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そのまま動かない。
ななななんで謝っているの、高位貴族のご子息がー!!
私は大あわてでソファから下りて、眼鏡を拾った。
「あのあのあの、わかっております! ご心配くださったのですよね! 私は気にしておりません! どうぞ頭をお上げになってください!
眼鏡、壊れていないといいのですけど……」
シュリオス様が顔を上げる。
息を呑んだ。
え!? お美しいお顔ですね!? ええっ!? 彫像みたいなお顔していますよ!? いえ、彫像よりお美しいですね!?
緑色の目がキラッキラに澄んでいます! 見れば見るほど作り物めいているのに、長い睫が瞬きで動くたびに、確かにこの美しいものが生きているのだと納得するしかない……。これはまさに神の造りたもうた奇跡!!
その神の奇跡が、眼鏡ごと私の手を握りしめて、ほわりと微笑んだ。
「あなたは寛大で優しい方ですね」
うわあああああ、うわああああああー!? 神々しいいいいいーーーー!!!!
心臓がドンドコ鳴って、痛い! これは最早美の暴力! 美しい瞳から目をそらせない!
あああ、なんかもう息の仕方がわからないいいいーーー!!!
苦しくて頭の中がガンガンと鳴りはじめる。心臓のドンドコもますます激しくなってきて、ドンドコガンガン、ドンドコガンガンが鳴り止まなない。
ううううう、くらくらするう……。こっ、これ以上は、無理いいいいいーー!!
ぎゅっと目をつぶって、すうっと大きく息を吸った。眼鏡をシュリオス様の胸へと押しつけ、叫ぶ。
「ど、どうぞ、眼鏡が壊れていないか、よくお調べになってください……っ!」
叫んだつもりが、蚊の鳴くような声しか出なかった。出なかったけれど、相手に聞こえはしたよう。
眼鏡が引き取られていき、手も離された。胸元に手を引き戻し、ほっと息を吐く。
コトリと音がしてそちらを見ると、テーブルの上に眼鏡が載せられていた。思わずシュリオス様のお顔を見上げれば、掛けていない。
「眼鏡は……」
「歪んでしまったようです」
「申し訳ございません!」
「なぜあなたが謝るのです? 落としたのは私ですよ」
「ですが、私のせいで……」
素足なのを悟られたくないばかりに嘘をついて、こんなところまで連れてきてもらって、嘘に嘘を塗り重ねて……。具合悪そうな婦人を見て見ぬ振りできなかった紳士の誠意に付け入ってしまったせいだ。申し訳なくてたまらない。
「本当にあなたは……」
シュリオス様が困ったように笑んだ。なんて優しい微笑み! ぽーっと見惚れてしまう。
その優しい微笑みがだんだん大きくなって、どんどん近づいてきて、美しい唇が、かわいいですね、と囁いて。
ちゅっと。額に。
!?!?!?
驚きで動けないまま、何度も瞬きして離れていく彼を見ているしかできない。そのまま、慈愛のまなざしで見つめるシュリオス様のお顔から目が離せない……。
ノックの音で我に返るまで、頭の中真っ白で見つめておりましたよ! 批判は甘んじて……受けません! 文句は神様におっしゃって! 神の奇跡に逆らうなんて、淑女の階段を上りはじめた小娘には無理!
シュリオス様の従者が顔を出して、兄がやってきたと告げた。
シュリオス様は私を促して椅子に座らせると、自分は膝をついたままで私の靴を手に取った。彼が何をしようとしているのか気付いて、さっと反対側へと足を動かす。
「セリナ嬢?」
「靴は自分で履けますわ」
尊いご身分の公子が手ずから履かせてくれるなんて、畏れ多いです!
シュリオス様は親切すぎるお人のようね。いくら紳士でも、こんな小娘に靴まで履かせてくださらなくてもいいのに。
しばらく、絶対に引かないぞという気持ちで見つめる。
シュリオス様は苦笑して靴を渡してくれた。よかった!
「セリナ嬢、立てますか?」
靴を履き終わるのを見計らって、手を差し伸べてくれた。心配でたまらないとばかりに、両の手を。本当にお優しい方ね!
「はい」
彼の手を取り、立ち上がる。彼は、あんよを始めたばかりの赤ちゃんの手を引くみたいに、後ろ向きで私の手を引っ張って、数歩歩かせた。
「痛みは?」
「ありません」
「たいしたことがなくてよかったですね。……名残惜しいですが、兄君が迎えに来ています。気を付けてお帰りを」
「はい。大変お世話になりました。このお礼は、後日改めてさせていただきます。本日はありがとうございました」
礼をして、従者の先導で部屋から出た。廊下で兄が待っていて、従者に案内され、王宮に来たときとは違う馬車寄せに案内される。近い方へうちの馬車をまわしてくれたみたい。足のことを考えてくださったのだろう。
最後に兄が、公子にお礼を申し上げるよう従者に伝え、お暇した。
馬車が動きだす。
「お兄様、早い時間にごめんなさい」
「怪我をしたのならしかたがない。どこを怪我したんだ? 平気そうにしているが、大丈夫なのか?」
「ええ。実は怪我なんてしていないんです」
順を追って兄に話した。全部聞き終わると、兄は溜息を吐いた。
「公子とずいぶん親しく話したのだな」
「はい。とにかく紳士で、噂どおりの方でした! それに、眼鏡の下は、お美しいお顔でしたよ、少々驚くくらい。彫像みたいで。ヴィルへミナ殿下もあのお顔を見れば、態度を改めるのではないかと思いました。綺麗なお顔の殿方がお好きみたいですし」
「そうか、眼鏡をはずされたのか……」
「いいえ、落とされたのです」
「いや、それは……、いや、そうか、落とされたのだな……」
顎に軽く曲げた人差し指の背を付けている。兄の考えるときの癖だ。父も同じ仕草をする。こんなときの兄は、父にそっくりだ。
「私、何か粗相をしてしまったでしょうか?」
「いや、そんなことはないだろう。あまり人とは交流なさらない方だから、久しぶりの会話を楽しまれたのだろう」
「そうなのですか? 気難しい方には見えませんでしたけれど」
「高貴な方には、しがらみも多いからな」
そうよね、王女の婚約者になっているくらいだもの。きっといろいろたいへんでいらっしゃるのだわ。
なのに、取るに足らない私なんかにも親切にしてくださって……。
「お兄様、お礼はどのようにすればいいのでしょう?」
「そうだな。まずは手紙をさしあげることになると思うが……。帰ったら、まだ起きていらっしゃるだろうから、父上や母上に相談しよう」
お手紙かあ。何も持たない若い娘が助けてもらったのだから、それが妥当なのだろうけれど、何かもっとお返しできるといいのに。
……そうだわ! ヴィルへミナ殿下とその一派が、どんな酷い仕打ちをシュリオス様にしようと、私は絶対、あの方の味方をしよう! あんな優しい方を、ただ貶めさせてなるものですか! しがない伯爵の娘になにができるかわからないけれど、できるかぎりのことはする!
そうね、まずは、シュリオス様は素敵な紳士だと、身近な者に知ってもらうところからだわ。父や母にも話さないと。何かの折によい評判を広げていけば、あの方の味方をしてくれる人も増えるはず。
このご恩は必ずお返しいたします、シュリオス様!
私は密かに拳を握って、ふんすと鼻息荒く決意した。