第十八話 大好物の弱み
大好物の弱み
彩夏はその美人度を上げて厨房に立っている。
少々粉っぽい作業をしているようで、俺は目を見張った。
「…なによぉー…」とエリカがけだるい声を放って俺の視線を追った。
「エリカが食ったことのないものを造ってくれてるんだよ。
俺の大好物っ!!」
俺が言い放つと、誰もが期待したようだ。
もっとも、夕食はすでに済ませていたのだが。
彩夏はしばらくの間厨房から姿を消した。
日本警察署から見えない場所で作業をしているのだろう。
そして姿を現して、満面の笑みを浮かべてスキップを踏むようにして署に入ってきた。
「珍しいものを造ってくれているようだね」と俺が言うと、「おまえには食わせてやんね」と彩夏は歯をむき出しにして言われてしまった。
「あれだけは食わせてくれよ」と俺が手を合わせて拝むと、誰もが驚いた顔をしていた。
その雰囲気を察して、「…え? なに?」と俺が言うと、「…いや、拓生の弱点がまだあったと思ってな」と五月が苦笑いを浮かべて言った。
「あー、そういう意味では弱点だなぁー…
ほとんどのことは我慢できるからね。
だけどあれだけは譲るわけにはいかないんだよ」
俺が言うと、やはり彩夏は俺に笑みを向けて、「明日、デートしてくれぇー…」と予想通りの言葉を言ってきた。
明日の土曜日、俺のスケジュールが真っ白だということはすでに調査済みだったようだ。
エリカには先週の土曜日に、フルタイムで奉仕したので、ここ最近は機嫌がいい。
「俺も、フルタイムだぁー…」と彩夏に釘を刺されてしまった。
「彼氏持ちとフルタイムでは付き合わない。
この条件だと、俺の好物を涙を飲んで辞退するしかないな。
そして彩夏とは、もう二度とデートはしないだろう。
さらにはおまえの記憶を、俺の脳内からから消し去ってやるっ!!」
俺が言うとさすがに彩夏も、「…悪かったわ…」と演技を入れて謝ってきた。
「普通に」「わるかったなっ! この食いしん坊やろうっ!!」彩夏は簡単に俺の挑発に乗ってきた。
「じゃ、お友達デートということで」と俺が言うと、「絶対に折れると思っていたんだがなっ!!」と彩夏は脚を組んで腕組をして俺をにらみつけた。
「俺の命が危うくなるようなことはしねえ…」と言って俺は彩夏をにらみつけた。
「…最後の最後の砦だったのにぃー…」と彩夏が妙な雰囲気を出して気の弱そうな少女の演技をすると、「…拓ちゃん、付き合ってあげようよぉー…」とテレビを見入っていたはずの母が目に涙を浮かべながら俺を見て言った。
「芝居にだまされてはいけないね」と俺が言うと、「あ…」と母は短く言ってまたテレビに顔を向けた。
そして、「…できるかしら…」とつぶやくように言ってから、今の彩夏の演技の復習を始めた。
「できれば妙な策略なしで食べさせてもらいたかったな」と俺が言うと、「ふんっ!」と言って彩夏はそっぽを向いた。
「きっと、格段に味が落ちていることだろう…」と俺が言うと、「そんなわけ…」と彩夏は言いかけて、「…そうかも…」と言って肩を落とした。
「それはあるよね…」と優華も言って眉を下げて彩夏を見ている。
「エリカは?」と俺が聞くと、「こういったことが原因で、最終的には殺し合いになった夫婦がいたわ」とエリカはすぐさま答えた。
「爽花は?」と俺が聞くと、「…難問ね…」と言って考えている。
「衛は空気を読んで何となくわかっただろ?」と俺が聞くと、「あはは、まあね」と衛が言うと、「すっごおーいっ!!」と有紀子が言って衛に向けて拍手をしている。
有紀子は遠慮という垣根を取り払って、衛のそばにいることが多い。
だが学校では少々ギクシャクしていると、有紀子はさびしそうな顔をして話すが、話してくれることで声をかけることもできるので、俺としてはそれほど気にもしていないし心配もしていない。
「食は五感をもって味わう」と俺が種明かしをすると、「ああ、わかったわ…」と爽花が笑みを浮かべて言った。
「その内の一つでも欠けると、格段に味が落ちているように感じる。
うまいという評判の店に行って、従業員の対応が悪いだけで、
その店の味は格段に落ちる。
店内が騒々しい場合もそうだ。
盛り付けが汚い、そして店内が汚れている場合も然り。
やはり食する場所の雰囲気がよくなければならない。
という俺の持論だ。
気に入らないという壁ができて、
正常な味の判断ができなくなるんだろうと思う。
さらにそれはその食事の料金にも波及する。
これほど払ってこの味?
と言った比較によっても味は左右されやすい」
俺が語り終ると、警察官組はよくわかったようだ。
「あっ」と言って彩夏は席を立って、厨房に足を向けた。
「ここから少しだけ時間がかかるんだよ。
だけどなぜ時間がかかるのか、
なぜだかわからないと思うものが出てくるんだ」
数分後、彩夏は笑みを浮かべて大きなトレイに俺の好物を乗せて持ってきてくれた。
「えー…」とみんなは驚きの声を上げた。
アンパンやクリームパンのように、丸く平たく仕上げたもので、どう見ても、ごく普通に菓子パンだったからだ。
だが、黄金色にいい色に焼けたパンはうまそうだ。
そしてにおいをかぐと、まるでショートケーキのような香がする、彩夏の造ってくれるスイーツ類の中で俺の一番のお気に入りだ。
これを食べてから走ると、本当に速く走れているように感じることが不思議だった。
「食っていいの?
無条件で?」
俺が言うと、「さっさと食いやがれっ!!」と彩夏に普通に言われたので、俺はひとつ手にとって食らいついた。
「あー、んめぇー…」と俺が言うと、「おまえ、五個以上食うなよ」と彩夏はうれしそうな声で俺に言った。
「ああ、そうするよ」と俺が言うともうみんなも食べたいようで、目を白黒とさせている。
「こんなジャムパン、知らない…」とエリカが言って驚いている。
「そうだろ?
市販のジャムパンが食えなくなるジャムパンだ!」
やはり圧巻は、焼きあがったあとに注入する生クリームだ。
これがパンではなくケーキに変えているような錯覚を思わせるところが俺が好きなポイントだ。
「甘すぎない…
本当にうまいな…」
五月が言って、うまそうにしてジャムパンをほおばっている。
「そして逆から食べてしまうと、衛のようになる」と俺が言うと、みんなは一斉に衛を見て笑った。
「うう、中身が出ちゃったよぉー…」と衛は言って、ふきんでテーブルを拭き始めた。
それほどの被害はなかったようで、気をつけながら食べ始めた。
生クリームは後で注入するのでどうしてもパンに穴が開く。
本来の商品として販売する場合は、注意書きが必要だろう。
「張り込みの時は作ってもらってください」と俺が石坂たちに顔を向けて言うと、「ああ、いいな、これ」と石坂がうなづきながら言った。
「もったいないけど、メニューに入れてもらってもいいような気がする」
俺が言うと、優華は少し考えて、彩夏と相談を始めた。
「どこかのパン屋さんと提携して売ってもいいんじゃないの?」
爽花が言うと、優華も彩夏もなにやら思いついたようで、ふたりそろって出て行った。
「あてがあるようだな」と俺が言うと、俺の食べかけをエリカにとられてしまった。
トレイにはまだまだたくさんの残っているが、きっと全部なくなるだろうと思いながら、俺はひとつ手に取ってからぱくついた。
「あー、そういやあ、事件あったなぁー…」と俺が言うと、「ふぁみーっ?!」と警察官一同がジャムパンを口に入れたまま言い放った。
「優華の洗脳の書にも書いてあるんですけどね」
~ ~ ~ ~ ~
ケンと始めて出会ったのは、俺が高校一年の夏休みだった。
ケンは俺と同い年で、タレント養成学校のような高校に通っていた。
ひとり汗を流しているケンを見つけた時、―― ああ、いいな ―― と俺は思い、ケンに一目ぼれしてしまった。
爽太郎は男だが、俺の目には女性としてしか写っていなかった。
一目ぼれと言っても、それは恋愛感情だけではない。
学校というものは他校の生徒が簡単に入り込める場所ではない。
手順を踏もうと思った時に、「拓ちゃんっ!」という彩夏の声が聞こえた。
彩夏は自転車に乗ってこの高校に来たようだ。
「来年、ここ入るの?」と俺が聞くと彩夏は、「もう決めたの」と言ってスカートを翻して自転車を降りた。
「山東彩夏っ!!」と大声でケンが叫んだ。
「おまえ、何者だっ!!」と今度はケンが俺をにらみつけて言った。
「彩夏の幼なじみ」と俺が答えるとケンは、「くっそぉー…」と言って悔しがっている。
「あ、俺、実は練習相手を探してるんだ。
よかったら一緒に走ってくれないかなぁー…」
俺が言うとケンよりも先に、「そうしようよっ!!」と彩夏が明るく言うと、「ちっ、しょうがねえなぁー…」とケンは言って、校舎に向かって走って行った。
そしてケンは、教師らしき男性とともに校門に現れて、「あ、君は、松崎拓生君ですね」と男性にフルネームで言われた。
「あ、はい、そうです」と俺が答えると、「ケンの練習相手にはもったいないほどです」と言われてから俺は、このセキュリティーの厳しい学校に顔パスではいることができるようになった。
俺はこの神奈川県の陸上競技界のホープとして注目されていたので、比較的面は割れていた。
よって陸上部顧問の教師も、俺の顔を知っていたようだ。
「最高の環境だよなぁー…」と俺は専用の陸上トラックに足を踏み入れた。
「おまえほどいい成績を残せるヤツはこの学校にはいねえ」とケンは仏頂面で言ったのだが、俺をほめてくれたようだ。
「だがなっ!!
