爽花だ。
だがその爽花が脱落したことで、安心したはずだ。
彩夏の笑みはそういった意味の笑みだった。
「ふん、おかしな人たちね」
もう完全に爽太郎は消え、爽花でしかなくなっていた。
「まあいい、座れよ」
俺が言うと、爽花は空いている俺の左隣に座って俺を見た。
「爽太郎をなぜ捨てた?」
俺の言葉は優華と千代にショックを与えたようだ。
二人は納得したようで、深くうなだれた。
「別に。意識してないわよ」
「意識しなくなったからいなくなったと思わないのか?」
「もういいじゃない…
私、生まれ変わったんだからぁー…」
爽花は少し甘える声で俺に言ってきた。
「虫唾が走る」
俺の言葉は爽花に正確に伝わったようで、一瞬驚き、そして美しい顔が鬼の顔に豹変した。
「拓生のために、女になってきたんじゃないっ!!
それを今更、どういうことよっ!!」
今の爽花は、その辺りにいるケバイ娼婦となんら変わりなかった。
その兆候はその胸にある。
顔に似合わず、少々豊満だ。
これは俺や爽太郎の好みではなく、爽花の好みだ。
「おまえ、全然美しくない。
ただの嫌な女だ」
「ふんっ!!」と言って爽花はそっぽを向いた。
「どうせおまえのことだから、
マリア像、病院にでも寄付してきたんだろ?
理由は重いから」
「そうよ、悪かったわね…」
爽花の言葉は優華に衝撃を与えて、声を上げずに泣き出して、俺の右腕をしっかりと握り締めた。
「キーホルダーの方は欲しそうにしていた、
病院にいた子供にでもやった」
「さすがだわ。
見てきたように言うのね。
もう私、マリアを超えたから必要ないの」
爽花が言うと彩夏が、「ふんっ!」と鼻で笑った。
爽花は鋭い視線を彩夏に向けただけだ。
俺は爽花に俺の小さなマリア像を見せた。
「もう、何も感じないようだな」「超えたって言ったじゃない」
爽花は自信を持って言ったのだが、ほんの少し戸惑いの顔を見せた。
今、自分自身の全てを否定され、誰かに助けを求めたい気持ちがほんの少し沸いたのだろうと俺は察した。
―― 元に戻る余地はあるっ!! ―― と俺は自分自身に自信を持った。
「実はな、このマリア像、
まだ調査不足だったって今思いだしたんだよ」
俺の言葉は意表をついたようで、爽花以外は一斉にマリア像を出して手にした。
みんなはそれぞれの今まで通りの反応を俺に見せてくれた。
「このマリア像を渡したのは、俺に近い人ばかりだ。
俺が渡してもいいだろう、渡したい、と思った人が持っている。
俺は神父ではないが、何か心にわだかまりを持っている人に
やさしくなってもらおうという想いがあって渡したはずだ。
きっとその気持ちにも反応して、
みんなが今しているような顔に変えているんだと思うんだよ」
俺が言うと、「ああ…」と言いながら、爽花は俺の小さなマリア像にゆっくりと手を伸ばしている。
「だからな、俺に想いのない人は持っていないんだ。
きっと、そういう人に渡しても、
マリア様は何も言ってくれないし、微笑んでもくれないと思う」
「ウソ… ウソよ…」
爽花は言って、俺の小さなマリア像を手に取った。
「違う、違うの、マリア様…」と言って、爽花は表情を幼い頃の爽太郎にした。
「爽花、思い出せ。
爽太郎が始めて会ったマリア様の衝撃。
爽太郎がマリア様を失った時の悲しみ。
爽太郎がまたマリア様に出会えた時の喜びをっ!!
「あああああんっ!! あああああああんっ!!
