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第九話 アスリートラブル

アスリートラブル





優華の経営するグルメパラダイスの透明な予約席は、俺のハーレムとなったが、俺はそんなことは望んではいない。


俺はこの先、ここでの生活を満足したあと、俺の妻を決められないと感じた。


みんなは誰もが魅力的な女性たちだ。


妹と思う優華でさえ、俺はありだと思っている。


優華の仕事をしている姿はまさにプロで、甘さのひと欠片もない。


その分俺に対して甘えたくもなるのだろう。


父と母の関係がまさにそうなのだが、母は生まれもってのお嬢様気質、そして帝王学の習得という試練を短期間で乗り越えて生きてきた。


さらには言い知れぬ退屈も味わった。


重ねた年月と、優華とは違う道を歩んできたので、優華とは違う大きさを持っている。


さらには父は、俺にとっては神にも等しい。


よって俺がふたりの子供である最後のわがままをその時に使おうと思って、嫌がる母を強引にテレビから遠ざけ、父母とひざをつき合わせた。


俺たちの様子を、彩夏たちは固唾を呑んで見守っている。


当然、話の内容を全て聞かせている。


「参考に聞いておきたいんだけど、

 今の段階で俺の妻には誰になってもらいたいって思ってるんだ?」


俺が言うと父は、「できれば言いたくない」と言った。


「じゃ、父さんが気に入った人がいるということでいいんだよね?」


俺が言うと父はかなり困った顔をして、一瞬だけ、俺から見て右に視線をずらした。


動いていないと仮定して、その視線の先には千代がいるはずだ。


父は赤い糸も大きな要因だが、きっと千代がかわいいのだろうと感じた。


「わかった、じゃあ母さん」と俺が言うと、母は緊張感からか、座ったままロボットダンスを始めたので、俺たちは大いに笑い転げた。


落ち着いた母は、「私はね、お父さんとは違う意見があるの」と父の呼び名を、「お父さん」と言った。


いつもは名前で呼ぶので、今は俺の母と強く意識してくれていることをうれしく思った。


「やっぱり、先生ね」と母は言って、俺の頭の上を見た。


そこには彩夏がいるはずだ。


「まだ数日間だけど、先生だけど娘といるような気もしている。

 そして今まで見えていなかったものがよく見えた。

 母さんは若い時に帝王学を学んでいるから、

 目は曇っていないと俺は思う」


俺が言うと、母はまたロボットダンスを始めて俺を愉快な気分にしてくれた。


「できれば統一した意見を聞きたかったんだけどね。

 でも、今はそれでいいよ。

 父さん、母さん、ありがとう」


俺はふたりに丁寧に頭を下げた。


俺のうしろにいる四人は、これからは父母も意識して付き合わなければならないと思ったはずだ。


よって、俺の両親へのチャージも激しくなるはずだ。


俺はその姿を見て、考えることが可能になる。


もちろん俺が今考えていることに他意はないが、俺にわかりやすく俺の妻を決めさせてもらえると思っておくことにした。


「やっぱり家同士のコミュニケーションも大切だと思った。

 ここではないどこか別の場所で、食事会をしてもいいかなぁー…

 少し不公平になるが、

 さすがに総理大臣を呼びつけるわけにもいかないからね。

 総理大臣が招待してくれる分には構わないだろう」


俺が言うと、彩夏は喜びの顔を俺に見せたが、ほかの三人はかなり困った顔をしている。


「さらには、その親たちの人気投票も考慮に入れようと思う。

 もちろん、自分の娘に俺の嫁になってもらいたいんだろうが、

 できれば結婚して欲しくないという意思も大いにあると思うんだ。

 だから、次点が誰なのかも俺はこっそりと聞いておこうと思う。

 そうすれば、きっと誰か一人だけが飛びぬけるような気がするね。

 だけど、一回や二回じゃ決めないから。

 みんなから見てもわかりやすい反応を見せてくれるまで、

 食事会を開催していいと思っているんだ」


「多くの情報を取り入れすぎると…」と父が言ったが、「いや、愚問だったな」とさらに言って苦笑いを浮かべた。


「俺が一番困るのは、一直線に並ばれることだけなんだ。

 さらには俺が決めるかもしれないけど、

 父母の意見を大いに取り入れることにするはずだ。

 さらには、俺の未来の妻が、ここにいない可能性もあるよな。

 未来の話だから、今はまだ全てが流動的だ」


俺が言うとみんなは口を開きたいのだが、自分の欲をさらけ出すだけになるので、誰も口を開かない。


「だけど俺としては、できれば四人から決めたいんだよ。

 個人的なほとんどのことを知っている四人だから、

 離婚することはないと思うからな」


「じゃあ、やっぱり、性的交渉が重要?」と少し冷たい顔の爽花が言った。


「そんなもの、お互いが気づかい合えば、問題ないと思うんだけど?」


俺が素早く言うと爽花は少し悔しがっているように見えた。


少々無謀なことをやろうとしていたのではないかと感じた。


「曲がった考えは表情に出るぞ、なあ千代」


俺が千代を見ると一瞬驚いただけで、すぐに爽花を見た。


「やけになっちゃいけないわね。

 私が爽花先輩の立場だったら、気が引けて全部話してしまいそう。

 もうその時点で、私は身を引いてしまうかもしれない。

 何のわだかまりもなく選んでもらおうと思ったら、

 不純な考えを持って行動しない方がいいと思う」


穏やかな言葉だが、誰にでもわかる厳しい言葉を選んで千代は言った。


爽花はさらに悔しく思ったようだが、すぐに体の力を抜いて、「焦りすぎてたわ…」と言って俺に頭を下げた。



俺は素早く時計を見た。


「さあ時間だ。

 みんな、また明日な」


俺は言ってここから外を見回した。


やはり数名がここを見張っているようだ。


「家からここに来る地下道が欲しいな…

 あ、無茶なことはしないでくれよ」


俺が言うと、彩夏だけがその考えを持っていたようで、恥ずかしそうな顔をした。


だが、やろうとしてくれた想いはありがたく受け取った。



「優華、外の安心カメラの様子を見たい」と俺が言うと、優華はすぐに多機能リモコンを出して、テレビに現在の外の様子を映し出した。


「なんかここ、秘密基地のようでやっぱり好きだ」


俺が言うと、みんなは少しだけ笑った。


「なるほどな。

 立体駐車場からこっそりと抜け出そう」


さすがに駐車場出口で見張っている気配は感じられない。


「あ、まずいかな…」と俺が言うと優華は、今度は立体駐車場の様子を映し出した。


すると、見覚えのあるリムジンが駐車していた。


極力カメラを意識して映らないようにしているようだが、カメラの首を振れば一目瞭然だ。


さらにアップにすると、制服警官一人の姿を確認できた。


真剣な顔をして前を向いている。


しばらく見ていたが、話などはしていないようだ。


「伯母さん、待機中のようだな」と俺が言うと、「やっぱり、拓ちゃん、すごいのっ?!」と優華は言ってもろ手を上げた。


「親の出番だ」と言って父は少し笑って携帯電話を手にした。


そして猛然たる勢いで警視総監に抗議すると、すぐにリムジンは移動を初めて、見張っていた者たちも潮が引くようにして消えた。



「一番有利なのは彩夏だな。

 父ちゃんに頼めばなんとでもなる。

 警視総監がストーカー紛いの行為をしていると

