第1章
正直なところを言って、年老いた父が養老院で若い妻を死ぬ前に娶ったと聞いても――イーサンはあまり驚かなかった。
ただし、美しい湖水地方にあるロンシュタットから父ケネス・マクフィールドが死んだという知らせを受けた時、(では、父の残した遺産はどうなるのだろうか)と思いはした。その時、イーサンは首府にあるユトレイシア大の寮にいたのだが、食事の途中で電話が来たことを知らされたために、随分イラついたものだ。彼は今二十一歳で、来年には父から財産の一部を受け取る予定でいたのだが、もしその父ケネスにとっての第二の妻が強つくばりで欲深な魔女みたいな女だったとしたら……自分が受け継ぐはずの財産は半分以下、あるいはそれよりもっと少なくなるかもわからない。
「まあ、父も歳が歳ですし、いずれこんな日が来るとはわかっていました。葬式のほうへはもちろん出席しますよ。ほら、今はもう六月じゃないですか。大学のほうも夏休みになりますし、試験のほうもすでにパスして経済学部の四年には無事進級できる予定です。いえ、こちらこそ、ウェリントン弁護士にはいつもお世話になって……はい。こちらこそよろしくお願いします」
ジェイムス・ウェリントン弁護士と父ケネスの間には、イーサンの知る限り、父が事業をはじめて以来つきあいがあるということだったから、マクフィールド・ホールディングスの経営上のことで彼の知らぬことはないといって良かったに違いない。ゆえに、この時イーサンは電話でこう聞くべきかどうか一瞬迷った。『その父が死ぬ間際に結婚したとかいう女はどこのどういった素性の女なんです?第一、父は半身麻痺で養老院に厄介になっていたというのに、一体いつどんなふうにしてそんな関係を結べたんでしょうね?』といったように。
(まあ、べつにいいさ。どのみち、葬式のほうへはその女もやって来るだろうし……むしろ、その顔を見るのが楽しみなくらいだな。相手にもし隙があるようなら、その分厚い面の皮を剥いでやって、遺産目的で七十にもなるジジイと婚姻を交わしたのだと、絶対白状させてやる)
「よう、イーサン。寮のほうに直接電話が来るだなんて、珍しいな。今は携帯っていうハイテク機器があるってのに、そっちじゃ駄目だったのかい?」
「親父が死んだのさ」と、食堂のほうへ戻ってくると、気の合う仲間数名に、彼はそう報告した。「なんでも、七十にして死ぬ直前に若い娘と結婚したんだと。おまえらこれ、どう思う?」
「どうって、そりゃあ……」
最初にイーサンに声をかけてきた、同室のサイモン・ロードが半ば笑いかけた。彼も、まわりにいる友人たちも全員、イーサンと父ケネスの親子関係がどのようなものかよく知っている。そして彼が今父が死んだと聞いてもまるで顔色を変えず、ムシャムシャ食事にありつけるのが何故なのかも。
「当然、遺産目的だろ?」
食後のコーヒーを飲みながらそう言ったのは、イーサンと同じアメフト部のマーティン・ローランド。ちなみにポジションのほうはレフトガードである(また、みなさん御想像のとおり、岩山のようにがっしりした筋肉の塊のような男である)。
「いやいや、大いに殺人の匂いがするな。イーサンの親父さんの年商は十億っていったっけ?病気で弱ってるところを色仕掛けで迫り、その震える右手にペンを握らせ、自分に全財産を残すって書かせてからぽっくり逝ってもらったのさ。ま、十中八九間違いねえな」
イーサンのトレイのビスケットに手を出しながら、不敵な笑みを浮かべてルーディ・ガルブレイスが言う。
「なんにしても、気の毒したよな。おまえと親父さんの間には親子の情愛なんてものはなかったにしても……それでも、親父は親父だろ?ただ、やっぱりその若いカミさんってのがちょっと引っかかるな。イーサンの父ちゃんの死ぬ三秒前くらいに結婚したって聞いたんじゃ、なおさらだ」
ラリー・カーライルのこの物言いには、一同大爆笑だった。寮内でも仲のいい五人はそのまま、イーサンの食事が終わるのを待って、彼らの部屋の一室で引き続きこの話を続けた。葬式の日程のことや、マクフィールド・ホールディングスの株価のこと、イーサンがもらえるはずの遺産のことや、そしてもちろんうら若き後妻を彼がどう扱うべきかといったことについてまで……。
「その女、若いっていうけど、いくつなのさ」
イーサンとサイモンの部屋に他の三人も集まって、ベッドの上やら椅子やらに適当に座ると、ラリーがあらためてそう聞いた。彼の父親も結構な資産家なので、ある意味人事ではなかったといえる。というのも、彼の母も早くに亡くなり、今実家の屋敷にいるのは後妻だったからだ。
「聞いて驚くなよ。なんと、二十五歳だ」
「ええっ!?」
イーサンの言葉に、他の四人は同時に声を揃えて驚いていた。マーティンなどは、手に持っていた板チョコレートを床に落としていたほどだ。
「お、おまえの親父、七十だって言ったよな?」
「ああ、そうさ」と、イーサンはサイモンの質問に事もなく答える。「ちょうど、四十五歳違いっていうことになるよな。よく安手のドラマにこういう設定があるってのは知ってたけど、どうだ、ルーディ。推理小説家志望としてはこの話、うまく料理すれば面白い話になりそうか?」
「うーん。どうだろうなあ。ほら、よく事実は小説よりも奇なりと言うだろ。その女が二十五歳とか言っておきながら実は三十五歳だったとか、実際のシチュエーションにもよるよ。イーサン、出来ればその出来た後妻さんの写真でも、土産に持って帰ってきてくれ。たとえば、こんな美人じゃあ俺でも騙されるなって感じの女だったら、そこから上手く話を膨らませて、いい小説が書けるかもしれない」
「ということは、やはりあれか?親父さんは実は天寿をまっとうしたっていうんじゃなくて、殺された可能性もあると、イーサンはそう見ているわけか?」
赤毛のラリーは悪戯っぽそうに緑色の瞳を輝かせてそう聞いた。どうでもいいようなことではあるが、彼は外国語学部を専攻していて、フランス・ドイツ・イタリア・スペイン語に通じていた。父親が元外交官なので、幼い頃、あちこちと住まいが変わり、彼が生まれたのはイギリス・ロンドンでのことだったという。
「さあ、どうだか。実際のところ、俺は親父の死因なんかに興味はないね。仮に親父が遺産目的の女に殺されたのだとしてもいい。だが、長男として遺産の取り分だけはしっかり頂いておきたいというそれだけだ。あの弁護士、詳しいことはまたのちほど……とかなんとか上品ぶって言ってくれちゃってな。あの親父が女にだらしないってのはわかりきってたことだったにしても、もし遺産の半分が自動的にあの女のものになるっていうんなら、ちょっと考えなけりゃあならんだろ。こっちには俺だけじゃなく、腹違いの弟と妹なんてのが、後ろに四人も並んでるわけだからな」
ここで五人はまた、どっと笑い声をあげた。実をいうと、イーサンとこの四人の兄弟姉妹の間には半分しか血の繋がりがないだけでなく、十歳以上も年が離れているのだ。まず、イーサンと十一歳年の離れたランディ、次に十二歳年の離れた九歳のロン、十四歳年の離れた七歳のココ、十七歳年の離れた四歳のミミである。イーサンの母親は彼が十一歳の時亡くなり、彼女は死ぬ少し前にケネス・マクフィールドのことをせっつきにせっつき、ようやくのことで息子の存在を認知させてから死んだのであった。
つまり――何やら話がややこしいようだが、イーサンの母のガブリエル・ミラーとケネス・マクフィールドとは正式な婚姻関係にあったわけではなかった。そして彼はちょうどその頃、数人いた愛人のうちのひとりに「妊娠した」と告げられて、しつこく結婚を迫られていたのである。こうして彼は六十歳にして初めて女性と正式に結婚をし、彼がすでに十度ばかりも結婚しては離婚を繰り返していたように錯覚していた人々を大いに驚かせたのである。
だが、そのランディ・ロン・ココ・ミミという四人の子を生んだシャーロット・マクフィールドも癌で亡くなり、その後間もなくケネスも脳梗塞で倒れと、イーサンは自分の家族のことを誰かに語る時、どうしても笑わずには何も言えなかったものである。
「まあ、あの親父らしいと言えば、あの親父らしい死に様さ。俺は長男として遺産の正統な取り分さえもらえるなら、親父が死ぬ三秒前に結婚した女のことなど、どうでもいい。ただし、向こうも相当な手練手管の使い手だろうから、最後は法廷で長く争ったのち、ようやく俺の元に実際に使える金が転がりこんでくるなんてんじゃ困るっていう、これはそういう話なんだ」
「だよなあ」
ルーディは何かうまく小説としてまとめられそうだと思ったのかどうか、しきりとメモを取りながら頷いている。そして、イーサンはここで部屋の片隅から雀卓を引きずってくると、ラリー・サイモン・マーティンと一緒に牌を並べ、徹雀の姿勢を取りはじめた。進級試験も終わり、もう一週間もしないうちに夏休みだということもあって、大学の寮内の空気は緩みきっていたといっていい。
それでも、イーサンが通っていたパブリックスクールの寮では規律が厳しく、夏休み前であろうとなかろうと、期末試験が終わってようとどうだろうと関係なく、消灯時間の十時にはピタリとベッドに入らなければならなかったものだ。ところが、これが大学の寮ということになると――最早なんでもアリだった。もちろん、寮生として最低限守らなければならないルールというものは存在するが、それもまたかなりのところ融通のきくもので、隣室から苦情でも来ない限りは徹夜で麻雀に勤しんでもまるでどうということもないのである。
ゆえに、父親の葬儀に参列するという翌日、寝不足と二日酔いに苦しめられながらイーサンはロンシュタット湖水地方行きの列車に乗った。ずきんずきんと痛む頭を抱え、首府から三時間半ばかりもかかる場所へ向かうのは、イーサンにしても億劫なことだったが、何分この世に一人しかいない実の父が死んだのだ。これも致し方なかろう……などと思いつつ、一等客室にひとり座り、イーサンは頭痛を耐え忍んだ。
列車が大きな橋を渡ってレダ川を越え、やがて森林地帯へ入りこんだ頃――ほんの短い間ではあるが、イーサンは深い眠りについた。しかも、そのほんの短い間に嫌な夢を見た。ジャズ歌手だった母が、大きな胸を見せびらかすような黒いドレスを着て、若かりし頃の父とダンスを踊っているという夢だ。しかも、夢の中でまだイーサンは十一歳くらいの小僧っ子だった。
『母さん、なんだよ、そんな奴。母さんが僕のこと、その人との間の子だって言っても、信じなかったような奴じゃないか。なんで今さらそんな奴と仲良くしたりするんだよ』
