第十六話 日本警察署採用試験
日本警察署採用試験
爽花を前に、衛が後ろから守るようにして日本警察署に帰ってきた。
俺は二人の表情が妙に精彩がないと感じた。
「何かあったの?」と俺は衛に聞いた。
「…うん…
当然だって思うんだけどね…」
衛は大きな体を小さくして言ってから、俺の正面の席に座った。
「今まで仲がよかったはずなのに、みんながライバル」
俺が言うと衛は、困っていた顔から一気に笑顔になって、「すごいすごい!」と言って、俺に向けて拍手をしてくれた。
「勉強の場合、敵は自分の中だけにある。
陸上競技も同じだ。
誰よりも早く、ではなく、今までの自分よりも早く、だ。
あまり敵対心を抱くと、この先の人生にも大きな影響を及ぼす。
仲良くしろとは言わないけど、考え方を変えてもらった方が、
勉強がさらに頭に入り、効率よく進むと俺は思っている。
さらには家族も協力するべきだ。
自分自身に負けるなと」
俺が言うと、衛は真剣な眼をしてうなづいた。
「拓ちゃんってやっぱり、先生もできるのね…」と今度は爽花が、肩を落とした。
「塾の先生には必要のないことだ。
これは学校で教師が教えることだからな。
だけど、間違っていると思ったら正すことは重要だろうな」
「正すことに決めたわ…」と爽花はため息混じりに言ったが、少々元気が出たようで、優華に食事を注文した。
「自分自身に勝つっ!!」と衛が気合を入れて言った。
「だけど、無謀な行為はいけない。
ある程度成長すると、
その先、成長が感じられなくなるはずだ。
ここは我慢に我慢を重ねて、
無理のないように日々繰り返して積み重ねる。
体を痛めたり、精神を病んでしまっては元も子もないからな」
俺が言うと、衛は反省したようで、「…気合、入れすぎちゃったよ…」と言って俺に頭を下げた。
「やっぱり、講師…
受験生だけでも…」
爽花が懇願の眼を俺に向けてきた。
「これが受験生のためになるかどうかは少々危うい。
生徒によっては
ライバル心が大きな支えになっている子もいるはずだ。
もし講師として引き受けるのであれば、
個人面談が一番いい方法だと思う。
極力やる気をそがないように話し合うことが重要だ」
俺が言うとさすがにそれは厳しいと思ったようで、「もっともっと、考えてみるわ…」と爽花は言って、優華が運んできてくれた食事をゆっくりと味わうように食べ始めた。
「タクナリ君が言ったから」と衛が言うと、「それはダメだな」と俺はすぐに衛の言葉を否定した。
「それは強制力を伴った言葉だ。
逆に反抗する子も必ず出てくる。
などと全ての可能性を伝えることもいいことだと思う。
その中で、一番優しい自分になれるものを
選んでもらった方がいいかもな」
俺が言うと、爽花も衛もあることに気づいたようで、ふたりそろって陽気になった。
塾での別の時間を使うということは、勉強している時間をそがれるということにもつながる。
よって、その時点で反抗心を持つ子も必ずいるはずだ。
衛と爽花が行なっている家までの送り届けの時間に、全員に、または個別で話しをしながら家まで送り届ければいいだけだ。
これならば、誰もが簡単に耳を傾けられるはずだ。
そしてできれば、仲のいい関係に戻った方が、心の余裕にもつながるのではないかと俺は考えた。
柔らかい空気になったこの日本警察署内を、少々とげとげしい感情を持った者がのぞき込んでいる。
俺が笑顔で手招きをすると、「失礼します」と言って扉を開け、五月と母に向かって一度ずつ頭を下げた。
「自首?」「なんもしてねえ…」
俺の軽口は簡単に杉島ケンに否定された。
ケンの服装は、今日はどちらかといえばカジュアルだ。
きっと仕事帰りだろうと思い、一体何の用なのかを少し考えた。
つい数時間前に聞いた話なので、思い当たることはひとつだけある。
「そろそろ帰るけど」
「逃げるんじゃあねえ…」とケンは俺をにらみつけて言った。
「明日は爽花とデートなんだよ」と俺が言うと爽花は、「あ、まだ…」と言って否定されてしまった。
「ふんっ! 振られやがった…」と言ってケンは、―― ざまあ見ろ! ―― と言った顔で俺を見た。
爽花が火の出るような眼でケンを見た。
「本来なら絶対に否定しないわっ!!
あなたが考えているよりも
拓ちゃんは本当に素晴らしい人なんだからっ!!」
爽花が珍しくムキになって言い放った。
爽花とケンはそれほど面識はない。
しかし、さすがのケンも悪かったと思ったのか、「…ごめん…」と少し頭を下げて爽花に謝った。
「私じゃないわ!
拓ちゃんに謝ってっ!!」
爽花が言ってから、「いいんだよ」と俺は言って間に入った。
「後ろめたさはライバル心をそぐ。
そんなライバルはオレには必要ないからな」
俺が言うとケンは、「くっそぉー…」と悪態をつきそうになったが、顔は笑顔だった。
高校時代の三年間、この気性の荒いケンと付き合っていたので、ほとんどのことは我慢できるようになった。
最近は彩夏がケンと同じ状況なのだが、まったく気にせずに話すことができる。
俺は言葉ではなく、ケンや彩夏の雰囲気を読んで会話をしているといっていい。
だが、周りにいる者はそう思ってはくれない。
よって俺が思ったことをみんなに話した。
当然の反応なのだが、ケンも彩夏も居場所を失くしてしまったようで、ふたりの目は天井に向いていた。
「じゃ、明日のデートは」「あ、俺俺」とケンがすぐさま立候補してきたが、俺はエリカを見ていたので、そのエリカがケンをにらみつけた。
「あんたの出番は来月以降…」とエリカはドスの聞いた声で、ケンをにらみつけたまま言った。
「欲はいただけないよな」
「もうひと月経ったもんっ!!」と手のひらを返したように、エリカは少々かわいらしく俺に言った。
「ふーん…」と俺が言ってエリカを見ると、かなりの戸惑いがあったようで、オレから視線を外した。
「何か後ろめたい」
「あははは、今週は我慢することにしたわ…」とエリカは即答した。
「じゃ、爽花がその気にならなかったら、来週はエリカ。
俺はかなり興味があるので、明日はケンとデート」
俺が言うと、「ふんっ!」とだけケンは言ったが、妙にうれしそうな顔をしていた、
そのケンの表情をみんなは見ていて、ケンに隠れて笑い始めた。
「…俺も、こんなんなのか…」と彩夏が言って、ケンをまじまじと見ている。
「…こんなんっていうんじゃあねえ…」とケンは彩夏に対抗した。
「母さん、どんな感じ?」と俺が母に顔を向けると、「今だったら合格かなぁー…」と少々あいまいな答えが返って来た。
「形にはまった演技じゃないからね。
台本がある方が、ケンにとってはやりやすいのかもしれない」
「熱すぎるのよ、がなってるだけ」と母はケンを一刀両断にした。
もちろんケンもわかっていることなので、母に視線を向けることも、嫌な顔もまったくしない。
「熱演と雄たけびの差がわかっていない俳優は多いからね。
だけど、何が気に入られるのかはその存在感、雰囲気にある。
ケンはベテラン俳優に近いし、人気があっても当然だ。
高級な大根、と言った方がいいかな?」
俺が言うと、みんなはくすくすと笑い始めた。
母だけが社長モードになっていて、大きくうなづいていた。
「…おまえ、母ちゃんにレクチャーしたんだってな…」
ケンが小さな声で俺に聞いてきた。
「ああ、したな。
女優志望の会計士だった頃…」
俺が言うと、またくすくすと笑い声が聞こえた。
「それ、体験させろ」とケンは真剣な眼差しを俺に向けた。
「一般的なことだが…
いや、初心忘れるべからず」
俺が言うと、母は大きくうなづき始めた。
手順も以前と同じように、そして彩夏の手本も忘れずに、ケンに指示を出した。
俺の場合、俺が感じる演技の可能性を見つけ評価するだけなので、指導というよりも指示でしかない。
母も初心に返ったようで、ケンに張り合うようにしてレッスンを始めた。
「…うう、うめえ…」といって、母と彩夏を交互に見てうなった。
俺は何も感想は語らずに、次々とケンに指示を出した。
「最後に、セリフを歌うように」
「ミュージカルじゃあねえっ!!」とケンが叫んだのだが、母も彩夏も簡単にやってのけ始めたので、ケンは驚きの顔を二人に向けて、仲間に入れてもらっている。
「こんなレッスン、しらねえ…」とケンは汗を拭きながら、メロンソーダを一気に飲み干した。
「ああ、俺は素人だからな。
だがな、眼の肥えた素人だぞ。
しかも仕事柄、商業的観点からも見ているから、
さらに厳しいはずだ」
俺が言うとケンは、「くっそぉー…」と悪態をつきながらも笑みを俺に向けていた。
「ケンの評価…」と俺が言うと、母は大きく眼を見開いて俺を見ている。
「中堅?」と俺が自信なさげに言うと、母は納得したようで大きくうなづき始めた。
「それだとちょっと厳しいから、最後の疑問形はいらないかなぁー…」と彩夏はケンの肩をもつように言った。
「じゃ、中堅熱血派俳優ということで。
こんな感じでどうかな、母さん」
俺が言うと、「妥協しなくちゃいけないの?」と母は厳しい判定を下した。
ケンはここに来た時以上の落ち込みを感じたようだ。
「ということで、不合格」
俺が言うと、ケンは怒りを全て俺に向けて、「くっそぉー…」とうなった。
「じゃ、最後に、特典映像だよっ!!」と優華が言って、ここの安全カメラに映っていた俺のセリフ付きのリアル映像を流した。
演技ではないので、それほど恥ずかしくは思わなかった。
どれもこれもが全て鬼気迫っている。
短い映像が終ると、母は涙を流しながら拍手を始めて、「ブラボーッ!!」と叫んだ。
肝心のケンは、頭を抱えたままうずくまっている。
彩夏もケンと同じようなポーズを取っていたことに笑ってしまった。
彩夏としては、これらを生で見られなかったことを悔やんでいるように感じた。
「やっぱり、拓ちゃんしかいない…」と母は懇願の眼を俺に向けてきた。
「観せて失敗?」と俺は優華に目を向けると、「えへっ!」とかわいらしく言われてしまった。
「本気で仕事をしている姿だ。
特に人命に関わることだ。
そのリアルは、演技で表現できるわけがない。
だが、それに近づくことが、俳優という職業の使命だ」
父の言葉は誰よりも説得力があった。
ケンは父に神妙な面持ちで頭を下げてから、優華に映像が欲しいと申し出た。
優華は、「外に出さないでね!」とだけ注意事項を述べてから、メモリスティックをケンに渡した。
「ふーん…」と言って、俺は優華を見た。
「ケン、今の優華の対応…」と俺が聞くと、「お兄ちゃん大好きモード」という答えが返って来たので俺は大いに笑った。
「よくわかったよ、ありがとう」とケンに礼を言った。
その場その場の状況により、かなりのモードがあるんだろうと漠然と思っただけだ。
「一番ひどいモード」と俺がケンに聞くと、「ブリザードモード」と言って体を震わせた。
「はは、それは怖いよな」と俺が言うと、優華は上目使いで俺を見ただけだ。
今日はケンとデートをすることになり、俺の部屋に泊まったケンを叩き起こしてから朝食の席についた。
俺とケンは当然のようにトレーニングウェア姿だ。
「まさに健康的な休日…」と俺が言うと、エリカにイヤと言うほどにらまれた。
