第四話 嵐の前の日常
嵐の前の日常
今はパトカーの中だ。
高速道路を走っているので、どうやら長いドライブになるようだ。
ごく普通の女性とふたりっきりなら、大いにムードが盛り上がる湾岸線のハイウエイを走っている。
都心近くの夜景は絶景だ。
将来、俺の隣にいる女性を助手席に乗せようとしみじみと思った。
千代は車を持っているのだが、考え事をしたいと言って、地元の警察署に事情を話してパトカーを出してもらった。
サイレンは鳴らしているのだが、ほぼ法定速度で走っている。
俺は何かの犯罪で捕まった犯人役のように少し小さくなっていた。
いや、最近の犯人は堂々としているので、それ以下の犯罪者の心境になった。
「松崎さんをお乗せできるとは光栄ですっ!!」と助手席にいる、見覚えのある巡査が言った。
「部外者が本当に申し訳ありません…」
「いえいえっ!!
このまま犬塚さんと組んでもらえば、うちの署は安泰ですよっ!!」
きっと五月が俺たちのことを話しまくっているんだと思って、さらに居心地が悪くなった。
「あの、あなたは確か…」
俺は言ってつたない記憶をたどった。
「はい、爽ちゃんの同級生の芝原です」
「あー、見覚えがあると思っていました」
俺は笑顔を芝原に向けた。
「ごちゃごちゃうるさいっ!!」と犬千代はここで吼えてきた。
「集中してない証拠だ。
習ってないのか?」
俺が言うと千代は、「うー…」とうなっただけだったので、俺の言葉を認めたようだ。
「はー、驚きです、さすがです…」と芝原が心の底から感心しているように言った。
きっとまた、尾ひれがつくんだろうと思ったが、弁解などはしないで俺はあきらめた。
「マリア像…」と俺が言うと千代は、「あっ!」と言って、きれいな小さなハンカチに包んだ小さなマリア像を出して、両手のひらに包み込んでお祈りのようなポーズを取った。
千代の顔も、今はマリア様のようにおだやかだ。
「…私、ウェディングドレスがいい…」
「余計なこと言ってんじゃあねえ…」
俺は本気で怒ったが、千代は俺と話しながらも別のことを考えているようだ。
さすがにこれはマネできないと俺は感じて、千代に向けて笑みを浮かべた。
病院に着くまでに、元捜査一課長の名前だけは千代から聞いた。
話しをする機会があると少々困るからだ。
そして俺はひとつの可能性を考えていた。
そうでないと、二年間もまったく動かないという修験者の修行以上の荒行は確実に無理だと簡単に思い浮かんだからだ。
病室に行くと、扉の両脇に立っている警官二名がオレたちに敬礼してくれた。
俺は少し頭を下げたが、千代はまったく見向きもしないで病室の扉をスライドさせた。
するといきなり、「女は出て行けっ!!」と元捜査一課長の山田国一が大声で叫んだ。
山田と思しきガリガリの老人のような男が、上半身を起こして眼を凝らして俺と千代を見比べるように瞳を動かしている。
ベッドサイドにはメガネを置いてある。
それ以外は何もなかった。
「五月は来いっ!」と言って、眉間にしわを寄せたまま俺に手招きをした。
記憶の混濁でもあるのかと思ったが、目は生きていると感じた。
「うー…」と犬千代は扉を開けた体制のまま、またうなっている。
「あ、先輩。
この小さい女、ここにいさせていいでしょうか?
近くには寄りませんから」
俺が言うと山田は満足そうな笑みを浮かべて、「ああ、それでいい」と穏やかに言った。
山田のとなりには医師二名が計器の観察などをしているようだが、今は俺を見ている。
俺が小さく会釈をすると、ふたりもすぐに返してきた
「君はすごいなっ!!」と言って山田は大声で笑ってから、ほんの少しだけ前のめりになった。
「いえ、それほどでも。
いろんなパターンを想定していましたから」
俺が言うと山田は、「五月と聞いて先輩と答えた…」と言った。
「会話の中で一度だけ出てきたんですよ。
五月さんは山田さんのことを先輩と呼んでいたんだと知りました」
山田は笑顔でうなづいている。
俺が自己紹介すると山田は、「松崎…」と言って苗字に反応した。
「珍しい苗字ではありませんよ」
「いや、人と成りがだな…」
「松崎苦楽に似ている」
俺が言うと、山田は納得の笑みを浮かべた。
俺は山田に名刺を渡した。
山田はめがねをかけてから名刺に目を落とし、「ほおー、超一流の家電メーカー…」と言ってなぜだか俺に頭を下げた。
「判事は目指さなかったんだね」
「堅苦しいお役所仕事は嫌いです」
俺の返答を気に入ってくれたようで、山田は大声で笑った。
「さあ、今日はこれくらいで。
少し元気になると忙しくなりますから」
俺が言うと、「あ、ああ、すまん…」と言って、山田はうなだれるように頭を下げた。
山田は声を荒げただけでかなりの体力を消耗したと俺は感じている。
「申し訳ありませんが最後にひとつだけお聞きしたいことがあります」
俺が言うと、山田は笑顔で小さくうなづいた。
「何人いるのですか?」と俺が聞くと千代が、「はぁー…」と小さくため息をついた声が聞こえた。
「三人だよ」と山田は平然として答えた。
「はい、ありがとうございました。
おやすみなさい」
俺が言うと、山田は笑顔で横になった。
山田のそばにいる医師二名が俺に驚愕の顔を向けていことが、少々愉快に思えた。
千代とともに病室の外に出てすぐに、また例のビリビリ感が俺を襲った。
俺は廊下の左右を素早く見回し、右手にあるナースステーションから人影が消えたように思った。
俺はすぐに、ナースステーションに走り寄り、座ってうつむいているふたりの看護師を見た。
「あのぉー、少々お聞きしたいことがあるんですけど…」