少年イーサンは心の中でそう思い、また自分の思いを実際に口に出して言ってもみたのだが、母ガブリエルと父ケネスとは、彼の存在自体にまるで気づかないように、楽しそうに踊り続けている。
『嫌だよ、母さん。そんな奴より僕を選んでよ、僕を――』
目が覚めた時、イーサンはハッとして体を強張らせた。おそらく、列車に乗車してから飲んだ薬が効いてきたのだろう、頭痛は頭の中から去っていた。けれど、脇の下にはべっとり汗をかいており、イーサンはなんとも言えない嫌な気持ちだった。
(くそっ。また嫌なことを連鎖的に思いだしちまったじゃないか。あいつが、母さんと喧嘩しながら、DNA検査がどうだのと言った時のことを……)
イーサンはスーツを着てこようかと思ったのだが、流石にそれでは暑いため、きのう着ていたパーカーとジーンズという、なんともだらしない格好をしていた(言うまでもなく、この格好で明け方まで麻雀していたのである)。
実際のところ、イーサンの父ケネス・マクフィールドは女性にだらしのないことではつとに有名で、母のガブリエルの前にも子供を認知して欲しいと頼む女性はいたらしかった。ところが、ウェリントン弁護士の入れ知恵で、「念ため、DNA検査をなさっては」との言葉を聞き入れ、そのようにしたところ――これが、彼の赤ん坊ではないことが判明。そんなことがあったせいだろう、ケネスは「ガビー、君の言うことは間違いなくそうだろうと思うよ。この子は90%以上の確率で俺の子だ。だが、どうしても念のため、そうさせてもらいたいんだ」と言い、彼はヒステリックに喚き立てる昔の恋人をどうにか宥めたのだった。
その頃、イーサンは知らなかったが、父のケネスも相当苦しい立場にいたらしかった。つまり、その頃彼は六十歳にして結婚せざるをえない三十歳ばかりも歳の離れた女性がおり(彼女もまた妊娠しており、DNA検査で彼の子であることがわかっていた)、その彼女にもこうした事情を説明せねばならないという立場だったからだ。
今にしてもイーサンは、少し不思議に思わなくもない。ケネスが認知することを拒否するかわり、相応の金を積んで済ませるということも出来たはずなのに、何故彼がそうしなかったのか……いつかもし聞ける機会があったら聞いてみるかもしれないと思いながら、その後月日は流れ、父ケネス・マクフィールドは死んだ。死因は膵臓癌によるものだと聞いたが、イーサンは大して同情してはいない。事業に関することでは敏腕かつ冷徹なことで知られ、数多くの女性と浮き名を流し、多くの財を得るのと同時に放蕩の限りを尽くしたという人生でもあったはずだ。それが死ぬ前のほんの数年体が不自由になったからとて、そう嘆くべきことだろうか?
(まあ、俺だけじゃなく、家族は誰も見舞いに来ないという環境だったにせよ、かわりに財産目当ての面倒を見てくれる若い女までいたんだから……まったく幸福な生涯だったとしか言いようがないな)
イーサンは寝入ってしまう前まで食べていたサンドイッチの残りを食べると、ロンシュタット駅で下りた。ここは保養地として有名な場所で、広いロンシュタット湖を囲むようにして、金持ちどもが贅を凝らした別荘を建てていることで有名なところである。だが、イーサンは首府ユトレイシアからそんなに離れておらず、休暇を利用でもすればいつでも来れるこの場所に来たことは一度もない。
父ケネスが脳梗塞で倒れた時にはもちろん病院へ駆けつけだが、その後手術して意識が回復したのちは、見舞いに来ることもほとんどなくなった。手術を受けた病院からリハビリに特化した施設へ移ったのち、最後にロンシュタット養老院へ彼は身を落ち着けたというわけだった。
何分、初めて来る土地柄のため、小さな駅舎の隣にある交番で、イーサンは道を聞いた。果たして<ロンシュタット老人福祉施設>は、湖を望むことの出来る高台に位置しているという。
「だから建物自体はまあ、ここからでも見えるんですよ」
そう言って親切な若い巡査の青年は、森の緑に囲まれ、きらきらと輝く湖水の向こうを指差した。そこには、白塗りの別荘群から少し離れたところに、赤い屋根の病院風の建物が遠く見えている。
「こうして見るとそう遠くもないように感じるかもしれませんが、実際あそこまで行くとなると結構距離がありましてね、シャトルバスで行くか、それとも馬車で行くか……」
「馬車ですって?」
聞き捨てならない、とでも言うように、イーサンはそう聞き返した。
「ええ。夏の間だけなんですがね、観光客用に、湖をぐるっと回る馬車が出てるんです。大体、二~三時間置きに一便くらいですかね。その途中でロンシュタット老人ホームのそばも通りかかるはずですから……」
なんというタイミングの良さだろう。バスが近くの停車場に停まるのとほとんど同時、馬車がパカパカと蹄の音を響かせながら駅舎の目の前に停まったではないか!
もちろん、イーサンにはバスに乗って行くという選択肢もあるにはあった。けれど、その幌のかかった馬車は彼にとってなんとも魅惑的だった。そこで御者が「ある程度人が集まらんと、出発しねえよ、こっちは」と言うのも構わず、暫く駅舎の中で涼んだのち、四人ほど観光客が乗りこむのを見計らって、最後に自分もそこへ乗りこんだわけである。
だが、イーサンはそのことをすぐに後悔した――というのも、この馬というのがかなり歳のいった老馬で、歩の進みがのろいのだ。しかも、他の観光客四人は家族連れで、母親と祖母、それに見るからに躾けの悪そうな子供ふたりだった。幌馬車のほうは十名はゆうに乗れそうなくらいの広さがあったが、もし仮にここに十人も人が乗っていたとしたらば、老馬のほうでは堪ったものではなかったろう。
(可哀想にな。馬をやるってのも楽なもんじゃない……しかも、俺が駅舎で待ってる間、この馬ときたら水をがぶがぶ飲んで、むしゃむしゃエサに食らいついていたからな。この湖を一周して戻ってくるってのも、結構骨の折れることなんだろう)
しかも今はまだ六月――これから七月、八月ともなれば、さらに炎天下が続く日もあるだろう。しかも日によっては馬車に十人くらい人が乗りこむこともあるわけだ。しかも御者の親父は一人あたりにつき十ドルも金を取るときてる。
(まあ、ロンシュタットは別荘を持ってる金持ち客が多いから、物価が高いとはラリーからも聞いてはいたが……)
十歳くらいの子供A(男の子)とそれよりも年下らしき子供B(女の子)が狭い通路を挟んではしゃいでいても、イーサンはさして気に留めなかった。御者のすぐ真後ろに座っている母と祖母とは、子供のことなどお構いなしに、御者も交えて三人で何か歓談している。
馬の歩みは遅く、もともとせっかちな性格のイーサンはイライラしたが、そのうちそのことも諦め、湖から吹いてくる涼しい風に身を任せることにした。ぱかぱか言う馬の蹄の音を聞きながら、日光に反射する美しい湖の湖面を眺めるのも悪くはない――何かそんなふうにイーサンが思いはじめた時、何か前方のほうで「ぶうっ!!」というとてつもなく大きな音が響いてくる。
「わーっ、お母さん、ぼく、馬のオナラなんて、はじめて聞いたな!!」
「やだあ、くさーい。ケビンのオナラよりもくさーい!!」
途端、何か興奮したように騒ぎはじめた子供Aは、さらに老馬がブリブリとケツからうんこを出すのを眺め、またもひとり「すごいや、すごいや!!」と騒ぎはじめる。逆に子供Bのほうは「やだもう、最悪ーっ!!」と母親に泣きつかんばかりだった。
男の子はといえば、イーサンのいる後ろの席にまで下がってきて、どでかい馬糞を眺め――「あれ、片付けなくていいのかなあ」と独り言を呟いてから、また前のほうの自分の席へ戻っていく。
ここへ来てイーサンはどうにも笑いが堪えきれなくなり、吹きだすようにして笑った。腹がよじれそうになり、座席に半ば倒れるようにして笑い転げていると、御者が耳の遠い人によくある大声で、彼にこう呼びかける。
「お客さあん!今目の前に見えてきてるのが、お宅さんの言っとったロンシュタット老人病院でさあ!」
遠くから眺めた時とは違い、山の緑に囲まれたその施設は、思った以上に大規模な施設のようだった。なんでも、正規の病院の他にホスピスもあり、その他にリハビリセンターと老人福祉施設も併設されているといった形の医療施設らしい。
(まあ、親父のような金持ちが暮らすための施設とも言ってたからな。それなりに懐のあたたかい人間しか最初から受け容れてなぞいないといった場所なんだろう)
こうしてイーサンは、山陰に入って急に涼しくなったところで馬車を下りることになった。さらに坂道をかなり長く歩いていかなくてはならないため、向こうへ行き着くまでに軽く十五分はかかるだろうと思われた。
(やれやれ。こんなことならドライブがてら、車でくりゃ良かったな)
そう後悔しながらも、イーサンは舗装の坂道を登り続け――<ロンシュタット医療総合センター>という矢印のついた場所から左に折れて、ようやくのことで病院の敷地の一角に足を踏み入れた。ここからは舗装ではなく茶色い土の道で、今日のような晴れた日には良いのだろうが、雨の日は相当ぬかるむことの予想される道が長く続いている。
イーサンはあともう少しだろうと高をくくっていたものの、彼が今いるのはリハビリーセンターの建物で、目指す老人福祉施設がどこにあるのかわからなかった。そこで、車椅子の患者に付き添う介護員らしい女性に場所を聞いてみる。
「じゃあ、散歩がてら途中まで案内しますよ。こちらへどうぞ」
「どうも……」
四十半ばくらいに見える、白い制服を着た女性が患者の承諾を得ずに方向転換するのを見て、イーサンは少し不思議に感じた。だが、彼の父と同じくらいの年齢であろう男性の体が強張り、また顔の表情もまるで変わらないことから――口が聞けないのかもしれないと推測する。
「父がつい先日亡くなりまして、その葬式のために出向いてきたんですよ」
なんとなく間が持たないように感じて、イーサンは自分からそう話した。
「ああ。もしかして、大富豪マクフィールド氏の息子さんですか!?」
「ええ。病院付属の教会のほうで、最後の時を迎えたいとの父の希望だったそうで……」
「へええ~。マクフィールドさんにこんな大きな息子さんがいたとはねえ」女性はあらためてイーサンのことをしげしげと眺めやり、そうしてから車椅子の患者の耳元に言った。それも、かなりのどでかいボリュームで。「マクレガーさん、覚えてる!?リハビリルームで時々一緒になったことのあるマクフィールドさん!この人、その息子さんなんだって」
マクレガー氏は一瞬ピクッと体を動かしたように見えたが、それが返事のしるしなのかどうかというのは、イーサンにも判断がつきかねた。おそらく、父と同じように脳梗塞か何かで半身不随になったのだろうと思われたが、父の状態よりこのマクレガー氏のほうが症状としてより重いらしいというのは、医療の素人であるイーサンにもよくわかることだった。