卒業するまでにおまえを超えるっ!!」
ケンの気合は素晴らしいと俺は感動した。
「じゃ、走ろうか」と俺が軽く言うと、「お、おう…」とケンは拍子抜けしたように、小さな声で答えた。
まずはトラックの感覚を体に叩き込むためにゆっくりと周回した。
ケンは、「こら、待ちやがれっ!!」と言って、俺を追いかけてくる。
ごく普通のペースなのだが、ケンには速いようなので、少しだけスピートを弱めた。
「全力で走ってんじゃあねえっ!!」とケンは言って、俺と併走を始めた。
「そうだね、この程度でいいのかもしれない」と俺が言うと、「なにおう…」とケンが言って、俺よりも一歩前に出た。
しばらくはこれでいいだろうと思ったが、半周もしないうちに、ケンをおいて行ってしまった。
しばし休息してから、直線トラックに移動した。
ここでも足元の感触を確かめて、スターティングブロックに脚をかけ、飛び出しの練習を重ねた。
「計測器もあるんだね」と言って俺はきっとうらやましい目で見ていたことだろう。
「宝の持ち腐れ」とケンはひと言で説明した。
「じゃ、残り二年間と半年は大いに使わせてもらうよ!」と俺が言うと、「ああ、いいぜぇー…」とケンは始めて俺に笑みを向けて言った。
全てが自動なので、スタートボタンを押すだけだ。
その役目は彩夏がやってくれた。
「オンヨーマーク」「ゲッセッ」「タァ―――ンッ!!」
俺は電子音の合図とともに一気に飛び出した。
―― あー、最高だ、ここ… ―― と俺が思った途端、もうゴールしていた。
「あ、速ええ…」と俺は言ってタイム掲示板を見ると、10秒388だった。
「へー、俺って結構速かったんだ…」と俺が言うとケンが俺のそばに来て、「国体に行けるやつが遅いわけがねえっ!!」とケンに言われてしまった。
「その前に高校総体があるよ」と俺が言うと、「自慢してんじゃあねえぞぉー…」と言ってケンは俺をにらんできた。
「そういうわけじゃないけどね。
やっぱ、いいなぁー、ここ…」
「転校して来い転校…」とケンに誘われたがさすがに断った。
「ちっ! 頭でっかちのクセに…」とケンに言われてふと気づいた。
「もう一度走ろう」と俺が言うと、「ああ、何本でも付き合ってやるっ!!」とケンが言い放って気合十分の顔になった。
―― 頭を上げずに… ―― と俺は漠然と思っただけだ。
だが、この走法で100メートルを駆け抜けられるのかが最大の問題点だ。
しかし今回は確かめるだけにして、スターティングブロックを踏みしめた。
スタートと同時に、できる限り回転は上げないようにして前傾を保ったが、どうしても脚の回転が上がってしまう。
考えながら走ったので、ゴールした時はかなり遅いと感じたが、タイムは10秒を切っていた。
「やったぁーっ!! 自己最高記録更新っ!!」と俺が叫ぶと、ケンはさすがに何も言えなかったようで、ぼう然として俺を見ていた。
もちろんこの快挙に、彩夏もかなりの勢いで喜んで、俺の両手を取って飛び跳ねて喜んでくれた。
「おまえ、オリンピックに行けっ!」とケンはかなりうれしそうな顔をして俺に言った。
「あ、もう興味ないから」と俺が言うと、「ふんっ! それでいいぜ」とケンは言って俺に笑みを向けてくれた。
これ以上鍛えてもデメリットしかないと思った俺は、この日を境にして、基礎体力だけを積むことに決めた。
よってケンには二年と半年ほど、「本気で走りやがれっ!」とことあるごとに言われた。
しかしその顔はいつも笑みだった。
ケンとの関係は初めから終わりまで良好だった。
そして、ケンには誰も逆らえないのか、部外者のオレには誰にも何も言われない。
それには理由があり、この学校の理事長がケンの父親だったからだ。
数回、面接のような雰囲気でケンの父親と話した。
当然のように、俺の父のことを知っていたので、かなり話は弾んだ。
そして進路の事を聞かれて俺は、マナフォニックス社だと即答した。
ケンの父は驚いた顔をして、「判事の道を歩まないんだね」と聞いてきた。
「できれば、大勢の人が喜んでくれる仕事がいいと
ほとんど決めています」
俺が言うとケンの父は笑顔で大きくうなづいてくれた。
彩夏がこの高校に入学を果たしてすぐの春の日に、事件が起こった。
彩夏にはこの高校を選んだ理由がある。
それは料理研究部が、大いに知名度が高かったからだ。
大きな大会に出場しては、トップの成績を修めている。
それは一般の調理コンテストにも波及していて、この部に所属していた者は必ずといっていいほど大成していた。
そんな中、伝説とも言えるパティシエで名を売っていた彩夏が入部した時はお祭り騒ぎだったという。
彩夏はスイーツだけでなく料理ももうすでに造っていたので、さらに腕を磨こうと思い入部した。
片や部の方は、スイーツ部門でも問題なくトップを取れるという好条件の人材を確保できた。
お互いの想いが一致して、彩夏が在籍した三年間は、この高校の名をさらに世に知らしめた。
俺の好物のジャムパンを購買部で発売することに決まり、彩夏たちのグループはまるで本物のパン屋のように朝早くから登校していた。
販売するのはジャムパンだけではなく、菓子パン並びに調理パン、そしてさらには弁当などもアイデアを持ち寄って売ることに決めていた。
よって、今まで大人気だった学生食堂は、閑古鳥が鳴くようになったという。
今までとは逆に、パンや弁当を手にできなかった者だけが、学食に足を踏み入れることになってしまったようだ。
しかし、毎日のことではなく、月、水、金曜日の三日間限定なので、学生食堂はごく普通に成り立っていた。
そんなある日のこと、学生食堂で食中毒騒ぎがあった。
騒ぎのあった日は火曜日だったので、料理研究部の作ったものは売られていなかった。
よって、この学生食堂は閉店を余儀なくされてしまった。
困ってしまった学校側は、しばらくの間、料理研究部に学食の仕事をしてもらうことにした。
もちろん仕事なので給料は支払われ、そして、授業の午前一時間、午後一時間も、最低必要人員の部員の三分の一は公欠扱いとなる。
この話しを彩夏に聞いた時、俺は妙に嫌なにおいをかいだ気がしたのだ。
「まさかだけどね、本当に食材がいたんでいたんだろうか…」と俺が言うと、彩夏はすぐに察したようで、「…じゃあ、学生の誰かが…」と俺に驚きの顔を向けて言った。
「毎日うまいものを食べたいから」
俺が言うと彩夏は、「余計な提案、するんじゃなかった…」と言って落ち込んでしまった。
「もうひとつあるよな」と、俺たちの話しを聞いていたケンが言った。
「それ、言いたくなかったんだけど…」と俺が言うと、「きっちり白黒つけるべきだ!」とケンは熱く言ってから、「彩夏の先輩の仕業」とケンは少し小さな声で言った。
「…あー…」と彩夏は言って、その犯人が誰だかわかってしまったようだ。
「なんだ、イジメにでもあってたのか?」とケンが言うと、彩夏は首を横に振った。
「それはないんだけどね、最近生き生きとしてきたの、中谷先輩…」と彩夏は犯人候補の名前を告げた。
「私にはね、ライバル心はあるけど仲良くしてるの。
でもね、部長と仲が悪いって言うか…
いつもふたりの間には火花が散っていたの。
それでね、部長のお母さん、学食で働いていたの…」
―― これが食中毒事件の顛末… ―― と思い、さてどうしようかと思っていた時に、理事長であるケンの父が俺たちに向かって歩いてきた。
「重い話しをしているようだね。
さて、事実だけを話してくれないかな?」
ケンの父が言うと、彩夏は事実だけを理事長に話した。
理事長は、「よくわかったよ、ありがとう」と言ってきびすを返して校舎に向かって歩いて行った。
「はー、さすが理事長だよね…
さすがにどうしようかって思っちゃったよ…」
俺の言葉に、「へんっ!!」とケンが悪態をついて、自分の父の背中をにらみつけていた。
~ ~ ~ ~ ~
「彩夏君が、事件解決…」と五月が言って苦笑いを浮かべた。
「そうなるんですけどね、
彩夏にとってはそう思いたくないはずですから」
俺が言うと、誰もが神妙な顔になった。
「優華君が出てこなかったけど?」と石坂が言ったので、「自分の事業のことも考えていたそうで…」と俺が言うと、誰もがあきれた顔をした。
「とんでもない妹で申し訳ないです」と俺が言うと、誰もが苦笑いを浮かべた。
多重耳はひとつの時間でふたつの思考を使うことができる。
よって、若年者でも多くの情報を知り得ることが可能だ。
ながら効果を使える者は、簡単に秀才の域まで達することが可能となる。
「だが、タイミングがよすぎるよな」と五月が好奇心旺盛の笑みを浮かべて俺を見た。
理事長がいきなり俺たちに近づいてきた件だろうと察した。
「あの高校では、少々活躍させてもらうことになったんですよ。
特に風紀の問題で」
「理事長はこれ幸いとタクナリ君をマークしていた。
そして、浮かない表情の三人を見て颯爽と姿を現した」
五月が言うと俺は、「はい、そうなんでしょうね」とだけ答えた。
「なかなかの切れ者だな」と石坂がうなづきながら言った。
「ケンはそんな父親をライバル視しているんですよ、今も」
俺が言うと、五月たちは笑顔でうなづいた。
「それで、結末は?」と五月が聞いてきた。
できれば答えたくなかったのだが、答えなければ答えたも同然だ。
よって俺はしばし考え込んで、いい言葉が見つかったので笑みを浮かべた。
「彩夏が男になりました!」と俺が言うと、みんなは一斉に笑い転げた。
これも事実で、自分自身を震い立たせようとでも思ったのか、俺の前だけでは男言葉で話すようになってしまったのだ。
ずっと我慢していたようで、本当の彩夏をついにさらけ出す事件になった。
彩夏はこの先、自分が吐露するよりも守ることを最優先的に考え始めた。
だがその逆に、人がいいことなどをすると異様に興奮するようになった。
できれば自分がそうありたいのだろうが、それはデメリットも抱え込むことになるからだ。
警察官たちも彩夏の心境を理解したようで、まだ笑っているが事件の真相は理解できたはずだ。
… … … … …
ついに嫌な日がやってきた。
母とカメラの前で戦う日だ。
社での仕事が終って撮影現場に直行すると、俺は出演者たちに拍手と声援で歓迎された。
早速メイク室に連れて行かれたが、「あ、このままで結構です!」と言われて、頭髪だけを軽く固められた。
服装もこのままでいいようで、―― 本当にこれでいいのだろうか? ―― と、いぶかしげに思ってしまった。
スタジオに行くと、また拍手で迎えられて、「なんも変わってねえ」とケンに言われてしまった。
「本当にこれでいいのか?」と俺が不安をもって聞くと、「みんなよろこんでっからいいんだよ」とケンに笑顔で言われてしまった。
母との対決のお題は、優秀な若手社員であるケンの引抜き、ヘッドハンティングがテーマだ。
引き抜く方が俺で、抜かれる方が母の役となる。
これはまるで俺のリアルだったと思ったが、抜かれそうになった方の心境を考えると簡単なことだった。
そして抜く方も、それほどに難しいことではない。
ケンの役どころはもうすでに頭に入っているので、それをベースに口からでまかせを言い放てばいいだけのことだ。
そのでまかせを母がどう打ち崩すのかが、この演技の最重要事項になる。
この演技の場合、俺としては攻める方が格段に簡単だとも言えた。
そうすることで、俺よりも母にスポットライトが向けられるはずだ。
だが武器として、ひとつだけ小道具を用意してもらった。
シーンの細かい設定は、引き抜きの苦情を言いに来る母が颯爽と歩く姿から始まる。
俺はオフィスで待機して待つのみだ。
母の役名は織田千世。
千年の世を生きる豪商という意味で、母が命名したそうだ。
俺の役名は寺嶋苦楽。
まったくもって俺が少々背負い難い姓名だった。
母こと千世がとんでもない剣幕で、オフィスのドアを開けた。
その立ち姿は素晴らしいと、俺は拍手したくなったが、俺は苦笑いだけを浮かべて、ゆっくりと立ち上がった。
「やあ、いらっしゃい。
いつお会いしても、変わらずお美しい」
俺は言って、応接セットにゆっくりと歩いていった。
「さあ、どうぞおかけください」
俺が手のひらを上に向けて応接セットを差すと、母はしっかりとした足取りで歩いてきて、長いソファーの中央にデンと座り込んで脚を組んだ。
だがその目だけはずっと俺をにらんでいる。
「本当に美しい方だ。
どうです?
婚姻してさらにお互いの社を大きくしませんか?」
この言葉は母にとって禁句だったようで、言葉を発することができなかったようだ。
取り合うのは若手社員であるケンこと森山嵐で、母ではない。
だが、将を欲するならば馬を射よ、でもあるはずなので、これは常套手段のはずだ。
「あんたのようなにやけた男はゴメンだわ」
母は始めてセリフを口にした。
その顔は汚いものを見る目で一杯だった。
「ええ、断られることはわかっていました。
失礼します」
俺は言ってから、ひとりがけのソファーに腰を降ろして、少しだけ前のめりの姿勢を取った。
「森山嵐君はわが社において必要な人材ですので、
どうか心よく差し出していただきたいのですよ。
そうすることが、
彼にとってもさらに活躍の場を広げられることにも繋がるのです。
あなたの彼の起用方法は間違っている。
彼のことを何もわかっていないと、私は感じているのですよ」
「森山はそれを望んでいないと言っている!