「変装とかする?」と俺がケンに聞くと、「そんな気分じゃあねえ」とケンはマジメ腐った顔で言った。
よって、俺とケンの高校当事の気持ちでいいんだろうと察して、「今日は本気で走るぞ」と言ってやった。
「マジかっ?!」とケンは叫んで勢いよく立ち上がったが、父と母を見て、「すみません…」とすぐに言って頭を下げた。
「いや、別に構わないぞ。
それほどに喜ぶことは誰にでもあるわけじゃないからな」
父が言うと、ケンはうれしそうにして俺を見て、「父ちゃんくれ」と俺に言ってきた。
「今のおまえはお客さんだ。
本来の父ちゃんだったら、
構わない、とだけしか言ってないはずだ」
俺が言うと、父は愉快な気持ちになったようで少しだけ笑った。
「…うー… すぐには無理…」
ケンはうなり声を上げて何とか父に気に入られようと思い始めたようだ。
「おまえの父ちゃんもすごいじゃないか」と俺が言うと、「うーん、どうなんだろうなぁー…」と言って少し考え始めた。
「怖い親父ではある。
だけど、頑固ジジイに近い。
怖いのはまだ俺が経験不足だから後ろめたく思ってしまうから。
さらに経験を積めば、きっと怖くなくなると思う」
ケンが言うと、俺は笑顔でうなづいた。
「大人になったなって言われたことってある?」と俺がケンに聞くと、「…いや…」とケンは答えた。
「もし言ってもらえたらどう思う?」と俺が言うと、「うーん…」とケンはうなってから、「対等…」と言って、俺に笑みを向けた。
「父親も息子にその言葉を言いたいんじゃないのかなぁー…」と俺が言うと、父は無言でうなづいた。
母はそんな父を見て、妙に胸を張ってうなづき始めた姿に少し笑ってしまった。
朝食を済ませて、俺とケンは目玉の公園に向けてジョギングを開始した。
俺のペースだと速いそうなので、極力抑えて走ったので、あっという間に公園に着いた。
ランニングコースに数人の姿が見え隠れしている。
身長からみて、中学生の女子のように見える。
学校の校庭の硬い地面よりも、このコースの方が確かに走りやすいし、まず怪我をしない。
美恵の顔が見えたので、わが母校の後輩の集団のようだ。
「やあ、美恵君!!」と俺が叫ぶと、美恵は驚いた顔をして、「松崎さぁーん!!」と両手を振って飛び跳ねて喜んでくれた。
すると、大勢の美恵の仲間が美恵に群がるように集まってきた。
「みんな俺の後輩?」と美恵に聞くと、「はい、そうですっ!!」と美恵は笑顔で言ってから俺の隣にいるケンをまじまじと見た。
「杉島ケンという。
芸名はケン・杉島」
俺が言うと、美恵たちはぽかーんとした顔をしていた。
そして、「キャアアアアアアッ!!!」と失神しそうな勢いで叫び始めた。
「いい発声練習だ」と俺が言うと、ケンは笑っていた。
すぐに復活したのはやはり美恵で、「よく考えると、松崎さんの方がすごい…」と言って、すぐに口を塞いで、ケンに頭を下げた。
「いいんだよ。
だがな、高校時代の三年間、
俺はこいつのライバルだったんだぜっ!!」
ケンは自信満々で胸を張って言った。
―― あまり、言わない方がいいのに… ―― と俺は思いながら、ゆっくりとコースに立って、少し力を入れて走った。
やはり、前傾姿勢とはぜんぜん違った。
ケンも追いかけてきているのだが、まったく追いつけないようだ。
「くっそっ!!」とケンは叫んでゴールした。
数回一緒に走ったあとに、タイム計測をすることにした。
美恵に時計を渡すと、「もらっちゃったわっ!!」と言って喜んでいた。
スターティングブロックがない分、遅くはなるが気にはならないので、全力で走っても問題はない。
「位置について!」と美恵の友達の声が聞こえた。
俺はその声だけに集中した。
「よーい…」と言ったところで、俺は両足にゆっくりと力を込め始める。
まるで走路が埋まっていく感覚を覚えた。
「ドンッ!!」と言った瞬間に思いっきり飛び出した。
今は両足はハの字となって、走路を蹴っている。
体のバランスがとれたところで、さらに回転を上げ、ひざが胸に付く寸前で走路を前方に蹴る。
もうゴールが目の前だ。
俺はこの勢いのまま、前傾姿勢を保った。
いきなりスピードを緩めることなく、100メートルほど走ってから振り返った。
美恵が飛び跳ねている。
どうやらかなりいいタイムが出たようだと俺は喜んだ。
「9秒切った?!」と俺が聞くと、「9秒フラットですっ!!」と美恵が言った途端、俺は、「くっそぉ―――っ!!」と大声で叫んだ。
ケンもゴールしていたのだが、その顔は真剣そのものだった。
「どうだった?」と俺が聞くと、「風が止まった」と言って笑顔を俺に向けた。
「普通は背中を見て追いかけるが、ケツしか見えなかった」
ケンは珍しく少し興奮しながら言った。
「そうか… それは失礼したな」と俺が言うと、「いいや、最高にうれしかったっ!!」とケンは今までにないほどの感情を俺に向けてくれた。
「今の想いを演技に入れ込め。
そうすれば、母さんに免許皆伝をもらえるかもな」
俺が言うと、「オウッ!!」とケン自身に気合を入れるように返事をした。
後輩たちの練習に少し付き合っていると、昼近くになったので全員をグルメパラダイスに招待することにした。
「自慢できるぅー…」と少女たちは口々に言って、俺を喜ばせてくれた。
この走路にスターティングブロックはないのだが、俺の足跡がスターティングブロックの代わりができるようで、走路が地面に埋まっていた。
店に行くと、日本警察署内に緊迫感を感じた。
どうやらどこかで事件があったようで、警察官が全員集まっていた。
俺はケンと美恵たちに侘びを言ってから警察署に入った。
みんなは俺の帰りを待っていたようで、すぐに事情説明があった。
しかし、事件はもうすでに終っていた。
事件を起こした男が自死を選んだからだ。
事件はこのとなりの市で起こり、二名の死者、15名の負傷者が出ていた。
「ぶっ殺してやる!」と叫んだ男が、両手に包丁を持って、バス停にいた人々を切り倒すように駆け抜けたようだ。
所轄署は、怨恨などの線を追ったようだがそれはなく、発作的な殺人であったと発表した。
犯人の動向を知る実際の映像類が全てそろっていた。
駅やコンビニエンスストアのものだった。
男がまず現れたのは、駅の改札の中だ。
その二分後に改札の外に現れている。
駅の地図を見ると、やけに遠回りしている形跡があるように感じた。
そこにはトイレがあり、用を足したとも考えられるのだが、トイレの入り口にトイレに向けたカメラがあり、そこには映っていなかったということだ。
そして次に現れたのは、コンビニエンスストアの防犯カメラだ。
この間三分で、距離にすれば妥当な時間だと感じた。
男はしゃがんでリュックを置いた。
そしてリュックから包丁を取り出して、両手に持って手を上げている。
この時に、「ぶっ殺してやる!」と叫んだようだ。
第一の犠牲者は女性で、右手の包丁によって、首の近くを切られていた。
第二の犠牲者は、どうやら抵抗されたようで、執拗に包丁を突き刺して絶命させている。
そのあとは駆け抜けるようにしてバス停で待っていた人を襲ってから自害していた。
駆け抜けた時間は、バスのドライブレコーダーからの映像で約10秒で、覚悟の自殺だと誰もが思ったようだ。
男の身元は保険証を持っていたことから簡単に判明した。
しかし、いるのかいないのかわからないと、同居していた伯父と伯母は警察に話したようだ。
男の年齢は50才で、中学卒業後からずっと引きこもっていた。
自治体からも男が社会復帰できるように頻繁に訪れていたようでが、「自分のことは自分でできる!」と常に怒っていたという。
動機らしきものはほとんどなかった。
だが、俺としては不思議だった。
電車に乗って、わざわざ出向いて犯行に及んでいるという事実だ。
人を傷つけるのであれば最寄駅でも構わないはずだ。
よって、俺としては、執拗に刺した男性だけを狙ったのではないかと推測した。
そして、この男の意思で刺したのではないように感じた。
『洗脳』
この二文字が俺の頭に浮かんだ。
外と連絡する手段はこの男は何も持っていなかった。
携帯電話もパソコンも所持していない。
普段のその行動もまったくわからない。
しかしそれを知っていた者が必ずいるはずなのだ。
駅での二分間の空白。
この時に、携帯電話などを主犯と思われる者に渡したのではないのかと俺は考えた。
二番目に刺された男性は川崎登といい、外務省に勤務し、将来を有望視されていた。
川崎の死を悼み、皇居からも担当諸外国からもお悔やみの言葉が届いている。
これを怪しいと思わない者はいないはずだ。
主犯はこの男を恨んでいたわけではなく、目の上のこぶとして妬んでいた。
俺の頭にはこれがすぐに思い浮かんできた。
「エリカはどう思う?」と俺が聞くと、「二番目に刺された男性を追いたいわ」とだけ言った。
五月たちは驚きの顔をエリカと俺に向けた。
「俺もエリカも、委託殺人だと断定しました。
しかし、証拠は上がらないでしょうね。
実行犯は洗脳されていたと思われます。
委託者は川崎さんの同僚。
もしくは妻の線も大いにあるでしょう。
その両方かも…」
俺の言葉に、五月は瞳を閉じて首を横に振った。
もしこの日本警察署に依頼あれば、出向いてでも事情を聞きたいと思っているが、首相は何も言ってこない。
「駅で姿を消した二分間。
ここで接触があったと思います。
連絡用の携帯電話類を、主犯に渡していたと推測します。
電車内でも可能ですが、
少々洗脳の儀式をしたようにも思います。
通行人の多い通路だと、
じっと見ている者は少ないと思いますから」
俺の言葉に、エリカは大きくうなづいた。
「しかし証拠は何もありません。
被疑者死亡で、この事件は終わりでしょうね。
ですが委託した者はのうのうと生きています。
脅しのひとつもかけた方がいいと俺は思っています」
五月は決心した顔をして、首相へのホットラインを開いた。
数分後、首相はテレビ出演をして、犯人に対して脅しの言葉をかけた。
『妬みは不幸しか呼びません。
タクナリ君は全てお見通しです』
俺はこれでいいと思い、この事件は絶対に忘れないことにした。
だが、首相も何か知っているのではないかと感じた。
いつもとは違い口先だけの言葉ではなく、想いを持って言葉にしたように感じたのだ。
俺は衛にだけこの先の指示をした。
衛は笑顔で、「やっと守れるよ!」と言って喜んでくれた。
もうほとんど終っていたのだが、俺はエリカとともに、美恵たち後輩のいる席に邪魔をして食事をした。
ケンを囲んで大いに盛り上がっていたようだが、また俺とエリカを質問攻めにしてくれて、また大いに盛り上がった。
「なんだか、普通の人に戻れたって感じ…」とケンはやけにうれしそうに言った。
「初心、忘れるべからず、だな」
俺が言うとケンは感慨深そうにしてうなづいた。
「あのぉー、松崎さん…」と美恵が神妙な顔をして俺を見て言ってきた。
「勉強のライバルの話し?」と俺が聞くと、「はいっ!!」と美恵は花が咲いたような顔をして俺を見た。
俺は考えうること全てを話して、美恵はどの道を選ぶのかを聞いてみた。
「人を気にしない方がいいと思いました。
自分自身を高めることだけに集中っ!