俺が言うと、ふたりの看護師がほぼ同時に顔を上げた。
左にいる看護師は少々年配で、右の看護師は駆け出しといった感じが初々しかった。
「復讐は不幸しか呼びませんから」
俺が言った途端、右側の看護師の顔が豹変し、怒り狂った顔をした。
『あんたに何がわかるっ!!』といった顔だ。
千代はすぐにどこかに電話をかけ始めた。
小さいので看護師からは見えていないはずだ。
「あなたはこれ以上不幸になってはいけません」
俺が言うと、初めは怒り狂った表情だったが、次第に表情が崩れ、机に伏せて狂ったように泣き喚き始めた。
今までに山田を殺す機会はいくらでもあったはずだが、『必ず眼を覚ますっ!』と願うように待っていたんだろうと俺は感じている。
そして目覚めたとたんに、強い殺意が沸いたはずだ。
現地の所轄の刑事たちが到着して、千代が全ての事情説明をした。
当然俺にも刑事たちの視線が飛んできたが、千代の部下、といった顔をしておいた。
たった30分ほどで俺たちは解放されて、またパトカーに乗り込んで帰路についた。
「警官になってっ!!」と千代が叫ぶと、助手席に座っている芝原が拍手をしながら振り向いて俺を笑顔で見ている。
そして、「大歓迎ですっ! 土産話もできましたっ!!」とかなり困ったことを言ってきた。
今回の出来事は何も話さないで欲しいと俺の本心を伝えたのだが、さらに尾ひれがつくはずだと思って、俺は黙ることに決めた。
… … … … …
翌日の午後、いつもの予約席の部屋に入ると、四人が一斉に俺の顔を見て微笑んだ。
ひとり多いのは犬がいるからだ。
千代はもうここの住人として優華に認められたようだ。
やはり職業柄、千代の推理力は高いと感じている。
そんなことがここにいられる条件であれば、―― そこそこ書ける小説家も出入り自由… ―― などと、つまらないことを考えた。
「尾ひれの話か?」と俺がため息混じりで言うと、千代を除いた三人は顔を見合わせて笑みを浮かべた。
「また犯人逮捕っ!!」と言って、彩夏がガッツポーズを取って言った。
「いや、事件は何もなかったぞ」と俺が言うと、三人は一斉に千代をにらみつけた。
「だから、予防処置だって何度も言ったじゃない…
サヤカ先輩がいけないんですよぉー…」
千代がかなり困った顔をして爽太郎を見ている。
「だって、芝原君からたくさん聞いたもんっ!!」と、爽太郎は美人度を上げて必死の形相で言った。
「だから落ち着けって…」と言って、爽太郎に新たに作ったマリア様のキーホルダーを渡した。
爽太郎は、「あっ! ありがとうぉー…」とさらに美人度を上げてから言って、キーホルダーを手にとって、お祈りを始めた。
そして顔を上げてすぐに、「みんな、拓ちゃんを困らせちゃダメ」とさも当然のような口ぶりで言った。
俺は無性に愉快な気分になって大声で笑った。
「おまえが困らせたんだろ?」と俺が爽太郎を見て言うと、「あはは、そうだよねっ!」と言って、上機嫌の顔をして認めた。
「…マリア様、すげえ…」と千代が小さな声で言った。
「どんなものよりもご利益がありそうだよな」
俺は言ってから、喜んでいる爽太郎のミニチュアのマリア像を見た。
「あー、そうそうっ!!」と爽太郎が、両手のひらを合わせて笑顔で俺を見た。
「牧師さんがね、このキーホルダー造って欲しいって頼まれちゃって…」
「いや、それはいいんだけど、
こんなおもちゃのようなものでいいのかよ?」
「敬う想いだけでいいって…
お姿は二の次…」
爽太郎は瞳を閉じて、小さなマリア像を抱きしめた。
「それだったら、はい」と言って上着のポケットからマリア像を取り出して渡した。
爽太郎はまた喜んで、すぐに席を立って部屋を出て行った。
「時間とか、大丈夫なんだろうか…」と言って時計を見ると、まだ7時半で宵の口だ。
ごく一般的な家庭は食事時だろう。
「おまえは手品師か…」と彩夏が言って鼻で笑った。
「必要になりそうだからな。
予備で造っておいただけだ」
俺が言うと彩夏は怪訝そうな顔をしてから口を開いた。
「渡して反応を見ればわかる場合もある」
「あー、その手は有効だと思う。
少しでもやさしい想いがあると救えるかもしれない…」
千代が真剣な顔をして彩夏を見て言うと、俺はうなづいた。
「売り出すのもどうだろうかと思ったんだが、
牧師さんが欲しがるほどだから、
まずはみやげ物として教会に納品するのもいいかなと思ってな」
俺は言って、まるで手品のように、一体ずつ丁寧にテーブルの上に並べた。
「…もらっていい?」と彩夏が申し訳なさそうな顔をして聞いてきた。
「敬う心が大切だぞ」と俺が言うと、子供のような笑みを浮かべて、「うんっ!!」と言って子供のように手を組んで祈りを捧げ始めた。
「彩夏は、キワモノの役でもできそうだな…」と俺が言うと、優華が俺の肩に手を置いてくねくねと体を動かしておねだりポーズを始めた。
優華が幼稚園に通っているころは、一日に三回ほどこのポーズを取っていた。
「正常な者は幼児化する…」と俺が言うと、千代は少しほうけた顔をしてうなづいている。
「俺、かなり前にも言ったよな」と俺が優華に顔を向けて言うと、「…欲しいの?」と言って、目に涙を溜め始めた。
「マジ、当時のまんま変わってねえっ!!」と俺は言ってかなり笑ってから、目の前にあるマリア像を手に取って優華に渡した。
優華は満面の笑みを浮かべて、祈りを捧げてから小さなポシェットから小さな箱を取り出してマリア像を仕舞い込んだ。
「そこまで用意していたんだったら普通に言え」と俺が言うと、「かわいいでしょ?」と優華が小首をかしげて聞いてきた。