ごぉめんなさぁ―――いっ!!」
爽花は大声でわんわんと泣き出し始めた。
俺は心底疲れたと思い、椅子に深く座り込み、上着のポケットからマリア像を取り出してやさしく握り締めた。
『よくやった』とマリア様が言ってくれたような気がした。
「神父様…」と母が俺を拝んでいたことを照れくさく思った。
すると、外の様子がおかしいと感じた。
来店客が立ち上がって拍手をしてくれているのだ。
「…どういうことだ?」と俺はぼう然として言った。
「サイレント演劇観覧?」と優華が言って、薄笑みを浮かべた。
「あー、かなり疲れたからな。
力込めすぎて熱が出そうだ…」
「演技、一番うまいじゃないっ!!」「演技じゃあねえっ!!」
俺は彩夏の言葉にすぐに反応した。
「演技じゃないから…
だから爽花ちゃんは元に戻れた」
彩夏は言って、爽花に寄り添って抱きしめた。
爽花は以前の爽太郎の顔のまま、彩夏を抱きしめた。
「本当にうれしかったのに…」「残念でした…」と彩夏と爽花は柔らかい言葉で言いあった。
優華は俺の腕を放さずに、俺に笑みを浮かべて見上げている。
「…妹… それに、胸がねえ…」と俺が言うと、優華は今までにないほどのふくれっつらを見せた。
「爽花は十分気をつけろよ。
暗い道は歩かないように。
今日にでも誰かに襲われそうだからな」
俺が言うと、爽花は申し分けなさそうな顔を俺に向けて、そして恥ずかしそうな顔をして両腕で胸を隠した。
「…今なら、抜けるから…」と爽花はさらに恥ずかしそうな顔をして言った。
「今の爽花が思うようにしていいぞ。
きっとそれが俺の好みだと思う」
「うん、ありがとうぉー…」と言って、爽花はやっと最高に美しい笑みを俺に向けてくれた。
「爽花、結婚してくれ」
俺は意識を断たれた。
… … … … …
「うっ! 痛ってえぇー…」
俺は痛む腹を押さえた。
さらには後頭部に鈍い痛みを感じた。
どうやら椅子から転げ落ちて頭を打ったようだ。
腹の激痛に近い痛みは、千代のせいだろうと感じた。
「あはは、起きた起きたっ!」と優華が言って笑った。
辺りを見回すと、どうやら病室のようだ。
「千代のやつ、訴えてやるっ!!」
俺が怒鳴ると腹に響いたので、大声は出さないことにした。
「いや、正当防衛適応だっ!!」と彩夏が妙に胸を張って言った。
彩夏の胸は、顔と体形に似合ったイメージ通りのシルエットだと感じる。
「…何の正当防衛だよ…」と俺は腹をさすりながら言った。
「拓を失わないために防衛しただけだぁー…」と、彩夏はまさに正論を言った。
もちろん千代を訴える気などさらさらない。
そして、―― やっと堂々と言えたっ!! ―― と思い、俺は心底喜んだ。
「俺のケジメでもあったんだ。
ずっと言えなかったことをやっと言えた。
もちろん本気で言ったが、俺はまだ答えを聞いていない。
爽花の返答次第で全てが決まるかもな」
俺が言うと、病室には誰もいなくなった。
母もいたのだが、なぜかみんなについて行った。
どうやら爽花と千代は、外にいるようだ。
ベッドを降りようと思ったが、足を動かせない。
無理に動かすと、腹に激痛が走る。
―― 山田さんの気持ちがよくわかった… ―― と、俺は少し微笑んだ。
その山田はどこにいるのだろうとふと思った。
きっと爽花と行動をともにしていたはずだと思っていた。
すると、見知らぬ男性が入って来た。
スーツ姿で俺に笑みを向けているように感じる。
顔には包帯を巻かれているので、まるでミイラ男だ。
「あー、山田さん、ようやく会えましたね」
俺が言うと、目の前にいるミイラ男は小さくうなづいた。
「あの時答えられなかった件、今お答えします。
どうか、友達になってください」
俺の言葉は衝撃を与えたようで山田は、「うっ うっ」と小さくうなって泣き出し始めた。
「山田さんと同じ目にあいました。
プロポーズしただけなんですけど…
ああ、小さい女じゃないですよ。
元は男性で、今は女性になった山梨爽花という名の幼なじみです」
俺が言うと、もうすでに全てを知っているようで、山田は何度もうなづいている。