ですけど…」
美恵はほかの人はそう思ってくれないと思ったようだ。
「広める必要はないよ。
もし聞かれたら、美恵君はこう決心したと伝えるだけでいい。
俺が話した以外の意見にも耳を傾けて、
自分の糧にすることもありだ。
美恵君が精神的に一番楽な方法を取ればいいと思うよ」
「あ、はいっ!
学校の先生たちってどう思っているのかなぁー…」
美恵たちはこの件に関しては、学校では何も聞かされていないようだと感じた。
「美恵君が問題定義すればいい。
話しのあう教師にでも話してみればいい。
来年は受験生なんだから、
きっと、何らかの返答をもらえると思うよ。
できれば心からの笑顔で試験会場に赴きたいからね」
俺が言うと、美恵は笑顔で俺を見てくれた。
「…今の自分を超える…
俳優業も、足の引っ張りあいだからなあー…」
ケンは常にその状況下に置かれている。
その精神的苦痛だけでも拭い去ることができれば、もっといい作品ができると俺は思っている。
「何か意地悪なことでもされるの?」と俺が聞くと、「台本がなくなるのは当たり前…」とケンがため息混じりに言うと、「ひっどぉーい…」と美恵たちは一斉に言った。
「そういったことも、風習として残っているんだろうな。
上にやられたから下にやり返す。
それがずっと続いているんだな。
だから誰かが止める必要があるんだ」
「おう… きっと、そうなんだろうなぁー…」とケンは遠くを見る目をした。
「そういった目にあっていない彩夏は天然記念物ものだな」と俺が言うと、「あー、聞かないなぁー…」とケンが答えた。
「もっとも、今までは料理か菓子しか造っていなかったからな。
最近は短い役だが数をこなしている。
そのうち、何かやられるかもしれないな」
俺が言うと、「あー、大部屋の人たちにならするかもな」とケンは答えた。
「だがな、彩夏の場合はそれを見破ると思うぞ。
スパイを大勢持っているからな。
きっと、俳優や女優の中にもスパイを作っているはずだ」
俺が言うとケンはひとつ身震いをして、「怖ええ…」と言って身震いしてから、「知り合いでよかったよ」とケンは少しうれしそうに言った。
「なんだ、友達じゃないのか?」
「まあ、そういえばそうだし、違うと言えば違う」とケンはほぼ無感情に答えた。
「本来の彩夏の姿を知ってるじゃないか…」
「ああ、そういえばそうだったな…」とケンが少しん考えながら答えると、美恵たちは興味津々な目で俺たちを見ていた。
「内緒だ」と俺が言うと、「…ざんねぇーん…」と言ったが、彩夏に秘密があるということを知って喜んでいるように思った。
これから仕事だというケンを見送って、さてどうしようかと思っていると、エリカが熱いまなざしを送ってきた。
「さて、俺は散歩にでかけよう、ひとりで」と言うと、エリカはもちろん優華も懇願のまなざしを俺に向けた。
「客が来るかもしれない。
護衛は名前通りで衛」
俺が言うと、エリカたちをさらに心配にさせたが、とんでもない武器を持てるはずはないと思ったようで、ここは折れることにしたようだ。
俺は目立つ場所を徘徊した。
今は駅前にいるのだが、何も感じることはない。
駅前広場の噴水の脇に立った。
するとひとりだけ俺に向かって歩いてきているように感じた。
俺はゆっくりと身を翻して、交番に向かって歩いた。
どうするのか鏡を見て背後を確認すると、俺がいた噴水の縁に座った。
その男は40才程度で、ブランド物のスーツを着ている。
そのスーツで、薄汚れた噴水の縁に座ることはあまり考えられない。
よって、かなり豪胆な性格なのではないかと感じた。
だが、危険は感じない。
よって、いつもよりも警戒心を強めた。
交番の近くにあるベンチに腰掛けた。
すると男は、フラフラと立ち上がって、俺の座っているベンチに近づいてきた。
少々緊張したが、男は俺に笑みを向けてきたが、目が死んでいると感じた。
―― 操り人形… ―― と俺は感じたので、衛に合図を出した。
噴水前に何かを見つけたのか、20羽ほどもいるハトが降りてきた。
その近くにいる衛が、「うおおおおっ!!」と低く野太く大きな声を上げた。
ハトはいっせいに空へと舞い上がったのだが、男はまったく耳に入っていないのか、振り向いて衛を見ることはなかった。
―― 洗脳、怖ええ… ―― と思い、そして愉快な気持ちにもなっていた。
男は無表情にナイフを振りかざしてきた。
俺は座った姿勢のまま素早く移動して、男の背後からナイフを持った手を押さえつけた。
「うおお、うおお」と男はうなっている。
少々危険な状態だと感じて、「衛っ!!」と叫ぶと、「はいはいっ!」と陽気に衛が近づいてきて、男に猿轡をして、ナイフをひょいと取り上げ、俺が後ろ手にした手に手錠をかけた。
男は無表情で暴れまくった。
異変を感じたのか、交番から巡査が出てきた。
そして、俺たちを見るやいなや駆け寄ってきた。
「この男、どう思います?
まるでロボットだと思いませんか?」
俺が言うと巡査大いに戸惑って、「はあ、人間ではないように感じます」と言って不思議そうな顔をした。
「申し訳ないのですが、パトカーを一台用意してもらえませんか?」
俺が言うと巡査はすぐに無線で連絡をしてくれた。
洗脳を解く方法はさすがに俺は知らない。
しかし、犯罪心理学者であるエリカであればできると踏んだ。
俺たちはパトカーに乗り、取調室のあるグルメパラダイスの裏手に来た。
五月たちはパトカーを眼にしていて、すでに取調べ室に移動していたようで、扉を開けてくれた。
「はあー、早かったわね…」とエリカは言って男を見た。
「軽い電気ショックで元に戻ると思うわ」とエリカは言って爽花に連絡を始めた。
日本警察署内にその装置があるようで、茜が巨体を揺らして取りに行った。
俺たちは男を取調室に連れ込んで、椅子に座らせようとしたのだが座ることを拒んだ。
「駄々っ子だな…」と俺が言うと、「あはははっ!」と衛が陽気に笑った。
茜は装置と取扱説明書を持ってきた。
後はエリカに任せることにして、仕事っぷりを見ておくことにした。
電極をこめかみ辺りに貼り付けて、徐々に電圧を上げていく。
男の頭がピクリピクリと反応するたびに、目に生気がよみがえっていると感じた。
「うううう…」とうなったところで、エリカは装置の電源を落とした。
「浅かったようね」とエリカは言ってほっとしている。
俺は男の猿轡を外した。
「やっと目覚めたようですね」と俺が言うと、「一体、何が…」と男は言った。
まずは座ってもらって名前を聞くと、坂田実と答えた。
職業は公務員で外務省に勤めている。
最後の記憶を聞くと、友人と会って話しをしていてすぐに記憶が今になっていると言った。
何をされたなどという記憶も何をするのかという記憶もないようだ。
だが行動としては、ただただ俺を殺すために操られていた。
その友人は同じ外務省に勤める同期だと言って、名前を聞きだし、五月が照会した。
「外務省事務次官の息子」と五月は苦笑いを浮かべた。
「後は首相にお任せしましょうか」と俺が言うと、五月は連絡をとり始めた。
首相は今回の件は警視庁に全てを委ねたようで、テレビの報道番組で警視総監からのバス停殺傷事件の全貌が明かされた。
「久しぶりに見たな…」と俺が言うと、優華は困った顔を俺に向けていた。
そして報告の終えた警視総監は最後に、「…一般市民の協力によって逮捕できたことを快く思っています」と苦渋に満ちた表情で言ったので、俺はついつい大声で笑ってしまった。
「全てお見通しだと首相が言ったのに
同じ手で来るとは予想外だったな…」
俺が言うと、「自信があったからに決まってるじゃない」とエリカに軽く返されてしまった。
「催眠術じゃないの?」と俺がエリカに聞くと、「催眠術じゃ弱すぎるの、同じ志を持っていないと、あそこまでにはならないはずよ」とエリカは言った。
となると犯人に仕立て上げられそうになった坂田も、主犯の外務省事務次官の息子と同じ事をしていた可能性は大いにあるということだ。
「人の心は怖いねぇー…」
俺が言うと、「デートに誘ってくれたら全然怖くないわよ」とエリカにやんわりと誘われてしまった。
しかしここは優華が俺を死守するようで、俺の腕にしがみついて、「お仕事手伝ってっ!」と言われてしまった。
店内が少々混みあっているので、猫の手も借りたいようだ。
「まずは妹のご機嫌を取ってくるよ」と俺が言うと、エリカは苦笑いで俺に向けて手を振ってくれた。
… … … … …
バラエティー番組にケンが出ていた。
やはり若手から中堅の俳優の中では人気があるので、オファーがあれば比較的協力的に出演しているようだ。
俺の話しをするんだろうなぁーと思っていたら、ライバルというお題で会話が繰り広げられた。
当然、ケンの世界にもライバルはいるはずだ。
俺は少々期待して聞き入ろうとしたが、『全てにおいてひとりしかいませんよ』と言って俺の期待を裏切る言葉を放ってくれた。
『タクナリ君のケツは早い!』と言うと、スタジオ内は大爆笑の渦に巻かれたようだ。
『では、その証拠映像!』と司会者が言うと、どうやら美恵の友人が携帯電話で動画を撮っていたようで、その映像が流された。
俺の顔にモザイクがかかっていたので顔は明かされなかったが、画面に時間表示が出ていて、ゴールした時間が8秒997と出たので、俺しかいないと思ったが、「9秒切ったっ!!」とついつい喜んで大声で叫んでしまった。
『世界一早いケツです』とケンは言ってまた大爆笑の渦に巻かれて喜んでいる。
『世界で一番のライバルを持って、俺は幸せです』とケンが感情を持って言ってくれたことを俺は喜んだ。
「ふーん…」と母が妙に感心した声で言った。
「ケン君でいいかなぁー…」と母は妙にうれしそうな顔をして言った。
『ライバルが言ってくれたんです。
今の感動を演技に生かせと。
そして、古い風習を止めろと。
俺は彼を誇りに思っています』
ケンは俺には絶対に面と向かって言わない言葉を言ってくれた。
これほどうれしいことはないと、俺は感動してしまった。
「あー、いい子だわぁー…
サービスしちゃう!」
どうやら母は、息子をほめられてサービスで競演することに決めたようだ。
だがこれも、チャンスを手に入れたこととなんら変わりはない。
ケンはまだまだ俳優として伸びていくことだろうと思い期待した。