(ということは、親父はまだしも口が達者な分だけ、かなりのところ幸運だったわけだ)
普段、イーサンはあまりこうしたことを考えたことはないが、このマクレガー氏のことが突然とても気の毒になった。不随意的にピクつかせることしか出来ない体と、一方的に話しかけてくるだけの親切な介護員……ここに入所している患者の多くは本人か家族のいずれかが富裕層に属していると言われるが、その当の家族のほうでは金だけを支払い見舞いに来るのは稀だということも、この地方の住人ならば噂としてよく聞くことだったからである。
(ま、ご他聞にもれず、俺もその冷たい御家族のひとりってことではあるんだがな)
病院の中庭では、病院の職員か患者かボランティアかよくわからない一団がせっせと花壇の世話をしているところだった。薔薇にはまなすにクレマティス……一般的な俗名の下にラテン語で花の学名が書いてあるのをイーサンがなんとなく目で追っていると、介護員が突然立ち止まり先方にある教会の尖塔を指差した。
「ほら、あの十字架と鐘のついた建物、あそこまで行けば誰か関係者にお会いできるはずですよ」
「そうですか。ありがとうございます」
マクレガー氏がまたしてもピクっと拘縮した腕を動かすのを見ながら、イーサンはそう女性に礼を言った。イーサンにはよく理解できなかったが、彼女は突然「あ、そうだ!補聴器つけるの忘れてた」と独り言を言い、マクレガー氏の右耳にそれを嵌め、元来た道を引き返していく。
(親父のこの施設での生活というのも、あんな感じだったんだろうか。まあ、あの親父の場合、耳も遠くはなく、最後まで口も達者だったはずだから、気の毒なマクレガー氏とは状態が随分違ってはいただろうが……なんにしても、もうすでに死んじまったものは死んじまったことで仕方がない。俺はとっとと面倒な葬儀を済ませて、大学のアメフト部の練習に参加しないと……)
そんなふうに思いながらもイーサンは、教会へ向かう自分の足取りがだんだん重くなってくるのを感じた。ここへ来るまでの間は、何やら黒後家蜘蛛退治のことしか頭になかった気がするが、父の遺体と対面したり、その後おそらくは金銭の何かで揉めるであろうことを思うと――急に突然この場から逃げだしたくなってきた。
教会や、美しい花畑や湖……こんな天国みたいな場所にいながら、遺産がどうだのいう現実的な汚れた問題に対処するというのは、功利的性格の彼をして、何故だか気の滅入る思いにさせたのである。
ウェリントン弁護士に『社葬にするんですか?』と聞いた時、弁護士は『いえ、本人の希望で葬式のほうは御家族だけで内々に執り行って欲しいとのことで、正式な発表のほうはその後ということにCEOのレイノルズ氏ともすでに取り決めてあります』とのことだった。そう聞いて安心したものの、今ごろになってイーサンは何か色々なことが不安になってきた。父の事業に自分は一切関係なく、ある程度まとまった金さえもらえれば、あとは家族と絶縁状態になっても構わないとずっと思って生きてきた。だが今後、自分には何がしかの責任が押し付けられることになるのか、それとも遺言の大幅な書き換えが行われていて、ろくすっぽ見舞いに来たことのない愛人の息子になど、やはり一ドルも拠出しないということに父が決めたのだとしたら……。
(いや、俺はあと一年で国の最高学府を卒業するんだ。最低、どうでも卒業するくらいまでのことは面倒を見てもらわなけりゃ困る)
あの冷血な父も、そこまで鬼ではあるまいと思うのと同時、やはり彼が死ぬ間際に結婚したという愛人のことが気になった。病気で弱り果て、脳の働きもすっかり鈍くなっている時に、「わたしが手を添えてさしあげてよ」とばかり、何かの書類にサインさせられていたとしたらどうだろう?
そして、そうした不安のあとにやはり沸々と怒りがこみあげてきた。イーサンは葬式用のスーツが入ったバッグを肩にかけると、ずんずん教会の敷地を大股に横切り、その重厚な樫の扉を押した。本当はここへ来る前にどこかで着替えようと思っていたのだが、もはやそんなこともどうでもよかった。
実際、イーサンが扉を開けた途端、彼と半分しか血の繋がらない弟妹が――自分の兄の姿を認めるなり、教会の椅子から飛び下り、彼の元まで駆け寄ってきた。十歳とは思えないくらい体格がよく太ったランディも、その一つ下の痩せっぽちのロンも、まったく泣いていなかった。七歳の長女のココもまたしかりだ。無理もない。父とは名ばかりで、一度も一緒に暮らしたことさえない老人が死んだと聞かされても、泣く振りさえ彼らがしなかったらしいと知り、イーサンはそのことを誇りにさえ思ったものだ。
唯一、次女で四歳のミミがこの時、大きな声で泣きだしていた。他の兄や姉について、一緒に年の離れた長兄の下へ行きたかったのに、よたよた歩く途中で転んでしまったからだ。そのミミの元へイーサンが駆け寄るより早く、黒い喪服姿の女が、彼女のことを抱き起こした。すると、ミミのほうでぴたりと泣きやむ。
(誰だ、この女)
何故かその時イーサンは、彼女が黒後家蜘蛛その人なのだとは思わなかった。子守りを命じられた女中か何かだろうと思ったのである。そして、何かの説明を求めるように周囲を見回すと、喪服姿のウェリントン弁護士が椅子から立ち上がり、こちらへやって来るところだった。
ウェリントン弁護士は、若干白髪の混ざりはじめた初老の男で、スラリと背が高く眼鏡をかけている。彼はイーサンに向かって軽く会釈すると、「こちらの女性が」と父ケネスの愛人を紹介した。「マリー・ルイスさんとおっしゃって、マクフィールド氏が最後にご婚姻された女性です」
淡々と、何かの脚本を棒読みするような口調で言われ、イーサンはさらにイラついた。かといってここで、「それで、遺産の分配のほうはどうなるんです?」などと聞くことも出来ない。イーサンとしては、「それはどうも」と、冷ややかな軽蔑した態度を取るのが精一杯だった。紹介された女性のほうでも、ミミのことをあやすように抱きあげたまま、ぺこりとお辞儀を返して寄こす。
「イーサン、この人、おじいちゃんと結婚したって本当?」
ランディもロンもミミも、イーサンのことをお兄さんかお兄ちゃんと呼んだが、弟妹の中でただひとり、ココは彼のことを名前で呼んだ。しかもお父さんではなくおじいちゃんとは!イーサンはこのこましゃっくれた可愛い妹に、あとで菓子でも買ってやろうと心に決めた。
「そうだよ。もうおじいちゃんは七十歳だった。でもこの親切なお姉さんがね、何かと甲斐甲斐しく面倒を見てくれたんだよ。有難いことにね」
(ようするに、そういうことだろ?)という意味をこめて、イーサンはあらためてマリー・ルイスという女性のことを見つめ返した。女は、二十五よりも若く見え、むしろ自分より年下でないかと思われるほどだった。身長が百八十五ある彼の身長から推し測ってみるに、おそらく背丈のほうは百六十センチくらいだろう。痩せており、イーサンが当初想像していたような胸のふくよかさはない。だから意外だった。ブロンド好きの父親が、まさかこんな黒い髪に黒い瞳の地味な女と何を血迷って最後の最後に結婚などしたのか、そのことが――。
そしてここで、ケネス・マクフィールドの傍らに立っていた中年の牧師が、「ごほん!」とひとつ咳払いした。彼はマクフィールド家の事情も、また家長であったケネスが生前どのような人物であったかもよく知っていた。もちろん、介護職員としてマリー・ルイスが彼の面倒をよく見ていたことも知っていれば、また彼の家族がほとんど一度もここへ見舞いに来てはいないことも承知していたのである。
「マクフィールドさんの最期は穏やかなものだったと、医師よりそう聞いています。そうでしたね、マリー・ルイス?」
「はい……ケネスさんは死の数か月前に主イエスを受け容れ、最後は安らかに息をお引き取りになられました」
(嘘つけ)と、イーサンは即座にそう思った。何故かというと、父のケネスは宗教的なことが大嫌いで、結局のところ妻シャーロットともそのことが原因で一緒に住むことが出来なかったという。もっとも、宗教といっても彼女はキリスト教に対する信仰心が厚かったのではない。ユダヤ教のカバラや占星術的なものにかなりのところ凝っており、自分が癌になった時にも医療による手術ではなくそうしたものに最後まで縋っていたという。
(まあ、突っ込みたいことは山ほどあるが、葬式の場ではとりあえず色々なことを丸く収めるしかない)
イーサンはそう思い、棺の中の父の姿に目をやって、少しだけ驚いた。死に化粧のせいもあるのだろうか、あれほどどす黒い胆汁に満ちたような、汚れ多い人生を生きたとは思えぬほど、その顔は白く輝いて見えたからだ。教会内ではずっと誰かがパイプオルガンを弾いており、その荘厳な音色とも相まって、イーサンは何か奇異な印象を覚えずにはおれなかった。
生前お気に入りのだったヴェルサーチのブルーグレイのスーツに身を包み、花に埋もれた父に対しては、もはやその厳然たる死によって何者も彼の者の罪を裁いてはならない……何かそう言われているような神聖な赴きがあり、ようするにイーサンは(そんなのずるい。こんなのアリか)と思ったのだ。
生前、放縦の限りを尽くした極めてインモラルな男が、死ぬちょっとくらい前に改心したからとて、そのすべての罪が赦されていいはずなどない。自分にも、今これで完璧なる父なし子になった哀れな四人の弟妹にとっても、この父に何ひとつとして父親らしいことをしてもらった記憶はない。妻に対する扱いもひどいものだったと聞くし、それは愛人だったイーサンの母ガブリエルに対しても同様だったといえるだろう。
(こんな男、死んだからってなんだっていうんだ)
次男のランディと三男のロンは、背伸びをすれば自分たちのよく知らない父の顔を見ることが出来たが、長女のココは時折ぴょんぴょん跳ねながら父ケネスの死に顔を一生懸命見ようとしている。そこでイーサンはココのことを軽く抱きあげると、父親の顔がよく見えるようにしてやった。
「じーじ、死んじゃったの?」
そう呟いたのは、次女のミミだ。ミミはマリー・ルイスという名の女性に抱きあげられ、自分の父というよりも赤の他人の年寄りを見下ろすような顔をして、「なんで死んじゃったの?」と、なおも舌足らずな調子で聞く。
「お父さまはね、ご病気だったのよ。でも今はもう天国へいって、その魂はすっかり安らかなものになったの。何故って天国ではどんな病気ももう存在しなくて、すべてが癒された世界だからなのよ」
(こいつ……!!)