 テレビで話すだけで解決」


俺が言うと、彩夏は薄笑みを浮かべた。


「それ、使いたいところだけどね。

 公務員として縛っておいた方がまだマシのような気がするわ。

 クビにすれば権力はなくなるけど、

 面倒なことをしちゃうって思うから」


彩夏が言うと、優華がひどく落ち込んだ。


「あの人は優華の親族だけど、

 俺はおまえの父ちゃんと母ちゃんだけを見ているから問題ないぞ」


俺が言うと、優華は力なく笑った。


「だけど、なんだろうな…

 …マリア様…」


俺は言ってから小さなマリア像を出した。


「信じなくなって、婆さんになった」


俺の言葉は衝撃を与えたようで、爽花だけが激しく反応した。


そして小さなマリア像を出して、その手のひらで柔らかく握り締めた。


爽花はまた美しい顔を取り戻した。


「爽花は大丈夫だ」と俺が言うと、「うん、身をもって感じたわ…」と爽花は柔らかな笑みを浮かべた。


「きっとね、拓ちゃんの言った通りだって思うの。

 まさに一石二鳥…」


爽花は、簡単な言葉でわかりやすく述べた。


俺と会い、警察に引き入れること。


マリア像の秘密を聞き出すこと。


この二点を、菖蒲は欲しているはずだと感じた。



俺は堂々と店を出て、誰にも邪魔されることなく家に入った。


だが、例のピリピリした感覚を感じて、すぐに五月のホットラインに電話をした。


「俺の家に侵入者です。

 すぐに着て欲しいんですけど…」


『すぐに外に出て!

 確保よりも身の安全だっ!!』


五月の熱い言葉を聞いたが、「五月さんの手下じゃないでしょうね」と俺が言うと、「俺に指示が来なくなった」と短く言った。


するともうサイレンが聞こえた。


警察署とはまさに目と鼻の先なので、これは当然のことだ。


二階から物音が聞こえた。


だが部屋を出る気配はない。


よって俺は外に出て、玄関の鍵ふたつをかけた。


そして二階を観察していると、俺の部屋の窓が素早く開いて、何かを抱えているように見えた。


「泥棒だぁ―――っ!!!」と俺はあらん限りの声を上げた。


すると賊はかなり驚いたようで、足を滑らせたように見えた。


賊は体のバランスを崩して、小屋根を滑って、腰から庭に落ちた。


俺のパソコンも同じ運命をたどったので、もうダメだろうと感じた。



下は土なのだが少々固いので、賊は立ち上がれないはずだ。


すぐにパトカーが到着して、警官四名が犯人を確保した。


「買ったばかりのパソコン…」と俺はついついつぶやいてしまった。


まさに、俺に対して、『勉強すんな』といわんばかりだと感じた。



賊の顔は見知らぬ女だった。


女盗賊はあまり聞かないなとふと思った。


またパトカーが到着して、五月が素早く降りてきた。


オレに寄り添ってから、ほっとした顔を俺に向けた。


そして賊の女を見て、「警官だ…」と言って肩を落とした。


菖蒲の命令で動いていることはほぼ確定的だった。



赤い回転灯に気づいたのか、父母が走って家に戻ってきた。


千代がその父母を抜き、オレたちに寄り添って賊の女を見た。


女も千代を見ていたが、その瞳はわずかな恐れを持っているように感じた。


「香坂マリカ。

 警視庁捜査二課員ね。

 キャリアのエリートになる予定。

 二課は、泥棒までやっちゃうのね。

 ほんと、あきれたわ…」


千代が言うと、マリカは体を震わせて視線を外した。


「依頼主は警視庁捜査三課課長」


俺はほとんど根拠なく言ったのだが、どうやら当たりのようで、マリカは驚いた顔を俺に向けている。


「あ、大いにあるわね。

 セキュリティーを破ったわけじゃなくて普通に開錠したのよね?

 そして、家に入りこんで閉錠した。

 もしセキュリティーが破られていたとしたら、

 そろそろ警備会社が来ていてもおかしくないからね」


千代はさすがの洞察力を発揮した。


「警察には、あるべき人がその地位についてもらいたいと、

 切実に思うね」


俺が言うと、千代は瞳を閉じて小さくうなづいた。


マリカは懇願の顔をオレたちに向けている。


まるで、見逃して欲しいとでも言いたいような顔つきだ。


「何か望みがあるの?」と俺が聞くと、「警察、クビになったら雇ってくださいっ!」とマリカが言った。


俺は千代と顔を見合わせて笑った。


「前例を造るととんでもねえことになるから、絶対に雇わねえっ!!」


俺が大声で叫ぶと、七名の警察官が俺を一斉に見て、『それはない!』といった顔をしている。


「俺の友は自分で選ぶ。

 アピールは毒でしかないと、みんなに言いふらしておいてくれ」


俺の言葉に、「はいっ! タクナリ君っ!!」と警官たちは大声で答えた。


「えー、そんなぁー…」とマリカが言った。


「盗賊のボスが、捕まっても俺が雇うとでも言ったんだよな?」


俺が言うと、マリカは少々子供じみた目を俺に向けてうなづいた。


「悪党の言ったことを信用するおまえが悪い」


俺が言うと、警官たちから拍手をもらった。


マリカは当然、―― それはその通り… ―― とでも思ったようで、深くうなだれた。


「俺の家で何をしたっ!!」と俺が叫ぶと、マリカはねぞべったままさらに地面に体を押し付けるようにしてから、全てを自白した。


まずは盗聴器の設置。


そして俺の部屋限定の物色。


当然パソコンは持ち去ってしかるべきものだ。


さらには、引き出しから俺の下着などに触れ回り、俺のスーツを着て楽しんだようだ。


「おまえ、精神異常者で無罪になるかもな…

 俺としては極刑にしてもらいたいんだがな。

 気にくわねえやつを仲間にするはずがねえっ!!」


俺が叫ぶと、マリカはついに泣き叫び始めた。



すると、鑑識班が到着した。


歩き始めて五月に近づいてきた鑑識課員たちの、「…タクナリ君…」「…生タクナリ君…」という呟きの声に、俺は少し笑ってしまった。


だが、中ほどにいる鑑識課員は俺に目を向けない。


思いつめているような真剣な顔をして前を向いているだけだ。


俺の視線を追い、千代が素早くその者に近づき腹に拳を当てた。


「風穴、開けちゃうけど?」と千代は言って脅した。


「おまえっ!!」と言って五月が千代と鑑識課員に走り寄って行った。


自分の部下にも悪の手先がいると、五月と俺の関係に溝ができることは必至だ。


よって五月としては当然必死になる。


「本店の宮城鑑識課長に命令されましたっ!!」と課員は簡単にはきはきと白状した。


千代は慌てて携帯電話を出してかけ始めた。


相手は上司である砂山刑事部長だろう。


「一番下っ端は辛いよね。

 上役に命令されると断れない。

 しかも上役はたくさんいる。

 だけど…

 あなたはほかにも目論見があるはずだっ!!」


俺が怒鳴り声を上げると、鑑識課員は驚きの顔を俺に向けた。


―― これはたぶん趣味… ―― と思った。


妙に制服がごわごわしているように感じる。


懐に私物でも入れているのではないかと感じたのだ。


「こっちの方が犯罪だとは思わなかったのかっ!!

 恥を知れっ!!」


俺が怒鳴り声を上げると、鑑識課員はうなだれた。


「…こっちって… ああ、まさか…」と五月はぼう然とした顔を俺に向けた。


「もしここで止められなかったら、

 命令のものと自分の趣味のものでも置いていこうと

 思ったんじゃないんですか?