『では、怖い想いをしたこと!』と司会者が言うと、いきなりテレビの電源が切れた。
優華が苦笑い気味の顔でリモコンでテレビを消していたのだ。
「話されてまずいことがある」と俺が言うと、「ないと思うよ?」と妙にかわいらしく優華が答えた。
「優華ちゃんっ!!」と母がかなり怒った顔で優華に向かって叫んだ。
「やだもんっ!!」と言って、優華はリモコンを上着のポケットに入れて厨房に走って行った。
「あ、壊れかけてるリモコンが引き出しに入ってるよ」と俺が言うと、母は大急ぎでローボードの引き出しを開けてテレビの電源を入れた。
『…本当に、このまま凍ってしまうかと思いましたね』
ケンが言うと、またスタジオ内は爆笑の渦に巻かれていた。
「今度会ったら聞こう」と俺が言うと、母は携帯電話を取り出した。
どこに電話をしているのか気になったが、『え? え?』と司会者が途惑い始めた。
『今の話し、もう一度させなさい!!』と母の社長の声がテレビから聞こえてきたので、俺は笑ってしまった。
「優華ちゃんがね、テレビの電源切っちゃったの…」と母は妙にかわいらしく言うと、スタジオ内が大爆笑の渦に巻かれた。
『あのー、寺嶋皐月さんでしょうか?』と司会者が言うと、「もう一度話しをさせろと言ったわよね…」と言って母はまた社長に戻っていた。
『お母さん、脅さないでくださいよ。
話しますから』
ケンが気を利かせて言うと、「あ、ケン君、例の話、ゴーだから」と母が言うと、『本当ですか? やったぁ―――っ!!』と言って、ケンはもろ手を上げて喜んだ。
「どーでもいいからさっさと話しをしなさいっ!!」と母がまた社長で叫んだ。
『あ、はい…』とケンが言ったところで番組は終ってしまった。
「あーあ…」と俺が言うと、母は携帯電話を切って、「聞いてくるの?」と疑問形で言って外に出ようとしたので止めた。
母にとってこれはありえないことだったので、疑問形の言葉を発したようだ。
「またあとで聞けばいいじゃないか…」と俺が聞くと、「今知りたいんだもん?」と言って完全に俺の妹になってしまった。
「彩夏、話っ!」と俺が叫ぶと、「…怖ええからしねえ…」と彩夏に身震いされて拒否されてしまった。
しかし母の顔を見て少々怖かったようで思い直したようだ。
「マジ凍りつくんだぜ。
何の話だったかなぁー…
ああ、そうだ!
拓の好きな女について、ケンが俺に聞いたんだ。
だがしらねえからそのまま言うと、優華が猛烈に怒り始めたんだよ。
…そんなやついるわけがねえ…ってな」
「いや、それってその言葉通り?」と俺が言うと、「ああ、そうだぜぇー…」と彩夏は真剣な顔をして言った。
「あー、優華も超怖ええ人だったんだなぁー…」と俺は感慨深く言った。
「あー、すっきりしたわぁー…」と母は恍惚とした表情で上機嫌で言った。
… … … … …
イヤなことは先に確認しておこうということになり、早速、山梨県警所属の谷口美幸をこの日本警察署に招くことに決まった。
約10年振りの再会がどのようになるのか楽しみなのだが、すべてのパターンを予測しておくことも重要だ。
その谷口美幸がグルメパラダイスに入店して、ゆっくりとだが颯爽と歩く姿はさすが警察官と思わせる。
資料によるとキャリアではないので、現在は警部補。
桐山と同じなので、入れ替えにはもってこいの人材だ。
その表情には笑みはなく、少々硬い。
顔色はいのだが、まるであの屋上から飛び降りようとした美幸の表情と一致しているほどに冷たいと感じた。
「エリカ…」と俺が言うと、「強か、冷たい…」とつぶやくようにエリカは答えた。
「柔らかくない爽花か…」と俺が言うとエリカは俺をにらみつけて、「先輩と似たり寄ったりよ…」と俺の言葉は簡単に否定された。
美幸は扉の前で腰から頭を下げた。
中から全てが見えているので当然と言えば当然の行動だ。
優華が笑顔で扉を開けると、ここで始めて表情が変わった。
優華に向けて、一瞬だが笑みを向けたのだ。
俺はすぐにここにいる全員の顔を見回した。
クールとは思えないその表情に、誰もが驚いた顔を美幸に向けている。
―― 魔力的なもの… ―― と俺は形容して思った。
もっとも美幸の場合、その資格は十分にあるはずなのだ。
精神的にいえば、強度は違うがまさにエリカと同類だ。
「山梨県警、杉原署、生活安全部生活安全企画課所属、谷口美幸ですっ!!」
美幸は敬礼をして、五月に向けて素晴らしい若々しい声で言い放った。
母は素早く立ち上がり、「社長の寺嶋皐月です」と言って、美幸に向けて敬礼のポーズをとった。
「申し訳ございませんっ!!」と美幸は母に向き直って素早く敬礼をした。
五月は二人に苦笑いを向けている。
「あなた、素晴らしいわね。
もうずっとここにいなさい」
母が勝手なことを言い始めたが、何の権限もないので俺は放っておいた。
「はっ!
本当にありがたく思いますっ!!
ありがとうございますっ!!」
美幸はさらに背筋を伸ばして、再度敬礼した。
「怖いからそれでもいいんだけどな、俺は…」と五月は苦笑いを浮かべてから立ち上がった。
「杉原署との兼ね合いもあので、相談ののちここに配属ということで」
五月が言うと、美幸は素早く五月に体ごと向けて、「はっ! 感謝いたしますっ!!」と言ってまた敬礼をした。
―― 硬いな… ―― と俺は思ったが、完全にフェイクだと感じている。
だが面白そうなので様子をうかがうことにした。
だがその前に、エリカが俺の前に立った。
「いや、それだと屈辱的に思うはずなんだがな」と俺が言うと、エリカは俺に抱きついて、右腕を俺の首にかけて体を横に向けた。
仕方がなので俺はエリカを娘のように体を横にして抱きかかえた。
―― これでどうかしら? ―― とエリカは、こう言わんばかりの顔をした。
だが、この程度のことは覚悟していたのか、美幸は表情を変えずに、エリカごと俺を抱きしめてきた。
「あー、すっごく逞しい…」と美幸は俺の胸に顔をうずめて言った。
そして顔を上げて、「もう放さないもん…」と少しばかり妖艶な顔をして、そして笑顔で言ってきた。
「エリカの存在、まるで無視だな」と俺が言うと、ぼう然とした顔をしていた優華たちが、美幸を簡単に引き剥がした。
「エリカ以外は抱きつき禁止で」と俺が言うと、エリカは上機嫌になったが、優華たちはかなりの不満顔を俺に向けた。
「俺たちのボスに…」と俺が言った途端、みんなは真剣な顔で俺に敬礼した。
だが美幸だけはよくわからなかったようで、俺に不思議そうな顔を向けている。
「トップの良識者」と俺が短く言うと、「あっ! そうだった…」と言って、美幸は少しばかりうなだれた。
ここは一旦座ることにしたのだが、俺のとなりの席争いが始まって、右に優華、左にエリカで落ち着いた。
美幸は俺の目の前に座って、俺だけを見ている。
「男運、ないようだね」と俺が言うと、美幸は一瞬優華を見てから、「やめておけばよかったわ、やっぱり…」と長く会話を続ける意思がある言葉を俺に投げかけてきた。
「回りくどいのって、大嫌いなんだよ」と俺が言うと美幸は、―― 大失敗っ!! ―― といった顔をして、「松崎君にちょっとだけ似てたの…」と申し訳なさそうな顔をして言った。
「子供、いるんだよね?」と俺が言うと、美幸は驚いた表情を俺に向けた。
「声のトーンを無理やり上げると、演技っぽい発声になる」と俺が言うと、エリカは深くうなづいていた。
「だから社長が出てきた」と俺が母に顔を向けると、「お仕事の糧になるもん…」と俺の妹モードで言った。
五月は、―― そういうことだったのか… ―― とでも思ったのか苦笑いを浮かべた。
「母は社長というコードネームだ。
ただの署員であって何の権限もない」
俺が言うと、美幸はくすくすと笑い始めた。
「だが、ほとんどすべてのことは社長に見通されているからな。
俺よりも社長が上だ思っておいても構わない」
五月が美幸に向けて言うと、神妙な顔をしてうなづいた。
「何才?」と俺が短く聞くと、美幸はクールビューティーの顔を俺に向け、「26よっ!」と少し怒って言ったので、俺は大声で笑った。
美幸は俺に笑われて少し怒った顔をしたが、俺が資料を持っていたのですぐに気づき、「あ、ゴメン、3才…」とかなり小さな声で言った。
俺の顔をエリカがのぞきこんだ。
「…悪いやつだわ…」と言ってから、微笑を浮かべた。
「妻が犯罪心理学者だからな。
この程度できないと夫ではいられない」
俺は言ってから、ローボードの上においてある3Dプリンターで出力した、ケースに入っている花嫁たちの人形を見た。
「…うっ!!」と美幸はうなってから固まってしまった。
そしておもむろに俺を見て、「…重婚は犯罪…」とぽつりと言った。
「結婚式はしたけど、結婚はしていない。
だけど俺の妻はエリカだ」
俺は言ってから調子に乗ってエリカの肩を抱くと俺の手を痛めつけようとしたのですぐに手を下ろした。
美幸はかなり考えてから、「結婚しない主義…」といってから俺に笑顔を向けた。
「結婚をしないだけで浮気はしない。
法に縛られない結婚の方法だな。
だからずっと恋人だ。
よって美幸さんの出番があるとしても、数十年先…」
俺が言うと美幸は深くうなだれた。
「…お父さんを紹介できるって思ってたのにぃー…」と美幸は俺に同情心をむけさせるようなことを言った。
「かわいそうだが、情けはかけねえ」と俺が言うと、全員から拍手をもらった。
美幸は驚きの顔を俺たちに見せて、「…強敵だわ…」とつぶやいた。
「当事の美幸さんの気持ちはなんとなくだけどわかっていたよ。
ひどい目にあったのに、純朴な俺に恋をしてしまった。
だけど、優華のおかげで美幸さんに迫られることはなかった。
ということでいいの?」
俺が美幸に聞くと、「…まあね…」と美幸は言ってため息をついた。
「それに…」と言って美幸はクールな表情をエリカに向けた。
エリカも負けずにクールな表情をしていたが、いきなり悪意を持つ顔へと豹変した。
「えっ?!」と美幸は言って、その表情が固まった。
「犯罪者でしかないよな?」と俺が言うと、美幸はかなり体を震わせている。
しかしエリカから顔を放せないようで凝視したまま、ゆっくりとうなづいた。
「これが真の犯罪心理学者の顔だ。
普通の人と犯罪者の間。
そして、普通の人とは違って、
簡単に一線を越えることは可能だが、
