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第8章

 そして月曜日――ロンは学校を休んだ。


 正確には、本当は彼にも最初から計画的に学校を休もうという気持ちはなかった。土曜日はゆっくり自宅で過ごして自分の好きなことをし、日曜日は教会学校へ行って楽しく過ごした。そこに友達が何人か出来たため、学校でも同じだったらいいのになとロンは思った。


 月曜日になり、自由研究の発表が自分の番からだと思い、その日は朝から緊張していたが(二度もトイレに行って、大きいほうのをした)、それでもとにかく、いつもの習慣で学校へ足を向けることにはそうしたのだ。けれど、歩いて十分もかからない学校の姿が見えたところで……ロンはくるりと踵を返していた。自分でもよくわからなかったが、何故か勝手に体がそんなふうに反応してしまったのだ。ロンは走った。そして、忘れ物をしたから家までそれを取りに行くのだという振りをしつつ――広いヴィクトリアパークの中を彷徨い歩いていった。


(家には帰れない!だってお姉さんやマグダやミミがいるもの。じゃあ、どうしたらいいんだろう。学校へ行かないで、ぼくは一体どうしたら……)


 それに、無断で休んだりしたら、絶対家に連絡が行くはずだ。そしたらどうなるだろう。おねえさんは初めてぼくのことをこっぴどく叱りつけるだろうか?それとも、家に帰ったら連絡を受けたイーサンお兄ちゃんがいて、優しいおねえさんの代わりにぼくを叱ろうと待ってるかもしれない……。


 そんなことを色々考えながら、息がつけなくなるまで走り続けて、ロンはようやくヴィクトリアパークの端のほうまで来た。今は九月だが、薔薇がまだ咲き誇っていて、綺麗なよく整った緑の芝生に色を添えていた。ロンはまず、背中からカバンを外すと、ポプラの樹の茂みに隠した。公園内の時計を見ると、八時二十分だった。予鈴が鳴るのは八時二十五分だ。


 ロンは、他に何かする・できることもないので、まずは公園内をぶらぶらしはじめた。ただし、自宅が公園の通りを挟んだ向こう側にあるため、そのあたりをうろうろすることだけはやめた。幸い、ヴィクトリアパークはとても広く、東西に1.5キロメートルほども伸びているため、端のほうか、あるいは西に進んでいって自然史博物館や美術館、あるいは大きな噴水のあるエリアくらいまで行くなら――まずもって誰にも見つからないのではないかという気が、ロンはしていた。


 そしてロンは芝生と花壇の整った区域で(ヴィクトリアパーク全体で100種類以上、5000本以上の樹木が植わっている)、ライラックやハル二レやケヤキの樹などを見て歩いたり、あるいは薔薇が特に多く植わっている花壇では、カミーユ・ピサロやアールドゥヴィーブル、シャルル・ドゴール、プリンセス・ドゥ・モナコ……といったようにひとつひとつ名前の書いてあるのを眺め、一生懸命覚えようとした。またロンは、そうする傍らで樹木の一本一本や花のひとつひとつに挨拶したり、声をかけたりしながら散歩した。もちろん、心の中で、ではあったけれど……。


 それから、真ん中に天使の立っている噴水のところまでやって来ると、その噴き上げる水が日光にきらきらと輝くさまを見た。(なんて美しいんだろう)とロンは思った。(こんなお天気のいい日に、こんなにのんびりした幸福も味わわずにあんな嫌な学校へ行くだなんて馬鹿げてるよ。第一、僕は将来は漫画家になりたいんだ。それなら、そのための一番の早道は毎日いっぱい漫画を読んで、自分なりに研究して、いっぱいいっぱい絵を描くことだよ。それなのに、毎日胃が痛くなったり下痢になったりする意味がさっぱりわかんないや……)


 もちろんロンは、大好きだし、敬愛している兄が、有無を言わさずとにかく学校へ行かせようとするだろうとわかっている。もしかしたらあの優しいおねえさんは自分の味方をしてくれるかもしれない。けれどそれでも――兄と激しく喧嘩してまでも「学校へは行きたくなかったら行かなくていいのよ」とは言ってくれないだろう。


 またロンは、時々この兄のイーサンが自殺する苦しみについて、何故か自分に話したがることに気づいていた。首吊りっていうのは楽じゃないぞ、第一首が絞まった時に脱糞するそうだ、だの、睡眠薬自殺は楽そうに思えるだろうが、人間には体質ってものがあって、どのくらいの量を飲めば死ねるかは未知数だとも言ってたことがある。昔、あるお医者さんが不治の病いにかかったことを儚んで、これだけの量を飲めば間違いなく死ねると思ったが、物凄いいびきをさせながら三日三晩眠り続けて、最後は結局最悪の気分で目が覚めたという話や……「いいか、ロン。医者ですらこの始末なんだ。おまえが将来何かのことでとてもつらくなったとしてもだ、ああすれば楽に死ねるなんて方法はこの世にはないと思って諦めろ。それよりは生きていたほうが百倍もいいってことをよく思い出せよ」


 正直、ロンはその種の話を兄がするたび、「なんでイーサン兄ちゃんはそんな話をぼくにするんだろう」と思った。ただ、勉強を教えてくれる時によく「こんな問題も解けないようじゃ、将来負け犬確定だぞ」という言葉を口にすることから――将来、弟が究極の負け犬になって世を儚み、自殺したくなったら自分の話を思い出せという、そういうことなのだろうかと思ったりした。


 学校で孤立していることは、ロンにとってつらいことではあったが、それでも死ぬほどの悲劇ではなかった。けれど、これでもし学校で本格的にいじめにあっていたとしたら……そのことが原因で死んでしまう子の気持ちはよくわかると思っていた。


(なんにしてもぼくの場合は何より、夢がある。将来漫画家になって有名にさえなれれば、今つらく感じていることもその頃にはすっかり忘れてしまうだろう。それに、まだ完結してなくて続きの気になる漫画もいっぱいあるし……)


 ロンはベンチに腰かけたまま、噴水のきらきら輝くさまを見て、どうして漫画のことだけを考えて生きていてはいけないのだろうと考えた。けれど、結局のところ『ぼくは学校なんか行かないで、漫画のことだけ考えて生きていたんだ!』と家に帰って叫んだところで、誰も認めてはくれないに違いない。その上、兄のイーサンは中学からは寄宿学校へ行けという。そんなことをしたら、門限だの消灯時間だの、色々なことがあってますます漫画を描く時間も読む時間もなくなってしまうというのに!


 こうした自分の本当の気持ちを、どうやったら周囲の人々にわかってもらえるのか、ロンにはわからなかった。そして何より、仮にかなりのところそれを理路整然とうまく説明できる言葉が見つかったとして――それを口に出して大きな声で説明する勇気が、自分には圧倒的に足りないと、ロン自身がそのことを一番よくわかっていた。


 なんにしてもこの日、ロンはヴィクトリアパーク内をぶらぶら散歩しているうちに、白髪頭のおじさんに話しかけられ、「坊や、学校はどうしたね?」と問われるなり、回れ右をして走って逃げだしていた。そしてカバンを隠しておいたポプラの樹の茂みあたりまでやって来ると、カバンの中身がそっくり無事なのを確認して、さらに西へとあてどもなく歩いていった。


 時計を見ると十時二十分だった。学校をサボることに決めてから、約二時間ほどが経過し、これから授業のほうは三限目に向かおうかというところだろうか。


(今日の三時間目は図工だっけ。ぼくにとって唯一心から楽しい時間……でも、しょうがないや。今日の自由研究の発表は、ぼくを飛ばして次の子からはじめて、終わりまで行くだろう。そしたら先生も、ぼくひとりだけきのう休んだから、なんていう理由で無理に発表させようとしないだろうし、明日こそは必ず学校へ行こう)


 一度そう心に決めると、ロンは心が少し軽くなった。もしマクブライド先生から屋敷のほうへ電話が行ったにしても、一日くらいならどうとでも言い訳が立つと思った。学校へ行く途中でお腹が痛くなってヴィクトリアパークで暫くじっとしてたら、遅刻してクラスに入っていくのが恥かしくなってそのまま休むことにした……とでもなんとでも言えば、あの優しいおねえさんは必ず理解してくれるとロンにはわかっていた。


 そしてこの日――ロンは街中にある一番大きい本屋まで歩いていき、そこで時間を潰したあと、近くのハンバーガーショップでハンバーガーを食べ、午後からは図書館へ行った。ロンは今四年生で、五限目まで授業があるが二年生の頃くらいまでは四時間目が終わったら大体のところ家へ帰ることが出来た。だから自分くらいの子供が午後から平日に図書館にいたとしてもさしておかしくもないだろうと考えたのである。


 そこでロンは自分の好きな本などを読み耽って心の滋養を養うと、五時間目の授業終わりの鐘が鳴る少し前くらいに家のそばまで辿りつけるよう計算して、帰路に着いた。それから屋敷の広い庭で時間を潰して、ドキドキしながら正面玄関のドアを開けたのだった。


「あら、お帰りなさい。今日はなんだか少し早かったのね」


「う、うん。学校の授業が終わるのと同時に、走って帰ってきたんだ。今日は掃除当番ってわけでもなかったしさ」


「そう。おやつ、出来るから、ちゃんと手を洗ってね。ランディみたいに手を洗う振りだけして食卓に着いたりなんかしないのよ」


「そんなの、もちろんだよ!」


 ロンはそう叫んで、エレベーターのボタンを押し、五階まで上がっていった。心からほっと安堵した。これはたぶん、おそらくということだが――どういうわけか、学校から無断欠席のことで連絡はまだ来てないらしい。


(そっか。良かった。これで明日学校へ行けば、何もかも元通りだぞ)


 その日、ロンは良心の呵責から、食器洗浄機に食器を入れるのを手伝ったり、あるいはマリーが洗濯をしてアイロンをかけた衣類などを片付けるのを手伝ったりした。そして、(毎日、漫画を描いたりしながら、あとはおねえさんのお手伝いでもして暮らしていけたらいいのになあ!)と考えた。


 ミミはいつでもおねえさんのあとをついて歩き、アイロンをかける様子を真似したり、あるいは小さなハンカチやタオルなどを一度畳んではまた元に戻し、畳んでは元に戻し……ということを繰り返したりしている。可愛い妹だ。ココに比べて、この子はきっとマリーおねえさん似の心の優しい子になるだろうと、ロンはいつもそう思っている。