「22才のいい姉ちゃんがやることじゃねえな」と言って、昔のように頭をなでてやると、完全に幼児化している優華が俺に満面の笑みを向けた。
「正常な者は…」と今頃になって千代は腑に落ちないと思ったようで俺をにらんできた。
「仕事柄、正常ではいられないんだと思うぜ」と俺は真剣な顔をして千代を見た。
「…わかってくれてる…
やっぱり、結婚しないと…」
千代は言ったが、確実に言ってくると思っていたのでそっぽを向いてやった。
すると、俺の顔の正面に、かなり困った顔をした五月がいた。
ついに来たと思って、俺は席を立って、部屋に五月を迎え入れた。
「拓生君、くつろいでいるところ申し訳ない…」と五月は言って、姿勢を正して頭を下げた。
「お断りします」と俺がまず言うと、「まだ何も…」と言って、五月はさらに困った顔になった。
千代はほうけた顔しているが、優華と彩夏はさも当然といった顔をして微笑んでいる。
「一般人に頼むことではありません。
そんなことくらい警察だってわかっていることでしょ?」
「それはそうなんだがな、できれば早めに終らせたいんだよ。
…という、上のお達しらしい」
少々演技をしていたようで、今はいつもの五月に戻っている。
「急ぐ理由は、警護が面倒」
俺が言うと五月は数回うなづいて、「また命を狙われかねんからな…」と言って肩を落とした。
「管轄は本庁なんですよね?」「そうだ」
「警視総監に会わせてください」「ああ、そのつもりだ」
五月が笑みを浮かべると同時に、優華と彩夏が拍手を始めた。
千代は、「阿吽?」と言って不思議そうな顔をしている。
「もしくは打ち合わせ済み」「何のためにっ?!」と俺は言って大声で笑った。
「理由なく適当なこと言ってんじゃあねえ。
日常生活でも勘を鈍らせない方がいいと思うぞ」
俺が冗談で千代の頭をなでてやると、「妹じゃないんだけど…」などと千代は言いながらも、俺に笑みを向けている。
「今すぐにでも、俺の部下に欲しい。
これほど気があう相手はいないと感じた。
本当にもったいない…」
五月はうつむいて首を横に振った。
「今の仕事を首になったら考えますよ。
だけどそうなったら…
暇なので司法試験を受けるかもしれませんね」
「ああ、それでもいいぞ。
ただし!
判事という答えは聞きたくないっ!!」
「もちろん検事ですよ。
そして弁護士には確実になりません。
冤罪もあるでしょうが、そうなる前に検事が止めるべきですから」
俺が言うと、五月は笑みを浮かべて、「最高の理由だよ」と言って俺の肩を叩いた。
「では、交換条件成立ということで行こうか」と言って五月が言うと、俺もすぐに立ち上がった。
もうすでに、アポイントメントは取っていたようだ。
というよりも、もうここに来ていた。
妙に重量がありそうな車が駐車場に止まっているからだ。
このレストランを訪れた客の車は、その車を避けて駐車していたので余計に目立った。
俺が少し笑うと、五月はつまらなさそうな顔をした。
「前言撤回。
俺が部下になりそうで嫌だ」
五月は言って、苦虫を噛んだような顔をした。
俺と五月が店から出ると、制服警官がふたり車から降りてきた。
そして俺たちはすぐに車の中に入り、テレビで見たことのある好々爺の警視総監が目の前にいた。
「始めまして、松崎拓生です」
俺が自己紹介してすぐに、「加藤爽衛です」と言って警視総監は頭を下げた。
「ソウエ… あ、失礼しました」と俺は言ってすぐに頭を下げた。
そして名刺交換をして、俺が怪訝そうな顔をして加藤を見ると、「孫がお世話になっています」と言ってまた頭を下げた。
この話はまったく知らなかった。
話にも出たことがなかったのだ。
「山梨爽太郎さんのお爺様ということでよろしいのでしょうか?」
俺が聞くと、加藤は笑みでうなづいた。
「家族が多いと警護が大変なのでね。
祖父ではあるが、
ここ10年ほどは爽太郎には会っていないんだよ」
特に女性的な顔ではないのだが、爽太郎に似ていると感じた。
重職に就くとこういった弊害があるもんだなと思い、少々むなしく感じた。
「もう、知っているよね?」
「はい、爽太郎さんに好意を向けて頂いています」
俺が即座に答えると、「さすが苦楽君の子だっ!!」と言って大声で笑った。
「苦楽君に相談を受けて、私がバックアップしました。
少しは爽太郎の役に立とうと思ってね。
かなり間接的だったが…」
加藤は申し訳なさそうに言って頭を下げた。
「犬塚千代君は優秀に育ちました。
立派な警察官になっていたはずですが、
身長だけがかわいそうですね」
「さすがに特例を設けるわけにもいかないからね。
しかし、君と再会して眼の色が変わったようだ。
犬塚君にも指導を頼みます」
加藤が頭を下げたが、俺は返答に困った。
「私の知りたいことはそれだけだったのです。
本当にわざわざありがとうございました」
俺が頭を下げると、「爽太郎をよろしく頼む」とまたここで肉親に頼まれてしまった。
「実は…」と言って俺はかなり困った顔をして優華の両親の話しをすると、加藤もかなり困った顔をした。
「君の気持ちは?」「はい、今は爽太郎さんです」と俺は間髪入れずに答えた。
「だったら問題はないようですね。
爽太郎が性転換するだけのことです」
加藤は当然のように言った。
「いえ、申し訳ないのですが、
私は今の生活をまだまだ楽しみたいのです。
後悔しないように」
「うーん…」と加藤が言ってここで初めて会話が止まった。
「いいでしょう。
拓生君が全て納得するまで待ちましょう。
ですが、爽太郎の花嫁姿は…」
「はい、本来ならばすぐにでもっ!!