俺がいるのでそれはしない」
俺が言うと優華たちは一斉に頭を垂れた。
これはエリカの作戦などではないが、俺をライバルとした時点でこうなることはわかっていたことなのだ。
「エリカに企みがあった場合、俺でもわからないはずだからね。
できればうかつな行動には出ない方がいい。
これは脅しでもなんでもない、ここの常識だ」
俺が言うと、「ええー…」とまずは優華がかなり困った顔を俺に向けた。
「常識だぞ」と俺が重ねて言うと、「…うん、わかったのおー…」と優華はさびしそうな声で言った。
「もっとも、俺とエリカが結ばれて何よりだったと、
俺は喜んでいるほどだ。
もし選ばなければ、この日本警察署はなかったはずだ。
そして俺も優華たちも、今はもうここにはいなかったかもしれないな」
俺が言うと、優華たちはエリカを一瞬だけ見た。
今のエリカはごく自然な顔になっている。
「完成っていうことでいいの?」と俺がエリカに顔を向けて言うと、「…まだあるのかもね…」と笑顔で言った。
「そうだよな、勉強には終わりはないはずだ」
俺は言ってから美幸を見た。
「ここ、やめたくなっただろ?」と言うと美幸は、「私には無理かも…」と言って、憂鬱そうな顔をエリカに向けた。
「この警察署はキャリアか、ノンキャリアでも修羅場をくぐった人、
強い志を持った人にしか勤まらないはずだ。
美幸さんの場合、担当部署が悪すぎる。
防犯はいいが、ただそれのみに従事する部署だ。
実際の犯罪者を知っておく必要があると思うんだ。
もしここに戻ってくるつもりなら、
捜査一課の異動がお勧めだ」
俺の言葉は正しかったようで、警察官は全員うなづいている。
「そして優華、彩夏、爽花は、肉体的な修羅場をくぐってはいないが、
精神的には修羅場をくぐって来たと言える。
よって、常人にはない力を持っている。
よって、今は少々驚いたようだが、
数分後には笑顔でエリカと接するはずだ。
それができるのなら見込みはあると思う」
俺が言うと、美幸は首を横に振った。
「出直してきます」と美幸は頭を下げて、ゆっくりと立ち上がり、五月に頭を下げてから署を出て行った。
「なるほどな…」と五月は言って苦笑いを浮かべた。
「茜はキャリアですからね。
法学部で、犯罪のことに関しては勉強済みです。
桐山さんは悪を許さないという強い意志、信念を持っている。
美幸さんにはそれがまったくないから、
エリカの悪の顔だけに驚愕してしまった。
ここでは、それはクリアしていないと勤まらないと思いますから」
五月は苦笑いを浮かべてから、「明日もノンキャリ…」と言ってからため息をついた。
「面接しないとわからないことも多いですから」と俺が言うと石坂が、「その通りだ」と言ってうなづいてくれた。
「撃退、成功…」とエリカが言って、また悪の顔になっている。
「そのまま固まるぞ」と俺が言うと、エリカはすぐに俺にかわいらしい笑みを向けた。
「…リアルには適わない…」と母が言って肩を落とした。
「だったら、エリカちゃんの自由に…」と優華はまったく恐れた顔を見せずにエリカを見て言った。
エリカは喜んでいたが、「それもダメ」と俺が言うと、エリカはまた俺の腹を殴ってきた。
「スパイ…」と俺が言うとエリカは、「あ、そうだったわっ!!」と言って俺の肩に頭を乗せてうれしそうな笑顔になった。
優華たちは怪訝そうな顔をして俺たちを見ている。
「様々な状況下においてでも、
細心の注意を払いミッションを完遂して
緊張は緩めないといった方法をとって
エリカとつきあっているからな。
妨害工作があった方が、達成感が大いに上がるんだよ」
俺が言うと、優華たちにあきれた顔をして見られてしまった。
「足が速い方が得?」と俺が聞くと、「もちろんっ!」とエリカは笑顔で答えた。
「…おめえら、やりまくってんのかぁー…」と彩夏は言ってからホホを朱に染めた。
「まくっていはいないけど、それなりにな」とだけ俺は言っておいた。
「スリリングだわぁー…」とエリカはけだるい声で言った。
「今夜、催眠術をかけてでも聞き出すわ…」と爽花がかなり恐ろしいことを言い始めたが、エリカは平然とした顔をしている。
「やっぱり、先輩が一番怖いわっ!!」とエリカは言って少しだけ笑った。
「まあな、悪の顔を見せない悪はかなりの強敵だからな」
俺が言うと、爽花は一気にうなだれた。
翌日は正義感満載の埼玉県警所属の若い刑事がやって来た。
美幸に行なった儀式を繰り返すと、「どうしてこのような者がここにいるんですかっ?!」と俺と五月を交互に見て訴えた。
さすがの石坂も苦笑いを浮かべていた。
エリカの経歴を全て話すと、この刑事はうなだれてしまい、出直してくることに決めたようだ。
「やはり、書類の上で決めてはいけないという典型だな…」と五月が苦笑いを浮かべて言った。
そして優華もうなだれている。
「ここはいい人だけじゃ勤まらない職場なんだよ」と俺が言うと、「…うん…」と精彩なく優華は答えた。
「皆さんの知り合いで推薦できる人っていないんでしょうか?」
俺は石坂たちに顔を向けたが、みんなは首を横に振るばかりだった。
「推薦入試もダメ…」と俺はため息混じりに言った。
「あー」と衛が言ってからすぐに口を閉ざした。
だが間髪入れずに、「蚊かな?」と衛はつぶやくように言って、手で宙を払った。
どうやら衛には推薦したい人がいるようだ。
本庁ではなく、所轄で出会った者だろうと漠然と思った。
本庁にはここに配属できる者はいるのだが、さすがに抜くことは困難だし、できれば警視総監を刺激するようなことはしたくない。
俺はすぐに衛を外に連れ出して、玄関の見張りをする振りをした。
「あのね、麻布東署の第三課の刑事なんだよ。
前は第一課にいたようだから、経験豊富なんだ。
だけど、二年以上前の話だからね。
名前は山手久美」
まさか女性だとは思わなかったので俺は少々驚いた。
「ほかには?」と俺が聞くと、「自信を持ってっていう条件だったら山手さんだけだよ」と衛は少し肩を落として言った。
「あ、ノンキャリアだけどね。
剣道の達人だよ」
衛の言葉に俺は笑顔でうなづいたことだろう。
「衛にはオレから強制的にプレゼントを渡すことにしようか」
俺が言うと衛は、「ほんとにっ! やったぁ―――っ!!」と言って喜んだ。
衛の趣味趣向はもう仕入れていたので、これは簡単なことだった。
衛は機械仕掛けのものが好きだ。
しかも、ディックやエンジェルのようなリアルなものではなく、ロボットらしいロボットが好きなようだ。
その発注もすでに赤木に頼んである。
赤木は健康な体を手に入れてからは、子供のおもちゃから大人が楽しめるものまでロボット造りに余念がない。
俺も何か趣味をと思うが、今のこの日本警察署員という仕事が趣味のようなものになってしまっている。
衛の広い背中を軽く叩いて、俺は日本警察署に戻り、五月に小声で面接者の名を告げた。
「…ウソ、だろ…」と五月は眼を見開いて言った。
石坂が怪訝そうな顔をして俺たちを見たので、「山手久美」と俺が言うと、石坂はさも鬱陶しそうな顔をした。
「浮かんだんだがな…
かなり熱い男だぞ」
石坂が少し笑いながら言うと、俺は大声で笑った。
「彩夏が刑事になると…」と俺が言うと、「ああ、そうだ、そうだったっ!!」と言って石坂は笑い始めた。
「だったら問題なさそうですけど…」と俺が言うと、今度は桐山が申し訳なさそうな顔をした。
「麻布東署で一緒に仕事をしたんですけどね…
堅苦しいというか熱いというか…」
桐山の言葉に珍しく切れがない。
「会った方がよさそうですね。
俺はかなり興味が沸きました」
「ああ、はい。
きっとその方がわかりやすいと。
それに、松崎さんが変えてしまわれるかもしれません。
彼女に一番ふさわしいように」
桐山が言うと、「ああ、それは言えるな…」と石坂が言うと、「明日、二人呼ぶよ」と五月は笑顔で言った。
リストから選抜していた刑事は三納忠といい、年齢は28才。
見た目にも神経質そうだったがその通りの男だ。
キャリア組なので、ここを踏み台にしてのし上がると簡単に言ってのけた。
当然ここで扱う事件は多種多様なので、それはその通りと俺は思っているのだが、一般人の顔色は冴えない。
誰もが思うことだが接しにくいと感じているはずだ。
だが俺がずっと笑顔なので、みんなは俺の顔色を見てその表情を変えた。
「では、三納さんは合格ということで」と俺が言うと、「え? そういったシステム?」と三納は少しだけ驚いて、そして始めて人懐っこい笑顔を俺に向けてくれた。
一般人たちはその顔にも驚いたようで、俺に満面の笑みを向けていた。
三納は中肉中背だが、山手久美は少々いかつい女性だ。
年齢は27才。
剣道が得意なだけで、空手も柔道もかなりやりこんでいるようだ。
ずっと気になっているのだが、―― アブノーマル仲間? ―― などと俺は思ってしまった。
久美は俺よりも爽花、彩夏、優華に興味津々で、ホホを赤らめているように見えるのだ。
「熱い刑事だと」と俺が質問するとその言葉を遮るように、「いえ、三納さんのようにクールにもなれますっ!!」と久美は息せき切って熱く語った。
「桐山さんとは面識が」
「はい、色々と教わりましたっ!!」
「少し落ち着きましょうか」
俺が諌めるように話すと、「は、はあ…」と言って肩を落とした。
「なるほど、よくわかりましたよ。
うっかりミス、多いんじゃないんですか?」
俺が言うと、三納は少しだけ笑いながらうなづいている。
その反面久美は、「…どっ! どうしてそれをっ!!」と叫んで驚いた表情を俺に見せてきた。
「気負いすぎです、リラックス」と俺が言うと、「は、はあ…」と言ってまた肩を落とした。
「あなたのような女性は抱きしめたくなります!」と俺が言うと、「ええええええっ?!」と言って全員に驚かれてしまった。
「落ち着くだろ?」と俺がエリカに顔を向けて言うと、「ま、まあね…」と言って、エリカは渋々認めた。
久美は男性にこんなことを言われたことがなかったのか、かなり途惑っている。
「常にゆっくりと。
時間が自分を追い越していく感覚…
あなたの場合、時間よりも早く動こうとしているように見えるんです。
決して焦らず落ち着いて。
常にこれだけを考えておいてください。
そうすれば一年ほどで違う世界が見えてくると思いますよ」
「は、はいっ!