やつはこれからの人材だ!
まだまだ下積みが必要なんだよ!」
母が言い放つと同時に俺は大声で笑った。
そしてゆっくりと立ち上がり、書類棚から薄い書類を抜き出して応接セットに戻った。
そしてやんわりと書類をテーブルの上に置き、またソファーに座った。
「森山嵐君を詳しく調べさせていただきました。
年は私と同じですが、彼は私の甥なのですよ」
台本には森山嵐の両親は出てこない。
よって、寺嶋の親族に仕立て上げようと画策したのだ。
さすがの母も目が踊っていた。
そして乱暴に、何も書いていない書類を見てから、また乱暴にテーブルの上に打ち捨てた。
「お情けちょうだい、ということでいいの?」と母は鼻で笑って俺を見据えた。
「親族だからこそわかるのですよ。
彼と手を組めば、わが社はもう安泰だ。
この事実、彼に突きつけてみましょうか?」
母は悔しそうに唇をかんだ。
そして素早く立ち上がって、「出直してきてやるっ!!」と叫んでからきびすを返した。
俺の演技としては約五分程度かそれよりも短いと感じた。
第一戦は花を持たせてくれたという展開で、これは大いにありだと感じた。
「カァーッ!!」と監督の声がスタジオに響き渡った。
今日は本職の監督が全てを仕切るようだ。
母はそれほどに気合を入れて役にのめりこむことに決めていたようだ。
「拓ちゃんずるいわよっ!!」と母が言って、俺に走り寄ってきた。
「森山嵐は天涯孤独。
こういったストーリーもありだと思ったんだよ」
俺が言うと母は、「ううー…」とうなって監督と脚本家を交互ににらみつけた。
しかしふたりは両腕で大きな丸を描いて、母を大いに憤慨させた。
ただの天涯孤独よりも、サラブレッドの血が流れている方が、森山嵐にハクがつくからだ。
「兄貴の社に行きたくなったぜぇー…」とケンが笑顔で俺に言ってくれた。
「その感情は捨てろよ。
演技が変わるからな」
俺が言うとケンは反省したようで、「お、おう…」と言って気合を入れ直した。
母が考え込んでいる間に、俺に笑みを向けている大御所といわれる俳優たちにあいさつを始めた。
あまりにも俺が低姿勢なので、俳優たちもこぞって俺のマネをしてきた。
俳優たちのいつもの姿ではないということは、マネージャーや付き人の表情からよくわかった。
最後にあいさつをした俳優は母を支持している、黒田兵衛というベテラン俳優だった。
「タクナリ君のその度胸、感服しました」と言って俺に頭を下げてくれた。
「はあ、今までの修羅場に比べると、
命をとられることはないので気は楽です」
俺が言うと、「ああ、そうなのでしょうなぁー…」と言って黒田は同情の眼差しを俺に向けてくれた。
「ですが次は命をかけた演技をしてみたいと思っているのです。
少々素人っぽいかもしれませんけど」
俺が言うと黒田は、満面の笑みで俺の肩を叩いて、「次回は私と競演してください」と言われてしまったので、極力気を悪くしないように丁重にお断りをした。
すると、『ナァーン…』と少しさびしそうな顔をしてエンジェルが俺の足元にいた。
抱き上げると喜んでくれたのだが、どうやら助け舟役だったようなので、エンジェルを肩に乗せて、母を捜した。
エンジェルは俺の肩からすばやく飛び降りて、スタジオの隅にいた母の肩に素早く飛び乗って、『ニャーン』と穏やかに鳴いた。
母が振り返って俺を見た。
動揺がありありとわかり、どうすればいいのかわからないといった顔をしていた。
「俺、欠点というよりも弱点をさらけ出していただろ?」と俺がいうと、「えっ?」と言って母は考え込んで、「ああっ!!」といって母は社長に戻った。
「結婚の話、考えさせていただきますわ」と言い放って大声で笑ってから、スタンバイを始めた。
―― 本当にわかったんだろうか… ―― と俺はかなり不安になってしまったが、後半の演技は母の真骨頂が出て、俺の苦笑いで撮影は終了した。
… … … … …
俺と母が午後10時ごろに署に戻ると、「おまえ、どこに行っていたんだっ!!」と彩夏が俺の亭主のように言い放った。
「撮影だよ」と俺が言うと、「なにっ?!」と彩夏は言って驚きの表情を浮かべ、「やっちまったぁ―――っ!!!」と大声で叫んで、頭を抱え込んでうずくまった。
「デート?」と俺が聞くと、「約束するんじゃあなかったぜぇー…」と言って、彩夏は猛烈に後悔を始めた。
「苦楽さんと結婚するのよっ!!」と母はいきなり言って、俺の腕をつかんできた。
みんなは目が点になり、父はかなりの勢いで笑っている。
「催眠術のようなものだから。
いわゆる役者病ってやつだね。
競演すると、こんな病気が出る人は多いようだからね」
俺が言うと、「電気、流す?」とエリカが極悪人の顔で言った。
「そんなことしなくても簡単だよ」と俺は言って母とふたりして歩いて父の前に立った。
「…ああ、苦楽さんがふたり…」と母は言って、俺と父の顔を見比べた。
「若い方がいいっ!!」と母は俺の腕をつかんだ。
父はまた笑い転げている。
「母さん、いい加減にして欲しい」と俺が言うと母は一気に目が覚めたようで、素早く俺の腕を放した。
「…ああ、夢を見てたわ…
ごめんなさい…」
母はまずは父に謝ってから、俺に頭を下げた。
「のめり込みすぎだよ。
そのうち、夢から抜け出せなくなるぞ。
だからもう二度と、母さんとは競演しないからな」
俺が言うと、「わかったわよぉー…」と言って、母はすぐにいつもの席に座って、テレビにかじりついた。
「あ、これからやるのよっ!!」と母は叫んだが、もうみんなも知っていたようで、母の仲間入りをしていた。
社で編集した、俺たちのリアルな出来事を放映する番組が始まるのだ。
従業員用の出入り口はもうすでにリニューアルを終えているので何も問題はない。
後半に投稿映像を流すと母に聞いていたのだが、司会者たちがオープニング早々に、『寺嶋皐月さんからの投稿映像をどうぞっ!!』と言って、妙に緊迫感の漂うオープニング映像が流れた。
そして早速、編集した映像が流れ出し、みんなは腹を抱えて笑い転げた。
まずは事件の発生で大勢の人が亡くなったお悔やみ。
そのあとすぐに、俺たち登場人物の紹介が始まった。
微妙に名前を変え、そして変えた顔とともにひとりずつ紹介した映像が流れている。
「ありえねぇ―――っ!!」と俺は叫んで大いに笑ってしまった。
笑う映像ではないのだが、当事者はどうしても笑ってしまう。
緊迫感がある映像のはずなのだが、その表情ひとつひとつがついつい笑えてしまうのだ。
俺たちを不思議そうな顔をして見ていたのは、有紀子だけだ。
だが、衛が映像に姿を見せるとその体の大きさからすぐに納得したようで、「みんなの顔だけ変えちゃったんだぁー…」と言って、納得の笑みを浮かべていた。
「科学の進歩を物語り、そして、大変スリリングな映像でした」
いつもはおチャラけている司会者が真剣な眼差しをもって言ってくれたことに、俺は感動すら覚えてしまった。
「さて、まだまだありますよっ!!」と司会者が言うと、俺の顔を変えた、『タクナリ君ダイジェスト』が流れ始めた。
みんなの様子を見る限り、これを発注したのは、にんまりと笑っている彩夏だとすぐにわかった。
しかし顔が別人なので、面白おかしく拝見させてもらった。
結局は、番組のほとんどをタクナリ君関連映像で埋め尽くしてしまったようだ。
母は早速、視聴率を確認して笑顔になった。
母のお気に入りの番組のひとつなので、失いたくはないのだろう。
かなり楽しい時間を過ごした俺たち一般人は、署を後にして家に帰った。
有紀子は早々に衛の部屋に行ったので、少しだけ勉強するようだ。
「ちょっと、拓生君…」とエリカが俺の袖を引っ張った。
「衛と一緒に寝てるんだろ?」と俺が言うとエリカは、「いいの?」と俺に聞いてきた。
「いつも楽しそうに話しをしているから問題はないぞ」
俺が言うとエリカはあきれた顔を俺に向けてから、「一緒にお風呂でもどう?」と言ったエリカを、爽花たちが連れ去って行った。
大人五人程度ならゆったりと入れる少々大きな風呂なので、女性たちはいつも一緒に入っている。
母も仲間入りするようで、一番子供のようなしぐさをして、みんなについていった。
この時間は俺がエンジェルを独占できるのだが、今日は疲れたのか充電器に収まってすやすやと眠っていたので、邪魔をしないことにした。
一日の情報量が多い場合は、家に帰ってすぐに寝る場合が多い。
充電器に収まっている時に、メモリなどのまとめや圧縮、ワークエリアの消去などを行なっている。
そして、人工知能の積み重ねも同時に行なっている。
そしてそのまま朝までゆっくりとするはずなのだが、パッチリと目を開けて、俺を見つけてすっ飛んできた。
「なんだ、もう終ったのか?」と俺が聞くと、『まあね』と少しけだるそうな声で答えた。
これがエンジェルの第二の成長だった。
今のところは俺と父しか知らない。
「ディックは?」と父が短く言って、俺をにらみつけた。
「もう少しかかるんじゃないかなぁー…
エンジェルは毎日15時間ほど外にいるから成長が早いんだよ。
いろんな人に会うし」
「俺も連れて行くかなぁー…」と父は本気で考え始めたようだ。
だが父の場合、ほぼ毎日職務室で勉強に明け暮れているだけなので、ディックの成長はあまりないと俺は思っている。
「母さんが知ったらうるさいと思うんだけど…」と俺が言うとエンジェルは、『ボスが悟られなきゃいいだけよ』と言い返されてしまった。
「母さんにはまだ早い?」
『まあね。
子供とほとんど変わんないもの…』
エンジェルが言うと、俺も父も大声で笑った。
『あら、おかしいわね…』とエンジェルが言って天井を見上げた。
『衛の部屋、三人いるわよ』
エンジェルの言葉にそれはおかしいと思い、俺は衛に電話をかけた。
衛はすぐに出て、『あーあ、ばれちゃった…』とすぐさま言うと、俺はかなり笑ってしまった。
「不良少女をつれて来い」と俺が言うと、『そうする…』と衛が答えて電話を切ってからすぐに、二階で少しだけ騒ぎがあって、衛が階段を下りる音が聞こえた。
リビングに姿を現した衛は、少女をふたり抱え込んでいた。
ひとりはもちろん有紀子だが、もうひとりは有紀子の数少ない理解者の友人で今野杏里だった。
「杏里ちゃんは家に人にきちんと言ってきたんだろうね?」
俺が言うと、「はい、お泊りするって…」と言って今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「俺たちに反対されるとでも思っていた」と俺が言うと衛が、「あはははは…」と空笑いをした。
そして衛はふたりを放して、父にあいさつをさせた。
「拓生は優しいが、俺は厳しいぞ」と父は笑顔だが、厳しい言葉を杏里に告げた。
杏里はついに泣き出してしまったが、有紀子が手を握るとぴたりと収まった。
「ふーん…
できれば家にいたくない…」
俺が言うと杏里は、「…はいぃー…」と言って頭を垂れた。
「女どもを追い出して、子供だけ預かった方がいいかもね」と俺が言うと父は、「千代は残す」と胸を張って言った。
「まあ、それはそれでいいんだけどね…」と俺は少しあきれ返って言った。
「親御さんと話しをする必要があるな」と父はいつもの厳格さで言った。
杏里に話しを聞くと、父母は年中ケンカばかりしていて、家ではほとんど勉強ができない環境だという。
見かねた衛が、こっそりと自分の部屋に杏里を招き入れて、勉強をさせているようで、最近は学力向上の兆しが見えてきたようだ。
