第十三話 第二の冒険旅行事件
第二の冒険旅行事件
『サイボーグロアキャット』
これが俺のあだ名になっていた。
映像を見る限り、確かにその言葉通りに見えなくはない。
これは俺が走っている姿を、英語的に表現したもののようだ。
世界中に、陸上競技連盟主催による記録会で俺の走っている姿が公開されたようで、大会からひと月経った今頃になって大きな話題になった。
映像にはタイムカウンターが入っているので、疑う余地はなく、俺の持つ世界記録の、9秒008は世界中に認知された。
俺としてはかなり悔しいのだが、スターティングブロックがどうしても浮いてしまうので、その分遅くなってしまう。
俺は二日間の記録会で一度ずつ走っている。
レース前に、試しに渾身の力をこめて勢いよくスターティングブロックを蹴ると、簡単に浮いてしまって、一時レースが中断された。
同じコースで走っていた海外からの招待選手たちは、「信じられないっ!!」と言って頭を抱え込んでいた。
もちろん俺も信じられなかったが。
もっとも、怪我をしなくて幸いだったという想いが一番にある。
最終的には杭を打ち直したあと、スターティングブロックに鉄パイプを二本乗せ、係員ふたりが両端に座って押さえ込むことで、何とかまともにスタートできるようになってレースが行なわれた。
だがどうしてもわずかに浮いてしまって、力が逃げてしまうのだ。
その分タイムが遅くなり、9秒を切ることができなかった。
勢いを殺さない、空気抵抗を減らす前傾姿勢のままの走りが、人間ではない獰猛な猫、と感じられたようでこのあだ名がついた経緯のようだ。
さらにはゴールして、タイムを見た俺がかなり悔しがっている姿に、あきれられてしまったようだ。
獰猛ではないが、我が家の家族の一員のエンジェルは、その姿を本物の猫の姿に変えた。
父はぼう然として、エンジェルを食い入るようにして見ていた。
あまりにも兄である拓郎が好んだ猫によく似ていたからだと言った。
だが、エンジェルは父がそれほど好きではないようで、あまりいい顔はしない。
父よりも母の方が好きなようで、最近では俺が命令しなくてもエンジェルは母に寄り添うことが多くなった。
エンジェルはまさにシルクの肌触りで、みんなに愛された。
しかも子猫サイズなので、さらに愛らしく思ってくれるようだ。
だが、少々問題もある。
リアルすぎるので、俺たちの予約席に迎え入れることができなくなった。
ディックも同じで、まさにかなり小さな本物のダルメシアンとなってしまっていた。
外でこの二匹とお茶をする時は、ファミリーレストランの棟続きにあるペット同伴喫茶に行く。
二匹はここでも人気者になったので、俺たちと少々関わりのあった店長は大いに喜んでくれているようだ。
そしてわが社はついに、『フレンドリー ロアプリンセス』のコマーシャル映像を公開した。
そのCMにはエンジェルを出演させた。
主役は当然エンジェルで、相手の脇役は母が勤めた。
少々キワモノの映像となってしまったが、母の姿に好感を持ち、人気が高いようで、予約サイトを開設したとたんに、とんでもない数の予約が殺到した。
エンジェルの本来の能力の半分ほどしか出させていないので、最高に仲良くなったと過程した動きをCMでは使っている。
さらには、ファレルボのきぐるみが発売されて、こちらも飛ぶように売れた。
きぐるみを着せることで、多少の冷却効果を得られたようで、通常品でも動きがわずかにスムーズになったようだ。
通常ではない二匹は充電器に収まって、愛嬌を振りまいている。
父は、「ディックも帰って来た」と言って感無量となっている。
母も、俺にエンジェルを取り上げられなくなったので、俺の妹からようやく脱却したが、まだまだ俺の母への返り咲きは果たせていない。
本物の動物についての報道があった。
日本一元気な動物がいると、俺が時々行く市営動物園がメディアで紹介されることが多くなった。
観光名所のひとつにもなったようで、収益も五倍増して、園長の木田もかなりうれしそうにテレビ出演をしている。
その木田の姪で俺の妹の優華は、ついに決心したようで、寺嶋翔とデートをすることになった。
だが、俺とエリカも同行することになっていて、まだまだ俺の妹には違いないようだ。
「始めは確かにグループ交際がいいとは思うんだけどな。
まさかだけど、ずっとこのままじゃないだろうな」
俺が言うと、優華はかなり困った顔をして、「そうかも…」と答えたので、俺は肩の力が抜けてしまった。
寺嶋コンツェルンとしても、優華の所有する佐々木開発と手をつなぐことになるので、申し分のない縁談のようで、祖父のご機嫌も麗しいようだ。
よって翔は親族からもさらに恐れられるようになった。
だが杞憂は大いにある。
親族たちが何かよからぬことを企まないかと思って止まない。
しかし、俺の直感は何も言わないので、ただただ心配なだけだ。
さらにはもし事を起こせば俺が出張ることにもなるはずなので、無謀なことはしないだろうとも思っている。
翔と直接会って話しをしたのだが、その表情は明るい。
さらには、翔は俺が思っていた以上に、優華のことが気に入っていたようだ。
俺とは他人だということは当然知っているので、俺と結婚するものだと思っていたらしい。
「まさに幸運だよ」
翔はホホを緩めて喜んでいる。
「だけど、よほどのことがない限り、
優華は嫁には行かないと思うよ」
俺が言うと、「うん、それも視野に入れてるよ」と翔は気さくに言う。
しかし、俺たちの平和を乱そうとする悪いやつがいる。
ふたりのデートの前日の朝に、初めて首相からの日本警察署への任務の依頼が下された。
そして、良識者筆頭である自称警視総監の山脇からの許可も下りた。
俺たちは日本警察署の仕事もするようになるのだが、どう考えてもこの事件は長期化するはずだ。
しかも、高確率で現地に赴く必要がある。
日本警察署は優華の厳しい審査と、俺たちが認めた人材二名を警察官から迎え入れていたので、二名であれば現地に赴いてもほぼ問題はない。
しかし大問題があり、肝心要のエリカが、この出張を嫌がっているのだ。
ただただ俺と離れるのが嫌なだけなようなので、俺は特に何も言わなかった。
「…冷たいのね…」「いや、普通だぞ」と俺はエリカの言葉に即答した。
「出張に行くだけじゃないか…
俺だって社の仕事の出張は、
今までに何度も行っている」
俺が言うと、エリカはふくれっつらを見せた。
「…心配なのよ…」とエリカは素早く爽花を見て俺に視線を戻した。
爽花の鑑識技術は警視庁、警察庁に認められた。
だが、科学捜査においては、誰も理解できないようで、爽花が一手に引き受けている。
『超美人鑑識官』として、メディアでも紹介され、今日もその見物客で、グルメパラダイスの一階はひしめき合っている。
さらには優華も、「デート中止でっ!」と妙にうれしそうに俺に言った。
デートをしたい気持ちもあるが、行きたくない気持ちもあるようで、俺は渋々《しぶしぶ》、翔に全ての事情を話した。
翔も事件のことは知っていて嫌な予感がしていたそうだ。
翔には絶対に言えないのだが、―― 縁がない ―― と俺は思ってしまった。
「心配って…」と俺はエリカに笑みを浮かべて言うと、エリカは首をすくめて上目使いで俺を見た。
「今までも相当な美人で、
今はそれ以上の輝きを得た爽花は無敵の超美人となり、
さらにその肉体はまさに凶器でもある」
俺が言うと、エリカは少しだけ泣き顔を見せた。
爽花は聞いているのかいないのか、依頼を受けた仕事中だ。
「もし俺が、爽花と一夜を」と言った途端にエリカはついに泣き出し始めた。
もう二度と俺と関係を持つことがなくなるとでも思ったようだ。
「うーん…」と俺は少し考えた。
「半分ほどは勉強…」と俺が言うと、エリカはすぐにバツが悪そうな顔をした。
エリカの、犯罪心理学者としてのスキルを上げるために、俺に駄々《だだ》をこねているといったものを感じたのだ。
エリカはその気持ちすらも学者としての糧とする。
まさに面倒なのだが、エリカのために協力する必要はある。
今回の事件は、一都三県にまたがる、かなり面倒な事件だとニュース報道では聞いていた。
初めはそれぞれに捜査本部があったのだが、現在は関東の北の端の一県に捜査本部を構えている。
その地域を中心にして事件が起こっていると考えられたからだ。
同一犯による犯行だという決め手は、その手口と状況などがほぼ一致したことにある。
ニュース報道されていない簡素な情報を捜査本部から得たのだが、何が目的で殺人を犯しているのかがよくわからない。
普通に見ても無差別殺人なのだが、妙に手際がよく、計画的なのではないかという捜査本部の見解だ。
しかし、簡素な情報の中に事件の真相のヒントがあった。
被害者は全て男性で、その年齢は25才から53才で、バラエティーに富んでいる。
現在、七名が犠牲になっているのだが、一人を除いて、『あ』、『か』、『さ』行の苗字なのだ。
捜査本部がこれをどう捉えているのかは不明だが、犯行を紐解くヒントになっているような気がする。
そして唯一仲間はずれの名前がある。
それは、『四方俊樹』だ。
「…しかた…」と俺はつぶやいた。
そして全てがつながった。
殺害された順番に七名が並んだのだ。
「…五十音順殺人事件…」と俺がつぶやくと、新しくこの日本警察署に配属になった、元所轄の第四課課長の石坂厳が、「もうわかったのかっ?!」と叫んで、両手のひらでテーブルを叩いて勢いよく立ち上がった。