 狙いは、案外千代だったのかもしれません」


俺は言い終わる前に、千代の両肩を抑えていた。


「風穴決定っ!!」と千代は暴れたが、さすがに動けないようでじたばたしているだけだ。



ほかの鑑識課員がボディーチェックをして、それらしき機器を取り出した。


ふたつあり、ひとつはカメラつきのものだ。


塀の外でも受信機を持ち込めば盗撮まで可能となるはずだ。


「警察、怖ええ…」と俺が言うと、誰もがうなだれた。


「俺は誰を信じればいいんだっ!!」と俺は叫んで、問題定義だけをして、五月に許可を得て、俺の心安らぐ場所に移動した。



「今までの生活場所は変えないけど、ここで勉強する」と俺は宣言して、ここに置いてあるパソコンのモニターを開いた。


「壊れただろうなぁー…」と俺が言うと、「買ったばかりなのにぃー?」と優華が言って目じりを下げた。


「壊れてないとしても、多分傷だらけ。

 証拠品だからね、持ってこられなかった」


「もうね、妹でいいかなぁーて?」と優華は言って、俺の腕をとってもてあそび始めた。


「あのなぁー、おまえ魂胆があるだろ…」


俺が言うと優華は、「あ、ばれちゃった?」と言って立ち上がって、俺に手を振って厨房に向かって走って行った。


「どういうこと?」と爽花が不思議そうな顔をして俺を見た。


「俺が結婚できない作戦…

 オレからずっと離れない。

 よって結婚できないも同然…」


俺が言うと、「飽きれたぁー…」と彩夏が言って、走っている優華の後姿を見ている。



「だが伯母さんにも困ったもんだ…」と俺は思い、ほとほと困った。


だがここで考え直そうと思った。


本当に俺を警察官にしようと思っているのだろうか。


そして俺の肉体をももてあそぼうとしているのだろうか。


そして、小さなマリア像…


俺は内ポケットからマリア像を出した。


『違う』とマリア像が言ったような気がした。


では何が違うのだろうか。


俺は確認していないことがあると思い、席を立ち厨房に行った。



優華は料理を運んでいて、俺に気づき笑顔を俺に向けてフロアに出て行った。


俺は広い厨房を見渡し、優華の父、佐々木正造を探した。


今は休憩中なのだろうかここにはいない。



店員用の休憩所なども充実していて、店のフロアと変わりなくキレイだ。


ガラス張りの一室のソファーに正造がいた。


俺が妙なところに現れたと思って少し驚いたようだが、すぐに笑顔に変えた。


「叔父さん、お疲れ様」


「いや、今日は暇な方だよ。

 おっと、優華に叱られる…」


かなり厳しい社員教育をしているんだろうと思い、優華が頼りなげな妹でないという証拠を見せてもらったような気がした。


「ここの土地だけど…」と俺が聞くと、正造は苦笑いを浮かべた。


「父の財産だよ。

 拓ちゃんが自由にしてくれていいんだ。

 北と東の大通りの向こうの土地も、今は優華のものだから」


「あはは、すげえ金持ちだったんだ」と俺は言って、正造の隣に座った。


「菖蒲さんは叔父さんの妹でいいの?」と俺は聞いた。


正造はどう見ても50をかなり超えていると感じたからだ。


さらには生前贈与として、膨大な土地を優華に引き継がせている。


超資産家の長男が正造のはずだ。


「ああ、そうだが…」と正造は少し困った顔をした。


もちろん、菖蒲の所業を優華に聞いていて知っているということもあるのだろうが、ほかにも何かあるはずだと俺は感じている。


「叔父さんと優華は血のつながりはある」


俺の質問は正造にショックを与えたようだ。



俺は正造から全てを聞き込み、知った全てを正造に託された。


菖蒲は俺のこの行動を恐れていたはずだと感じた。


それは血のつながった者への唯一のやさしさだろうと感じたのだ。



厨房を通り抜け店内に出ると、俺の姿を目ざとく彩夏が見つけて、また両腕を振り始めた。


「彩夏は仕事しなくていいの?」と俺が聞くと、何かを感じたようで、彩夏は爽花を連れて厨房に向かった。


残ったのは優華ただひとりだ。


「おまえ、菖蒲伯母さんのことどう思ってるんだ?」と俺が聞くと、かなり不快そうな顔をして俺を見た。


「おまえと菖蒲さんは血のつながりがある。

 おまえとお父さんもそうだ」


俺が言うと、優華は少しほうけた顔をして首を縦に振った。


それは当然だといわんばかりで、なんのためらいも動揺もなく自然にうなづいた。


「おまえ、お母さんのことはどう思ってるんだ?」


俺が聞くと、優華は困り顔を見せた。


「あのね、小さい頃ね、よくお嬢様って言われた。

 でもね、それは小学校に上がるまでにはなくなったんだけどね。

 怖がられてるって感じがすっごくイヤなの。

 でも最近ね、普通かなぁーって思ってるんだけど…」


優華が語り終わって俺はうなづいた。


「まあ普通ここで気づくよな。

 本当のお母さんではない」


優華は驚きもせずに首を縦に振った。


「それは正解だ」と俺がうと、「やっぱり…」と言って優華は納得したようだ。


「おまえの父ちゃんも実の父ちゃんではない」


さすがにこの言葉は破壊力があったようで、優華はぼう然とした。


だが、血のつながりはあるということを思い出して、「お父さんって伯父さん?」と優華は聞いてきた。


「いや、兄ちゃん」と俺がいうと優華は、「えっ?!」と驚きの声を上げてから、「えええええええっ?!」と叫んだ。


「よかったな、俺以外にも兄ちゃんができたぞっ!!」と俺が言うと優華はかなり困った顔を俺に向けた。


「叔父さんに聞いたから間違いないんだよ。

 となるとどうなるんだろうな?