杏里も爽花の山梨学習塾に通っているのだが、親が子供に迷惑をかけているので、あまり集中できないと俺たちに訴えた。
杏里自身も父母にいい加減にして欲しいと言ったのだが、杏里のためといってまたケンカを始めるそうだ。
「子供に迷惑かけるくらいなら離婚しろといいたいところだけど、
杏里ちゃんはそれを望まないよね?」
俺が言うと杏里は首を横に振って、「静かだったらそれでいいの」と言ったので少し笑ってしまった。
「それほどだということだな」と父は言って、杏里の携帯電話を借りて、杏里の親に電話を始めた。
どうやら杏里がいなくてもケンカをしているようで、ついには父の雷が落ちる始末となった。
明日の朝に、杏里とその兄を交えて父と話しをすることに強制的に決めたようだ。
「お兄さんは我慢してるんだ」と俺が言うと、「お兄ちゃんも家出状態で…」と杏里はさびしそうな顔をして言った。
杏里の兄は三才年上の15才で、もう高校入学が決まっているそうだ。
ケンの後輩になるようで、特待生として入学を決めていた。
転がり込んでいる先を聞くと、なんとケンの家だった。
「とんでもねえな…」と俺は言ってあきれ返ってしまった。
ケンに電話をかけると、ケンも帰宅していたようで、『え? 聞いてねえけど…』とケンは答えた。
そしてどこかに移動したのか、少し話し声が聞こえて、『いるそうだぜ』と少し笑って言った。
ケンの父も面倒見がいいようで、この先のことは考えているはずだと俺は思った。
「明日、父さんがご両親を成敗するそうだぞ」と俺が言うと、ケンは誰かと話しをして、『親父も行くそうだ』と答えた。
ケンに礼を言って電話を切って、杏里を見た。
「兄ちゃんは何か言ってないのかな?」
俺が聞くと、「おカネを稼げるようになったら一緒に暮らそうって…」と杏里は涙声で言った。
「あ、まさかだけど、お父さんとお母さんって再婚?」と俺が聞くと、連れ子同士の再婚だと杏里はたどたどしく言った。
「恋愛感情」と俺が短く聞くと、杏里は驚いた顔をして、ホホを朱に染めてうなづいた。
「ケンカの原因はそれもあるんじゃないのかなぁー…」と俺が言うと杏里はかなり困った顔をしていた。
「結婚ができないわけではないけどな。
世間体のことを考えると少々問題だから、
戸籍上、どちらかが養子に出ればいいだけだ。
杏里ちゃんは拓生の子供にでもなればいい」
父がマジメな顔をしてとんでもないことを言った。
杏里は夢見る乙女のような顔をして、「…ああ、タクナリ君がお父さん…」と言った。
「ほかを当たってくれ…」と俺が言うと杏里は、「はい、ごめんなさい…」と言って俺に謝った。
「何事も経験だぞ」と父はまだ言っているが、俺は無視した。
今夜のところは三人を解放した。
三人が二階に上がったところで、きれいどころがリビングに入って来た。
爽花に今の話しをすると、どうやら知っていたようで、また父の雷が落ちた。
「爽花は講師よりも教師になって、
社会的常識を勉強し直した方がいいんじゃないのか?」
俺が父の説教を終えた爽花に言うと、「それもありだって思っちゃったわ…」と肩を落として言った。
キレイどころは、父が怖かったようで、そそくさと寝室に行った。
「だけど、三人いるってよくわかったな」と俺が肩にいるエンジェルに聞くと、『ナァーン』と鳴いた。
俺が辺りを見回すと、母は俺の背後からエンジェルを見ていた。
―― なかなか賢い… ―― と俺は思って、「さて、風呂に入ってこよう」と言うと、エンジェルは母に抱かれた。
「抱いて寝ちゃだめだよ」と俺が言うと母はそのつもりだったようで、「明日、途中で止まるぞ」と俺がさらに言うと、母は泣く泣くエンジェルを放した。
エンジェルは素早く充電器の納まって、丸くなって眼をつぶった。
風呂から上がると父が立ち上がって、「この広い家が狭く感じるとは思わなかった」と嬉しそうに言って、風呂に行くためリビングを出て行った。
エンジェルは熟睡モードに入っていたが、ディックは愛嬌を振りまいている。
父は風呂から上がってからディックと遊ぶつもりなんだろうと、微笑ましく思った。
『拓生様はかわいがってくれないの?』とディックが俺に聞いてきた。
エンジェルは熟睡モードのはずだったのだが、片目だけを開けてディックを見ている。
俺は少々驚いてしまったのだが、「エンジェルがやきもちを妬くからな」と言うと、『一緒に走りたいんだけど…』と俺を上目使いで見て言った。
『あんたのボスは苦楽でしょうがぁー…』とついにエンジェルも参戦してきた。
『かわいがってくれてるのはわかるけどね、外で走りたいんだよ…』
『私だってそうよっ!
だけどね、ボスに迷惑がかかちゃうことはしちゃダメなのっ!!』
エンジェルが強く言うと、『はぁーい…』とディックは言ってエンジェルにやり込められてしまった。
「なるほどな。
エンジェルが誘ったか…」
俺が言うと、『ここにいる時間が退屈だったから』とエンジェルはなんでもないことのように言った。
「ディックはなぜ、父さんに話しかけてやらないんだ?
ああ、そうか…
話すとペットではなくなってしまう…」
俺が言うと、『うん… あまりよくないかなぁーって…』とディックは両前足にあごを乗せて言った。
「確かによくないよな。
だけど、父さんはディックと話すことを望んでいるからな。
わがまま言ってやればいい」
俺が言うとディックは、『うれしいけどね、もう少し考えてみるよ』と言ってディックはまた愛嬌を振りまき始めた。
「なかなか慎重だな…」と俺が言うとエンジェルは、『臆病なだけよ』とエンジェルは言って、ひとつあくびをしてから眼をつぶった。
「ああ、エンジェル」と俺が言うとエンジェルは片目だけ開けた。
『人の気配を追えるの。
小さな声でも増幅できるから。
知らない人がいたらすぐにわかっちゃう』
エンジェルは饒舌に言った。
「そうか、わかったよ」と俺が言った途端、妙な雰囲気がリビングに漂っていた。
「話せるんじゃないっ!!」と母が大声で俺に向かって言った。
―― さて、どうしよう… ―― と俺は思ったが、「空耳なんじゃない? 夢でも見たんじゃ…」と俺が言うと母は、「えっ… そうだったのかなぁー…」と言って、寝室に向かって歩いて行った。
「…どう思う?」と俺が小さな声で言うと、エンジェルは答えなかった。
少し待っていると、『…油断してたわ…』とエンジェルが小さな声で返してきた。
「母さんは今は寝室。
そして、このリビングに全神経を集中している」
俺が言うとエンジェルは、『…正解…』と小さな声で言った。
「疑っているけど、夢だったとも思っている」
『…そのようね…』
「今日の会話はこの程度にしておこう。
ふたりともおやすみ」
俺が言うと二匹は小さな鳴き声をあげた。
… … … … …
翌日の朝、杏里の家族成敗の妙な儀式を横目で見ながら、俺は鬼のような顔をした彩夏を連れて、デートに行くことになってしまった。
顛末を知りたかったのだが、彩夏は許してくれそうもない。
今回の俺たちのデートは母たちとは別行動だ。
母は今日も撮影があるからだ。
「今日はなんも考えてねえぞ。
行くことになるとは思わなかったからな」
俺が言うと彩夏はさらに怒り始めた。
だが、こうやってコミュニケーションを取るだけでも彩夏は喜んでいるはずなのだ。
次第にその表情がほぐれて、怒りながらも笑顔になっていく。
ひとしきり彩夏の愚痴を聞き終えたあと、「どこ行くんだ?」と俺が聞くと、「服、脱ぐところ…」と彩夏は恥ずかしそうに言ったので、「スーパー銭湯か、温水プール…」と俺が言うと、「行くわけがねえ」と一刀両断に却下された。
「ああ、なるほど…
今日はキャンセルできなかった…」
俺が言うと、「普段から細かい情報まで教えてくれているからなっ!」と彩夏は胸を張って言った。
俺たちを数名が追っている気配を感じていたので彩夏に聞いてみただけだ。
そして今日の場合、『真実の報道』と付け加えているはずだ。
ふと前方を見ると、コンビニエンスストアの防犯用の回転灯が回っていた。
「こんな朝っぱらから…」と俺は言って携帯を出して通報しようかと思ったが、手違いなどかもしれないと思い、まずは様子を見ることに決めた。
しかしその必要はなく、サングラスにマスクをした男が刃物を右手に持って、コンビニから出てきたので、素早く駆け寄って前蹴りを喰らわせた。
男はその勢いのまま、自動扉の横の窓ガラスに強か体を打ちつけた。
彩夏はすでに店内に入って確認作業をしていたが、彩夏は笑みを浮かべていたので誰も傷ついていないと確認できた。
すぐにサイレンが聞こえて、パトカーが到着した。
顔見知りの警官だったのであいさつをしてから、伸びてしまったコンビに強盗犯を引き渡した。
防犯カメラが全てを撮っていたはずなので、俺と彩夏は早々に解放された。
「もうネタ提供ができたな」と俺が言うと、「まあなっ!!」と彩夏は言って、男友達のように上機嫌で俺の肩を叩いた。
まずはいつもの動物園に寄って行こうと地下鉄のホームに降りる階段を降り始めた時、「泥棒―――っ!!」という金切り声に近い女性の声が聞こえた。
すると男が階段を駆け上ってきて、どう見ても女性もののブランドバッグを手にしていたので、俺と彩夏で階段を封鎖した。
男は前を向かず下を向いていたので、俺はその場で男の首根っこを押さえつけて、階段にうつぶせに寝かせた。
彩夏はすでに警察に電話をしていた。
「なんだか都合いいな…」と俺が言ったが、「俺は何にもやってねえっ!!」と彩夏はまるで犯人のように豪語した。
デートの邪魔をされていると、ただただ怒っているだけだ。
女性が階段を昇ってきて、「…ああ、ありがとうございますぅー…」と言ってほっとした顔を俺たちに見せ、「タクナリ君と山東彩夏さんっ!!」と女性は言ってからまた、金切り声を上げ始めた。
パトカーのサイレンが聞こえて、今度は別の顔見知りの警官がやってきた。
ここには監視カメラはなかったので、ひと通りの説明をして、引ったくり犯を引き継いでもらって開放された。
「動物園に行ったら昼だな…」と俺が言うと、「ふんっ!!」とだけ彩夏は言ったが、俺が逮捕する場面を思い出したのか、にんまりと笑った。
動物園までは何事もなくたどりつけたが、また、「泥棒―っ!!」と少し遠くから叫び声が聞こえた。
「万引きだろうな」と俺が言うと、彩夏はさすがにうんざりとした顔をした。
俺は何度もこの動物園を訪れているので、ここの施設の配置は全て網羅していた。
声がした方向には大きな売店がある。
さらには動物たちが犯人の居場所を教えてくれるかのように騒ぎ出し始めたので、もうすぐここに来ると思って待っていると、大きなスポーツバッグを抱えた少女っぽい三人組が現れた。
警備員も騒ぎを聞きつけて、入園口を塞ぐようにして立った。
「今回は任せよう」と俺は言ったのだが、入園口を封鎖されていることを知った少女のひとりが、「ちくしょうっ!!」と言って刃物を出してしまったのだ。
この場合は仕方ないので、俺は素早く少女に近寄って、躊躇している手首を押さえつけて、やんわりと地面にうつぶせに倒した。
ほかの二名はへなへなとその場に倒れたので、すぐさま女性警備員に取り押さえられた。
この動物園はメディアで注目されているので、グッズが飛ぶように売れて、インターネットオークションでも高値がついていたりするものもある。
それを狙って万引きという犯行に及んだはずだ。
