第十七話 凍りついた出来事
凍りついた出来事
仕事も私生活も充実していて、今の俺としては何も言うことはない。
そんな中、オリンピックでの陸上100メートル走のエキシビジョンを開会式で行なうことに決まった。
しかしこれはオフレコで、出場選手にだけ知らされている、という話しだ。
だが確実に、当日までに明らかになることは当然のことなのだが。
問題は出場する選手だが、なんと、世界の一流アスリートたちが名乗りを上げてきたらしい。
非常にやりづらくなってきたのだが、俗物も欠かせないようで、どこから出てきたのか、ケンの名前も上がった。
すっかり失念していたのだが、テレビ番組でケンが持ち込んだ映像で俺が一緒に走っていたことを思い出した。
しかもその時のケンのタイムは11秒を切っていた。
オリンピック本戦に出ていても、恥ずかしくないタイムだ。
「風か止まった」とケンは言っていた。
俺が風除けにでもなっていて、ケンを引っ張ったんだろうと何気なく思った。
日本警察署の仕事も今はなぎの状態なのか、まったくといっていいほど依頼の類はなくなってしまった。
そんな時のために目安箱があるのだが、すべてが礼状ばかり。
文字や文面を何かないかと探るように色々と疑ってかかったが、何かが隠れている形跡はないと俺は判断した。
しかし一通だけ、住所と名前が書かれていない用紙が入っていた。
それは女性の文字で、かなりの達筆だった。
それが爽花が認めたものだとすぐに気づいたのだが、今のところは何もしないでおこうと思っている。
俺とのデートはまだ果たされていない。
爽花の見た目はごく自然なのだが、やはりまだ立ち直れてはいない。
無理にでも連れ出そうと思ったのだが、逆効果が怖い。
きっと爽花もそう思っているはずだ。
爽花は俺が放ったプロポーズの言葉だけを心の支えにしているのかもしれない。
しかし、俺への思いは少々曲がったものでしかなかった。
爽花もそれは十分にわかっているはずだ。
やはり黙っているだけでは何も伝わらないと思い、爽花の右隣に俺は座った。
「不吉な予感…」と俺が言うと、爽花は一瞬眉をひそめてから、薄笑みを浮かべた。
「マリア様がね、手紙を書けって…」と爽花は少し投げやりに言った。
「それは礼状ではないって思うんだけど?」と俺が言うと、「だからね、今書いてるんだけどね…」と爽花は言ってから肩を落とした。
「全てがざんげだと俺は思うんだけど?」
爽花は少し泣き顔を俺に見せてから、「辛いけど、書かなきゃいけないのね…」と言ってから爽花は少しだけ笑みを浮かべた。
「神父様が何とかしてくれるかもしれないぞ」と俺が言うと爽花は少々腹を立てたようだが、神父が誰なのかを考え直して、「期待するわ」と言ってその顔を笑みに変えた。
俺は比較的安心したので、元の席に戻ると、エリカがにらみつけてきた。
「…ついに浮気しちゃうのね…」と言葉は自然だが、目は自然ではない。
「あ、なるほどな」と俺は言った。
するとエリカは、「何よ…」と言って少し考えてから、深く肩を落とした。
「…あー、まさしくお勉強…」と言って上目使いで俺を見てきてから、頭を抱え込んでうなだれた。
「ある意味、裏切られた時の気持ちのレクチャーとも言えるよな。
だけど、かわいそうだが、情けはかけねえ」
「浮気してもいいんだけどね。
たぶん変わってしまうはず…」
エリカは憂鬱そうな顔をして言った。
「俺も変わるだろうなぁー…
エリカへの後ろめたさ。
そして爽花への後ろめたさ。
さらには、爽花を抱いてしまうと、
うまく行きかけている彩夏までもが元に戻ってしまいそうだ。
いくらエリカのためだとは言っても、
これはあまりにも危険な賭けでしかない」
俺が言うとエリカは落ち着いたのだが、やはり犯罪心理学者としては知っておくべきことと思ったのか、くちびるを強く引き締めた。
「…三人で…」とエリカが言ったので、俺は少し笑ってしまった。
「妙なくせになっても困るぞ。
だが、多少は平和的ではあるかもな」
「もう、考えないことにするわ…」と言ってエリカはテーブルの下で俺の手に触れてから握り締めた。
エリカの手の甲は今までよりもさらに硬くなっている。
あかぎれにでもなっていないかと思って触れ回ったがそれはないようだ。
「…何よ、誘ってるの?」とエリカは顔を赤らめて言った。
「いや、確認だよ」と俺が言うと、エリカはつまらなさそうな顔をした。
爽花の抱えている受験生たちのほとんどの者が落ち着いたそうで、ライバル心はほぼ消えたようだ。
生徒たちはさらに勉強を詰め込める状態にまで達し、ほとんどの子どもたちは行きたい学校への入学を果たせそうだと、爽花がうれしそうに述べた。
衛には、赤木手製のロボットをプレゼントすると、「こんなのが欲しかったんだよっ!!」と言って、毎日仕事が終るのを楽しみにしている。
全てがうまく回りかけていたのだが、ここで歯車が狂ったかのように凶報が舞い込んできた。
爽花の生徒のひとりが自殺未遂を謀ったようだと所轄署から第一報を聞いた。
爽花と衛はすぐにその生徒の入院した病院に行った。
できれば力になりたいと思い、今日は非番のエリカとともに、爽花についていった。
病室に入って、俺は極力うしろにいて全てを見ておくことにした。
この女子生徒は、工藤有紀子といい、爽花の教える生徒の中ではトップクラスの成績だと聞いていた。
だが、回りが変わったことで、有紀子は取り残されたのではないだろうかと感じたようだが、どうやら学業のことで自殺を諮ったのではないような気がした。
有紀子は爽花にはわずかだが笑みを向けるが、隣にいる母親には顔すら向けなかった。
母親を見たくない。
有紀子の自殺の原因は、母親にあると、漠然と感じた。
もっとも、自殺というのも危ういような気がした。
母親ではない誰かが有紀子を殺そうとしたのではないのかと思ってしまったのだ。
詳しい話は聞いていないが、首と頭に包帯が巻かれているので、首を吊ろうとしたと判断できる。
「今回の件は、日本警察署が見守ることに決めました」
俺が言うと、母親は驚きの表情を俺に向けた。
その反面、有紀子は涙を流して喜んでくれた。
「もう解決の糸口が見えました。
衛、有紀子君をお守りしろ」
「うんっ! 当然だよっ!!」と衛が言うと、有紀子はさらに笑みを深めて、安堵の涙を流した。
「お母さん、事情を聞かせてください」とエリカが無表情で言った。
少し嫌がっている母親を立たせて、エリカに寄り添っているような爽花とともに、病室の外に出た。
有紀子はさらに安心したようで、俺に笑みを向けてきた。
「今は楽しいことを考えようか」と俺が言うと、「ボクね、ロボットもらったんだよっ!」と衛が早速明るい話題を持ち出してきた。
有紀子は安心したようで、ゆっくりと眼を閉じたが、「衛君のお話し、聞いてるから」としっかりとした声で言った。
「あ、そうなの?」と言って衛は楽しそうに話しを始めたが、声のトーンを落とした。
これはまるで子守唄だなと俺は思って、有紀子はもう大丈夫だと感じた。
問題は外にあるが、ここはエリカに任せた方が全てうまくいくように感じた。
すると母親の嗚咽の声が聞こえた。
母親は罪を認めたようだと、俺は一旦は安心することにした。
この先は所轄署に任せたのか、エリカと爽花が病室に入ってこようとしたが、俺が外に出た。
詳しい話しを聞くと、母親の男が保険金目当てで有紀子を殺そうと企んだようだ。
だが自殺では死亡見舞金程度しか出ないはずだ。
しかし世の中、様々な保険があり、それほど多額ではないが、自殺でも保険金が下りるものもあるようだ。
もちろんそれを逆手に取ったこういった犯罪は起こり得るので、できればなくした方がいいと思うのだが、これも保険会社側の商売だろう。
母親の男がその保険会社の社員をしているそうだ。
「殺人教唆ということでいいの?」と俺がエリカに聞くと、「主犯…」とエリカは投げやりに言った。
「そうか…」と言って俺は肩を落とした。
「有紀子君は何気なくだろうが、気づいていたんだろうなぁー…」
俺が言うと、「疑われていないって母親は言っていたけどね」とエリカはため息混じりで言った。
「だが、よくこんな短時間で話したな…」と俺が言うと、「拓生君が脅したからよ…」とエリカは鋭い視線で俺を見てきた。
「そんなつもりは毛頭ないぞ。
困っている人を守るのが、日本警察署の使命…
すべてを丸く治めるんだろ?」
俺が言うとエリカは、「そうだったわ」と言って俺に笑みを向けた。
「さて、爽花。
有紀子君の家族構成」
俺が聞くと、爽花は驚いた顔をして、「ああ、事故で親戚をほとんど亡くしたって…」と言った。
「…殺人鬼か…」と俺が言うと、「そこまではまだわかんないけどね」とエリカは自然に答えた。
「いくらなんでも、自白が早過ぎるだろ?