「あ、いえ、犯人のプロファイルと犯行目的だけですよ」
俺が言うと、「…いや、俺にはまったく何にもわからんのだがな…」と石坂が言って、ゆっくりと椅子に腰を落とした。
エリカが俺の呟きを聞いていないわけがなく、「出張の必要はなさそうだわ」と笑顔を俺に向けた。
わかっているのは俺とエリカだけなので、仲間たちはオレたちを半分にらみつけている。
「このまま放っておくと、最終的には少ない場合でも40名ほどが犠牲になりますね」
俺が石坂に顔を向けて言うと、「うおおっ!」と石坂は叫んで、頭を抱え込んだ。
どうやら俺の言葉はさらに混乱を呼んだのだろう。
「その根拠は、五十音順に並べた人の割合を均等だと考えると、
その程度だろうと。
そしてなぜ40という具体的な数字が出たのか」
俺は素早く辺りを見回して、おあつらえ向きのものが来たので指を差した。
「…大型バス…」と石坂はにやりと笑って言った。
石坂にももうわかったようだ。
「殺された被害者は全員、同じバスツアーに参加しているはずです」
俺が言うと、五月はすぐに捜査本部に確認を入れた。
被害者の最近の行動ではそれはないようだが、それよりもさらにさかのぼって調べるようにと、五月は半分命令するように電話の相手に伝えた。
「数年前ではなく、少々過去の事件…
リストが最近手に入ったから、犯行を始めることにした。
とりあえず順番に殺害すれば、復讐は完遂する。
犯人はかなり横暴ですね。
人の気持ちを考えることはない。
ただただ復讐という自分の欲に突っ走る。
だが、几帳面ではある。
都合のいいように殺した方が効率的なのに、リスト順に殺している。
よってかなり暇で金銭的には少々余裕がある。
その理由は、犯行現場に移動するだけでもそこそこ金がかかるから。
これらを考えると、冷静さも兼ね備えているかもしれないので、
見た目は連続殺人犯とは気づかれないごく普通の人」
「…そうね、一番面倒な犯人だわ…」とエリカも俺の意見を認めた。
「確認が取れたら、
挑発目的で報道に乗せてもいいかもしれないけどね。
もう知っているぞ、ってね…」
俺が言うと、なぜだか優華たちが背筋を振るわせた。
一体何が怖かったのかを少し考えて、「ああ、目玉の看板、思い出した?」と俺が優華に顔を向けて言うと、優華は小さくうなづいた。
「有効な手かもしれないけど、
今回の件の場合は自暴自棄になられて
さらに無差別に殺されるのも問題かもな…」
俺の言葉にエリカは小さくうなづいた。
五月に電話があり、被害者の二名が、五年前に同じバスツアーに参加していることが判明した。
だがそれは記念写真だけでしか確認できていないので、これから詳しいことを調べるようだ。
「俺たちの仕事って、比較的簡単だよな」と俺が言うと、石坂が俺の背中を、『バンッ!!』と強く叩いて大声で笑った。
「だけど杞憂がある」
俺が言うと、エリカだけが瞳を閉じて腕を組んだ。
ほかの者は真顔を俺に向けている。
「これは想像でしかないけど、
被害にあって身元が分からない関係者がいるかもしれない。
それはツアーのバスの運転手と添乗員。
もうすでに、別の事件で殺されているかも。
犯人がバスツアーのリストを手に入れたと同時に…」
俺が言うと、「頻繁に仕事ができて何よりだよ」と五月が言ってまた電話連絡を始めた。
エリカは姿勢を変えずに深くうなづいている。
「探偵役、代わる?」と俺が言うと、エリカは瞳を閉じたままそっぽを向いた。
中学の頃から、エリカとの関係はこんな感じだった。
どちらかといえば俺が話しをして、エリカは聞き役。
当事のエリカには恋心など沸かなかったが、ライバルとしては大きな存在だった。
その頃の俺の恋愛感情としては、爽花こと爽太郎から眼が放せなかったことが大きい。
その爽花は今は仕事を終えて俺に笑みを向けている。
「ウソ、ダメ、絶対っ!」と俺が爽花に向けて言うと、爽花はほんの一瞬だけ悲しげな目を俺に見せた。
「心を入れ替えたわ」と爽花は穏やかに言って、小さなマリア像を胸に抱いた。
「はー、まさにマリア様…」と石坂が感慨深そうに言った。
「爽花とはよほどのことがない限り、
交わることはないだろうなぁー…」
俺は妙に感慨深く思って、少しセンチメンタルな気分になった。
よって、俺は俺自身を気持ち悪く思って、鳥肌が立った。
爽花は俺の姿を見て完全に勘違いをした顔になった。
―― 鳥肌が立つほどに嫌いっ!! ―― と思ったようで、まるで子供の泣き顔のような顔を俺に見せつけた。
「あ、絶対勘違いしてる…」と俺は言ってすぐに、爽花の誤解を解いた。
「…あー、よかったぁー…」と爽花は言って、マリア像と同じ薄笑みを浮かべた。
「うー… 言いわけしなくてもよかったんじゃあー…」とエリカがテーブルに目から上だけを出して俺を上目使いで見ている。
「エリカは悪魔だな」と俺が言うと、「どんなに悪いことでも無感情でしちゃうよ」とエリカに簡単に言い返された。
それほどでないと、犯罪心理学者として維持ができないと、俺は常々思っている。
「…私も、爽花先輩のように本気になろうかしらぁー…」とエリカは言って怪しげな笑みを爽花に向けたが、爽花に小さなマリア像を顔に突きつけられて、エリカは苦笑いを浮かべた。
「犯罪心理学者とマリア像の関係…」
俺はふたりを見て少し笑った。
「まさに、ドラキュラと十字架っ!!」と俺は叫んだが、みんなに、―― つまらないことを言うな ―― という、白い目で見られた。
ずっと笑みを浮かべて俺たちを見ている、少々小柄な男性の刑事かいる。
優華とのデートの時に、電車内でスリを検挙した刑事で、柔道の達人の桐山健太だ。
優華の人事力は信頼が置け、正確でスピーディーだ。
しかも面識があるので、すぐにこのふたりは追加要因として日本警察署に配属された。
優華が二人を選んだ一番の理由は、俺を神のように崇めていないこと。
石坂は俺と友達のように接し、桐山は俺を先輩のように慕ってくれる。
俺自身、崇められるのも大概なので、近場の警察関係者では今のところこのふたりしか適任者はいないと思っている。
「新しい情報…」と言って五月が俺に苦笑いを浮かべた。
「都心で旅行代理店で働く女性が一名、自殺している。
連続殺人が始まる直前だそうだ。
さらに詳しいことは現在調査中。
バスの運転手は都心だけでも三人が自殺を図っている。
その内の一名は何とか命を取り留めていて現在は入院中。
そのほかでバスの運転手による事件事故はこの近辺ではないな」
「あ、添乗員と運転手については
全国に範囲を広げて検索してもらっていいように思いますね。
その方が確実ですから。
もっとも、連続殺人事件の被害者のツアーに
参加している確認ができれば当たりだと思います。
…今夜はこれくらいでいいでしょう。
一般人はもう寝る時間です」
俺が言うと、五月も石坂もつまらなさそうな顔をした。
基本的に警察官は、区切りがいいところで店じまいをする。
しかし一般人には付き合う必要はないので、今まで通りの生活を送る。
これが日本警察署の第一の基本的ルールだ。
「松崎は付き合い悪いよな…」と石坂が言ったが、「私生活を大切にしているだけですよ」と俺が言うと、石坂はバツが悪そうな顔をした。
桐山は笑顔で、「お疲れ様でしたっ!!」と笑顔で俺たちに敬礼してくれた。
俺は頭を下げただけだが、優華たちは調子に乗って無邪気に敬礼を返している。
「エリカも帰っていいぞ…
理由はかみつかれそうだから」
五月が言うと、「では、お先に失礼しますっ!」とエリカはあっけなく言って、素早く五月たちに敬礼してすぐに俺たちに追いついてきた。
「うーん…」と言って俺は歩きながら考え込んだ。
「桐山さんと付き合うつもりはないわよ」とエリカに先に言われてしまった。
「身長」「関係ないわよ」とエリカは言って、俺の右手を握ってきた。
すぐさま、「縁切ったっ!!」と彩夏が言ってつないでいた手を手刀で切った。
ほとんど俺の手に当たっていたので少々痛かった。
「何するのよっ!!」とエリカは言ったが、今度は俺にうしろから抱きついた。
「おぶって帰る」と俺が言うと、「ちょっ! 降ろしなさいっ!!」とエリカは言ったが俺は拒否した。
きれいどころ三人の笑い声を聞きながら、俺たちは我が家に戻った。
翌日の朝、急展開があったようで、五十音順殺人事件の犯人が捕まったという報道があった。
俺の携帯が鳴り、すぐに出ると山際だった。
『いやぁーさすがです』
「あ、いえ、捕まって何よりでした」
『首相からもお褒めの言葉をいただきました。
今日はのんびりと過ごしてください』
山際に礼を言ってから俺は電話を切った。
優華が心配そうな顔をして俺を見ている。
だが何も言わずに俺はテレビを見入った。
昨夜、オレたちが就寝してすぐに、警察は被害者たちが参加したバスツアーの名簿を手に入れて、次に殺されるはずだった、須藤啓作を素早くマークしていたところ、まるでその影から出てきたように、犯人が姿を現したそうだ。
よって、不意をつかれたが刑事が大声を上げた。
犯人は明らかに動揺したという。
須藤は怪我を負ったが、幸い命には別状なかったようだ。
この急展開に、映像に映っている30台半ばの好青年に見える捕らえられた犯人はぼう然とした顔をしている。