 この日の夜、ロンは毎日の習慣で、勉強の予習や復習をしてから漫画を描きはじめ、それから隣におねえさんの声がしはじめると、またその上を教科書やノートで覆った。この時ロンは、「何か悩んでることでもあるんじゃない?」とマリーに聞かれ、思わず「ど、どうして?」と、どもりながら答えていた。


「んーと、そうね。悩んでることじゃなくても……何かおねえさんに話しておきたいことはない?」


 ロンがこの時瞬間的に閃いたのは、大体次のようなことだった。本当はマクブライド先生から無断欠席について電話が来ていたのに――おねえさんに特有の優しさから、そのことを黙っていたのではないかということだった。しかも自分が色々と率先して手伝いなどをしたものだから、良心の呵責に苦しんでの行動と、そう取られたのかもしれない。


「べつにないよ。それより、勉強忙しいから、ミミと一緒にあっちに行ってくれないかな!」


「ロン兄たん、おこってるー!!」


 そう言ってぷうと頬を膨らませるミミを連れて、マリーはロンの部屋から出ていった。


 そしてふたりが部屋から出ていくと、ロンはあらためてドキドキしてきた。(もちろん、あのおねえさんに悪気はないんだ。そのことはわかってる。でも、イーサン兄ちゃんなら、絶対すぐ首根っこを掴まえてくるのに……この場合はかえって嘘がばれたらなんだか余計につらいや。「今日学校休んだでしょ!?」とでも、目を釣り上がらせて怒ってくれたほうが、まだしも気楽っていうか……)


 それからロンはまた、(いや、あのおねえさんは本当に善良ないい人なんだ。もしかしたら本当に学校から電話も何も来てなかったのかもしれないし)とも思った。そして、(いずれにせよ、悪いのは自分なのだ)という、最初の地点に思いは返っていく。


(なんにしても、明日は絶対必ず学校へ行くぞ。そしたら、あのおねえさんが優しさからぼくの嘘を見逃してくれたのでもそうでなかったとしても、それはどっちでも同じだってことになるんだから)


 だが、ベッドの中でそう心に決めて就寝したにも関わらず、ロンは翌日もまた学校へ行かなかった。いや、きのうと同じく学校へ行くつもりでその方向に途中まで足を向けはしたのだ。けれど、学校の校門が遠くに見えてきたあたりで――やはりくるりと体を反転させて、脇道へと逸れてしまった。


(何やってるんだよ!?こんなこと、いつまでも続けられるわけがないだろ?それに、きのうは一日くらいだったからともかく、今日は絶対に先生から家のほうに連絡がいくはずだ。あのおねえさんがイーサン兄ちゃんに連絡したりしたら、それこそ一時間二時間の説教じゃすまないんだぞっ)


 心の中ではそう思いながらも、ロンは一目散に脇道を走り、<学校>と呼ばれる刑務所のような場所から自由な空気を求めて逃れでていた。そして、この時ロンの脳裏にあったのは、きのう図書館で読んだユトランドを代表する作家や画家の書いたエッセイのことだった。



 >>僕は本当に、学校という場所が駄目でねえ。というか、集団行動ってやつが駄目なんです。<個>というのものを抹殺して、集団に馴染めというあの精神がね。もちろん、この世の中っていうのはそういうふうにして成り立ってるわけですから、ある程度協調性っていうものは大切だとは思います。だけどね、僕の場合自分の中の<個>を殺すっていうのは、本当に駄目でしたね。頭がおかしくなってある瞬間にワーッとなっちゃう。それでもう、家でずっと絵を描いて……そしたらおふくろが言うわけですよ。「おまえ、それは一体いつ金になるんだ」って。「おまえの絵が一枚でも売れて金にでもならないうちは、学校へ行け」と。ほんと、子供の心のわからない親だなあって思いました。でもうちのおふくろの偉いところはね、あとから僕にあやまったってことです。「おまえに特別な才能があるのはわかっていた、でもあの時点では親としてはああ言うしかなかった」と。大抵の親ってものはね、子供が学校へ行きたくないって言ったら、どうしたらいいかわかんないんですね。だからとにかく「なんでもいいから行ってくれ」と言う。僕は、もし自分の子供が学校へ行きたくないって行ったらいかせません。かわりに何をするかですって?学校をちゃんと卒業したっていう証書を最終的に取れるように勉強させながら、人生に必要なことを僕がかわりに教えるんです。大抵の親はね、経済的なこととか色々あるかもわからんけど、それが出来ないのだと思いますよ。それに、将来的に自分に何かの責任があるってなったら困る。親はその点については<学校>という場所に責任を取ってもらいたいんじゃないかと、僕はそう思いますね。



 ロンはトミー・アレルという絵本作家の書いた本のある場所に、その日図書館へ着くなり真っ直ぐに向かっていった。きのう、児童図書のあたりをなんとなくぶらついて、ぱらぱらとページをめくっていたらこの箇所に目が釘付けになったのだ。ロンは興奮した。確かに僕も学校へなんか行きたくない。また同時に、絵本画家のトミー・アレルはロンの憧れでもあり、目標にもしているような画家である……その人が、自分の子供が学校へ行きたくないと言ったら行かせないと言ってる!ロンはこの本を借りて帰ろうと思った。ただし、人から変に思われたくないため、あまり人気のない本棚のところへいって、自分の好きな本などを読んで時間を潰してから、最後にその本を借りるということにした。


 トミー・アレルという絵本作家の言葉は、ロンにとって革命だった!その本を胸に抱きしめているだけで、ロンはドキドキするほどだった。学校を休んでこの本の文章を偶然読んだのは、運命だったんだ、とすら彼は思った。今日の今日こそは、マクブライド先生から屋敷のほうへ電話が行ってるだろう。そしたら自分はトミー・アレルのこの本を差し出して、「ぼくも学校へは行きたくないけど、家で勉強します。それじゃどうしていけないのか、教えてください」とあのおねえさんに言うんだ。おとついは具合が悪いのかと聞き、きのうは悩みごとがあるのじゃないのと聞いてくれた優しいおねえさん!あの人ならきっと、このぼくの気持ちをわかってくれるだろう。


 そしてロンはこの日も、学校の五限目が終わる少し前に家の庭に戻り、頃合を見計らって何食わぬ顔をして正面玄関から中に入った。今日こそは必ず何か言われると覚悟していたが、やはりマリーは何も言わなかった。きのうと同じく、おやつを食べる前に手をきちんと洗ってねと言っただけだ。


(変だな。月曜・火曜と二日続けて学校へ行ってないのに、マクブライド先生からなんの連絡もないだなんて。それともやっぱり、本当はそうなのに、ぼくが嘘をついてるのを白状するのを待っているのだろうか……)


 そのような疑念がありながらも、ロンはトミー・アレルの本に力を得て、マリーが自分から何か言い出さない限りはしらを切り続けようと腹を決めた。(第一、学校へ行かなきゃいけないだなんて、一体誰が決めたんだろう。いや、僕は自分の心と魂にかけても、もう二度と絶対に学校へなんか行くもんか。それで、イーサン兄ちゃんの説教が終わったあたりにでも、このトミー・アレルさんの言葉を浴びせかけてやるんだ……!)


 ――こうして、その翌日の水曜日も、ロンは学校へ行く振りだけして学校を休んだ。ただし、この日は雨が降っていた。もちろん、傘をさしてどこか適当な場所で休むということも出来なくはない。けれど、かじかむ手を温めながら子供がいても不自然でない場所を探して歩くというのは、なかなか面倒なことだったし、図書館にも毎日行っているうちに、そのうち司書の誰かにでも補導されないとも限らない。


(そうだ!なんで気づかなかったんだろう。ぼく、学校へ行った振りだけでして、家に戻ってきたらいいんだ。それで、窓のひとつからでも侵入して、あのおねえさんが来そうもない部屋に隠れて、漫画でも読んでいよう。大丈夫だ。だって、うちの屋敷にはあんなにたくさん部屋があるんだもの……!)


 このことを実行に移すのは、ロンにとって容易かった。大体、昼間マリーはリビングを中心に活動していて、三階以上の部屋へは掃除くらいでしかやって来ない。ロンは屋敷の裏手の窓から中に侵入すると、階段をそっと五階まで上がっていった。自分の部屋に隠れるというのは、いくら灯台もと暗し作戦といえども、危険すぎる。そのため、ロンは母親が集めていたいるかグッズのひしめいているあの寝室へ、足音を忍ばせて入っていった。少し不気味なところのある部屋だけれど、ここならば間違いなく誰もやって来ないとロンも確信できる場所だった。


 また、三日続けて学校を無断で休んでいるのに、やはりロンはこの日も正面玄関から「ただいまー!」と帰ってくるなり、おやつと手洗いのことを言われただけだった。「まあ、こんなに濡れて……」とおねえさんがカバンやロンの体を拭いたりしてくれる間、流石に彼も気が咎めたものである。というのも、学校から十分近く歩いて帰ってくるのに、全然濡れていなかったら不自然かと思い、わざわざ庭でそのような演出を加えてから、ロンは家の中へ入ってきたのであったから。


「いいよ、おねえさん。ぼく、大丈夫だから。それより、今日のおやつは何?」


「今日はホットビスケットとココアよ。手洗いとうがいだけはちゃんとしてから食べてね。風邪でもひいたら大変ですもの」


「うん、わかった!」


 学校からまだ連絡が来てないらしいとわかるなり、ロンはだんだん行動が大胆になってきた。そしてこの頃には、この方法によって永遠に学校を休み続けられるのではないかと、ロンはそのように夢想しはじめてさえいたようである。


 だが、もちろんそんなことは決して起きようがなく――事のからくりはこうであった。月曜日、ロンが無断欠席した時、マクブライド先生にはその理由がわかっていた。自由研究の発表の番が自分にまで回ってきたので、教壇に立って大きな声で話す勇気がなく欠席したのだろう、と。


 そしてマクブライド先生はその日、あえてロンの自宅へは電話しなかったわけである。それで翌日、ロンのことを職員室へ呼びだして、何故無断欠席などしたのかと、直接聞くつもりてあった。ところがマクブライド先生、この頃学校で流行っていたインフルエンザにかかり、自分もまた学校を休むことになってしまったのである。また、他の学年のクラスではこのインフルエンザが猛威を振るっていたために、半数以上が休んでいるという学級もあったし、代理でやって来た先生はそんなせいもあって、ロン・マクフィールドの欠席もおそらく病欠であろうと一人決めしてしまったのである。


 マクブライド先生は結局のところ一週間学校を休むことになるのであるが、木曜日、ロンは少し困ったことになった。学校へ行く振りだけして帰って来、前もって鍵を開けておいた窓から侵入しようとしたその瞬間――何故か家の中に警報機の音が鳴り響いていたのである!