「逃げやがった…」と彩夏が言って悔しがりながら病室に入って来た。
「肝心の千代は?」と俺が言うと、彩夏のうしろにいてその姿が見え隠れしている。
「俺の想いを遂げたかっただけだ。
察しろぉー…」
俺の言葉には逆らえないようで、彩夏はうなだれてしまった。
優華と母も病室に入って来た。
「足、動かせねえから歩けねえ。
今夜はここに泊まりだな」
俺が言うと、千代は彩夏の影から顔だけをのぞかせて申し訳なさそうな顔をしていた。
「もし明日も動けなかったら、デートはキャンセルな。
当然だけど…」
「えっ?」と千代は言って驚いた顔をした。
「まだ返事を聞いていない。
それにデートと言っても恋人同士じゃなく、友達としてだ。
彩夏も優華もだぞ。
絶対、勘違いしていたはずだ」
「そんなっ!!」と彩夏は言って、『それはその通り…』などとも感じたようだ。
「大勢で遊びに行っても楽しいけど?」
俺が言うと、千代は首を横に振った。
「千代が拒否したので、ふたりっきりでデートだ」
俺が言うと、千代は子供のような笑みを俺に向けた。
「腹殴られてなかったら、陸上競技場で走るデート、
とか考えていたんだけどな…」
「そんなの勝負じゃない…
デートじゃないわよ…」
俺の目論みは千代に簡単に拒絶された。
「町に出て、引ったくり警戒…
あわよくば検挙」
「役に立ちそうだけどイヤよぉー…」
「目玉看板の公園100周…」「も一回寝る?」と千代は苦笑いを浮かべて、拳を硬く握った。
「今度は腹に風穴が開くだろうからやめて」と俺が言うと、みんなに大声で笑われた。
… … … … …
翌朝は、いい睡眠が取れたのかすっきりした目覚めだった。
腹も痛くないし、脚も普通に動かせる。
一時的な痙攣のようなものだったのかもしれない。
後頭部の痛みもないが、触れるとこぶができているようで、小さな鈍痛が来る程度だ。
だが切れていたのか、頭には包帯が巻かれている。
ドアが開き、母が病室に入って来た。
「もう普通に動けるよ」
俺が言うと、「よかったぁー」と母は言って、「先生、呼んでくるわっ!!」と言って外に出て行った。
診察をしてもらったが、どこにも異常がないようだ。
しかし、医師は首をひねっていた。
「あと一日は寝たきりだと思っていたんですが、
素晴らしい回復力ですね」
医師が言うと、「あ、はい、ありがとうございます」とだけ俺は言った。
俺はすぐに退院することになり、母が手続きに行った。
父はどうしているのだろうかと思い、身支度をして病室の外に出ると廊下のベンチに座っていた。
「犬塚君に泣かれて困ってしまったよ。
恩を仇で返してしまったと言われてね」
「俺もいけなかったんだ。
あの場所では我慢するべきだった。
だけど、長年の想いが叶った。
もし振られたとしても本望なんだ」
「振られるわけがない。
だが…」
父は言って意味ありげな笑みを浮かべた。
「…ああ、なるほど…」と俺は言って笑みを浮かべた。
きっと爽花なら、ふたつ考えているはずだと俺は思った。
「今日は千代と二人で遊んでくるよ」
俺が言うと父は、「ああ、行って来い」と言って、俺を笑顔で送り出してくれた。
母にも千代と遊んでくることを告げ、外に出てから千代に電話をした。
するとどこにいたのか、病院から出てきた。
―― 今日は笑ってはいけない ―― と強く念じて、千代の上から下までをじっくりと観察した。
「…笑ったら、また殴っちゃう…」と千代は恥ずかしそうに言った。
千代はまさに見た目の年相応の服装をしていて、演劇の舞台衣装のようにも感じた。
長い髪はいつもは垂らしているのだが、今日はツインテールにしているので、まさしく十二才の少女だ。
服はノースリーブの淡いブルーのワンピースで、薄いオレンジ色のサマーセーターを羽織っている。
クリーム色の小さな靴が妙にかわいらしく思えた。
ヒールがほとんどないものなので、身長はいつもと変わりない。
斜めにかけたポシェットのペルトが、そこそこある千代の胸を強調していた。
「ふーん、意外とボインちゃんだったんだ」と俺が言うと、「いやらし…」などと言いながらも少し喜んでいると感じた。