まさか捕まるとは夢にも思わなかったと言わんばかりの表情だ。
この男の犯罪はなんとか食い止めることはできたが、犯人が被害者側だったと思われる事件は解決していない。
山際はゆっくりしてくれと言ったが、今日は出番があると俺は感じた。
「悪いけど、今日は署で待機にするから。
多分、捜査本部に行かなきゃならないと思う」
俺が言うと、エリカだけがごく普通にうなづいている。
「断ってもらってもいいんだぞ」と父が力強い言葉で言った。
「イヤなことは先にしておきたいからね」と俺が言うと、父は笑顔でうなづいた。
優華はほっと胸をなでおろして、俺を笑顔で見ていた。
「迎えに来るかもな…」と俺がさらりと翔が来るかもしれないことを告げると優華は、「お兄ちゃんのそばにいて仕事してる振りするもんっ!」と言って妹らしく言った。
「ふーん…
優華ってまさか押しに弱い…」
俺が言うと優華は笑顔のままでそっぽを向いた。
「それはどうかと思うな。
イヤなことはきっちりと断らないと。
だけど、今日、もし翔君が来たら、
知り合いとして付き合って欲しいな。
もしその先の事を言ったら、俺が断れと言ったと言っておけばいい。
それくらいは言えるだろ?」
「うんっ! 言えるよっ!」と優華は笑顔で言った。
エリカが鋭い視線で俺をにらんでいる。
「シスコン…」「今の方法が最善なんだよ」
エリカの軽口にすぐに俺は答えた。
「こう言っておかないと、
今日が優華の処女喪失記念日になるかもしれないからな。
だけど、優華が望んでだったら別に構わないんだけどな」
俺が言うと、優華は少し泣き顔で首を横に振っている。
「まずは翔君に優華の性格を知ってもらうこと。
もし気に入らなかったら、俺の名前を出して断ればいい。
それが優華の最後の砦のようなものだと俺は思うんだ。
相手に流されない性格を手に入れる修行が必要だよな。
しかし、仕事はきちんとしているのに、
私生活はダメダメだな…」
俺が言うと優華は、俺を上目使いで見て、「…頼っちゃうから…」と小さな声で言った。
「仕事はね、社員の皆さんのためって思えば何とかなるの。
私、すっごく冷たい女だって思われてるの…」
俺は笑いそうになったが、さすがにここは堪えた。
「翔君に連れ出されても、
社員のためなどと考えたらすぐに帰ってきそうだな…」
俺が言うと、優華は満面の笑みを浮かべた。
「喜んでんじゃねえ」と俺は言って、優華の頭をなでた。
「もっとも、翔君はそれほど押しが強くないとは思うけどな。
だけど女性の前だと変わるかもしれない」
俺が言うと優華は少し泣きそうな顔をして、「お兄ちゃんに言いつけるって言うの…」と小さな声で言った。
「今はそれでもいいんだけどな」と言って、もうこの話はやめることにした。
警察署に移動しようと思った時に、また山際から電話があった。
きっと、犯人の取調べのことだろうと思っていたらやはりその通りだった。
山際は俺の判断に託したいと言ってくれたので、首相の要望を聞き入れてもらうように答えた。
警察署に顔を出すと、石坂が気合十分で俺を見て、―― さあ、行くぞっ! ―― と言わんばかりの勢いで立ち上がった。
「みなさん、おはようございます」と俺が言うと、五月だけが申し訳なさそうかな顔をして俺を見ている。
「山際さんから聞きました。
犯人の事情聴取の件」
俺が言うと、「そうか…」とだけ五月は言って笑みを浮かべた。
「今回石坂さんは遠慮してください。
何も話さなくなることだけが怖いんです」
俺が言うと、石坂はかなりの剣幕で俺をにらんだが、理由まで述べられたので我慢したようだ。
「もちろんエリカは連れて行きます。
あとひとり、桐山さんを」
俺が言うと、桐山は小さくガッツポーズをしたように見えた。
「小さい者同士デート?」と五月がエリカに顔を向けて軽口を言うと、エリカの左の掌底が軽く五月のわき腹に入った。
「ぐっ!」と五月は鋭くうなって、話しができなくなったようだ。
「余計なことを言うからです。
では、行きましょうか」
俺は言ってからきびすを返したと同時に、石坂が大笑いした。
その明るい笑い声に見送られて、ふたりとともに駅を目指した。
特急列車で一時間半をかけて、捜査本部のある県警に到着した。
本部長にあいさつに行くと、憮然とした顔をされた。
しかし、首相直轄の日本警察署の署員には反抗できないようで、取調室に案内された。
ドアを開けると同時に、「あ」と犯人である、多野中邦弘が声を上げた。
「てめえ、しゃべれるじゃねえかっ!!」と、取調官の県警の刑事が大声を上げた。
「あー、有名人たちだぁー…」と言って、多野中は俺たち三人を見回した。
もちろん桐山も有名人で、先のオリンピックの軽量級柔道チャンピオンだ。
多野中は取り調べ官には見向きもしなくなり、俺たちに握手を求めてきた。
県警の刑事たちは本部長の手招きに従って、憤慨しながら外に出て行った。
どう見てもまともとしか思えない多野中に俺は笑みを向けた。
「俺たちも取調官です。
まず始めに、どちらの事件から話して下さいますか?」
多野中は、「え?」と言ったまま固まった。
「すべてを話していただけるのであれば、
俺としてはどちらが先でも構わないのです」
多野中は表情を引き締めて、今回の連続殺人事件について、淡々と語り始めた。
質問することはほとんどなく、連続殺人事件の全貌は解明された。
続いて、多野中が直面した不幸について、今度は感情を込めて話し始めた。
多野中は、心の底から泣いていた。
誰でも、愛する妻を蹂躙され、自殺に追い込んだ者は許せないと思うだろう。
しかし、警察には通報していないので、誰が妻を襲ったのかはわからずじまいで、多野中は復讐したくても相手がいなかったのだ。
手がかりをつかんだのは、妻が襲われた場所に花を手向けに行った時だ。
そこには、雨に打たれしわになり、少し破れかかっている旅行会社のパンフレットが落ちていた。
まるで妻のようだったと多野中は形容した。
この土地のものではないことは一目瞭然で、多野中は長い時間をかけて全てを調べ上げ、やっと復讐ができる喜びに打ちひしがれた。
「具体的には誰が罪を犯したのかは不明。
よって、関係者を全員葬ろうと計画した。
これでいいのですね?」
俺が聞くと、多野中は涙をこぼしながらうなづいた。
「あなたの気持ちは痛いほどわかります。
今の俺には愛する人がいますから」
俺が言うと、多野中は一瞬エリカを見た。
「はい、その通りです。
ですが俺は、あなたのような無謀なことはしません」
多野中は一瞬憮然とした態度を取ったが、俺の話しを聞く余地はあるようだ。
「どのようなことをしても、
まずは誰が事件を起こしたのか突き止めるでしょう。
そして犯人を捕らえるでしょう。
あとは判事に任せて、できれば全てを忘れたいと思うでしょうね。
これが俺の生き方なのです」
多野中は憮然とした態度を引っ込めて、肩を落として新たな涙を流し始めた。
「今回の件で今度はあなたが恨まれる番になってしまった。
こんな愚かなことを人間はずっとやっているんですよ。
あなたに、心底信頼できる友人はいなかったのでしょうか?」
多野中は嗚咽を堪えながらも、何度もうなづいた。
「奥様がその友人でもあった」
多野中はまた数回、強くうなづいてついに、「うっ、うっ」と嗚咽を漏らし始めた。
「俺には妻以外にも友人がいます。
俺がもし狂ったとしても、きっと止めてくれるでしょう」
多野中はついに大声で泣き喚き始めた。
今は後悔があるように感じられた。
エリカもほんのわずかだが泣き顔を浮かべている。
「さて、日本警察署は実はこれからが仕事なのです」
「え?」と多野中だけでなく、エリカと桐山も思わず驚きの声を発した。
「あなたの代わりに、なんとしてでも犯人を捕まえましょう。
一度犯した罪を二度目はしないとは限りませんから。
どうか、判事からの裁定が下るまで、冷静でいて欲しいのです」
「あ、ああ… はい…
よろしく、おねがいします…」
多野中は途切れ途切れだが、はっきりと言葉にして、そして俺の手を強く握り締めた。
本部長にあいさつをして、今回被害にあったバスツアーの参加者リストだけをもらって、日本警察署に戻った。
全てのツアー参加者の経歴を調べてもらい、事件を起こしている者が三人いた。
「悪いことはできないもんだよな」と俺が言うと、「もう終っちゃったわね…」と言ってエリカはあきれた顔をした。
事件を起こした三人は、どうやら知り合いのようで、婦女暴行未遂により逮捕されて、裁判待ちのようだ。
「あとはやっておくよ」と五月が言って、事務方に連絡を始めた。
このあとは石坂が担当したようで、どうやったのかは不明だが、五年前の旅先での婦女暴行事件の解明が終った。
この結果を俺は直接、多野中に面会して語った。
多野中は真剣な顔をして涙を流して俺に礼を言ってくれた。
全ては闇の中に近いのだが、最低でも妻を襲った犯人の可能性を持つ者がいたことで、多野中は納得したはずだ。
… … … … …
日本警察署内で、「…お兄ちゃん…」と優華が言って、俺の背中にもたれかかってきた。
「デート、行ったんだな」と俺が言うと、優華の顔は見えないのだがうなづいたようだ。
「…結婚を前提に付き合って欲しいって言われたぁー…」
優華は棒読みでつぶやくように言った。
「で? なんて答えたんだ?」
俺は笑う準備をしておいた。
「お兄ちゃんと結婚するからダメですっ!!