 叔父さんとおまえ、そして菖蒲さんは血のつながりがある」


優華は首に何かがまとい付いたものを振りほどくように首を横に振った。


「…私と菖蒲さんって、姉妹?」と優華はようやく結論にたどりついた。


「そういうこと。

 29も離れてるけど不可能じゃあねえ。

 しかも、叔父さんと菖蒲さんの母親は別だ。

 おまえの本当の父さんはお妾さんをたくさん持っていたようだからな。

 本妻のおまえの母ちゃんは、12才で菖蒲さんを生んでいる。

 そして、41でおまえを産んだ。

 おまえが5才の時、ばあちゃんの葬式を出したが、

 おまえのお母さんだったんだよ」


俺はしばらく待つことにした。


優華は今の自分自身の状況を整理し始めたからだ。


「だったら余計に許せないわよっ!!」と優華は真の優華の言葉で叫んだ。


「ここにも家族ならではの感情があるんだよ」


俺が穏やかに言うと、優華は少し落ち着いたようで、「…ごめんなさい…」と言って上目使いで見るのではなく、まっすぐに俺を見た。


「ここからは俺の想像だ。

 菖蒲さんはこの事実を知られたくないんだろうって思ったんだ。

 姉ではなく伯母さんの方がまだマシだってな。

 菖蒲さんは少々罪を犯していると俺は踏んでいる。

 伯母さんならまだマシだ、だが姉妹ともなれば話は別だ。

 優華が深く傷つくだろうと思って止まないはずなんだ。

 菖蒲さんが唯一残していた、妹への愛情だと俺は思っている」


俺はまた黙った。


優華の目が踊っていたからだ。


しかし、平静を取り戻したのか眼を閉じた。


「拓生さん、菖蒲さんは何をしたの?」と優華は瞳を閉じたまま言った。


俺は想像でしかないと前置きして優華に話した。


優華は驚きもせずに、全てを信じたようで、目を開けて俺をまっすぐに見た。


「姉がご迷惑をおかけしました。

 本当に申し訳ございません」


優華は真剣な眼差しを俺に向けた。


そして、深々と頭を下げた、


「今度は敬語症候群かい?」と俺が言うと、優華はいつもの笑みで俺を見て、いつものように俺の腕を取った。


「ケジメなの?」といつものように、疑問形で言った。


しかし表情を曇らせ、「不安なの…」と優華は言ったが、「それはないと思うな」と俺は即答した。


「菖蒲さんはとんでもないお嬢様としてわがまま放題に育った。

 おまえはどうだ?」


「お父さん、すっごく怖い…」と優華が言うと、俺は大声で笑った。


「本当は兄ちゃんだがな、その心根は父親だ。

 その怖いは、父のしつけだときちんとわかっているよな?」


俺が言うと、優華はこくんとうなづいた。


「ただ、菖蒲さんは財産を放棄したんだなぁー…

 あ、土地ではなく金でもらったのかもしれないけど。

 それにしても膨大な財産だし、父ちゃんの相続分も半端ない。

 きっと、叔父さんと優華、

 ふたりの財産がこの膨大な土地なんだろうな」


優華は、「なんとなくだけどね、今のお店にする時に気づいたの、登記簿で…」と言うと、俺は数回うなづいた。


「戸籍謄本などはきちんと見たことがない」


「うん、そう。

 いつもお父さんとお母さんがしてくれていたから…」


「役所勤めの伯父さんは、お母さんの兄弟?」と俺が言うと、優華はうなづいた。


「一応三人兄妹ということか…

 もう一度きちんと父ちゃんと話しをした方がいいな」


「うん、そうするわ」と優華は妹を脱却した顔で俺に言った。


「胸がねえから妹…」「爽花ちゃんに病院、紹介してもらうわっ!!」


優華が前向きな意見を述べたので、俺たちは大声で笑った。


~ ~ ~ ~ ~


誰もいなくなったので、俺は勉強をしようと思ったが、ついつい、再度読み始めた洗脳の書を手に取った。


俺が小学六年に上がる前、思春期に多い、恋の悩みを聞いているうちに、少々面倒な依頼があった。


それは三角関係。


ひとりの男子をふたりの女子が奪い合うという、テレビドラマにはなくてはならないネタのような話だ。


依頼主はもちろん彩夏で、このうらやましく思える男子からどうすればいいのか相談を受けていた。


当事の俺としては、―― こいつが一番悪い… ―― と思っていたはずだ。


名前を多田正樹といい、子供にしてはイケメンで、まもなく小学校を卒業する小学六年生。


正樹は優柔不断で、ふたりの女子、内田由紀子と日高礼子をとっかえひっかえして遊んでいたようだ。


正樹はどちらも好きなので、均等に遊んでいたのだが、ついにどっちが一番なのか詰め寄られたようだ。


正樹はどっちも一番だと言ったのだが、当然女子は納得しない。


オレたちとの話し合いの結果、美人の方の由紀子とだけ付き合うことに決めたようだ。


「なんだか疲れちゃうよ…」と俺が言うと、爽太郎も苦笑いを浮かべて俺を見ていた。


「一番悪いのは彩夏だけど…」「悪口はダメ?」と優華にすぐに言われてしまったので、「あはは、大反省…」と俺はここにはいない彩夏に謝った。



しばらくは何事もなく、正樹は由紀子と遊んでいたことを数回目撃している。


だが、正樹たちの卒業式を終えての春休みに事件が起こった。


正樹が近くにある大川でおぼれたということだ。


命には別状なかったのだが、ひどい水恐怖症に陥ったようだ。


そして彩夏の指令で、事情聴取に行くことになった。


「あ、私、ドラマ行ってくる」と言って、言いだしっぺの彩夏はまた事件を俺たちに託したままいなくなった。



お見舞いという名目で、小さな果物籠を下げて正樹の家に行った。


俺たちは正樹の両親に大いに歓迎されて、正樹に面会を許された。


正樹は元気がない。


しかし特に怯えているようにも見えない。


「どうして川に落ちちゃったの?」


俺が聞くと正樹は少し体を震わせて、「橋を歩いていたら、いつの間にか川にいて…」と正樹は言ってから黙り込んだ。


「警察とかに言ったの?」と俺が聞くと正樹は首を横に振った。


「橋って、あかね橋?」と俺が聞くと、「…うん、そう…」と言って正樹は塞ぎこんだ。



俺たちは現場検証に行くことにした。


このあかね橋はコンクリート製で、橋の底が抜けるなどという細工は不可能だ。


水量が少ないので、階段を下りて端を下から見ることにした。


大人なら手が届きそうなので、川底から二メートルほどに橋の底がある。


正樹がおぼれた当日は、大雨が降った翌朝だったので、水量は増し、流れはかなり速かったようだ。


底には特に何もないと思い、また橋に戻った。


欄干は当事の俺の背の高さくらいで、欄干の隙間から体を投げ出すことは可能だ。


よって、のぞいている体制からいきなり川に転落するということは、後ろから押されたことが順当だ。


しかしその証言は得られていない。


しかも歩いていてなので、この隙間から落ちたとは限らない。


「橋の欄干を歩いていたんじゃ…」


爽太郎が言うと、「うん、それもあるんだよねー…」と俺は言って認めた。


当然足を滑らせると、運が悪いと川にまっさかさまだ。


記憶的には驚きにより、いきなり川にいたことにもつながる。


「橋を歩いていて…」と俺はいきなり名案が浮かんだ。


「ここだよ」と言って、俺は橋の欄干から少し身を乗り出して、わずか5センチほどの幅のコンクリートを指差した。


「まさに、橋の端」


俺が言うと、爽太郎も優華も手を叩いて喜んでいた。


冒険心の強い子はこの程度のことは普通にやってのける。