「ヒールは履かないんだ」
「足疲れちゃうし、すぐに靴ずれしちゃうから」
「腕とかには何もつけないの?」
「うん、邪魔だし。
携帯で時間見ればいいし…
「よく似合っていると思う」「あ、うん… ありがと…」
千代はかなり照れた笑みを浮かべてから、オレからゆっくりと視線をそらした。
「病院のどこにいたの?」「あ、待合室に…」と言って、さらにはずかしそうな顔をした。
「全然わからなかったよ。
じゃ、行こうか」
俺が言うと、千代は小さくうなづいて、俺の右隣に立った。
「デートらしく手でもつなぐ?」
俺が右手を出すと、一旦は首を振って拒んだが、なぜだか気合を込めて、俺の右手を握ってきた。
―― うっ! 硬いっ!! ――
これは言ってはいけないと思って、かなり我慢した。
空手は護身だけのものではないと感じた。
この手で殴られてまともな者はいないと感じた。
拳が小さいので、内臓を避けて殴ることは可能なはずだ。
まさに千代は、俺にも山田にも同じ事をしたはずだ。
「さぁーて、どこに行こうかなぁー…」と俺は妙に緊張している千代の顔を見た。
「千代って今の趣味とかは?」
俺はあえてこの言葉を使った。
昔の趣味は知っているぞという意味でだ。
「知っての通り読書だけどね、今はあまり読めないなぁー…
それに今は、覚えることとかプロファイルに忙しいからね。
好きなことって何もできないなぁー…」
「読書って、やっぱり、推理小説?」
「うん、それもあるんだけどぉー…
私の趣味、覚えてなかったでしょ?」
―― やられたな… ―― と思って俺は白状した。
「私は恋愛ものしか読まないわ。
でもね、忘れていて当然だもん…
私だって、松崎…」
ここまで言って千代は言葉を止めた。
さすがに、苗字で呼ぶのも変だとでも思ったようだ。
「た、拓生… 君の、趣味も覚えてないし…」
俺は笑顔で千代を見た。
「俺が質問した通り、推理小説を読むこと。
あとは冒険小説だったな。
プラモデルとか、男の子っぽいこともやったけど、
基本、誰かと外で遊んでいたからね。
趣味らしい趣味はないなぁー…」
「そっかー…」と言って、千代はうれしそうな顔をした。
「今日の服装からイメージした。
水族館とかどうだ?
デートスポットとしては一番人気らしいぞ」
俺が言うと、千代は少し飛び跳ねるようにして喜んだ。
―― い、妹… ―― と、俺は絶対に言ってはいけない言葉を思い浮かべてしまった。
何とか堪えて、「地下鉄で行こうか」と言って千代を見た。
千代はやっと慣れたようで、俺に自然な笑みを向けている。
だが、こういった楽しい時間をぶち壊すやつは必ず現れるものだ。
「50メートルほど前にいる、少々ヤバそうなやつ。
不自然だろ?」
そこには、地下鉄の乗り場の地下に下りる階段があるのだが、そこではなく、向かいのビルの角で立って新聞を読んでいるサングラスをかけた男がいる。
今日は少しばかり曇っているので、サングラスをかけると暗いのではないかと感じた。
さらには、通行人の邪魔になると思った。
読むのならば、地下に降りる階段脇の壁にもたれて読むことが普通のはずだ。
女性が角から現れ、少し表情を曇らせて左下に顔を向け、すぐに前に向いて、地下鉄の駅に続く階段を降りて行った。
「あの角を曲がったところにももうひとりいて、
男の影からこっちの様子をうかがっている」
千代が言うと、俺はうなづいた。
「無視してもいいんだけどな。
どうする?」
「なんだか後が面倒になりそうだから、
今、知っておいた方がいいと思う…」
千代はため息混じりに言った。
俺の意見も千代と同じなので、男に危害を加えない方法を取ることにした。
都合よく飛行船が飛んできた。
俺が指を差すと千代は喜んで空を見上げた。
俺は視界の端で男の姿を捕らえていた。
その男の頭が一瞬上に向き動いた。
「間違いないな。
俺に釣られた」
「さすが、やるわね…」と千代は悔しそうに言った。
「じゃ、飛行船鑑賞を」と言って俺は立ち止まった。
俺たちは芝生の植え込みの手前にある縁石に沿って並んで空を見上げた。
「俺が足を叩いたら、ものを拾う振りをしてかがんでくれ」