って、大声で言っちゃったぁー…」
思った通りの回答が帰って来たので大声で笑った。
しかしすぐに笑うことはやめた。
「…翔君はいいんだ。
きっと、そういった返事を聞かされると予想していたと思うんだ。
だけどな、周りにいた人は驚いてなかったか?」
俺が言うと、優華は俺の体から離れて、俺の顔を覗き込んで、驚いた顔をして何度もうなづいている。
「お兄ちゃんと結婚、なんて叫んだからだと思わないか?」と俺が少し笑いながら言うと、「あ―――っ!!」と優華は言いながら頭を抱え込んだ。
「少しは冷静になった方がいいぞ。
この件は彩夏が穏便に済ませてくれたと思うけど…」
俺が素早く彩夏を見ると笑みを浮かべていたので問題なしと断定した。
「せめて拓ちゃんにして欲しかったよな」と俺が言うと、「うん、全然気づかなかった…」と優華は真っ赤な顔をして俺に言った。
首相は今回はでしゃばってこないようで、日本警察署の自慢話を聞くことなく一日を終えた。
―― 正義は面白くないだろうな… ―― などと思っているうちに眠ってしまっていた。
目覚めると夜中で、妙な雰囲気が漂っていた。
「エンジェルッ!!」と俺は叫んだ。
リビングにいるエンジェルは二階にすっ飛んできて、俺の友人にまとわり付いたはずだ。
「…きゃっ…」と小さな声がドアの向こうから聞こえた。
爽花の驚いた声ではなく、俺のエンジェルを呼ぶ声にみんなは反応して二階を見上げているはずだ。
「…仕方のない子だ…」という父の声が聞こえた。
「…はい、ごめんなさい…」という爽花の声が聞こえた。
そして多くの足音が遠くに聞こえて、俺はまた眠った。
朝食の団欒のひと時、爽花だけはさすがにバツが悪そうな顔をしている。
「かっこわりい…」と俺が言うと、批判的な数々の眼が俺を襲ってきた。
今は俺が悪者のようだ。
「…はい、かっこ悪いって思いますぅー…」と爽花は上目使いで俺を見た。
「具体的には何をするつもりだったんだ?」
俺が言うと、「そんなの聞かなくったっていいじゃないっ!!」とエリカが叫んだ。
「いや、聞いておきたいね。
爽花は自分の行動を正当化しようと企んでいたと思うからな。
爽花が一番強かなんだよ」
「えー…」と言って信じられない顔をしてエリカが爽花を見た。
優華も彩夏も、エリカと同じ顔をしていた。
「強かでごめんなさい…」と爽花は怪しげな笑みを俺に向けた。
「マリア様に謝っておいた方がいいと思うぜ」
俺が言うと爽花は、一瞬驚き、そしてうつむいてからマリア像を出して、声を上げすに号泣を始めた。
「放っておくからひどくなっちまった。
おまえが一番危険だから、さっさと嫁に行け」
「初めては拓ちゃんじゃなきゃイヤだもん…」
「それがおまえの俺への罠だ。
そして、おまえ自身にも罠となる」
俺が言うと、爽花は固まった。
爽花はある程度は気づいていたはずなのだ。
「肉体だけの関係は不毛だと思うぞ。
そこには快楽しかない。
もうマリア様も微笑んでくださらなくなっちまうかもな」
俺が言うと、みんなは考え込んだ。
この食卓は俺だけが食事をしていて俺だけが動いていた。
日本警察署に行くと、五月、石坂、桐山は意気揚々ともの書きの仕事に従事していた。
「おはようございます」と俺が言うと、「おう、おはよう!」と石坂が素晴らしい笑みで言ってから俺を見た。
五月と桐山もあいさつを返してきてすぐに、もの書きを再開した。
「おい、キレイどころはどうした?」と石坂が聞いてきたので、夜中にあった一件を話した。
「自慢話すんなっ!!」と聞いてきた石坂は言って大声で笑った。
この豪快な刑事は今は俺の心のよりどころになっている。
もうひとりの心のよりどころの衛は、今頃は手早く食事を済ませて、俺を追いかけてきているはずだ。
すると重厚な体を揺らして、「おはようございまーすっ!」と明るく言って、その衛が透明の檻に入ってきた。
「みんな、まだ固まってたよぉー…」と衛がかわいらしい声で言った。
「衛にとっては、なんでもない話だっただろうな」と俺が言うと、衛は真剣な顔をして横に首を振った。
「精神的にはね、今の話の方が辛いって思う」
衛が言うと、石坂はバツが悪そうな顔をして頭をかいている。
「それにね、もしもう少しだけ気づくのが遅かったら…」と衛が言うと、「あ、鍵を造って仕掛けてあるからそれは大丈夫」と俺が言うと、「そんなのなかったよっ?!」と衛が驚いた顔をして俺に向かって叫んだ。
「堂々と鍵を造っていたら、嫌な気分になるだろ?」
俺が言うと衛は少しだけ考えてから、「…うん、そうだと思った…」と言って困惑げな顔から笑顔に変わった。
「はぁー、もてる男は違うねぇー…」と石坂はもの書きをしながら感心した声を上げた。
衛はこのレストランの警備の仕事に従事することにして、入り口にいる警備と交代した。
衛も日本警察署の署員の一員だが、俺と同様に基本的な生活は変えていない。
概ねは彩夏たちの警護に従事している。
「…うっ、うっ…」と小さな声を発して石坂が泣いている。
うれしさと、そして悲しみが入り混じった涙だ。
やはり山田国一の思い出もかなりあるんだろうと思い、石坂の気持ちがよくわかった。
「衛は今は幸せだと俺は思います」
「そんなもの当然だっ!!」と石坂は大声で叫び、もう泣くことはやめることにしたようだ。
… … … … …
仕事を終えて帰宅してからレストランに足を向けると、少々変わった小さなゲートがあった。
『マナフォニック社 ファレルボ・ロアプリンセス用』と書いた、少し縦長のポップを貼り付けていある。
どうやら持ち込む動物がロボットか生身かを見分けるゲートのようだ。
もちろん、来店客にもわかるように、少々派手なイルミネーションがついている。
ロボット動物でも生身の動物でもここを通ると目に見えてわかるようにしているのだろう。
よって、父はまだ帰ってきていないが、母は署内にいる。
エンジェルの姿も確認できたので、俺は笑みを浮かべたことだろう。
正面のレジを見ると、俺とエリカの阿吽像のポスターのとなりに、もう一枚増えていた。
『日本警察署』と一番上に横書きで達筆で書かれていた。
どうやら広告ポスターまで優華が作ってしまったようだ。
優華の役割としては、どうやら人事と広報のようだ。
キャッチコピーは、『まぁーるく解決!!』と薄いピンク色で柔らかい文字で書かれている。
肝心の写真は署のきれいどころ五人が満面の笑みで写っている。
全員がほぼ中央に寄っていて、キャッチコピー通り丸い円を描いているように見える。
一番後ろに左から爽花と彩夏。
中央はエリカと優華がいて、ディックとエンジェルを両腕で支え、二匹はいい顔をして正面を向いている。
そして一番下に母がいて、両腕を湾曲させて円を描いている。
今までの警察のポスターにはないほどにイメージのいいものだと俺は感じた。
小さい文字で役職と名前もきちんと入っている。
そして、当然だが母は女優名としての、『寺嶋皐月』とだけあった。
俺が笑顔のまま署を見ると、みんなは困惑げな顔から花が咲いたような笑みに変わった。
一体何が心配だったのか俺にはよく理解できなかった。
俺が部屋に入ってから、「何か問題でも?」と言うと、「…叱られるかなぁーって…」と母が首をすくめて上目使いで俺を見た。
「いや、何を?」と俺が聞き返すと、「だから言ったじゃないぁーい…」と爽花が自慢げに笑みを浮かべて言った。
「…私、でしゃばってるかもって…
署員じゃないのに…」
母はまた俺を上目使いで見た。
「広報にはタレントも使うから別にいいって思うけど?
だから、絶対に悪い事はできないけどなっ!」
俺が言うと、数名は素早く首をすくめた。
「だけど、母さんにも何か特技があるのなら、
オレから推薦してもいいけど?」
俺が言うと、「女優だけ…」と少し悲しそうな顔をして言った。
「それと会計…」「いや、それは上の方でしてくれているからね」と俺が少し笑いながら言うと、母は悲しそうな顔をエンジェルに向けている。
エンジェルは、『ナァーン…』とさびしげに鳴いて母を慰めているように見える。
「ああ、でも母さんって、帝王学も学んだんだよね?
爺さんのことだからかなり厳しかったって思うけど…」
俺が言うと、母はひとつ身震いをして、「…思い出したくないの…」と言ってうつむいた。
「あ、いや、イヤなことを思い出させて悪かったね」と俺が言うと、母は激しく首を横に振った。
「小学校を卒業するまでにね、全部やっちゃったの」
母は信じられないことを言った。
よって、会計士の試験など簡単にパスしたはずだとようやく理解できた。
「じゃあ、テレビ子になったのはそのあと…」と俺が言うと、また母は首を横に振った。
「勉強しながら見てた」
かなりとんでもない特殊能力者だと俺は感じた。
「それで頭に入ったのならすごいと思うね。
まさに父さん以上かもね」
俺が言うと母は笑みを浮かべて胸を張ったが、すぐにしおれた。
きっと、父を上回りたくないとでも思ったのだろう。
「父さんも知ってるんだろ?」と俺が言うと、母はうなだれたままうなづいた。
「中学に上がってからね、働いてたんだよ…」と母は、元気がない声で言った。
「はー、はっきり言って、エリカ以上…」
そのエリカは今日は外に出ているようでここにはいない。
桐山もいないので、ふたりで外回りでもしているようだ。
「みんなね、すぐに結婚していなくなっちゃうの…」
確かにわかる気がする。
そして母は、16才で結婚して17才で俺を産んだ。
「母さんもうらやましかったから、父さんを見つけて結婚したんだ」
俺が言うと、母は首を横に振った。
「種馬?」と母が言うと、笑ってはいけないのだが、俺は大声で笑ってしまった。
だがほかのみんなは笑うに笑えないようで、何とか押さえ込んでいる。
「ある意味ひどいけど、母さんはそう思っていない」
母は首を横に振りかけたが、すぐさまうなづいた。
母の本当の気持ちを知りさすがに困ってしまったが、ここはリラックスするために笑っておいた。
「まだまだ他人行儀なのはそれが原因なんだね」と俺が言うと、「うん、そう…」と言って母は認めた。
しかも父はエリカが指摘するほど寡黙なので、確かにコミュニケーションは取りにくい。
しかし俺としては、祖父の社で母がどんな働きぶりだったのかを知りたくなった。
優華ですら取引先から冷たい女だと思われているようなので、帝王学を学んだ母もそれなりに大人なのだろうと感じた。
「母さんは、職場ではどんな感じだったの?」と俺が聞くと、母だけではなく彩夏までも反応して背筋が伸びた。
「なんだよ、息子の俺が知らなくてどうして彩夏が知ってんだ?」
俺が言うと彩夏は、「話しちゃダメって…」と言って母を見た。
「ふーん…」と俺は言ってから少し考えて、「彩夏の母ちゃん、母さんと一緒に働いてた?」と俺が聞くとどうやら正解だったようで、少し驚いた顔を俺に向けた。
「母さんが怖かった」
「うん… 多分…」と母が答えた。
「でも、彩夏の母ちゃんって、母さんよりも10も年上だよね?」
母は首を振って、「11…」と上目使いで俺を見た。
妙に几帳面な母だと今初めて知った。
「だったら元同僚と話しをするとか。
そして、母さんの使える部分を発掘してもらって、
日本警察署に配属してもらう、っていうのはどう?」
俺が言うと、母は喜んだのだが彩夏は懇願の眼を俺に向け、「…やめてあげて欲しい…」と言った。
「それほど怖かったのか?」と俺が言うと彩夏は、言葉にできないようで、高熱があるのかというほどに震え出し始めた。
「ああ、真由香さん、久しぶりね」と母が言って電話で話している。
いつもの母ではないと俺だけでなくみんなもすぐに理解できたはずだ。
母が椅子に座って足を組んでいる姿を始めて見た。
そして、大いに背もたれを用いてふんぞり返っている。
―― 社長っ?! ―― と俺は思い、かなりの衝撃を受けたが、しばらく観察することにした。
「タクナリ君がね、私の長所を導き出して欲しいって。
そう、あなたがよ。
タクナリ君の命令だもの、何とかして導いてちょうだい。
…あんた、なに泣いてんのよ…」
俺は今までで一番恐ろしい肉親を見たという衝撃を与えられた。
母は祖父以上に威厳があると感じた。
電話だけなのに、さらにはかなりの短時間で相手を泣かせてしまう威圧感はまさに古いタイプの厳しい社長そのものだ。
「あなたたちが結婚を理由にみんなやめちゃったから、
私ひとりになっちゃたじゃない…
あの時は、本当に忙しかったわぁー…」
―― 職場を辞めた理由は母だった… ―― と俺は正しく理解できたはずだ。
「さあ、早く、あんたの仕事をしなさいよ。
…できない?