…ああ、もういい、わかったから」
俺の言葉の途中から、エリカは犯罪者の笑みを俺に向けていた。
爽花は肩を震え上がらせた。
「おまえこそ脅してるじゃないか…」と俺がエリカに言うと、「これが私の武器よ」と平然とした顔で言った。
「取調べでごねたらまた行くって言っておいたから」とエリカは言って、凶悪犯罪者の顔をしてにやりと笑った。
「やりすぎると狂うかもしれないからな。
それでいいと思う」
俺が言うと、「…住む世界が違う…」と爽花はうつむいて言った。
「優華と彩夏は俺たちに近い。
だが、爽花は違う。
だからさっさと嫁に行け」
俺が言うとエリカは、「ここで言わなくてもいいのよ…」と言って叱られてしまった。
「…五月さんと付き合うことにしたわ…
ちょっと年が離れてるけど、まだまだ若々しいし…」
「がっつくと逃げられるぞ」と俺が言うと、「…あ、でも…」と爽花は言って、俺を見た。
「昼間だったらいつでもいいぞ」と俺が言うと、「妻の目の前でデートの約束しないで欲しいわ」とエリカにやんわりと言われてしまった。
有紀子を死に至らしめようとした有紀子の母は頃合を見て救急車を呼んだ。
その時の有紀子は確実に心停止していたと言う。
だが救急隊員が蘇生措置を行なうと、心臓が動き始めた。
有紀子に感づかれないように首を吊らせていたので、有紀子には気づかれていないと母親は自供した顛末だったようだ。
― ― ― ― ―
今回、拓郎伯父が頻繁に出てきたことを期に、俺の脳内にも拓郎伯父の記憶が鮮明によみがえってきた。
一番不思議だったのは、爽花の苗字だ。
爽花の父である爽源は加藤爽衛の実の息子で、幼い頃に山梨家に養子に出されたそうだ。
山梨家は代々、この地で寺子屋から始めて現在に至っている、由緒ある学習塾だ。
少数精鋭の偉人を輩出したと、沸いてきた記憶の内ではそうなっている。
たった5才で誰もが認める天才児として、山梨家が加藤家に対して養子縁組を願い出てきたそうだ。
爽源は次男でもあったので、この養子縁組はつつがなく執り行われた。
佐々木優華は、旧姓は継野優華。
当然のように、佐々木正造が養子として迎え入れている。
優華の実の母がこれを命令していた。
これは当然、拓郎伯父の記憶ではなく、正造に聞いた話だ。
優華の母の記憶も鮮明によみがえっている。
笑ってしまうほど、優華と菖蒲にそっくりだった。
しかし年老いてからはごく普通にお婆さんだったので、そっくりといった記憶は、拓生のほうの記憶では確認できない。
さらにマドンナ的女性がいた。
父苦楽が一番もてていたようで、いつも数名の女性が寄り添っていたようだ。
しかし父の想いは犬塚千代の母、坂田美代子にあった。
しかし美代子は拓郎伯父にずっと寄り添っていたようだ。
父の周りにいた特に目立つ人に、河野早苗とクリス・カーマイルというふたりの女性がいた。
河野早苗はこの近辺にはいないようだと俺は感じている。
しかし、クリス・カーマイルは、教会の神父の母ではないかと感じる。
よって父は、神父とは顔なじみなのではないかと思っている。
神父はカール・カーマイルという名前なので、ほぼ間違いないと思っている。
よってシングルマザーなのかという思いもあるが、養子を取ったとも考えられる。
そして継野家の目の上のこぶは、この地に巣食う山東組だった。
継野家の跡取りであった正成は、山東組に殴りこみに行くほど少々乱暴者で年老いてからも矍鑠としていたようだ。
よって地域の住民からは正成は神扱いを受けていたようだ。
さすがに優華には腕っ節はないが、考えていることは正成そのものではないかと俺は考える。
そして今は、この地には平和が訪れたということになる。
しかし平和への代償はあまりにも大き過ぎた。
山東昭文がもう少し早く生まれてきていたとすれば、悲劇は起こらなかったのかもしれない。
― ― ― ― ―
俺たちが病室に戻ると、有紀子も、そして衛も眠っていた。
俺は衛を起こしてから、少々寝ぼけている衛とともに外に出た。
「護衛が寝てちゃダメじゃないか…」と俺が言うと、「あはは、大失敗っ!!」と言って衛はやけに元気な声で言った。
ここは聞いておくべきだと思い、「この先どうしたいんだ?」と俺が聞くと、「さすがタクナリ君っ!!」と言って、衛は喜んでいる。
「…だがな、おまえには本当の娘もいるだろうが…」と俺が小さな声で言うとさすがに衛はバツが悪そうな顔をした。
「やっぱりね、いつも近くで見ていたし、
守ってあげたいんだよねぇー…」
衛は申し訳なさそうな顔をして俺を上目使いで見てきた。
俺はひとつため息をついてから、「まずは住むところ、どうするんだ?」とこの質問から始めることにした。
… … … … …
すべては有紀子が退院してからということにして、衛には言い聞かせたのだが、休憩時間になると必ず病院に行っているようだ。
有紀子にはきれいさっぱり保護者がいなくなってしまった。
よって本来ならば施設に入れることになるのだが、衛としてはそれは好まないようで、何とかして父親ではなく友として一緒に暮らせるようにと考えているようだ。
有紀子に関しての調査は全て彩夏が行ない、精査した結果、衛に託すことが最善だと考えている。
有紀子も衛を心強い友達だと思っていたようだ。
大地主がひとりいるので、とりあえずは住むところには困らない。
食は、ここに来ればいくらでも食べられるのでまったく問題ない。
あとは有紀子の気持ち次第だと思い、この件はもう考えないことにした。
「ところで、爽花の母ちゃん、生きてるの?」と俺が食事中の爽花に聞くと、一瞬体を震わせてから、いつもの笑みを俺に向けてきた。
「なるほどな、わかったからもういい」と俺が言うと、エリカにこっぴどくにらまれた。
「俺が言ってもいいぞ」と爽花に聞くと、「聞きたいわぁー!」と爽花は苦笑い気味に笑みを浮かべて言った。
「余計なことをぺらぺらと話されては困る」
「あー、なるほどね…」とエリカが言って納得の笑みを浮かべた。
「爽花の母ちゃんはここに来たくても爽花に叱られるから来られない。
先日、叔父さんには会ったけど叔母さんには会わなかったし、
爽花の話は一言も出なかった。
爽花はここに来るなと、念押ししていたはずだ。
よって爽花は、母ちゃんにはかなりのことを相談していたはずだ。
そこからもれるのはまずいとでも思っていたんだろうな」
「うふふ… どうかしら…」と爽花が意味ありげな笑みを浮かべたので、「爽花の母ちゃんとデート…」と言うと、「ごめんなさいっ!!」と言って爽花はすぐに頭を下げた。
「もういいんじゃないの?」と俺が言うと、「はい、そうしますぅー…」と言って爽花は簡単に折れた。
衛が帰って来たのだが、その顔に精彩はない。
きっと有紀子に振られたんだろうと思って、事情を聞くことにした。
衛が署に入ってきてすぐに、「さあ、話せ」と俺が言うと、「うん…」と言って衛は俺の正面の席に座った。
話しを聞くとただただ我慢しているようで、衛のことが嫌なわけではない。
むしろ、衛を欲していると感じた。
父がいない有紀子にとって、衛は父でもあり、友でもあるようだ。
「確かに、有紀子君の友人たちにとっては人気のある
衛を独り占めすることになるので、
疎外感を感じる出来事もあるだろうな。
しかし、有紀子君にはまだまだ親は必要だ。
もし、有紀子君が折れなかったら俺から説明しよう。
住む場所は俺の家」
俺が言うと、衛はいきなり元気になった。
エリカも問題ないようで笑みを俺に向けている。
「勉強部屋は衛の部屋でいい。
静かだから一層勉強もはかどるだろう。
それに女性が多いから、まったく心配はいらないと思うが、
これは父の許可を取ってからだ」
俺が言うと、母が俺を見ていた。
「私が責任を持って、お父さんに伝えるからいいの」と母は言ってから、テレビに顔を向けた。
母は来週からかなり不規則なスケジュールとなる。
昼夜関係なく仕事に勤しむことになる。
問題はマネージャーと護衛だが、マネージャーの方は付き人も兼ねて雇うことになったようだ。
護衛は加藤が快く引き受けてくれている。
特に母専門というわけではなく、彩夏にもつくことになっている。
だが彩夏が母に触発されるのではないだろうかと思っているのだが、どうやらマイペースを貫くようで、彩夏に変わったところはない。
その彩夏は今は厨房に立っているのだが、さらに美人度が増している。
すると俺の視線をエリカがその顔で遮った。
「嫉妬はしないと書いて…」
「あら? そうだったかしら…」とエリカは言って俺に笑みを向けた。
「とぼけてると恋人解除も」「ごめんなさい」と俺の言葉を遮るようにエリカが言った。
母がひとつ背伸びをした。
どうやらお気に入りのテレビ番組が終ったようだ。
するといきなり臨時ニュースに変わった。
また関西でテロと思われる火災が起こったようで、数十人の死者が出たとのことだ。
犯人はすでに捕まっているのだが、意識不明の重体で、死を覚悟してビルに火を放ったようだ。
被害者の死亡原因は焼死ではなく、煙に巻かれた一酸化炭素中毒が大半だと発表された。
犯人には誰も逃がす意思はなかったようで、まずは非常口に火を放ち、エントランスに駆け込んでそこにも火を放った。
しかもガソリンを使っていたので火の手が早く、どうすることもできなかったようだ。
「これは大問題だよな…
このビルには常に警備がいるからいいけど…」
衛が思うことがあったのか、「見回り行ってくるぅー!!」と言って、元気よく署を出て行った。
「意識改革が必要ね」と爽花が俺を笑顔で見て言った。
「教師はしないからな」と俺が言うと、「講師でいいんだけど」と爽花に切り替えされてしまった。
「それもしないぞ」と言い返しておいたが、爽花はまた何か悪巧みを考えそうな予感があった。
「ついに私の仲間かしら…」とエリカが言うと、爽花は姿勢を正して、「余計なことはやめておくわ…」と少し体を震わせて言った。
父がディックを抱いて署に来てすぐに、母が有紀子の話しを始めた。
母には詳しい話はしていなかったはずだが、彩夏にでも聞いていたようでやけに饒舌だった。
「俺は構わないのだがな。
問題はその子の方にあると思うんだが」
父が言うと母は、「賢い子だからね、やっぱり遠慮があるの」と俺が言いたかったことを母が言ってくれた。
「まずは本心を聞き出してからだな。
しかし、許せんな」
父は穏やかだが、感情を込めて言った。
あとは有紀子の気持ち次第となった。
面倒見がいいのは、俺の父方の家系だ。
父の父も母も、そして拓郎伯父も警察官という職業を選んだからだ。
もちろん父にもその意思があった。
だが、惨劇を目の前にして、父は考えを変えた。
命を繋がれた父は、家族を悲しませない職業を選んだのだ。
俺の作文を読んだ時、父の心境はかなり複雑だったと思う。
そして人を喜ばせる道を歩もうとした時、父は喜んだはずだ。
現在の俺の環境は父にとって喜ばしいことではないかもしれないが、拓郎伯父が俺に憑いていることで、容認しているような気がする。
そして拓郎伯父は、いずれは俺と同化するだろうと考えた。
『余計なこと考えてんじゃあねえ』と拓郎伯父に言われたような気がした。
「余計なこと考えてんじゃあねえ」と俺が言うと、父たちが驚きの顔を俺に向けた。
父と菖蒲は懐かしく思い、爽花は心のうちを読まれたと思った顔をしている。
「拓郎伯父さんが言ってくれたような気がしたんだよ」と俺が言うと、父は笑顔を俺に向けてくれた。
「おまえはおまえの道を行け」と、父は笑みを浮かべて言った。
三日後、有紀子は人が変わったように元気になった。
何の不安もなくなったからだ。
衛が子守唄代わりにこれからの有紀子の居場所の確認と説明をしたからだろう。
今すぐに退院すると言って聞かなかったが、もう少し体重が増えてからという医師の制止する言葉を聞いて、少しだけ大人しくなったようだ。
「以前よりも元気になっちゃったわ!」と爽花が言って喜んでいる。
「いい休養だったと思うな。
今までは心が張り詰めた中で生活していた。
だけどこれからの有紀子君は少々大変だと思う」