「もう… 背が伸びなくなっちゃうじゃない…」と言って千代はクレームをつけた。
俺は男の姿を視界の端で捕らえたまま、ある一瞬を狙っている。
それは、男が新聞をめくる瞬間だ。
もし尾行に長けている者であれば、それ相応の自然な動きをするはずだ。
じっとしていては怪しまれる可能性があるからだ。
その瞬間が来たと同時に、俺は脚を叩いて地面を見た。
千代はすぐにかがんだ。
その途端、俺は千代をまたいで全速力で男に迫った。
千代をブラインドにしておけば、いきなり向かってくることはないと、尾行者に思わせることができるからだ。
男が気づいた時、俺は男の目の前にいた。
「ひっ!」と声を上げた。
角を曲がったところにスーツを着た若い男が放ったのだ。
若い男は驚いた顔をしていたが、少し口角を上げたのだが、いきなりマジメ腐った顔になって、濃い茶色のスーツのすそを翻して走り去った。
立っている男はまったく動じていないようで、新聞を読んでいるように見える。
一陣の風が吹き、男が着ている濃い紺色のスーツのすそを捲り上げた。
男の左目の下から耳にかけて、刃物傷がある。
さらに、左手の甲にもうっすらと刃物傷が確認できた。
男の左右の目じりにカラスの足跡を確認した。
頭髪は短髪で、七割が白髪だ。
年齢的に言うと、まもなく60といったところだろう。
見るからにそれなりの筋の者だと誰もが思うことだろう。
千代は俺たちの様子をうかがいながらゆっくりと歩いてきて、―― やれやれ… ―― といった顔色に変わった。
「石坂さんはなぜ俺たちをつけているのでしょうか?」
俺が言うと、サングラスが俺の顔に近づいた。
きっとその奥の目はさぞや驚いていることだろう。
「何よ、知ってたの?」と千代が俺に聞いてきた。
「いいや、今知った。
逃げた男のスーツにはネームが入っていなかった。
だけど石坂さんのスーツにはネームが入っている。
千代が知っているということは警察関係者。
スーツにネームが入っている石坂さんは
外回りの仕事はほとんどしないはず。
さらに言えば、石坂さんは笑い上戸。
今の石坂さんは作っているはず。
どこかの署の丸暴の課長」
俺が言うと千代は苦笑いを浮かべた。
どうやら俺のプロファイリングは正解だったようだ。
だが石坂は表情を変えていない。
「おまえも警察に入れ」「お断りします」
即答したことが気に言ったようで、石坂はサングラスを外して胸ポケットに入れた。
その素顔は、愛嬌のあるどんぐり眼を中心にして笑みを浮かべていた。
「部下たちがあまりにも君の自慢するもんでな。
ひと泡吹かせてやろうと思ったら、簡単に見破られたっ!!」
石坂はさも愉快そうに大声で笑い始めた。
やはりカラスの足跡は間違いなく、石坂は笑い上戸だと証明していて、深いシワが一気に刻まれた。
「その話は聞いています。
ですが、もうこれで終わりにしてもらいたいところですね…」
俺が言うと、「そうか… 俺以外にも…」と言って石坂は声を殺して笑い始めた。
「上の課長連中には話しておく。
特に一課は教え子が多いからな。
この先、多分、もう出ないだろう。
それにSPを簡単に踏みにじり、
弱ええと言った言葉にも納得した。
まさに瞬間移動だった。
恐ろしいほど足が速い。
その強靭な足で蹴られたらひとたまりもない。
五月にも自慢げに言われていたからな。
それも知りたかったんだよ」
俺はうなづいて笑みを浮かべた。
「五月さんのお師匠様で?」と俺が言うと、石坂は小さくうなづいた。
「山田がどうなったか知りたい」とここで不意に石坂は本題に入って来た。
即答するべきだと思ったが、石坂もさすが百戦錬磨だと感じた。
「山田さんの先生でもいらっしゃる」「そうだ」と石坂は短く答えた。
「実は昨日、山田さんの幽霊にあったのです。
顔はよくわからなかったんですけど、
ひと月ほどお付き合いしましたので、
存在感だけでもよくわかりました。
でも、怖くなどひとつもありませんでしたね」
石坂は少し考え込んだようだが、「ありがとう」と少しため息混じりで答えた。
「やっぱり、警察に入れっ!
