1
「フレド、姫などと呼ばないで。あなたの前では、ただのヴィルへミナよ。ヴィーと呼んでちょうだい。あなたにだけ許すわ」
「ああ、ヴィー……」
回廊の柱の陰で、ヴィルへミナ殿下とフレドリック・ジェダオ様の影が重なる。
私は身を寄せている柱に、ますますぴったりくっついた。
どうして、あの方達、いつ誰が通るとも知れないこんなところで逢い引きしているの!?
私はただお花を摘みに来ただけなのに! これでは広間に帰れない!
……もしかして、誰かに見咎められたいと思っているのかしら? 人目を忍んで逢い引きしていたという噂を立てて、既成事実を盾に婚約を解消してしまおうとしているとか?
殿下は婚約者のシュリオス様を嫌っているのを、普段から隠しもしていないし、今日だってエスコートはさせたけれど、ダンスは踊らないで、ご友人方の中にまぎれこんでしまった。
……まあ、わからなくはないの。シュリオス様はぐるぐる渦を巻いている分厚い眼鏡を掛けた影の薄い方で、義弟のフレドリック様の華やかな美貌を見てしまえば、誰だって目移りしてしまうと思う。
でも、フレドリック様は、シュリオス様が王家に入るとジェダオ公爵家を継ぐ方がいなくなるということで、養子となった方。そんな身分で、普通の感覚なら絶対、義兄の婚約者に手を出すわけがない。つまり、義理も常識も性格もだいぶアレな方ということになる。
今宵は王妃殿下主催の若者を集めた夜会だ。ヴィルへミナ殿下とシュリオス様の交流を深めさせようという意図があるのは、誰だってわかっているものなのに、フレドリック様とこんな所で逢い引きできているということは、殿下のご友人方も協力しているとしか考えられないわけで。
殿下が殿下なら、フレドリック様もフレドリック様だし、ご友人方もご友人方だわ!まさに類は友を呼ぶね!
そりゃあ、シュリオス様は地味な方よ。けれど、それ以外の悪評を聞いたことがない。女癖も酒癖も悪くなくて、公子という高いご身分なのに横柄だったり驕ったところのない、穏やかで礼儀正しい方という噂だ。
そんな方だからこそ、王の一粒種で女王とならなければならない殿下を支えるために、選ばれたのだと聞いている。
本当だったら公爵になり、跪くより跪かれるような身分になれるはずなのに、それよりも王家のために尽くそうというご立派な方だ。そんな方に対して、たとえ愛せないにしても、敬意は払うべきだわ。
なのに、こんな、落ち度のない人を貶めるようなやり方をするなんて……。
ああ、他人事ながら腹立たしくなってきた! ええ、絶対に、ここで見たことを口外するものですか! あんな人達の片棒を担ぐのはごめんよ!
そうと決めたら、気付かれないうちに、ここを離れないと。
そっとあたりを見まわす。
この柱の陰から出たら、いくらお互いに夢中になっていたって、見つかってしまうわよね。走ればよけいに足音がしてしまうし。
……庭のあそこの茂みに飛び込むのはどうかしら。庭を突っ切っていけば、そのうちどこかのテラスから入れそう。それに、そうだわ、靴を脱げば足音もしない。
こっそりと靴を脱ぐ。ストッキングごしだと、石敷の床がひんやりと冷たい。……ストッキングも汚したくないわね。
靴を下に置き、スカートをたくし上げて、ガーターと結びつけている紐をほどいた。ささっと脱いで、スカートのポケットに突っ込む。
よし、準備はできたわ。
両手に靴を一つずつ握りしめ、そうっと柱の陰から顔を出し、あらためて殿下達を窺った。
いい感じに、フレドリック様がのしかかっている。行くなら今だわ!
走りだそうと庭の方を向いた瞬間、目の端に人影が見えた気がして、足を止める。思わずそちらを見れば、いつのまに来ていたのか、一つ向こうの柱のところに男性が立っていた。
篝火に照らされて、顔の上半分を覆う眼鏡が不気味に光っている。
あれはシュリオス様!?
思っていたより背の高い方! それが真っ黒な衣装で、篝火に踊る真っ黒な影を引きずって、不気味も不気味、伝説の魔王みたい。特に、ぐるぐる眼鏡のせいで目の表情がわからないのが、得体が知れなくて怖い!
……なんということかしら。ヴィルへミナ殿下の気持ちがわかってしまった気がするわ……。
いいえ! いいえ! だからといって、仁義もなにもないやりようは、エレガントじゃないわ!
あ、もしかしてシュリオス様は、殿下達に気付いて、怒っているから不穏な雰囲気を醸し出しているとか……?
そうよね! 婚約者の不貞を見つけた男なんていう、泥沼三角関係で一番痛い役どころだもの、不機嫌にもなるわよね!