…あ、いえ…
はい、よくわかったような気がします…」
久美は早速実践することに決めたようだ。
「…やっぱり、教育者に…」と爽花が言って、俺に熱い視線を送ってきた。
「ちなみに久美さんは女性がお好きですよね?」
俺の言葉に、みんなの時間が止まったように動かなくなった。
だが、質問を向けた久美は、「はあ、むさい男よりもキレイな女性の方が好きです」と平然と答えた。
「だけど久美さんは女性」「はあ、恋をするのは男性です」と久美は言って、途切れ途切れに俺に向けて熱い視線を送ってくる。
「俺にほれるのは危険です、俺が」と笑いながら言うと、『バンッ!!』というパネルを激しく叩いた音がした。
「えー…」と久美が言って、エリカを見ている。
「このように、誰かが俺に好意を向けると、俺が殴られますっ!!」と力強く言うと、「申し訳ございませんっ!!」と久美に頭を下げて謝られた。
「はい、山手久美さんも合格です」と俺が言うと、久美は夢見る気分となったようで、今は何も言えないようだ。
「ここには常識外れの美しい女性しかいませんから。
目の保養にはもってこいだと思います」
俺が言うと久美は、「あ、はい、職場ではないような気がしています…」と言って久美は辺りを見回して、茜に視線を留めた。
「茜もかわいい女性です。
しかも、大学の四年間、
俺は彼女とある意味付き合っていましたから」
俺が言うと、「うらやまし過ぎるぅー…」と久美は始めて女性らしい言葉を放った。
「ほら、また変わりましたね」と俺が言うと、桐山はうれしそうな笑みを俺に向けてくれた。
「久美さんには誰も意見できなかったんでしょうね。
今は聞く耳を持っているはずですので、
さらに変わって行くことでしょう」
俺の言葉に、三納が小さく頭を下げてくれた。
翌日、最後の面接を行なった。
都心から少し離れた、八雲署勤務の巡査部長で、現在は交番勤務なのだが、私服警官としても十分に使える逸材で、24才と年齢は俺と同い年だ。
「女性の交番勤務の方はまだ出会ったことがないですね」
俺が言うと三浦紀子は、「はい、あまりいないようです」とごく自然に答えてきた。
声は落ち着いているのだが、心ここにあらずだ。
かなりミーハーなようで、母や彩夏にちらちらと視線を向けている。
「先にやりたいことをやっておきますか?」と俺が言うと、「え? いいんですかっ?!」と言って紀子はかなり有頂天になった。
―― これはダメだな… ―― とここでは思っていたが、もう少し様子を見ようと思って、「ええ、どうぞ」と俺が答えると、なんと母と彩夏ではなく、俺のそばに来て抱きついてきた。
―― フェイクかっ?! ―― と俺が思ったとたんに、『ドンッ!! ミシッ!』と途轍もない音が俺の腹に響いた。
「おいおい、割れちまったじゃないか…」と俺が言うとエリカは、「ふんっ!」とだけ言ってそっぽを向いた。
―― エリカに確認することを怠った… ―― と思い、大いに反省した。
紀子は彩夏と優華に取り押さえられていて、元いた席に強制的に座らされていた。
俺は胸からライオットシールドを取り出した。
「あーあ、やっぱり割れてる…」と俺は言ってからテーブルの上に置いた。
「署長、交換を」と俺が言うと、五月は苦笑いを浮かべて、「ほんと、とんでもないな…」などと言いながらも、ストッカーから替えのライオットシールドを出してくれた。
「強化の要請をしておいてください。
もう少しくらいなら重くても大丈夫ですので」
俺が言うと五月は、「きっとな、何をやったのか聞かれると思うな」と言ってエリカを見た。
かなり強い力で殴ったはずだが、エリカは涼しい顔をしている。
またさらに鍛え始めたと思い、少々寒気がした。
「うかつなことをすると、
俺がひどい目に合うシステムなっているので気をつけて欲しいんだ」
俺の言葉に、三納がくすくすと笑い始めた。
三納も久美も、数日間はここで働いてもらうことになっているので、今は面接の状況を見てもらっている。
この先の警察での仕事で、何かの役に立ってもらえれば幸いだと思ったからだ。
特に三納はなかなかいい眼をしているように俺は感じている。
菖蒲のように現場ではなく、外からこの日本警察署を応援してもらいたいという希望を俺は持っている。
「はあ、申し訳ありません…」と紀子は言って、割れたライオットシールドを見て目をむいている。
「普通の人だったら死んでるから」と俺が言うと、紀子はさらに申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。
「エリカと同じで、なかなかの悪のようだね」と俺が言うと紀子は、「はあ、少々グレていたことがあったので…」と言って、恥ずかしそうな顔を俺に向けた。
「ふーん…」と俺は言って、妙に無表情になった紀子を凝視した。
紀子がグレていたと言った割には顔も手も肌がきれいだ。
少々やんちゃな女子は、手の甲くらいに目立つ傷があるはずだが、それが見当たらない。
しかし長袖を着ていて腕を見ることはできないので、この状況ではよくわからない。
足はスカートなので、この署に来た時に素早く確認したが何も気づかなかった。
そして抱きつかれた強さだが、ごく自然に女性のものだった。
しかし遠慮はなかったと感じたので、かなり冷静でもあると感じた。
「同情してもらうという複線、ってことでいいの?」と俺がエリカを見て言うと、エリカは無言でいうなづいて紀子を見ている。
話が聞こえていたので、さすがに紀子は困った顔をした。
「合格です」と俺が言うと、紀子は大いに喜んでから、母と彩夏に陽気にあいさつを始めた。
「明るい強かさ…」と俺が言うと、「犯罪者には程遠いからいいって思うわ…」とエリカがため息混じりで言った。
「いたずら大好き」と俺が言うと、「そういうことね」とエリカは真顔で答えた。
「うーん…」と俺がうなって考え始めると、「その路線も正解」とエリカが言った。
紀子は暗い過去を持っている。
だが、元来の明るさからその暗さを消していると感じたのだ。
今の様子を見る限り、妙に母に寄り添っているように感じる。
「…母親が不幸な目にあった…」と俺がつぶやくように言うと、「そうだと思うわ…」とエリカはため息混じりで言った。
「…そしてそれを悟られないようにすると思うんだが…」と俺が言うと、「確かに微妙ね」とエリカは平然として答えた。
「武器にしそうで面倒だ」と俺が言うと、エリカはくすりと笑った。
「だけど、それほど軽くはないように思うな…」と俺が言うと、エリカはすぐに紀子を見た。
笑っているのだが、泣いていたのだ。
「胸に秘めた想いと引き換えにはしないだろう」
俺が言うとエリカは深くうなづいた。
「したら軽蔑する」
「もういいわよ…」と言ってエリカも少しだけ涙目になっていた。
「同情心はまったくないぞ」と俺が言うと、「どっちよ…」とエリカは紀子を見たまま言った。
「俺の妻に決まっている」
俺が言うと、『ドンッ』と俺の腹に響く音が聞こえた。
「…病気なんじゃない?」とエリカに平然とした顔で言われてしまった。
どうやら俺の体はかなり硬くなっているようだ。
「エリカが隣にいる場合、かなり緊張しているからな。
気を抜いたまま殴られると、
また病院のベッドで眼が覚めることになる」
俺の言葉にさすがにエリカは反省したようで、「少しだけ緩めるわ」と申し訳なさそうな顔をして俺を見た。
「さて、最後の問題は、超ベテラン刑事」
俺は石坂を見て笑みを浮かべた。
「石坂さんには定年退職後にやっていただきたい仕事があるのです」
俺の言葉に、「ああ、何でも引き受けるぞ」と石坂は笑顔で答えてくれた。
「まずはこの日本警察署の署員として。
もう異動はありませんので、体の動く限り働いてください」
「あー、それはありがたいことだ…」と石坂は始めてと言っていいほどに、落ち着いた声で俺に言ってから頭を下げてくれた。
「そしてもうひとつあります」
石坂は笑みを浮かべて俺を見た。
「母の護衛をお願いしたいのです」
俺が言うと、誰もが驚いている。
当然、母もだ。
「母は本格的に女優をすると決めてしまったので、
彩夏とは別行動になるはずです。
ですので護衛とマネージャーが必要です。
マネージャーは彩夏が決めるんでしょうけど、
護衛は俺が決めたかったんですよ」
俺が言うと石坂は、「精神誠意込めてお守りいたします」と石坂は母に頭を下げて言った。
「はい、よろしくお願いします」と母は年相応の女性に戻って微笑を浮かべて言った。
「彩夏、これは今すぐのことじゃないけど、
この先の約半年間は短期で護衛を雇う必要があるんだ」
俺が言うと彩夏は、「基本的には衛さんに、それ以外の日にだけ…」と言って彩夏は少し考え始めた。
「できれば腕っ節が強くて冷静なやつ」と俺が言うと、「あまりいないわね」とエリカに軽く言われてしまった。
「…はは、思い浮かんでしまった…」と俺が笑みを浮かべなから言って、爽花を見た。
「爺ちゃん、何してるんだ?」と俺が言うと、爽花は驚いた顔をしたが、すぐに笑みに変わった。
「基本的にはニュース閲覧ね。
テレビと新聞、それに図書館」
爽花が言うと俺は、「なかなか勉強熱心だよな」と答えた。
「加藤さんに引き受けてもらえば、俺としては安心なんだけど」
「ええ、伝えておくわ!」と爽花は明るい笑顔で答えてくれた。
… … … … …
日本警察署の警察官の署員たちは、基本的には五月の指示で都心に向けて出向している。
俺が関わっている事件が最優先になるのだが、それがない場合はほかの警察署などの手伝いに当てている。
しかし日によっては、地元の所轄署との交流も忘れてはいない。
よってこの界隈で些細な事件なども皆無となっている。
そして当然のように、警察署内で待機する時間もある。
