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第2章

「つまりだな、俺があんたに一番頼みたいのは、あの躾けのよく行き届いたガキめらに、良い習慣をつけさせるってことなんだ。言ってる意味わかるか?」


「はい。まあ、大体のところなんとなくは……」


(大体のところ、なんとなくなんてんじゃ困る)と思い、イーサンはマリーがキッチンに立っている横で、さらに説明した。自分は夕食を食べたら大学の寮へ戻る予定なので、何か話す時間というのは、今しかないと思っていた。


 マグダは今朝、馬車やら電車の乗り継ぎやらで腰痛が再発したと言い、ユトレイシアの隣町にある娘の家へ帰宅していた。彼女は住み込み女中ではあるのだが、週に一回か二回は自分と娘の家に戻り、その間は他の通いの家政婦が子供たちの面倒を見ることになる。だが、今はもうマリーがいるので、その必要もないというわけだった。


 子供たちはみな、昼近くまでぐっすり寝てから起床し、マリーの作った朝食を食べた。その後、ランディとロンとミミは、お父さんのお葬式で休んでいるとのことで、外へ出るわけにもいかず、それぞれ自分の部屋に篭もって遊んでいる様子である。そしてマリーはといえば、子供たちのおやつ用にとクッキーの材料をこね、それを型抜きで抜き、オーブンへ入れたところだった。


 何分、マグダが朝早くいなくなってしまったため、キッチンのどこに何があるのかがわからなかったが、意外にもミミが「おさとうはこっちー、おしおにはおしおって書いてあるの。まちがえたらメッでしょ!」と言って、色々教えてくれたのだった。


 マリー・ルイスはクッキーが焼きあがるまでの間、冷蔵庫にある食材を改めて見直し、夕食に自分が何を作れるだろうかと算段した。そしてその横でイーサンが小言を言い始めたため、マリーは彼の話を真面目に聞いているのに、イーサンのほうでは生返事を返されているように感じていたわけだった。


 キッチンは広く、とても使い勝手が良かった。シャーロット・マクフィールドはあまり料理をしない人だったらしいが、なんでも最新式の家電が揃っていて、包丁もフライパンも鍋も、高級フランス料理店が使っていそうな業務用のものばかりだというのに――こんなに素晴らしい環境にありながら料理しないだなんて勿体ないとマリーは思ったものだった。


(まあ、とりあえず今日はシチューでいいかしら。あとはタラの切り身があったから、ムニエルにしよう。他にはサラダを作って……)


「あんた、人の話聞いてんのか」


「はい。もちろん聞いてます」


 ミミはダイニングの椅子に座り、お気に入りのぬいぐるみで遊んでいる。そのぬいぐるみはくまなのか犬なのかいまいち掴みかねる容貌をしていて、ミミはヌメア先生と呼んでいた。名前の由来はよくわからない。


「ところで、この家にブロッコリーの食べられない人はいますか?」


「ああ。そりゃ俺だ。俺が食べられない」


「えっと、でも冷蔵庫にブロッコリーが入ってるってことは、普段子供たちはみんな食べてるんですよね?」


「さあ……どうだか」


 ここでイーサンは意地悪そうにニヤリと笑った。


「あんたさ、あの歳くらいのガキが喜んでむしゃむしゃブロッコリー入りのサラダなんか食うとでも思ってんのか。まるでわかってないな」


「いえ、ブロッコリーはシチューに入れようと思ったんです。でも、マクフィールドさんが食べられないなら……」


「まあ、好きにすればいいさ。俺はシチューにブロッコリーが入ってようと構わない。よけて食べればいいだけだからな」


「そうですか……」


(どうしようかな)というように、溜息を着くマリーの背中を見ながら、ミミの横にイーサンは座った。「ヌメア先生の調子はどうだ?」と聞くと、「先生は元気でっしゅ!」というマリーの返事。何故か声色が少し変わっている。


「ミミはブロッコリーって好きか?」


「ヌメア先生、ブロッコリーとはなんでしょう!」と、ミミはヌメア先生に聞き、ヌメア先生は先生で「先生にもわっかりません!」と首を振っている。言うまでもなく、ミミが自分で質問し、またミミ自身が自分で答えを返すのだった。