俺が言うと爽花は少し考えて、「今まで通り、甘やかさないわ」とだけ言った。
「厳しい家族がその道を照らしてやろう」
「一番のスパルタだわぁー…」とエリカがけだるい声で言った。
「おまえのその話し方がおまえ本来のもののように思ったんだけど…」
俺の言葉は禁句だったようで、「最近ね、出てくるの」とエリカは苦笑いを浮かべて言った。
「そうか、やっと、解けたのかもしれないな」と俺が言うと、エリカは満面の笑みを俺に向けた。
「何が解け…」と爽花が言って笑顔でうなづき始めた。
「はは、爽花様も仲間入りだねぇー…」と衛が少し驚かせることを言った。
「爽花は様付け?」と俺が衛に聞くと、「あはは、ばれちゃった…」と衛は照れくさそうに笑った。
そのような心境になってもおかしくないだろうと思い納得した。
衛が一番厳しい時にそばにいた爽花を主人としても当然だと俺は理解できたはずだ。
だが、「爽花の人が変わった時」と俺が言うと、「きっとね、元に戻るって思っていたから」と衛は満面の笑みを俺に向けてきた。
「さらに本当の爽花になってもらう必要はあるけどな」
「タクナリ君、厳しいなぁー…」と衛は俺の言葉を肯定するように言った。
爽花は知らん振りを決め込むようで、俺たちの前をそそくさと歩き始めた。
… … … … …
署で食事をしていると、満面の笑みの衛が、両手に男たちの襟首をつかんで引きずって歩いてきた。
石坂と桐山が慌てて署を飛び出して衛から引き継いだ。
衛は笑みのまままた出入り口の外に出た。
「なにやったんだ?」という石坂の声とともに四人が署に入ってきた。
「はあ、現場検証を…」とひとりの男が申し訳なさそうな顔をして頭を下げながら石坂に言った。
どうやらこのふたりは、従業員通路の入り口で衛に捕まったようだ。
ここにテロリストが攻め込んできた映像は、もちろん公開していない。
ただし、口頭ではメディアに伝わっているので、テレビでは想像図として公開されている。
それを間近で見たくなったようでここを訪れたのだが、『タクナリ君謁見禁止令』が出ているので、こっそりと見学に来たようだ。
ふたりは都心の所轄の刑事で、岩山と早乙女という名前だ。
ふたりの苗字を入れ替えた方がいいのではないかという面差しをしている。
石坂がふたりを知っていてもおかしくはないと俺は察した。
「せっかく来ていただいたので、
後学のために編集した映像を観てもらいましょう」
俺が言うと、「おい、広がっちまうぞ」と石坂が言って、心配するような顔で俺を見た。
「守秘義務」と俺が言うと、ふたりの刑事は、「はい、それはもう!」と言って満面の笑みを俺に向けた。
「しばらくは誰にも公開しませんから。
その間に広がれば、あなた方が話したことになります」
俺が釘を刺すと、ふたりはかなり困った顔をした。
「課長や署長に報告する義務がある」と俺が言うと、ふたりはすぐさまうなづいてうなだれた。
「でしたらお見せできませんね。
あきらめてください」
俺が言うと、ふたりはさらに落ち込んだが、五月が電話をかけ始めた。
電話をした先はどうやら知り合いのようで、始めは友好的に話しをしていたのだが、電話を切る直前はかなりの勢いで怒鳴っていた。
「もれたら君たちの署長のせい」と五月が言うと、「申し訳ございません…」とふたりは言って、五月に頭を下げた。
編集したものを見ていなかった石坂と茜が大いに盛り上がっていた。
全てがリアルタイムに編集されているので、何がどうなっていたのかは全てが手に取るようにわかる。
「…やっぱ、タクナリ君すげえー…」と早乙女が言って感心してくれたことをうれしく思った。
やはり圧巻は、パトカーを転覆させた映像で、「ワイヤーアクションッ?!」と早乙女が言って驚いていた。
「抵抗できなくて当然だよ…」と岩山が言った。
簡単に衛につかまってしまった事を言ったようだ。
「人間、鍛えると、こんなになってしまうんだな…」と早乙女が言った。
映像を観終えたふたりは、「ふぅー」とため息をついた。
「超リアルなアクション映画を見た心境です…」と岩山が言って、背筋を伸ばして俺に頭を下げてくれた。
「少々大胆すぎますので、かなり反省しましたよ」と俺が言うと、ふたりの刑事もうなづいた。
「俺としては豪胆で好きだがなっ!!」と石坂は叫んでから、大声で笑った。
ふたりは署で食事をしてから、上機嫌で帰って行った。
そのふたりと入れ替わりに母が満面の笑みで帰って来た。
もっと遅くなると思っていたが撮影はスムーズに行なわれているようだ。
しかし護衛の加藤が俺に向けて苦笑いを浮かべていた。
「まさかですけど、母さんが監督も?」と俺が言うと、「そういうことです」と加藤は表情を変えずに言った。
「厳しいのですけど合理的。
本来の監督がアシスタントになっていました」
加藤の言葉を聞いて、俺はさぞ苦笑いを浮かべていたことだろう。
「あら、この映像…」と母は再生履歴を見て言った。
「母さんはイヤというほど見ただろ…」と俺が言うと母はまた再生を始めた。
「監督さんいないのに…」と母はつぶやくように言った。
「いるよ、五月さん」と俺が言うと、母は怪訝そうな顔をして五月を見た。
「俺がさらに過激な行動に出たら止めていたはずだよ。
まだまだ許容範囲だったから何も言わなかった。
署長としては責任があるからね」
俺が言うと五月は苦笑いを浮かべていた。
「アクターを知っているからできる技…」と母は言って深くうなづいた。
「本職じゃない場合、さらにそれが必要だよ」と俺が言うと、母はまた感慨深くうなづいた。
「これ、流しちゃう?」と母が俺の妹のように言ってきた。
「流すのなら、先に従業員通路の模様替えをしてからだよ」と俺が言うと、「優華ちゃぁーんっ!!」と母は叫びながら、署を出て厨房に入って行った。
「なるほどな。
それならば、ただの映画やドラマと同じ」
五月が言うと、俺は笑顔でうなづいた。
「問題は出演者にモザイクをかける必要がありますけどね。
だけど、動画の編集をすれば、顔だけを変えることは可能です。
人の手を使わなくてもいいアプリケーションがあるので、
出来上がった映像を確認するだけなので手間いらずです」
パソコンを開いてそのサンプルを見せると、警察官たちは顔の希望を口々に言ってきた。
約5分間分だけ編集をして、映像を確認すると、みんなはかなりカッコイイのだが、不自然すぎるのでかなり笑ってしまった。
「こんなにかっこよすぎる刑事たちはいませんよ。
ですがこれでいいような気がしますね。
モザイクだと興ざめしますので」
俺が言うと、「悪役が悪そうな顔だからさらに引き込まれるな…」と石坂が感慨深く言った。
「このアプリはわが社の製品ですので宣伝にもなりますから」
俺が言うと、みんなに白い目で見られてしまった。
映像の終わりの方を母が見ていたので、「これ、流しちゃう?」と言ったがさすがにみんなで引き止めた。
「社に発注するから。
そうすれば売り上げの貢献にもなる」
俺が言うと、「…基本的にはサラリーマン、なんだよなぁー…」と石坂に感情を込めて言われてしまった。
もちろん守秘義務があるので、マスターの映像が流れることはない。
翌日、俺は自分のオフィスに行く前に開発技術部に足を向けた。
開発技術部はフレックスタイムを採用しているので、もうすでに働いている。
客用のカウンターに俺の姿を見つけた社員たちは一斉に立ち上がって、まずはあいさつをしてから、全員が用件を聞いてきた。
「話しづらいからひとりで…
あ、赤木でいい」
俺が言うと、さもつまらなさそうな顔をして、全員が振り返って赤木を見た。
「大人気だよね」と赤木が言うと、「ほどってものがあるよ」と俺が言うと、社員たちはすごすごと自分の席に戻って行った。
全ての事情を赤木に話すと、「さて、どうしよう…」と赤木が言って考え始めた。
「ボクが責任を持って編集するから」と赤木が言ったので、「だったら安心だ」と言って書類にサインをしてから、映像の長さを赤木がすぐさま調べて、所定の料金を財布から出した。
すると開発技術課長が赤木のうしろにいて、「あ、会社もちで」と笑顔で短く言った。
この開発技術課長もかなりの猛者だと俺は感じた。
かなり離れて座っていたはずなのだが、いつの間にかそばにいて、さらにはすべての事情を知っているようだ。
「はい、ではお言葉に甘えて」と言って俺は課長に頭を下げてからカネを仕舞い込んだ。
俺のオフィスに行き、今の件を伊藤に話すとかなり笑っていた。
「こことあそこの課長は、
ほかの部署に置き換えると重役待遇のはずだぞ。
だからかなりの兵だと思うし、上の部長よりも格上のはずだ」
伊藤は少し冗談ぽく言った。
「やはりそうですか。
この社はますます安泰ですね」
俺の言葉を肯定するように伊藤がうなづいてから両手のひらを俺に向けて差し出してきた。
俺が弁当を渡すと、両手で恭しく受け取ってから、弁当に頭を下げた。
「今日は純粋に彩夏の手造りです。
俺はエリカの手造り」
「ほう、もうひとりで造れるんだな」と伊藤は感心した顔をして、弁当を見ている。
「先生がかなりのスパルタで、生徒は我慢強いのでね」と俺が言うと、伊藤は大きくうなづいている。
「松崎君っ! 小会議室っ!!」と課長がとんでもない剣幕で俺を呼んだ。
俺の席から遥か奥にある小会議室前に課長はいる。
その顔は鬼のようで、このような課長の顔は今までに一度も見たことがない。
伊藤が苦笑いを浮かべてから、「大丈夫」と小さな声で言った。
俺もなんとなくだがもうわかっていたが、課長の消えた小会議室の扉へ小走りで行った。
小会議室に入ると、課長は泣き笑いの顔をしていたのですぐに扉を閉めた。
「どうしてボクが先じゃないの?!」と課長は言って懇願の眼で俺を見た。
手順を踏もうかと思ったが必要ないと思ったので、「客として映像加工処理を頼みに行っただけです」と俺が言うと、「僕でもできるのにっ!!」と課長が言ったので、俺は少し笑ってしまった。
「課長は正規の窓口ではありませんから」と俺が言うと、返す言葉がなかったようで腕組みをしてから、「うー…」とうなり始めた。
「テレビの報道に間違っている部分はありません。
それで我慢してください」
俺が子供をあやすように言うと、「さらにだねっ! 僕は困っているんだよっ!!」と課長はまた声を荒げて、言葉通り、怒るというよりも困った顔をしている。
「公表はまだだけどね、君の提案企画が通ったよ、社長賞」と課長は憮然とした態度で言った。
本来であれば、上司としては自分のことのように喜んでくれるはずだ。
社長賞をもらった提案企画は、確実に商品となる。
それのどこがいけないのか、俺にはさっぱりわからない。
「室町のやつが、君をよこせと言ってきたんだよっ!!!」と課長はとんでもない声で叫んだ。
室町とは開発技術課長の名だ。
「そこは課長の力で何とかしてください。
そして私に異動の意思はありません。
最低でもあと五年間は」
俺が言うと、課長は憮然とした顔だが深くうなづいた。
開発技術課と広報営業課の社員で、勤続二年を経過した者は、自らが異動する権利を持つ。
今の仕事が厳しいと思えば、ランクダウンも可能だ。
しかし元に戻る場合は、それなりの試験を受ける必要がある。
いまだかつて、戻ってきた者は誰もいないらしい。
しかしながら、この二課のバランスが崩れてしまった場合は、さすがに異動を迫られてしまう。
開発技術課は今回、赤木を獲得したことでかなり潤っているはずなのだ。
「その赤木君の提案の上を行ったんだよっ!!」と課長がいきなり大声で言い放った。
―― エスパー?! ―― と思いかなり驚いたが、初めてのことではないのですぐに落ち着いた。
「はあ、赤木君も私と同じ提案企画を」と俺は言って笑みを浮かべた。
「広報営業面で君の記していた原理とメリットデメリットが
重役たちをうならせたんだよ。
赤木君はただただ提案しただけで、
その内容だけでは重役たちは理解不能だったようだ」
「はあ… 俺が付け加えたことで理解できたと」と俺が言うと、課長はうなづいた。
「その席でだよ、社長が、
松崎君はなぜ広報営業課なんだね?