……あ。そんなものに陥っているところなんて、誰にも見られたくないのでは……。
す、と彼の足が動いた。す、す、す、すと、足音も立てずに、……まっすぐこちらに向かって来るー!?
あわてて靴を持っている手をスカートの襞の間に押し込んだ。同時に腰も落としてしゃがみこむ。素足を親族以外の男性に見せるなんて、淑女としてできないわ!
柱に背を押しつけて、気持ちだけじりじりと後退りつつも、柱の陰から出るわけには行かなくて、すぐに窮する。
心の中で何度も念じる。私、何も見ていません! 少々通りがかっただけで、あちらに誰かいるなんて気付いていませんし、高貴なあなた様のお名前なんて、しがない伯爵の娘である私は知るわけもありません! ですので、泥沼三角関係だということもわかっていませんから、どうぞ私のことは無視して通り過ぎてえええ、お願い通り過ぎてえええーーー!! いやああああー!? なぜ目の前で膝をつくのおおお!?
「レディ、どこかおかげんでも?」
間一髪で悲鳴を噛み殺した。
おかげん? おかげんでも? ……心配されている?
おおお! シュリオス様は紳士だった! 噂どおりの方だった! 目の前の婚約者と義弟の不貞を糾弾するより、具合の悪い婦人に手を差し伸べる方だったー!!
「ああああし、足を……」
「ああ、脱いでいましたね。靴擦れでも?」
脱いでいましたね!? えっ!? まさか脱いでいるところを見られていた!? どこから見ていたの!? 靴を握ったところからならいいのだけれど……。
「そ、その、挫いてしまって……」
「そうでしたか。……失礼」
シュリオス様が迫ってきて、その大きな影に体がすくむ。背に手がまわり、柱から引き離されて、いやああああっ、足を抱えられた! なにするのおおおおーっ!?
ふわりと体が浮き上がった。
「手当てできるところまで行きましょう」
うわああああ、ごめんなさい、ごめんなさい、不埒なことされるかと誤解しました。ものすごく! ものすごおく!! 親切な方だったのにーーー!!!
「ありがとう、ございます……」
あまりの申し訳なさに、声が震えた。
「痛そうですね。揺れても痛みますか?」
「いいえ! 大丈夫、です」
痛いのは、こんなにいい人を疑ったり騙したりしている心のほうです……。
「ああ、失礼、名乗りもしないで。得体の知れない男に連れ去られたら、恐ろしくも感じますね。私はシュリオス・ジェダオ。ジェダオ公爵家の者です」
やはりそうでした! 陰気そうとか思ってごめんなさい! 結構たくましいお体をしていますね!? 軽々とお姫様抱っこされておりますよ! お声も穏やかで深い響きがあって素敵です! それに、なにより紳士だわ! 絵に描いたような紳士!
「私はセリナ・レンフィールドと申します。ネレヴァ伯リオズ・レンフィールドの娘にございます。助けていただき、ありがとうございます」
「ああ、レンフィールド伯爵の。彼とは面識があります。
セリナ嬢、これから我が家の休憩室に行こうと思うのですが」
「いいえ! いいえ! 使用人の待合室へ連れて行ってくだされば、家の者がおりますので!」
「ですが、……その、セリナ嬢はストッキングも脱いでいたでしょう」
ぴゃっと肩が跳ねる。
ああああ、やはりこの方、私が靴を脱ぐところから、スカートをたくしあげて、ガーターの紐を解くところまで見ていたんだわーーーっ!?
「待合室へ行けば、多くの者にストッキングをはいていない姿を見られます。しかも、回廊でそんな姿をしているところを助けられたと知られれば、よからぬ噂をされるでしょう」
そうですね! 結婚前の娘が男性と密会していたかと思われますね! 貞操に問題ありとして、良縁は望めなくなります!!
「……たいへん恐縮ですが、ジェダオ様の休憩室をお借りしたく……」
「遠慮することはありません。それならばうちの者がいますから、手当ても内密に済ませられるでしょう」
「重ね重ねお手を煩わせますこと、誠に心苦しく思います」
「レディを助けるのは紳士として当然のことです。女性の憂いを払い、笑顔になってもらえるのなら、それだけで報われるものなのですよ」
これまで誠実な口調を崩さなかったのに、最後のところだけ笑みを含んだ声音でしたね!? これ以上気にしないように、冗談ぽく言ってまぎらわせてくださった! さすが紳士! 本物の紳士がここに居ます! ここまで紳士だと、もう返す言葉がありません!
「ありがとうございます」
私は躊躇いつつも、言われたとおり笑いかけてみた。
目のほうはぐるぐる眼鏡でわからないけれど、口元は両端が上がっている。くすっと喉の奥で笑う声が響いてきた。