今日は園長は休みのようで、顔見知りの事務長が姿を見せて、万引き犯を捕まえたことよりも、俺が来園したことを喜んでくれた。
ちょっとした人間の負の感情や騒ぎを起こそうとしただけで、動物たちが騒ぎ始めるので警備が楽になったと笑顔で話してくれた。
「野生化、かなぁー…」と俺が動物たちの声を聞きながら言うと、「はい、そうかもしれませんね」と事務長は答えて笑みを俺に向けてくれた。
サイレンの音が聞こえて、コンビニ強盗を捕らえた時に来た巡査たちが驚いた顔を俺に向けた。
「見回り、ご苦労様ですっ!!」と言って敬礼してくれたが、俺としては少々うんざりとしてしまったので苦笑いを浮かべたはずだ。
今回は目撃者も多いことから簡単に解放されて、猫科の動物がいる檻を彩夏とともに一周した。
「はぁー、これはすごいぞぉー…」と彩夏が大いに感心してくれたことだけがうれしかった。
早々に動物園を出て、洒落たレストランで食事などと思い、複合ビルの一階にあるレストランをチョイスした。
―― 今回は何もありませんように… ―― という俺の願いが通じたようで、今回は何事もなく、穏やかに食事を終えた。
「…ふんっ! つまんねえ…」と彩夏が言ったので俺は笑ってしまった。
「三件も犯人を検挙できたんだから上出来だろ?」と俺が言うと、「まあなっ!!」と言って、彩夏は男友達のように俺の肩を組んできた。
すると、今までにない拓郎伯父の記憶がよみがえってきた。
俺も彩夏の肩を男っぽく抱きしめた。
「おまえの父ちゃんに拓郎伯父さんのこと聞いたよな」と俺が言うと彩夏はゆっくりと肩を組んだ手を下ろした。
そして、少し泣き顔を浮かべて、「…うん…」とだけ答えた。
彩夏の父、昭文の子供の頃の夢は、警察官になって拓郎伯父とともに悪いやつを捕まえるというものだったのだ。
だが、昭文の両親の商売がら、それはかなわぬ夢だった。
しかし俺と彩夏がその夢を叶えたことになった。
「首相も少しは喜んでくれることだろう」と俺が言うと、「ああ、よろこばねえとぶっとばすっ!!」と彩夏は言って、細腕に力こぶを作って言った。
「なかなか逞しいよな」と俺が言うと、「行こうぜっ!!」と彩夏はまた俺と肩を組んで、俺が拓郎伯父から仕入れていた場所の方に向かって歩いていった。
俺たちがたどり着いたのは、父たちが幼い頃によく来た、街中にある小さな遊園地だ。
年長者であった拓郎伯父と正造が先頭に立ってよく遊びに来ていたらしい。
それほど裕福ではない子供たちに、「出世払いなっ!!」と拓郎伯父たちはいつも言っては、みんなにカネを出して一緒に楽しんでいた。
もし、俺たちもエリカを同じ扱いをしていたら、運命は変わっていただろうと感じた。
それは確実に悪い方に変わっていたはずなのだ。
俺にとって仲間たちとは最高の関係に近づいているはずだからだ。
俺たちが遊園地に入るとともに、大勢の来園客がイベントだとでも思ったようで俺たちを囲んだが、「さあ、参りましょうか」と言って、父と同年代のスーツを着た女性が俺たちの目の前に現れた。
首から提げている名札は、「河野」と読み取れた。
「はあ、父の幼なじみの方ですね」と俺が言うと、河野早苗は驚きの顔を俺に向けた。
しかしすぐにその表情を緩めて、「もう、苦楽君ったら…」と言って恥ずかしそうな顔をしてから前を向いた。
早苗はあるモニュメントの前に俺たちを誘ってくれた。
来園客たちも俺たちにぞろぞろとついてきているが、5メートルほどは離れて俺たちを見ている。
しかも、携帯電話やデジタルカメラで写真や動画などを撮っている人がなぜかまったくいない。
これは今となっては妙なことだと、俺は怪訝に思った。
「ああ、これは…」と言って俺はそのモニュメントに釘付けになった。
なんと、拓郎伯父や父たちの寄せ書きがあったのだ。
厚みのある透明のアクリル板で、その部分だけが風雨から守られていた。
じっくりと眺めながら数えると、15人もの名前がマジックらしきもので書いてある。
よって、記憶になかった名前と顔が鮮明によみがえってきた。
「まさか、これを守るためにここで…」と俺が言うと、「それもあります」と早苗は少し涙ぐんで言った。
「私、どうしてもしなければいけないことがあるんです」と早苗が言ったので、「正解、言ってもいいですか?」と俺が言うと、「えっ?」と驚いた声を、早苗と彩夏が同時に上げた。
「俺には拓郎伯父さんの記憶がありますから、
ここに来て、大まかな記憶はほとんどよみがえったと思います」
俺が言うと、早苗は大声で泣き声を上げて、「拓郎ちゃんっ! 拓郎ちゃんっ!!」と叫び大いに泣いて俺の両手を握り締めた。
早苗は思い出したくない過去を思い出してしまったようだが、悲しみだけではないと俺は感じた。
「でも、助かってよかった」と俺が言うと、早苗は首を横に振った。
俺はゆっくりと、拓郎の最後を早苗に語った。
「…拓郎伯父さんは最後の最後で大失敗をしたんです。
だから、守られた人たちは気にしなくていいんです」
俺が言うと、早苗の心の痞えが降りたのか、少しだけ若々しい顔になったような気がした。
俺は早苗に小さなマリア像を手渡した。
すると早苗も菖蒲のように、やはり若返りを果たした。
彩夏も俺も早苗に笑みを向けた。
「この15人の中でまだ生きている人たちにも渡したいなぁー…」と俺が言うと早苗はマリア像を握り締めて、「それならわかります」と泣き顔だが笑顔で言った。
事務所に連れて行かれて職員たちに大歓迎を受けたあと、15人のリストのコピーをもらった。
実際にまだ会っていない人は三人いる。
やはり俺の住む町にクリス・カーマイルはいるようだ。
リストから顔を上げると、早苗はいなかった。
「…洗面所だぁー…」と彩夏が小さい声で言ったので、俺は少し笑ってしまった。
当然若返ってしまった早苗に同僚たちがすぐに気づいて伝えたのだろう。
早苗が帰ってきてから少しだけ話しをして、俺と彩夏はここの妙にスリルのある遊具に乗って、童心に帰って楽しんだ。
古いものなのだが、当然整備はしている。
だが、見た目が壊れそうなので、その恐怖感も味わえる。
そして手造り感がさらにいい。
みんなでここで楽しい時間を過ごすのもいいと俺は思ってしまった。
古めかしい遊園地を後にして、俺と彩夏は古いが人通りの多い商店街を歩いた。
この辺りは観光地でもあるので、休日は大いににぎわう。
よって今はまさに芋の子を洗う状況だ。
「夕食、食べて帰る?」と俺が聞くと彩夏は、「実はその前にね…」と言ってすぐに前方を見た。
「暴力団員?」と俺が言うと、「自称空手の達人たちって聞いてるの」と彩夏はかなり危ないことを言い始めた。
「警察官?」と俺が苦笑いを浮かべて言うと、「うふふ…」と彩夏は笑った。
「拓生がどれほど強いか、私に見せて欲しいのっ!!」と彩夏は叫んだのだが、俺は彩夏の手を取って、行きかう人々を避けて逃げた。
「ちょっ?! なっ?!」と彩夏は抵抗しようとしたが、あきらめたようで、走ることもせず、俺の走るペースにあわせて小気味よく飛び跳ねた。
そうしないと、確実に転んで怪我をするからだ。
彩夏をおぶって走ることも考えたが、それだとかなり遅くなる。
このまま走れば、達人たちをまくことは簡単なことだ。
右前方から伏兵が現れたが、素早く抜いて直進した。
「あ、ちが…」と彩夏が言った。
どうやら左の道に入ってもらいたかったようだ。
そのような動きだったので、無理をして直進したのだ。
俺と彩夏は地下鉄の駅に無事到着して、ホームに滑り込んできた電車に飛び乗った。
「よっしっ! 逃げ切ったぞっ!!」と俺が座席に座って喜んでいると、彩夏はかなり困った顔を俺に向けてから、俺の隣に座った。
「無駄な戦いはしたくない」と俺が言うと、「これほどまでとは思ってなかったわ…」と彩夏はあきれた目で俺を見た。
「雑誌ではなくテレビ」と俺が言うと、彩夏はさすがに驚いたようで、「そうよ…」と言って白状した。
「まさかずっとか?」
「その通り」
「まさか朝の三件の事件…」
「あ、あれはうれしいハプニング」と彩夏は言って俺に笑みを向けた。
「一番始めに蹴ってるからいっかぁー…」と彩夏はあきらめるように言った。
「ああ、蹴ったな」と俺は少し笑って言った。
グルメパラダイスにたどり着き、署に戻る前に、俺と彩夏は囲いが降りてくるボックス席に座った。
まだデートは続いているんだろうと、署にいるみんなは思ってくれているようで俺たちを笑顔で見守っている。
「杏里君はどうなったんだろうなぁー…」
俺が言って署を見ると、「別の女のこと考えんな」と彩夏に唇を尖らせて言われてしまった。
「話題の提供だろうがぁー…
それに杏里君の人生としても大切なことなんだぞ。
何でもかんでも自分のため、今は自分の時間などと思ってるから、
俺が愛想を尽かしたと思わないのか?」
俺が言うと、彩夏にとってはかなりショッキングだったようで、「…すまなかった…」と言って頭を垂れた。
そして、俺の言葉に大いに反応して、「愛想をつかされたのかっ?!」と言って驚きの声を上げた。
「ああ、大いにあるな。
特に俺に絡んでくる時はずっとそうだった」
俺が言うと彩夏は、「うおっ! うおっ!」とうなるような叫ぶような男泣きを始めた。
「恋愛対象としては相性が悪いと言った方がいいな。
エリカもそうなんだが、これからは変わるかもな」
俺が言うと、彩夏は一縷の望みも消えたとでも思ったのか、「…最後の晩餐…」と言ったので、俺は大声で笑った。
「この先、食事くらいは付き合ってやるよ」と俺が言うと、「それはいつっ?!」と言って彩夏は立ち上がって、―― これがいけない… ―― とでも思ったようで、ソファーに深く腰を落とした。
すると、日本警察署が見える面のフィルムモニターにテレビの映像が映し出された。
今はわが社のCMが流れている。
署内はここからだとほとんど見えないが、なんとなく人がいることは確認できる。
「なんだ? 久しぶりだけど…」と俺が言うと、「…今日のデートのダイジェスト…」と彩夏は泣き顔を俺に見せて微妙なニュアンスで言った。
ついに、彩夏の中で何かが変わり始めたと感じた。
「ご注文をどうぞっ!!」と彩夏と相対した笑顔の優華が言って部屋に入ってきた。
「今日のシェフのお勧めディナーを」と俺が言うと、「…同じものを…」と彩夏は泣きじゃくりながら言った。
「はい、かしこまりました」と優華は満面の笑みで言って、かわいらしくお辞儀をして、飛び跳ねるようにして厨房に走って行った。
「優華、機嫌いいな…」と俺が言うと、「俺が泣いてるからだろ」と彩夏は言ってそっぽを向いた。
「なるほどな。
そこそこ仲良く見えるのは、俺がいる時だけ。
これじゃあダメだよなぁー…」
「おまえ、体、四つに分けろっ!!」と彩夏はとんでもないことを言い始めた。
「できたらそうしたいね」と俺が言うと、彩夏はそれでもよかったようで、「…そうか…」とだけ言って涙を拭き始めた。
テレビ番組が始まると同時に、俺は驚愕した。
「おい、今日の映像だぞっ!!」と俺が言うと、「だからどうした」と彩夏に簡単に言い返されてしまった。
俺はあきれ返ってしまったが、復習も大切だと思い、しっかりと見ておくことにした。
『今日は、彩夏と拓生の楽しいデートの日…』
母がナレーションを担当していたので驚いてしまった。
「弟子になにやらせてんだ…」と俺が言うと、「黙って観てろ」とまた横柄に言われてしまった。
『…なんとっ!!