はらはらする感覚が心地いいのだ。


「きっとね、まだあるって思うんだ」


俺は道路に向かって走り、その5センチの幅の表面を腰を曲げたまま歩いて確認していった。


コンクリートが欠けている所がやけに目立った。


しかしそれは一センチほどで、転落の切欠にはならない。


そして、20センチほど欠けている所を発見して、その表面を見た。


「あー、これだぁー…」と俺は言った。


何か黄色く黒い粘っこいものと灰色に塗られたような発泡スチロールの欠片が付着している。


俺たちはすぐに交番に行った。



俺たちは現場検証が始まった橋を眺めていた。


すると由紀子が現れて、警官に頭を下げ始めた。


「あー、ケンカでもしたんじゃないのかなぁー…

 正樹君も犯人は知っていたかもしれないなぁー…」


「黙っていた方が…」と爽太郎が言った。


「ボクもね、それは考えたんだけどね。

 悪いことはできないよって、

 きちんと知ってもらった方がいいって思ったんだよ。

 じゃ、正樹君の家に行こう」


オレたちが正樹に家に行って、全ての状況を話すと、礼子と浮気をしたのがばれて根性試しのような罰を由紀子に課せられたそうだ。


そして転落しておぼれたという顛末だ。


「優柔不断もほどほどだよね」と俺は爽花に習ったばかりの四文字熟語を使って言った。



その後、正樹と由紀子には中学で再会することになった。


結局正樹は、水恐怖症になっただけで、まったく懲りていなかった。


毎日のように女子をとっかえ引返して、青春を謳歌していた。


由紀子はいつも塞ぎこんでいるように思えた。


少々薬が効きすぎたのかと思ったが、実はそうではなかったのだ。


・ ・ ・ ・ ・


―― 事件が事件を呼んだ… ――


俺の胸には重いものがのしかかったように思えた。


爽太郎の言った通り、交番に行くべきではなかったのかもしれない。


俺の行為は、不幸を呼ぶだけのものだったのかもしれない。


しかし見てみぬ振りをしていたら、今の俺は確実にいない。


当然、俺は父に話した。


「罪を犯せば罰を喰らう」と父は堂々と胸を張って言った。


「誰かを陥れるためではない。

 ただただそこにはおまえの思う常識があった。

 そして、罪を犯した者は罰を受ける義務が発生する。

 おまえはいいことや悪ことをしたのではない。

 目の前にある事実を述べただけなんだ」


「でも、嫌な気持ちになるよね。

 また犯罪につながっていたから…」


「それはそう思って当然だな。

 橋の件を黙っていれば、

 今回の事件は起こらなかったかもしれない。

 しかし、恐喝に屈してはならない。

 罪を犯した者は、生涯かけて反省するべきなんだよ。

 よって前悪を知られるよりも、告発することが重要だ」


内田由紀子は、友人を策略をもって川に落としたことをネタに揺すられ続け、ついには恐喝者を刺したのだ。


刺されたのは中学校の教師。


ギャンブルにより借金地獄だったようだ。


これほどむなしいことはないと思い、俺はさらによく考えて、生きて行くことに決めた。



では、どうすればよかったのか。


正樹に顛末を話し、由紀子にだけ、罪を犯したことを告げればよかったのではないか。


だが由紀子は知られて困ることをしていた。


精神的には、恐喝をしていなくてもされているように感じることだろう。


よって最悪の場合、俺たちが由紀子に牙を向けられていたのかもしれない。


やはり民間人が事件に携わってはいけないのではないか。


中学一年生だった俺は、好きだった推理小説を読まなくなった。


~ ~ ~ ~ ~


「…あー、むなしいなぁー…」と俺はついつい言葉に出してしまった。


「何がよ…」と俺の正面に座っていた千代が俺を見ていた。


「いい女が四人もいるのに、誰にも手を出せない」


俺が思っていたことと別のことを話すと、千代はいきなりホホを朱に染めて照れ始めた。


いい女のひとりに入れてもらったことがうれしいようだ。


冗談は置いておき、この事件を千代に話した。


「探究心は事件を呼ぶわ。

 警察官になればそれは義務と権利になるの。

 一般人だからこその悩みだと思うわね。

 だから解決策はないの。

 あるのはただただ自分は正しいと信じることだけよ」


千代はまっすぐに俺を見て堂々と言った。


「今夜、デートする?」と俺が言うと、千代はかなり喜んだのだが、いきなりにらまれた。


「自信満々な人じゃなきゃイヤ」と千代にそっぽを向きながら言われて、俺は笑みを浮かべた。


「そうか、また千代にふられちまったなぁー…」


俺が言うと、「あ、雰囲気だけでも…」と千代は妙にかわいらしく言った。


「全員で…」「却下っ!!」


俺の希望は一瞬にして消えた。


「だけど、みんなと一緒に冒険旅行…」と言った途端に、俺は後悔した。


千代は、「なによ冒険旅行って…」と言って俺をにらんできた。


「あー、言っちゃいけないことを言っちまった…」と俺は言って猛烈に後悔した。


やはり隠しごとはよくないとさらに思い知った。



この冒険旅行は小学六年の夏休みに俺が企画したのだが、彩夏の意見で千代は呼ばないことに決まっていたのだ。


決して千代に対しての意地悪などではなく、金銭的理由だ。


俺はありのままを正直に話すと、「あー、思い出した…」と言って千代は悲しそうな顔をした。


どこを探してもオレたちがいなかったので、さびしい想いをしたようだ。


「だから、雰囲気だけでも…」と俺は千代から恐喝を受けている気分になった。


しかし千代としては、昔のことはどうでもいいようだ。


だが、中学に上がってからは千代も含めて観光旅行に行っている。


もちろん、千代の旅費は足長おじさんから出ていたはずだ。


「確実にばれるので行かない」


俺が言うと、―― それはその通り ―― と千代は思ったようで、何も言わなかった。


「今朝だけど、おまえ…」「私、先に帰るね!」と言って千代はそそくさと逃げるようにして部屋を出て行った。


千代はまた優華に便乗して俺を抱きしめて眠っていた。


しかもわざわざ布団を引きずって俺のふとんに並べていた。


それに対抗するように彩夏は優華を抱きしめて何とか俺に触れていた。


爽花は参戦しないようで、布団をまったく動かしていなかった。



しかしもし、なんらかの理由で見抜かれないという、ふたりだけの時間が発生した場合、俺はその相手と結婚するかもしれないと感じた。


これは偶然の産物だ。


そして、俺にとっても相手にとっても幸運なことだ。


実際俺は、相手は四人のうち誰でもいいのだということに気づいた。


ただただ俺は、この透き通った部屋が好きなだけだ。


しかし、俺一人ではつまらない。


もちろんその時の相手だけということも嫌う。


今のようにふざけあうことが必要なのだが、やはり男と女の友情はないのかと、しみじみと考えてしまう。



この部屋ができる前も、当然のようにしてここで会っていた。


優華が工事現場にプレハブを建ててくれていたのだ。


現在は全て完成したのだが、工事期間は六年にも及んだ。


それは、少々困ったものが出てきてしまったからだ。


さらにはそれも事件となってしまったのだ。


食堂は工事期間中も細々と営業していた。


優華に巨額の資産があったこともうなづけることだった。



俺たちは学校から帰ると食事を済ませてからここに集合した。