イーサンはますます腹が立ってきて、ココのことを下ろすと、マリー・ルイスという女の手からミミのことを奪い返した。『じーじは死んで、地獄へ行ったんだよ。こんな生前の行いの悪い男、天国へなぞ行けるはずがない』……そう言ってやりたかったが、子供の情操教育ということもあり、イーサンはその言葉をぐっと飲み込んだ。
「とにかく、これから埋葬するんですよね。なんか俺のこと待ってたのかもしれませんが、正直俺は最後のお別れとかなんとか、そんなことどうでも良かったんです。あんたらがさっさと形式的に葬儀を済ませて、すでに親父の遺体は墓の下っていうのでも、全然構わなかった」
この病院でチャプレンをしているサミー・ライアス牧師は、そんなぶっきらぼうな物の言い方をされても、特段驚くでもなく丘の上にある墓所までマクフィールド家の面々を案内しだした。ふと気づくと後ろのほうに体格のいい男が四人現われて、ケネス・マクフィールドの棺を持ち上げようとするところだった。彼らはケネスの生前、車椅子に彼のことを移動させたり風呂へ入れたり、その他身のまわりの世話をしていた介護士たちである。
「俺、ちょっと着替えてくるから、こいつらのことよろしく」
すでに見知った仲のマクフィールド家の女中マグダにそう言い置いて、丘の麓にあったトイレのほうにイーサンは駆けていった。このあたりの小道は舗装されており、道のまわりには茶色い土がむき出しになってはいるが、おそらくこの小道は患者たちの散歩コースなのだろう。そしてこのトイレというのは何かの有事の際に使われるべく設置されたものに違いなかった。
車椅子の患者でもゆうゆう使える広いスペースのトイレ内でイーサンは着替えると、鏡の前でネクタイをしめ、髪の毛を軽く整えた。ドアの外でノックの音がし、「あ、今でます!」と慌てて応じる。ドアを開けて急いで出ると、酸素ボンベを車椅子の後ろにつけた患者が介護士と待機しており、イーサンはなんとも申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「すみません」と一言いい置いて、イーサンは丘の上へと走って向かう。すでに墓のほうは深々と掘ってあり、父ケネスの棺もそこに下ろされていた。四人の幼い子供たちは無邪気に楽しみながら献花し、ランディなどは「もっと花ないの?」とマグダに聞き、「しっ!」とたしなめられていた。しかも、ココは走ってやってくる兄の姿を見るなり、「イーサン!超格好いい!!」などと叫び、その足に抱きつかんばかりだった。
その後、牧師のほうでは形式的に死者に対する弔いの言葉をのべ、最後に詩篇の二十三篇が読まれたのだが、なんとも奇妙な葬式だった。参列した家族の内、誰も死者のために悲しんでおらず、義理で棺を運んだ介護士たちは「厄介な患者が死んでくれて良かった」としか思ってはいなかったからだ。というのもこの老人、やれ車椅子への運び方が悪いだの、なんでもないようなことですぐ「わしを殺す気か!」と叫ぶという、一癖も二癖もある面倒なじじいだったからである。
それでも棺に土が被せられはじめると、気が弱く心の優しいロンは少しだけ瞳に涙を滲ませていた。といっても、彼もまた自分の実の父のために涙を流したのではなく、母親の葬儀の時のことを思いだしたというそのせいだった。その時彼はまだ六歳だったのだが、兄とともにわあわあ泣き叫んだのを今もよく覚えている。
この時イーサンは、父の愛人から献花のための花を有無を言わせず握らされたこと、また彼女がロンにハンカチを差し出し、「泣いていいのよ」と言ったことで、余計に腹を立てていた。何故といって、マリー・ルイスという名の女は彼に無言でこう語っている気がしたからだ。『彼の生前、何があったのかは聞いて大体知っています。でも、それでも唯一の血の繋がったお父さまでしょう?』とその瞳は語っている気がしたし、ロンに対しては「ようやく子供が泣いてくれてほっとした」とでも彼女が勘違いしている気がしたからだ。
「あんた、一体何者なんだ?」
牧師に対してはウェリントン弁護士が金を払うはずなので、イーサンはそうした点については何も心配していなかった。また、墓の代金についても同様である。義理で参列してくれた介護士たちが仕事を理由に丘を下りていき、牧師とも会釈して最後の挨拶を済ませると、(これでようやく内輪だけの人間になった)と思い、イーサンはそう切り出していた。
「お坊ちゃまが気にしてなさるのは、遺産のことでしょう?」
ウェリントンはそう言い、単刀直入に話をした。というのも、彼はもうかれこれ四十年以上も長く故人とつきあってきたからであり、事業のことのみならずケネス・マクフィールドの家族関係においても色々なことを把握していたからである。
「そうだ。ありていに言うとすればな、ここに俺と、すでに両親をふたりともなくしちまった哀れなガキが四人いる……この俺が最後に遺産分配の内容について聞かされた時には、子供たちの全員でほぼ均等に分けるって具合に聞いていた。だが今、その遺書のほうはこの女のせいで書き換えられるか何かしたんだろ?そこのところがどうなってるのか、是非とも早く聞かせてもらいたいね」
「今まで通りでございますよ、イーサン坊ちゃま」
(その呼び方はやめろ!)と思いながら、ウェリントン弁護士に対しイーサンは目を剥いた。そんなはずはないと、そう確信的に思っていたからだ。100%確実に絶対そうだと、思いこんでいたといってもいい。
「マクフィールド氏が非常に気難しい人物であったことは、わたしもあなたもよく知っています。ですがまあ、このマリー・ルイスさんという方はマクフィールド氏のそのお眼鏡に敵ったのですな。そこで、子供たちに与えるほどではないにせよ、少しくらいは彼女にもお礼の気持ちとして遺産の一部を残そうとした。けれどもマリーさんはそのことをお断りになったのです。ゆえに、遺産のほうはそのほとんどがあなた方五人のお子さんの間で将来的に分けられるということになります」
「将来的にって……」
イーサンは言葉に詰まった。
「あなたはともかく、他の弟さんや妹さん方はまだお小さいですからね。彼らが成長して成人に達するまでは、わたしとあなたが後見人ということになります。ですから、その方はマクフィールド氏の遺産とはなんらの関係もございません」
(関係ないわけないだろう!)