 ファンファンファンファン!!……という、パトカーの音にも似たそのけたたましい警報音を止めるため、ロンは玄関ホールのほうまで走って行かなくてはならなかった。もちろん、マリーかマグダが家にいれば、彼女たちが警報機を止めるだろう。だが、もしそうじゃないなら、警備会社の人間がやって来て、屋敷のまわりや中を調べる手筈になっている。


(まずい。まずいぞ……!!)


 とりあえずロンは冷や汗をかきながら警報機を止めにいき、それからリビングのあたりを覗きこんだ。――誰もいない。


(なんでだろう。おねえさん、朝ごはん食べてた時、今日はどっか行くって言ってたっけ?それとも、ミミがぐずって外に行きたいって言い出したのかな……)


 このロンの推察は当たっていた。子供たちが三人とも学校へ行っていなくなると、ミミは「公園に行きたいぞよ」とヌメア先生に言わせていた。そこでマリーは急いで散歩の用意をミミにさせて、ヴィクトリアパークまで歩いていったわけである。


「えっと、警備会社からの電話って、自宅に来るんだっけ?それとも、おねえさんの携帯かな……」


 ロンはよくわからないながらも、もし自宅にそのような電話が警備会社から来た場合、自分が「誤作動でした」と説明すれば事なきを得られると思った。けれど、もしマリーとミミが散歩に出かけたのだとしたら、おそらく二時間もしないで戻ってくるだろう。だが、彼女の携帯のほうに連絡が行った場合、おねえさんは急いで戻ってくるはずだ。その頃には警備会社の人も屋敷へ辿り着き……。


 そう考えると、ロンはどんどん嫌な汗が吹きだしてきた。かといって、この屋敷から出ることももう出来なかった。何故といって警備会社の人と庭あたりで鉢合わせするかもしれないし、電話だって待っていなくてはならない。


 そしてロンが、十分待って自宅の電話が鳴らなかったら五階の角部屋へ隠れようと思っていた時――車のタイヤが止まる音が表でして、そのドアを閉める音が聞こえた。(万事休す!)そう思ったロンは、慌てて階段をのぼっていき、息を切らしながら五階の母の寝室へ辿り着くと、クローゼットに隠れた。そしてその手に水晶で出来たイルカをしっかり握りしめ、(お母さん、どうか誰にも見つからないようにぼくを守って!)と必死でお願いした。


 この時、ロンにとってさらに悪いことには、それから間もなく兄のイーサンまでもが屋敷へ戻ってきたことだろうか。彼は大学の講義と講義の休み時間中、携帯がポケットで震えたので、それを受けていた。警備会社であることは番号の表示でわかったが、十中八九は誤作動だろうと思っていた。それでも、女こどもしか住んでいない家でもあり、心配になって自分でもバイクで向かうことにしたわけである。


 警察の人間かと見紛うような格好をしたふたりの男は、イーサンが辿り着いてみると屋敷のまわりを点検してまわっていた。特に窓が割られているといった侵入の痕跡はないとのことだったが、玄関のドアが閉まっていたため、イーサンにしてもその時点でかなりのところ焦燥感を覚えた。当然イーサンも鍵を持っているので空けること自体は造作もない。だが、警報機がすでに止めてあり、リビングのほうや一階のどこにも人の気配がしないとなれば――流石の彼も冷静さを失いはじめた。


「おい、マリーにミミ!!どこにいるんだ!?」


 五階まで吹き抜けになっている空間に向かい、イーサンはそう叫んだ。だが、返事はなく、彼は警備会社の人間が止めるのも聞かず、自分でも部屋の中を一室一室探しはじめた。万一の時のために、金庫に隠してある拳銃をその手に握って。


 ところが、彼がそんなふうにして二階のほうで血相を変えていた頃、マリーとミミが散歩から帰宅したのである。


「あんた……一体どこで何してたんだ!?」


「えっと、ヴィクトリアパークのあたりを散歩してたんです。ミミちゃんと」


 屋敷の前庭に警備会社の車が停まっていても、マリーはあまり深刻に受け止めていなかった。何故といって前にも一度似たことがあり、その時には警備会社のほうの手違いだということだったからだ。


「兄たん、おねえさんのこと怒らないで!ミミがね、お散歩したいって言ったの。だってね、新しい長靴買ってもらったから、それ、履きたかったの。だからおねえさんのこと叱らないで!おねがい!!」


 きのうは一日中雨が降りしきっていたが、今日は打って変わっての秋の快晴だった。けれど、道にはまだたくさんの水たまりが残っている。そこでミミは早く自分の新しい長靴を履いて歩きたくて堪らなかったのだ。しかもミミはそれのみならず、新しく買ってもらったばかりの猫耳つきのレインコートも着るといって譲らなかった。おそらく、ヴィクトリアパークを散歩するふたりを見て、少し奇異な印象を持った人もいたに違いない。雨ひとつ降りそうもないというのに、マリーとミミとは<雨降りごっこ>をして、ふたりで傘をくるくる回しながら歩いていたのだから……。


 ヌメア先生までが「お願いしまっしゅ!!」と言ったため、イーサンはすっかり肩から力が抜けた。拳銃のほうをジーンズの背中のほうへ突っ込み、ミミに見せないようにする。


「まあべつに、結局のところあんたとミミが無事ならそれでいいんだ。子供たちは学校だろ?」


「はい。ランディは今日、体育で平均台をやらされるとかで、うなだれてましたけど……それでも励まして行かせましたし、ココちゃんは友達がいつもみたいに迎えに来て、楽しそうに出ていきましたよ。ロンくんもきのうとか今日あたりはとても元気で、もしかしたら学校で友達が出来たのかなって思ったりしてたんです」


「ふう~ん……まあ、確かにデブに平均台はつらいわな」


 後ろで警備員のひとりがブッと笑いを堪えているのが聞こえ、イーサンはそちらを振り返った。


「ああ、何かご迷惑をおかけしたようで、申し訳ありませんでした。おそらくは誤作動か何かでしょうし、あとのことは大丈夫だと思います」


「まあ、こちらもこれが仕事なもので」


 背の高い、黒人のほうの警備員がそう言った。もうひとりは白人で、こちらもプロレスラーのような体型をした、いかつい顔つきをした屈強な男である。


「一応、屋敷の中を一通り、あらためさせていただきたいと思います。あとになってから部屋のどこかに強盗が隠れていたなんていうことにでもなったら、うちの信用に関わりますからな」


「そうですか」


(言われてみりゃそれもそうか)と思い、イーサンはふたりの後について、自分でも部屋をひとつひとつ見て歩いた。彼自身、強盗云々などと言われてしまっては、やはりなんだか心配だった。何分、ユトレイシア中でも地価が一番目か二番目くらいに高い区域に建っている、五階建ての豪邸なのだ。泥棒どもが下調べをして、女子供しか住んでいないと思い、とうとう計画を実行に移した……などということは十分ありうることだとイーサン自身思っていたからだ。


 だが、流石に五階にまで上がってくる頃になると、イーサンも(こいつらにとっととお引き取り願いてえな)と思うようになっていたかもしれない。こういう時、部屋数の多い屋敷というのは結構面倒なものだ。ベッドの下やクローゼットの中など、ふたりの屈強な男がしつこく取り調べるのを見るのは、退屈な目の保養以外の何ものでもない。


 そして最後の最後に――もう泥棒なんかひとりも隠れてなどいないだろうと思い、イーサンが欠伸を噛み殺していた頃になって、黒人のボクサーのほうが、白人のプロレスラーと何かざわついている声が聞こえたのだった。


「いえ、ぼくはここの屋敷の住人なんですっ。どうか信じてくださいっ!!」


 ロンはクローゼットの中で顔を青くし、震えあがらんばかりだった。そこへイーサンが部屋に入っていったものだから、彼の蒼白な顔は――文学的な表現でたとえたとすれば、それこそ「紙のように」白くなっていた。


「ロン、おまえここで何してる?というよりおまえ、学校は?」


 自分でもそう言ってしまってから、数秒とかからず、イーサンにはすべてのことが飲み込めていた。新学期がはじまってから、やはり学校へ行くのが嫌になり、学校へ行く振りだけをして屋敷へ戻ってくる……何分、新しく家へやって来たおっかさんは甘いから、仮に何かの偶然から自分の姿を発見しても、決してそうこっぴどく叱ったりはすまいと高をくくっていたのだろう。


 黒人のボクサーと白人のプロレスラーのほうでも、この家の主の険しい顔と、心底脅えきっている十くらいの男の子を見て、大体のところ事態を了解した。ロンのほうではすでに、喉から言葉を発する勇気もなく、ただ力なく床のイルカの絨毯を見つめるばかりだった。


「すみません。こいつ、俺の弟なんですが、おそらく学校へ行くのが嫌で、こっそり家まで戻ってきたんでしょう。おそらく、警報機の音のほうは裏の窓かどこかから入って来た時に鳴ったんじゃないかと思います。そうだな、ロン?」


「……は、はい。お兄さん」


 では、そういうことでお引き取りを、というようにイーサンが目で訴えた時、黒人の警備員のほうが言った。


「坊や、すまないがね、一階のどの窓から侵入したのか、教えてもらえないかね?」


「えっと……」


 屋敷の裏手には窓が三つほどあるため、ロンはそこまでふたりの警備員を案内していった。階段から黒人と白人の警備員だけでなく、イーサンとロンまでもが一緒に下りてきたため、マリーは驚いていた。


「あれー?ロン兄たん、学校はー?」


 ミミもまた一階の階段ホールのあたりまで出てきて、驚いた顔をする。無理もない。警備員とイーサンの声だけでなく、ロンのよく通るボーイソプラノのような声がそこには混ざっていたのだから。


「すみません。我々もこれが仕事なもので、報告書に警報機が何故鳴ったか、また侵入者がいた場合、どの経路で中へ入ったかなど、細かく書かなくてはいけないんですよ」


「そうですか」


 イーサンは極めてムスッとした顔のままそう答えていた。早く弟とふたりになって叱り飛ばしてやりたいのに――邪魔な赤の他人がなかなか帰らないとあっては、彼のイライラは倍増するばかりだったといえる。