コンビニエンスストアの非常連絡用の回転灯が
回っているではありませんか!!』
「うっ!」と俺はうなってしまった。
俺は、回転灯を見た瞬間に、瞬間移動のようにコンビニの自動ドアの前にいた。
自分の記憶とはぜんぜん違うと思いながらも映像を見ていると、犯人を待ち構えていて素早く蹴り飛ばしていた。
『では、スロー再生でぇーすっ!!』と母の気の抜けた演技のナレーションが入り、この速度が俺の思考と同じだと感じた。
よって、頭で考えると同時にもう動いていたということになる。
「忍者だな…」と俺が言うと、「へんっ!!」と彩夏は悪態をついた。
しかしその顔は笑みに満ちていた。
そしてテロップに、『ヤラセではありませんっ!!』と赤い大きな文字で出たので、かなり笑ってしまった。
「お待たせしましたぁー!!」と言って、優華が料理を持って入ってきた。
そして笑顔で配膳を済ませて、俺の隣に座った。
「ちょっと、店員さん」と俺が言うと、「えええーっ?!」と言って優華は驚きの声を上げた。
「何のためにわざわざここに来たと思ってるの?」と俺がかなり困った顔で言うと、「はい、申し訳ございませんでしたぁー…」と優華は言ってすぐに立ち上がって部屋から出て行った。
「日本警察署崩壊の危機っ!!」と俺が言うと、彩夏は大声で笑った。
しかしその笑顔は今まで見たことのないほどに憂いに満ちていた。
二回目、三回目の検挙の時も、『ヤラセではありません!!』と出たが、どう考えても誰もがヤラセとしか思わないだろうと思ったが、いきなり警視総監が出てきて、『まさにスピード解決っ!』と力強く言ってすぐに消えた。
「このためだけに出てくれたんだろうなぁー…」と俺が言うと、「今回は快く出演してくれたわ」と彩夏が自然に言った。
今は緊張も演技もない自然な彩夏だった。
俺はある言葉を告げようと思ったが、今はまだデート中なので、無粋なマネはしないでおこうと思い直し、うまい料理に舌鼓を打った。
父たちの過去、そして、俺たちの過去も簡単な説明があった。
よって、ここはお涙頂戴の場面となった。
35年前に不幸があったとだけ、ナレーションでは説明していた。
大半は実名で説明されて、今一瞬だけ出てきた警視総監の正義、そして総理大臣の昭文も関わっていたことなので、信憑性はあると誰もが思ったことだろう。
母は号泣しているようで、天井に向かって大声を張り上げているようにうかがえた。
そして圧巻は、河野早苗が若返った件だ。
『絶対にヤラセではないのですっ!!』とテロップが出て、俺も彩夏も大声で笑った。
逆に誰もが胡散臭いと思ったことだろう。
だがその証明の代わりとして、小さなマリア像の説明があり、前警視総監の菖蒲の顔の比較も映像として使われていた。
「提供は法務省?」と俺が言うと、「お父さんの尽力も大きかったの」と彩夏は穏やかに言った。
お父さんとはもちろん俺の父のことだ。
その父は今はペット同伴喫茶に行っているようで、署内にはいない。
「ああ、そういえば、昨日だけどね、
ディックに懇願の眼差しを向けられたの。
口は動いていたんだけど、鳴き声は上げなくて…
まさかだけど、話しができるの?」
彩夏が真剣な眼差しで言った。
「ディックもエンジェルも饒舌だぞ」と俺が言うと、「そう」とだけ彩夏は言って、俺に笑みを向けた。
「自然に話すようになるまで待ってやって欲しい。
きっとな、相手の心を読んで、
話してもいい人と話さない方がいい人を見分けていると思うんだ」
「うん、わかったわ」と彩夏は言って笑顔だったが、涙をこぼした。
俺は見て見ぬ振りをしてテレビに顔を向けると、オレたちが走って逃げている場面だったので、俺も彩夏も大いに笑った。
そして、『唯一のヤラセ、大失敗っ!!』とテロップが出たので、俺たちはさらに笑った。
俺たちが地下鉄の駅に降りたと同時に、映像は終った。
そして、『協力:法務省』と出たので俺は大いに納得した。
「警察がらみの密着ものは人気が高いからな。
それに、涙を誘う一幕もあって、
悲しみと喜びが交錯する人もいたはずだ」
俺が言うと彩夏は、「クリスさんはシスターで、教会の幼稚園の先生をしているの」と言って教えてくれた。
少し驚いた顔をして、俺はようやく思い出し、「じゃあ、神父さんは?」と聞くと、「一番見込みのある子を養子にしたって」と彩夏は言った。
この細かい記憶もおぼろげながら浮かんできた。
「いや、顔は日本人だけど…」と俺が言うと、「えっ?」と彩夏は言って少し驚いたようだが、「母親の血が濃く出たようなの」と答えた。
「だったら、俺の造ったマリア像の事も知ってるよな?」
「うん… 神父さんには試練だったって…」
そして、父苦楽が神父を叱って正常化したという顛末のようだ。
俺は食事を終えたが、彩夏はあと一口だけ残している。
「俺が食ってもいいかぁー…」と彩夏に言うと、「ダメェ―――ッ!!」と幼いころの彩夏のような口ぶりで言った。
「食べちゃったら終っちゃうもん、私の恋…」と彩夏は言って涙を流し始めた。
「ずっとそうしてるの?
だけど、俺は出て行くぜ」
俺が言うと彩夏は、「うえ―――んっ!!」とまるで子供のように泣き出し始めた。
その手には、小さなマリア像があった。
「ケンの好きな人って聞いてる?」
俺が言うと彩夏は首を横に振っただけだ。
「そうか…
だけど俺はなんとなくわかるんだよ」
俺が自然に聞くと彩夏は、「わかんない…」と子供っぽく言った。
「彩夏だと思うんだ」と俺が言うと、彩夏はソファーから腰を浮かすほどに驚いている。
「ケンとの再会のタイミング。
俺とエリカのことを母に聞いてからここに来たと思う。
彩夏は俺に選ばれなかったと思ってな」
俺が言うと、「悩ませないで欲しい…」と彩夏は言った。
もちろん伊藤とのことがあるからだ。
しかし、彩夏はもうごく普通の女性でしかない。
伊藤にとって、それをどう受け止めるのかが少々問題になるように思っている。
―― 余計な複線、敷いちまったな… ―― と俺は思い、かなり後悔した。
『丸く収まる』と拓郎伯父が言ってくれたような気がした。
しかし、どう丸く治まるのかはよくわからない。
やはり、ここは傍観することに決めたのだが、拓郎伯父にダメ出しをされたような気がした。
こういったことを引っ掻き回していいんだろうかと思うと、常識的範疇で程ほど、と言われた気がした。
ごく自然にことを見守り、口出しするべきところはした方がいいと思うと、もう何も沸いてこなかった。
結論としては、いつもの自分で、少しだけ面倒見のいい俺、という役どころで固まった。
「どうしたの?」と彩夏は黙り込んでいた俺を覗き込むような目で見てきた。
「拓郎伯父さんと交信してた」と俺が言うと、彩夏は少しだけ笑った。
「だったら、もう大丈夫だもんっ!!」と彩夏は言って、一口だけ残っていた、白身魚フライを笑顔でほおばった。
「もう少しだけ、拓ちゃんを見ていたいっ!!」と彩夏は元気な少女のように言い放った。
そしてマリア像を上着の内ポケットに仕舞い込んだ。
「私は折れないわ」と彩夏はごく自然な彩夏で言った。
あの乱暴な口を聞く彩夏はいなくなったと俺は確信した。
これでよかったのか悪くなるのかはまだわからないが、誰にでも普通に話せることは、彩夏にとっていいことになるはずだと俺は強く思った。
しかしそうなることで、彩夏の魅力は格段に上がるはずだ。
まるで完璧だった爽太郎そのものにも、今の彩夏であれば簡単に迫り、追い抜くことも可能なはずだ。
俺は彩夏にかける言葉を考えあぐねたが、「それでこそ俺たちのリーダーだ」と言うと、彩夏はほめ言葉と浮け取ってくれたようで、俺に満面の笑みを向けてくれた。
囲いの部屋から外に出て署に入ると、「私、あんなのなかったんだけど…」とエリカが言って、俺ではなく彩夏を見た。
そして、「何やったのよっ!!」とエリカが大声で叫ぶと、誰もが俺たちに注目した。
「新しい彩夏に変わってしまった。
失恋することでな」
俺が言うと、エリカは安心と不安が交錯したようだが、ここでさらに騒ぐとヤブヘビと思ったようで、「あら、それはようございました…」と言って、俺たちを大いに笑わせてくれた。
「どこかのマダム?」と俺が言うと、「ええ、とっても素敵な殿が主人ですのよ」と俺に向かって言った。
「いや、それだと、俺以外に旦那がいるように聞こえるけど…」
俺が言うとエリカは頭を抱えて止まってしまった。
エリカがかなり敏感になるほどに彩夏は変わってしまったようだ。
「優華と爽花にもわかったようだな」と俺が言うと、優華は無言でうなづいて、爽花はエリカと同様に頭を抱え込んだ。
「俺たちのリーダーは偉大なんだよっ!!」と俺が演技っぽく言うと、母だけが拍手してくれた。
「ところで、冷房入れすぎじゃないの?」と俺が言うと、「いや、いつもはこんな感じだぞ」と五月がごく自然に言った。
「いつもは?」と俺が言うと、五月たちもようやく気づいたようで優華を見た。
「あー、そうだったんだ」と五月は今頃になって、優華が冷気を放っていると気づいたようだ。
「優華は少しばかり冷たい心を抑えるべきだと、兄ちゃんは切に思う」
俺が言うと優華は、「…はい、気をつけますぅー…」といつものように頭を下げてから上目使いで俺を見た。
ほんの数十秒で、室内が暖まってきたように感じた。
だがもうあまり言わないでおこうと思って、俺に大注目している茜を見た。
「幼なじみ特権」と俺が言うと、「んなっ?!」と茜は妙な声を上げた。
茜は俺と彩夏のテレビの映像を観てうらやましく思ったはずだ。
母でさえ、『デートしてくれぇー』オーラを放っていた。
「さらにその理由は四人以上は少々厳しいということもあるから」
俺が言うと、エリカは瞳を閉じて腕組みをしてうなづいている。
「そして何をおいてもエリカ優先だから。
俺はエリカの傀儡にしか過ぎない」
俺が言うと、「ラブレター見せてよ…」と爽花が言ってきた。
「普通、はいそうですかと言って見せる男は、俺は信用しないな」
俺が言うと爽花は、「その通りだわ…」と言って肩を落とした。
「あ、でも私のっ!!」と優華が言い始めたが、「優華が許可したから彩夏に読ませたんだろ?」と俺が言うと、「はい、そうでしたぁー…」と言って優華はまた肩をすぼめた。
「私だって、ラブレター書いたんだよ!」と俺は茜に言われてしまった。
しかし、俺にはもらった記憶はない。
すると俺に疑いの目が集中した。
しかしいち早く気づいたのは、やはりエリカだ。
「書いたけど渡していない。
拓生君から見ると、書いていないも同然」
エリカが冷たい言葉を放つと、「ううー…」と茜はうなっているだけで二の句を告げないようだ。
「告白したのもつい最近だしな」と俺が言うと茜はその巨体を恥ずかしそうにして縮めた。
「やっぱ、練習相手は男がよかったけど、
力のある学生がいた大学は少々遠かったからな。
ケンが大学に進んでいれば、また相手になってもらったんだけど」