…できないってどういうことかしらっ!
…まったく…」
優華はついに泣き出してしまった。
「…私ってまだまだだって感じたの…」と優華は言ったが、「いや、変えなくていいから」と俺は穏やかに言って、優華の頭をなでた。
「こっちとしてはね、切羽詰ってるのよっ!!
もういいわ、首相出しなさい、首相…
そう、仮面夫婦のあんたの相棒よっ!!」
―― やっぱりそうだったんだっ!! ―― と俺は思って、母に背中を向けて笑った。
「…いない?
でもそこに、男、いるんでしょ?」
―― あー、透視能力ぅー… ―― と思ったが、これは言葉のあやだ。
母は積み重ねた情報を元に予測して言ったはずだ。
「あんた、旦那の第一秘書とできていることはわかってるの。
…そう、そうよ、彩夏ちゃん情報…」
母が言ってすぐに、「ブラックボックス」と俺は優華に言った。
優華はすぐに、室内の壁を真っ黒に変えた。
母は俺たちに顔を向けているので、口を読まれることはないはずだが、万が一のためだ。
「…あら、昭文さん、早かったわね…」
オレにはまるで母の夫が昭文のような錯覚を覚えた。
「私の長所で使えるところって何かしら?
…え?
今の私?」
―― さすが首相だ、回答が早い、しかも大正解! ―― と俺は思い喜んだ。
「あーはっはっは!!」と母は大声で笑い始めた。
「そんなわけないじゃないっ!!!」
母が叫ぶと同時に、『キィィィィィィィン…』と耳鳴りがした。
とんでもない剣幕だと思い、もうそろそろ止めようかと思ったが、後学のために見ておくことも重要だと感じた。
「まあいいわ…
今日はこれくらいにしておいてあげるわ…
明日にはきちんと回答をちょうだい、わかったわねっ!!」
母は言ってしばらくして、耳から電話を遠ざけ切った。
そして呼吸を整えるように、「ふー…」と吐息をもらした。
母はごく普通に座り直してうなだれ、上目使いで妙にかわいらしく俺を見て、「…わかんないって…」と言った。
俺は少し笑いながら、「いや、俺にはわかったからいいよ」と母に言った。
「ということで、母さんのコードネームは社長で」
俺が言うと、彩夏が泣き顔のまま激しく拍手をして母を讃えた。
「ふらふらしてると、社長の一喝が飛んでくるぞ」と俺は言って、みんなの顔を見回してから最後に五月を見た。
「可能性大だから言い返せない…」と言って五月はうつむいた。
「実はね…」と母は少し申し訳なさそうな顔をして俺を見た。
「あとを継げって…」と母が言ったので俺は笑った。
「いや、爺ちゃんは正しいと思う。
だから俺にそのお鉢が回ってきた」
俺が言うと、母はさらに申し訳なさそうかな顔をしてうなづいた。
「社長をしている…
いや、部下を叱ってる自分が嫌いだから」
「だって、みんながいけないんだよ!
簡単なことなのにぃー…」
母は生徒が先生に言いつけるような口調で俺に言った。
「母さんとみんなは住む世界が違うんだよ。
今のみんなの顔色見てよ」
俺が言うと母は恐る恐る部屋を見回した。
「あー、お父さんだけが味方…」と母は俺を見て笑顔で言った。
俺はついに、母の父になったようで少し笑った。
「まあ、味方というか、母さんの子だからな。
理由や理屈がなくてもよくわかるよ」
俺が言うと、母は頭を抑え込んで混乱を始めた。
これは当然だろうと思い、「とにかくわかったから」と俺が言うと、母は子供のような笑みを俺に向けた。
首相からすぐに文書が送られてきて、母の日本警察署の一員となる辞令が言い渡されていた。
いつもの母で優華に、「ポスター、造り直してねっ!」と言うと、「はい、お母様、今すぐにっ!!」と言って素早く立って、部屋を出て行った。
「うーん… 優華がちょっとかわいそう…」と俺が言うと、「だから言ったのよぉー…」と彩夏はかなり緊張した口調で言った。
「あー、彩夏もかわいそうだな…」と俺は言って、彩夏の頭をなでてやったが、素早くオレから逃げた。
どうやら、母に何か言われるのかと思ったようだが、母は笑顔でオレたちを見ている。
「多分な、俺のすることはそれほど気にしていないようだぞ。
だけどもし、俺の嫌がることをしたら…」
彩夏は子供が、『いやいや』をするような顔をして首を横に振った。
「爽花は何も変わんないんだな」と俺は感心したように言った。
「いいえ、背筋が伸びました」と爽花は俺を見ないで言った。
かなり自分を押さえ込んでいると思って、爽花には手を出さないでおくことにした。
「爽花ちゃんも、頭をなでてあげて欲しい…」と母が言ったので、「いや、なんだか爽花が壊れそうに思うんだが…」と俺が言うと、爽花は俺を見ないでうなづいた。
「爽花、今の心境…」
「…この母あって、この子あり…」と爽花は緊張した顔のまま言った。
爽花は俺までも恐れるようになってしまったようだ。
「少しだけ冷却期間が必要のようだね。
友達、やり直しかもな…」
俺の言葉は的を得ていたようで、爽花はゆっくりとうなづいた。
エリカが少し憤慨した顔をして肩を碇らせて帰って来た。
桐山はその後ろを困った顔をしてついてきている。
―― ここは茶化してはいけないっ!! ―― と俺の本能が叫んだ。
―― お子様刑事… ――
これは絶対に禁句だと、オレ自身に言い聞かせた。
部屋に入ってくるなり、俺はエリカににらまれた。
―― 心を読まれた? ―― と思ったが、そうではないらしい。
「どこで何を言われたんだ?」と俺が聞くと、「水道局の役人よっ!!」とエリカは言って、デジタルカメラを少々乱暴に、『ガンッ!』と机の上に置いた。
「壊れるだろ…」と俺は言ってから、その画像を見た。
下水道工事の看板と、マンホールのふたが写っている。
マンホールのふたの画像は二枚あって、『うすい』『ごうりゅう』と浮き彫りにして表記してあるものだ。
「ああ、それで水道局。
所轄にも行ったんだよな?」
俺が聞くと、「当然じゃないっ!!」と言って俺をにらみつけてきた。
母も怖いがエリカも怖いと俺は大いに感じた。
「事件は解決したんだからそれでいいじゃないか…
だけど、恐ろしいことを考えたもんだな…
金融機関のビルの近く?」
俺が聞くとエリカは、「つまんないっ!!」と言って俺から顔を背けた。
「仕方ないだろ…
わかっちまったんだから…
どうせ、手掘りしていたからその振動で苦情があった、とか…」
俺が言うと、「その通り…」と五月が困った顔をして俺を見て言ってから、エリカを見た。
「トンネル掘り専用の作業機械を使ってゆっくり掘れば、
振動はほとんどないんだろうけど、
さすがにそんなものは持っていないだろうからな」
優華たちは色々と聞きたいようだが、エリカが怖くて聞けないようだ。
「うすい、これは雨水用の土管が埋められている。
行き先は大きな川」
俺が言うと、優華たちは、「あー…」と言って理解を深めた。
「ごうりゅうは、汚水と雨水が交わり流れが合うの意味の合流な。
一般家庭の下水用のマンホールには、
何も書かれていない場合がある。
自治体によって様々だけどな。
雨水は直接川に、汚水は下水処理場に行く。
ちなみに汚水も雨水も扱いは下水。
…汚水の菅は
汚水処理場で川に流してもいいレベルにしているんだ。
さらに合流の場合、基本的には下水処理場に行くが、
これをせずに大きな川に直接流している場合もあったりする。
特に東京湾はかなりのヘドロが沈殿しているが、
この下水についても大きな要因だと思うぞ」
優華たちは下水の仕組みを理解できたようだ。
「水道局のカウンター、壊しちゃったから…」とエリカは比較的穏やかな声で五月に報告した。
「わかった」とだけ五月は言って、肩を揺らしながらうしろを向いた。
「マンホールの写真、別にいらないだろ…」
俺が言うと、「聞きたかったから…」とエリカは恥ずかしそうな顔をして言った。
『俺の薀蓄を聞きたかった』ということでよさそうだ。
さらにはエリカは日本の常識についてはまだまだ勉強中だ。
目に付いた不思議なものはできる限りその意味を知っておきたいのだろう。
「仕方ない…」とだけ俺は言った。
するとエリカは満面の笑みを俺に向けた。
だが思い直したようですぐにその顔を引っ込めた。
「演技してると、母さんにこっぴどく叱られるぞ」と俺が言うと、「あー、やっぱりぃー…」とエリカは言って、母を盗み見るような目をして素早く元に戻した。
今の母は、もうすでにテレビにかじりついていた。
「俺たちの話し、きちんと聞こえているからな。
よって、顔を見ないと何を考えているのかはよくわからない」
俺が言うと、エリカはひとつ身震いをした。
「確実にもうひとりいるって…
その自分がイヤで隠して…」
エリカはつぶやくように言った。
「現実逃避の幼年化」と俺が言うと、エリカはこくんとうなづいた。
「爽花は明日だけど…」と俺が言うと、爽花は驚きの顔を俺に向けて激しく首を振った。
「ショックがひどいようだな…
伸びてしまって申し訳ない思いで一杯だ」
俺が言うと、「もう少し落ち着いてからじゃないと、楽しくないから…」と爽花は苦笑い気味の笑みで言った。
しかしゆっくりとだが、元の爽花に戻りつつあると感じた。
「そうそうっ!!」と母がいきなり言って、俺たちに振り向いた。
その顔は少女そのものだった。
だが、爽花たちには戦慄が走ったようで、母からすぐに視線を外した。
「…おとうさぁーん、遊園地行きたぁーい…」と俺はなぜだか母にかわいらしくねだられてしまった。
俺は考えることなく、「いいんだけどね、みんなで行く?」と俺が言うと母は、今までにないほど喜んでもろ手を上げた。
「事件が入らなきゃ、俺は構わないけど」
連絡を終えた五月を見ると、「それほどに急を要した事件はないだろう」とため息混じりで言った。
俺は五月に礼を言った。
「キレイどころだけ連れて行けばいいの?