などと、とんでもないことを言ったんだよっ!!」
それほどとんでもないとは思わなかったが、話しをあわせるためにうなづいておいた。
「でしたら私よりも先に伊藤さんだと思いますが…」と俺が言うと、「伊藤君にも見せたよ…」と課長は肩を落として言った。
「どうして彼がわからないことを
君が提案企画できたことが不思議でたまらないんだよっ!!」
「はあ、勉強しましたから」と俺が自然に言うと、「あ、君、もう勉強禁止ね」とあっさりと課長に言われてしまった。
それをさせないことで、課長は俺を死守しようと考え始めたようだ。
「あ、ちなみに赤木君と君の提案はかなり先に現実のものとなる。
今造ってしまうと少々問題が多いからね」
課長が言うと、俺はデメリットを思い出した。
「やはり、軍事転用」と俺が言うと、課長はうなづいた。
「それがクリアになってから、発売はする。
だから、予算がそれほどかからない程度で、
開発はゆっくりと進めるそうだ。
もちろん中心になるのは赤木君。
君も伊藤君もそうだが、やはり僕の後輩たちはすごいねぇー…」
課長は自分で言って自分をほめた。
俺はさぞ苦笑いを浮かべたことだろう。
課長は、最終的には、「映像、見せてっ!!」と友達のように言ってきたのだが、開発技術課長に見せてもらうように頼んだ。
「…うう、借りが…」などと言っていたのだが、どうやら頼み込むことに決めたようだ。
席に戻るとやはり、「わけのわからんもん造んな」と伊藤に言われてしまった。
昼食中に、俺と赤木が提案したものの話しを伊藤とひそひそ話で行なった。
「…問題は内部の圧力だな…」
「…はあ、それと使用する気化物質です…」
「…ま、パワーを落とすのなら問題はなさそうだけどな…」
「…ですが、それですと体重100キロを支えられません…」
「…この欲張りめ…」
「もっとはっきりと話してっ!!!」と言って、かなり席が離れている同僚の斉藤征子が俺たちに向けて叫んだ。
俺と伊藤はすぐに盗聴器を探したがどこにもない。
俺たちはお互いの服をさぐりあって、伊藤のスラックスのベルトに発信機らしいものがあることを突き止めた。
「これでいいかっ!!!」と俺が盗聴器に向けて大声で叫ぶと、征子は耳を塞いでから卒倒した。
伊藤は、「傷ものにしたら責任取らされるぞ」と少し笑いながら言った。
「いえ、ここにはあってはならないもののせいですので、
問題はありません」
「あ、それはそうだな!」と伊藤は言って、俺の意見に賛成した。
もったいないが、手早く食事を済ませて、同僚たちに起こされた征子の席に行った。
「誰のスパイ?」と俺が聞くと、「斉藤さんの叔父さんが常務だよ」と俺と同期の三谷が言った。
「常務の力量が足らないので、直接俺にレクチャーして欲しいと?」と俺が言うと征子は、「聞きに来ればいいじゃんって言ったんだけどね…」とかなりラフに答えたので俺は少し笑った。
「最近の科学技術の進歩はめまぐるしいからな。
老体には少々荷が重いんだろう」
伊藤が言うと、俺はうなづいたが、同僚たちはさすがに苦笑いを浮かべただけだ。
「あ、課長に言いつけるから」と俺が言うと、さすがにそれはまずいと思ったのか征子に拝まれてしまった。
「その程度でぬぐえることじゃなかったかもしれないんだからな。
罰は受けて欲しい。
そして、みんなへの戒め、見せしめも含めて」
俺は言ってすぐに全員の顔を見た。
「まだいる… しかも増えた」と俺は言って、増えたひとりだけを凝視した。
「蹴るよ?」と俺が言うと、「…暴力、はんたぁーい…」とすかさず返してきたので俺は笑って今回は許すことにした。
「ということは、俺の蹴りの強さも知っている。
どこで?」
俺が言うと、スパイの中条は、「黙秘行使っ!」と叫んだ。
「ふーん、流れてきた映像を観た。
構成員のものかなぁー…」
俺が言うと、中条は妙な顔をして笑っている。
「彩夏じゃない。
まさか優華が…」
俺が言うと、中条は驚いた顔をした。
「悪い妹は帰ってから懲らしめないとな。
何を頼まれたのか白状しろ」
俺が中条に詰め寄ると、「…ここでの女関係…」と中条は小さな声で言った。
「いや、それだったら彩夏が全てを牛耳っているからわかるはずだ。
気づかれたらそういえと言われていたはずだ。
さらにお仕置きだな。
中条は、ここの窓からダイビングすることになる」
「うう…」と中条はうなるように言った。
「…弱みを握れと…
すっげえ、怖かった…」
中条が言うと、俺は大声で笑った。
「それ、ブリザードモードか氷河期モードの優華だろうな」と俺が言うと中条は、「…ああ、なるほど、そういった感情か…」と言って理解したようだ。
「基本、俺がとなりにいない優華は冷たい女、もしくは氷の女だからな。
さらには、ドライアイスの女といってもいいほど冷たいし、
さらにはそれが凶器と化す!」
俺が力説すると、中条にはよくわかったようだ。
「もし優華に何かを頼まれたら、すぐに俺に言った方がいいぞ。
こうやって発覚した場合、消されるかもしれないからな。
物理的に…」
「かわいい顔してるのに怖いよな」と伊藤が言った。
「俺は普通にお願いされたけど断ったぞ」とさらに伊藤が言うと、―― 扱いが違うっ!! ―― とでも中条は思ったようで、驚きの顔を見せている。
「へー、早いなぁー…
ああ、そうか、お客様としてか…」
俺が言うと、中条が小さく手を上げて、「あ、俺も客として行った…」と言った。
「ということは、
優華にとって、伊藤さんは俺たちの仲間ということですね」
「あまり気は進まないけどな」と伊藤は言って、苦笑いを浮かべた。
「だけど職場で弱みって…
逆に優華には何かあるのかなぁー…」
俺が言うと伊藤は、「ああ、なるほどな、自分にあるからお兄ちゃんにもあるはず…」と言った。
「さらにはなぜそれを知りたいのか。
俺か、もしくは誰かをぐうの音も出ないようにするため。
となると、俺が知っている人の中ではふたりだけ。
ひとりは総理大臣の息子。
また優華にちょっかいを出し始めたのかも。
こっそりと俺を探らせたのは、
俺自身が気づいていない弱みのようなものがあるかもしれないから。
優華はかなり深いところまで考えていたようだね」
「ひとつは俺も知ってるけどな」と伊藤は俺を見てにやりと笑った。
同僚の誰もがそれを知りたいと思ったようで、伊藤に大注目した。
「俺の弱点は優華だからね」と俺が言うと、みんなは一気に納得の顔をした。
「だけど…
エリカが言っていたように、
少々痛い目にあってもいいのかもしれない。
だけどその時に、
取り返しのつかないことをしなけりゃいいけど…」
俺の想いが実現しないことだけを願って、優華に対して短いメールを打った。
優華は上目使いのまま厨房からずっと俺を見たまま、かなりゆっくりと署に近づいて来る。
だが、あまりにも不気味だったのか、誰もが優華を見て、誰もが何も言わない。
「確かに不気味だよな」と俺が言うと、「何があったのよ…」とエリカが俺に聞いてきた。
みんなに説明すると、「あきれたぁー…」とエリカがけだるい声で言った。
「優華にとっては本気だったのかもな。
などと言うと、またシスコン、などと言われる」
俺が先手を打つと、「煙幕張らなくていいのよ…」とエリカに少々怖い目でにらまれた。
「勘違いは毒でしかないからな。
きちんと伝えておく義務がある」
俺が言うと、「はいはい、わかりましたぁー…」とエリカがまたけだるい声で言った。
「なんだ、妊娠でもしたのか?」と石坂がエリカに言うと、「だったら天にも昇る気分!」とエリカは言って喜びをあらわにした。
「本来のエリカの話し方ですよ」と俺が言うと、「えっ、そうなの?」と茜がエリカを凝視した。
優華が警察署内に妙な空気を流れ込ませてきた。
「なぜスパイ?」と俺が聞くと、この場にいる全員があきれた顔を優華に向けた。
「優秀な人ほどね、穴はあるかもって…」と優華は表情をまったく変えずに言った。
「だったら今の部署にいないと思うぞ。
大きな欠点を持っている場合、
重要ポストで働ける可能性は低くなるからな。
だが、仕事以外での欠点はあるかもしれない。
特に日常生活において、支障がない大きな欠点、など。
もっともこの場合も、支障が出ることがほとんどだと思うけどな」
俺が言うと優華は少し考えて、「だけど、完璧じゃないよ」と言った。
「どういうところ?」と俺が聞くと、「時々、エリカちゃんに叱られてるもん…」と優華が言うと、俺は大いに笑った。
「確認不足や手間を省こうとしてミスすることはあるな。
犯罪心理学としては、俺とエリカは一心同体だけど、
俺が知らない事実をエリカが知っている場合には叱られるな。
そしてその逆の場合もあるぞ。
逆切れされて叱られるとかな」
『コツ』と小さな音がした。
俺のわき腹に、エリカの拳が当たった音だ。
シールドは常につけているので、これが当たり前の音だ。
「もう割るなよ…」と俺が言うと、「いくらでも払うわよ」とエリカは平然として言った。
「お兄ちゃんの弱点はエリカちゃん」と優華が言ってすぐに、「と、優華もだぞ」と俺が言うと、「あ、うん…」と優華は答えてすぐに、「あはっ!」と笑って喜んだ。
「俺の同僚をあまりいじめてやらないで欲しいんだけど…」
俺が言うと優華はまた俺を上目使いで見た。
「だって、中途半端なんだもん…」と優華は言って、それなりに中条をけなしたようだ。
「何のために俺の弱点を知りたいのか教えてくれ」と俺が言うと、「あきらめないの」とだけ優華が間髪入れずに言った。
これだけで俺としては簡単に理解できた。
「彩夏が言ってもダメ」と俺が言うと、「一時的…」と優華はすぐに答えた。
「優華のビジネススタイルを見せてくれ。
そうすればそれにあわせて俺も攻撃できるはずだ」
俺が言うと、優華が眉をひそめて首を振ったが、このままでは何も変わらないと思ったのか、「協力、してもらった方がいいと思う…」と、優華は渋々言った。
「俺は母さんの社長も知っている。
爺ちゃんの社長も知っている。
そしてもし、拓郎伯父さんが協力してくれたのなら、
和喜兄ちゃんの腰を引かせるのは簡単だと思う。
そしてできれば、経営者としての優華も知っておきたいんだよ。
そうすれば、優華にとって誰が好ましいのかも
自信を持って推薦できると思うんだ。
俺の予想でしかないが、翔君では役不足のような気もしてきたんだ」
俺が言うと、優華はかなりの勢いで俺に抱きついてきた。
そして俺を笑顔で見上げてきた。
「じゃ、今から行こうか」と俺が言うと、優華は驚きの顔を見せてすぐに俺の体を放した。
そして、かなり困った顔をして首を横に振ったが、このままでは何も変わらないとでも思ったのか、「行くわっ!」とほんの少しだけ優華の実業家としての顔を見せてくれたと感じるような気合を込め、言い放った。
オファーを取るため、優華は電話をしたが、早速その実業家の顔を見せてくれるようだ。
優華は電話が繋がるといきなり、「用があるならここに来い」と言い放ったのだ。
優華は味方だが、これはかなりの強敵だと、俺は冷や汗をかいたことだろう。
和喜が何か言ったようだが、「四の五の言わずにここに来い」と優華は薄笑みを浮かべなから言い放った。
相手の話はまったくの無視。
「来るのか来ないのかさっさと決めろ」と優華はさらにまくし立てた。
―― これが氷河期モードかなぁー… ―― と俺は漠然と思った。
「ふたりっきり?