俺が言うと茜は、「ケン君の代わり?!」と大声で言ってから落ち込んだ。
「言いたくないけどその通り。
だけど、茜ほどの力持ちは男子でも少ないからな。
茜でよかったとも思っているんだけど、恋愛対象ではないからな」
俺がはっきりと釘を刺すと、「…ずっと、夢見てた…」と言って茜は眼に涙を溜め始めた。
「その頃の俺は、爽太郎しか見えてなかったからな」と俺が言うと、茜はさらにうつむいて、「…知ってました…」と小さな声で言った。
「はは、そうだったんだ」と俺は言って、苦笑いを浮かべた。
「大学四年になってから、すごくさびしそうだって思って…」
「はは、まあな。
博士号を取るために大学院に行ったし、
爽花が俺たちの中で一番最後に学生を終えたことになるよな。
去年までは、ほとんど顔を合わせてなかったし」
俺が言うと爽花は、「何が役に立つのかわからなかったんだもの…」と言って俺を上目使いで見てきた。
しかしその甲斐あって、この俺が社長賞までもらえるほどに、工学系には強くなれたと言える。
短時間であっても、爽花に教わると全てがスムーズに頭に入って来るのだ。
「やっと役に立てたのに、見向きもしない…」と爽花が俺を見ないで言うと、「それ、おまえが言うなっていつも言ってたじゃないか…」と俺が言うと、「それはそうだけどっ!!」と爽花は声を荒げたが、自分が悪いと思ったようで、うなだれてしまった。
「教師が生徒を好きになっちゃいけない典型よね」と爽花の生徒だったエリカが言った。
「私が教えた知識、返しなさいっ!!」と爽花が言ってエリカの肩をゆさぶり始めたので、俺はついつい大声で笑ってしまった。
父が満面の笑みを浮かべて、若い娘ふたりを両隣に従えて署に入ってきた。
「その顔色だと、うまくいくようだね」と俺が言うと、父は杏里の背中を軽く押して、「お兄さんにあいさつ」と、とんでもないことを言った。
知らなかったのは俺と彩夏だけで、みんなはくすくすと笑い始めた。
「養女に?」とだけ俺は父に言った。
「育児放棄もはなはだしいからな。
ケンカの原因は自分たちが楽しむことだけ。
あのふたりには親としての自覚がまるでない。
杏里をよろしくと言われたのですぐに養女にした。
新太郎のやつと取り合いになったが、
あっちは兄の方を養子に迎えた。
俺たちのしたことは間違っているが、
やはり目の前にすると放っておけんからな」
父の言葉のあとに、「お父さんは間違ってないもんっ!!」と杏里は叫び、父の腕を強く抱きしめて、少し涙ぐんだ真剣な眼を父に向けた。
父は杏里に笑みを向け、「もうしばらくすればわかるさ」と言うと、「はい、お父さん」と杏里は笑みを父に向けた。
「母さんは、父さんの言いなり…」と俺が言うと、「産まなくて済んだって感じ?」と母は笑顔で言って、杏里を抱きしめた。
「近々有紀子も養女に取る予定だ。
母親はまだ裁判前だから、色々と問題も多い。
しかし、俺を父と思ってもらって構わない」
父が本当の父親らしく言うと有紀子は、「はい、お父さん」と言って父の開いている右腕をしっかりと抱きしめた。
「娘が三人になった…」と俺がいい笑みを浮かべて言うと、エリカが父に抱きついた。
「ふーん、一番上のお姉ちゃんが一番小さいな…」と俺が言うと、「身長なんてどうだっていいもんっ!」とエリカはやけに元気よく答えた。
父に抱きついたまま言ったので、エリカの表情は確認できなかった。
「となると、ほかの女性は出て行ってもらった方がいいのかなぁー…」
俺が言うと、それはもう決まっていたようで、我が家の増築工事を始めたらしい。
よってしばらくは少々狭く感じる我が家で今まで通り過ごすことになる。
父の場合、困っている人は全て引き受けるのではないかと心配になったが、これが父の家系の血なのだろうと感じた。
父と娘三人は、父に寄り添うように席についた。
「あ…」と俺はついつい言葉が出てしまった。
それは父方の父、オレから見て祖父が事件の関係者で孤児になった子を引き取っていたことに気づいた。
祖父も父と同じ事をしていたと思い、俺は苦笑いをうかべた。
しかし、松崎守という名のその子も、残念ながら拓郎伯父と同じ運命をたどっていた。
「松崎守…」と俺が言うと、「俺たちのグループにいれば死ぬことはなかったかもしれないんだけどな…」と、父は少し悲しそうな顔をした。
「しかし字が違うが同じ読みの衛がいる。
だから今の俺としては何の問題もない」
父は誇らしげに胸を張って言った。
俺はしばし考えてから衛に顔を向けた。
「…名前って加藤さんに付けてもらったんだよな?」
俺が小さな声で言うと、「…うん、そう…」と衛も小さな声で答えた。
加藤はこれらの事実を知っていて、衛の名前をつけたと察した。
そして、父たちの仲間の一人でケンの父、杉島新太郎のこともゆっくりと思い浮かんできた。
「ケンの父ちゃんとライバルだったんだ」と俺が言うと、「なんだ聞いてなかったのか…」と父は言って少し憤慨していた。
「父さんも話さなかったじゃないか…」と俺が言うと、「まあ、そうだな」と父は言って、なんでもないことだといった顔をした。
「まずは妹ふたりに言っておくよ」と俺が言うと、有紀子と杏里は俺に笑みを向けた。
「この先、父さんはどんどん言葉足らずになるから、
よくわからないことはしっかりと説明を受けた方がいいぞ」
俺が言うとふたりは、「はい、お兄ちゃんっ!!」と大声で言って、ふたりは顔を見合わせて笑った。
「あ、それから、母さんは妹仲間のポジションでいいから」と俺が言うと、有紀子と杏里はくすくすと笑って、「はい、お兄ちゃん!」とまた元気よく答えてくれた。
「私のお兄ちゃんだもんっ!!」と言って優華が乱入してきて、俺の右腕を強くつかんだ。
「あ、優華も仲間に入れてやって欲しい」と俺が言うと、優華は気に入らないようだが、俺に嫌われては元も子もないと思ったようで、ふたりに丁寧にお願いをしている姿に笑ってしまった。
「妹ポジションもうらやましいわ…」と爽花が言って俺を見た。
「悪巧みするような妹はいらねえ…」と俺が言うと、有紀子、杏里、優華の三姉妹に気合が入ったようで背筋が伸びた。
「そういうことだ。
拓生に嫌われると、家を出て行くことになり兼ねんからな。
ウソはつくな」
父が真剣な顔をしてふたりを交互に見て言った。
「はい、お父さん」とふたりは真剣な顔をして父に言った。
「だが、黙秘は許す」と父が言ったが、「それもダメ、できるだけ」と俺がいうと、父はかなり困った顔をしていた。
「なんだよ、話せない過去があるの?」と俺が言うと、「黙秘するっ!!」と父が大声で叫んだので、俺たちは大いに笑った。
父に関しては拓郎伯父が死んだあとのことだろうと察した。
きっと、美代子あたりと何かあったのではと感じた。
「ところで、クリス・カーマイルさんのことだけど」と俺が父に聞くと、「なっ?!」と父は叫んで驚きの声を上げた。
話の流れ上、何か知られるとまずいことでもあるんだろうと察した。
「いいよ、シスターに聞くから」と俺が言うと、父は携帯電話を取り出して、「話すな」とだけ言って電話を切った。
「ふーん、ツーカーなんだ」と俺が言うと父は、―― しまったぁ―――っ!! ―― といった顔をして俺を見ていた。
「神父さんが俺の兄ちゃん」と俺が冗談で言うと、「ありえない」とだけ父ははっきりと答えた。
母はおろおろしていたが、父もウソは言わないのでほっと胸をなでおろしてから、テレビにかじりつき始めた。
「ふーん、何か援助でも?」と俺が言うと、父は黙秘を行使するようで何も言わなくなった。
「父さんはウソはつかない。
だから悪い事を隠しているわけじゃない。
いいことを隠していると思っておけばいいんだ」
俺が有紀子と杏里に言うと、ふたりは笑みを父に向けた。
きっと、幼稚園の運営資金の工面でもしているんだろうと思い、これからは俺もお布施をふたつ用意しようと考えた。
「…あ、お兄ちゃん、私も…」と優華が言った。
優華も俺たちの話の内容から思い至ったようだ。
「お互い、あの幼稚園の卒園生だからね」と俺が言うと、「うんっ!!」と言って優華は幸せそうな顔をして俺の腕を抱きしめた。
「君たちはこうなってはいけないぞ」と俺が有紀子と杏里に言うと、「えー…」と言って今度は否定されてしまった。
しかし俺は、「お兄ちゃんが大好きで、嫁にいけなくなるから」と俺が言うと、「あー…」とふたりはなんとなく理解できたようで、大いに考え直すことにしたようだ。
今まで気づかなかったことが不思議なほどだったのだが、これにはきちんとした理由がある。
クリス・カーマイルのことはずっとシスターとしか呼んでいなかったからだ。
クリス以外にもシスターはいるのだが、誰に対してもシスターを使っていた。
幼児期のことなのでこの件を不思議に思うことはまったくと言っていいほどなかった。
もっともこれは俺だけだったのかもしれないのだが。
「明日はシスターにも会いに行こうかな」
俺が言うと父はまだ黙秘をするようで、「ディックは」と言って話題を変えようとしたが、さすがに母がいる前で言えることではないと思ったようで、言葉を止めた。
「定期メンテナンスは来週だよ」と俺はディックに関しての情報だけを素早くサーチして答えた。
こうすることで母はエンジェルが言葉を話せることに疑いを持つことは回避できたはずだ。
「そろそろ幼稚園を閉園するそうなんだ。
子供たちの面倒を見るシスターがいない」
父はようやく、本題の話題を提供してくれるようだ。
「普通の保育士じゃダメなの?」と俺が聞くと、「できればシスターがいいそうだ」と父は答えた。
「男性の修道士は?」と俺が聞くと、「いや、それは聞いていなかった」とだけ父は言った。
もちろん求人を出しているのだが、クリスの思った条件を満たす者がいないはずだ。
クリスチャンに知り合いはいないが、それっぽい存在の赤木に聞いてみようと思い電話をした。
赤木はすぐに電話に出て、『いつ電話してくれるのかなぁーって期待してたんだよ』と言ったので、「おまえからしてくればいいじゃないか」と俺は答えた。
『なるほどね。
お互い、けん制しあってた?』
「いや、日々忙しいだけだよ」
『まさかまったく同じって…』
赤木は少しあきれた声で言った。
「爽花の信者なら、思い浮かんで当然なんじゃない?」
『あー、そうだった…』
赤木はようやく理解できたようだ。
「実はその件で電話したんじゃないんだ」
俺は教会での保育士を条件付で話すと、『住んでる場所は少し遠いけど、従兄妹がクリスチャンなんだよ』と答えた。
「保育士の免許とかは?」
『資格マニアでね、持っているはずなんだけど…』
赤木は何かを躊躇したようで言葉を止めた。
『きっとね、面倒なことになると思うんだよね…』
「それは俺限定の面倒なのかい?」
俺は言って苦笑いを浮かべたことだろう。
『タクナリ君に会わせろってうるさいんだよ…』
赤木はさもめんどくさそうに言った。