 警備員ふたりは「本物の泥棒じゃなくて良かったですな」、「ですが、これからはもっと戸締りに用心されたほうがよろしいでしょう」といったように言い残して帰っていったわけだが、さて、ロンにとってはここからが受難のひとときとなる。


「馬鹿野郎っ!!学校へ行きたくないなら行きたくないで、そう言えばいいだろうがっ。この場合問題になるのはな、おまえの嘘とねじくれ曲がったその根性と、いつも美味しいものを食べさせてくれるおねえさんの信用を裏切ったっていう、そういうことなんだぞっ!!」


 マリーは最初から「あんたは口を出さないくれ」と言われていたため、リビングのラグにロンを座らせ、イーサンが説教をする間――ダイニングキッチンのほうにいて口を挟まず、ただ様子をそれとなく窺っていた。ミミは別室のほうでヌメア先生と一緒にテレビを見ている。


「…………………」


 ぶるぶると震え、目から涙をこぼすロンは、何も言わなかった。いや、正確には何かを言おうにも喉から声が出て来なかったのだ。


「なんとか言ったらどうだ、この嘘つきの卑怯者め!それで、学校へ行かなくなって今日で何日になるんだ、ええ?」


 学校から無断欠席の連絡が来ていないというのはおかしかったが、とりあえずその点は省いてイーサンは事情聴取を続ける。


「……今日で四日目です、お兄さん」


 ロンは絞りだすような声で、ようやくのことでそう言った。


「四日か。ということはだ、月曜日から学校へ行ってないのか。それで、学校へ行く振りだけして屋敷へ戻ってきて、おまえ、一体何してたんだ?こんなことをしていてもいずれバレるというのは、いくら頭の悪いおまえでもわかることだろう?」


「一日目、は、本当に学校へ行くつもりだったんです。でも、自由研究の発表があって、僕からだったもんだから、途中で気が引けてきて……気がついたらヴィクトリアパークのあたりをうろうろしてて。それで、その日は図書館へ行ったりしてから屋敷に戻ってきました」


 目も上げずにそこまで言ったロンのことを、イーサンは溜息をついて見下ろした。


「おい、マリー。月曜日の時のこいつの様子、覚えてるか?」


「えっと……」


 お説教が終わったら食べられるようにと、マリーはこっそりドーナツと紅茶の用意をしていた。おそらく、この長い話が終わったあと、彼は自分の部屋に上がって反省するよう言われるだろう。そしたらあとで持っていってあげようと思っていたのだ。


「どうでしょう?なんだか顔色も悪くて、具合が悪いのかなって思ったんですけど……本人に聞いたらなんでもないって言うし……」


「ふふん。下手な庇いだてなんぞしないほうがいいぞ、マリー。大体さっきおまえ、俺にきのうや今日はこいつの様子が元気だったとか言ったばかりじゃないか。まあ、そう聞いただけでも大体のところはわかるさ。一日目、学校へ行かなかったことで良心が呵責しぶるぶる震え顔色も悪い、二日目、いや、よく考えたら学校へ行かないなんてこんな楽しいことはない、三日目、そうだ、間違いない、そんな世の中のほうが間違っているんだ、四日目、しめしめ、この調子でこのまま行こうじゃないか……まあ、そんなところか?ロン、俺に言いたいことがあるんなら、男らしくはっきり言え。雨が降ったあとのなめくじみたいなおまえのうじうじした様子を見ているだけでも、学校を休んだとかなんとかいう以上に本当に腹が立つ。いくら半分だけとはいえ、これが自分の血の繋がった弟かと思うとな」


 ダイニングとリビングを繋ぐ戸口に、はらはらしながらこちらの様子を窺うマリーの姿を見て――ロンは少しだけ勇気づけられた。兄のイーサンのこの居丈高な態度というのは、当初からロンの中でも想定されていたものである。けれど、マリーがけろっとした顔をして嘘をついていた自分に対し、軽蔑と怒りの表情を向けるかもしれないと思っていたのに……彼女から感じるのはただ(可哀想に。おねえさんが守ってあげられたら良いんだけれど)といったような、同情の眼差しだけだったからだ。


「本当にごめんなさい。イーサン兄ちゃんにもだけど、マリーおねえさんも……だけどぼく、学校へ行きたくないなんて言っても、無理やり行かされるだけで何も変わらないと思って……だから……」


 最後のほうは涙声になり、ロンは必死で上着の袖で涙をぬぐった。


「そうだな。だがまあべつに、いじめにあってるというわけじゃないんだろ?成績表の通信欄みたいなところには、おまえの場合は自分から声をかける勇気さえあれば友達なんか出来ると書いてあった気がするが……そこのところはどうなんだ?」


 こんなことになるのなら、あの成績表を見た時、先にはっきりさせておけば良かったと思いつつ、イーサンはマリーに向かってコーヒーを飲む仕種をした。怒鳴ったら、喉が渇いたのである。


「ぼく、よくわかんないな。漫画とかゲームとか、他の子たちがやってるものはぼくも持ってるし、話が合わないってことはないと思うけど……でも結局、ぼくが暗くてつまんない、駄目な奴っぽそうに見えるから、誰も話しかけてこないんだと思う」


「まあなあ。それで、教会学校の子とはどうなんだ?なんの話をしたから、その子とは友達になったんだ?」


 イーサンはマリーからコーヒーを受け取ると、一口飲んでソファの腕木のところに置いた。マリーは他にも、ロンのための紅茶をテーブルに置いてやり、ドーナツのほうもテーブルの真ん中あたりに置いた。そうしてからイーサンの向かい側のソファへ座り、ロンも隣に座るようぽんぽんソファの背もたれのあたりを叩く。


(ふん。甘い奴め)と思いながら、イーサンはシナモンドーナツのひとつに手を伸ばした。ロンはといえば、兄の顔色を窺うように、そうしてもいいかどうかと目線で訊ねていた。


「まあ、座りたきゃ座れ。ついでにレモンティーとドーナツも食っていい。学校休んだくせしてよくおやつなんか喉を通るな……とは俺も言わない。実際、腹が減ったろう。まだ学校じゃランチの時間にもなってないだろうが、おまえの場合色んな心労で一気にカロリーを消費したろうな。それでおまえ、教会学校の……えっと、なんてったっけ?」


「ケイレブです。ケイレブ・スミス」


 マリーが代わりにそう答えると、ロンもおずおずと紅茶に手を伸ばした。角砂糖が二個とレモンの輪切りがのった紅茶は、とても美味しかった。


「そのケイレブくんとかいうのは、ここの学区の隣の第二小学校の子なんだろ?じゃあ転校して、そいつと一緒の学校へ通いたいなというのがおまえの本心だっていうことなのか?」


「ぼく……ぼく、わかんないんです、お兄さん」


 ロンはもじもじして、体をゆすりながら言った。


「だって、今の学校にいて友達が出来ないっていうことは、結局他の学校に転校したって同じかもしれないでしょう?それにぼく、そんな惨めなとこ、ケイレブにだけは見られたくないな。だからぼく、ほんとよくわかんないんです。最初に学校を休んだ時、ほんとは全然そんなつもりじゃなかったけど、ヴィクトリアパークの中をうろうろしてて……天気がよくって、樹も花も咲いてて、噴水は水をきらきらはね散らかしてて――ぼく、学校さえなかったらこの世は天国なのになって思いました。それで、その……」


「なんだ?この際だから言いたいことがあるんなら、男らしくハッキリ言え」


 ロンはイーサンとマリーのことを交互に見やると、トミー・アレルのあの本の言葉を言おうかどうしようかと迷った。けれど、自分では結局十分にうまく説明できるかどうかの自信がなく、「ちょっと待っててください」と言って、やはり本を五階まで取りに行くことしにた。


 その間、イーサンは相も変わらずムスッとした顔のまま、コーヒーを飲み続けていた。マリーが彼のマグに黒い液体がなくなったのを見て、「おかわり入れましょうか?」と聞いてくる。


「いや、いい。それより、四日も学校を休んでるのに、なんの連絡もやって来ないだなんておかしいな。あんた、まさか学校から連絡が来ていたにも関わらず、あいつの不登校を見逃したなんてことは……」


「いえ、わたしも不思議だったんですけど、マクブライド先生からはなんの連絡も来ていません。でも今学校ではインフルエンザが流行ってるそうですから……もしかしたらそれで休んだと思われたのかどうか……」


「ふうん。なるほどな」


 コーヒーを飲み、甘いものを食べたら、イーサンのイライラも少しだけ静まってきた。そして実の弟の扱いについて、これからどうしたもんかなと思案する。


「あのう、もうすぐロンの誕生日ですよね」


 今はまだ九月の上旬だが、確かにロンの誕生日は九月の二十五日だった。


「わたし、思うんですけど、クラスのみんなに誕生日の招待状を出して、うちに来てもらうっていうのはどうでしょう?ロンは本当はとても素敵な子なのに、クラスの他の子たちがそのことを知る機会がないのはもったいないと思うんです」


「……まさかとは思うがあんた、それ本気で言ってんのか?」


 頭痛い、というように、イーサンが髪をかきむしっていると、ロンがリビングに戻ってきた。その手には何かの本が握られている。そしてロンは意を決したように、「この部分を読んでください」とイーサンに言ったのだった。それでイーサンは差し出されたページのその部分を黙って読むことにする。


 イーサンは一通り文章を読み終わってからも、まだ本を読んでいるという振りをして、暫く黙ったままでいた。その間、ロンは「食べていいのよ」とマリーに勧められ、チョコレートドーナツのひとつに手を伸ばす。


「ほほう、なるほどなあ。ようするにおまえが言いたいのはあれだな。学校へは行きたくない、これからは家で勉強して、最終的に義務教育は終えたといった免状を手にしたいという、そういうことか?」


 ロンは兄に自分の言いたいことがズバリ伝わったので、喜んだ。けれど、「もしそう出来たら、ぼく一生懸命勉強します。他に、おうちの手伝いとか、本当になんでもするから……」とロンが言いかけたところで、イーサンは「駄目だ」とかなり強い口調で止めた。


「いいか、ロン。このトミー・アレルって人はな、はっきり言って変わりもんだ。たまたま運よく画家になって、自分で書いた絵本がベストセラーになったんだ。確か、奥さんとの間には五人子供がいるって言ったっけな……その五人のうちのひとりくらい、もしかしたらこの人が勉強教えてやったりなんだりしたのかどうか、それは俺も知らん。ロン、おまえ将来は漫画家になりたいんだろ?」