ですが、今はある薬が効いているのです」
俺は上着からマリア像を取り出して加藤に渡した。
加藤は笑みを浮かべてうなづいている。
「マリア像の話は爽太郎に何度も聞かされました。
その時からなんですよ」
俺は全てを理解した。
「ずっと隠していた。
ですが、ついに我慢の限界に達した。
さらには、妹のようにかわいがっている優華のこともあって、
さらに我慢を重ねましたが、
このマリア像の力を借りないと
我慢できなくなってしまった…」
俺が語ると、加藤は笑みを浮かべてうなづいた。
「君は本当に今の職業でいいのですか?」
「はい、私の望んだ道ですから」
俺は堂々と胸を張って言った。
「そうですか…」と言って加藤は肩を落として、ついには年相応の老人の顔になってしまった。
「苦楽君のようで君も嫌いだっ!!」と加藤は言って大声で笑った。
俺は解放されて五月とともに車の外に出た。
ゆっくりと車が走り出して、俺たちは頭を下げて送り出した。
「最終兵器も役立たず」と五月は言って苦笑いを浮かべた。
「誰が相手でも同じ事です。
さらには父が俺の味方ですから」
俺が胸を張っていうと、「やれやれ…」と言って五月は今だけでもと思ったのか俺の肩に手を回してから、店の入り口に向かって歩き出した。
… … … … …
家に帰ると、父母はテレビを見ていた。
父は母に付き合ってバラエティー番組を見ている。
やはり判事という仕事は精神的に過酷だ。
まさに牧師のような心でいる必要がある。
よって、判事になると決めた者は聖職者の心を持っていないとできないと思っている。
俺はテーブルの上にマリア像を置いた。
父がどういった行動に出るのか知りたかったからだ。
「ただいま」と言って、俺はいつもの席に座った。
父は俺を見ないでマリア像を凝視している。
「…もらっても?」と父は自然な笑みを浮かべて言った。
「あら、素敵…」と言って母がマリア像をインターセプトした。
「母さん…」と俺が子供を叱るような顔をすると、母は申し訳なさそうな顔をして、「拾っておいたわ」と父に言ってマリア像をテーブルの上に置いた。
いつもこんな感じで我が家の雰囲気はかなりいい。
父が母を選んだ理由がよくわかる。
母は世襲制の企業の令嬢だ。
しかし、元来のオットリした性格が父に選ばれた理由だろうと感じた。
だが真相は、父はできれば家族を持ちたくないと思っていたはずなのだ。
祖父の企業は俺の勤める会社のライバルでもある。
よって、俺が就職する前に、母がかなり申し訳なさそうな顔をして俺をヘッドハンティングしたのだが、理由を100ほど述べて母を、「もういいわよぉー…」と言わせて納得させた。
だがまだあきらめていないようで、母は時々わかりやすい小細工をしてくる。
一度、母の父で俺の祖父、寺嶋恭一とも対決した方がいいと思った。
当然のように祖父の企業は今、後継者問題で大いにもめている。
何しろ莫大な資産なので、親戚一同が眼の色を変えて当然だ。
親族とは正月には確実に顔をあわせることになるので、素質のある者には眼をつけている。
俺でなくても、今は平社員で母の兄の息子の寺嶋翔が適任だと感じているのだ。
翔には野望がまったくない。
よって、日々の仕事を淡々とこなしているだけだ。
だがそれは、目立たないようにしているだけで、本来は俺と変わらないほど仕事ができるはずなのだ。
やはり、母の長兄の子たちに遠慮があるようだ。
よって、俺としては翔と話しをすることが好きだ。
翔の方が年上なのだが、まるで弟のように慕ってくれていることがうれしい。
俺たちの出番は少し先なのだが、祖父は自分の子に興味を持っていないと感じている。
はっきりと言えばいいのだが、やはり、親しき仲にも礼儀ありだろう。
だが、巨大な家を守るためには鬼にもなるべきだと俺は感じている。
すると、母が上目使いで俺を見てきた。
「何のおねだり?」と俺が聞くと、父が母を見て大声で笑った。
「笑って欲しくないんだけど…」と言って母は肩をすぼめた。
「いや、悪かった」と父は笑顔で言ってからまだ笑っている。
テレビよりもかなり愉快な妻を快く思っているだけだ。
「再就職をする気はないよ。
今は少々巨大なプロジェクトが上がってるからね。
この先五年ほどは外れたくないんだよ。
これは俺のさらなる可能性を見出すために必要な試練なんだ」
俺が語り終わると、「うー…」と言って母は二の句を告げなくなってしまった。
「母さんの話も聞くだけ聞いてやれ」と父は穏やかな声で言った。
母はまるで花が咲いたような顔をした。
「お父様がうるさいのよ…
あ、そのお仕事のことならもう調査済みらしいわ」
―― 産業スパイッ?! ―― と少々衝撃が走ったが、それを身内が打ち明けたことが妙に愉快に思えた。
やはり、超一流といえども人間だ。
カネや欲に弱い者もいることだろう。
数名はわかっているので、こっそりと密告でもしておこうかと覚えておくことにした。
母はいきなり元気を失くして、「あ、今の、忘れて欲しい…」とまた上目使いで俺を見ると、俺は父と顔を見合わせて大声で笑った。
オットリしているにもほどがあると俺は思ったが、俺はこの三人家族が好きだ。
そして父も、腹に何も持っていない母が気に入ったのだろうとさらに納得した。
いつもの母の言いわけのようなヘッドハンティングをなんなく一蹴してから話題を変えることにした。
「ついさっき、加藤さんに会ったよ」
俺が言うと、父は大いに驚いたようだが、「犬塚千代君のことで何か?」と聞いてきた。
「俺たちの仲は良好だよ。
頼りないところがあるけど、俺に甘えているだけだ。
知っていると思うけど、
警察ではよく吼える小型犬というあだ名があるほどに、
少々恐れられているんだよ」
父は満足そうに笑みを浮かべてうなづいた。
「それは困るのっ!!」とここで母が口を挟んできた。
かなりの事項が俺の頭を過ぎり、―― どれだろう… ―― と思って少々考え込んでしまった。
「警察には勤めさせちゃダメってっ!!