「あ、そういえば…」と書き物をしていた三納が顔を上げて俺を見た。
「今回、お母様の護衛に付いた加藤さんのことで…」と三納は言葉尻になるほど声をひそめて言った。
「はい、答えられる範疇であれば」と俺が言うと三納は、「…はあー、まさにここは正しい警察署だと感じました」と笑みを浮かべて言った。
「秘密にしないことが一番いいのです。
ですが、相手の立場に立って考えると、
そうとばかりは言っていられないこともありますので」
俺が言うと、三納は深くうなづいた。
「15年ほど前の大阪で発生した、
パン屋さん誘拐恐喝事件のことなのですが、
元警視総監の加藤爽衛さんが三年ほど前の講習会で
語ってくれたんです。
そして事件を解決したのは10才の少年だったと」
事件については覚えているのだが、解決したとは聞き覚えがなかった。
まさに俺が、警察官になりたいと思った事件だったので、鮮明ではないが当時のことは途切れ途切れだが覚えている。
事件としては単純明快で、大阪では著名なパン工場を持つ企業が脅迫され、そして社長が誘拐されたといったものだ。
脅迫の内容としては、この企業の商品に毒物を注射するなどの手口だ。
しかし当然のようにいたずら目的で便乗した者が多く検挙された。
まったくもって、腹立たしい話だとこの事件の全貌を知った時に情けなく思ってしまった。
三納は自然体で俺を見た。
「名前は明かしていただけなかったのですが、
その少年はタクナリ君ではないのですか?」
「その事件の顛末は知っていて、事件のことは覚えています。
ですが、俺は関与していないと思いますけど…
ですが俺が大阪にいたのは確かです。
父が大阪に単身赴任していたので、
夏休みは大阪で過ごしましたので」
「はあ、なるほど…
まだ別に、優秀な子供がいたかもしれない…」
三納は言ってから、俺に頭を下げてからまた書き物を始めた。
優華の書いた洗脳の書にもこの事件の内容は書かれていない。
見たことのなかった土地の聞いたことのなかった言葉を聞いて、優華は俺とふたりして楽しい日々を送っていただけだ。
俺は再確認と思い、洗脳の書の第五巻の中ほどを開いた。
丁度その夏休み期間の辺りが開き、夏休みの初めから終わりまでをざっと目を通した。
「…これ、かなぁー…」と俺が言うと、「やっぱりですかっ!!」と三納はかなり喜んで俺を見ている。
「あ、いえ、よくわからない文章があるんですよ。
ですがここに出てくるおじさんが加藤さんだったのなら、
俺が犯人かもしれません」
三納は少し笑ってから、「はあ、優華さんのラブレター…」と苦笑いを浮かべて言った。
『私が一生懸命工作していると、
知らないおじさんが拓ちゃんを連れて行ってしまった。
でも、見える場所にいたので、私は安心して工作を再び始めた。
すると拓ちゃんが、
「劇だよ、お遊戯ってやつ!」と元気よく言った。
するとおじさんは拓ちゃんの両肩に両手を置いて、
小さな声で長い時間話しをしていた』
この内容を読んで三納は、「私は間違いないと思いますっ!!」とまるで自分の手柄のように言ってのけた。
「はあ、そうかもしれないとしか言えませんが…
俺自身が覚えていないことなので…」
三納自身が納得してしまって、―― 事件解決っ!! ―― と言った表情をしている。
結局は事件の真相はパン屋さんの社長の狂言だったとして、事件は終結している。
このパン製造会社は倒産することなく、現在は日本国中にパンを提供している。
悪いことをしたはずなのだが、まんまとこの社長の思惑に国民が乗ってしまったというお粗末な顛末となってる。
久しぶりに店に加藤が姿を見せた。
加藤は爽花と衛を従えてる。
三納は驚きの顔をして素早く立ち上がって敬礼をした。
加藤は笑顔で三納を見て、両手のひらを下に向けて上下に動かし、敬礼はやめろと言わんばかりだ。
三納はすぐに従って深々と頭を下げた。
「ようやく誘拐事件犯の検挙に協力した少年を確保しました!」と三納は珍しく大声で言って、俺に向かって頭を下げた。
「タクナリ君には、もう記憶がないそうです。
ですが私はきちんと思えていますよ」
加藤は笑顔で、そして穏やかに当時の状況語り始めた。
自分自身の話しをされているのだが、やはり記憶がないので不思議な心境だ。
小学三年生の夏休み、関西で家族との団欒を終えた俺と母、優華は、夏休みの最後の宿題を、小学校の用務員室で汗をかきながら奮闘していた。
この場所は爽太郎に教えてもらっていたようで、『ウサギのしっぽ』を造った時が初めてではなかった。
山際に色々と教えてもらいながら作っていた時に、大阪を抜け出してきた加藤が姿を現した。
加藤は山際にアドバイスをもらおうと思ってやってきたようだ。
すると山際は、「拓生君」と俺を呼んで、大阪での事件の感想を聞いたところ、「劇、お遊戯ってやつ!」といきなり言い放ったようだ。
もちろん根拠があったことだったようで、俺はニュース映像で見たパン屋の社長の挙動不審さを細かく説明したようだ。
まるで当事の俺は正確なプロファイラーだったと、加藤は少し遠くを見る目で、笑顔で語った。
もっとも、この事件が発生した十年ほど前に現在は時効が確定している類似した事件が多発して、その再来かと言われていたようだ。
しかし、大阪府警警察本部の本部長だった加藤がパン屋の社長と面会して、事件は狂言だったと自白に追い込んだという顛末だ。
「山際さんはね、その10年前、今から25年前の事件で苦汁を飲まされていたのですよ」
加藤は肩を落として言った。
「怪盗九十九神事件ですよね?」と俺が言うと、加藤は苦笑いを浮かべてうなづいた。
「その時に、タクナリ君がいたらなぁー…と、
つい最近もこぼされていました」
やはり警察組織内では自由が効かないせいもあるのではないかと考えたが、末端の警察官の不手際によって、京都府警、滋賀県警の本部長がともに自殺をして、犯人側からの終息宣言により、事件は終ってしまったのだ。
死者を出していなかった事件なので、犯人側としては興ざめしたといったところだろう。
さらにいえば恐れをなしたとも言える。
犯人側としては愉快に事を運んでいたようだが、捕まえる方は必死だ。
しかし現在ではまずこのような事件は早期解決が可能だ。
それはいたるところにある監視カメラ。
この目からは誰も逃れられないのだ。
しかし、これを打ち破る比較的簡単な方法はある。
「山際さんと言われますと、山際唐志郎さんでしょうか?」と三納が加藤に聞いた。
「はい、そうです。
私は山際さんの教え子ですから」
加藤が答えた時に、俺はあることを思い出した。
「父が、山際唐志郎先生と呼んでいましたが…」と俺が加藤に聞くと、「防犯などの講習会で、講演会や学校を回っていた時期があったそうです」と加藤が答えてくれたので、俺の疑問は解決した。
「しかし個人的な接触はなかったと思いますが…
ひょっとして、また掲示板でしょうか?」
俺が聞くと加藤は少し笑ってから、「はい、その通りです」と言った。
「まさに俺も父も、同じような行動をしていた…」
俺は言ってから感慨深く思った。
加藤が今後の予定を彩夏に聞いてから、警察署内で夕食会を始めた。
母は大いに張り切っているようで、食事中もころころと役を変えて楽しんでいる。
母が楽しければいいというわけではないのだが、何もしなかった数年分を取り戻せるのならと思い、できる限りの応援をしてやりたいと考えている。
この虚無の時間は父のせいでもあるので、母にそれほど強くは言わないはずだ。
ケンが血相をかいて警察署内に入ってきた。
何か事件かと思ったのだがそうではなく、ケンもここで母と食事をする約束をしていたようだ。
俺は極力口出ししないようにと思ったのだが、さすがにケンが隣に座るとそういうわけにもいかない。
「…叱られないようにしないとなぁー…」とケンはつぶやくように言った。
「逆だろ…」と俺が言うとケンは俺を少しにらんだが思い直したようで、「叱られているうちが花…」と言って、少し笑った。
「叱られなくなったら、
まずはあきらめられたのかということを考えた方がいいな。
そうでなければ、認められたと思えばいいさ」
俺が言うとケンは、「お、おう…」と言って、止まっていた箸を動かし始めた。
「拓ちゃんも出るのよっ!!」と母がまた悪乗りして言ってきた。
「父さんに言いつけるよ」と俺が言うと、さすがに困ったようで、「…内緒で…」と母は妙に小さな声で言った。
「もし出るとしたら、俺の場合は怒っている設定がいいな。
母さんが言ってたように、
大根役者の場合はがなっていれば済むから。
今までの事件を思い出したら、そのパターンが異様に多いからね。
素人でも、少しは見られる映像になると思う」
俺が言うと母は、「あー、許可が出たわっ!!」と言ったが、「出るとしたらと言ったよ」と俺は釘を刺しておいた。
「あ、絶対に出ないから」とさらに釘を刺すと、母は一気にうなだれた。
「…やっぱり、ケン君じゃやだ…」と母は言った。
どうやらふてくされてしまったようだ。
「甘えてばかりじゃあ、大成しねえ…」
俺ではなく、どうやら拓郎伯父が言ったようだ。
しかもこの言葉は、拓郎伯父自身に向けた言葉のようだと感じた。
「ああっ! お兄ちゃんに叱られちゃったわっ!!」と母は驚愕の目をして叫び、俺に何度も頭を下げている。
俺はもう口をつぐむことにした。
ケンは俺の顔をまじまじと見ているが、何も言う気はないようだ。
「甘えてばかりじゃ、大成しない」と俺が言うと、誰もが俺に注目を始めた。
まもなく父が帰ってくるはずなので聞こうと思ったが、俺の携帯に父からメールがあって、『付き合い』とだけあったので笑ってしまった。
菖蒲もまだ帰ってきていない。
菖蒲は父よりも遅く帰ってくることが多いので、手早く食事を済ませてから厨房に行った。