今から連れて行くっ!!」
石坂が言った途端、千代はその小さな拳を石坂の腹に当てていた。
「痛いわよ。
覚悟、できた?」
千代は真顔で石坂を見ている。
「本当に恐犬だな。
恐い犬と書く」
石坂は言ってから、懐から紙を出した。
まだ何かあるようだ。
さらに、数枚の写真を出した。
「ここで捜査会議ですか?」
「その通り」と石坂は愛嬌のある笑みを俺に向けた。
石坂は、まずは紙を広げた。
これは地図で、様々な書き込みがしてあった。
「広域暴力団の大邸宅だ。
君の爺さんの家ほどではないがな」
俺については色々と調べ上げられているようだ。
「ここに襲撃をかけようとしている者がいるそうなんだ。
確かに、何があると俺はにらんでいる」
石坂は言ってから、俺に数枚の写真を見せた。
写真には普段ないものが映っている。
水道工事の写真と、電気工事の予告看板だ。
看板には一週間前から一週間後の記述がされている。
業者の都合で、こういった予告はよくあることだ。
地図を見ると、水道工事は二カ所で、電気工事は一カ所だ。
それぞれは南北に分かれている場所にある。
「怪しいだろ?」「ええ、それはもうっ!」と俺は言って少々楽しくなってきた。
「当然、それぞれの業者には問い合わせはしているんですよね?」
「ああ、間違いなく、
水道工事の方は看板書かれている業者が受けたものだ」
「自治体への問い合わせは?」と俺が言ったところで、石坂の顔色が変わった。
そして慌てて携帯電話を手に取ったが俺が止めた。
「と、いうのが犯人側の罠のストーリー、フェイクのね」「なにっ?!」と石坂は大声で叫んだ。
「ああ、なるほどね」と千代は平然として俺が持っている電気工事の予告看板を見て言った。
「水道工事が怪しいと踏んだ警察は、
大挙してマンホールに入っていく。
するとすぐに、電気工事が始まります。
電気工事の工事開始期日はもう過ぎていますが、
工事をしていません。
警察がマンホールに入ったと同時に、
電気工事を装って、
クレーン車のゴンドラから縄梯子などを使って降り、
庭から邸宅に押し入るわけです。
誰にも疑いがかからず、止められることもなく、
あっさりと襲撃を終えられるはずです。
想いを遂げることが目的なので、
逃走は考えていないかなり危険なやつら…」
「わかった、ありがとう!」
石坂は言ってスーツを翻し、本庁に向けて走って行った。
「今度は簡単に捕えてくれることだろう」と俺が言うと、「同士討ちでもいいじゃない…」と千代がぼそりと言った。
俺はそれに答えずに、「さあ、水族館に行こうか」と言うと、千代は満面の笑みを浮かべて、「うんっ!!」と言って、笑顔で俺を見上げて右手を握った。
… … … … …
千代とのデートは何事もなく楽しい時を過ごした。
俺としては一対一のデートは初めてだったので、新鮮な気持ちが沸いて出た。
千代はライバルだが女性として見ていないわけではない。
だがどうしてもその容姿から、恋人ではなく妹の連想しかわかない。
今のところは、千代に恋心がわくことは多分ないだろうと感じた。
その千代はみやげ物をテーブルに広げて喜びの声を上げている。
しかし、優華たちはかなり気に入らないようで、千代を恨めしそうな顔をして見ている。
すると、銃刀法違反の罪で大勢の広域暴力団員を検挙したという、テレビの報道があった。
「無事に終ったようね」「ああ、よかった…」
千代と俺の会話が気に入らなかった彩夏は、「何があったんだぁ―――っ!!」と大声で騒ぎ始めた。
俺がデートを初めてすぐのことを彩夏に告げると、「股の間を…」と言って固まって顔を赤らめた。
「何考えてんだ…」と俺はあきれ返って言った。
「ああ、そういえば…」と言って、千代もホホを赤らめた。
「触って…」と千代が言った途端、彩夏と優華が千代をにらみつけた。
「す、水族館、楽しかったぁー…」と千代が言って、ふたりを落ち込ませた。
「どうして協力したんだぁー…」と今度は俺が彩夏に詰め寄られた。
「今の千代を見たいと思ったからだよ。
もし放っておいたら、むりやり現場に連れ去られていたはずだ。
そして千代は、丸暴の課長の腹に風穴を開けていたはずだな」
俺が言うと、千代は何度もなづいていた。
「そして千代は怖い犬、恐犬というあだ名があったことを知った。
屈強な丸暴の課長が言うくらいだからな、
