贈物
もう、会うこともないだろうと思っていた。
時田はあれ以来、何も言ってこないし、そのことに対してまどか自身も、さして気にしていなかった。
「まどかちゃん」
なのに、その人はそこにいる。
目の前にいて、まどかに向かって微笑んでいる。
「会えてよかったわ」
早紀子がまどかのそばへ、駆け寄ってきた。
学校帰りのことだ。
彼方に買い物を頼まれていたので、まどかは駅に向かっていた。
その途中で、声をかけられたのだ。
「――早紀子さん」
目を見開いて、その姿を確かめる。
今日は顔色が良く、そのことになんだかほっとする。
「あ、えっと、時田ならまだ学校――」
言いかけると、
「ううん。今日はまどかちゃんに会いに来たのよ」
早紀子は近づき、まどかの手を取った。
その温もりに、まどかは肩をゆらす。
どこか、懐かしい気がしたからだ。
「ね、まどかちゃん。今日これから予定ある?」
早紀子が伺うように見る。
「あ、えっと」
買い物だけだ。
しかも、急いでいるわけではない。
「よかったら、つきあってもらえない?」
顔に出ていたのだろうか。
返事をする前に、早紀子が手を引く。
まどかは、振り払うことができなかった。
連れてこられたのは、小さなケーキ屋だった。
茶色い三角屋根の、一見普通の家のような店だった。
ドアを開けると、ふんわり、あまい香りがただよう。
店内もそんなに広くはない。外観と同じく、家庭的な雰囲気だった。
「まどかちゃん、りんご好き?」
奥に飲食できる場所があり、まどかは早紀子と一緒にすわった。
「ここのアップルパイね、おいしいんだけど、大きいの。だから一緒にどうかなって思って」
「はあ」
流されるように来てしまった。
けれど楽しそうにしている早紀子を見たら、なんだかそれもいいような気がした。
「アイスクリーム乗せてもらいましょう。バニラね」
注文を任せると、早紀子はそっと、自分の手を見る。
白くて、細くて、長いゆび。
まるで早紀子を象徴しているようなその手を、まどかもじっと見つめる。
「ここのアップルパイね。よく家族で食べに来たの。家族で」
早紀子の声は優しく、まなざしはやわらかかった。
「何か――特別なことがあった日。だから今日も」
それを聞いて、まどかは俯く。
早紀子はつまり――弟に彼女ができたこと――まどかとこうしていることが、特別なことだと言いたいのだ。
「うちは両親が共働きで、忙しかったのね。それもあってケイちゃんとは仲が良くて」
まどかは俯いたまま、肩をふるわせる。
「本当はあの子一人、こっちに残すのは心配だったけど、まどかちゃんがいてくれるなら、安心だわ」
なぜ、こんなことになったのか。
膝の上で、軽く拳を作る。
胸はもやもやするのに、声にならない。
「……まどかちゃん?」
呼ばれて、顔をあげる。
とたんに、頬を、しずくが伝った。
泣いているのだと気づくのに、少し時間を要する。
早紀子の瞳が、見る見る開かれていく。
まどかは自分の頬に、手をやった。
そこでようやく、何が起きているのかわかった。
「――ごめんなさい」
耐えきれなくなって、口にする。
この状況――というよりは、これ以上嘘を重ねることにだ。
「あ、あたし、時田と本当につきあってるわけじゃないんです」
目の前の彼女が、まぶしかったから、だろうか。
それとも別の理由か。
まどかは頭を下げて、あやまった。
「――本当に、ごめんなさい」
立ちあがろうとしたとたん、アップルパイとバニラアイスが運ばれてくる。
あまいあまい、においがした。
アップルパイの箱を片手に、まどかは帰り道を歩いていた。
ふんわり、ふわり。
あまり香りが鼻をくすぐる。
夢のようで、けれどそれは現実で。
変なの、とまどかは小さく笑った。
早紀子はまどかに対して、怒るようなことは一切なかった。
それどころか、話してくれて、ありがとう、と言ってくれたのだ。
そしてそれは、聞かなかったことにする――とも。
それから、こうも言ってくれた。
――私がまどかちゃんに会いたかったのは、あなたのことが、好きになったから。
優しく、微笑んでくれた。
とても、とてもうれしかった。
同時に、悲しくなった。
胸の奥が、きゅうっとつかまれたみたいに、苦しくなった。
言葉にならない思いが、広がっていく。
顔をあげれば、もうすぐ日が暮れる。
夕闇の色は、ふと昔のことを思い出させるのだ。
人だった頃の記憶。
まだ、この姿になる前の。
「――まどか」
呼ばれてふり返れば、宇佐神がいた。
夕闇にも染まらないその姿は、人ではないことを表している。
「宇佐神さま、どうしたんですか?」
「遅かったからね。迎えに来たんだよ」
そう口にしつつも、視線はまどかの持つ、アップルパイへと注がれている。
「おみやげかな?」
尋ねられて、まどかはかすかに首をふる。
ちがいない――けれど、なんだかそう言いたくなかった。
あえて言葉にするのであれば、
「――贈りものです。とてもすてきな人からの」
きっともらったのは、お菓子だけではない。
まどかはそんなふうに思いながら、宇佐神の前にパイを差し出した。
早紀子が出発したと聞いたのは、それから3日後だった。
「悪かったな、今回は」
時田が頭をかきながら、照れくさそうに言う。
「でも姉さん、すごく喜んでて。正直助かった」
どうやら本当に、早紀子から何も聞いていないようだ。
まどかはなんだかおかしくなって、くすりと笑みをこぼす。
それからまっすぐ、彼を見た。
「ね、時田。あんた前にあたしに聞いたじゃない。好きな人いるかって」
瞳が揺れた気がしたけど、まどかは彼の返事を待った。
「ああ」
校舎裏に寄りかかりながら、時田は腕を組む。いつものように、けれど、いつもと違って見える。
まどかは構わず続ける。
「――あたし、いる」
今度は、はっきりと口にした。
「叶わない相手だけど」
それもはっきりしていた。
「あんたは?」
「……おれ、は」
「どっちかにそういう相手がいる場合、この関係は終了するって言ってたわよね」
「……ああ」
「どうする?」
「……おれに決めろってことか?」
「あたしは別に、このままでもいいかなって思ってる」
その言葉に、時田は驚いたように目を見開いた。
まどか自身も肩を震わせ、思わず背を向けた。
「勘違いしないでよ。あんたがいれば他の男子は寄ってこないし、あたしとしても楽ーー」
そこまで言いかけた時だ。
「――続ける」
それはいつもの時田の声と、わずかに違って聞こえた。
その反応にまどかは一瞬戸惑い、けれどいつも通り口を開く。
「――契約続行ね」
くすりと笑って、時田をながめる。
「おう」
彼は腕を外して、一度空に目をやった。
それからまどかを、じっと見つめる。
髪が、頬にふれた。
その瞬間、身体の奥が、むずむずと反応したような気がした。