正体
教室に入った途端だった。
視線を感じて、背中のあたりがぴりぴりと痛む。
一人どころではない。それこそ、何人もだ。
こういったことには敏感だ。まどかは一瞬肩を震わせたものの、そのまま席へ歩いていく。
頭をよぎるのは、彼方の言葉だ。
まさか、とは思う。
もうバレたのか、と。
席に着くと荷物を置いて、息を整えた。
「おはようさん」
隣から声がして、ふと目をやる。
時田だ。
「……おはよう」
その一言で、まどかは我に返った気がした。時田は視線を逸らさないまま、ぽつりとこぼした。
「朝からずいぶん、熱い視線感じるよな」
笑い方が意地悪く見えて、まどかはわずかに眉を寄せた。けれどおかげで、あることに気がつく。
ようやくわかった、と言うべきだろうか。
――ああ、そうか。
そういうことか。
ほっとしたと同時に、やれやれ、と息をつく。
同時に目を細めて、時田をながめた。口を開こうとしたものの、それは叶わなかった。
「――林原さん」
背中のあたりから、声が響いたからだ。
だれがいるのか。何人なのか。気配で察することができたので、感覚としてはいつもどおりだった。
難点があるとすれば、わかりすぎてしまうということだ。
となりにいる、仮の交際相手のせいで。
「……なに?」
ゆっくりとふり返れば、そこにいたのは数人の女子――クラスメイトだった。
「話があるの。いい?」
嫌だと言って通じるのだろうか。
まどかはそんなふうに思いながら、時田の顔をみる。
けれど先ほどとは違い、どこ吹く風、といった様で机に顔をうずめていた。
わかってはいた。
自分は、こういったことも覚悟の上で了承したのだと。
むしろそのために引き受けたのだと。
わかってはいたが、やっぱり腹が立つ。
本当に、自分にとって得があるのか。
昨日は散々、彼方に言ったものの、そんな思いが頭をよぎる。だがすぐに、
「――ちょっと、聞いてる?」
イラ立った声が耳に響いた。
我に返ったまどかは、まばたきをくり返した。
相変わらず、時田の反応はない。
「……少しだけなら」
断ったところで、どうせ通じないだろう。だったら早く済ませてしまったほうがいい。
数人の女子の後を、まどかはふらりとついていく。
一瞬、彼の視線を、背中に感じた気がした。
けれどふり払うようにして、教室を出る。
一度も、ふり返ることはなかった。
やっぱり、まちがいだったかもしれない。
女子に囲まれながら、まどかは思う。
――つきあうというのは、好きな相手とするもの。
ふと、彼方が言っていたことが浮かぶ。
それは人間であっても、そうでなくても。
ちらり、あたりを見まわした。
……なんとなく、だ。
なんとなくだけど、気配がしたような気がしたからだ。
「時田君と、つきあってるってホント?」
尋ねてきたのは、最初に声をかけてきた女子だ。
まどかはそれに対して、返事をしようかと思うものの、なんとなく肩をすくめるだけにした。
わずかに感じる、気配のせいかもしれない。
「友達で彼を好きな子がいて、今朝告白したの」
彼女は腕を組みながら、まどかを見た。
まなざしは切れ長の瞳と同じように、鋭い。
それとは逆に、肩までの髪の毛がふわふわとしている。
声は高く甘めだが、語尾は強い。
「そしたら、あなたとつきあってるって言われて」
どうやら、それで確かめに来たらしい。
まどかは再び、まばたきをくり返し、観念したように口を開いた。
「……つきあってる、けど」
フリ――というのはもちろん置いておく。
先ほどの時田の態度を思い出したら、そのまま終わりにしたいところだったが、それは契約にはない。
まどかは基本的に、約束をやぶることはしないーーというか、できないのだ。
「じゃあ、本当なのね」
「……うん」
淡々と答えたのがまずかったのだろうか。相手はまどかに近づいてくる。まなざしの強さに、一瞬目を逸らした。けれど相手は構うことなく、細い手で壁を叩いた。
「一体、どんな手を使ったの?」
耳元で、ささやくようにつぶやかれる。
まどかは一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
考える間もなく、相手は続ける。
「時田君はね、これまでどんな子が告白しても、付き合わないの一点張りだったの」
彼女の後ろにいる女子生徒も、みんな頷いている。
そんなこと言われても。
口を開きたい気持ちを、ぐっとこらえる。
「なのに転校してきて二週間のあなたと、急に彼は付き合いだした」