千代はかなり恐れられているな」
俺が言うと、千代はほんの少しだけ俺をにらんできた。
「だが、今まで見たことのない千代に出会えて、俺は満足だ」
俺が本心を言うと、千代はいい笑みを浮かべて、その反面、優華と彩夏は落ち込んだ。
すると、美人度満載の爽花が、俺たちに手を振って店に入って来た。
「さあ、振られることを覚悟しておこうか」
俺の言葉に三人は、―― それはない… ―― とでも思ったようで、深く肩を落としてうなだれた。
爽花が部屋に入ってきたとたん、「あー、いいんだぁー…」と言って、水族館の土産をうらやましそうにして鑑賞を始めた。
「ああ、そうだ、爽花」と俺が言うと、爽花は俺に笑みを向けた。
―― また好きだと言いたい… ―― と猛然たる衝動に見舞われたが、何とか堪えて、「いつもの場所に…」と言うと爽花は、部屋の出入り口の近くにおいてあるローボードのガラス戸を開けて、原寸大のマリア像を取り出して、「ありがとうぉー…」と言って、笑顔で祈りを捧げ始めた。
「爽花ぁー、俺は怒っているんだぁー…」と言って、彩夏は今日の俺たちのデートの愚痴を語り始めた。
「すっごくいいことしたんだからいいじゃない…
ところでぇー…
私のデートっていつかなぁー…
なぁーんて…」
―― ううっ! 美しさの中にもかわいらしさがあるっ!! ――
俺はかなりの胸の高鳴りを感じた。
だが、千代が少々怖いことになりそうなので、平静を取り戻すことにした。
「次は彩夏だ。
できれば来週。
その次の週に、
優華が現状維持だったら爽花とデートしよう」
「くっそぉー…」と彩夏がくやしそうな声を上げたが、顔はうれしそうだ。
優華は少しおどおどとして落ち着きがない。
爽花は胸の前で手を合わせて美人度百点満点で喜んでくれた。
「私って、次はひと月ほどあと?」と千代が眉を下げて言った。
「なんだよ、またデートするのか?」と俺が言うと、千代は恥ずかしそうな顔をしながら、こくんとうなづいた。
「約束はできないな。
俺はさらに勉強をすることに決めたから。
一巡終ったら、その後で決めるよ」
「今以上に何を勉強するんだよっ!!」と言って彩夏が騒ぎ始めた。
「俺一人だけでも、会社運営ができるようにするんだよ」
俺が言うと、四人が固まってしまった。
「あ、起業するつもりはないよ。
俺は世界一の平社員を目指すっ!!」
俺が叫ぶように言うと、爽花だけが拍手をしてくれた。
「理由は出世してしまうと、全然楽しそうじゃないから」
「うーん…」と爽花以外はうなだれて考え込み始めた。
「やっぱ、現場が楽しいんだよ。
出世すると、半分以上が部下の管理、会社の歯車となる。
それは俺にとって仕事じゃないね。
あ、別に人が嫌いということじゃない。
特に開発はかなり面倒そうだから、
俺の可能性を試すにはもってこいなんだよ」
「拓ちゃんだったら大丈夫だと思うの」と爽花が言ってくれたので、俺はさらに自信がついた。
「何か新しい製品を考えてみたら?
とんとん拍子に、先に進めるような気がするの」
「わかった。
となると、どんなものが欲しいか、
インタビューをして決めることが王道…」
「おまえを牛耳られる道具…」と彩夏が妙な雰囲気をかもし出して言った。
「俺は造りたくねえなぁー」と言うと、爽花はくすくすと笑い始めた。
俺たちの平和を乱す、この地域の警察署長が申し訳なさそうな顔をしてやってきた。
すると優華がすぐに立ち上がって五月を部屋に誘った。
優華にとって、空気の入れ替えだと俺は感じた。
「ニュース、見たよな?」「具体的に話してください」
俺はかなり不機嫌そうな顔で言った。
「丸暴に協力したんだろ?」「さあ、なんのことやらさっぱり」
「実はな、け…」「お断りします」
俺が言うと千代が、「はあっ!! はっ! はっ!」と言って、空手の型を始めた。
かなり切れがあると思い、「おお、やっぱすげえなあー…」と言って、俺は本気で絶賛して、千代を見ながら少しだけマネをした。
「帰った方がよろしいようですわ」と爽花が笑顔で言うと、「俺の首…」と言いながら、肩を落として部屋の外に出た。
「もう、これからは断ろうかなぁー…
警察官って、砂糖に群がるアリのように思えてきた」
さすがに今回の俺の言葉は、この場にいる全員に認知された。
( 第七話 激痛のプロポーズ おわり )
( 第八話 赤い糸の伝説と残酷な子供 につづく)