第5話
「痛……ッ!」
交わる視線。溢れる吐息。少女の牙が俺の指に食い込み、鋭い痛みが駆け抜ける。その痛みに顔をしかめると同時に、なぜか少女も苦しげに顔を歪める。すぐさま俺の指は吐き出され、太い尻尾が勢いよく俺の脇腹にめり込んだ。
「ぐ、うッ」
新たな痛みを上書きされ、俺は尻もちをつく。
「だ、大丈夫ですか……!?」
「……ゆび、血でてる」
「あぁ、大丈夫だ。それより――」
駆け寄ってきた二人と共に、再び少女に目を向ける。飛び退いた少女は地面に両手と両足をついて尻尾を高く持ち上げる威嚇の姿勢を取るが、しかしすぐにその場にへたり込んで何やらもがき始めた。どうやら、首輪を外したがっているようだ。よく見れば、首輪に刻まれた謎の紋様が光っている。
「あの首輪、ただの首輪じゃないな。魔法が掛けられた拘束具だ。……多分、呪術系の」
三人で顔を見合わせる。
どういうことかはおおよそ察しがつく。ああいった道具を用いて亜人種を従えようと考える人間は少なくない。助けてやりたいが、しかし奴隷は誰かの所有物。その拘束具を勝手に外して逃がそうものなら、罪に問われる。俺だけならまだしも、ロココとヘレナを巻き込むのは……
「(……いや、待てよ)」
違うな。違うぞ。奴隷だなんて、誰が言った?確かにあの首輪は、奴隷の拘束具としてよく用いられているものだ。だがそれは、彼女が奴隷であるという証明にはならない。
「ヘレナ。解呪魔法は使えるか?」
「…………はい」
しっかりとした返事。どうやら俺の意図を察してくれたようだ。呪いというものは付与するのに手間が掛かるぶん、そう簡単には解けない。ヘレナ一人の力では恐らく無理だろう。だが、ヘレナの魔力そのものを底上げする方法があるなら話は別だ。
例えば、そう――エンチャンターがいれば。
「……」
俺とヘレナの視線が、ロココに向く。ロココはこくりと大きく頷いて、ヘレナの体に触れる。その瞬間。柔らかな光がヘレナの体を包み込んだ。
「っ、……!」
「いけそうか?」
魔力がみなぎっているのが、俺にも分かる。エンチャンターは補助魔法に特化したジョブ。その効果は、道具を用いた一般的な能力補助とは比べ物にならないほど強い。ヘレナは長い杖を頭上でくるりと一回し。勢いよく地面に突き立てた。
『――ディスペル!』
キンと音を立てて広がる魔法陣。溢れ出す魔力は光の矢となって上空へ打ち上げられ、そして少女に向かって降り注ぐ。それはまさしく、光の雨。いくつもの優しい光がキラキラと瞬き、柔らかな風と共に散ってゆく。
ディスペルは呪術を打ち消す浄化の光。その身に浴びることで、装備品に掛けられた呪いを解除する魔法だ。
「……」
倒れ込んで悶え苦しんでいた少女はむくりと身を起こし、その真っ黒な眼をぱちくりさせて俺達を見つめる。首輪の紋様は、その光を失っている。どうやら、彼女の身を蝕んでいた呪いは無事に解除することが出来たようだ。
「大丈夫そうだな。よかった。……怪我は、ないんだよな?」
ヘレナは頷く。
「なら、いいんだが……これからどうしようかね。この子」
改めて周囲を見渡す。ひどい有様だ。
ここに倒れていたことを考えるに、呪いで身動きが取れなくなっていたところをキラーファングの群れに囲まれて、しかし襲われる寸前に通りかかった別のモンスターが群れを蹴散らしていったのだろう。呪いで動けなかったこの子はモンスターの視界に入らず、無事だったというわけだ。そう考えれば、この子が無傷で倒れていたことにも説明がつく。
「(それにしてもこの子……どこから来たんだ?)」
俺が地面に落としたタポンの実を拾い上げ、柔らかいそれに喰らい付く魚人種の少女。魚人種は水辺に住む亜人の一種である。この近くに、川か池でもあるのだろうか。
「なあ、お嬢ちゃん。仲間がどこにいるか分かるか?ちゃんと帰れるか?」
「……」
地面に膝をついて尋ねてみるも、返事はない。何を勘違いしたのか、自らの触手状の髪を一本もぎ取って俺の顔にぐいと押し付けた。
「……くれるのか。あぁ、ありがとうな」
受け取ったそれが、俺の手の中でモゾモゾうごく。絶妙に気持ち悪いが、しかし握った感触は悪くない。それにしても、この子。言葉が通じているのか、いないのか……なんて考えていると、少女はヘレナとロココにも触手を手渡した。
「えっ、と……あの……」
「お礼のつもりなんだろう。この子なりに、感謝してるんじゃないかな」
ヘレナは受け取った触手と少女とを見つめ、若干ぎこちない笑みを浮かべて軽く首を傾げる。少女はそれを真似るように首を傾げた。二人が力をあわせて呪いを解いてくれたということを理解しているのだろう。
「……」
ロココは触手をじっと見つめ、ぱくりと頬張った。
「えっ」
「……た、食べ……?えっ……?」
「こりこりしてう」
食べられるのか。これ……
◆
鬱蒼とした森の中。転々と転がるキラーファングの死骸。銀のショートヘアに小さな骨の髪飾りを付けた黒衣の少女が最後の一匹を締め上げ、その首をナイフで掻き切る。絶命と共に吹き出した赤い煙は、少女が首から下げている宝石の中へと吸い込まれた。
「……?」
少女はナイフを逆手に握り直し、静かに振り返る。
その視線の先には、木の陰で必死に声を押し殺す黒猫の獣人ミーシャの姿があった。
「……」
「……ま、待って!降参。降参するわ」
ミーシャは両手を上げ、そろりと木の陰から出てくる。その耳は、ぺたんと寝そべっている。
「あ、ああたしはその、偶然ここに居合わせただけっていうか、薬草採りに来ただけで……ほら、見て。ポーチの中身も石ころと葉っぱだけ。ね?だからその、見逃してほしいって、いうか……えっと……」
「そう」
少女は掴み上げたキラーファングの死骸をぽいと投げ捨て、踵を返す。
「……ね、ねえちょっと。剥ぎ取らないの?そいつの牙、高く売れるのよ?腐る前に剥ぎ取らなきゃ――」
「……」
少女はもはや振り返ることもない。ミーシャはただその場に立ち尽くし、尻尾を揺らした。
「も、もらっちゃうわよ?いいの?ねえったら!」