ああ、衛も連れて行くぞ、当然」
衛は仕事のようで、今はここにはいない。
「うん、すっごくいいって思うっ!!」と母は言って、満面の笑みを浮かべてからまたテレビ見かじりつき始めた。
「母さんは、そういったところに行ったことがないのかなぁー…
ああ、俺は連れて行ってもらってるから、行ったことはあるな。
それに常に優華は同行してたし…」
俺が言うと、母は驚いた顔をして振り向いた。
「まさかだけど、あまり記憶がない?」と俺が聞くと、母は猛スピードでうなづいた。
「俺たちの保護者として行ったから、
緊張やら言い知れぬ思いで楽しむことができなかった…」
俺の言ったことは的を得ていて、母はこくんとうなづいいた。
「母さんが子供の時には、
もちろんそんなところに行ったことがない」
母は悲しそうな顔をしてうなづいた。
「はぁー、かなりかわいそうに思えてしまったな…
これでもし、爺さんのあとを継いでいたらと思うと、
やるせない思いで一杯になるな…」
「…お父さん、ありがとう…」と言って母は涙を流し始めた。
「いや、真剣に俺を育ててくれたお礼だから。
明日でいい?」
俺が言うと、母は感無量になったようで、大声で泣き出し始めた。
―― 事件がありませんように… ―― と俺はマリア様にお願いしたことは言うまでもない。
さすがに父にも聞いておくべきだと思い、電話をかけるとすぐに出た。
今は家にいるはずだが、数種類の動物の鳴き声が聞こえた。
「同伴喫茶にいるんだ」と俺が言うと、『そうだ、頼まれたからな』と父は答えた。
ディックも人気者なので、客の反応がかなりいいようだ。
父に遊園地の話しをすると、『散歩がてらに…』と言って同意した。
特別な感情を感じなかったので、俺たちとともに行動をともにしたいだけだろう。
「ああそうだ。
ディックは連れて行っちゃダメだ。
さすがに壊れるかもしれないから」
『うっ!! あ、ああ、仕方ない、そうしよう…』と父はかなり残念な感情をあらわにした。
「充電器も必要になるし…」『わかったわかった…』と父はめんどくさそうに言ってから電話を切った。
「…ダメなの? 家族なのに…」と母はエンジェルを抱いて悲しそうな顔をして言った。
「不意に水にぬれたらほぼ確実に壊れる。
人が大勢いるから、踏みつけられるかも。
迷子も考えられるし、盗まれることも…」
俺が不安要素を述べると、母はどうすればいいのか悩み始めた。
「それに、絶叫ものの乗り物に乗る時、どうするんだよ…
落としてしまったら粉々だぞ…」
俺が言うと母は驚いた顔をして、「ごめんなさいごめんなさい!」と言ってエンジェルに謝った。
ということは、母は絶叫ものが好きなんだなと簡単に理解できた。
「明日はディックとエンジェルは留守番だ」と俺が言うと、母は、「ごめんねぇー…」と言ってエンジェルに謝っている。
エンジェルは母を慰めるようにほおずりをした。
もっとも、遊園地にペットを連れてくる者はそれほどいないはずだし、動物連れでは入れてもらえない遊園地も多いはずだ。
家に帰ってすぐに、俺はディックとエンジェルに魔法をかけた。
もちろん、父と母には見せていない。
二匹の目の前でタイミングよく、パー、グー、チョキと出すと、スリープモードになる。
もし、この家のセキュリティーキーを持っていない者だけがこのリビングに入ると動き出すようになっている。
もしくは指先で、「トン、トトトン」とリズミカルに軽く叩くと解除できる。
泥棒にでも入られて無抵抗で連れ去られるのも問題だからだ。
「熟睡モードだよ」と俺が言うと、母は心配になったようでエンジェルに寄り添って体を揺らし始めた。
「起きない… 死んじゃった…」と母は言って、涙を流し始めたが、色々と考えているようにも感じた。
「解く方法は教えないよ」と俺が言うと、「うー…」とうなって母は俺を上目使いで見た。
「おまえにもしもことがあったらずっとこのままかっ!!」と父が怒りながら言った。
完全に俺よりもディックの方を愛していると思ったが、それはそれでいいと思った。
「じゃ、一旦解いて、明日の朝にまたかける」と俺は言って、ふたりに向いてかがみ込み、後ろ手で解除した。
癒やしモードで動き始めた二匹を見て、「くっそぉー…」と父は言って悔しがっている。
「じゃ、おやすみ」と俺は言って二階に上がった。
みんなは母の社長モードに恐怖を抱いているので、しばらくの間は邪魔されず安眠できるはずだ。
部屋の扉を開けると、そのキレイどころと衛がいた。
「何の会議だよ…」と俺が言うと、「どこの遊園地かなぁーって…」と優華が笑顔で俺に聞いてきた。
意識しているのか、話し方はもう疑問系になっていない。
「秘密だし、これから少々やることがあるから、さっさと寝てくれ」
俺の言葉に、「えー…」とクレームの声を聞くことになったが、今日は素直に言うことを聞いてくれるようで、優華を先頭にしてゆっくりと立ち上がってから五人は部屋を出て行った。
俺は室内を見回した。
確実に何かを仕掛けられたと感じたからだ。
爽花は扉から一番遠い机の前に座っていた。
俺はその机の引き出しから、二種類のうちのひとつのプラスチック製の箱を取り出してボタンを押した。
LEDが激しく光っている。
この先にお目当てのものがある。
―― これはわからない… ―― と思い、椅子の座面の木枠の端にまったく同じ色の小さな箱が貼り付けてあった。
当然のように中央には小さな穴が空いているように見える。
これは超小型のピンホールカメラだ。
通常こういったものは100メートルほどの通信はカバーできるので、中継器はいらないと感じた。
そして向いている方向には扉にある。
あの夜、爽花はこの部屋に入ろうとしたが扉が開かなかった。
ドアのレバーを激しく上下する音に気づいて俺は目覚めたはずだ。
爽花はなんらかの仕掛けをしているのだろうと思い、それを知るために少々卑怯な手に出てきたようだ。
俺としては特に腹も立たない。
これも、日常生活で緊張や警戒を切らさないための大切な修練だと思っている。
さらには、まだあると俺は踏んでいる。
もうひとつの箱は、一般の盗聴、盗撮装置よりも優れたものを見つけ出す装置だ。
よって、一般品はこの範囲にないので見つけられない。
持っていた一般的な探知機と盗撮機を引き出しに入れて、もうひとつの探知機を手にとってボタンを押した。
ここではLEDは光っていないのだが、わずかに反応があるように見える。
そしてドアに向けるといきなり光った。
ここから見ていてそのようなものはどこにもない。
探知機の反応は強いのだが、まるでわからない。
―― 爽花、すげえ… ―― と俺は彼女を絶賛した。
だが、こういったものには確実に盲点がある。
俺は、廊下側の壁に耳を押し当てるようにして扉を見た。
扉の横にある柱に、5ミリほどの突起物がある。
だが、正面から見ても何もない。
よくよく近づいてみると、箱のようなものがある。
形が工夫されていて、照明の影ができない形になっている。
一旦はがして逆さにして貼ると、一目瞭然で何かが張り付いているように見える。
―― なかなかの強敵… ―― と思いながら、盗撮機をはがして机の中に入れた。
ほかにはないようで、俺はドアをロックした。
ロックはしたが音はしない。
これで外のレバーは動くが扉を開けることは不可能になった。
今日は安心して眠りにつこうと思いベッドに寝転んだが、肝心なことを忘れていたのですぐに起き上がり、傷だらけのモバイルノートを開いた。
明日行く遊園地は一般的にテーマパークと呼ばれる施設だ。
こういったところは金さえ積めば待ち時間なしで乗り物に乗れる便利なチケットを売っている。
土曜日なので確実に混雑しているはずなので、このシステムを利用することに決めていた。
翌日分ならインターネットで予約可能だ。
人数分のブルジョアパスを買って、携帯にも情報を送った。
精算も終わらせたので、これでチケットさえ受け取れば、時間を気にせずに施設を満喫できる。
母に存分に楽しんでもらおうと思うと、俺は楽しい気分になり、ベッドに転がった。
… … … … …
心地よい目覚めを感じて、身支度をしてリビングに行くと、爽花が床に座らされていた。
そして今にも泣きそうな顔をしている。
「盗撮機の不具合を調べようと、俺の部屋に忍び込もうとした」
俺が言うと、父はあきれた顔をして爽花を見た。
「見つけられるはずないもんっ!!」と爽花は自信満々に胸を張って言った。
「妙な形の盗撮機」と俺が言うと、爽花の表情は固まった。
「外だったら気づくだろうけど、室内は基本光源は一定だからな。
偶然でもない限りまず見破られない」
俺が言うと、「…はい、正解…」と言って爽花は肩を落とした。
「しかも二個も…」と俺が言うと父は、「警察に突き出そうか、この鑑識員…」と言って少し笑った。
「扉が開かないのでどういった仕組みなのか知りたかった。
そしてあわよくば乱入…」
「…うーん…」と爽花は言って、微笑を浮かべてて、オレから視線を外した。
「次は高周波を流して全部潰すぞ」
「はい、ごめんなさい…」と爽花は言ってから頭を下げた。
「ペナルティーは、日本警察署で待機」
俺が言うと爽花は、―― それはないっ!! ―― という顔をして俺を凝視した。
「その程度は覚悟していたはずだ。
だが、それを解除できる方法はある」
俺が言うとエリカたちは、―― 甘い… ―― と言った目を俺に向けた。
「社長の説教」「あら、お父様、お呼びかしら?」と母は間髪入れずに社長に変身した。
母としても説教が必要だと思ったのだろう。
「どうする、爽花…」と俺が言うと、爽花は怯えきった目を母に向けている。
「出入り禁止、とか?」と母は冷たく言ってから、「ふん!」と鼻を鳴らした。
「お父様に手間を取らせるとは言語道断っ!!