 そんな様子のミミのことを、イーサンはただ黙って眺めやり、時々ヌメア先生の会話の中に混ざった。


(こりゃあ、今晩の晩ごはんは間違いなくピザだな。賭けてもいいぜ)ということが、子供たちの食生活を知るイーサンにはよくわかっていた。だが、マグダのアドバイスが望めない以上、彼女も実地で学ぶしかないだろうというのが、イーサンの意見である。


 三時くらいになると子供たちもめいめい遊びをやめて、下の階へ下りてきた。そしてランディもココも、まったく同じことを言った。「おねえさん、まさかクッキーしかないの?」と……。結局、ランディはポテトチップスを一袋まるまる持っていき、コーラを大きなコップに並々とついで出ていった。今やっているゲームが超絶最高潮に面白いのだという。


 ロンは性格の優しい子で、マリーのことも好きだったため、クッキーとジュースだけ持っていった。けれど、彼もまた今読んでいる漫画が物凄くいいところなので、自分の部屋でおやつを食べるとのことだった。


 ココは、クッキーの他にアイスクリームを冷蔵庫から出して食べた。ハーゲンダッツのクッキー&クリーム。ミミが「あたちとヌメア先生にも!!」と言ったので、イーサンが見ている手前、ココはいつもはしないことをした。アイスクリーム用と決まっているガラスの容器に、ちゃんとスプーンを添えて妹に出してあげたのだ。もちろん、ヌメア先生の分まではない。


「イーサンも食べる?」


「ああ。ちょっとだけ食わせてくれ」


 仲のいい兄と妹は、リビングのほうにあるソファまで移動すると、そこで肩を並べ、テレビを見ながら何かげらげら笑いはじめる。


「何時ごろ大学へは帰るの?」


「そうだなあ。夕飯を食ったら帰るさ。寮の食事も基本まずくはないんだがな、そんなに種類が豊富ってわけでもないんで、味のほうにはもうすっかり飽き飽きしちまってるんだ」


「ふうん……」


 正直なところ、ココは何故イーサンはこの屋敷で暮らさないのだろうとずっと思っている。兄は大学の人気者で、アメフトのポジションはクォーターバック。言うまでもなく女子にもすこぶるモテる。だから、その年頃の若者として青春時代を謳歌したいといった気持ちは、もちろんココにも漠然とながら想像はできる。しかも、兄にはチアリーダーをしているキャサリンという超美人のガールフレンドまでいるのだ!こんな小さな子が四人もいる屋敷に、イケてる友人たちや美人のガールフレンドを連れてきたくない気持ちはわかるにしても、もっと兄にはここへ帰ってきて欲しいというのが、ココの長年の望みだった。


 そして、イーサンのほうでもまた、この可愛い妹の願いについては口に出されずともわかっていた。だが、彼にはまた別のこともよくわかっているのだ。たまに帰ってくるからこそ自分はこの家の英雄でいられるが、毎日家にいるとなると、注意すべきことがあまりにも多すぎる。たとえばブロッコリー。自分も嫌いなものを弟妹たちに「食べよ」と強制する気はイーサンにもない。けれど、明らかにマクフィールド家の子供たちは偏食だった。週に最低二回はピザを注文し、夜中にアイスクリームを食べてもそんなにキツくは叱られないという生活……それが将来的に何を招くのか、イーサンには未知数だった。


 また、先ほどマリー・ルイスが人の話を聞く気がない態度を見せたため、話がそのままになっていたが、ようするにイーサンはそうした食習慣も含めた子供たちの<毎日の習慣>を健全化させてくれということを彼女に頼もうとしていたのだ。


 もちろん、これは相当骨の折れることである。また、イーサンも彼らに本格的な意味では嫌われたくないため、休暇で帰省中もある程度のことは見逃しているところがある。けれど、子供たちに嫌われながらでもそうしたことを教え通す気概がお宅にはあるのか――と、そこのところをイーサンはマリーに聞きたいわけだった。