もう手が届かなくなっちゃう…」
母の言葉を聞いてから、「ふーん…」と言って俺はにやりと笑った。
「こ、怖いわ、拓ちゃん…
家庭内暴力ぅ?」
母は本気で怖かったようでかなり震えている。
「そんなことする理由がないよ…」と俺が言うと、「私が、しつこいから…」と言って少し涙ぐんでいる。
「どこの世界でも上には逆らえない。
だからこそ俺は、
爺ちゃんの会社には世話になる気はさらさらなかったんだ。
お役所仕事よりも面倒だし、仕事をしていても楽しくない。
だけど、人生修行にはいいかもしれないね。
だけどね、爺ちゃんの会社なら数年で乗っ取れるよ。
だからこそ、俺はさらに気に入らないんだ。
あまりスパイ行為をしていると、
俺の人生をかけて攻撃すると伝えておいて欲しいんだ」
少々面倒になってきたので、俺はここで脅しを入れておくことにした。
母は俺ならやりそうだとでも思ったのか、「伝えておくの?」と優華のように言うと俺は大声で笑った。
父はうなづいているだけで何も言わない。
「警察に勤めながら、今の仕事をする…」と俺がつぶやくと母は号泣して、父はかなり困った顔を俺に向けた。
「母さん、加藤さんって知ってるよね?」と俺は確認のために聞いた。
母は泣き顔を俺に向けて、「ご近所の?」と答えたので、俺は大声で笑った。
父はかなり受けたようで、母に顔を背けて笑っている。
「警視庁で一番偉い、警視総監の加藤爽衛さんだよ。
今日会った人だ」
俺が言うと母は、「…はあー…」と深いため息をついた。
もうダメだ、とでも思ったのだろうと俺は感じた。
「爽太郎を頼むとまで言われた。
そして、警察からもヘッドハンティングされたんだよ」
母は俺をにらみつけて、「爽ちゃんは男の子じゃないっ!!」と母は叫んだ。
母の思考はかなり冷静だと感じた。
「性転換させるって。
爽太郎も俺が好きだと聞かされた。
もちろん、俺を恋愛対象としてだ。
爽太郎は、このマリア像盗難の一件から、
本来の性同一性障害の兆候が出るようになったんだよ。
だけど、隠し通した。
それは、俺たち幼なじみの平和のためにね。
だけど、もう抑えが利かなくなっているんだ。
その最後の砦が、このマリア像なんだよ」
俺が言うと、母はマリア像を抱きしめて、柔らかい笑みを浮かべた。
「…ああ、わかる…
わかるわぁー…」
母は柔らかな笑みを浮かべて、ゆっくりと涙を流した。
「拓ちゃんの、好きにしていいよ?」とまた母は優華のマネをして言った。
「恐ろしいなこれ…」と父は母が抱きしめているマリア像を見た。
「俺は特に何も思わないんだけどね。
でも、優しい気持ちにはなれるから、
父さんも同じだと思うよ。
そうでない場合は、父さんも考え直す必要があると思うね」
俺は言ってから、胸ポケットからマリア像を出した。
「3Dプリンターで出力した、まったく想いのないものだ。
だけど、心を動かされる。
優華と彩夏はこれに触れると幼児化したんだよ」
俺が少し笑いながら言うと、「人それぞれなんだな…」と父は言って、マリア像を手にした。
「…ああ、癒やされる…」と言って、父の目から自然に涙が溢れ出してきた。
「爽太郎と千代のパターンだね。
仕事柄そうなって当たり前だと思っていたけど、
さらにいいデータが取れたよ」
俺が言うと、父は何度も何度もうなづいた。
「今な、構えるなと言われたような気がした。
叱られたと感じたが、マリア様は微笑んでいらっしゃる。
だから、素直に従える」
父は小さな声でつぶやくように言った。
「これ、山田国一さんにも使えそうだ。
山田さんは…
あ、言っちゃダメだった」
当然、裁判前の被告の情報は判事の耳に入れるべきではないと俺は思って、父に頭を下げた。
「解離性同一性障害、いわゆる多重人格だと、俺は思っているんだよ」
父は優しい笑みを浮かべて俺に言った。
俺はその父に笑みで返しただけだ。
「ニュースを見ただけでも、それは感じるよね。
被害者の中に関係がある者がいた。
そのほかも関係があるかもしれない。
きっとね、山田さんの口から全ての疑問が解けると思うよ」
俺が言うと父は何度もうなづいた。
「警察が俺に嘆願したんだよ。
山田国一さんの取調べをして欲しいってね。
これが一番初めの依頼だったんだけどね」
さすがの父も驚きの顔を俺に向けた。
母がもうダメだと思ったのだが、マリア像のお顔を見て落胆の顔を笑みに変えた。
「…とんでもない交換条件だったな…
拓生にとって全てがプラスではないのに…」
「俺は判事の気持ちで、取調べをしようと思っているんだよ」
俺の言葉は父を泣かせてしまった。
目から涙がとめどなく溢れ出していた。
父は俺に判事になってもらいたかったと思ってやまないようだ。
「あ、俺、司法試験を受けたとしたら、検事になるから」
俺の言葉は父をかなり怒らせたが、マリア様の恩恵でこの場は穏便に収まった。
「五月さんにも言ったんだけどね。
冤罪だけは出さない検事になろうって思っていたんだよ」
父は俺の答えにショックを受けたようだ。
しかし笑みを浮かべて、「それが一番平和なことだ」と言って俺の言葉を認めた。
… … … … …
俺は出社してすぐに、広報営業課長に話しがあるとアポイントメントを取る話しを持ちかけた。
「いや、待て待て松崎君っ!!」と課長は血相を変えて俺を見ている。
「君が様々な場所からコンタクトを取られていることは知っているっ!
だが、警察だけは頼むからやめて欲しいっ!!