恥を知れっ!!!」
母の声はリビングの壁に反響して、窓のサッシが、『カタカタ』と音を鳴らした。
爽花は言葉は出なかったが涙は出るようで、母を見つめたまま号泣を始めた。
母は十秒前の母に戻って、「これくらいでいいよね?」と少し困った顔をして俺に言った。
「母さん、ありがとう」と俺が言うと、社長未体験だったエリカが恐ろしいものを見るようにして母を見て、「…怖えぇー…」とつぶやいた。
「聞いてはいたんだがな…」と父は苦笑いを浮かべながら言った。
「爺ちゃんに?」と俺が言うと、父は表情を変えずにうなづいた。
「本来の母さんはとんでもないく怖ええということで…」
俺は爽花の手を取って立たせると、驚いた顔をしていた。
そして、全員をリビングから追い出して、ディックとエンジェルの二匹を俺の背中で隠すようにしてスリープモードにした。
廊下に出ると、父と母がふたりしてドアの隙間から部屋をのぞいていたことに笑ってしまった。
テーマパークでは母は童心に返り、父は初体験を楽しんだ。
エリカはテーマーパークに訪れたことはあったが、頭に詰め込むことの方が多過ぎて、楽しんだことは一度もないそうだ。
彩夏、優華、爽花は、俺とともに何度も訪れているので、それほどには感慨深く思うことはないはずだったのだが、俺以外はかなりはしゃいでいると感じた。
しかし、彩夏たちにとって、ここはアトラクションを楽しむ場所ではない。
男女の語らいを楽しむ場所なのだ。
そしてわずかなスキンシップ。
さらにはこの三人に、エリカも参戦してきた。
だが、こういった時には少々困った救世主が現れるもので、父と母も参戦した来たのだ。
俺のとなり争いが激化しようとすると、さらに救世主は現れる。
俺の友の衛が、「はい、次はボクだよ」と言って、三度に一度は衛が俺のとなりに来て、俺をほっとさせてくれた。
―― やはり男友達は大切っ!! ―― と、今日ほど思ったことはない。
父たちは衛に説教されている気分になったようで、できる限り自分の欲を出さないようにしたようだ。
しかし、そう思い始めた頃にはもう夕暮れ近くになっていた。
夕食はグルメパラダイスですることにして、メールチェックをしようと携帯の電源を入れるととんでもない量の電話やメールが来ていた。
「エリカ」と俺が言うと、エリカもチェックをして腰が引けている。
エリカだけは警察官なので、確認を怠ることは厳禁だったのだが、その思いよりも今日のこの日が楽しかったのだろう。
エリカはすぐに電話をかけ始めた。
「…楽しかったんだから仕方ないじゃないぁーい…」とエリカは少し甘えたような声で言ったので、俺たちは大いに笑った。
俺は最後に来ていた五月からのメールを開き、事件の概要を知った。
居場所がわかっているのになぜ呼び出さなかったのかが不思議だが、きっと母の特殊能力である、『社長』が怖かったんだろうと思いながらメールを閉じた。
「こんな事件、あったよなぁー…」と俺はエリカたちに顔を向けた。
「あの時は子供だったからね。
優華ちゃんのお手柄」
エリカは優華に笑みを向けて言った。
優華ははにかんだ顔をして、俺とエリカを交互に見た。
都心で誘拐事件があった。
犯人は少々マヌケなやつで、現金受け渡しの直前に横断歩道でトラックにはねられて意識不明の重体となったようだ。
肝心の人質になった女の子の居場所がわからず、本庁では右往左往としているそうだ。
首相からの命令は下っていないのだが、待機が妥当と思い五月は俺たちに連絡していたということのようだ。
携帯でニュースを見ると、犯人はこのテーマパークの近くの道でトラックにはねられたらしい。
よって、この近辺も誘拐された女の子の捜索範囲に入っているはずだ。
「ここに監禁されているのかもな」と俺が言うと、誰もが疑いもせずにうなづいた。
このテーマパークなら隠す場所は大いにある。
そしてこの一帯は整備されていて、マンションはあるが戸建ては少ない。
廃工場などのようなものも当然ない。
倉庫はあるのだが、広い場所なので、誰かに気づかれることもあるはずなので、そこにはいないと俺は思いたかった。
遠くを見ると、やはり私服警官らしい者たちがうろうろとしている。
ここも捜索範囲に入っているようだ。
俺が刑事らしき者に近づくと、すぐに敬礼されたが、「降ろして」と俺は素早く言った。
「…さすがタクナリ君です…」と刑事らしき男は小さな声で言って俺をほめてくれた。
俺たちが事件を聞きつけてここにいるんだろうと思っているようだ。
捜索している女の子の身なりなどを聞いて、事件の概要をさらに聞いた。
ニュースで報道していた以上のことは、少女の名前、年齢、持ち物だけだった。
「携帯電話を持っているかもしれない。
だけど、GPSで検知できない」
俺が言うと、「はい、電源を切っているのかもしれません」と刑事は言った。
「いえ、電源を切っていても探知できるようになっているはずですか…」
俺が言うと、刑事は慌てて本部と連絡を取り始めた。
「爽花、携帯の電源、無理やり入れられないか?」
俺は爽花に聞いたが、「できないわよぉー…」とかなり困った顔をして俺に言った。
―― それはそうだろう… ―― と思い、しばし考えた。
「エントランスの係員には?」と俺が聞くと連絡を終えた刑事は、「勤務が入れ替えで…」とかなり困った顔をした。
「ここにいるとだけでもわかれば…
チケットの指紋照合でもするか」
俺が言うと、「行ってくるわ」と言って爽花はエントランスに向かって颯爽としたシルエットを見せ付けて走って行った。
「…指紋照合…
ああ、今の方が、山梨さん…」
刑事は言って少し驚いていた。
「彼女の携帯は少々特殊ですから。
犯人や女の子の指紋を入手可能です。
彼女は七つ道具を全て持っていますから。
指紋検出程度はお手の物ですよ」
俺が言うと、刑事はほっと胸をなでおろしている。
刑事の携帯に連絡が入って、女の子がこの場所にいることがほぼ判明した。
「このテーマーパーク内?」と俺が苦笑いを浮かべて言うと、「はあ、ここにいることだけは確かなようで…」と刑事は申し訳なさそうに言った。
俺は少々考えた。
犯人は女の子をこの施設のどこかに隠したはずだ。
だが、もしもその前に、俺たちを目撃していた場合、最高の隠し場所に気づいたのではないだろうか。
女の子は常に動いているのではないだろうかと思い、目を動かさずに今見えてる視界だけに集中した。
「…エリカの真後ろ…
モニュメントの裏…
…俺たちは追われていたようだ…」
俺がつぶやくように言うと、エリカは振り返りもせずに、一気に後方に向けて走った。
モニュメントの影から、「人質確保っ!!」とエリカの大声と同時に、刑事が連絡を始め、「タクナリ君が人質を発見しましたっ!!」とうれしそうに言った。
エリカに抱かれた女の子は俺のそばに来て、「あーあ、みつかっちゃったぁー…」とかわいらしく言って肩を落とした。
「知っているおじさんに、俺たちを見張るように言われたのかな?」と俺が聞くと、「私ね、家出したのっ!!」と女の子が笑顔で答えたので少し笑った。
「ここに来た時にね、おじさんがね、
日が暮れるまでにタクナリ君に見つからなかったら、
タクナリ君がごほうびくれるって…」
女の子は言って、沈みかけている太陽を恨めしそうにして見ている。
「そうか…
あ、ちょっと待っててね」
俺は言ってから爽花に事件は解決したと告げた。
『もう、張り切ってたのにぃー…』と言って電話は切れた。
「もう少しだけ遊んで帰ろうか」と俺が言うと、「うんっ!!」と女の子は元気な声で答えた。
乗り物にふたつだけ乗ると、女の子は疲れたのか眠ってしまった。
連絡を受けた保護者が女の子を引き取りにやってきた。
父親と名刺交換をすると、ライバル会社だったので、お互い苦笑いを浮かべあった。
女の子の家出の原因は成績が落ちたことにあるようだ。
さらにその成績が落ちた原因は、彩夏と母にある。
女の子はふたりの大ファンになって、ほんの端役なのに全てのドラマを見ているそうだ。
ふたりはサインを書いて母親に手渡した。
父親は、「さすが日本警察署ですね」と笑顔で言ってくれた。
日本警察署に戻ると、五月の苦笑いが出迎えてくれた。
「犯人に利用されました」と俺が言うと、五月は大声で笑った。
「どう転んでも無事に保護できたんだからいいじゃないか」
五月が言うと、それはその通りだと思って、俺は笑みを浮かべた。
~ ~ ~ ~ ~
第二の冒険旅行は、俺が中学に上がる前の春休みだった。
「リンゴのタルトが食べたい!