 イーサンとて決して鬼ではない。マリーが子供たちのためを思ってクッキーをたくさん作り、今もまた夕食の仕度をはじめた姿を見てもいる。朝食のオムレツなども美味しかったし、夕食のほうまで食べてみなければわからないが、料理の腕のほうはマグダほどではないにせよ、そう悪くはないに違いない。


 そしてイーサンが「少し早く帰りたい」と言ったため、夕食はいつもよりも早めにとることになっていた。だが、シチューと魚のムニエル、七種類の野菜を使ったサラダやマッシュポテトの乗った食卓を見るなり……ランディとココは早速とばかり文句を言いはじめた。


「シチューにブロッコリーを入れるだなんて、信じらんないっ!!」


「うえっ。俺、野菜の入ったものは一切食べない主義なんだ。魚も嫌いだし。でもこのマッシュポテトは……」


 そう言って、ランディはマッシュポテトをスプーンで掬って食べる。


「うめっ!!これだけは俺にも食える。でもこれだけじゃ腹減っちまうもんなあ。ココ、一緒にピザ取って食うことにしようぜ」


「しょうがないわね。どうせあんたまたバーベキューチキン頼むんでしょ?じゃあわたし、マルゲリータにするから、ハーフハーフで頼んで一ピースだけ交換しましょ」


「オッケー」


(さあ、どうする?)


 ロンはひとり大人しくシチューやパンを食べはじめたが、その手には日本の漫画が握られている。そして、漫画を読みながらシチューにパンを突っ込んでは、それをムシャムシャ食べるのだった。このこともイーサンは特段注意はしない。何故といえば、ランディもロンのこともイーサンはいずれ寄宿舎に入れるつもりでいるからだ。つまり、その学校にもよるだろうが、そうした寮での規律は厳しいものなので、今のうちに好きなようにしておけというのが、彼の考えだからである。


 マリーは自分でも食事しつつ、ミミのほうにも目を配っていたため、ココとランディがピザ屋に注文しはじめても、溜息を着いただけで何も言わなかった。子供たちの好き嫌いも把握せず、ブロッコリー入りのシチューを作った自分も悪いのかもしれない。そして彼女が腹を立てていたのは子供たちに対してではなく、イーサンに対してだった。


 何故といって、野菜と魚を彼らが食べないと知っていて、わざと自分に黙っていたのだから。


「俺、まだゲームが途中だから、ココ、ピザ屋の人が来たら上まで持ってきて!」


「いいけど……あんた、ゲームのやりすぎで目が充血してるんじゃない?目薬さしたら?」


「そうだなあ」


 目薬、と聞いて、マリーは顔を上げた。そういえば、絆創膏であるとか、頭痛薬や腹痛の薬などがどこに置いてあるのかとそう思ったからだった。


 マリーが言葉に出す前にイーサンのほうをじっと見ると、彼は念力が通じたみたいに、リビングの棚を指差した。


「あそこに薬箱が入ってるから、気になるんならあとで見ておけばいい。薬の他に包帯とか湿布薬とか、大体そんなものが一揃い入ってる。あと、電話台のところに、よく電話する場所やかかりつけの病院の電話番号なんかも載ってるな。なんにしても、マグダが休みの時にでも、あれがどこにあるかだのこれがわかんないとかいう理由で俺に電話するのだけは絶対やめてくれ」


 マリーの作った料理は中の上というくらい美味しいものではあったが、イーサンは特にそのことには触れなかった。これで自分も明日からまた寮の食堂の世話になることになるが、きのうもファミレスで外食したため、まあとりあえずは暫くこれで持つだろうと思った。


「……いつも、こんな感じなんですか?」


 ロンは食べ終わるなり、「ごちそうさま!」と言って、すぐにまた自分の部屋へ戻っていった。エレベーターの前まで行く間も漫画を読んでいたため、一度柱のほうにごつんと体をぶつけながら去っていく。ココは玄関近くにある階段のところで、足にぺディキュアしながらピザ屋の店員が呼び鈴を鳴らすのを待っている。


「まあ、おそらくは大体そうなんじゃないか」


 マリーはロンに、自分が食べた器は流しに下げてちょうだい、とよほど言おうかと思ったが、やはり言えなかった。他の兄と姉の態度に比べると、彼の態度は問題はあるにしても遥かにマシだったからだ。