ふんっ、なめるな。
危険人物とふたりっきりになるわけがないだろ?
バカかおまえは」
俺の知っている優華はどこにもいなかった。
特別製の犯罪者確保用の席に移動していてよかったと俺は感じている。
「来ないのなら、これからは小細工はするな、わかったか?」
優華は穏やかだが、『ら行』が巻き舌になっている。
そして、なにやら足元が寒いような気がする。
ふと辺りを見ると、天井辺りは透けているのだが、目線に平行のガラスは白く霜が降りたようになっていた。
―― なるほど… ―― と俺は思い、かなり感心した。
優華は魔法使いでもあったようだ。
「なんだ、来ないのか…
チィ…
他愛もないやつめ」
優華が舌打ちをするとは思わなかった。
そして、『ピシッ!』という小さな音が聞こえた。
ドアを固定しているちょうつがいの部分にひびが入ったようだ。
「今度余計なことをしたら、拓生と皐月も連れて行くぞ。
………
おいおい、男が泣くなよ、みっともない」
優華の本気は、通信機器を通してまでも、畏れを振りまけるようだ。
「あ、そうだ。
今度つまらん手を使ったら、おまえのところと縁を切るぞ。
今まではな、彩夏の親族だから手加減してやっていたんだ。
これからは先はないと思っておいた方がいいぞ。
建築会社など五万とあるんだからなぁー…」
―― それは一理ある ―― と思い俺はうなづこうとしたが、節々がかなり痛んだので、少しずつ体をほぐすように動いた。
「…おい、なんか言え…
チィ…
凍ったようだな…」
優華は言ってから、おもむろに電話を切った。
そして俺に笑みを向けてから携帯を掲げて、「これって、軍事用だからね、マイナス100度まで耐えられるんだってっ!!」といつもの優華に戻って言った。
すると一気に部屋が暖かくなり、『ビシビシビシッ!!』と、とんでもない音がした。
ガラスの部屋はひび割れだらけになった。
だが、表面とガラスを張り合わせた中央にコーティングをしてあるようで、崩れ落ちることはない。
「あーあ、割れちまったな…
だけど、なかなかの芸術作品っぽくなった」
俺はガラスの囲いを見回して言った。
「あ、でも、危ないから取り替えるのっ!!」と優華は陽気に言って、リモコンを使ってゆっくりと囲いを上げていった。
すぐさま暖かい空気が体を覆った。
「暖房が入っているように感じるなぁー…」と俺が言うと、「気のせいだもんっ!」と優華は言って、俺の右腕に抱きついてきた。
「すっごく冷えてるよ?」と優華はコケティッシュに俺に言った。
「ああ、そのようだな。
暖かいココアでももらおうか」
俺が言うと、「はい、ご注文ありがとうございますっ!」と優華は言って厨房に走って行った。
俺は体を確かめるようにして、ゆっくりと歩き始めて、時間をかけて署にたどり着いた。
「優華、最強」と俺が言うと、誰もが無言でうなづいた。
「うう… ほんと、冷え切ってる…」とエリカは俺の腕に触れて驚きの顔をして言った。
「特殊効果だって思ってたわ…」と爽花が驚いた顔のまま言った。
「その必要はないだろ…
味方の俺が中にいたのに…」
俺が言うと、だれもがうなづいた。
「だからこそ、優華は本気で本来の自分を出したんだよ。
まさに魔法使いだと思ったな」
優華は満面の笑みで、ココアとケーキを持って署に入ってきた。
「ああ、いい香だ」と俺は言って、熱いココアをゆっくりと口に含んだ。
「あー、暖まるなぁー…」
まさに、俺の体は冷え切っていたようで、体の内側からホカホカと温まってきた。
「ま、優華を本気で怒らせるなということだな」
俺が言うと優華は、「えへへへ」と笑っただけだったので、俺としてはほっとした。
「さてここで優華の結婚相手だが…」と俺が言うと優華は、「結婚しないもんっ!!」と言って俺の腕に抱きついてきた。
「はっきり言って、誰も推薦したくない。
理由は簡単で、もし優華を本気で怒らせると、
逃げないとほぼ確実に成仏するから」
俺が言うと、誰もがうなづきかけたが、優華を怒らせるととんでもないことになるとでも思ったようで、ぴたりとその動きが止まった。
「しいていえば俺か、衛くらいしかいないかなぁー…」
俺が言うと、「お兄ちゃんで我慢するわっ!!」と言って、俺の腕をさらに強く握ってきた。
「死にそうにない、逞しいくてやさしい男を見つけてくれ」と俺が言うと、優華は怒ることはせず、「できたらいて欲しい」と言って俺に笑みを向けてくれた。
優華はやっと俺から離れたと思い、うれしく思った。
… … … … …
桐山の様子がおかしい。
いつもは薄笑みを浮かべて、待機時間を過ごしているのだが、何かを考え込んでいるように見え、口が真一文字に閉ざされている。
知り合いの刑事にでも、無理難題を課せられたのかもしれないと俺は思った。
これは俺の責任でもあるので、半分ほどは背負おうと思い、桐山に顔を向けた。
「桐山さん」と俺が呼ぶと、いきなり目覚めたような驚いた顔を俺にさらした。
「あはは、申し訳ありません…」と言って桐山はうなだれた。
「どんな難事件ですか?」と俺が聞くと、桐山は驚くことなく、「話だけでも聞いてやってください」と言って、手帳を出した。
事件の詳細はまだ報道されておらず、鋭意捜査中とだけに留めている、田園署管轄内で起きた殺人事件についてだった。
犯人の目星は付いていて、アリバイもない。
だが、殺人現場が密室だという点で逮捕に踏み切れない。
よって容疑者は完全黙秘をしている状況だという。
被害者は少々有名な小説家で、容疑者はそのアシスタントであり弟子のようだ。
死因は心臓麻痺。
しかし、被害者の胸にはくっきりとスタンガンの電気を浴びた痕跡があった。
凶器は持ち去ったようで、現場にはなかった。
少々お粗末な殺害方法だと、俺は笑いそうになってしまった。
問題の室内は窓が二カ所。
これはいずれもロックされていた。
そして廊下に出る扉が一カ所あり、簡単に開け閉めできる鍵が付いている。
鍵の形状は半円の直径3センチほどのもので、中央につまみが付いているごくシンプルなものだ。
その鍵は、ドアレバーの上に位置してる。
扉の廊下側には何もなく、鍵をかけるとドアを開けることは不可能となる。
この鍵に何か仕掛けを施した形跡はまるでない。
別の部屋で色々と試したようだが、どうしても何らかの痕跡が残るそうだ。
鍵がかかることは確認できているが、これでは弱いと捜査本部は頭を抱えているようだ。
証拠を残さず確実に鍵をかけられる方法を見つけない限り、容疑者は口を開かないという見解だという。
遺留品は変わったものは何もなく、ハウスキーパーの話によると、いつも通りのものが、いつも通りの場所にあったようだ。
桐山は数枚の写真を胸ポケットから出して見せてくれた。
そこには少々面白いものがある。
階段状の引き出しつきのもの入れで、踏み台のようなものにもなる代物だ。
一段は20センチほどで三段あり、幅と高さは60センチほど。
少し浮いているように見えるので、小さな球形のキャスターがついていると思われる。
これに人が乗るとその重みで沈み、球形のキャスターは意味を成さなくなり、踏み台は床にしっかりと固定されるという代物だろうと俺は思った。
―― これは… ―― と思い、俺は絶句してしまった。
桐山は笑顔を俺に向けた。
「もう、わかってしまわれたようですね。
さすがです…」
桐山は俺に向けて頭を下げてくれたのだが、少々大問題になると俺は思った。
「社に電話します」と俺が言うと、さすがの桐山も驚きの顔を俺に向けた。
同じようなものは他社でも販売しているが、もしわが社の製品だとすれば大いなる痛手になるはずだ。
俺は課長にもし悪用されていた場合の対策を聞くために電話をした。
さすがに課長では即答できないようで、重役会議にかけるということになった。
「まさかと思いますが、
犯人はファレルボのような知的玩具を持っていませんか?」
俺が言うと、「あっ!」と言って桐山は驚きの声を上げた。
「あのぉー… 聞いてもいいでしょうか?」と桐山に言われ、催促されてしまった。
「問題はあるんですよ。
充電器だけで、本体は持っていない可能性があります。
肝心の本体は、犯行現場の部屋のどこか、
もしくは部屋を出て別の場所に
まだ隠れている可能性があります。
隠れろという命令をしていて、誰かが来ると、
狭い場所に逃げ込むように指示してある場合、
一度人間が探した場所に移動したりすれば、
そこにあるのにないように思えますから」
「…はあー…」と桐山は言って、ぼう然として瞳を中に躍らせた。
「もっとも、4、5人で別の場所を捜索していけば、
きっと見つかるんでしょうけどね。
さらに、木製の踏み台を押せる力のあるもの。
通常のファレルボだと、この踏み台は少々重いように思いますので、
わが社の製品ではないかもしれません」
父がディックを抱いて署に入って来たので、俺はディックに、「隠れろ」と命令した。
ディックはすぐさま俺の椅子の真下に移動した。
そして俺が椅子の下をのぞくと、もうそこにはいなかった。
「オレにはどこに行ったのかわかりません」と俺が言うと桐山は、「はあ、よくわかったと思います…」と言って父の足元を指差した。
「ディック、解除」と言うとディックは椅子に座った父のひざに飛び乗った。
「父さん。
母さんがいつも座っているキャスター付きの椅子を
押すように命令してくれないかな?」