リンゴジュース、アップルパイ…」
彩夏がリンゴのお菓子などを並べ始めたので、今回は春まだ遠い青森に行くことに決まった。
さらに今回は父と母も同行することになったが、行動は別としてくれた。
そして千代にはついに足長小父さんが現れた。
もっともその正体は父なのだが、千代の祖父母にはきちんと説明して、絶対に秘密だとして、援助を始めたようだ。
その切欠は夏の冒険旅行の時で、俺たちを探す千代の姿を父が見つけて、いじらしく思い、胸が締め付けられたそうだ。
父が千代を気に入っているのは、やはり幼い時のこういった姿を見ているからだ。
この時に父は母とともに千代を百貨店に連れて行ったそうだ。
子供が男子から女子に変わったのだが、少々新鮮だったと父は語ってくれた。
よって、今回の青森旅行は千代も同行して、五人で冒険するはずだったのだが、やはり彩夏は繁華街にあるケーキ屋や和菓子屋の体験お菓子作りのはしごをすることにしたようで、今回は四人で冒険することになった。
冒険と言ってもそれほどたいしたことではない。
この青森の歴史を探ろうという、社会見学ともいえるありふれた冒険だ。
しかし、知らない街に行って子供だけで活動することは勇気がいる。
もっとも、子供時代の俺は今の俺よりもしっかりしていたのではないかと、優華が書いた洗脳の書では読み解くことができる。
やはり青森といえば、まずはリンゴの名産地。
そして青函トンネル。
さらには恐山に八甲田山。
上げると切りがないほどの観光名所ではある。
歴史を紐解けば、武将が青森県を東西に二分し、江戸時代の終わりには新撰組が駆け抜けた場所でもある。
郷土歴史館には、様々な興味を引くものがある。
やはり一番は遮光器土偶だろう。
どこからどう見ても、宇宙服を着た人としか思えないそのフォルムは、まだまだ子供だった俺の脳裏に焼きついたままだ。
遠くでサイレンの音が聞こえる。
何か事件があったのだろうが、この時のオレたちは何も気にしなかった。
「あ、記帳…」と俺が言うと、「僕たちは書いたよ」と美少女の質が上がった男の爽太郎が言ったので、俺だけが記帳所に行った。
苗字だけを書き終えた時に、「…誘拐…」と事務所の方から声が聞こえた。
きっと、今のパトカーのサイレンの音だろうと思い、まだ書き終えていなかったのだが、筆ペンにキャップをして、みんなの下に戻った。
博物館内は、子供にとってはおもちゃ箱だ。
できれば触れ回りたいところだがさすがにそれは無理だ。
しばらく観覧してから、みんなでトイレに行くことになり、妙に男女のトイレが離れている、日本庭園風の整備されている庭に下りた。
庭と言っても館内だ。
しかし、蚊がいるのか妙な音が聞こえるが、あまり気にせずにトイレに行った。
トイレから出ると、優華が耳を塞いでいた。
「すっごくうるさい!」と優華は叫んだ。
俺も耳に集中すると、確かに聞こえるが、それはほんのかすかな音で、優華ほどの苦痛に似たようなものはない。
「あーひょっとしてモスキート音かなぁー…
蚊を寄せ付けないってやつ…」
冒険小説で読んだことがあったので、俺はすぐに閃いた。
「だけど、真冬に近いのに…」と爽太郎が言った。
「うーん…」と少し考えて俺は、音が強くなっている方向に向かって歩いた。
そこにはコンクリートで底を固めてある大きな水がめがある。
「あー、この中に装置が入ってるんじゃないのかなぁー…」
俺が言うと、爽太郎と千代はオレに寄り添ってきた。
「ひとり、イヤだもんっ!!」と優華は言ったが、耳が痛くてここに近づけないようだ。
「ちょっとだけ待っててっ!」と俺が優華に言うと、ふぐのようにホホを膨らませた。
水がめのふたを少し持ち上げると、「んんっ!」といううなり声が聞こえた。
俺はふたを地面に降ろして、拘束されていた女子を爽太郎と千代と協力して水がめの外に出した。
千代は走って係員を呼びに行った。
優華がもう我慢の限界のようで、係員が女子の縄などを解いている間に、俺たちは郷土歴史館を出た。
少し歩いていると、パトカーが俺たちとすれ違い、数名の警官が博物館に入って行った。
「誘拐されてた子のようだね」と俺はここで始めて言った。
千代たち三人は俺に顔を向けて神妙そうにしてうなづいた。
・ ・ ・ ・ ・
この日の夜に、ひとりの男子と三人の女子は相談の上、俺にキスをすることにしたらしい。
将来、誰が俺のお嫁さんになるのかを誓うためのキスだったと、エリカがホホを朱に染めながら教えてくれた。
「エリカもしたんだ」「付き合いよ」と言ってエリカは鼻白んだ。
優華が俺の鼻をつまんだが起きる気配がなかったようで、優華がキスをする順番を決めた。
一番は千代で、二番は優華。
三番は彩夏で、最後が爽太郎。
もっとも、爽太郎は男だったので、本来はするつもりはなかったようだが、彩夏と優華に言われて俺にキスをしたらしい。
この時の様子をエリカに聞いたのだが、「胸がドキドキしてて、ほとんど覚えてない…」という、女の子らしい答えが返って来た。
本来ならば優華が率先して一番にキスしたはずなのだが、どうすればいいのかよくわからなかったようで、まずは千代に手本を見せてもらおうと思ったそうだ。
俺はこの幸せの時をまったく知ることなく今日まで過ごしてきた悔しさを苦笑いに変えた。
・ ・ ・ ・ ・
青森の事件はまだ終っていなかった。
人質は救出したのだが、犯人は身代金を奪って逃走中だった。
この情報をニュースで知った父は、二日目の自由行動を許してくれなかった。
俺たちは父と母の引率で、まずは彩夏の菓子造りを少し見学してから、大通りを歩き始めた。
この辺りには警官はいなかった。
少し遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。
俺たちは完成したばかりのアーケードのある商店街をウィンドウショッピングをしながら歩いていた。
「…どけっ!!…」とずいぶん後方から叫び声が聞こえた。
数名が跳ね飛ばされて、道路に倒れたように見えた。
ひどいやつもいるもんだと思って、俺は憤慨した。
「みんな、下がりなさい」と父が素早く言ったので、俺たちは近くの店の中に避難した。
「…てぇー!!…」とさらに後方から声が聞こえた。
警官が追いかけてきていると感じた。
すると千代が、駆け抜けようとした大きなカバンを持った男のひざの上に両腕でタックルした。
俺もすかさず千代のマネをすると、男は道路に倒れ、「放せっ!!」と叫んだ。
カバンのおかげで、男に怪我はないようだが、俺と千代は手の甲をすりむいたはずだ。
放せと言われて放すわけがなく、どたばたとやってきた私服警官が来てすぐに、俺と千代は男の足を放した。
「あまり無茶をするんじゃない…」と父はまず千代に困った顔を向けて言った。
千代は反省などしていないのか、笑顔で父を見上げている。
「まあ、いいけど…」と父のさらに困った顔が俺は妙におかしくなって少し笑った。
千代は口角を上げて笑った。
この頃の千代は基本、声を発することはなかった。
父は千代の頭をなでてから、「いいフォローだ」と言って俺の頭もなでてくれた。
千代としては叱られてもほめられても笑っていたはずだと今の俺は思う。
あの頃の千代は、父の視線を感じることを好んでいたように思っている。
「さて、少々騒がしくなりそうだから行こうか」と父は言って、人の流れに逆らって俺たちの前を歩いた。
「…どなたが…」と少し後方で声がしたが、父は振り返ることはなかった。
俺たちは、人があまりいなくなった商店街をゆっくりと歩き始めた。
~ ~ ~ ~ ~
この当事の優華の気持ちは、『だただた辛かった』と人質救出の場面ではこう書いてある。
しかし、商店街での一件は、『千代ちゃんずるい!』とある。
現在の優華の考察としては、『千代ちゃんがうらやましかった。拓ちゃんもおじさんも取られてしまいそう』と活発な千代をうらやましく思う気持ちがあるようだ。
ちなみに、犯人逮捕劇を彩夏が知らなかった理由は簡単で、母とともに本気でウィンドウショッピングをしていたせいだ。
このふたりの仲がいいのは、この当事からだったのかもしれない。
「なんていうか… 幸運?」と石坂は言って、大声で笑った。
確かに石坂の言った通りで、全てが幸運だった。
「全貌を聞かされると心地いいな」と五月が笑みを浮かべて言った。
五月は神足刑事から、本人の体験したことしか聞いていないはずだ。
「誘拐事件は松崎としかわからなかった、
少年タクナリ君たちが全て解決した。
神足が自分の手柄のように話すのもうなづけるな」
五月が言うと石坂が俺をにらんできた。
「組、潰しに行くぞっ!!」と鬼の形相の石坂が言った。
「事件もないのに?」と俺が聞くと石坂は情けなさそうな顔を俺に見せた。
「誰も欠けることなく、タクナリ君一筋だったことが、
素晴らしい話だったな」
五月が少し冷やかすような目で俺を見た。
「エリカは、やはりショックで…」と石坂は表情を一変させてマジメな顔になっている。
千代の父を殺したのが母。
そして逮捕されてその母は獄中で死亡。
祖父母という肉親がいたことで、ひとりっきりにならなかったことだけが、当事の千代の幸運。
そして足長おじさんが現れたと同時に、一気に正常化した。
「そのようですね。
話していてやっと思い出しました。
あの時、俺たちが出会って初めて
笑みを見せてくれたと思うんです。
ごく普通に話し始めたのは中学に入ってからでした。
もっとも、いつも怒っていましたけど」
俺が言うと石坂は、「手加減してやったらよかったんじゃねえの?」と言って少し笑った。
―― その通りかもなぁー… ―― と俺は感慨深く思った。
「だが、世界一足の速い夫婦になれたのは、
手加減しなかったからだろ?」
五月が言うと、俺も石坂もその意見に賛成した。
すると、五月の表情が一瞬曇った。
―― ああ、来たか… ―― と俺は思ったが、五月の視線がほんの少しだけ右に移動してゆっくりと元に戻った。
そして少しだけ笑みを浮かべた。
「家出じゃなくてよかったです。
しかもわが社のライバル会社の社員で部長ですからね。
さすがにここに招くわけにもいかない」
俺が言うと石坂は何の話だかわからなかったようだが、五月は少し驚いてから苦笑いを浮かべた。
「…おまえ、エリカよりも異常だ…」と五月は言ってにやりと笑った。
「何の話なんだよっ!!」と石坂が怒り始めたので、五月が極力来店客を見ないで説明した。
もし、安全な人質だった女の子と目があうと、またここに来てしまうからだ。
石坂は丸い目をさらに丸くして、「…目の動きだけで…」と言ってつぶやいた。
「タイムリーなことだったからですよ。
それ以外で五月さんが何も言わず、
行動を起こさないはずがないからです。
五月さんとしても、ここを小学校にしたくはないでしょうから」
俺が言うと五月は苦笑いを浮かべた。
石坂はあきれた顔をして、「…子供の時からそんなんだったの?」と俺を見て言った。
「自分のことはよくわかりませんけど、
優華たちの様子を見る限りではそうだったのかもしれませんね。
俺が今のような態度をとっても驚きもしませんから。
しいて言えば、逆に喜びます」
俺が言うと石坂は、「ふー…」と長いため息をついてうなだれた。
「…阿吽を身につけろって言われたんだがな…」と五月はかなり困った顔をして俺を見ている。
これは父からの半命令のようなものだろう。
「それなりに同じ時間を過ごさないと無理です。
しかもそれ以上に語り合う。
相手の気持ちをしっかりと知ることで、
自然に得られると俺は思っています」
「ああ、そうだ、それだっ!!」と言って、石坂は勢いをつけて立ち上がった。
「エリカのやつ、いきなり後ろに走ったと聞いたぞっ!!」と石坂は俺にがなりながら聞いてきた。
「遊園地の人質の確保?」と俺が言うと、「ああ、すまん、焦っていた…」と言って、苦笑いを浮かべ、右手のひらを後頭部に当てて小さく頭を下げた。
「俺の呟きをきっちりと聞いて信じて行動したからですよ。
さらに、通行人が途切れた瞬間だったので都合がよかったんです」
俺が言うと、「刑事10人分?」と五月が石坂を見て言った。
「こんなに優秀な刑事はまずいねえ。
いたとしても雲の上に登ってる。
それじゃあ、いけねえんだよなぁー…」
石坂はまた溜め気をついてから、椅子に深々と腰を落とした。
「ええ、俺もそう思うのです。
出世してもロクなことはないんですよ。
石坂さんも五月さんも思い知っているはずです。
特に今の五月さんはね」
俺が言うと、「ああ、そうだった! 今の俺は一刑事なんだ!」と言って、石坂は喜んでいる。
「石坂さん、時々代わります?」と五月は言ったが、「俺はキャリアじゃねえからな」と石坂はごく自然な笑みを浮かべながら言った。
( 第十三話 第二の冒険旅行事件 おわり )
( 第十四話 パワーアップ につづく)