 テーブルの上の、不要になった皿などを片付けつつ、マリーはもう一度溜息を着いた。自分を入れて六人分の食事を作るのは大変だった。しかも、こんなことがこれから毎日続いていくのだ……シャーロット・マクフィールドが料理を一切せず、女中任せにしていたのは、もしかしたら正解なのかもしれない。


「あんた、ある意味ラッキーだったよ」


 皿洗いをはじめるマリーの背中を見ているうちに、流石に彼女が気の毒になり、イーサンはそう声をかけた。本当はこのまま帰っても良かったのだが、ちょっと可哀想かと、そう思ったのだ。


「何分、あと何日かすりゃ夏休みだからな。本当はこういうのは不本意なんだが……ガキどもの夏休みのうち、最初の何日間か、俺がどうあいつらを躾ければいいのか、手本を見せてやる。けど、俺もアメフトの合宿のほうがあるからな、そう長居は出来ないんだ。まあ、最初の何日間か適当に監督して、あとは「このおねいさんの言うことを聞け、わかったか!」とでも言い残していけば、大体のところあとはあんたのほうでどうにかなるだろう」


「すみません。でももし、御無理だったら……」


 食器洗浄機を使ったことがないので、マリーはまだ戸惑いながら軽く水洗いした皿を順番に片付け、ある程度いっぱいになったところで洗剤を入れ、スイッチを押した。そして、イーサンが口にカップを持っていく仕種をしたため、食後のコーヒーを飲みたいのだろうと彼女にもわかる。


「ヌメア先生、ブロッコリーのお味はいいがでしゅか?」


「うむ、なかなかうまいぞよ!!」


 ミミは相変わらず一人二役の芝居をしながら食事を続けている。ランディとココとは違って、ミミには野菜に対するアレルギー反応は見られなかった。「ヌメア先生はサラダを食べましゅか?」、「うむ、食べたいぞよ!!」と言いながら、結局は自分で全部食べるのである。


「この頃の子供が一番いいな」


 イーサンはヌメア先生と並んで座る、ミミの頭を撫でながら言った。


「だがまあ、ミミもやがてだんだん口が達者になってきて、あんたがどう答えていいかわからないことを色々言うようになるだろう。仮に憎たらしいとあんたが思って、「そんな子は夕食抜きですからね!」と言ったところで、「じゃあピザを注文するからいいもんね~」っていうような、うちの子はみんなそんな感じだ。まあ、夏休み前に成績表を受けとったら、あんたもびっくりするだろうよ。ランディはCが一番いい成績っていう具合だし、ロンは理数系と体育がまるで駄目だからな。俺の弟とはとても思えんくらいだ」


 ここで呼び鈴が鳴り、「はあ~い!!」と言って、ココが出たらしかった。バタン、とドアが閉まり、耳を澄ませるとエレベーターの作動音が居間のほうまで微かに聞こえてくる。


「あの、エレベーターのことなんですけど……」


 コーヒーを飲み終わったら彼がいなくなってしまうと思い、マリーは気になることをやはり聞いておくべきだと思った。


「もし夜中に突然壊れたりとかしたら、どうすればいいんでしょうか?」


「べつに、エレベーター会社に電話すればいいんじゃねえか?エレベーターの中にもそういう緊急スイッチボタンがついてるし、連絡先の電話番号もエレベーターの横あたりにシールが貼ってあったはずだ。緊急の際には二十四時間対応してくれるってことだったが……確か、何か月かにいっぺんごとにやって来て、その業者が点検作業をしていくはずだよ。あとは、あれだな。ガキめらの同級生が面白がって、うちに遊びに来るたんび、「みにょんみにょん」言いながら意味もなく上がったり下がったりするんだが――頭の挟まる事故が起きてそいつが泣き喚いてても、あんたは大して気にすることはない。向こうの親のほうで怒鳴りこんできたとしたら、まあその場合は俺に電話でもしろ」