俺が言うと、「ああ、いいが…」と父は言って、ディックに命令した。
ディックは机の中にもぐりこんで軽がると椅子を押し出した。
「ディック、ノーマル」と俺が言うと、ディックはがんばっているのだが、椅子は少しずつしか動かない。
「ディック、解除」と俺が言うと、また力強く椅子を押し出し始めた。
「ディックは特別製でかなりのパワーがありますから」
桐山は俺の言葉を聞いて深くうなづいている。
「ディック、扉ロック」と俺が言うと、ディックは軽々と飛び上がって、扉の鍵の部分にぶら下がった。
すると、『カシン』と小さな音がした。
「…いとも簡単に…」と桐山は得意満面のディックを凝視した。
「ディック、扉開放」と俺が言うと、ディックはまた飛び上がって鍵を外して、ドアレバーにぶら下がった。
ゆっくりとドアが開き、ディックは帰って来たエリカと茜に飛びついた。
桐山は納得したようで、大いにうなづいている。
「もう重役たちは知っているはずですので、
連絡していただいて結構です」
俺が言うと桐山は、「本当にありがとうございますっ!」と俺に頭を下げて礼を言ってくれてから電話をかけ始めた。
ほんの10分後に、桐山に電話があり、ボニーザ社製の恐竜型ロボットを別の部屋の狭い家具の隙間で発見したようだ。
犯人の所持品には、専用の充電器だけがあった。
ロボットが犯人のものであれば、命令などを解析して、ドアの鍵を閉めたと証明できるはずだ。
充電器を始末しておけば、犯行を否認できたはずだが、容疑者にとってロボットはまさに相棒だったのだろうと感じた。
しかし、その相棒に犯罪の片棒を担がせるとは許せない、と俺は強く思った。
ロボットの解析の結果、踏み台を移動させて鍵をかけ、踏み台を元の場所に戻して隠れるといった命令がプログラミングされていたそうだ。
そしてロボットから容疑者の指紋が出たことにより、犯人と断定され、全ての自供を始めたようだ。
母と彩夏一行が署に戻ってきた。
それほど著名ではないのだが、『著名作家密室殺人事件!!』とテロップが出て、レポーターが事件の顛末の報告を始めた。
「嫌な事件だから、チャンネル替えた方がいいよ」と俺が言ったが、母はまったく俺の言葉を無視してテレビを見入っている。
「後で泣き言を言う…」と父が少し笑いながら言った。
「俺もそう思うよ」と俺は父の意見に同意した。
『なんと、このロボットを使って密室を完成させていたのです!!』とレポーターが恐竜型ロボットの画像のフィリップを出して言った途端、「エンジェルちゃんはしなあーいもんっ!」と母は投げやりに言った。
「わが社の重役たちはまだ会議中だろうなぁー…」と俺が言うと、母はエンジェルを服の下に隠したので、かなり笑ってしまった。
「ディック、隠れろ!」と父が叫んだと同時にまた俺は笑ってしまった。
ディックは狭い場所を右往左往として、姿を消した。
「うまいなぁー、ディック…」と俺が言うと、みんなも探したのだがどこにもいない。
扉は開いていないので、外には出ていない。
基本的には、ここには隠れる場所はあまりない。
よって、かなり特殊な隠れ方をしたと俺は思った。
「まさかだけど、椅子の背もたれの裏?」
俺が言うと、「いたっ!」と言ってエリカが素早くディックを捕まえた。
「この、忍者犬め」とエリカは泣き出しそうな顔のディックを抱き上げて言って、「はい、お父さん」とエリカが言うと、ディックは申し訳なさそうな顔を父に向けてから、父に抱かれた。
「おまえ、すごいな!」と父が笑顔で言って、見つかったのだがディックをほめた。
ディックは微妙な心境のようだが、しっぽを振っているので機嫌はいいようだ。
『そしてこの事件は、なんとタクナリ君が簡単に解いたそうですっ!!』
俺はこのレポータを隠したくなってしまった。
母はテレビに向かって、大いに拍手をしている。
「おまえ、またかぁ―――っ!!」と彩夏に大声で言われて、胸倉をつかまれてシェイクされた。
「悪いな、ついつい解いちまった」と俺が言うと彩夏は、「俺の服を解いてもいいんだぜぇー…」と言ったが、エリカが怖いようでちらりちらりと見ている。
「怖いのなら言うなよ…」と俺が言うと彩夏は、「仕方ねえだろっがぁー…」と言ったあと、俺は開放された。
「そういえば、証拠品が目の前にあるのに
誰も気づかないだろうって思った事件があったなぁー…」
俺が言うと、現役警察官の視線を一気に浴びた。
「みんな、怖いよ…」と言うと、「また俺のしらねえ事件かぁー…」と彩夏は怒ってはいるが喜んでもいるような顔をしている。
「今回知っているのは、エリカだよな」と俺が言うと、「すばらしい思い出を共有したくないんだけど…」とエリカにあっけなく言われてしまった。
「じゃ、しない」と俺が言うと、「ゲロしやがれ、このやろうっ!!」と石坂が、両手のひらで、『バンッ!!』とテーブルと叩いて立ち上がった。
「まだまだ元気ですよね」と俺が言うと、「ありがとう、どうでもいいからさっさと語りやがれ…」と石坂に礼を言われてからすごまれてしまった。
「警視総監に置き去りにされたファイルの三番目。
阿蘇リゾートロッジ殺人事件」
俺が言うと、「ああ、あれかあー…」と言って五月は苦笑いを浮かべた。
同僚の西條にイヤというほど聞かされていたそうなので、うんざりする気持ちもわかる。
「じゃ、署長が語ってくださいよ」と俺が言うと、「細かいところまでは聞いてないからな」と切り替えされた。
「…どっちでもいいから、さっさと語りやがれっ!!」とまるで石坂のように彩夏にどやされてしまった。
~ ~ ~ ~ ~
俺とエリカは中学二年の春に、南九州へ修学旅行に行った。
その第一日目は何事もなく阿蘇山を巡り楽しんだのだが、その近くにあった集合ロッジで悲鳴が起こった。
辺りは芝で見通しがいい場所だ。
俺とエリカは声のした方に一目散に走って行った。
ひとつのロッジの入り口に女性が倒れていて、上半身は何とか手で支えていた。
「何があったんですか?」と俺が聞くと、「あわあわ…」と女性は言いながら、右手をまっすぐに伸ばして、人差し指で天井付近を指差している。
数名の人たちがロッジから出てきて何事かと、女性と俺たちを見てきた。
女性が指差した場所に、首を吊った男性がぶら下がっていた。
「…あー、イヤなもの見ちゃったよおー…」と俺が言うと、「現場検証」とエリカが短く言って、俺を急かして手を引き、靴を脱いで慎重にロッジに入り込んだ。
部屋の中にはテーブルと椅子が三脚、そして背の低い冷蔵庫とベッド。
そしてシステムキッチンがある。
キッチンは家具類はなく、棚が用意されていて、そこに皿やコップが並べて置かれている。
椅子の数が妙だと思っていたのだが、一脚だけ窓際にひっくり返っていた。
この椅子を蹴って首を吊ったようだが、天井まではかなりの高さがある。
テーブルの上に椅子を二脚並べて、その上に椅子を乗せれば何とか届く位置にあるのだが、どう考えてもテーブルの幅が狭いので、椅子を積むのは無理だ。
一体どうやって高い天井の梁にロープをかけたのかが不思議だった。
ロープを投げればできなくはないが、ロープの端の結び目がしっかりと梁に密着している。
この部屋にははしごや脚立のようなものはない。
俺は椅子をくまなく見ていて、すぐにわかった。
「あ、もう解決」と俺が言うと、「じゃ、いこ」とエリカが言って、俺とエリカは外に出た。
外に出たのには理由がある。
はしごや脚立を探すことだ。
だが、この辺りにはそのようなものはない。
やはりあれしかないと、俺はエリカには伝えた。
「子供の目はいいからね」と俺が言うと、「犯人はあの人」と、エリカは短く言って、少し離れて被害者のロッジの部屋の中をのぞいている、白髪交じりの50才ほどの男を指差した。
「まあね。
でもわかんないけどね」
そしてその男を観察していると、指に決定的な証拠を見つけた。
「あーあ、犯人にほぼ断定だね」と俺は男を見ながら言った。
「指に絆創膏」とエリカはまた短く言った。
この頃のエリカは話すのだが、言葉としてはいつも不十分だった。
エリカは感情をうまく表せない時期がまだ続いていたが、俺としてはそれほど問題視していなかった。
そしてエリカの目的は事件の解決ではなく、犯罪者を見ることにあった。
パトカーが数台やってきて、すぐに現場検証が始まった。
刑事らしき男がきたので、俺は全てを話してから、結果を知ることなく、クラスメイトたちが待つバスに乗り込んだ。
~ ~ ~ ~ ~
「はい、終わり」と俺がいうと、「てめえ、ふざけてんのかぁー…」と言って彩夏はまた俺の胸倉をつかんできた。
「結末は知らないぞ。
だけど調書があるから、解決したんだろうな。
それに俺って、熊本では伝説になっているそうだから」
「…キ、キスしてやる…」と彩夏が言うと、エリカが簡単に彩夏の手を解いた。
「じっとしてんじゃないわよ」と俺がエリカに叱られてしまった。
「この先は散々聞かされた」と五月が言うと、全員が注目した。
松崎という少年の言葉通りに椅子の脚を確認しながらはずしていった。
そして、椅子の滑り止めを外すと、ねじ込み式の脚立になる椅子だったことが判明した。
鑑識官の調査の結果、ねじの部分にわずかな血痕と座面と脚の間に挟まっていた頭髪により、松崎という少年が指摘した男が容疑者として拘束された。
鑑識のさらに詳しい検査の末、この男が自殺に見せかけて殺した犯人だと断定されて、事件は解決した。