そう思い、イーサンは頭が混乱した。おそらくそのあとすぐに「ただし」と、ジェイムス・ウェリントンが言葉を連ねなかったら、女の黒い腹の底を探りだすために、どんな言葉が彼の口から飛び出したか、わかったものではなかったろう。
「唯一、ユトレイシアの本邸、あの屋敷のみ、マリー・ルイスさんの所有ということになっています。さらに、屋敷にかかる税金やその維持費については、イーサン坊ちゃま、あなたが拠出しなくてはなりません。とにかく、マクフィールド氏の遺書にはそう最後に付け加えられているのです」
「どういうことだ?」
イーサンは不審そうにウェリントンとマリー・ルイスの間に視線を泳がせた。確かに、ユトレイシアにある今ランディたちの住む屋敷を売却したとすれば、一千万ドルは下らないだろう。だが、他でもないこの自分がその屋敷の税金や維持費を支払い続けなければならないとは……訳がわからないとイーサンは思った。
「今口頭で述べたとおりです。ユトレイシアの本邸はマリー・ルイスさんのものですから、彼女はこれからそこに帰ります。そして子供たちもみんな一緒に帰ります。これはそういう話なんですよ、イーサン坊ちゃま」
普段あまり顔に表情のない弁護士が微笑むのを見て、ますますイーサンはこの事態を奇異に感じた。自分が受け継ぐはずの財産の中から本邸の維持費を出せというのは、百万歩譲ってまあいいだろうと承認できる。そしてあの屋敷だけが愛人の女の唯一の取り分というのも、五百万歩譲って「仕方がない」と溜息交じりに納得もしよう。
だが、やはりイーサンにとっては何かが腑に落ちなかった。
「そういう話などと言われても、よくわからんな。親父が女を気に入るという場合には、その意味はひとつしかない。だが親父はもう半身不随だったのだし、親父の目の前でこの女が裸ででも踊ったのでもない限り、あの冷血男が金など残すわけがない。しかしながら実際には屋敷を残したっていうことは……あんた、あの屋敷を不動産会社に売る気なのか?だが、新しい家に引っ越すまで子供たちをホテル住まいさせるのは忍びないし、そのくらいの情けはかけてやろうという、これはようするにそういう話か?」
ウェリントンは首を振ると、溜息をついた。そして彼が説明の言葉を口にしようとすると、「おねえさん、じーじの前で裸で踊ったの?」とミミが聞いてくる。たかが四歳と侮ってはいけない。隠喩まで読み取る能力はないにせよ、額面通りに言葉を受け取る能力のほうはしっかり発達しているのだ。
「いいえ、おねえさん、じーじの前で踊ってなんていないことよ」
そう言ってマリーはミミのことを抱き上げ、草むらの中のバッタを捕まえだした男の子ふたりのあとを追っていく。ココはココで、子供用の礼服が台無しになるのも構わず、花畑で花冠を作りはじめている。
「一体なんなんだ、あの女!」
(けったくそ悪い!)と思い、イーサンは足許の茶色い土を蹴った。墓石にはすでに父の名が刻みこまれ、その下のほうには「猫と女は呼ばない時にやって来る」と、何か警句めいた言葉が座右の名のように記されている……ようするに、自分がもう長くないと悟ってから父ケネスはここの墓を買い取り、墓石にどのような言葉を刻むかも指示してから死んだということなのだろう。
「べつに、おかしなことは何もございません」と、また元の無表情な顔に戻ってウェリントンは言った。「法律上、確かに亡き父君とマリー・ルイスさんとはご夫婦なのです。つまり、あなたにとってもあなたの弟妹たちにとっても、あの方は義理の母君ということに……」
「あんな、自分と四つしか歳の違わない若い女を、母ちゃんなんて呼べってのか?」
イーサンは軽蔑したように女のほうを振り返った。ココが自分の頭にたんぽぽで作った花冠をのせ、ミミも同じものを欲しがったため、マリーはココから花冠の作り方を教わっているところだった。
「絶対話がおかしいだろ?あんな豚児どもの養い親になって、あの女になんの得なところがあるっていうんだ。そうか、わかったぞ。あの四人の子供がすっかり懐いた頃に、その財産をいずれは自分のものにしようっていう、そういう腹ってことか」
「それでは、流石に計画として遠大すぎやしませんかね?」
「…………………」
イーサンは黙りこんだ。ウェリントンがまたも、どこか意味ありげな微笑みを浮かべてみせたからだった。
「なんにしても、暫くは様子を見ることです。それで、あの女性が子供たちに悪い影響しか与えないようだと思ったら、その時には坊ちゃまの好きになさったらいいではないですか。いくらでも手の打ちようはあるでしょうし、第一、『あんな将来性のまるでないガキめらの面倒を見て何になる』とは、あなたのお父さまもまったく同じことをおっしゃっていましたよ。ですが、父も母もなくその子供たちが育つというのでは可哀想だと……」
「だから、そこが一番変なんだろうが」
イーサンはどうしていいかわからなかった。花畑でマリー・ルイスという女が花冠をミミの頭にのせてやり、ココとミミのふたりが嬉しそうに自分の元まで戻ってきたとあっては尚更だった。
「ねえ、イーサン!写真とってよ!!」
ココにそうせがまれ、スーツの内ポケットから携帯を取り出すと、可愛い姉妹の写真をイーサンは何枚かパシャパシャ撮ってやった。「おねいさんも一緒がいい!」とミミは言ったが、その当のおねえさんはバッタ取りに夢中になるあまり、どこへ行ったかわからぬ愚弟の行方を墓の間に探しているという始末だった。
そこでイーサンはのっしのっしと歩いていくと、あたり一面に聞こえるどでかい声でこう叫んだ。
「おい、ランディにロン!そろそろ帰るぞ。もし今ここに来やがらなかったら、そんなガキはこの墓場に置いていく。わかったらとっとと出てこい!!」
すると、背後に広がる森近くから黒い頭と茶色い頭がそれぞれひょっこり現われ、上官に号令をかけられた一兵卒よろしく、ぴゅーっとイーサンの元まで一目散に駆けてくる。
「いやだよう。ぼく、こんな墓場で夜を越せなんて言われたら、絶対死んじゃうよ」
「弱虫だなあ、ロンは。そんなことだからいつまでもおねしょが直らないんだ」
ここでロンは「わーっ!」と叫ぶと耳まで真っ赤になった。そんな事実はとっくに把握しているイーサンはどうとも思わない。だが、今日初めて会った綺麗な女の人の前でそんなことを言われるのは恥かしかった。
「いいから、とにかく早く帰るぞ。それでおまえら、バッタは取れたのか?」
「ううん、ぜーんぜん」
男の子はふたりとも、残念そうに首を振った。そこでイーサンは「しょうがないな」と溜息を着き、周囲をきょろきょろと見回す。折よくピョンと雑草の中から飛び出してきたバッタがいたので、暫く格闘したのち、両手で覆いをして捕まえてやった。
「ほら、帽子だせ」
ロンが帽子を差し出すと、そこに生け取りにされたバッタが入りこんだ。ランディが「俺にも欲しいよう、兄ちゃん」と呟くが、もうイーサンのほうでは踵を返している。
「バッタなんか一匹もいりゃ十分だ。ロンと一緒に飼って飼育日誌でもつけろ。まあ、うまくすりゃ夏休みの自由研究くらいにはなるかもな」
「いいよ。このバッタ、ランディ兄ちゃんにあげる。家に帰ったら飼育かごに入れてさ、ぼくは時々見せてもらえれば、それで十分だもん!」
イーサンはマリー・ルイスにはあえて何も声をかけなかった。黙っていても一緒についてくるのだろうと思ったし、実際彼女のほうでもそうしていた。そしてこの時――丘の上から見晴るかす湖の上に、綺麗な虹がかかった。こんなにも綺麗にくっきりと空に虹がかかるのを見るのは、イーサンにしても一体何年ぶりのことだろう?
「わあ、すごい。虹だ、虹だ!!」と、踊りあがりながらランディ。
「なんて綺麗なんだろう!!」と、目を輝かせてロン。
「ねえイーサン、写真とってよ、写真!!」と言ったのはもちろんココだった。
「おねえさん、虹ってなんで出るの?」
そう呟くミミに、「お花畑の妖精さんが魔法の杖を振ったのよ」だのいう寝言を聞いて、イーサンは腹の中のサンドイッチを戻しそうになった。なんにしても、湖とその上に出た虹の両方を携帯のカメラで連写する。すると、その画面の中にピースしているランディが映りこみ、次にココがそんなアホ面の兄を押しのけて、フレームの中にひとりで収まった。
「あっち行ってよ!こんな綺麗な虹にふとっちょはお呼びじゃないったら!!」
「うるさいぞ、この気取り屋め!!こうしてやる!!」
「きゃあ!!」
ランディが帽子の中のバッタを解き放つと、それはびょんと跳んでブローチのようにミミの胸元に止まった。
「いやあああっ!!」
ホラー映画ばりの悲鳴があたりに響き渡り、その後、ココはずっと丘を下ってロンシュタット医療センターをあとにするまで、泣き通しだった。マリーはそんな彼女の手を引いてやり、泣き声が一度やんだあたりで、洟を一度かませていた。彼女がそのティッシュを自分の喪服のポケットに入れるのを見て、イーサンはまたしても不審な気持ちを拭えない。
(親父、あんたの言ったことは正しい。『こんな将来性のないガキどもの面倒なんか見てなんになる』……まったくその通りだ。俺だったら一億ドル金を積まれたって、こんなバカなガキどものお守りなんか絶対ごめんだ。半分血が繋がってるからこそ、嫌々ながらも面倒を見なければならんという、俺にしてもそれだけだからな)
ウェリントンは自分の車でやって来ていたため、そのまま帰り、イーサン以下、女中のマグダを含めた七名は、山の麓にあるバスの停留所でシャトルバスがやって来るのを待った。活発な、と言えば何やら聞こえがいいが、ようするに落ち着きのない子供というのはとかく、じっと黙って待つということが出来ない。しかも、バスがやって来るのを待つ間、イーサンがここまでやって来るのに乗ってきた馬車が通りかかったとあっては尚更だった。
(あー、くそっ。あの馬車を見かけることなくさっさとバスで駅まで行きたかったってのに……)
あんなのにまた一人十ドルずつ支払いたくないイーサンではあったが、首にかけた鈴をリンリン鳴らし、ぱかぱか蹄の音を立てる灰色の馬を見たとあっては、子供たちが黙っているはずもなかった。
「イーサン兄ちゃん、馬だよ、馬っ!!」