今日は正造は厨房にいたが、今は一息ついたところのようで片付け物を手伝っていた。
正造に拓郎伯父の口癖のことを聞くと、「ああ、それ、聞いたことあるな」と言って、皿を食器洗浄機のスタンドに立てた。
「一度目は勉強のことだったと思う。
その頃は爽源に教わっていたからね。
二度目は、運動会だったか…
長距離は比較的得意だったんだが、短距離は苦手だった。
きっと拓ちゃんがその苦手を克服したんだろうと、
うれしく思っているんだ」
「はは、少々やりすぎたけどね」と俺が言うと、正造は笑った。
正造に礼を言って警察署に戻ろうと署内を見ると、菖蒲が帰ってきていた。
「お兄ちゃん、はいっ!!」と優華に言われて、トレイを持たされた。
「菖蒲さん?」と俺が聞くと、「うん、そうっ!」と優華は上機嫌で俺に言った。
何でもいいから俺と仕事をしたいんだろうと感じた。
「今度、実業家の仕事っぷりも…」と俺が言うと、優華は逃げるようにして別の料理を持って外に出た。
あまり嫌がることは強制しない方がいいと思って、俺はトレイを持って警察署に入った。
菖蒲に料理を渡すと、「拓ちゃん、ありがとっ!!」と菖蒲は優華とまったく同じ声、同じしぐさ、同じ表情で俺に言ってくれた。
双子ではないが、まるで優華と双子のような菖蒲を見て、俺は苦笑いを浮かべた。
菖蒲には食事が終わってから聞くことにして、ケンと他愛のない話しをした。
やはり菖蒲は少々異質な存在感があるので、警察官にはあまり歓迎されていないようで、三納はかなりクールな顔になっている。
その点、エリカと茜は同居していることもあり、ごくごく自然だが、五月と石坂はできれば目をあわさないようにと、菖蒲とは逆の方向を見て新聞、雑誌を読んでいる。
菖蒲の食事が終わってすぐに、俺は拓郎伯父の三つ目の口癖の話しをした。
菖蒲はこの件に関しては知らなかったようで、正造に聞いた話しをすると、やけに悔しそうな顔をしていた。
「正造さんは拓郎伯父さんと同級生だったから仕方ないじゃないか…」と俺が言うと、「それでも気に入らないのっ!!」とまるで優華と同じ菖蒲の姿に俺は心底笑ってしまった。
「甘えてばかりじゃあ、大成しねえ…」とまた拓郎伯父が言うと菖蒲は、「はいっ! 拓ちゃんっ!!」と大声を張り上げて背筋を伸ばした。
「これ以上、大成しなくてもいいんだけどね」と俺が言うと、「今度は立派な警視総監になるもんっ!!」と菖蒲は言い放った。
―― それもありだろう… ―― と思いながら、菖蒲の言葉を肯定した。
比較的穏やかな時間を過ごしていたはずなのだが、この平和を乱すやつがついにやってきた。
しかし、制服ではなく私服なので、正造と見間違えてしまった。
護衛なしでよくきたよな、などと考えていると、正義は日本警察署の扉をノックした。
堂々と入ってこないだけましだと思い、警察官は警察官同士で話しをしてもらうことに決めた。
五月を筆頭に警察官たちは一斉に立ち上がって敬礼をしたが、私服なのでそれは必要ないだろうと思ったようで、石坂だけは知らん振りを決め込むようだ。
正義は加藤がやったように両手のひらを下に向けて、上下に振った。
警察官たちは慌てて敬礼を解いたが、直立不動の姿は変えないようだ。
「自由にしてくれ」と正義は言った。
そしてわざわざ俺の正面にいる石坂の隣に座って俺を見据えている。
何か言うまで待とうと思ったが、いち早く口を開こうとしたのは菖蒲で、正義を鋭い視線でにらみつけた。
「警視総監が私服で堂々と…
迷惑千万だと思ってもいないようね」
菖蒲は正義に挑発の言葉を投げかけた。
「自分の火の粉は自分で振り払う」と正義が言うと、「あんたが全ての銃弾を受けるというのであれば問題ないけどね」と菖蒲が簡単に切り替えした。
正義は返す言葉が見つからなかったようで、「この淫乱女が…」とただただけなす言葉を放った。
「ふんっ」と菖蒲は鼻を鳴らして軽蔑の視線を正義に向けた。
「もうやめて欲しいっ!!
出て行ってっ!!」
優華がいつになくムキになって大声を張り上げた。
「そうね、ここは一般の警察官は立ち入ってはならない場所。
早々にお帰りくださいませんか?」
爽花が言うと、正義は火の出るような眼を俺に向けた。
どうやらただただ俺を挑発に来ただけのようなので、俺はさらに知らん振りをして、少し固まっているケンの額を指で突いてやった。
ケンは、「おっ!」と言って驚きの声を上げた。
「この程度のことで固まっていてどうするんだ?
母さんの攻撃はこの数十倍だぞ」
「お、おう… そうだった…」とケンは言って苦笑いを俺に向けた。
「日本警察の威信にかけて、
犬塚千代警部にオリンピックに出場してもらうという案が出ている。
さらには、日本警察署職員の、
松崎拓生君も同様に出場していただきたいとして、
陸上競技連盟から法務省宛てに嘆願書が届いている。
もちろん犬塚警部も同様に嘆願されている。
これには少々わけがあり、
他国のアスリートが陸上のメイン競技である
100メートル走への出場辞退が相次いでいるためだ。
よって、日本オリンピック委員会からも嘆願書が届いている。
できれば、お祭りとして協力していただきたいと
同じ警察機構としては思っているので、
お願いにやってきた」
この話は特に正義が出てくる必要はないと感じている。
きっとほかに何か思惑があるのだろうと俺は思っている。
よって、「断るっ!!」とだけ俺は答えた。
正義はヘビのような目で俺を見て笑った。
「頼られちゃあしょうがねえ、気にしねえ、気にしねえ」と正義が言ってきたので、「かわいそうだが、情けはかけねえ」と切り返してやると、「うぬっ」と正義は短くうなった。
「甘えてばかりじゃあ、大成しねえ」と正義はまた攻めてきた。
正義も正造と同じように、この言葉を知っていたようだ。
特に困りはしないが、拓郎伯父がどう切り返すのか期待して、俺は口をつぐんだ。
「過度の期待も程々だぜ」と拓郎伯父が言った。
正義は驚きの顔を俺に向けた。
「正義、まだあるぜ」と拓郎伯父が言うと、正義は涙を流して笑みを浮かべていた。
「正義は、まずは礼からだぜ」と拓郎伯父が言うと、正義は声を張り上げて泣き出し始めた。
これが正義の魂胆だったと思い、菖蒲を見ると、泣くどころか俺に向けて怒りをあらわにしていたことに俺は笑ってしまった。
「仕方ねえだろうがぁー、チョップしてやる」と拓郎伯父が言って、菖蒲の頭に手刀を当てると、「えへへへ…」と菖蒲は言って笑った。
「俺としちゃあ、速く走ることに未練はねえ。
拓生が最高に喜んだ姿を見たからな。
千代はどうするのかしらねえけど、
まあ、どっちでもいいんじゃねえの?」
拓郎伯父はやはりかなりいい加減だと思ったが、俺としてはやはり好ましい好人物だと思った。
「拓生君を乗っ取らないで欲しいんだけど…」とエリカが言うと、俺の肩の力が一気に抜けた。
「エリカに叱られたから引っ込んだな…」と俺が言うと、菖蒲がエリカに怒りをぶつけ始めたが、その数十倍の眼力でエリカがにらむと、菖蒲は叱られた子犬のようになって小さくなった。
「…ああ、泣いたなぁー…」と正義は言って笑顔で俺を見た。
「無礼の数々、本当に許して欲しい」と正義は言って俺に頭を下げた。
「わかっていただけたのならそれで構いません。
お答えしたように、俺はオリンピックには一切興味はありません。
出場したとしても勝って当然のレースには
まったく興味が沸きませんから。
その間に、困っている人を一人でも救うことを俺は望んでいます」
俺が言うと、「あ、私もぉー…」とエリカは言って俺の意見に便乗してきた。
「いやしかし、拓生君が出てくれたのなら、
さらに陸上競技としても盛り上がるはずだと言ってきているんだよ」
「俺たちが出ないということは、
俺たちの代わりに出場する人たちに希望を与えることができます。
さらには、上位者が多く欠場することで、
その瞬間の一番が喜びを得ることもできます。
俺たちが出ない方が、実りは多いと思いますけど?」
俺が言うと、石坂だけが拍手をして、何度もうなづいている。
エリカは、「うわー、それは考えつかなかったわぁー…」と言って、オレに寄り添って俺の肩を抱いた。
「まずは出場する選手たちに聞いてもらった方がいいですね。
確実にやる気満々のはずですから」
俺が言うと、「いや、それはよくわかるのだがな…」と正義はいつもとは違う歯切れの悪い言葉を吐いた。
「もういいじゃねえか、正義」と石坂が言うと、「先輩はお気軽でいいですね…」と正義は言って苦笑いを浮かべた。
「拓生の言ったことは俺は正しいと思う。
ま、出るのなら、予選だけでもいいんじゃねえの?
そこで誰にも負けないタイムを出して、
後は欠場すりゃあ、誰もが認めて誰もが期待に胸膨らむ。
まあ、スポーツマンシップには欠けるけどな」
石坂の言ったことももっともだと思った。
「エキシビジョンでいいじゃないっ!!」と優華が声を張り上げて言った。
「ああ、いいなそれ。
俺とエリカが並んで走って好タイムを出せば喜んでもらえるし、
拘束されるのはその時だけだし。
何もしないよりはマシだな」
俺の意見としては優華の案に賛成したので、正義はこの結果を持ち帰ることにしたようだ。
「あ、ケンも走る?」と俺が言うと、一旦は首を横に振ったが、「もし請われるのであれば…」と出場意思を見せてきた。
「あの電動ローラースケートをはかせて
走ってもらってもいいんじゃねえの?」
俺が言うと、さらに企画がどんどん上がってきた。
正義は様々な意見を聞いてから、店を出て行った。
何も指示はしていないのだが、衛がこっそりと正義のあとをつけるようにして、その巨体を消した。
( 第十六話 日本警察署採用試験 おわり )
( 第十七話 凍り付いた出来事 につづく)