このスピード逮捕により、西條たちは表彰されたが、西條だけはこの手柄は松崎という少年にあると言って返上した。
鑑識の話によると、指摘がなければすぐには判明しなかったかもしれないと、西條は五月に語ったようだ。
「ブラボォ―――ッ!!!」と母が叫んでから俺に拍手をしてくれた。
「おめえ、名乗ってんじゃあねえっ!!」と彩夏にうれしいのか怒っているのかわからない顔で言われた。
「名乗ってないぞ」と俺が言うと、誰もが驚きの顔を俺に向けた。
「名乗ってないけど西條さんはきちんと見ていた」とエリカが言うと、誰もが気づいたようだ。
しかし、彩夏だけはわからなかったようで、「うー…」とうなり声を上げている。
「名札?」と五月が言ったが、俺は首を横に振った。
五月は驚いた顔を俺に向けた。
そして誰もが頭を抱え込んだ。
「名札はほぼ正解ですけどね。
ジャージに刺繍した名前」
俺が言うと、「くっそぉ―――っ!!!」と言って彩夏はかなり悔しそうに叫んだ。
「俺もジャージ着て修学旅行に行ったぞっ!!」と彩夏は叫んでさらに騒ぎ始めた。
「…私、行ってないもん…」と優華はかなり悲しそうに言った。
「優華は高熱が出て、修学旅行に行けなかった」
俺が言うと、みんなは優華を慰め始めた。
「エリカとは二番目の事件だったっけ?」と俺が聞くとエリカは、「三番目よ」と言って俺をにらんできた。
「怒んなよ」と俺が言うと、「大切な思い出じゃない… 殺伐としてるけど…」などと言いながらエリカはころころと笑った。
「今から修学旅行、行くの?!」と優華は久しぶりに疑問形で言った。
優華にとっては、ありえない思い出だったからだろう。
… … … … …
出社してひと心地ついていると、課長が出社してきて、「われ関せずを貫くそうだよ」と言って俺の肩を叩いて席に移動した。
「なんだ? 暗号?」と伊藤が俺に聞いてきた。
「メール送りますよ」と俺が言うと、「あ、恐竜」と言って伊藤はにやりと笑ったので理解できたようだ。
「本当は事件に関することを社に上申するのもどうだろうと
思ったんですけどね、やはりサラリーマン優先ですから」
俺が言うと、「最悪の場合、回収もありえるからな」と伊藤は神妙な顔をして言った。
「テレビで報道があった時、母はエンジェルを服の中に隠すし、
父はディックに隠れろと命令していましたよ」
俺が言うと、伊藤は愉快そうに笑った。
『僕にも教えて欲しいんだけど…』と俺のパソコンから課長の声がした。
「ついにここまで…」と俺が少々驚いた顔をして言うと、「あ、大丈夫」と伊藤が言って自分のパソコンを操作していると、「ちょっ、伊藤君っ!!」と課長が今度は自分の声で叫んだ。
伊藤は俺のパソコンから、課長の配信したアプリケーションを排除したようだ。
「もしこのようなことがあった場合、まずは課長が疑われますよ」と伊藤が言うと、「せっかく仕込んだのに…」と課長は言って反省などはしていないようだ。
「日本警察署には必要になるかもしれませんね。
サイバー対策のできる署員…」
俺は言って、伊藤を見た。
「その時々に雇ってくれ…」と伊藤はため息混じりで言った。
「はあ、深く知ることにならないので、
その方法が最善かもしれません」
俺が言うと、伊藤は今日も両手のひらを出してきた。
「今日も彩夏の手造りです」と俺が言って伊藤の弁当を渡すと、「仕事、どんどん回してくれていいぞ」と伊藤は上機嫌で言った。
「伊藤さんは結婚とか」と俺が言うと間髪入れずに、「離婚する時に面倒そうなのでイヤ」と伊藤は言って、俺たちの仲間だと思い、俺としては喜んだ。
「それ、彩夏にも話してもらうと、さらに先に進めるかもしれません」
俺の言葉に、「そうしよう…」と伊藤はつぶやくように言った。
課長は、『われ関せず』などと言ってきたが、俺としては少々気になるので、コマーシャルの企画として一本だけ造り上げた。
動画はもうすでにあったので、背景だけ編集すればいい。
前回のバッテリーの宣伝と同じような手だが、今回はまさにタイムリーだと感じている。
何事もなく午前中の仕事を終え、うまい昼食が終わった後すぐに、なんと社長たち重役が俺のオフィスにやってきた。
一体何事かと思ったのだが、俺に用事があるようで、「松崎君、ああ、そのままで」と社長は言って、俺の右隣の席に座った。
「バッテリーの売り上げ、好調ですね」と社長は当たり障りのない世間話から入るようだ。
「ファレルボとロアプリンセスの販売促進、
あ、いえ、
お詫び並びに注意事項についてのお知らせの件でしょうか?」
社長がここに来るのはその用件しかないと思っていた。
さらには、課長が一番後ろに控えていたので、直接一社員の俺に聞いた方がいい、などと課長が上申したはずだ。
「話しが早くていいですね」と社長が言ってすぐに、「ではこの映像を」と俺は言って、パソコンのモニターを開いてすぐに映像を流した。
「うう…」と社長は短くうなり、そして映像を見入った。
重鎮たちも、「あー…」と言ってため息をついてくれた。
映像が終ったので、「前回のバッテリーと同様に人の心をモチーフにして構成しました」と俺が言うと、社長は笑顔でうなづいた。
「お詫びや注意よりも、
ユーザーの良心に訴えかけた方がいいと思っただけなのです」
俺が言うと社長は、「映像としては編集が必要ですね」と聞いてきたので、「はい、開発技術部で二時間ほどで仕上げてくれるでしょう」と俺が答えると、社長は笑顔でうなづいている。
「映像としては今日から流せそうですが、問題は契約ですね」
映像には当然キャラクターが映っている。
ロアプリンセスのエンジェルと、わが母だ。
「実はそれが一番の難関なのです!」
俺は力を込めて言った。
「いや、出演料は最高額を支払っても構わないのです。
窮地を脱するというよりも、
拝見した映像であれば販売促進にも繋がっています。
本当に最高の演出だと私は思っているのですよ」
俺は社長の言葉に笑顔でうなづいたのだが、「実は、金額ではないのです」と俺が言うと、社長一同は怪訝そうな顔をした。
「寺嶋皐月は私に対して、
ドラマで競演することを条件に契約を結ぶと考えています」
「あ、それでよろしくお願いします」
俺は社長に簡単に言われてしまったので、二の句が告げなくなった。
俺の背後で、伊藤が笑いを堪えていることがよくわかった。
「現在、お母様が撮影しておられるドラマは、
知っての通り、わが社がメインスポンサーです。
ですので、まったく問題はありませんので、
どうかお母様の希望を叶えてあげていただきたいと思っています」
―― 社長もグルか… ―― などと思ったが、さすがにそれはないだろうと思い直した。
「了解しました」と俺は答えて腹をくくった。
「では、早速契約書を作成しますので」と俺が言ってから、画像の入ったメモリスティックを伊藤に渡して、「よろしくお願いします」とだけ言った。
伊藤は、「ああ、行ってくるよ」と気さくに言って引き受けてくれた。
「契約の際には伊藤さんにも同行していただきますで」と俺が課長に向けて言うと、「ああ、それでいいよ」と課長も気軽に答えてくれた。
「できれば出演しない方向の契約書も作ります」と俺が言うと、課長も社長たちも苦笑いを浮かべていた。
半時間ほどして、俺と伊藤は母たちがドラマの撮影をしている現場へと足を踏み入れた。
監査係として、わが社の広報部の社員がいるので、オレたちがいても何の問題もない。
「…重鎮おふたりがどういうこと?」と広報部の内藤千明が小さな声で聞いてきた。
「母ちゃんの監視任務」と俺が言うと、千明も伊藤も声を上げずに笑った。
「カッ!! オッケーイッ!!」と母が叫んだのでついつい笑ってしまった。
「あ、タクナリ君だっ!!
十分休憩入りまーすっ!!」
母は勝手に現場を仕切っているようで、出演者もスタッフも短い休憩にすることにしたようだ。
伊藤は手短にCM契約について説明すると、「タクナリ君の方がいいんだけど…」と伊藤に注文をつけてきた。
「はい、私もそのように思ったのですが、松崎が嫌がりましたので」と伊藤は少し笑いながら言った。
「映像なんていくらでも使ってくれていいわっ!!
でも、このドラマに出てっ!!」
母は俺に向けて大声を張り上げた。
すると、この場にいる全員から、「おおおー…」と低いうなり声を上げてから、大きな拍手が沸いた。
「さすがにそれでは気が引けますので、それ相応の金額と、
タクナリ君に出演していただくという条件つきの契約書です」
母は、こういったものは隅から隅まできちんと読む。
さすがに社長だと感じた。
よって契約書に妙な小細工はしていない。
しかし母は、「時間制限…」と言って考え始めた。
「はい、さすがに素人ですので。
完璧に演じられるのは十分間までという結論に至ったのです」
伊藤が言うと、「タクナリ君の演技している時間が十分間…」と母が言うと、「はい、それはもちろん契約書通りです」と伊藤は笑顔で言った。
「じゃ、無理に伸ばせば30分とか…」と言って、母は夢見る乙女のポーズをとって言った。
「そういったせこいマネはやめて欲しい」と俺が言うと、「怒らせちゃったら元も子もないもんねっ!!」と母は俺の妹なって言ってから、契約書にサインをした。
「あ、みんな、休憩延長で!」と母はまた勝手にこの場を仕切って、そして、映像を流し始めた。
顔を変えたテロリストを撃退した映像だ。
「主役がタクナリ君!