 ここでも自分の本心をズバリ突かれて、ロンはかなりのところ驚いた。自分の絵を少しくらいは兄に見せたことはあるが、それもまたお遊びでちょっとくらいこんな絵を描いている……みたいなふうにしてロンは見せただけなのに。


「だがなあ、事はおまえが最終的に将来漫画家になってメシを食っていけるかどうかじゃないんだ。まず、おまえが学校へ行かずに家で勉強なんぞしてたら、ランディとココにも影響するからな。なんの学校生活の悩みもなく、おまえだけが何やら悠々自適な生活を送っているようにランディにもココにも見えるだろう。まあ、それじゃあ兄と妹という他の兄妹のために自分に犠牲になれというのかと言われたとすれば、確かにおまえが可哀想だ。トミー・アレル氏の話に戻るがな、この人は物凄い倍率の中をたまたま運良く画家になることが出来たっていうそういう人なんだよ。俺の大学の同期の連中にも、びっくりするくらい絵のうまい奴がひとりいる。で、俺たちは友達として言う。「おまえ、絶対プロになれるよ」とか「将来は有名画家様だな」とか、何かそんなふうにな。ところが、なんとかいう美術展に応募してもさっぱりなんの賞も受けられない。だがまあ本人は天下のユトレイシア大の在校生四年だからな。画家になれなくったって、何か他の職業に就いてでも絵を描き続けるってことは出来るだろう。ロン、俺はおまえには絵の才能がないなんて言ってるんじゃない。才能があってもプロになれない人間なんかたくさんいるってことを言ってるんだ。おまえ、俺の友達のひとり、ルーディ・ガルブレイスのことは知ってるな?」


「……うん」


 前に他のイーサンの友人たちと屋敷へ遊びに来た時――ロンの絵をとても褒めてくれた人だ。「将来、自分が書いた本の挿絵でも描いてくれ」とその時に言われて、ロンはちょっとだけその気になった。というのも彼は、ユトランド中でもっとも有名な大手出版社、ガルブレイス出版CEOのひとり息子だったから。


「あいつも、大学にいる四年の間に、あっちの賞、こっちの賞と出してはいるが、一番よくて二次予選通過とか、そんなところで止まってると本人が言ってた。あいつも天下のガルブレイス出版のひとり息子なんだから、そのコネで自分の本をだすくらいは出来そうだがな……そういうコネは使わずなんとか実力で本を出版したい、本物の作家になりたいってことだった。で、俺もあいつの書いたものを読んだことがあるが、文章のほうは相当うまいし、話の展開も面白いと思った。だが、作家としてデビューするような賞は今のところもらえていない。俺の言いたいことが、ロン、おまえにわかるか?」


「…………………」


 ロンは黙りこんだが、それは兄の無理解に絶望してではなかった。むしろスポーツ一本やりで芸術的なことには理解があまりないと思っていた兄が意外にも「色々なことをわかっている」ということ、また自分の学校における悩みのことについてなども、ロン自身が想像していた以上に「よくわかってくれている」とそう思い、かなりのところ驚いていた。


「俺は、負け犬は嫌いだ。しかも、自分が負け犬であることに甘んじて、なんの努力もしないような奴は、もっと嫌いだ」


『俺はな、ロン。負け犬って奴が大嫌いだ』というのは、イーサンの昔からの口癖だった。また、『そんな負け犬はこの俺の弟じゃない』とも、よく言っていた。けれど、じゃあどうすればいいんだろう。ぼくは一体どうすれば……。


「ロン、もうすぐ誕生日ね。次に誕生日がやって来たら、いくつになるの?」


「えっと、やっとこ十歳かな」


 全然関係ない質問をおねえさんがしてくれて助かったとロンは思った。兄イーサンの言い分について、ロンはロンなりにこう理解していた。家にいてずっと漫画だけ描き続けていても、結局のところ大きくなった時にどうにもならないかもしれない――絵がうまくてお話づくりがうまかったとしても、そのくらい才能のある人というのは、実は世の中にたくさんいる。そしてその中の真に選ばれた人だけがプロになることが出来る……この点、「ぼくは何がどうでもとにかく漫画家に絶対なれるから将来の心配はしなくていいんだ」、とはロンには言えない気がした。というより、イーサンの友達だという絵がとてもうまい人みたいに、他にも何かをしながら漫画を描き続けているのではないだろうか……。


「そういやロン、この親切なお優しいおねえさんがな、クラスのみんなにおまえの誕生パーティに来てもらったらいいんじゃないかと言ってたぞ。そしたらきっと友達もできるってな」


「ええっ!?」


(そんなことしたら、みんなにどん引きされるだけだよ……)


 ロンはそう思ったが、マリーがただ親切心で言ってくれているのがわかるだけに、それ以上何かを口にするのは憚られた。


「そうだな。俺も最初はそんなことをしてなんになると思ったが、まあ、やるだけのことはやってみるか。おまえは今たぶん、友達にどん引きされたらどうしようとかそんなことを思ってるだろうが……もしそれでうまくいかないようなら、まずは転校でもしろ。それでもうまくいかないってんなら、俺はまたその時、トミー・アレルの本でも読み直すことにしよう」


「う、うん……」


 まるで自分の気が進まないほうに話が流れていき、ロンはなんともいえずがっかりした。第一、誕生パーティの招待状なんて送っても、誰も来てくれないかもしれない。


「だがまあ、このおねえさんの頭は旧式だからな。今時の子は美味しいケーキとプレゼント程度のことでは大して喜びもしないということがわかってない……ロン、おまえ、この誕生パーティのプロデュースは俺に任せろ。あとにも先にもこんな誕生パーティなんて見たこともないというくらいのものにしてやる。金にものを言わせてな」


「えっと……」


(あんまり派手にしすぎても、それはそれで別の意味でどん引きされると思うんだけど……)

 

 ロンはそう思ったが、口に出しては何も言わなかった。というより言えなかった。マリーは自分が嘘をついたことがわかっても、軽蔑もしなければ怒りもしなかった。そして兄イーサンのほうでは自分が思っていた以上に色々なことをわかってくれており――明日からまた学校へ行くことを思うと気が重いが、ロンはそれでも月曜日に憂鬱だった時よりは心が軽くなった気がしていた。


「まあ、それにしてもなんだな。学校をさぼったことに対する罰は何がいいか……普通の子は外出を禁止されると泣き叫ぶかもしれんが、ロンの場合は願ったりといったところだろうしな。さて……」


「べつにいいじゃありませんか。この子はもう罰なら十分受けてると思いますもの。わたしに嘘をついてる間、心が後ろめたくてつらかったでしょうし、いつまでも学校を休み続けられないこともわかっていてこっそり家の中に隠れていただなんて……それだけでもう十分ですわ」


「ふん。今がもし仮に十九世紀くらいだったらな、俺は馬にくれてやる鞭でも手にして、おまえのことを容赦なく殴っていただろうよ。だが、二十一世紀の今にそんなことをしたら、児童相談局が黙っていないんだと。そういうわけでまあ、俺としては何か物足りないが、マリーおねえさんに感謝しろよ。じゃなかったらおまえ、今ごろ「もう二度と学校をサボったりしません」と百回清書しろと俺に言われて、そうこうするうちに横暴な兄のことを憎みはじめていたかもしれないからな」


「もし仮にそう言われていたとしても……ぼくは兄さんのことを憎んだりなんて、絶対しなかったと思います」


 この点についてはかなり自信があるらしく、ロンは妙にきっぱりとそう言った。


「だって、自分が悪いんですから……むしろ、そのくらいの罰ですんで良かったと思って、喜んで百回くらい清書したと思います。それと、マリーおねえさんもありがとう。ぼく、ずっと嘘をついてたのに、そのことも赦してくれて……ぼく、これから少し勉強します。四日も休んじゃったから、予習はしてたにしても、その分は取り戻さなくっちゃ」


 そう言ってロンがリビングから出ていくと、そこには眉間に皺を寄せた兄というよりは父のようなイーサンと、母でもあり姉でもあるといった存在のマリーがソファの上に残された。少しの間イーサンは、ゲンコツの形にした手をこめかみのあたりに当てて考えこんでいたが、なんの悩みもないといった朗らかな顔をした女のことをあらためて見つめ返す。


「あんた、あとで学校に電話して、マクブライド先生にどういうことなのか聞いておいてくれ。で、向こうがロンは病気だと思いこんでいるようなら、風邪かなんかだったとでも言って、適当に話を合わせておくんだ。なんにしても、ロンの誕生日まで三週間くらいか。間に合うかどうか……」


 イーサンが何かブツブツ言いながらリビングを出ていく背中を、マリーはただ頼もしいように思って見返すというそれだけだった。きっとロンの誕生日はこれでとても素敵なものになるだろう。もしかしたら誕生パーティの招待状を送ったクラスメイトのうち、何人かは来られないかもしれない。けれど、マリーは生徒の数は問題ではないように思っていた。つまり、招待状を受け取った子供のうち何人かは――間違いなくロン自身に関心を持っているはずだと信じていた。そしてその点が何よりも重要なのだ。


 マリーは豪華なオーディオの揃った部屋までミミの様子を見にいくと、彼女と一緒に少しの間『うっかりペネロピ』を見て、その後キッチンで昼食の仕度をした。イーサンの話によると、大学での単位はすでにほとんど履修済みであるという。それなのに何故すでに出る必要のない講義を受けているのかといえば、そうした講義を受ける振りをして大学院進学のための試験勉強をしているとのことだった。


 ゆえに、彼が引き続き屋敷の書斎あたりにいても、「大学のほうはいいんですか」とはマリーは聞かなかった。また、次男のロンも今ごろ内省しつつ勉強に励んでいることだろう。そのことを思うと、マリーは今日のお昼は特に美味しいものを作ることにしようと思い、まるでディナーのようなご馳走をダイニングテーブルに並べていたものである。


 そして大体のところ準備が整うと、イーサンがいるであろう書斎のほうへ彼女は向かった。ドアをノックしようとした瞬間、「いや、他のイベントに出席する時の二倍は料金を弾むから、ダースベーダーにはうちに来てもらわなきゃ困る」と話しているのが聞こえる。「ああ、そうだな。C-3POやヨーダや……とにかく、スターウォーズに出てくる登場人物一式といったところだ」――そのあと、もう少し話が続いて、一度彼が電話を切ったようだと思い、マリーはドア越しに「お昼のほうはどうされますか?」と聞いた。


