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いやいや拒否は無いでしょと、キセンセシルは内心で右手をパタパタと仰ぐように左右に振った。クースデルセの高らかな宣言は、少々、いやかなり斜め上を行っていた。
しかし表向きは澄まし顔で顎を突き上げる。
「おやまあ、おかしなことをおっしゃいますこと」
婚約破棄をするつもりだっただろうに、一転、それを拒否するのだから奇妙奇天烈だ。
しかしこれはこれで、懸念が一つ浮かび上がる。クースデルセが婚約破棄を拒否した上で、改めて婚約破棄を叩き付けると言う行動に出ることだ。これをやられると、どっちが先かの泥仕合に持ち込まれかねない。泥仕合で痛手が大きいのはやはり女性側なのだから、できれば避けたいところである。
そこで少々視点を変える。相手の目を、婚約破棄ではなく、恋人の方へと向かわせる。
「先程までお隣にいらしたご婦人もお睨みでしてよ?」
奇妙なことに、彼女はいつの間にクースデルセの腕から抜け出したのか、彼の取り巻きらしき男性の腕を抱いてぷるぷる震え、恨みがましい視線をクースデルセに向けている。
このせいも有ってか、問い掛けた言葉は効果は覿面だった。恋人の様子を覗ったクースデルセが狼狽える。不思議なのは、恋人が他の男性に触れていることに対する嫉妬も怒りよりも、焦燥が色濃く出ていることだ。ただただご機嫌を取ろうとする。
「あ! こ、これは! 売り言葉に買い言葉であってだな……。あの者との婚約は破棄する。破棄するから機嫌を直してくれ」
ひょんな所から婚約破棄の言質が飛び出した。すかさず、キセンセシルが「婚約破棄に同意されるのでございますね?」と念を押せば、「ああ、そうだ」とクースデルセが煩わしげに肯定する。
これにはキセンセシルもにんまりだ。先の懸念があっさり払拭された。瞬く間に気持ちも余裕綽々になる。元婚約者の恋人が腕を絡ませている相手をじっくり観察することだって自由自在だ。
改めて観察して奇妙なことに気付く。彼のことはてっきりクースデルセの取り巻きとばかり考えていたが、クースデルセの態度がそれを否定している。恋のライバルに対するもののようだ。これはどうしたことかと考える。
しかし考えても浮かぶのは仮説だけだ。どうにもはっきりしなくて落ち着かない。だからついつい鎌を掛けてみる。
「そちらの方はハーナーシ・タノバース様でいらっしゃったでしょうか? 殿下と将来を誓い合ったご婦人相手にお顔の一部が伸びてらっしゃいましてよ?」
「じ、自分は滅相も……!」
表情を指摘した途端、彼は左手で顔を押さえ、その殆どをピンクの髪の彼女に向けていた視線を彷徨わせ始めた。それでも頻繁に彼女へと視線を落とす。少なくとも横恋慕しているのは確実だ。間男かも知れない。
一方、ピンクの髪の彼女はそんな彼の動揺に気付かないのか、クースデルセに恨みがましい視線を送り続けている。
わざとだなと、キセンセシルは直感した。両天秤に掛けられている元婚約者に僅かばかりの同情心も湧く。
「殿下も、恋人が他の男性の腕を抱いて、胸まで押し付けるのを見過ごしてよろしいんですの?」
「こ、これは余が彼女を不安にさせたからだ。現に彼女は震えているではないか」
とんだへたれだ。「生涯の妻」とまで言ったのだから、正式にはまだでも婚約者のようなものだろう。その婚約者の浮気を今から認めてどうするのか。
キセンセシルはあまりに滑稽に思えて、鼻で嗤った。
「あらあら、お優しいこと。恋人の放埒な振る舞いに寛容でいらして」
「く……、何て意地の悪い女だ!」
さすがに嘲りには敏感だったようで、クースデルセは苦々しげに顔を歪めた。
ところが何かを閃いたらしい。
「……そうか、判ったぞ。その意地の悪さでシーリーを虐めたのだな!」