顔は変えちゃったけどね!」
母は上機嫌で言った。
映像はダイジェスト版でうまく編集してある短いものだったので、五分ほどで終った。
「演技じゃなくってリアルだけどね。
参考になるところが多いって、私は思うの」
母が言うと、スタッフも出演者も母に向けて拍手を送っている。
「この完全版を放映することが決まりましたぁーっ!!」と母はノリノリで宣伝を始めた。
「今回は、視聴率低迷バラエティー番組に
私が投稿することしました。
あ、やらせじゃないからね」
母は言うと誰もが大声で笑っている。
母の現場はいつもこんなに言い雰囲気なのだろうかと思い、俺はこっそりと母の付き人兼マネージャーの吉田香乃に聞くと、「まったく逆で、怒り狂ってることもありますぅー…」と言って、その小さな体を震わせた。
エンジェルは香乃の肩に乗っていて、片目だけ開けて俺を見ている。
「何事も経験だね」と俺が言うと、「はいっ! ありがとうございます!」と香乃は満面の笑みを俺に向けた。
俺が演技をする日はまた後日ということになり、俺と伊藤はすぐに社に戻った。
オフィスに戻ると、「ほんと、マジメだよねぇー…」と課長が言った。
「少しくらい、スタジオ見学でもしてくればいいのに…」と課長は俺たちにサボってこいと言っているようにしか聞こえない。
「まだまだ就業時間はありますので。
契約はタクナリ君が出演するという方向で。
今後のためにも、契約金はそれなりに」
俺は言って課長に契約書を渡した。
「安いよねえー…
だけど、ドラマに出てもらうことが本題だからねぇー…」
「現場の雰囲気はいいみたいですね。
ですが、私がぶち壊してしまうことになります」
俺が言うと、「それでこそなんだろうね」と課長は簡単に言い放った。
仕事を終えて日本警察署に入ると、もうわが社の新しいコマーシャルが流れていた。
署員たち、特に女性は、テレビに釘付けになっている。
「いつもの母さんじゃないか…」と俺が言うと、「そうだけどね…」と優華が少し涙目で俺に訴えるように言った。
「ロアプリンセスを欲しくなった」と俺が言うと、「うん、そう…」と言って優華は俺の肩に手を置いて体をくねらせ始めた。
優華得意のおねだりのポーズだ。
「自分で買えよ…」と俺が言うと、「エンジェルちゃんとおんなじがいい!」と優華は声を張って言った。
「10年後と、コマーシャルの冒頭にきちんと堂々と書いてあるよな?」
俺が言うと、ここにいる全員が、―― そうだった… ―― と今始めて気づいたかのように驚いた顔をした。
「もっとも、5年後にはほぼ確実に
エンジェルと同じ様な動きは可能だと思うけどな。
少し先の方が現実味があるからな」
「商売上手だわぁー…」とエリカがけだるそうな声で言った。
「それが俺の本職だぞ」と言うと誰もが、―― そうだった… ―― と納得してうなづいていた。
「しかも、今回のロボットを使った犯罪を、
かわいいロアプリンセスにさせようなんて思わないだろ?」
俺が言うと、誰もが深くうなづいている。
「うちの社がよくやっていた、
お詫びや注意のコマーシャルは造りたくなかったんだ。
ユーザーの心に訴えかけて、
ロアプリンセスをかわいがってもらいたかっただけなんだよ。
その中で、また、ロアプリンセスを買ってくれる人がいれば、
これほどうれしいことはないと思ったね」
みんなは俺を笑顔で見てくれた。
コマーシャルの内容はなんでもない母とエンジェルの日常だ。
しかし、ワンシーンを1秒から2秒ほどで収めてあるので、内容は濃いと言っていい。
その愛らしいロアプリンセスの姿と、ロアプリンセスにやさしさを向ける母の思いだけをコマーシャルにしたのだ。
「冒頭のタクナリ君、憎らしいわぁー…」とエリカがまたけだるそうに言った。
「前にも言っただろ、悪者は必要なんだよ」
特に母やエンジェルをいじめている映像ではなく、母から簡単にエンジェルの名を呼んで取り上げてしまい、母を泣き顔にするというシーンを冒頭に入れている。
こうすることで、俺は悪者となり、母とロアプリンセスは、そのあとはずっと仲良く楽しく暮らしているというストーリーが見えてくるはずなのだ。
もっとも、俺は顔だけを外して映像に乗るようにした。
「少し意地悪な方が、好きかも…」と爽花が妙な雰囲気をかもし出して言った。
「爽花にだけは普通にしてやろう」と俺が言うと、爽花には知らん振りをされた。
インターネットの書き込みも、かなかな評判がいいようだ。
やはり、10年後に期待組と、20年の対応年数があるので、今買う派がいるようで、このコマーシャルは大成功だと俺は感じた。
インターネットの書き込みに、『冒頭の男性は誰?』とついに話題として乗ってきた。
エンジェルの様子としては、甘えているしぐさをしているので、本物の飼い主説が当然のように沸いて出た。
よって設定上、母の父ということになり、寺嶋コンツェルンが一気に注目されるようになった。
『爺さんじゃね?』という書き込みとともにそれは収束したようだが、『タクナリ君じゃね?』という書き込みによって、この話題は終結した。
タクナリ君はマナフォニックス社のイメージキャラクターではないが、そうなってしまっていることをさらに自覚するべきだと感じた。
「コマーシャル効果は絶大だな」と俺が感慨深く言うと、「マナフォニックスだからよぉー…」とエリカが妖艶な笑みを俺に向けてきた。
「俺、勉強禁止令が出たんだよ」と言うと、みんなはあっけに取られた顔をした。
事情を説明すると、「何を設計したのよ」と爽花が聞いてきた。
「介護用のパワードスーツ」と俺が言うと、衛がかなり喜んでいる。
「あ、衛と俺は多分テストパイロットになるはずだから」と俺が言うと衛は、「やったぁ―――っ!!」といってかなり喜んでいる。
「だが少々先だぞ。
軍事転用されないようにする必要があるからね。
車椅子なしで歩いてもらおうと思って設計したんだ。
赤木もまったく同じ理論で提案して、
ふたりとも社長賞をもらえるそうだ」
俺が言うと、「お祝い、したいわぁー…」とエリカがさらに妖艶さを増して言った。
「チャンスがあったらな」と俺が言うと、「無理やり作っちゃうもんっ!!」とエリカは陽気に言った。
「無理やり阻止するわぁー…」と爽花が怪しげな雰囲気をかもし出して言った。
「迷惑だからそろそろあきらめてくれ」と俺が言うと、爽花は泣き笑いの蚊を俺に向けた。
「そうね、人に迷惑をかけちゃいけないわ」とエリカが言うと、「ふぅー…」と爽花はため息をついた。
母がエンジェルを抱いて満面の笑みで帰って来た。
空気の入れ替えには丁度いいと俺は思った。
爽花は目立たないように席を立って外に出て行ったが、衛がついて行ったので何も問題ないと思い、俺はほっとした。
彩夏がいないので、今日は伊藤とデートだろうと感じた。
最近は俺の弁当箱ではなく、伊藤の方に果たし状を入れているようなので、中継役をしなくて済んでいる。
「タクナリ君、極悪人だわぁー…」と母がテレビを見ながら言った。
「エンジェル」と俺が呼ぶと、エンジェルは一瞬のうちに俺の肩にいた。
「はは、早いなぁー…」と俺は言って、エンジェルの頭をなでた。
「返してっ!!」と母がテレビのコマーシャルと同じ顔をして叫んだので、みんなはくすくすと笑い出した。
「エンジェル、がんばって来い」と俺が言うと、『ニャンッ!!』と小気味よく鳴いて、母の手に戻った。
「油断もすきもないわ…」と母が言ったので、「ずっと取り上げようか?」と俺が言うと、「あら、空耳かしら…」と母が言ったので、エンジェルを呼び戻した。
「あまり調子に乗ってると、痛い目に合う」と俺が言うと、母は、「ごめんなさい…」と俺を上目使いで見て言った。
エンジェルに指示を出すとすぐに母の手に戻った。
「外で迷惑かけてないだろうね」と俺が言うと、母は全身を強く振るわせた。
「俺が役者としてデビューする前に、
みなさんに謝りまくらなきゃいけないようだね」
俺が言うと、寝耳に水だったようで、誰もが驚きの顔を俺に向けた。
「そのCMの契約料の条件の一部なんですよ。
10分間だけタクナリ君が演技をするってね」
俺が五月に顔を向けて言うと、「サラリーマンも、色々と大変だね」と同情してくれた。
「母さんがあまりわがまま言うと、
爺さんにも出てきてもらうことになるから」
俺が言うと、母はかなり反省したようで、エンジェルを抱きしめて、「もう調子に乗りません…」と言って俺に頭を下げた。
「大御所の俳優さんたちもイジメたんじゃないの?」
「はい、お察しの通りですぅー…」
母が言うと、誰もがあきれた顔を母に向けた。
だがそれほどに、母の演技としては完成していると言える。
しかし母の社長の演技は本来の母の姿なので、自慢できるものではない。
「きちんと謝った方がいいな」
「だけど、みんなも悪いんだよ!
威張ってばかりでっ!!
若い子よりもへたくそなんだもんっ!!」
母は教師に言いつけるように俺に言い放った。
「特に大物俳優は演技のうまい下手は関係ないんだよ。
その存在感が俳優という職業なんだ。
確かにうまい方がいいが、その大御所の人たち、俳優辞めるかもな」
俺が言うとさすがに堪えたようで、「先生の言った通りにしますぅー…」と言って俺に頭を下げた。
「母さんのように完璧な人はあまりいない。
でも、威張るのは少々いただけないね。
柔らかい社長で、話しをしてみてもいいかもね」
「はい、先生、そうしますぅー…」
母が答えると、『ニャァーン』とエンジェルが悲しそうな声で鳴いた。
エンジェルの心境としては、―― だから言ったのに… ―― というニュアンスに捉えられた。
「母さん、エンジェルが何か訴えていなかった?」
俺が聞くと母は少し驚いた顔をした。
「手で、私の口を押さえる…」と母は言ってようやく気づいたようだ。
「エンジェルの行動も、よく見ておいた方がいいね」
「うん、そうするのぉー…」と母は言ってエンジェルを優しくなでた。
「ところで俺の役どころは?」と俺が母に聞くと、「私が寺嶋コンツェルンの社長で、拓ちゃんがマナフォニックスの社長」と母はかなりわかりやすく教えてくれた。
「いい設定だね。
そして、俺が言い負かせばいいわけだ」
俺が気合を入れて言うと母は、「お手柔らかにお願いしますぅー…」と妙に神妙な顔をして言った。
「爺さん相手に練習…」「やめてあげて欲しいっ!!」と母は俺の言葉を遮るように言った。
「あー、爺さんには後ろめたさがあるからなぁー…
俺が勝って当たり前…」
俺が言うと母は超高速でうなづいた。
「さらには会社を継げなどと言われそう…」
「あはは、ヤブヘビになっちゃう…」と母は少しだけ笑って言った。
「社長というよりも、一社員の方がいいかなぁー…」と俺が言うと、母は頭を抱え込み始めた。
社長は末端のことまでは考えていないので、社長レベルの一般社員はありえない。
「俺の目指す道だし、それでいこう」
俺の言葉に母は、かなりの困惑顔を浮かべてエンジェルに言いつけ始めた。
エンジェルは面倒見切れないとでも思ったようで、母に背中を向けて丸くなった。
( 第十七話 凍りついた出来事 おわり)
( 第十八話 大好物の弱み につづく)