 ちなみに、イーサンのいうみにょーんというのは、エレベーターが上昇、あるいは下降する際に聞こえる微かな作動音のことである。


「それで、あのう……さっき子供たちのしつけがどうとかっておっしゃってましたよね?」


「ああ」


(なんだ。ちゃんと聞いてたのか)


 そう思い、ミミの口のまわりのベタベタをマリーが拭いてやるのを、イーサンは見返した。


「あんたさ、朝起きたらまず真っ先に何する?」


「そうですね。まずは顔を洗って……それから食事の仕度かしら」


 マリーはイーサンの質問の意図がわからず、軽く小首を傾げる。


「つまりな、人間ってのはその大体が習慣に支配されてる生き物なわけだ。俺はもしかしたらそのへん、割と良かったのかもしれんな。母親がほとんど大したことをしてくれないもんで、なんでも自分で覚えてメシ作ったりしなきゃならなかった。だが、あいつらは小さい頃から甘やかされててな、今もメシなんかいつでも誰かが作ってくれて自動的に出てくるとしか思ってないだろう。で、朝メシ食って学校から帰ってくると、今度はゲームに漫画にDVD鑑賞と、そんなところか。もちろん、マグダはよくやってくれてるよ。宿題が終わってからじゃないと、ゲーム出来ない、漫画も読めないとなると、なんとかして早くそれを終わらせなきゃならんものな。家庭教師も雇ってみたが、手を抜いて教えてるのかなんなのか、相変わらず成績がまるで上がらんもんで、クビにした」


「…………………」


「だからさ、あいつらは誰にも怒られも怒鳴られもしないままだったとしたら、学校から家に帰ってきたらまずゲームに漫画、「宿題はどうするの!?」なんて言っても、「あとで」としか言わないだろう。だが、あのガキめらの歳でそれが当たり前の習慣ってことになったらどうする?血の繋がらない豚児だからしょうがないとあんたが仮に思ったにせよ、最終的に責任は全部俺やあんたの上におっかぶさってくるんだぜ。そう思ったら、多少は心を鬼にして、言いたくないことでも言わないとな。俺はあの子らの習慣の健全化のために、あんたにそこまでのことがほんとに出来るのかって、そこんところを聞いときたかったんだ」


(精一杯、頑張ります)とは、きのうとは違いマリーにも言えなかった。けれど、マグダとふたりで力を合わせれば、どうにかなるかもしれないと、そう思いもする。


「それじゃ俺はそろそろ寮へ戻るが、まああんたはこれからせいぜい頑張ってくれ」


 マリーの肩にぽん、と手を置くと、「コーヒーごちそうさま」と最後に言って、イーサンは去っていった。そして彼がいなくなってしまうと、マリーはなんだか急に心細くなってくる。


「ヌメア先生、食後にコーヒーなどいかがでしゅか?」


「あーい、あいっ!!飲みたいぞよ!!」


 マリーはミミのぬいぐるみのお友達に、コーヒーのかわりにぬるめのアップルティーを入れてあげた。


「ありがとあんした、あーいあいっ!!」


 ヌメア先生が返事をする時、何故か「はい」とは言わず「あーいあいっ!!」と言うのがおかしくて、マリーは笑った。そして彼女が「ちっこしたい」と言うのでトイレへ連れていき、そのあとミミを抱っこしたまま、子供の部屋を順番に回ることにした。


 二階のココの部屋へいき、「明日学校へ行く準備はちゃんとした?」と聞いてみると、「うん。わたし、上の馬鹿兄貴ふたりとは違って、しっかりしてるから大丈夫」との返事……マリーはただ、「そう」とだけ答えて、彼女の部屋から出ていこうとする。


「おねえさん、オリーブって好き?」


 ベッドの上に寝転がり、子供向けのファッション雑誌をめくっていたココは、テーブルの上からオリーブの乗った皿を彼女に差し出す。「ありがとう」と言って、マリーはひとつだけ受け取った。