もう二度と、この職場には戻っては来られなくなってしまう…
君だって、それは望んでいないはずだっ!!」
課長もかなりの情報通だったと、俺は驚くよりもあきれてしまった。
「でしたら話は早いですね。
私の思いとしては、
退職するつもりはさらさらありませんから」
俺が言うと、「…助かったぁー…」と言って浮かしていた腰を椅子に深く沈み込ませた。
「詳しい話は、昼食時に」と俺は言って頭を下げた。
「あ、部長、あ、いや、常務と、あ、いや、社長…」などと言って課長はとんでもない昼食会に俺を誘うつもりだと思って少し笑った。
だが、「昨夜、警視総監と面と向かって話しをしたんですよ」と俺が言うと、「ちょっ! ちょっと待っていてくれ、くださいっ!!」と課長が言ってすぐに電話をかけ始めた。
俺が腹を抱えて声を出さずに笑いながら振り向くと、職場の仲間たちがかなり困った顔を俺に向けてきた。
「聞いての通りで、俺はこの社は辞めませんから」と俺が言うと、安堵の笑みを向けてくれたので俺はかなりの喜びの感情が沸いた。
「あ、スパイがいるって聞いたんだけど…」と堂々とだが、少し小さな声で言うと、三名だけ不穏な動きがあった。
ひとりは苦笑い気味に笑い、ひとりは完全に挙動不審になり、ひとりはオレから顔をそむけた。
「依頼主に伝えておいてください。
本気で攻撃をしかけるとね。
俺の母にも脅しを入れましたから」
当然、俺の祖父が大企業の社長だということは、ここにいる全員が知っている。
苦笑い気味に笑っていた竹内が、驚愕の顔を俺に向けていた。
ほかの二名はどうやら別口のようだ。
「ここで犯人探しをするとは思いませんでしたよ、竹内さん」
俺の言葉に竹内は辺りの視線を気にしながら、「そんな、根も葉もない…」と言ったが良心の呵責に押しつぶされたのか、深く肩を落とした。
ほかの二名は安堵の笑みを浮かべたので、名指しで言って依頼主がどこなのか詰め寄ってみた。
挙動不審になったのはライバル会社で、目を背けた者はなんと警察だった。
俺はあきれた顔をして、かなり困った顔をしている佐竹文香を見た。
「警察関係者って家族にいるの?」と俺は同期の文香にフランクに聞いた。
「伯父さん…
今ね、警察の署長をしてるって…」
文香は泣きそうな顔を俺に向けた。
「五月大河さん、だよね?」と俺が言うと、文香はさらに怯える眼を俺に向けた。
「プライベートの付き合いが広いからね。
きっと偶然だろうけど、
子供の頃に五月さんとは犯人逮捕に協力したっていう縁があって、
最近再会して懇意になったんだよ。
だけど、考え直さないと…」
俺が少し意地悪に言うと、「ごめんなさいごめんなさい!」と言って、泣いて謝り始めた。
少々薬が効きすぎたと思ったが、すべては真実だ。
「何か、頼まれてたとか…」と俺が聞くと、文香は真っ赤な顔をした。
「…あ、わかったから言わなくていいよ」と俺は極力小さな声で言った。
「オレたちにはわからないんだけど…」と二年先輩の伊藤が真剣な顔をして俺を見上げて言った。
「体を投げ出してでも、俺の弱みを握れ、とか…」
俺が笑みを浮かべて言うと伊藤が、「とんでもないな、警察…」と言って文香をにらんだ。
「あっ! それは私が提案…」と返してきたので、俺は丁重に断りを入れた。
「だってっ! 松崎君って気さくなのに付き合い悪いじゃないっ!!
こんな優良物件、どこにもいないわよっ!!」
文香が豪語すると、半数は批判的な眼を向け、半数はうなづいてた。
うなずいていたのは、ほとんどが女性社員だった。
「付き合いが悪いのはプライベートの時間を大切にしているからだよ。
まだ家族は持っていないけど、
仕事の疲れを癒やしてくれる俺の予約席があるんだよ。
最近は警察に巻き込まれて邪魔されてるけど、
それでも、あの予約席が俺のオアシスなんだ」
仕事仲間を見回すと、5名だけがこの事実を知っていたようだ。
スパイの三名とはまた別の社員だ。
どうやら俺のあとをつけて俺のオアシスを発見したようだ。
「斉藤さんと田崎は、グルメパラダイスの会員のようだね」と俺が言うと、ふたりは驚愕の顔を俺に向けた。
「さあ時間だ」と俺は言って席について、パソコンの画面を開いて電源を入れた。
… … … … …
「まあ、こうなることは予想していたけどね…」と俺は言って、仕事仲間たちを目の前にして言った。
優華の配慮で、今日だけ限定として、俺たちの予約席に俺の同僚たちを部屋に招いたのだ。
いつも一緒に働いているのは50名で、その半数がここにいる。
30名もいるといつもは広いこの部屋も、少々狭く感じる。
「いつもは付き合いが悪いから、今日は付き合うよ」
俺が言うと誰もが喜んでくれた。
今は仕事仲間ではなく、気の合う仲間といった感じに思えたことが俺はうれしかった。
さらには有名人と言葉を交わせることが、特に女性は感動を思えたようで、数名が涙ぐんでいる。
優華と彩夏はホストよろしく、次々と料理を運んでくる。
「ああ、生きててよかった…」と気の会う先輩の伊藤が言って、俺たちは大いに笑った。
すると、当然のようにここにいる文香が、かなりバツが悪そうな顔をして外を見た。
そこには当然のように五月がいたからだ。
「あ、あの人がこの地域の管轄の警察署長の五月大河さんだよ」
俺が言うと、同僚たちは一斉に外を見た。
五月はあまりのことに腰を抜かしそうになったようで、近くの席に座った。
「…ああ、かっこいい…」と女性の同僚たちから声が上がった。
「あ、独身だから。
キャリアだから将来何も困らないぞ」
俺が言うとすぐに、「キャーッ!!」と黄色い歓声が上がったので、俺は五月に向かって手招きをした。
さすがの五月も怯えた目になって首を横に振ったが、優華が素早く迎えに行った。
五月は拒否はしたが、優華が無理やり腕を取って、部屋に引き入れた。
「はい、合コン、開始っ?!」と優華が言うと、五月は同僚たちに質問責めにあった。
「はは、盛会盛会!」と俺が言って、部屋を見回した。
―― 爽太郎がいない… ―― と思っていたら、かなり困った顔をした爽太郎が足早に部屋に入ってきた。
そしてこの状況を今更ながらに見て、引きつった笑みを浮かべた。
「なにかあったんだな」と俺が爽太郎に聞くと、「うん…」と言って、俺のとなりの席に座った。
「牧師様がね、
マリア様をすっごく気に入ってくれたのはいいんだけど…」
「欲が見えた」と俺が言うと、爽太郎は小さくうなづいた。
―― やれやれ… ―― と思って俺は頭をかいた。
「カネの欲だけならいいんだけど…」と俺が言うと、「あ、それだけだよっ!」と爽太郎は明るい笑みで言った。
「ふーん…」と俺は少し思案した。
「まさか牧師様を正常化することになるなんてな…
マリア様の効果がない…」
「あ、自覚はしていてね、マリア様から眼を背けるのよ…」と爽太郎は言ってかなり困った顔をした。
「千代」と俺は言って、かなりの迷惑顔の千代を見た。
一縷の望みを千代に託そうと思った。
犯罪心理学者の仕事は警察に限ったことではない。
軽犯罪などの関連施設にも出向に行くことがある。
よって強い欲の軽減などにも、大いに重宝されている。
俺が事情を話すと、「うん、任せて欲しい」と千代は快く引き受けてくれた。