「ああ。今下に下りる。どうせあんたのこったから、ロンの好物の品なんかを作ったりしたんだろうな」


 確かにそのとおりだった。けれどマリーはロンの好物の他にも、まぐろとアスパラのサラダやボンゴレスパゲティなども作っていたし、不公平にならないようにミミの大好きなチーズたっぷりのミルクスープも食卓にのせておいた。


 イーサンが独り言のように呟いた言葉に対して返事はなく、マリーがただ声かけをしただけでいなくなったらしいと察すると、イーサンはあらためて溜息を着いた。正直なところをいって、イーサンは大学、あるいは大学院に進むことが出来たとしたら、大学院を卒業するまでは――すっかり寮の厄介になるつもりでいた。だが、本当に今更ながらのことだったが、こんなだだっ広い屋敷に女こどもしか住んでいないという環境に対し、彼は危機意識を持ったのである。


 マグダが子供たちと住んでいた頃は、やはりイーサン自身、無意識のうちにも責任逃れをしたいところがあったのだろう。つまり、彼らが十分な国の教育を受けていながら、将来は社会的落伍者になったとしても……自分に責任はないのだということにしたかった。だから、女子供しか住んでいない屋敷かもしれないが、イーサンにはイーサンの生活があるため、そんなことについてまで誰からも責任を追及されたくなどなかったのだ。


(だが、今はもう……俺だって、大学を卒業しようと思えばこのまま院のほうへは進まないということだって出来る。というか、弁護士になるというところまではいかなくても、あいつらの資産管理をするためにもっと財政に関する勉強をするとか、そうした道に進んだほうがいいんだろうか。だがまあ、俺はそんなことの一切から逃げたいがために、時間稼ぎとしてあと二年、大学院へ進みたいと思っているわけだ)


 実際、それがイーサンの、父親が死ぬ前までに考えていたすべてのことだった。ロイヤルウッド校を優秀な成績で卒業し、ユトレイシア大にイーサンが合格した時、彼の父ケネス・マクフィールドは「大学の進学祝いに」と、彼に十万ドルくれていた。そして言ったのだ。その金をどんなふうに使おうと構わんが、おまえが二十二になって自分の財産の分を受け取った時――どんなふうに金を使うべきかの練習をその十万ドルでまずはしてみるんだな、と。


 正直、イーサンは父ケネスが自分が後継者に相応しいかどうかの試験としてその十万ドルという大金をくれたのかと思ったほどだった。だが結局のところ、それを大学の授業料に使うという以外では、イーサンは確実な株の投資をして小金をもうけたり銀行から利子を受け取るといったような堅実な使い方しかしなかったものだ。もっとも、イーサンにはよくわかっていた。ケネスは息子にそんな金の使い方をしてもらいたくて十万ドルもぽんと渡してくれたのではないということは。むしろ、その金を元手に何か面白いことでもして自分を驚かせるか面白がらせるかして、父親の後継者に相応しいというところを見せてみろと、おそらく彼はそんなふうに思っていたのだろうということも……。


(まあ、なんだな。そう考えた場合、ロンは財産を受け取る二十一になる頃にでも、その時まだ漫画家になりたいと思っていたら――自分でそういう出版社をはじめることも出来るわけだよな。だが俺は、最初からそんなことを言って「だからおまえは学校へなど行かなくても、他のクラスメイトと違って将来は約束されているし、そういう意味ではすでに勝ち組なんだ」というようには、絶対言いたくなかったわけだ。それに……)


 イーサンはトミー・アレルの本を自分に渡した時の、ロンの必死な顔つきを思いだして、あらためて嬉しくなっていた。ランディもロンも、年の離れた兄に対し心底恐れを抱いているらしいのだが、彼はそんな中でも一生懸命自分なりに考えた答えをその兄に提示しようとした。おそらく、それと同じ勇気を示しさえすれば、ロンには友達などいくらでも出来るだろうという気がイーサンはしたが、なんにしても今は弟の誕生パーティのことがイーサンにとっても一大事だったといえる。


(さて……どうしたもんかな。なんにしても俺は、寮を出てこっちに戻ってこなくてはなるまい。で、院の試験に落ちたとすればそのまま大学だけ卒業して――何をするのか、何をすべきかというのが問題になってくるわけだ)


 正直、マグダがこの屋敷に住み込みで働いていた頃を通してずっと、この屋敷内でもしかしたら強盗殺人が起こるかもしれないなどとは、具体的にイーサンは想像したりはしないようにしていた気がする。けれど、今回の件で子供たちを庇ってマリーが怪我をするだの死ぬだのレイプされるだのいう可能性のあることを考えてみただけで……もはやこの屋敷に戻ってくるしかないと、イーサンはそのように決断したわけであった。


(そうだ。それに俺は他に、もうひとつのこともわかった気がする。会った瞬間から何やらあの女には不幸の匂いというか、幸薄いといった空気感があるような気がしていた。だから何かこう、余計に心配になるわけだ。本人にはまるでその気もないのに、それでいて自分から不幸に巻きこまれていきそうな、そういう運命をあの女が持っているのじゃないかと……)


 イーサンはそこまで考えてから、自分の考えすぎを笑うように首を振った。そして次の瞬間には苦笑する。というのも、自分がこんな中途半端な時期に寮を出ていくと知ったら――あの悪友どもが何を言うかと思っただけで頭が痛い。


 夏休みが終わり、イーサンが寮へ戻ってみると、ルーディはまるで待ちかねていたとでもいうように、マリー・ルイスの写真を所望した。そこで、彼にしても本意ではなかったが、ディズニーランドへ行った時に撮影した写真のうちの数枚を彼に見せざるをえなかったのである。


『えーっ、イーサンおまえ何言ってんだよっ。色気のない枯れ木みたいな女だなんて、よく言えたもんだな。こんな可愛い人を前にしてっ』


 というのがルーディのマリーの写真を見た第一声だった。そして彼のその言葉を聞きつけて、他のラリーもマーティンもサイモンも、「どれどれ」と携帯の画面を覗きこんだのだった。途端、「あーっ!!」という驚きの声が彼らの喉を突いてでる。


『くっそ。ようするにおまえ、これはあれだな?父親の前で大股開きをしたようには見えないが、俺たちが写真を見ながら色々よからぬことを想像するとわかってたから、あえて色気のない枯れ木みたいな女だなんて言ったんだ。おまえ、絶対そうだろう!?』


 イーサンは特に否定しなかった。実際のところ、半分は確かにそうだったからである。


『さて、どうだろうな。だが、俺があいつに対してそう思ってるってのは半分本当だ。残りの半分は、まあアレだな。ようするにあの女はお道徳の教科書みたいな女なんだよ。ルーディ、おまえ前に言ってただろ。この世の女は大抵本にたとえることが出来るみたいなこと。ファッション雑誌みたいに中身が薄い女がいるかと思えば、百科事典みたいにおカタイ女もいるとかなんとか……そういう意味じゃマリー・ルイスは確かに宗教か道徳の教科書みたいな女だ。それは確かに間違いない』


『おまえは結局、キャシーみたいなブロンドの美人タイプとしかつきあったことないからわかんないんだよっ』


 ルーディは一体何にそんなに興奮したというのか、イーサンの部屋のベッドの上を身悶えるようにしてごろごろと何度も回転している。


『そうか。だがまあ、俺の推理小説に必要なのは、もしかしたらこういう意外性だったのかもしれん。父の遺産目当てに後妻となった主人公と大して年の違わぬ美女……彼も最初は彼女のことを「そのような女」と思って軽蔑していた。ところが彼もまた彼女の魔性の魅力の虜となり……』


『俺はマリー・ルイスの虜になんかまるでなってない』


 一応イーサンはそう述べておいたが、誰も聞く耳を持つ者などいなかった。


『というか、イーサン。俺、彼女みたいなタイプ、結構好みだ。もしおまえがキャシー一筋で本当にそんな気もないっていうんなら、紹介してくれないか?』


 ラリーが何故か突然赤毛の髪を整えながらそう言うのを聞いて、イーサンは溜息を着いたものである。


『まあ、べつに構わんが……だが相手は、ここは最高に面白いところだという時にも、ガキめらの教育によくないと思ったらぴくりとも笑わんような女だぞ?おまえがつきあって面白いことが何かあるとも思えんが』


『いや、いいさ。むしろまるで気にしない。それで、もし仮に深いおつきあいということにでもなれば、果たして本当に遺産目当てでもなんでもないのか、そこのところをこの俺が聞きだしてやるよ』



 ――イーサンは昼食のスパゲティを食べながら悪友どものしていた会話のことを思いだし、ミミの隣で彼女のナイロンの前かけを拭いているマリーを見返した。彼女のことを道徳か宗教の教科書のような女だ、とイーサンが今も思うことに変わりはない。だが、彼女が本当は何をどう考えているのか……それは彼にもいまだによくわからなかった。


 マクフィールド家の三男は、昼間からサーロインステーキなどという豪勢なものを食べ、ある種の良心の呵責からか、いつもはあまり食べない野菜の添え物類まですべて口にしていた。実際のところ、彼らの父ケネス・マクフィールドは飲食店のチェーン店をいくつか所有していたという関係もあって、今も食材については選び抜かれたオーガニックのものがこの屋敷にも定期的に届くということになっているのである。


「俺は近いうちにこの屋敷へ戻ってくるつもりでいるが……おまえらはそれで異存ないか?」


 イーサンがアスパラとまぐろのサラダをつつきながらそう聞くと、マリーは驚いた顔をし、ロンは突然居住まいを正していた。


「べつに、俺も帰ってきたくてこの家に帰ってくるわけじゃないんだ。それでもな、一度こういうことがあってみると、女と子供しか住んでいないというんじゃ、色々物騒だと思ってな」


 ロンはフォークとナイフを皿の上に置くと、「ごめんなさい」と、小さな声で俯きながら言った。


「ぼくが裏の窓のほうから泥棒みたいにこっそり入る真似をしたから……ぼくはイーサン兄ちゃんがこの家にいてくれるのは嬉しいけど、でもそれがもしお兄ちゃんの迷惑になることだったとしたら……」