もうずっとこの習慣は変わっていない。


よって、外での異性どころか同姓との付き合いすらも発生しない。


俺は高校当事も爽太郎から目を離せなかったので、特に問題はなかった。


しかし、彩夏と優華は、自分自身が俺の相手と思っていた節がある。


勘違いもはなはだしいが、それは簡単なことで、一番魅力的な爽太郎ことサヤカに俺が手を出さないという理由だった。


もっともそれは本人たちの勘違いだった。


今が一番の修羅場だと俺は思っている。


何よりも俺が我慢の限界に達していると感じているからだ。



あまりやりたくはないのだが、―― ごめんなさい… ―― と謝って小さなマリア像を手のひらに収めた。


俺は衝撃を受けた。


相手もわかった。


そしてとんでもないことをマリア様は言ってきたのだ。


俺にはこんな考えはない。


考えたことなど今までに一度もない。


俺の相手が考えていることなのではないのかと思い、ぼう然としてしまった。


―― やっぱり、赤い糸は迷信じゃなかったのかなぁー… ―― と今の俺は思っておくことにした。


だが、その肝心の相手である千代が俺に伝えられないだろうと思い、少し笑って安心したように感じた。


… … … … …


「松崎、落ちたぞ」と伊藤が俺に言った。


今俺はカバンを仕事机の上に置き、ふたを開けたところだ。


すると、俺の足元に、妙にかわいらしい封筒があった。


表にも裏にも何も書いていない。


―― 優華 ―― と俺の頭にはこの名前が過ぎった。


この少女趣味なこの封筒は優華しかいないと思っただけだ。


その優華は今朝もまた俺にしがみついて寝ていた。


昨日、妹ではない優華になったと思ったのだが、まだまだ妹を続けたいようだ。


「ま、ラブレターだな」と伊藤が言うと、俺は一斉に注目された。


まさに好奇の眼だった。


ニヤついている者までいる。


そしてさらには犯人探しが始まった。


学校でも職場でも、こういったことはあまり変わらない。


年齢層の幅が広い分、会社の方がかなり面倒だ。



「あっ!」と、数日前にここに配属になった女性社員の東堂悦子が叫んだ。


どうやらこの封筒に見覚えがあるようだ。


「なんだよ、東堂…」と言って俺は悦子に顔を向けた。


「あー…」と言っただけで目を背け、詳しくは教えてくれないようだ。


「まあいいけど…」と俺が言うと、東堂はいきなり会話を終らせたことを悔やんだのか、「その封筒、すっごく高いんですっ!!」と言った。


「で?」と俺が聞くと、東堂は言葉を失ってしまって、首をすくめた。


しかし思い直したようで、封筒を見た。


「封筒だけくださいっ!!」「やるわけないだろ…」と俺は東堂に言ってにらんだ。


―― ずうずうしいやつだ ―― と思って、俺は封筒をカバンのファスナー付きのポケットに納めた。


「ま、ラブレターの入った封筒をやるわけないよな」と伊藤が言うと、俺に一斉に視線が集中した。


伊藤のいうことももっともなのだが、俺は辺りを見回してから、「彩夏のスパイがいます」と俺が言うと、三名の容疑者が浮かび上がった。


「もうわかったのでいいです」「相変わらず早いなっ!!」と言って伊藤は喜んでいる。


彩夏が来る前に読む必要があるが、これからすぐに始業だし、ここで読むわけにはいかない。


小休止の10分間を使い、屋上にでも駆け上がることにして仕事を始めた。



二時間ほど仕事をしてから、封筒を手にとって部屋を出て、すぐに階段を駆け上った。


どたばたと付いてくる足音が聞こえたが無視して屋上に上がった。


若い社員が多い部署なので、まだまだ学生気分が抜けていない。


まさかここまで来ているとは思っていないはずなので、ゆっくりと読むことができる。



俺は素早く封筒から、同じデザインの便箋を出した。


かなり立派な楷書で書かれている。


どう考えても、爽花の教え子だということがすぐにわかる。


この時点で優華ではないと気づいた。


それは筆圧の違いで、この手紙の文字には気合を込めて書いたような、まさに便箋をプレスした様な筆圧を感じた。



時間がないので俺は早速眼を通し、その内容に驚愕した。


マリア様が予言したことそのままが書かれてたのだ。


そしてさらに驚愕した。


名前を書いていないので、誰が送ってきたのかわからない。


もっとも、この考えは千代しかいないことはわかっているし、警察官のことも書いてあるので、俺の心を騒がせた犯人は断定できた。


俺は便箋をきちんとたたんで封筒に入れ、スーツの内ポケットに入れてボタンを止めた。


俺は少し急ぎ足で階段を下りて、オフィスに戻った。



するとやはり、怒っているのか笑っているのかわからない顔の彩夏が母と陽子を引き連れて職場に来ていた。


「通報を受けて駆けつけた」「当然だわっ!」と言って、彩夏は胸を張って言って、職場を見渡した。


「…今なら、やさしく叱ってあげるわよ…」と悪女風の演技を交えて彩夏が言った。


「ここにいる者じゃないぞ。

 つまらんことで職場の空気を乱さないでくれ」


俺の言葉を受けて彩夏は、「つまらないことですってぇー…」と言って、嫉妬深い妻に変貌した。


「送り主が名前を書いていないから誰だかわからん」


俺の言葉に、一番に伊藤が笑い転げ始めた。


それにつられるように男性社員も笑い始めた。


「うふふ… マヌケな横恋慕さん…

 お邪魔しました」


彩夏は母と陽子を従えて部屋を出て行った。


「このためだけに来たようだな…

 母さんが普段着だった…」


俺が言うと伊藤はさらに拍車をかけて笑い転げ始めた。


「だけど、おまえのことだ、犯人はわかっている」


伊藤は今回は小さな声で言ってきた。


「ご想像に」とだけ言って俺はパソコンを開くとまた封筒があった。


伊藤は目ざとく見つけて、「くくく…」と笑い始めた。


「伊藤さんからですか?」と俺が言うと、「違うよ」と言って一瞬悦子を見た。


「きっと、封筒くださいって書いてあると思います」と俺が言うと、伊藤は大声で笑い始めた。



俺はごく一般的な封筒の中身を見て、ごく一般的な便箋を出して開いた。


『誰からのラブレターですか? 封筒くださいっ!!』と書いてあった。


かなりの丸文字で、少々読みづらいと感じた。


「名前がないからわからないから答えられない。

 封筒はやらない」


俺は平常心でこの手紙への解答を述べてから仕事を始めた。



一日の仕事が終って、帰り支度を済ませて俺はトイレに行った。


妙な胸騒ぎがしたので、俺はここで変装することに決めた。


個室に入って年齢を30ほど上げ、同僚の後ろについていくようにしてトイレを出た。


さらには小細工をしてある。


カバンを手提げではなくショルダーにしているのだ。


よって俺と見破る者はまずいないと感じた。


案の定、知り合いとすれ違っても怪訝そうな顔ひとつしない。


男性は全員スーツで濃い紺色が目立つので、変装している俺は少しくたびれたサラリーマンだと誰もが思うことだろう。


外に出て、ゆっくりと歩き、角を曲がったところで猛然とダッシュした。


次の角を曲がって様子を見ていると、なんと東堂悦子が走って来ていたのだ。


そのフォームから本格的な走りだと確信した。


―― 帰ってから調べよう… ―― と思い、いつもとは違う地下鉄の駅に向かった。


物陰に隠れて様子をうかがったが、追って来る気配はない。