「オリーブってさあ、美容にすごくいいんだって。友達のモニカがそう言ってた」


「ふうん。そうなの」


 マリーはミミを抱っこしたまま戻ってくると、なんとなくベッドサイドに腰掛ける。


「友達とは、いつもどんな話をするの?」


「なんだろう……服のこととか、学校のことかな。担任のアダムソンが頭ハゲてて超ヤバイとか、そんな感じ」


 ここでココが、何か思い出し笑いでもするみたいに笑ったので、マリーも笑った。ミミはまた「あーい、あいっ!!」と何かの口癖のように言ってばかりいる。


 ココはそれきり、また雑誌に読み耽っていたので、マリーは部屋から出ていくことにした。こんなちょっとした会話だけでも、彼女が夕食にシチューを食べずに悪かったとまでは思ってないことがマリーにはわかる。イーサンの言っていたとおり、簡単に言うとすれば<そういう習慣>なのだ。


 そしてミミのことを床に下ろし、エレベーターで上がっていく間、マリーは少しだけ不思議だなと感じずにはいられない。自分でも言っていたとおり、ココはあの歳にして随分しっかりした子だと、マリーにしてもそう思う。自分が七歳くらいの時には、もっとおどおどもじもじして、言いたいことの半分も言えないような、そんな子だった。けれど、そんな自分でもやはり、父親なのか祖父なのかよくわからない男の後妻が突然家にやって来たとなれば、不審に思ってもっと反抗したことだろう。


(そっか。よくわからないけれど、わたし、もしかしたら何かの意味では運がいいのかも……)


 先ほどのココの、特段好いてもいないが、かといって格別嫌ってもいない――といった自然な態度を見て、マリーは少しだけ安心した。もちろん、七歳にしては随分言語能力の発達しているように見える彼女をして、実は子供らしく細かいところがわかっていないのではないかと思いもする。あるいは、これからさらに成長するにつれて、色々なことがわかってくるのと同時、反抗期がはじまったりするのだろうか。


 ミミはエレベーターの中でもしきりと体をゆすって、「あーい、あいっ!!」、「あーい、あいっ!!」と言ってばかりいる。また、実をいうとマリーはミミが片時もヌメア先生を離さないため、その理由をイーサンに聞いてもいたのだが……「そのうち教えてやるよ。気が向いたらな」と言って、彼は大笑いしていたものだった。


 それだけでも、(何かある)のは間違いないのだが、仮にどんなにぬいぐるみに愛着を感じていたにしても、歳が上になるにしたがいそうしたことからは自然、卒業していくものだ。ゆえに、彼が何を隠しているにせよ、マリーはあまり心配してはいなかった。


「ヌメア先生、みょーんです、みょーん!!」


「あーいあいっ!!」


 ミミがそういうのに合わせて、「そうね、みょーんね」と言いながら、マリーは五階で下りると、そのままミミの手を引いて最初にランディ、それから次にロンの部屋まで行った。五階のフロアもまた広かったが、子供たちは隣同士の部屋でそれぞれ暮らしていた。おそらく、離れた場所を使用していないのは夜トイレに行く時にオバケが怖いとか、そんな理由ではないかとマリーは思っている。


「ねえ、そのゲームそんなに面白いの?」


「あったりきよおっ!!」


 そう言いながら、こちらに目もくれようとしないランディの隣に、マリーは椅子を持ってきて座った。ミミはヌメア先生と一緒に、兄の部屋をぶらぶらと探索している様子である。


「友達ん中じゃ、俺が一番このゲームで進んでんだ。今日も一日やりまくってかなり差がついただろうから――ま、あいつらのわかんない謎解きなんかを、俺がちょっと自慢たらしく教えてやることになるわな、当然」


「いつもは、何時ごろ寝るの?」


「一応、九時には寝ろってマグダにも兄ちゃんにも言われてる。でも、マグダはとっしょりだからさ、一回寝たと見せかけておいて、また起きてきて十二時ごろまでテレビ見たりとか、時々あるよ」


「じゃあ、今日は何時に寝るの?」


 ふぁーあっと欠伸すると、ランディは「あともう少しかな」と言った。「このダンジョンのミッションをクリアしたら寝るよ」


「じゃあ、九時ごろまたおねえさん来るけど、寝る前までに明日の学校の準備、しといてね」


「うん。わかってるって!」


 マリーは食い散らかしたあとのピザの箱を片付けようかなとも思ったが、とりあえず置いておくことにした。最初からなんでもしてしまうのは、それもまた<よくない習慣>だろうと思ったからだ。