「いや、俺がおまえに対して怒ったのはそういうことじゃない。おまえ、この家の外には監視カメラが設置されてるってこともよくわかってて、自分の姿がそこに映らないようにって計算したんだろ?俺はな、ロン、おまえのそういうずる賢さや嘘をついてもけろっとしてる態度だとか、そんなことに対して怒ったのさ。だが、逆に今回のことで警備に穴があったこともよくわかった。何分広い家だから窓のひとつくらい閉め忘れるってこともあるだろう。泥棒稼業をやってる連中ってのはな、何故か不思議と勘がいいらしい。家の中に侵入したあとは、大体金目のものってのがどのあたりに隠してあるか――ピンとくるっていうからな。だがこの家にあるのは大して値打ちのない水晶のイルカがあっちこっちにあるってだけで、実際は宝石類もなければ他に金に換金できそうなものも大してない。それと、この屋敷のとある場所に金庫があるが、暗証番号や開け方について知ってるのは俺とウェリントン弁護士だけだからな……それで、強盗の奴がマリーのことを締め上げて暗証番号を言え、ガキめらがどうなってもいいのかっ!?なんてことになったら困るだろう」


 せっかくのステーキが残り三分の一も残っているのに、ロンはもうすっかり食欲も失せてしまったようだった。それで、食器を下げてから足早にダイニングを出ていく。ミミがヌメア先生のためにロンの残したステーキが欲しいと言ったため、マリーは細かく切り分けてからミミの前に置いてやった。そして『ステーキは、ステキに食べよう、わっはっはっ!!』とミミがヌメア先生に言わせたため、イーサンは笑った。


「なんだ?一体どこでそんな言葉を覚えた?」


「子供向け番組に、そういうのがあるんです」と、ステーキを食べるのに夢中になっているミミにかわって、マリーが答える。「『ダジャレ先生の言葉遊びコーナー』っていうんですけど、他に「抗議するコーギー犬」とか「このドーナツ、穴があいてるけど、ドーナってるの?」とか……何かそういうのなんですけど」


 ミミが相も変わらず「うまいぞよ!!」と、声音を変えてヌメア先生に言わせたため、マリーもイーサンも笑った。


「やれやれ。うちの唯一の有望株はミミだけか。ランディのことはクラス替えがあるたびに「ファッティランディ(太っちょランディ)とでも呼ばれていじめられないかと心配だし、ロンはあのざまだし、ココは何分自分のことしか頭にないからな。まったく、先が思いやられるったらない」


 イーサンが大体のところ食事を終えたため、マリーは彼に食後のコーヒーを出してから、少し真面目な顔をして言った。ミミはもともと食べるのが遅いのと、ヌメア先生との一人二役で忙しいため、他のみなが食事を終えたあともずっと食べているのがほとんどだった。


「あの、あなたにはあなたの生活というか、やりたいことが色々あると思うんです。ですから、このお屋敷に戻ってくるのがお嫌でしたら、そう無理をしないでください。今はまだマグダも通いで来てくれてますし、夜もわたしひとりでなんとかなってますから」


「いや、それはもう無理だな」


(もしやこの女、俺にこの家にいられると不都合なことでもあるのか?)という疑念を抱きつつ、イーサンは言った。


「一度ああしたことがあった以上……これからはもう俺のほうで落ち着かないだろう。第一、あんたが仮に身を挺して庇ってくれて子供たちの命が無事だったとかいうんじゃ、俺も寝覚めが悪い。まあ、確かに俺がここにいるってんじゃ、あんたも食事作りだのなんだの、一人分増えて面倒だろうし、精神的に気も遣うだろう。だが、俺のことはいないと思ってくれていい。メシだって食いたきゃ自分で何か適当に食べるし、あんたが俺のことまで何かと気を回す必要はない。俺は俺で大学に通う傍ら好きなようにするし、あんたもこれまで通り子供たちの面倒を見る傍ら、俺のことは気にせず好きなようにやってくれ」


「…………………」


 もちろん、イーサンにしてもこう言ったところでマリーが結局気を遣うだろうとわかっていた。たとえば、恋人のキャサリンとデートをして朝帰りしても、夕食の品にラップをかけて置いておくとか、何かそうした類のことだ。そしてこうなって来てみると、イーサンにはマリーのことがますますわからなくなってくる。ランディのために『食べながら痩せるダイエット』だのいう本を読んでみたり、ロンの不登校のことで母親よろしく責任を感じたり、ココがデザインしたバッグや服をお針子のように夜遅くまでかかって作ってやったり……(それがこの女にとって、何がどうなることだっていうんだ?)との疑念をやはりイーサンは捨てきれないのである。


「じゃあまあ、俺はロンの誕生パーティのことで色々しなきゃならないことがあるんで、引き続き書斎に篭もる。なんか用があったら声をかけてくれ」


「……はい」


 イーサンは最後、ミミの頭のてっぺんあたりにキスすると、コーヒーのマグを片手にエレベーターで三階まで上がっていった。ダイニングキッチンに残されたマリーは、食器類の後片付けをしたりしながら少し考える。


(あの人が邪魔とか、そういうことではないんだけれど……でもやっぱり、子供たちだけのほうがわたしも寛げるし、イーサンがそこにいるっていうだけで疲れるっていうのは少しあるのよね。もちろん、自分の都合のいい時だけ頼って子供たちのことを相談したりしてるんだから、そんなこと言ったりしちゃいけないんだけれど)


 まあ、いずれそのことにも慣れるだろう――マリーはそう思うことにして、午後からはココのデザインしたポーチの続きを縫うことにした。彼女は将来デザイナーかそれが無理ならファッション編集者になりたいとのことで、今から服や靴やカバンなどをデザインしてはそのスケッチをスクラップしているのだった。


 実際、ココがモニカやカレンたちと作った自由研究のファッションブックは大したものだった。そして「モニカのお母さんやカレンのお母さんが色々手伝ってくれて……」という言葉を聞いて胸が痛み、マリーはココのデザインした服などを時間を見つけてはちくちく縫ったりしているわけである。


(そうだ。イーサンがいるんなら、あとでミシンを買ってもいいかどうか、聞いてみよう)


 手縫いで手作りするよりも、ミシンで縫ったほうが遥かに効率が上がると思い、マリーは一旦作業を中断すると、ランチ後、ヌメア先生とレゴブロックで遊ぶミミの元へいき、少しの間相手をした。そのあと、時計を見てそろそろココが帰ってくる頃合だと思い、おやつの準備をはじめる。ランディは六限目まで授業があるため、三時半以降にならないと帰っては来ない。


 その日、ココは上機嫌だった――というのも、屋敷の門からポーチのほうまで歩いてくる途中で、イーサンのバイクが止まっているのが目に入り、あとはもう駆け足で玄関へ飛び込んでいった。「ただいま」とも言わず、リビングやダイニングのあたりを覗き込み、兄の姿がないのを見ると、三階の書斎まで上がっていった。そしてふたりはお互いの肩や腰などを抱きつつ、下の階までまた下りてくる……ココはこの時とても興奮していた。というのも、イーサンがこれからはずっと屋敷にいる、ここから大学へ通うと話してくれたばかりだったからだ。


 ココとイーサンは、リビングのソファに並んで腰掛け、仲睦まじくテレビを見始めた。マリーはそんなふたりの元にコーヒーとホットチョコレート、それにカップケーキやドーナツなどを運んだ。そしてまたマリーはダイニングのほうへ戻り、ミミの相手をしようと思った。


「あ、そうだ。おねえさん、あのポーチ出来てる?」


「えっと、あともうちょっとで出来るわ。ファスナーを取り付ければそれで完成するから」


「えーっ!!まだ出来あがらないの!?一日家にいて暇な主婦してるんだから、そのくらいのことやってくれなきゃ。出来ればね、あれ、他にもう七個か八個作って欲しいの。いつも仲良くしてるグループの子たちに配りたいのよ」


「七個か八個……」


 マリーが戸惑っていると、イーサンが口を挟んだ。


「なんだ?ココ、おまえ、マリーになんか作らせてるのか?既製品でいいんなら、他の友達に配るのにいいのを俺が買ってやる。この人はおまえだけじゃなく、ランディやロンやミミのことでも一日くたびれきってるんだからな、余計な仕事を増やすんじゃない」


「だって、この人が自分で作りたいって言ったんだもの。それに、わたしもう言っちゃったんだ。うちの召使いのおねえさんが、これから頼めば服でもなんでも作ってくれるって」


「召使いっておまえ……」


 流石のイーサンも言葉を失った。そこで、「そのポーチとやらを持ってこい」と彼はマリーに命じた。もちろんこの段になってようやくココにもわかった。最愛の兄が本気で怒っているのだということが。


「それで?これをもう七個か八個、この人に作れってのか?」


 マリーから作りかけのポーチを受けとると、イーサンは溜息を着いた。表面が少しもこもこした素材で出来ていて、中にはきちんとサテンの裏地がついている。表にはフェルトで出来たうさぎの顔と、その下にはCoCoという文字が刺繍してあった。


「これをおまえがどうしても手作りして友達に渡したいっていうんなら、マリーに作り方を教われ。じゃなかったら、知り合いの洋品店へいってこれと同じものを八個作ってもらうかのどっちかだ」


「……わたしの名前の入ってるところ、友達の名前にしたり、モニカは猫が好きだから猫にしたりとか、そういうふうのがいいんだけど」


「わかった。じゃあ、明日にでも俺と出かけて頼みにいこう。それまでに刺繍を入れる名前全部と、どういう動物のフェルトを付けるのかとか、書きだしておけ。それと、もう二度とマリーのことを召使いなんて呼ぶんじゃない。わかったな!?」


「……はい」


 イーサンは「よし」と言うと、ココの頭を撫でて、コーヒーとカップケーキをふたつ手にして再び書斎のほうへ戻った。それからココがモニカの家に出かけていなくなると――「あいつ、家でいつもあんな感じなのか?」とマリーに聞いた。


「召使いと言われたことは、今の今まで一度もありませんでしたけど……でも、もしミシンを買ってもらえたら、そんなに時間もかからないと思うんですけど」


「あんた、馬鹿か。俺はガキってのはつけあがらせるのが一番よくないという話を今してるんだ。俺は今日、アメフトの練習は休むことにしたが、近々試合があるもんでな、この屋敷に帰ってくることにはしたにせよ、帰ってきても疲れきってて口も聞きたくないくらいだろう。そんな時にあんたが小間物を作ってないとかであいつが我が儘を言ったりしていたら、俺にしてもどうなるかわからん。ずっと一緒に住むというか、俺がここへ帰ってくるっていうのはようするにそういうことなんだ。だから俺は出来ればここへは帰ってきたくなかった」