「わあ、僕、馬なんかこんなに近くで見たことないや」
「イーサン、わたしお馬さんに乗りたい~っ!!」
「あたちも~!!」
馬車をほんの一分後にバスが追い越していくのを見て、イーサンは運命の因果を思った。しかも、馬車を停めたまではいいが、財布の中を見てみるとあまり金がない。
(そうだ。俺、銀行いって金下ろそうと思ってたんだっけ……)
先ほどと同じ御者に聞いてみると、大人はやはり十ドルだが、子供はひとり頭半額の五ドルでいいという。それでもなおイーサンが財布のお札を数えていると、最後に御者は豪快に笑っていた。
「いいですだよ。そのたんぽぽの花冠の小ちゃいお嬢ちゃんはただでもいいですだ。しっかし、お客さんも若いのにてえへんなこって。さっき見た時にはひとりもんだったのが、帰りにはこんな子だくさんになっちまってまあ!!」
全員が馬車に乗りこむと、先に馬車に乗っていた若いカップルふたりとその後ろの壮年の夫婦とは明らかに迷惑そうな顔をしていた。無理もないとイーサンも気の毒に思うが、こればかりは仕方がない。
「あんた、金あるか?」
出来れば話しかけたくないと思いながらも、ミミとふたりで座席に座るマリーに向かってイーサンはこっそり聞いた。もちろんマグダに建て替えてもらうという手もあるのだが、彼女はなんと言ってもこちらに雇われている身なのだ。子供たちの世話をしながらここまで列車でやって来るのがどれほど大変だったか……そのことを思ってみただけでも、電車賃を人数分建て替えてくれとは、イーサンにはとても言えない。
「はい。子供たちの電車賃くらいなら、たぶん……」
「あっそう。じゃあ、とりあえず建て替えておいてくれ。あとで必ず払うから」
馬の歩みは相も変わらずとろかった。そのことにイーサンはイラつきながらも、最後には何か諦めたように溜息を着く。
(そうだよな。こいつらが自分の遺産を受け取る年齢に達するまで、俺の遺産の中から全員分の食費だの学費だのなんだの、全部負担しろってことか。そして、これこれの金が必要だのいう申告をこれからは俺が受けて、いちいちこの女に渡さなきゃならねえってことか?そう考えた場合まあ、この女にもそれ相応の取り分があるってことだろうか。だが、それにしても……)
やはり訳がわからないと思いながら、イーサンが女の横顔をじっと見つめていた時――またしても老馬がぶうっ!!と特大のおならをし、イーサンは笑わずにはいられなかった。
「すっげえでけえオナラ!!」
「ぼく、馬がおならなんかするの、初めて聞いた。すごいや!!」
「やだもう、くさーいっ。サイアクーっ!!」
「おねえさん、今のなんの音?」
この時マリー・ルイスが「お馬さんがね、ラッパを吹いたのよ」と言ったため、イーサンはますますおかしくなかった。(それは違うだろう!!)と突っ込んでやりたいが、ミミはもう半分眠かったため、そのままこっくりこっくり馬のぱかぱかいう音に合わせて寝入ってしまった。
「馬のオナラは人間のほど臭くもないだろうよ。あいつらは草ばっか食ってるから、そんなんでもないはずだ」
「ちがうのっ。わたしはね、イーサン。せっかく綺麗な湖を見てたのに、そんなロマンチックな気分を台無しにされて最悪だって言ってるの!!」
イーサンはココの機嫌を直してやるために、また彼女だけの映った写真を撮ってやった。すると、またしてもランディがやって来て、「兄ちゃん、俺も俺も」と、ポーズを決めるココの邪魔をしはじめる。ここまででもう何枚も写真撮影してもらったので、ココはもう何も言わなかった。ロンも黙りこくっていたため、イーサンは彼のこともなんとなく何枚か撮影しておく。
「あっ、イーサン。見てみてっ!!なんか教会みたいの見えてきたっ。さっきの病院にあったのとは違って、あれ結婚式を挙げるほうのチャペルじゃない?」
普通、教会では日曜日に礼拝が行われる他に、結婚式が挙げられることもあれば、また葬儀が執り行われることもあるだろう。だが確かに、ココの言っていることは正しかった。湖の中のほうに突き出た崖の上には、瀟洒な白塗りの教会があり、そこは観光名所のひとつとして、結婚式がよく執り行われていたからだ。
「あそこは、ブライダル専用の教会なんですよ」と、このあたりに土地勘のあるマリーが言った。「教会の敷地内に<幸福の鐘>っていうところがあって、それをふたりで鳴らしたカップルは永遠に幸せになれるって言われてるんです。あと、そこには観光客の方も数多く訪れて、願掛けをしながら<幸福の鐘>を鳴らすんですって。まあ、ようするにそういう場所なんですよ」
「へええ」とランディは感心したように言い、「なんてロマンチックなの!」と、ココは両手を組み合わせて目を輝かせる。
そしてイーサンはひとり、(嫌な予感がする……)と思っていたものの、果たしてその彼の予感は的中した。馬車は左折して林の中に入っていくと、その<幸福の鐘>があるという教会の駐車場まで入っていったからだ。
「さて、お客さん方!次にここへ集合するのは三十分後ですだよ。それまでに<幸福の鐘>をリンゴン鳴らしたり、教会の中を見たりなんだりしてけえってきてくんなまし!」
おそらく、若いカップルの目的は最初からこれだったのだろうし、何やら品のいい壮年の夫妻もまた、何かのことで<幸福>を願いたかったのだろう。急いで馬車を降りると、他の車でやって来ている観光客に混ざり、長い列に並びはじめた。ランディとロンとココもまた、あの鐘を鳴らさなければ二度と幸福にはなれぬとばかり、馬車を駆け下りていく。
「あの、どうしましょうか?」
ミミがすかーっとなんとも心地好い寝息を立てていたため、マリーはどうしたらいいかわからなかった。何故といって、今自分が体を動かせば、彼女も目を覚ましてしまうだろうからだ。
「マグダ、すまない」
そう一言いって、イーサンは後ろのマグダのことを振り返った。彼女はすでに五十をすぎており、元気のいいガキめらをここまで連れてくるだけでも疲労困憊しているとイーサンにもわかっていた。だが、自分にしてもきのうは徹ジャンして疲れていたし、何よりマリー・ルイスという女と話しておきたいことがあったというせいもある。
「まあ、あの歳くらいのガキってのは、おそらくあんたが思ってる以上にしっかりしてるもんだ。ところが、しっかりしてると思ったら年相応に案外抜けてもいる……だから基本的に、親の責任として目を離すってことはできない。とはいえ、三歩あるくごとに転ぶんじゃないかと思って心配してたらこっちの身がもたないし、あいつらのほうでも鬱陶しいと思うだろう。なんにしても子育てってのは難しいもんだ。これが正解ってのがないだけにな。それであんた、こんなしょうもないガキどもの面倒みてどうしようってんだ?」
「…………………」
マリー・ルイスは林の間を抜けて吹いてくる湖からの風を感じて、そちらのほうにじっと顔を向けたままでいる。
「まさかとは思うが、十台の頃についうっかり妊娠して子供を生んじまって、だが事情あってその子を手放さなきゃならんかったとか、そういう事情があるわけでもないんだろ?たとえばな、あんたが今四十くらいで、もう子供が出来る見通しもないとか、そういうんなら俺も少しは理解できんこともない。あんた、あの親父とは実際体の関係はなかったんだろ?」
きのう、徹ジャンしている最中に、『あっちの機能が正常なら、女が上に乗っかるって手もあるよなあ』だの、『あとはお手々とお口で御奉仕したかのどっちかだな』という話を仲間内でしていたのを、イーサンは酔っ払いつつも覚えていた。だが、自分の母親と同じブロンドで胸の大きいタイプの女性を想像していたにも関わらず、実際に会った女のほうではそんなイメージとは遥かにかけ離れていたというわけだ。
「踊ったことはありません」と、ミミに言っていたのと同じ言葉をマリーは繰り返した。「実際、マクフィールドさんのほうで、何故そんなにわたしに見込むところがあったのか、わたし自身よくわかっていたわけじゃないんです。ただ、膵臓癌を宣告されてからは特に……御自身の人生を振り返って、色々と思うところがあったのではないでしょうか。マクフィールドさん、おっしゃってました。前にも話したとおり、自分には五人子供がいる、だから生きている間に父親らしいことを何ひとつしてやれなかった分、せめても金くらいは残さなきゃならない、でもあんたにも少しくらい金をやりたいみたいなこと……」
「ウェリントン弁護士の話じゃあ、あんたその話、一旦は断ったらしいな?」
「ええ。仮にいただいたとしても、どこかに寄付しますって言ったら、それじゃ何が欲しいんだって言われて」
「それで?」
「家族が欲しいんですって、半分冗談で言ったんです。そしたら……」
「…………………」
今度はイーサンが黙りこむ番だった。正直なところをいって、このマリー・ルイスという女の家族背景などということにイーサンは興味がない。実際、父親が飲んだくれのろくでなしで、母親がどうしようもないあばずれだったなんていう話は、世界中どこにでも転がっている。ゆえに、この女の両親やその他の家族が生きてようと死んでようと、そんなことにも興味はなかった。
(だが、それにしても無理がある)と、イーサンはそのことをただ不審に思うという、それだけなのだ。
「まあ、俺は休暇以外ではあの家に滅多に帰らないから、家族の数には入れなくていい。だがな、あんな出来の悪いガキどもを育てたところで、あんたになんの得なところがある?ランディとロンは、勉強もスポーツも大して出来るほうではないし、唯一ココは才気煥発なところがあるが、生意気で手に負えない性格をしているからな。まあ、天使のミミは無条件に可愛くはあるが、それにしたってな……俺ならせめてももう少しましな家族を選ぶだろう。いくら金があったにしてもな」
「だからです」と、マリーは妙にきっぱりと言った。「自分でも他に働きながら子供の面倒も見るっていうのでは、わたしにも無理だと思います。でも、この子たちなら……」
ミミの寄りかかった口のところが喪服の袖に触れて、そこにはよだれがたっぷりついていた。だが、マリーのほうでは構うことなくハンカチで少しばかり押さえるというだけだった。
(まあ、確かにそういう利点もなくはない、のか?)