―― 警察関係者? ―― とだけ、何気なく思った。


「封筒ください」はフェイクで、俺と話しをすることが目的だったように感じた。



家に着くまで何事もなかった。


今は家には誰もいない。


俺は階段を上がり、俺の部屋に入ると、また三人組がいた。


「着替えて予約席に行きたいんだけど」と俺が言うと、「あなた、見せてくださるわよね?」と嫉妬深い妻役の彩夏が言った。


「嫉妬深い女は嫌いだといったはずだがな」と俺が言うと、今度はシクシクと泣き始めた。


「私への愛は、もう戻ってこないのでしょうか?」と彩夏が言うと、母が悲しげな顔でうつむいた。


「母さんは恋愛ドラマでも見ている雰囲気だよな。

 母さんへの演技指導」


俺が言うと、彩夏はつまらなさそうな顔になった。


「今日、暇だったの?」と俺が聞くと、「息抜きの日を週に二日ほど取っているからね」と彩夏は平然とした顔で言った。


「着替えるから出て行ってくれ」と俺が言うと、三人は立ち上がって部屋から出て行った。


しばらくしてから、俺は素早くドアを開けた。


すると三人がドアに向かって聞き耳を立てていたので、俺は笑ってしまった。


「なにやってるんだ…」と俺が言うと、「興味津々な家政婦役…」と母が言ったので俺は大声で笑った。


扉を閉めてからスーツを脱いで、千代からもらったラブレターを俺の隠し金庫的な場所に隠した。


中学二年の時に作ったもので、俺の改心の一作だ。



着替え終わって一階に行くと、父が帰ってきていた。


彩夏たちはいないので、今日の夕飯もレストランのようだ。


「三人は?」と俺が聞くと、「いや、誰もいなかったぞ」と父は答えた。


俺は玄関に移動して靴を確認すると、三人は靴を下駄箱の奥に隠してあった。


―― 二階 ―― と俺は思って、階段を上がって俺の部屋のドアを開けた。


三人は驚いた顔をして姿勢を固めたまま俺を見ている。


「泥棒の役?」と俺が言うと、三人は同時にこくりとうなづいた。


「お父ちゃんに言いつけてやるっ!!」と俺が言うと、さすがに怖かったようで俺に謝ってきた。


「部屋にあると思うの?」と俺は不敵な笑みを浮かべてドアを閉めた。



五人でいつもの予約席に行くと、爽花がテレビを見ていた。


やはり美人は美人なのだが、彩夏の方が女優という仕事柄輝いている。


よって並んでしまうと、爽花の美しさがかすんでしまうのだ。


だが、爽花を不憫だと思う気持ちはある。


間違いなく、俺と結婚できると思っていたはずだ。


そして俺もそれを疑っていなかった。


だがまさか、千代になるとは思いもよらなかったのだ。



だが、一番の心配は千代の職業だ。


警察官はいつ命を落としても不思議ではない。


しかし、その答えは今日もらったラブレターに書いてあった。


よってもらった俺はその言葉を信じることに決めたのだ。



30分ほどして、何も事件がなかったのか千代が予約席にやって来た。


そして俺を見て、ほんの少しだけ視線をずらしてから、椅子に腰掛けた。


「季節はずれの人事異動で、あいさつ回りで疲れたわ…」


千代は本当に疲れた顔をして俺に言った。


中間管理職といわれる課長が数名逮捕されたので、それも当然のことだ。



「千代ちゃん、ラブレター…」と彩夏が言った。


きっと何か仕掛けるだろうと俺は思っていた。


千代は何のことだかわからないといった顔で、「もらったことあるよ」と言った。


見た目はかなりかわいいので、人気はあったのだが、口を開けばまさに恐犬なので、きっと別の学年の者だろうと当事の俺は思っていた。


「英語だと、意味がよくわからないことが多いんだけどね」と千代が答えた。


―― とんでもないロリコンだ ―― と俺は大学生のアメリカ人を憎んだ。



さすがに彩夏は見抜けなかったようで、きょとんとしている爽花を見た。


「一体、誰なのよっ!!」と彩夏が騒ぎ始めた。


「何があったのよ…」と爽花が彩夏を見て言うと、「拓生さんがラブレターをもらったのよっ!!」と言って俺に指を差してきた。


俺は名前が書いていなかったことを言わずにおこうと思ったが、確実に彩夏が言うと思って、「ま、マヌケなやつだよな」とまずは伏線を張っておいた。


視界の端にいる千代は、表情を変えずに少し考えているようだが、俺の意図を知って、「なあに? 名前、書いてなかったの?」と言ってから少しだけ笑った。


―― きっと、心中つらいはずだ… ―― と思い、俺は千代に同情した。


「うー、千代ちゃんじゃないぃー…」と彩夏が言った。


「意表をついて優華かもしれないぞ。

 あの30冊ものラブレターをもらったが、少し日が経ったからな。

 考えも変わったんだろう」


「爽花ちゃんの教え子には違いない…」と彩夏が言った。


―― ヤブヘビだった… ―― と俺は思い、俺の視界にいる千代が少し怒っていることに気づいた。


「だけどなぜそんなに気になるんだ?

 あ、そうかっ!!」


俺はあることに気づいた。


「彩夏、それは反則だと思うぞ。

 みんなのラブレターを読んで、

 さらにインパクトのある内容と文章にする。

 それよりもおまえ、字、うまくなったのか?」


全てを見通されたことを知った彩夏は、「先生っ!」と言って爽花に頭を下げた。


「たまには大人に指導するのもいいわ」と爽花は彩夏ではなく俺を見て言った。


まさに俺へのアピールだと感じた。


今の爽花は彩夏よりも輝いている。


―― やはり職業… 仕事… ―― と思って俺は納得した。


自信を持って仕事をしている姿は美しい。


それを見る機会が多いのは彩夏だ。


しかしそれは落とし穴でもある。


その輝きは仕事中だけのものだ。


しかし彩夏はそれを常に放っている。


輝きだけを取れば、彩夏は誰にも負けないはずだ。



落ち着いた俺は食事が終わった後、東堂悦子について調べようと思い、パソコンを開いた。


ほぼ確実に陸上をやっていて、大きな大会に出ていると踏んだのだ。


検索バーに名前を打ち込みエンターキーを押し、画像に切り替えると、いきなり悦子の顔が並んで表示された。


かなりの有名人だったようだが、俺は知らない。


社でもアスリートを広告塔として雇っているのだが、基本的には広報部にいる。


エリート集団の広報営業部には配属になるわけがない。


だが、悦子は千代が言っていたように季節はずれの人事異動により俺の所属部署にやってきた。


―― 文武両道… ―― この言葉がすぐに浮かんできた。



先頭の写真をクリックして内容を確認すると、顔写真の下にそのプロフィールが載っていた。


『東京オリンピック強化選手』


俺は納得してしまった。


そしてその成績を見ると、妙にムラがある。


迷っているのかマイペースなのかはよくわからないが、タイムを見ると迷っている方だった。


さらに嫌なものを見つけてしまった。


現在はマナフォニックスの社員だが、数日前までは警視庁に勤めていたのだ。


よって、タクナリ君信者には間違いないだろうと感じた。



その悦子が透明のこの部屋のドアを開けようとしていた。


だが、優華が鍵をかけていたようで当然開かない。


俺は全員にパソコンの画面を見せて何が始まったのかを説明した。


悦子はかなりバツが悪そうにして、叱られた生徒のように突っ立ったままだ。


優華が、「かわいそうだけど…」と言って俺と悦子を交互に見た。


「どうかわいそうなんだ?