「となると、今の仕事を離職したい意思を持っている」
『あ、そうなんだよねー
というか、今はバイト生活…』
赤木が言うと、俺は少し笑ってしまった。
「資格マニアなのに?」
『その資格を生かしたことが一度もないんだよねぇー』
赤木はあきれた声で言った。
「なるほどね。
性格的にかなり不器用なんだ。
自分では何も決められないタイプ。
生活するために仕方ないので働いている、
っていうことでいいの?」
『はは、会ってもないのによくわかるよね。
まさにその通りだよ。
じゃ、ほかの人の紹介ということで…
優華ちゃんの紹介ということでいいかな?』
赤木に少し待ってもらって、優華たちに話しをすると、こういったことは彩夏が適任だろうという話しになったので赤木に伝えて、決まったらまた連絡をすることにした。
すると父がすぐに電話をかけ始めた。
「シスターではないが保育士免許を持った
クリスチャンの女性の知り合いがひとりいる。
…ああ、彩夏君の伝だ。
………
わかった、伝えよう」
父は電話を切って、「面接だけでもと言ったが、採用する意思が大いにあったな」と父は苦笑いを浮かべて言った。
「じゃ、赤木に伝えるよ」
俺はすぐに赤木に電話をして、面接の日時を伝えた。
数分後に赤木から電話があって、かなり喜んでいたということだ。
名前を聞くと、青木愛実と答えたので少し笑ってしまった。
年齢は24才で、俺たちと同級生だということだ。
大学は当然のようにクリスチャン系のエスカレーター式の学校を幼稚園から短期大学までを過ごして卒業している、まさにクリスチャンの中のクリスチャンだ。
俺は赤木に礼を言って電話を切った。
「もう決まったも同然だね」と俺が言うと、彩夏はもう青木愛実の素性、行動を調べ上げたようだ。
「うーん…」と彩夏は少しうなって、話しをしようか思案しているように感じた。
そしてプリンターから愛実の簡単なプロフィールが印刷された。
「あー、これは…」と俺は言って、さぞ苦笑いを浮かべたことだろう。
その面差しは爽花によく似ていたのだ。
だが、ある一点で少々笑ってしまった。
「身長175センチ…」と俺が言うと、エリカがふぐのように膨れ上がった。
女性としては少々背が高い方だ。
もっとも茜ほどではないので、愛実は茜と仲良くなるかもしれないと感じた。
「芸能事務所からのスカウト暦、数知れず…
そりゃそうだろうな…」
俺が言うと、俺の味方は女性には誰もいなくなっていた。
「ということは、
仕事としては芸能関係には興味がないということでいいようだな…
見るのが好き。
一時期の母さんと同じだよな」
今回の俺の意見には多くの賛同を得た。
父は早速クリスに電話をしたようで、クリスは父に上機嫌で礼を言ったようだ。
「しかし恐ろしいのは彩夏の情報収集力だよな。
何分も経ってないのに…」
俺が言うと、「地元では有名人らしいの」と少しホホを引きつらせて言った。
「なんだよ、よくない情報?」と俺が聞くと彩夏は、「暇さえあれば布教活動してるって…」と言って苦笑いを浮かべた。
「ああ、それで、定職につかない…」
俺が察して言うと、「そのようね、だからね、近隣ではもうほとんどの人に顔と名前を知られているって…」と彩夏は言ってあきれた顔をした。
「だったら地元の教会が黙っていないだろ?」と俺が言うと、そこまでは調べていないということだ。
… … … … …
日曜の朝、教会に行った足で、クリス・カーマイルと再会することになった。
「シスター、お元気そうで何よりです!」と俺が言うとクリスは、「昨日も観ちゃったわっ!!」と言って大声で笑った。
「父と幼なじみとはまったく気がつきませんでした」
俺が言うとクリスは、笑みを浮かべているだけで何も言わない。
「あー、父さんに口止めされているから、ですよね?」と俺が言うと、「はい、徳の高い苦楽さんには逆らえませんから」とクリスは答えた。
「徳の高いと言った時点で、
さまざまな援助を受けていらっしゃる
と言ったも同然だと思いますけど?」
俺が言うと、クリスはもう話さないようで、笑みだけを俺に向けた。
青木愛実の話しに替えるとかなり喜んで、今日の午後が楽しみだとクリスは言った。
すると、少し背の高い爽花によく似た女性が幼稚園の入り口に立っていた。
その隣には赤木がいたので、青木愛実だと一目瞭然だった。
赤木の方が背が低いので、さすがにバツが悪そうな顔をしていた。
「あら、もう来られたようね」とクリスは笑顔でふたりを歓迎した。
愛実は、―― 今は面接の時っ!! ―― とでも思っいたようで、有名人たちをちらりちらりと見ているだけで、主な視線はシスターにある。
「青木さん、さあ、こちらにどうぞ」とシスターは言って、俺たちに頭を下げてくれてから、幼稚園の中に愛実を誘った。
「今のうちに逃げた方がよさそうだな…」
俺が言うと赤木は、「地の果てまでも追いかけるそうだよ」と少し笑いながら言った。
「ああ、しまったな…」と俺は言ってから、小さなマリア像を上着のポケットから出した。
「また来よう」と俺が言うと、「知ってて渡さなかった」とエリカが断言した。
「目が曇っている」と俺が言うと、「はい、ごめんなさい…」とエリカはすぐに謝った。
「いい加減にしておかないと、彩夏のように俺に振られることになる」
俺が言うと、エリカはもうわかっていたので、「はい、肝に銘じます」と穏やかな表情で言った。
「厳しいなっ!!」と父は言って、エリカを援護するようだ。
「お父さんもそう思うよね?」とエリカが言ったので、俺はかなりの勢いでにらんでおいた。
「俺の妻はもういなくなったかもしれない…」と俺が言うと、エリカは今にも泣き出しそうな顔になっていた。
「イジメるんじゃないっ!!」と俺が父に叱られてしまったが、エリカがやんわりと父に謝った。
しかしここで終わっては示しがつかないので、「エリカのデート、一回やすみな」と俺が言うと、エリカはついに泣き出してしまった。
「今の父さんは平等ではない」と俺が言うと父は言葉に詰まって、「…反省した…」とつぶやくように言った。
いかなる場合でも父は判事でなくてはならない。
かわいい娘の肩を持つべきではないと、俺はただただそう思っただけだ。
父の気持ちもわからないわけではないが、平等の判断力を失っていた。
もう二度と父は過ちを犯さないと俺は確信に似たものを得た。
少々緊張感がある署で昼食をしていると、ついに赤木と青木がやってきた。
などと思うと、少し笑ってしまった。
赤木は一般の席に愛実を誘ったが、愛実の口を読むと、『紹介してよっ!』と少し大きな声で言ったようだ。
赤木は良識をわきまえているので、近場の席に座った。
仕方がないと思った愛実は、赤木から目を背けてこちらを見てソファーに腰掛けた。
そして、『あー、いいなぁー…』と言って、どう見ても少女にしか見えないの有紀子と杏里を見ているようだ。
時々エリカにも目をやっていたので、子供と愛実が判断したと思ったが、エリカの面は割れているので、ただただミーハー的な思いだろうと察した。
すると愛実がすくっと立ち上がって、そそくさと署に近づいてきた。
「自首」と俺が少し笑って言うと、まずは石坂が大声で笑った。
「いい手を思いついたなっ!!」と石坂が上機嫌で言った。
「理由はなんだろ…
ざんげ?
ここに来るなと言われてここに来た罰を受けにここに来る。
かなり矛盾した行動ですよね」
「すごいこじつけだな…」と五月があきれ返った顔をして言った。
優華が妙にそわそわしていた。
扉を開けた方がいいのか閉めた方がいいのか悩んでいるようだ。
「ここに入らなければ、愛実さんは罰を受ける必要はない」
俺が言うと優華はすぐに扉に鍵をかけて、近づいていた愛実に頭を下げて、俺の隣に座った。
愛実はぼう然とした顔をしたが、追いかけていた赤木に手を引かれて席に戻った。
「正解だったようです」
俺が言うと、みんなはあきれた顔を俺と愛実に向けた。
「そしてもう一度来るでしょう。
扉を叩いて、罰を受けに来ました、などと言って。
だけどここは、罰を下す場所ではないので、
話だけは聞く必要があるので、石坂さん、お願いします」
俺が言うと石坂は、「拓生が取調べをすればいい」と石坂がにやりと笑って言った。
「平等にしなくてはなりません」と俺が言うと、特に警察官は身の引き締まる想いがしたようだ。
「誰だってここに来たがるはずです。
愛実さんを迎え入れるということは、
ここにいるお客さん全員を迎え入れるということになります。
今回、愛実さんに仕事を紹介したのは彩夏なので、
礼を受けるのであれば彩夏が外に出て受ければいいだけです」
俺が言うと彩夏は、「そうだったわっ!」と彩夏は言ってすくっと立ち上がり、颯爽とした立ち姿で外に出た。
「彩夏が今までよりもさらに気持ちよく協力的になりました」
俺が言うと、エリカはかなりの勢いで肩を落とした。
「この程度で落ち込んで、まともに仕事ができるのかい?」
俺が言うとエリカは姿勢を正して、「愛されてる証拠っ!!」と妙に強がって言ってから背筋を伸ばし、顔を引き締めた。
彩夏は愛実とひと言ふた言話しをしてすぐに署に戻って来た。
愛実の目的は違ったはずだが、彩夏という有名人と接したことで、少しは気が晴れたはずだ。
極力意識しないように思い、愛実の席を見ないことにした。
「危険な香を感じる…」と五月がにやりと笑って俺に言った。
―― まさにその通りっ!! ―― と俺は思い、「接しなければ、今のところは回避できますから」と、俺は本心を述べた。
「だけど、時間の問題…」と彩夏があきらめたような口ぶりで言った。
俺はさぞや苦笑いを浮かべたことだろう。
「今は予感だけなんだから、確かめた方がいいと思うわ」
彩夏は笑顔で、俺にアドバイスしてくれた。
俺は決心して、おもむろに大きなマリア像を手に取った。
「おいおい、それほどか…」と五月は驚きの眼で俺を見た。
マリア像を手にした瞬間に、『運命』と聞こえたような気がした。
何がどう運命なのかわからない。
『帰るべき場所』とまた言ったような気がした。
俺は、―― もしや… ―― と思い、俺の考えるままに頭に思い浮かべた。
『根源』とまた、マリア像は言ったはずだ。
俺は全てを理解して、マリア像に少し頭を下げてから元のローチェストに戻した。
「俺は神父だ。
そして、俺は彼女を崇める必要がある」
俺が言うと、「…崇めるって…」とエリカが言ってぼう然とした顔を俺に向けた。
「彼女はマリア様そのものだということだ」
俺が答えると爽花は、「超えられない、のね?」と悲しげに言った。
「いや、超えてはいけないし、それができる者は誰ひとりとしていない。
そして、運命であり帰る場所でありマリア様の根源である彼女を、
個人的に愛することは許されない」
俺が言うと、女性たちは妙な苦笑いを浮かべて俺を見ていた。
( 第十八話 大好物の弱み おわり)
( 第十九話 真のマリア につづく)