女の望みが、夫のいない、しかも金の自由のきく専業主婦になりたい――というものだというのであれば、イーサンにも少しはわからなくもない。それでもまだ、引っかかる点というのは無数にいくつもあったにしても。
「だが、あんたはまだ若いからな。こう言っちゃなんだが、そんなに不細工ってわけでもなければ、極端に太ってるってわけでもない。俺がこれまで見てきた経験上でものを言わせてもらえば、女ってのはな、ただ女ってだけでそれなりの容姿をしてれば黙っていても自然と男が寄ってくる。これは自然の摂理みたいなもんだ。だから、ユトレイシアの本邸にあんたが暮らしはじめたら、そこで社会生活を営む過程のどこかにおいて、必ずそういう男っていうのは現れるだろう。で、あんたもそういう男に口説かれて悪い気はしないってことになったらどうなる?しかも、うちには金があって、その上売れば一千万ドルは下らないという屋敷の権利まであんたが握ってるんだ。あんたの引っかかったのがもし悪い男で……」
「まあ、なんだか殺人事件でも起きそうですわね」
マリー・ルイスが呑気にも笑ってそう言ったため、イーサンのほうでは再びカチンときた。
「実際、笑いごとなんかじゃないんだ。仮に、物凄く順当にいって子供が全員あんたに懐いたとするな?だが、その頃にはあんたのほうでは他に男が出来た、もう子供はいらなくなった……なんて言うんじゃ、最初からあんたなんかいなかったほうがよかったってことになる。そういうこととかわかってんのかってこっちは聞いてんだ!」
「心配いりません。わたし、興味ないんです。恋愛とか結婚とか、男の人がどうとか、そういうこと全般に関して」
(あんた、まさかレズビアンか?)と聞きかけて、イーサンは黙りこんだ。小便をしにいっていた御者が戻ってきたからだ。そして、御者が「いい子だ、アーサーや」だの言いながらしきりと馬のたてがみを撫でるのを見て、(確かにその通りだな)とイーサンもそう思った。ただ出発の合図に鞭をくれてやるだけで、イーサンが知る限り今日、御者は125ドルばかりもすでに設けているという計算になる。おそらく、ロンシュタット近郊の農家の出身ではないかと思われるが、定年後の仕事としてはなかなかに悪くない収入といえるのではないだろうか。
「ふうん。まあ、まだこっちは色々聞きたいことがあるが、そんなことを話すのはまた明日ということにしておこう。だが、ひとつ先に言っておくぞ。あんたに仮にこっちが思ってもみないような腹黒い魂胆があったりなんだりした場合は――すぐあの屋敷から出ていってもらうからな。もちろん、土地・家屋は自分のもののはずだとあんたは主張するだろう。だが、裁判ってのは実に労力を費やすものだからな……俺も、もしあんたに裏切られたような場合には最終的にこっちが負けるのだとしても、最後の血の一滴まで絞り取るようにあんたのことを苦しめてやる。もしその覚悟があるってんなら、暫くの間あの屋敷であんたは好きなように暮らしてみるといい」
イーサンは自分でも言いながら、少し不思議だった。こんな赤の他人を受け容れて、半分血の繋がった幼い弟妹たちと暮らさせるなど、本当はあってはならぬことなはずだった。だが、落ち着いてこうしてふたりで話してみると……女の存在からはイーサンが抗うことの出来ぬ善良さのようなものが漂ってくるのがわかった。簡単に言えば、彼の父ケネスも「これ」にやられたのだろう。ようするに、これでもし女のほうで裏切りを働くとすれば、それはこちらの目が節穴だったということなのだ。
(で、親父のほうでは今ごろ天国でこの事態を見ながら楽しんでるってわけだな。あんないないほうがマシというくらいの毒マムシのような父親ではあるが、あの人なりに幼い子供を残していくのが不憫でもあったんだろう。それにしても、「人は生きてきたとおりに死んでいく」とはよく言ったもんだ。俺も、放屁する馬のことと、精力絶倫のおとっつぁんが虹に乗って天国へ行った今日という日のことは、生涯忘れることはないだろう)
やがて、長い列に並んだ甲斐あって、幸福の鐘を高らかに鳴らしたランディとロンとココが、顔を真っ赤にしながらこちらに走り戻ってくる。
「ねえねえ、こっちまで聞こえたでしょ?ぼくらが鐘をリンゴン鳴らす音!!」
「ああ、そうだな」と、欠伸を噛み殺しながらイーサンはロンに言った。「おまえらのなのか誰のなのかよくわからんが、よくもまああんなにリンゴンリンゴン鳴らして、幸福の御利益がどこにも逃げてかないもんだなと思ったよ」
「もう、イーサンったら!!」
ココは怒った振りだけして、大好きな兄に「はい、これ!」と小さなキィホルダーを渡した。見ると、それには幸福の鐘が付いており、手で左右に振ると小さな鐘の音がコロコロ鳴る仕組みになっている。
「ココ、おまえ、これいくらした?」
「んっとね、六ドル五十セントだったかな」
ココは自分用の幸福の鐘のキィホルダーも買ってきたらしく、それをコロコロ鳴らしながら言った。
前のほうの座席に戻ってきた例のカップルと中年の夫婦も、同じように幸福の鐘をコロコロ鳴らしている……(こりゃまた随分とボロいもうけだな)と思うのと同時、(迷信深いバカどもめ)とも思うが、妹のことが可愛いので、とりあえず黙っておく。
「はい、これ。お姉さんにもあげる!!だって、おねえさんだけ幸せになれなかったりしたらやでしょ?」
「ま、まあ。ありがとう」
マリーは驚くのと同時、なんとなくちらっと後ろのイーサンのことを振り返った。すると彼は、疲れきった顔をして(受け取っておけ)といった顔をする。それから彼はぴしゃっ!とランディの頭をはたいた。
「おまえも、このおねいさんのために二個幸福の鐘を買ってきたんだろ?まあ、それはあれだな。ミミが起きたらこいつにやれ。みんなに一個ずつ幸福の鐘がないと、ミミが泣きだすだろうからな」
「う、うんっ!!」
ランディが寝ているミミのことを振り返ると、マリーはにっこり微笑んだ。彼の気持ちが嬉しかったのだ。
(は~、やれやれ。なんだ、これ……)
イーサンはきのうの徹ジャンの疲れがだんだんとピークに達しつつあった。だが、帰りの列車の中でもないことには、寝るということは出来ない。後ろを振り返ってみると、マグダもどこかげっそりした顔をしている。おそらく、長い列に並ぶのに疲れただけでなく、その間も三人の子供たちがあーでもない、こーでもないとしゃべる相手をするだけで、彼女は相当疲れたに違いなかった。
(早く家に帰りてえな)と、そう思うが、湖を一周するという旅はまだ続いていた。時刻は今、午後の四時半だ。夏の間、首府ユトレイシアもそうだが、このあたり一帯の日が沈む時刻というのは大体八時くらいである。子供たちはまだまだまるで元気で、次の観光名所が近づいてくると、「あれなに、あれなに!?」ときゃあきゃあ騒いでいた。
マグダのことも気の毒だったが、イーサンも疲れきっていた。だが、子供たちはみんな元気だ。よく知らないじーじが死のうとどうしようと関係ないのだ。マリーは後ろの大人ふたりがげんなりしているのを見ると、(ここは自分が)と思って、馬車を降りることにした。
「あの、ミミちゃんのこと、見ていただけます?」
「ん?あ~、そうだな。ミミのことは俺が見てるから、ガキどものこと、よろしく頼む。くだらんものに金を使わんように、よく見ていてくれ」
肘掛けのところに頬杖をつき、半ば寝ていたイーサンはそんなふうに返事した。ココが「え~っ。イーサン、行かないのお!?」と頬を膨らませるが、「兄ちゃんはきのう、実はあんまり寝てないんだ……」と言い、なんとか納得させる。
ここロンシュタットは温泉の湧くことでも有名で、アーサーという馬と御者とは、その温泉街のあるところで馬車を停めていた。湖へ続く桟橋にはいくつもの白鳥型をしたボートが並び、砂浜を少しいったところには<海の家>ならぬ<みずうみの家>がいくつも立ち並んでいる。
御者は「一時間以内に戻ってきてくだせえよおっ!」と言って乗客を降ろすと、疲れているであろう馬に水やエサを与えはじめた。「さっきは一周して戻ってきたらすぐ、また客が集まっただからな。ほら、今のうちにとっくりと食えや」……イーサンは、馬と同じく年取った御者がそう言うのを聞いたが最後、こっくりこっくりと眠りに落ちていった。
そして、一時間が過ぎたのかどうかわからなかったが、気づくとランディもロンもココもみんな、座席に戻っていたのだった。だが、ミミとマリーの姿だけがない。
「お、おい、おまえら。ミミはどうした!?」
「あ~、なんか戻ってきたらミミが「もごしちゃう」とか言って、今トイレに連れていったとこ。かなり切羽詰まってたみたい」
「そ、そうか」
イーサンは口許のよだれをぬぐうと、後ろのマグダのことを振り返った。
「すみません。気がつきませんで……ここからだと、ミミ嬢ちゃんの姿が隠れて見えないもので、そんなに我慢してるとは思ってもみませんでした」
「いや、べつにいいんだ。俺も悪い。それに、誘拐されたとかってわけじゃないんだから……」
そうこう言っているうちに、マリーとミミが手を繋いで戻ってきた。イーサンはほっとした。また、それとはまったく別にランディもロンもココもどこか満足げな顔をしていることがすぐにわかる。三人はお土産売場で買ったお土産を見せあいっこしては、何かわいわい騒いでいた。
「みんなさ、俺がじいちゃん死んで学校休むって言ったら、「いいなあ~」って言って羨ましがってたんだ。明後日また、学校いったらこの土産見せてまた羨ましがらせてやろっと!」
「ほんと、なんか得しちゃったあ~。それにもうすぐ夏休みだし、べつにガッコで授業受けても、そんなに楽しいことないもんね」
ココとランディは普段、それほど仲がいいわけではない。というのも、ココは何か自分に都合の悪いことがあると兄のことをデブ呼ばわりするからだったし、ランディもロンも基本的に口喧嘩ではこの妹に勝てないからだった。それでもやはり、何かの拍子には意気投合するもので、この時がそうだった。
また、ロンは湖の精霊が宿っているという水晶の玉を見て、それを何度もしつこいくらいに磨いてばかりいる。
(やれやれ。そんなものに一体いくら金を使ったんだと言ってやりたいが、まあいいか……)
「なんか、悪かったな」
マリーがミミと一緒に座席に着くのと同時、イーサンはそう声をかけた。ミミは「もごさなくてよかった!」とニコニコした顔で言い、トイレにいったついでに買ってもらったらしいアイスキャンディを食べている。そしてマリー・ルイスは「いえ、べつに」とだけ答えていた。
そんなこんなでようやく湖一周ツアーは終わりを迎え、出発地点のロンシュタット駅までようやくのことで戻ってきた。ところが今度は三人の豚児どもは「腹へった~!」、「お腹すいた~!」と言いだし、イーサンはレストランに二人の大人と四人の子供らを連れていかねばならない羽目となる。
というのも、列車が出発するまでに時間のあることがわかり、電車内で適当にサンドイッチでも食べさせるというわけにはいかなくなかったからだった。イーサンは手持ちの現金がなかったため(どうしたもんかな)と思ったが、幸い、駅の構内にあったそのレストランではクレジットカードが使えて実に助かったものだ。