 ロンの部屋へいってみると、彼は驚いたことに机に向かって勉強していた。というのも、エレベーターでマリーのやって来るのがわかったため、それまで読んでいた漫画を閉じると、突然勉強する構えを取ることにしたわけである。


「学校の準備なら、もうすっかり済んでるよ」


「そう。良かった。えらいわね」


 マリーにそう言われると、突然罪悪感に胸が痛み、ロンは本当に何かの問題を解いてみるということにした。そしてそのまま、自分はすっかり勉強に夢中だという振りをし続ける。けれど、勉強の邪魔をしては悪いと思ったのか、兄のところにいた時ほど彼女が何も話さないのを見て――ロンは椅子をくるりと回して振り返った。


「おねえさんはさ、<この世ならぬもの>って信じる?」


「えっと……どういうこと?」


 ミミがまたしても「あーい、あいっ!!」と言うのを見て、ロンは優しく微笑んだ。


「イーサン兄ちゃんはおねえさんに何も言ってかなかったのかなあ」


 ロンは立ち上がると、「こっちに来て。ぼく、秘密を教えてあげる」と言い、椅子から立ち上がると廊下へ出た。廊下の電気をすべて点けて先に進んでいくと、五階の一番角の部屋までやって来る。そこはとても広々としたベッドルームだった。


 すると、その部屋の中へ入るなり、ミミはだっと走っていき、ゆうに二メートルはあろうかという大きなイルカの置物に抱きついていた。そして叫ぶ。「ママーッ!!」


 ミミがイルカの置物にひしっと抱きついたまま離れないのを見て、マリーは戸惑った。よくわからないが、子供の見せる普通の反応でないことだけは確かだった。


 そのベッドルームは、他の部屋もそうであるように、クリスチャン・ラッセンの絵画や、他にクリスタルのイルカの置物、イルカの写真などがフレームに収めてたくさん飾ってある……といったような室内装飾だった。中央にはキングサイズのベッドがあり、クッションもイルカなら、ベッドカバーにもイルカが描かれており――とにかく「イルカ部屋」とでも名づけたいようなイルカ尽くしの寝室だった。


「うちのママ、よくわかんないけど、ちょっと変わった人だったみたいなんだ。そんでね、イーサン兄ちゃんが言うには、ぼくたちのおじいちゃん……えっと、ほんとはお父さんなのかな。お父さんはママのイルカ狂いに嫌気がさして、最後は出ていってしまったんだって。ほんとか嘘かわかんないけど、『イルカイルカって、もう俺はイルカなんかうんざりだっ!!』っていうのが、ママとパパの最後の会話だったみたい」


「そ、そう。でもこの部屋、なんだかちょっと変ね。わたし、さっきから少し寒気がするっていうか……」


 今は六月で、エアコンを入れるほど暑くはないにせよ、暖房を入れるほど寒くもないという、そんな時期である。マリーは「イルカ尽くしだから」ということの他に、この部屋になんとなく嫌なものを感じて、早く出たくて仕方なかった。


 ところが……。


「ヌメア先生、おねがいしますっ!!ママのことをどうか、お願いしますっ!!」


 ミミが突然、ヌメア先生を二メートルばかりもあるイルカの前に捧げて、しきりに何度もお辞儀を繰り返しはじめる。


「ママをお願いします、ヌメア先生っ!!ママを助けてあげてください、ヌメア先生っ!!」


 それから今度はまた「あーい、あいっ!!」、「あーい、あいっ!!」とミミは声色を変えてヌメア先生を演じるのだったが――その声が昼間聞いた無邪気なものとは違う気がして、マリーは少し気味が悪くなってきた。


「ほら、ミミ、そろそろ行くよ」


「ダメっ。ヌメア先生、ママのこと助けるのっ。そうじゃないと、ママ死んじゃうよっ!!」


 ぐすぐすと泣きはじめるミミのことを見て、この小さな子供のことがマリーは心底可愛く、また可哀想になった。それで、実際は抱きあげるとかなりのところ重いその体を抱きしめ、しゃくりあげるミミの背中を何度もゆすった。