 そんなことを言っていると、

 店内にいる客みんなを招くことになると思わないのか?」


俺の言葉に、「代表選手じゃない…」と優華はさも、『有名人だからいい』といったニュアンスで言った。


「俺、帰りにこいつに追いかけられたんだけど?」と俺が言うと、「あ、そうなんだっ!!」と優華は言って、専用フォンを使って警備を呼んだ。


悦子は警備員に丁重に説明されて、一般の客席に誘導された。



「狙いはタクナリ君のお近づきになること。

 さらにはランニングコーチ」


俺は言って、悦子の公式戦のタイム表を画面に出した。


「ムラがありすぎだ。

 きっと、故障も持っていると思う。

 東堂は今の千代にも勝てないだろうな」


千代はどう答えればいいのかわからないようで、「あはは」と笑った。


「千代とは一度勝負をしよう。

 きっと、思い出に残ると思う。

 さらには、今が一番いい時。

 俺たちが一番の成績を残せる時だと思っているんだ」


俺が自信を持って言うと、千代も俺の意見に同意したようで小さくうなづいた。


「本気で走っていたことはない。

 さらに一番速い走り方を知っている。

 体の状態を聞くことができる。

 絶対に無謀なことはしない」


千代が箇条書きのように言うと、俺は笑顔でうなづいた。


「特に俺は最近はトレーニングに余念がないからな。

 どちらかといえば楽しみながら考えながら走っている。

 きっとタイム計測をすると今言われても、緊張もしない」


俺が言うと千代は母を見た。


「私たちだけの、緊張を解きほぐす方法…」と千代が言うと、俺は笑みを向けた。


優華がいきなり俺の腕をとってふくれっつらを見せてきた。


「やきもちを焼いている妹…」「違うよ?」と優華は否定したが、疑問形になっているので、確実に妹だ。



優華は俺と千代が仲がいいことで、この場の雰囲気がイヤだったようで、波乱を巻き起こすために悦子の席に行って連れて来た。


やるとは思っていたが、全てがはっきりするので別に構わないと感じた。


だが、それを拒むものが入り口に仁王立ちしている。


彩夏率いる、芸能人軍団だ。


まさに今の彩夏は鬼だった。


さすがの優華もかなり怖かったようで、どうしようか迷っているようだ。


さらには悦子も、彩夏の形相に驚きを隠しきれない。


「拓生さんに何の用かしら?」と彩夏は顔色を変えずに言った。


「今はプライベート、そして拓生さんの至福のひと時…

 それを邪魔するやっつぁー、俺がぶった切ってやるっ!!」


彩夏はかなり悪乗りして、時代劇役者風に言った。


ドアが開いているので、当然彩夏の声は聞こえている。


大勢の客が彩夏に向けて拍手をした。


悦子の体は恐怖で撃ち震えている。


ないはずの刀が、彩夏の手に握られているとでも思っているように感じる。


「…あ、ああ、わ、わたしぃー…」と悦子は言って、ついには恐怖のあまりかちかちと歯を鳴らし始めた。


緊張の限界が来たようで、悦子はへなへなと床に座り込んで泣きじゃくり始めた。


「さすが一流女優」


俺も客に混ざって彩夏に拍手を贈った。


「お父さんが昔言ってたんだよねぇー…」と彩夏が子供っぽく言うと、俺は苦笑いを浮かべた。


山東昭文は少々大きな広域暴力団の大親分をやっていた。


だが政治家に転身した時、当然だが組を解散して建設会社を設立した。


当然しばらくはトラブルが絶えなかったが、ここ10年ほどは落ち着いたようだ。


だが、破壊防止法の改定により、また騒がしくなりかけた途端、総理大臣まで駆け上った。


広域暴力団は黙ることしかできなくなった。


この先、認定されている広域暴力団は全て消え去ることだろう。


しかし近年、広域暴力団とは別の詐欺集団が横行している。


結局は何かがなくなると新しいものが生まれるようになっているものなのだ。



千代が席を立って、悦子を立たせ部屋に招きいれ椅子に座らせた。


「警視庁では顔を合わせなかったわね」と千代が言うと、「恐犬っ!!」と悦子はいきなり千代のあだ名を呼んだ。


千代はこれ以上ないほどの苦笑いを浮かべている。


「それに失礼な子…

 私は追い出すべきだと思うわよ、千代ちゃん」


彩夏はごくごく常識的なことを言った。


「それも考えたんだけどね。

 明日もまた拓生君と顔を合わせるんでしょ?

 きっとね、何もしないとまた同じ事するんじゃない?

 明日の朝になったらけろっとした顔をしていると思うわ。

 だけどね、拓生君は誰にも渡さないわよっ!!

 ハアッ!!」


『バキィ!!』ととんでもない音がして、千代の座っていた椅子が見事に真ん中で折れた。


椅子が開脚したようになってしまっている。


もちろん誰もが信じられない顔を椅子に向けている。


「あら、ついつい…」と千代は言いながら、「あははははは…」と空笑いを始めた。


「まさに恐犬。

 俺も半日ほど入院したからな。

 だがさらに強くなったと思っているんだ、千代」


「…ああ、拓生君…」と千代が答えて俺に寄り添った。


俺たちのお遊戯は、母にだけ絶賛されていた。


「ダメだもん?!」と優華が言って俺の腕を取った。


優華はもう何もかも理解できたようで、今は千代をにらんでいる。



「今日、千代にラブレターをもらった。

 きっとこれを超えるものはないと、俺は思ってしまったんだよ」


俺はここでみんなに話した。


千代はすぐに下を向いて照れて、「名前書き忘れてごめんなさい…」と言った。


「それほどに、文章に想いを込めていたと俺は思った。

 それに、内容を読めば、

 誰が送ってきたものなのかは一目瞭然だ。

 千代だからこその言葉がひしめいていたからな。

 だが、返事はしばらく待って欲しいんだよ。

 しかし、きっと俺は、千代の思った通りにすると思うな。

 ある一点を除いて、だけどな」


俺が言うと千代は、「うん、うれし!」と言って笑顔で俺を見た。


優華は信じられないものを見るように、俺と千代を交互に見た。


だが、部屋を飛び出して行かない。


ここにいないと、もう二度とここには戻れないと思っていると俺は感じた。


「俺は何も変えない。

 しばらくはこのままだ」


俺は言ってから、視線を悦子に替えた。


「用件を」と俺が言うと、悦子は首を横に振った。


「明日からはおまえとは話しをしないことにする。

 用件を」


よって今は話しをするということになる。


悦子は深くうなだれたまま、「コーチを…」と短く言った。


「俺に人を教える力はない。

 それなりの経験者を頼ってくれ。

 さらには先に怪我を治せ。

 そんな体で速くなれると思っているのか?」


俺が言った途端、「…うっ…」と悦子は低くうなった。


「ふーん、黙っていたんだな。

 おまえ、人を見る目も運もなかったんだな。

 疫病神のようでイヤだから、

 できれば出て行ってもらいたいな」


俺の言葉は千代以外には拒絶された。


もちろん千代は、俺の考えを見抜いているからだ。


しかし爽花は千代の顔色を見て判断しようと思ったのか、平静を取り戻した。


「もう、時間がないから…

 練習もロクにできてないし…

 治している時間分、訓練したいし…」


「おまえ、普通の人なんだな…

 そんなやつ、オリンピックに出る資格はない。

 俺と千代の走り、見たいと思わないか?」


俺が言うと、「…ちょっと、拓生君…」と言いながらも、千代はうれしそうだった。


一度でいいから今の自分の実力を知っておこうと思ったようだ。


「俺たちは現役時代、そこそこの成績を残した。

 そして知っていた。

 無理をすると普通の生活すら危うくなる。

 おまえはもう、その最低の場所に近づいているんだよ。

 アスリートは引退して、仕事に集中することを進言しておこう」


悦子はうつむいていた顔を上げた。


「…走りを…

 走りを見せて欲しい…」


「ああ、見ておけっ!!」と言って俺は外に出て、尾行者をからかうように右往左往としてやった。


もちろん、今の俺が持つ全力で走った。


一階の窓は50メートルは優にある。


駐車しているが、俺の早さは見るものが見れば驚くものだろうと感じている。


店内を見ると、誰もが外の様子を見て微笑んで、俺に拍手をしてくれていた。



―― いい運動になった… ―― と思い、俺は倒れこんでいる者たちの肩を叩いてから予約席に戻った。


悦子はぼう然として俺の足元を見て、「靴… 革靴…」とつぶやくように言った。


「一応、スポーツメーカーのものだからな。

 なかなか走りやすいぞ。

 もちろん競技用のものも持っているから、

 お膳立てしてくれたら出向く。

 俺と千代が、日本の常識を変えてやろう」


俺が言うと、悦子はにんまりと笑った。


俺は、「ふんっ」と鼻で笑った。


悦子は表情を驚きに変えている。


「言っておくが、おまえにもうひとつの狙いがあることもわかっていた。

 オレたちをオリンピックの強化選手にすること。

 だが、それは断る。

 俺と千代の仕事の邪魔をするやつは、

 タクナリ君信者たちが黙っていないからな」


「記録さえ残れば満足だわっ!」と千代は言って俺を見上げた。


「絶対に破られない記録を出してやろうかぁー…」


俺が気合を入れて言うと、爽花と千代にだけ拍手をもらった。


「で?

 社長にでも頼まれたか?」


俺が言うと、悦子は素早く首を横に振った。


「警視総監…

 選手登録の時に、書類に混ぜて警察官にしちゃうって…」


悦子は言って、申し訳なさそうな顔を俺に向けた。


優華だけが口を両手のひらで押さえて驚きの顔を俺に向けていた。


「明日からはもう話さないが、

 色々と解きほぐれたらその限りじゃない」


悦子は優華が付き添って外の席に誘った。



「叔母さん成敗だな…

 だが、そろそろ会ってやろうか…」


俺が言うと、「大丈夫なの?」と千代が言った。


「ああ、ここに招待するからな」と俺が言うと、千代たちは驚きの表情を俺に向けた。


「ああ、そうだ、結婚式、いつにする?」


俺が言うと千代は、今までにないほどの驚きの顔を俺に向けていた。



( 第九話 アスリートラブル おわり )


( 第十話 超人の証明 につづく)


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