「牧師さんっていう聖職者の人には、結構多いのよねぇー…」と千代はさも当然と言った顔をして言った。
「経験豊富なようで何よりだ」俺は千代に頭を下げた。
「…ああ、恩に着せたから、妻の座が近づいてきたわ…」千代がつぶやくように言うと、優華たちにこっぴどくにらまれていた。
「ああ、そうだ、爽太郎」と俺はごく自然に名前を呼んだ。
爽太郎もいつもの笑みを俺に向けた。
そして俺は実物大のマリア像を取り出して机の上に置いた。
「おまえの爺さんからおまえを託されたんだよ」
俺はあえてここで言った。
もちろん優華の両親にも託されていることは話している。
爽太郎はまずはマリア像にお祈りをしてから、「うれしいわ」とだけ言って俺に向けて笑みを浮かべた。
ここにはいつもの爽太郎しかいなかったことを俺は喜んだ。
喜べないのは優華だが、複雑な事情は当然のように察している。
「ここで言うことなの?」と彩夏が困った顔を俺に向けていた。
「爺さんに頼まれたと言っただけだ。
彩夏は、爽太郎の爺さんの正体を知っていたようだな」
俺が言うと、彩夏は観念したようで、「優華ちゃんに聞いて、サヤカちゃんにも確認してたわ…」と言ってため息混じりで言った。
「ふーん、俺だけが知らなかった…
ま、こういうこともあるんだろうな」
俺には三人の気持ちが痛いほどわかっている。
もし俺がこの事実を知っていたとしたら、俺は警察関連の道に進んでいたように思ったからだ。
千代が上着のポケットからスマートフォンを取り出した。
どうやらメールだったようで、眼を凝らして読んでいる。
「うっ!」と千代はうなって、「…どーしよー…」と俺の顔を見て言った。
「さすがに情報不足」と俺が少し笑って言うと、「警察官にはなれるの」と千代が言った。
だが確実に身体条件をクリアできていない。
千代の身長は135センチ。
体重は30キロ程度だろうと推測している。
やはり親しき仲にも礼儀ありで、面と向かっては聞けない。
千代は、「警察官にはなれる」と言ったのだ。
「地方公務員としてだよな?」と俺が言うと千代は、「チッ!」と舌打ちをしてそっぽを向いた。
「東北の一県でね、身体条件を外したんだって。
でね、一旦そこに所属するだけでいいって」
千代は少しうれしそうな顔をして言った。
「国家公務員総合職試験にはパスしてる」
俺が言うと、千代はそっぽを向いた。
どうやら正解だったようだ。
「本庁が千代を引き抜けば、晴れて今と同じ職が…
というよりも刑事よりも公安部か…
どちらかといえば、警察自体を監視する部署になるよな。
警察官から見れば鼻つまみ者。
よく吼える小型犬が
またとんでもないあだ名を拝命することになりそうだな…」
千代は気に入らないようだが、俺の言ったことが妥当だったようで小さくうなづいた。
「もうひとつ、特殊事件捜査係。
ネゴシエーターがここに所属してるけど、
私の場合はサポートだけになりそうだわ。
公安だったら、自分の手で犯人を逮捕できるけど、
ネゴシエーターは基本現場に出ても待機だから」
千代が言うと、優華たちは一斉に千代に寄り添って詳しい話しを聞き始めた。
下手をすると警察内部で若く経験豊富な千代の取り合いになるのではと思い、確認だけでもとさらに思って、加藤にもらった名刺を名刺入れから取り出した。
名刺の表にところどころ出っ張りがあったので、すぐに裏返した。
そこには、どう考えても電話番号が記載されていた。
どうやら、警視総監とのホットラインを俺は手に入れたようだ。
しかし、この程度のことを聞いてもいいのだろうか、千代にとっては過保護ではないだろうかと思っていると、その加藤から電話があった。
俺はすぐに電話に出た。
千代に送ったメールの件で、俺にも連絡をくれたようだ。
「ひとつだけ不安要素はあります」
俺が言うと、『犬塚君を手放す意思を持たないこと、ですよね?』と加藤は穏やかに言ってきた。
きっと今頃はマリア様を手にしているのかもしれないと思って微笑ましく思った。
『その可能性はあります。
私が口出ししてもいいのですが、できれば丸く治めたいのでね。
出向可能になったので、拓生君にも出番があるかもしれません』
俺は今日の昼休みに、社長たちに対してある提案をした。
まったくお門違いの職なのだが、わが社が抱えている子会社の人材派遣会社に俺を一定時間だけ出向させるというものだ。
所属は今のままで、辞令だけを出してもらい会社の命令に従うだけで、警察のアウトソーシングとして警察内部で働くという、ほぼ問題のない方法だ。
もちろん警察官は公務員だが、嘱託として一般人を雇うことはごく普通にある。
それを利用して、俺を警察に派遣し、山田国一の事情聴取を行なうことに決まった。
「ですが、取調べは急ぐんですよね?」
『それは最優先でお願いしたいのです。
もし、犬塚君が帰って来られない時は、
全てが終わってから迎えに行ってやって欲しいのですよ』
加藤の声はまさに千代の父のものだと感じた。
千代には加藤爽衛と松崎苦楽のふたりの父がいると思い、千代を見ると、電話をしている俺を凝視している。
さらには優華たちも千代の様子から千代関連の電話だと感じているようだ。
「承知しました。
千代には二三件、
事件を解決してもらってから晴れて本店に異動してもらいましょう。
その方が自然ですから」
『はい、それが一番いいことですから。
県警も犬塚君を出さないわけにはいかなくなりますから』
俺は加藤に礼を言ってから電話を切った。
「千代のお守り役をおおせつかった」と俺が言うと、優華だけは少し笑った。
千代はほうけた顔から仏頂面を決め込んだ。
よく見ると、千代たちだけでなく、俺の同僚たちも耳を澄ませていたようで、大勢いるのだが水を打ったように静かだった。
「警察の社長さんからだった」
俺が言うと、半数は笑い、半数は驚いた顔をしていた。
「なんとなく気づいたと思うから話しておくよ」
俺は前置きして、俺が提案して即受理された業務の件を同僚に話した。
本来の仕事の時間外に派遣されることもあわせて説明した。
基本的には社の仕事が終ってすぐに近くにある警察病院に行って事情聴取を行なうことになる。
自由な時間がなくなるので、マリア像を持っていこうと俺は決めている。
だが、山田との時間はきっと有意義だと思っているので、それほど心配はしていない。
「もう、警察官と同じじゃない…」と千代はぼう然として言った。
「民間からのアウトソーシングだから警察官じゃないぞ」
俺は反論したが、千代は首を横に振った。
「世間話って言って、捜査本部に連れ込む、とかしそうだもん…」
「それは契約違反だから、即、社に連絡する。
もう二度と、警察の仕事は引き受けないことになるな。
できれば、会社側は俺を警察に近寄らせたくないようだし、
主導権はわが社が握っているんだよ」
俺がここまで言って、千代は納得したようで俺から視線を外してうなづいた。
盛会のうちに食事会はお開きとなった。
これでまた明日は目一杯働けると誰もが感じたようだ。
「アウトソーシング…」と彩夏がつぶやくように言った。
「なんだよ、女優でもやるのか?」
俺が聞くと彩夏は、「自分自身を高めるには、少しだけ副業っていうのもいいのかなぁーって…」と思案顔で言った。
「お菓子作りの腕が落ちない範囲で、
考えてみてもいいんじゃないのか?