「ごめん、おねえさん。ぼくもこんなつもりじゃなかったんだけど……一度、事情を知っておいたほうがいいのかなと思って」


「事情って?」

 

 元は夫婦の寝室だったのだろう部屋を出ると、マリーはほっと溜息を着いた。マリーにとっては、鍵でもかけておいて、もう二度とは入りたくないと思うような、ここはそんな場所だった。


「ほら、ママが死んだ時、まだミミは2才になるかならないかくらいの赤ん坊だったでしょう?だから覚えてるはずなんか絶対ないんだけど……でも、僕はまだ少しくらいは覚えてるんだ。ジャン・なんとかっトローネ=ヌメアっていう有名な霊媒師の先生がよくこの屋敷に来てて……ママの癌を治すのに、なんか霊を呼びだしたりとか色々やってたんだ。そんでね、そのヌメアって人、霊に取り憑かれはじめると、まずは自分の体を叩いて、『アーイ、アイっ!!』て言うの。ぼくらもさあ、ミミはまだ赤ん坊だったんだから覚えてるはずないって思うんだけど……だから、なんかちょっと気味が悪いんだよ」


「そうだったの。ねえ、ロン。毎週教会に行ったりして、お祈りしてる?」


「どうかな。日曜ってなると、ココもランディも昼頃までいつも寝てるからね。僕もそんな感じだし……でも、マグダがミミのことを連れて教会へ行ってるはずだよ」


「そうなの。良かったわ」


 マリーは再びロンの部屋のほうまで戻って来ると、子供好きな優しいイエスさまのお話をし、寝る前に<主の祈り>を祈るよう、その言葉をロンに教えた。



<天にまします我らの父よ。


 ねがわくは御名をあがめさせたまえ。


 御国を来たらせたまえ。


 みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。


 我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。


 我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。


 我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。


 国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。


 アーメン>



「それとね、何か困ったことがあったらなんでも神さまにお祈りしてお願いするといいわ。おねえさんも心を合わせて一緒に祈ってもいいし……何か人が不幸になるとか、そういうこと以外でなら、なんでも神さまに祈ってお願いしていいのよ。そのこと、忘れないでね」


 ロンは今の今まで、そんな話は誰からも聞かされたことがなかったので驚いた。何より、何か困ったことがあったら一緒に祈ってくれると綺麗な若い女性に言われたことが嬉しかった。そしてロンは、この時に感じた「神聖な感じ」を忘れることなく、いつまでも覚えていたものだった。


 けれど、やはりロンはこの時も「学校で友達ができるように一緒に祈ってくれる?」とは言えなかったし、自分が学校に友達のいない惨めな子だと思われるのも嫌で、本当のことは何も、マリー・ルイスに話したりはしなかったのである。



 その後、マリーはミミのことを彼女の子供部屋で寝かしつけ、軽くリビングの掃除をしてから九時頃にもう一度五階へ上がっていった。五階の廊下では消灯もすべて消されて、しーんとしていた。マリーは角部屋の寝室のことを思ってゾッとしたが、ランディがどうしたかだけ確かめるために、彼の部屋の中を覗きこんだ。


 すると、暗い部屋の中からは微かにいびきの音が聞こえてきて、マリーはすぐにドアを閉めた。(ちゃんと歯は磨いたのかしら)とそんなことが気になるが、そのことはまた明日以降チェックしようと心に決める。マリーは念のためと思ってロンの部屋も覗き、そちらもしーんとしているのを確かめてから、再びエレベーターのみょーんという音を聞いたのだった。


 もっともこの時、ロンは実際には起きていて、マリーがこっそり子供の安全確認のために部屋を覗いてくれたのを、嬉しく思っていた。そして、(嫌な学校へも、頑張って行かなくちゃ)と考えた。何よりもう何日かすれば夏休みだ。そう思えばどうにか頑張れるだろうと、ロンは自分に何度もそう言い聞かせていたのだった。




 >>続く。






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