――こうして、列車が出発する時刻になるまでファミリーレストランで時間を潰し、マクフィールド家の面々はその後三時間半ほどもかけて首府ユトレイシアの中心地近くにある自宅まで戻ってきた。帰ってくる頃には日もとっぷりと暮れ、子供たちもまた眠そうだった。というのも、列車の中でも彼らはつまらないことで喧嘩したり、物を取りあったりと、そんなことを繰り返してばかりいたからだった。
(まったく、マグダがどれだけ苦労してこいつらにちゃんとした格好をさせて、駅から田舎行きの列車に乗ったのか、目に見えるようだな)と、イーサンはつくづくそう思ったものである。そしてイーサン自身はといえば、ランディとロンとココとミミの寝仕舞いのことはマグダとマリーに任せ、自分はリビングのソファでぐったりした。テレビのほうはついているが、ニュースの内容のほうはまるで耳に入ってこないといったような状態だった。
それから、家の中が妙にしんとなり、なんの微かな話し声も聞こえなくなった頃――「あ、あの……」という、ためらいがちな女の声をイーサンは聞いた。
「どうかしたのか?」
「マグダが、どこでも自分の好きなゲストルームを使っていいっていうことだったんですけど、もし何かこのお屋敷内におけるルールみたいなものがあったらと思って……」
(そういうことか)と思い、イーサンはずっと緩めていたネクタイを引っ張って投げだし、キッチンの冷蔵庫からビールを取った。「あんた、酒は?」と聞くと、「いえ、飲みません」との案の定の返事。
「べつに、そんなルールみたいなもんはないよ。部屋のほうは一階から五階まであって、階段の他にエレベーターがついてる。俺も数えてみたことはないが、大体四十室くらい部屋があるのかね。マグダは二階で、ミミのすぐ隣の部屋で寝てる。ココも少し離れたすぐそばの部屋だ。ランディとロンは五階。バカとなんとかは高いところが好きとはよく言ったもんでな、一番てっぺんに屋根裏部屋があるんだが、そこを誰の部屋にするかでモメにモメて、結局あそこは今物置みたいになってる。時々友達が来て、隠れ家ごっことか、そんなことはやってるらしいが……と、それはさておき、だ」
テーブルクロスのかかったダイニングキッチンのテーブルに、促されてマリーはイーサンの向かい側に座った。イーサンは煙草を吸いたい気分だったが、とりあえずやめておく。
「今日からこの豪邸はまあ、あんたのものだ。よく考えてみれば、俺に何か断る必要もない。だがあんたは、どうやら至極まっとうな神経の持ち主らしいな。今までのあんたの行動を見ていて思うに、ということだが。まあ、唯一、七十のジジイと死ぬ数日前に結婚したという以外では、至極まともな人間なんだろう」
そう言って、イーサンはあらためてマリー・ルイスのことをじっと見つめた。
「俺は、明日にはもう大学のほうへ戻らなきゃならん。まあ、ここから大学へは中央駅から地下鉄で七つばかりいったところにあるから、緊急の際には戻って来れんこともない。だがな、俺にも大学における生活ってものがある。だから子供がちょっと熱をだしたの、風邪をひいたのどうだのいうことで、いちいち電話なんか受けたくないわけだ。幸い、うちにはマグダがいるから、子供たちが足を折ったくらいのことでもなければ俺に連絡なんかするなと言ってくれるだろう。ゆえに、そうした心配はしてない。つまりな、これまではずっとそれで良かったんだ。俺は学業とアメフトに専念していて、たまに休暇でこの屋敷に戻ってくるってな程度でな。だが、これからは家にあんたみたいな赤の他人がいるってことになると、暫くの間は俺も心配なわけだ。あのガキめらが本当にうまくあんたと一緒にやっていけるのかとか、そんなことがな」
「精一杯、努力します」
背筋を伸ばした姿勢のまま、マリーはそう答えたが、(こりゃ全然わかってねえな)とばかり、イーサンは何度か首を振る。
「いや、子育てってのは、あんたが一生懸命やったからって、そううまくはいかないだろう。逆に、それが普通だってことだ。俺はあんたに今からあの子らに英才教育を施せって言ってるんじゃないからな。まあ、そこそこ人としてのまともな道徳観があって、目上の人間を敬い、嘘をつかず、卑劣なことに手を出さず、素直で礼儀正しい子に育ってくれりゃ御の字ってとこか。俺にしてもそれ以上のことは特段望んじゃいないしな。あんた、どうせ子育ての経験なんかないんだろ?」
「ありません」
マリーは妙にきっぱりとそう言った。
「まあ、そのへんはマグダにでも教えてもらえとしか俺には言えんな。あとは……なんだ。あんたみたいな若い母ちゃんが出来たことを、あの子らにどう説明するかだな。ほら、学校の用事かなんかがいずれはあって、なんのかんのと世間様向けにも説明せねばならんだろ。あんた、そのへんは大丈夫か?」
「は、はい。父兄会とか、そういう場所へ出席することは当然の義務と思ってますけど……」
「いや、そうじゃなくさ。あの女たらしのケネス・マクフィールドが死ぬ少し前に結婚した女だってことになると、俺と同じくほとんど全員が金目当てに結婚した娼婦かなんかだとしか思わんだろうって話さ。世間様から後ろ指さされても、自分はこの子たちを守るんだとか、自分は何も悪いところのない潔白な身なのに、しくしくとか、そういう覚悟は今からしとけって話」
「ええ。そういうことでしたら、何も問題ありません」
急にマリーが、あんまり自信ありげににっこり笑ったため、イーサンは彼女から目を逸らし、話題を変えることにした。
「この屋敷の中にはな、あっちこっちにイルカのなんかが飾られてるんだが、まあ、あまり気にしないで暮らしてくれ。というのもな、あの子らの母親のシャーロットが、占い師にあなたの守護聖獣はイルカですとかなんとか言われて、そのせいでクリスチャン・ラッセンの絵画が屋敷中に飾られてるだけじゃなく、クリスタルのイルカの置物なんかが部屋のどっかこっかに必ずあるし、蛇口のひねり口まで全部イルカときてる。なんでも、クリスタルってのは悪い気や病気を吸いとってくれるとかで、あの可哀想な占い狂いのおっかさんは、最後にはそれで自分の癌は治るとまで信じてたらしい。生まれる前、自分はイルカだったし、次もまたイルカに生まれ変わるだろうとか、本当に信じてたらしいからな……なんにせよ、そんな頭のおかしいおっかさんでも、あいつらにゃ血の繋がったこの世にただひとりの母ちゃんだと思って、そういうものを壊したり捨てたりするってことだけはやめてほしい」
「わかりました」
話はここまでと見てとって、マリーは椅子を後ろへずらした。そしてふと、心に浮かんだ疑問を口にしてみる。
「マクフィールドさんは、何故ここでお暮らしになってないんですか?大学のほうも、郊外とはいえ、同じ市内にあるのに……」
「ああ。だからさっき言ったろ?俺には俺の生活があるって。こんな四人ものクソやかましいガキめらのいる環境で、学業に専念したり、自分のやりたいことをやりたいように出来ると思うか?大体、あの子たちの母親の死んだのが三年前で、それ以前に何か親しく交流してたってわけでもない。俺はパブリックスクールの寄宿舎を出たあとは、そのまま大学の寮に入った。ところが、突然半分血の繋がったガキめらのお守りをさせらることになったってわけだ。マクフィールド家の家長としてな。そうだ、思いだしたから言っておくけどな」
ここでイーサンはビールをぐびくび飲み干してから言った。
「俺はあいつらにとっての、いい兄ちゃんでも、父ちゃん兼兄ちゃんってのでもない。あんたはどう思ったか知らんがな、俺はガキって生き物が大嫌いだし、あの子らがそれなりに成長して大きくなったら、子供なんて生き物とは金輪際関わりあいになりたくないとすら思ってるんだ。にも関わらず、俺がそれなりにあいつらの面倒を見てるのがなんでか、あんたにわかるか?」
「いえ……」
「あいつらがもし――今なんの躾けもしてなくて大きくなったとしたら、結局最後は俺に迷惑がかかってくるからさ。たとえ半分でもな、血の繋がりっていうのはそういうもんなんだ。仮にこの家に金が大してなけりゃそれでもいいんだろう。だが、放っておいたらランディは食欲の赴くままにムシャムシャなんでも食って、無制限に太ってやがて部屋から出てこれないくらいのデブになるだろう。ロンはいじめにあったくらいですぐめそめそして、そのうちこの屋敷のどこかで首を括って死ぬかもな。ココは確かに可愛い妹ではあるが、悪い男に金を貢いでアル中のジャンキーになるか、そういう矯正施設のご厄介になるかもわからない。唯一、ミミは……ミミだけはまだよくわからん。なんにしてもあの子だってようするに今どう躾けて教育するかがすべてなんだ。俺はな、自分が愛していない父親の残した財産が一番大事なんだよ。何故ってあの男が残したものはそんなものくらいしかないからさ。ところがだ、血の半分繋がった面倒な弟と妹がいるゆえに、俺の財産は常に脅かされっぱなしなんだ。いいか、勘違いするなよ。俺はあの子たちの財産まで取って自分のものにしようとするような守銭奴じゃない。だが、あの子らが自分の手元にある金をおかしな方向に使いだしたら、俺が代わりに借金を返すなりなんだりする羽目になるかもしれないだろ。俺は自分が何より一番大事で、自分の財産が可愛いと思えばこそ、あんな将来性のないガキどもの面倒を見てるっていう、それだけなんだ」
一息にそこまで言うと、イーサンはなんだか罰が悪くなって、冷蔵庫まで二本目のビールを取りにいった。そしてテーブルまで戻ってくるとマリーは、すでに部屋から出ていきかけていた。最後に振り返ると、イーサンのほうを真っ直ぐに見つめ返して、言う。
「でも、それでもやっぱり、あなたはあの子たちにとって、とても大切なお兄さんなんだと思います。それじゃあ、おやすみなさい」
「…………………」
イーサンは返事をしなかった。正直なところを言って、自分の本音を吐露したことが恥かしかった。むしろ、この重要な点についてはあの女によくよくわからせなければならないと昼間思っていたことをそのまま口に出して言っただけなのに――何故だか、そのことを口に出して言ったことを後悔していた。何故なのかはよくわからなかったにしても。
そしてイーサンは、一階にある客間のひとつでこの日は寝た。眠りに落ちる前、彼の頭の中にあったのは次のようなことだったかもしれない。一、馬の放屁と馬糞ではじまった旅はすこぶる愉快だったこと、二、おとっつぁんは虹に乗って天国へ行ったらしきこと、三、幸福の鐘などいくら鳴らしても、幸せを感じる力は自らが発見すべきこと、四、ミミは自分を起こしたくなくて、もごしそうになるまで我慢していたのだろうということ、五、ランディがグルメを気取り、ファミレスの店員に「もっとミディアムなほうがぼかぁいいな」と言ったこと、六、明日こそは銀行から現金を下ろすべきこと、七、あの頭のおかしい女は、もしかしたらそこそこ利用価値があるのかもしれないこと……。
そこまで考えてからイーサンは、寝る前に確認しておいた警報装置のことを思いだしていた。あのセットの仕方と、警報機が誤作動した際の解除する方法や、警備会社への連絡方法のことなど――(明日、あの女には一通り教えておかねばならんだろうな)と、最後に思ったというのが、彼の覚えている限りの、実の父の死んだ夜に思考したことである。
>>続く。