ドラマのゲストのチョイ役だったら、
それほど時間は取られないだろうし。
それに、断わる勇気も必要だけど、
今までずっとそうしていたから別にできないことじゃないと思う」
「…うん、マネージャーもね、いつも、もったいないって…
私にはよくわからないんだけどね、
気合を入れないで気分転換のつもりでやってみようと思う」
俺は彩夏の言葉に笑顔でうなづいた。
「できれば、うまいケーキを最優先で頼むよ」
「うんっ!
今の言葉が一番うれしいっ!!」
彩夏は言って、潤んだ瞳を俺に向けたので、俺はマリア像を手にとって抱かせた。
「ああ、欲が消えて…
残念だけど…
ああ、ごめんなさい…」
彩夏はひとり芝居をしているように見えるが、心の中の葛藤が手に取るようにわかる。
「あー… その前にだな。
俺の本来の仕事の依頼」
俺はここにおいてあるパソコンを開いて、社のホームページの調理器具のサイトを彩夏に見せた。
「うちの社が唯一弱い部門なんだ。
壊れない機器だから、ほかの社よりも当然値は張る。
一度全部使ってみてもらって、アンケートをとりたいんだよ。
そのついでに、コマーシャルに出てもらえればうれしいんだけど…」
「もうお仕事もらっちゃったわっ!!」と彩夏はかなりうれしそうにして俺に向けて笑みを浮かべた。
「当然、多少の演技も必要だからな。
試運転にはいいんじゃないかと思ってな」
俺が言うと早速彩夏はマネージャーに連絡した。
俺は課長に連絡して事の次第を話すとゴーサインが出た。
あまりにも回答早かったので、できれば俺に担当してもらいたいとでも考えていたようだ。
彩夏のマネージャーがすっ飛んできて、俺があいさつすると驚いていた。
全ての事情を話して、今は口約束だけだが、彩夏をわが社の調理器部門のイメージキャラクターにすることに決まった。
彩夏はフリーだがタレント扱いなので、コマーシャル出演料は高い。
しかも、売れっ子なので破格の費用が必要だが、交渉の末、良心的な料金に押さえてもらったので俺としてはほっと胸をなでおろした。
さらに、コマーシャル効果が現れた場合に、ボーナス支給の特例を入れ込むことにした。
マネージャーには異論がないようで、俺は結果を課長に連絡した。
『おいおい、安いな…
本当にいいのか?』
「現在は口約束ですので、契約の段階で変わるかもしれませんが…
私が言った言葉が気に入らないようで怒っています」
俺が言うと課長は、『穏便に頼むよ…』と拝まれるように言われてしまった。
電話を切って、俺は彩夏とマネージャーに笑みを向けた。
「騒がれたくないので、できればオフレコでお願いします。
この場所なら誰にも知られませんので。
もしも盗聴器があったとしても、
もうすでに撤去されているはずですので。
この話しを知っているのは、今は四人だけですから。
ですが、周りの大勢の人が見ていますので、
何かあるとだけは気づかれましたけどね」
俺が言うと、彩夏もマネージャーも少し笑って、笑顔で承諾した。
もっとも、俺が何者なのかわからないはずなので、それほど大事にはならないだろうと思っている。
… … … … …
出社してすぐに契約書を作っていると、同僚たちが何事かと思ったようで俺を囲んだ。
「ここにはスパイがいるから話したくないね」と俺が言うと、ほぼ全員が苦笑いを浮かべた。
「漏れると少々困る契約なんだよ。
あ、悪事は働いてないよ」
俺が言うと、くすくすと笑い声が聞こえた。
「松崎君っ!!
本当にありがとうっ!!
まさか、山東彩夏が出てくれるとは思いもよらなかったっ!
だから君のコネでお願いしようと思っていたところなんだよっ!!」
課長が現れてすぐに全てをばらしてしまって、同僚たちはあ然として課長を見ていた。
「課長が話してしまったので、俺の責任はもうありません」
俺が言うと、同僚たちは大いにうなづいてくれた。
昨日彩夏とは会ったばかりなので、同僚たちはさも当然といった顔をしているだけだ。
「…僕、なんか悪いこと言った?
みんな、どうして驚かないの?」
課長は不思議そうな顔をして、部下たちの顔色をうかがっている。
「昨日会っているんですよ、本物に」と俺が言うと、同様たちは笑顔でうなづいている。
課長は言葉を失くして、すごすごと自分の席に向かって歩いて行った。
( 第四話 嵐の前の日常 おわり )
( 第五話 絶体絶命事件 につづく )