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「お帰りなさいませ!」
馬車の音に大急ぎで迎えに出ると、私を目にして嬉しそうに顔をほころばせたシュリオスが、眼鏡を外してヴェステニアに預け、腕を大きく広げて足早に近付いてきた。ふわりと抱きしめられる。
「ただいま戻りました」
囁かれて、耳と頬と鼻の頭に続けざまにキスされた。目を覗き込まれた後に唇にも少し長めに落とされる。
「帰ってきただけなのに、あなたが出迎えてくれるなんて。面倒くさい呼び出しも、あなたにこうしてもらえるのなら、行ってもいいかもしれないと、初めて思えました」
愛しいと言っているのがわかるまなざしとともに、そんなことを言われて、どきどきしてしまう。
ラーニア様とマデリナ様が言っていたのは、これよね? これまで紳士のリップサービスだと思って流していたのに、この人、いつでも言葉通りに思ってくれていたのだわ。
私には過ぎた言葉だと思わずにいられなかったものが、今は彼の気持ちが素直に嬉しい。ことりと彼の胸に額をつけた。
「私も、無事に帰ってきてくれたあなたにこうして抱きしめてもらえて、嬉しいです」
「ああ、本当に疲れが吹き飛びます」
ぎゅうと抱きすくめられる。シュリオスの鼓動がトットットッと速い。私の心臓もそう。おそろいね。
幸せな気分でしばらくそうしていたら、んん、と咳払いが聞こえた。
ヴェステニアがいたー!! 執事が、夜遅くに玄関でいつまで何しているんですかと、遠回しに言っているー!!
「あの、お食事はしましたの?」
「軽く。あなたは?」
「先に食べるようにとご連絡をもらいましたから、そうしました」
わざわざ伝言してくれたのに、食べないで待っているなんてことをしたら、次から気が気じゃない思いをさせてしまうだろう。早く帰らなければと、無理をさせたりしたくない。
「それならばよかった。眠る前に少し時間をもらえますか?」
「もちろんです」
「ここは冷えます。居間に行きましょう。
ヴェステニア、ホットミルクを頼む。あなたはどうしますか?」
「私も同じ物を」
腰に手を添えられ、うながされて歩きだした。
「セリナ、出迎えてもらえて、とても嬉しくて、喜んでしまいましたが、あまりに遅いときや、あなたが疲れているときは、先に休んでくださいね」
うっ。恥ずかしい。とにかく私は健やかに過ごさないと、この人は心配するのに。……眠る用意はした。このガウンの下はネグリジェだ。寝るつもりだったから、侍女も下げた。でも、お疲れでないだろうかとか、無事に帰ってきてくれるだろうかとか心配で、寝る前にお顔が見たかったのよね……。
少し離れただけなのに、恋しくて堪らなかったの、察されてしまったかしら? 我ながら鬱陶しい女だわ。自分がこんなふうになるなんて思わなかった。
「はい。そうさせてもらいますね」
なるべくなんでもないのを装って、にこっと答える。
彼は私を見つめて、ぱちぱちと何度か瞬きした。それから、ふにゃっとした苦笑を浮かべる。
「……早く結婚したいものですね。そうすれば、どんなときもあなたの顔を見てから眠れるのに」
んんんんっ。かわいいー! ちょっとなでなでしてあげたくなるー!!
そうよね、一緒のベッドで眠れば、帰ってきたのに気付いて、おやすみくらいは言えそう。
ベッドの中で彼へと手を伸ばし、抱き寄せられて、ただいまのキスを受けるのが思い浮かび……。
現実では、もう少しで指が彼の髪に届きそうなのに気付いて、ハッと我に返った。
わー! 無意識に手が伸びていたーっ! 頭を撫でてしまうところだったわーっ!
「そ、そうですね!」
手を引っ込め、思わず視線をはずして前を向いた。
いくら可愛いからって、立派な紳士をなでなでしていいわけがないではないの! シュリオスだって、そんなの微妙な気持ちになるわ! ……怒らないとは思うけれども。撫でさせてくれるとも思うけれども。紳士と淑女としては、なしだと思う!
「何もしないのですか? 何をしてくれるのか、楽しみでしたのに」
腰に添えられた手に引き寄せられて、肩が彼にぶつかった。反射的に見上げれば、人の悪いお顔をしている! こういうときの彼は、ぜんぜん可愛くない!
「何のお話かわかりませんわ」
ぷいっと顔をそむけると、彼がははっと声を出して笑った。
「あなたは案外気が強いですね」
そんなことを言われて、ギョッとする。
そういえば、腹を立てて兄の足を踏んだ後に、『少しはしおらしくしないと、せっかく男を捕まえても、愛想を尽かされるぞ』と、よく言われていたのに……。
シュリオスに呆れられてしまったかしら? 恐る恐る尋ねる。
「……お嫌いですか?」
「まさか! ツンとした表情は魅力的ですし、あなたがそうするのは、気を許してくれているからでしょう?」
彼は優しく笑って私のこめかみにキスをした。
「従順なお人形には飽き飽きしているのです。そうやって飾らない気持ちを伝えてくれるのが、私にとってどれほど得がたいことか。どうか私には、素のあなたをたくさん見せてください」
ああ、そうだったわ。この人の前では、誰もがお人形のようになってしまうから……。
魔王の体質を抑えていたとしても、公子という地位に、人々は皆、跪くか遠巻きにするものね。私だって初めのうちは、失礼があったらとんでもないことになると、冷や汗をかいたものだった。……彼自身は、むやみとそんなことをする人ではないのに。
何気ない言動ですら多くの人に影響を与えてしまう立場は、煩わしいことも多いだろう。それに体質が合わされば、表情さえ、ううん、仕草の一つさえ、気軽に動かせないのは想像に難くない。
マデリナ様も言っていた。誰とも距離を置いて、人と交わろうとはしなかった、と。……それは、どれほどの孤独だっただろう。
「私も、シュリオスの飾らない姿をたくさん見たいです」
彼の顔を覗き込むようにして言う。
伝わってほしい。美しいこの人が、へにょっと笑うのが好き。頭を撫でまわして、抱きしめてキスしたくなる。人の悪いお顔をするのも、可愛くはないけれど、実は好き。そういうときの彼は、生き生きしている。
切ないまなざしで愛を囁かれるのも、優しく笑って抱きしめてくれるのも、躊躇って緊張した表情を浮かべるのも、親族や他人に公子然として威圧的に振る舞う姿だって……。
彼が立ち止まり、へにょりと笑った。
「……はい、そうします」
その頭に両手を伸ばし、今度こそ引き寄せる。おとなしく従って垂れる頭を撫でまわし、頬ずりをして、唇の当たる場所にキスをする。
彼は私の背に両腕をまわし、もたれかかって、しばらくされるがままになっていた。