「あの、まだ寮のほうは引き払ってないのでしたら、アメフトのシーズンが終わるくらいまでは……」


「いや、そうしたいがな、何分そういうわけにもいかん。というのも、ロンの誕生日が近いから、俺もここへ帰ってきて色々しなきゃいけないことがあるもんでな。なんにしても、ココには出来ないことについては出来ないと言ってハッキリ断れ。あいつは性格が我が儘だからな、あんたがいいと言った分だけどんどんエスカレートするぞ。そう思って接したほうがいい」


「……わかりました」


 一応そう返事をしたマリーではあったが、兄から叱られてショックを受けたココの顔を思いだすと、やはり胸が少し痛んだ。結局、大好きなホットチョコレートもドーナツも食べずに友達の家まで出かけていってしまった。「モニカのお母さんがね、わたしのこと、自分の家の子にしてもいいくらいだって言ったの!」――そう目を輝かせて嬉しそうに話すココの言葉を聞いても、自分に対する何かのあてつけだとはマリーは思ってなかった。同じ意味で、マリーのことを召使いと呼んだというのも、そう大して悪意があるとか、そういうことではないのだった。


 ココは大抵の場合、友達を屋敷へはあまり連れてこない。夏休みには仲のいい友達を何人か呼んでパジャマパーティをしたりもしたが、それよりも圧倒的に多いのは自分のほうから友達の家へ出かけていくということだった。なんでも、自分には馬鹿な兄貴とダサい兄貴と頭のヨワい妹しかいないから、友達にあまり見せたくないのだという。


 この翌日、マグダがやって来ると、マリーは彼女にミシンを貸してもらえないかと頼むことにした。彼女はすぐに事情を飲み込み、自分もそのポーチ作りを手伝うと言ってくれた。こうして、意外にもそんなに時間をかけずして八個分のポーチは出来上がった。一番時間のかかったのは最初の一個目の手縫いだけで、一度要領がわかってしまうと、残りの八個を作るのはそれほど大変ではなかったといえる。


 イーサンが<明日>と言っていたにも関わらずその約束をすっぽかしたため、マリーは代わりに自分が作ると約束しておいた。実際、おそらくはそれで良かった。イーサンはアメフトの練習でよほどしごかれたのか、屋敷へ帰ってくるなり餓鬼のように食事したあとは、ただもうベッドの上に倒れこんでいたからである。


 そんな兄の様子を見て、ココも特に文句を言うでもなく黙りこんでいた。また、イーサンは昼間は大学の講義中に大学院へ進むための勉強をし、午後からはアメフトの練習後に屋敷へ戻ってくるため、実質、彼が家族と過ごす時間というのはほとんどないに等しかった。にも関わらず、やはりイーサンはマクフィールド家の大黒柱だった。ランディは兄がただ家に毎日戻ってくるというそれだけで、夜中までゲームするのをやめたし、宿題もきちんとするようになった。ロンにしても事情は同じで、兄が試合でテレビに映っているのを見ると――自然と自分もがんばらなければと思ったし、ココやミミは話す時間があまり多くなくても、ただ彼が<そこにいる>というだけで、無条件に嬉しいのだった。


 アメフトの試合のほうは、第一週目の試合も第二週目の試合もイーサンがクォーターバックを務めるユトレイシア大が無事勝ち進んでいった。試合があるたび、子供たちはテレビの前で気が狂わんばかりに兄と彼のチームとを応援し、マリーもびっくりするような言葉で相手チームをなじったり、細長い風船をふたつバンバン打ち合わせたり、点が入ったとなるや、ソファのまわりをまるでインディアンの如く狂喜してぴょんぴょん飛び跳ねるのだった。ミミに至ってはイーサンがテレビに映るたび、「兄たんがんばれ~!!」と、ヌメア先生を振り回し、床やテーブルに何度もしたたかぶつけていたほどである。


 試合に勝利した夜というのは、試合の場所が遠くても比較的近くても、イーサンは戻っては来ない。仲間内で勝利の祝杯を上げたり、恋人のキャサリンとホテルで祝ったりというせいであるが――彼が屋敷に帰ってくるなり、当然子供たちは兄の元を離れなかった。「格好よかったよ、お兄ちゃん!」、「ハーフタイムのあとさあ……」、「あの時、どうやってカットバックしたの?」などなど、ルールについて中途半端にしかわかってないながらも尊敬する兄に色々と質問し、イーサンのほうではそういう時、終始上機嫌で可愛い弟妹たちの相手をするのだった。


 マリーもマグダに手伝ってもらってご馳走を用意し、もちろん彼に祝福の言葉を述べた。そして子供たちがようやくのことで寝に行くと、イーサンは決まって自分の留守中のことを彼女に聞いた。そこでマリーは「みんないい子でしたよ」と、そんなふうに報告するのが常だったといえる。


「正直、わたしも……あなたがこの屋敷にただ帰ってくるというだけで、こんなに子供たちに変化があると思ってませんでした。ランディはわたしがいくら注意しても、夜中にゲームをするのをやめなかったのに……あなたがいるっていうだけでわたしがうるさく言わなくても宿題までやるようになって。ロンは何か、イーサンお兄ちゃんがテレビに出ていたので、そのことがきっかけでお友達と話したりしたそうですし。それに、ココとミミちゃんも……」


「ロンの奴、友達が出来たのか」


 コーヒーを飲みながらイーサンは、驚いたように言った。


「わたしも、深くは聞かなかったんですけど、向こうから『ロンの兄ちゃん、きのうテレビに出てただろ』みたいに話しかけてくれたんですって」


「ふう~ん。そうか……」


「その、わたし……最初はこう思ってたんです。健全な母性のようものさえあれば、子供は自然と育っていくものだって。でも、違うんですね。あなたはあの子たちにとって兄でもあり父でもあって、そういう種類の父性というか、やっぱり両方なくちゃ駄目なんだなってあらためてそう思いました」


 マリーが何故か少し寂しそうに微笑んだような気がして、イーサンはらしくもなく、彼女を慰める気持ちを起こしてしまう。


「そうでもないさ。実際、俺だってあんたがいてくれることで助かってる。というか、マグダには彼女が来られるだけずっと来てほしいとは思うが、マグダがいなくなっても、あんたがいればこの家は大丈夫だろうと俺はそう思ってるしな、特にあの……ココのポーチの件を聞いてから、そう確信した」


「……………」


 八個分のポーチが一週間ほどで出来上がると、ココは狂喜乱舞していた。そしてその翌日にポーチをあげた友達の全員を家に招いたのだった。その時、マリーは九人分のおやつやジュースなどをワゴンに乗せて運んでいったのだが、部屋のドアが開いていたため、廊下を歩いている途中で、女の子たちの会話の一部が耳に入ってきてしまったのである。


『そうなの。わたしがきのう学校に着ていったあの服、あれもおねえさんが作ってくれたのよ。毎日美味しい食事やおやつも作ってくれて、わたしのためならなんでもしてくれるの。優しいし、口うるさいこととか、なんにも言わないしね。もう最高よ』


『へええ~。うちのママとあんたんちのおねえさん、交換してよ。うちのママったら、いつもガミガミうるさくってさあ』


『うちもよ。服を作ってくれたりとか、毎日おやつ作ってくれたりとか、絶対ありえない。服はファストファッション、おやつもなんかスーパーで買ったのをザラザラ皿にのせてあるって程度だもん。まあ、うちのママは働いてるから仕方ないんだけどね』


 このあと、ココがマリーの作ったお菓子をこっそり学校へ持っていって友達と食べていることがわかり――なんだかマリーは、部屋へ入っていきずらくなった。そこで、ワゴンはそこに置いておいて、エレベーターでこっそり一階まで戻ると、マグダに運んでもらうということにしたのだった。


 けれど、マリーは嬉しかった。時々、話していてココには嫌われているのだろうかと思うことがあっただけに……まさか自分のことを実はあんなに友達に自慢していたとは思ってもみなかった。そしてイーサンはそのことを指して、マグダがいなくても大丈夫だろうと言ったのである。


「でもほんとに……あなたにしてみたら大変なことだと思うんです。大学では勉強して、アメフトの練習や試合もこなして……家に帰ってきたら帰ってきたで、子供たちのことをわたしがああだったとかこうだったって言う感じだし……」


「まあな。なんにしても、とうとう来週はロンの誕生日だ。誕生日の二日前に試合があるが、俺は絶対次の日には帰ってくるから、準備の手筈なんかは当日、俺が全部取る。あんたはあんたで、十九世紀の手芸の会の準備でもしていたらいいさ。あとは来週中に一度、屋敷全体を掃除しにハウスクリーニングの連中がやって来るから、前にも言っておいたとおり、見られても恥かしくない程度に片付けておいてくれ。掃除はあいつらがしていくから、軽くでも前もって掃除なんてしておかなくていい。あんたの狙い通り、これでロンの奴に友達が出来ればいいがな。それじゃおやすみ」


(やれやれ。この女はまったく脈なしだな)


 半ば呆れたようにそう思いながら、イーサンは一階にある自分の寝室のほうへ引き上げていった。もっとも、こう思ったからといって何も、イーサンはマリーに恋をされたいなどと、そんな面倒なことを思っているわけではない。だが、少しばかりある種の期待はしていた。というのも、カレッジフットボールで活躍する自分の勇姿を見て――帰ってきた途端、もしかしたらマリーの自分を見る目が少しは変わっているのではないかと思っていたのだ。


 だが実際には、変化はまるでなかった。もちろん、勝利の祝いに結構な手のこんだ料理を用意してくれたり、「本当に、おめでとうございます」などと、おずおず言われたりはした。でもそれだけだった。そしてイーサンは彼女の瞳の中に、自分に対してあまり興味を抱かないガリ勉タイプの女子と似た色を見てとったかもしれない。彼女たちはアメフトなんてやってる男は、脳味噌も筋肉で出来ている馬鹿ばかりだと、何かそう決めつけているらしかった。


(まあ、マリーの場合はそういうのとも少し違うがな。とにかく、男としての俺ではなく、子供たちに父性をふりまいてくれる兄のほうがよっぽど大事ってわけだ……)


 それからイーサンは、試合の勝利後にしたキャサリンとの激しいセックスのことを思いだし、(あんな女のことなど、俺もどうでもいい)と、この件について考えることはやめた。そしてロンの誕生パーティのことに思考を移していくうちに――ベッドの中ですっかり眠っていたというわけだった。




 >>続く。






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