第9話
――ぴちょん。
水が滴り、波紋が広がる。しんと静まり返った薄暗闇。じめじめとした空気はまとわりつくように重苦しく、先の見えない通路はどこまでも続いているかのような錯覚を覚える。いつ、どこから何が飛び出してきてもおかしくないような緊張感は、ここがダンジョンであることを改めて教えてくれる。
「っ」
大丈夫なのか。俺は、本当にここに来て良かったのか。言いようのない不安が胸に渦巻き、冷や汗が頬を伝う。
「ふわぁ……ふ」
そんな俺の緊張を溶かす甘い声。さっきまでソファーでスヤスヤ眠っていたロココは、この薄ら不気味な雰囲気にも気圧されることなく眠たげに目を擦っている。どこでもこの調子だ。ガチガチに緊張していたヘレナも、ほっと息を吐いた。
「大丈夫か?ヘレナ」
「……は、はい……」
「よし。それじゃあ、行こうか……――っと、ちょっと待て。ムーはどこだ?」
ロココが俺の手をくいくいと引き、水路を指差す。真っ黒な水面を音もなく切り裂く赤いヒレ。ムーは水の中で身を翻して水面から顔を出し、髪に似た触手をうねらせた。やはり魚人種というだけあって、泳ぎは得意なようだ。
なんて考えていると、ムーは口を膨らませ、数匹の小魚を俺の足元に吐き出した。
「……」
じっと俺を見上げる大きな眼。どこか自慢げにも見えるその表情。これは、褒めてやるべきなのだろうか。
「……取ってきてくれたのか。ありがとうな。――でも、戻してやろうな」
「む」
その頭を撫でてやりつつ、哀れな小魚たちをつまんで水路に戻していると、今度はヘレナが悲鳴を噛み殺すような声を上げる。その視線の先。耳障りな息遣いと共に、ぞろぞろとやってくるいくつかの影。
それは、群れを成す緑色の子鬼。ゴブリンであった。
「――さっそくおでましか。二人とも、援護を頼む」
剣を抜いて構える。少し数は多いが、これくらいならどうにかなる。しかし、ゴブリンたちの様子がおかしい。
「ギャッ、ギャ……」
「……ギャウ」
ゴブリンたちはすぐさま襲いかかってくるような素振りは見せず、俺達を指差して何やら顔を見合わせている。ゴブリンは地属性の下級モンスター。常に群れで行動し、巧みな連携によって獲物を狩る狡猾な狩人たちである。当然ながら、俺達人間も狩りの対象だ。
「……こ、攻撃しますか……?」
「いや、待て。様子が変だ。あいつら、どうして襲ってこない?」
恐らくは手作りであろう石の棍棒を手に、こちらを威嚇するような仕草を見せるゴブリンたち。しかしある程度の距離を保ったまま、それ以上近づいてはこない。俺達を警戒しているのか?
「……このまま距離を取ろう。奴ら、何か企んでいるのかも」
俺達はゴブリン達に背を向けぬように身構えたまま、じりじりと後ずさる。そんな中、ムーは逆にゴブリンたちへと近づいてゆく。
「ムー!ダメだ、こっち来い!」
「?」
ムーはきょとんとして振り返る。緊張も警戒もしていない。ゴブリンたちを危険なものだと思っていないのだろうか。
「ギ、ギギッ」
「ギャッ!ギャッ!」
ゴブリンたちは口々に何か叫びながら後ずさり、ムーに向かって武器を振りかざす。まるで怯む気配のないムーがまた一歩近づくと、悲鳴のような声が上がる。その様子はまるで、こっちに来るなと叫んでいるかのような。
「こ、怖がってる……?みたい、です」
「襲ってこなかった理由はそれか。――奴らは魚人種を恐れているんだ。理由は分からないけど、多分、天敵か何かなんだろう」
モンスターは本来、この世界の生き物ではない。その多くは、こちらの世界の生き物より遥かに強靭であるはずだが……
「……」
「ギ……!」
ムーがその尻尾を強く叩きつけると、ゴブリンたちは一目散に逃げ出してしまう。俺達は顔を見合わせた。
◆
一方、黒猫の獣人ミーシャは素材屋を訪れていた。
「――これ。買い取ってちょうだい!」
カウンターに積み上げられる無数の牙。それは、森の荒くれ者「キラーファング」の長い牙。白くて美しく、強度も高いことから武具の素材としてはもちろん、装飾品の材料としても高い価値を持つモンスター素材。
当然ながら、そう簡単に手に入るものではない。素材屋のおやじはフフンと息を吐いて自慢気に胸を張るミーシャをまじまじと見つめた。
「……お嬢ちゃん。これ、どうしたんだい?」
「どうって、森で手に入れる以外の方法があるかしら?」
「ほう。そりゃあ、大したもんだ!」
おやじは勢いよく立ち上がり、大きな拍手をした。
「Eランクのシーフがキラーファングを仕留めるとはな!それも一匹や二匹じゃねえ。群れごと一網打尽にしたってのかい?お前さん、よほど罠の扱いが上手いんだな。道具の知識も相当のモンと見た。こりゃあ将来有望だぜ」
「え?いやぁ、そんな。こ、これくらい大したことないわよ?ふふ」
「それじゃあ今からこの宝の山を査定するから、また後で来てくれるかい?なにせこの数だからな。すぐには終わらねえよ」
「どれくらい掛かりそう?」
「うーむ――」
ミーシャとおやじは、共に空を見上げる。
二人が見上げた大空の彼方には、雲の合間を悠々と泳ぐ巨大な少女。眩い輝きを放つ光輪を背負い、光り輝く黄金の羽衣を身に纏うそれは、直視するにはあまりにも眩しすぎる「光そのもの」。その身から溢れる陽光で大地を照らし、動植物に1日の始まりを告げる者。
人は彼女を、「ソラール様」と呼ぶ。
「……そうだな。ちょうど、ソラール様が西の山脈を超える頃には終わるかね」
「そう。わかったわ。じゃあまた後でね」
すっかり機嫌を良くしてその場を立ち去るミーシャ。その後ろ姿を眺める冒険者の一団が顔を見合わせてにやりと笑った。