だからフリなんだけど。
言いたい気持ちは、やっぱりこらえるしかない。
「確かにあなたも男子に人気があるみたいだけど」
相手は一瞬下がり、まどかを見た。値踏みするような視線だ。
「でも顔だけで良いなら、今まで何人もいたわ。なのにーー」
彼女は唇をかむ。けれどすぐに、まどかのほうをにらんだ。
まどかは珍しいものでも見るように、彼女たちをながめる。
視線は、鋭い。
そして、強い。
けれど怖いと感じることは、ほとんどない。
何よりもこれだけの人数、みんな彼に好意を持っているのだ。
まどかにとってはその事実のほうが、感心してしまう。
彼女はまどかの反応が気にいらなかったのか、再び顔を近づけてきた。
「――あなた本当に、時田君のことが好きなの?」
彼女の声は、まるで楽器のようだった。
おかげでまどかは我に返り、言葉を自分の中でくり返す。
――すき
その一言だけでいい。
今だけでいいのだ。
なにせ、フリなのだから。
それが、約束なのだから。
何よりもわかっていた。
わかっているのに、まどかは口にすることができなかった。
――まずい
のっぴきならない事情で。
――まずいまずい
身体がムズムズする。
これはあれだ。
元に戻る時の感覚だ。
まどかはとっさに、あたりを見まわした。
こんな時に、こんなところ――彼方がいるはずがない。
わかっていても、探さずにはいられなかった。
――やばい
そう思った次の瞬間、
「おまえたち、そんな所で何をやっている」
急に声が響き、まどか以外、一斉に視線が変わる。さすがに驚きを隠せなかったのか、まどか以外、その場からすぐにいなくなった。
それを見て、まどかは気が抜けたのか、その場に座りこむ。
それから、声の主をさがした。
姿を見せたのは、スーツ姿の男性教師。
ただし、本物ではない。
気配でそれが、だれなのか、何者なのかわかる。
色濃く漂う、懐かしい香り。
この4年間、ずっとそばにあったもの。
けれど3ヶ月前、突如いなくなってしまったもの。
まどかは息をつき、あきれたように口を開く。
「――やっぱり、宇佐神さまだったんですね」
途端に教師の姿が変化する。
短髪だった男性は、銀髪で美しい、着物姿の青年になった。
長い髪は、瞳の色と同じだ。
まどかが初めて会った時と、なんら変わりがない。
「どうやら、わかっていたようだね」
やわらかい声は、まどかの身体をさらにゆるませる。その様子が伝わったのだろう。微笑んだまま、相手はまどかの額に手を置いた。
ムズムズと落ち着きがなかった身体が、元通り、穏やかになる。
「本当は放っておこうかと思ったけどね。つい、手を出してしまったよ」
銀の瞳と、目が合う。
まどかは逸らさずに、まっすぐと見た。
会いたかった、と思う。
ずっとずっと、会いたかった。
胸の奥が、わずかに痛くなった。
「……ずいぶん、さがしました」
まどかは腰を折り、彼の前にひざまずく。
それからあえて、俯いた。
「そのようだね。書き置きはしていったつもりだったけど」
確かにそうだった。
けれどまどかが言いたいのは、そういうことではない。
「皆、あなたの帰りを待っています」
社の面々、彼方、それから自分も。
まどかはあえて口には出さず、目を伏せた。
きっと伝わる、そう信じて。
「さあ、私達と共に――」
言いかけた途端だった。
「いやだよ」
まどかは顔をあげる。
目を見開き、宇佐神を見た。
正確には、視線を合わせることができなかった。それが彼の口から出た言葉だと、思いたくなかったからだ。
「――なぜですか?」
声が震えているのがわかる。けれど、訊かずにはいられなかった。
彼がまた、いなくなってしまうことのほうが辛い。尋ねなければ、それが再び現実となる気がした。
そんなまどかの思いをよそに、
「ひ、み、つ」
宇佐神は人差し指を唇の前に持ってくる。
まるで子供のように笑っている。
「宇佐神さまっ」
まどかは思わず、声をあげた。宇佐神はかわすように、くるりとまわる。
「おまえも、なんだかおもしろいことになっているみたいだね」
宇佐神は、さらに楽しそうに笑みを浮かべる。
「ずいぶんとモテているようじゃないか」
彼の言葉に、一瞬怯む。
きっと、先ほどのことを言っているんだろう。彼のことだから、一時始終、もしくは最初から見ていたに違いない。
「う、宇佐神さま…」
あまり触れられたくないことだった。まどかにとっては、少しばかり耳が痛いからだ。
「――さすがは、私の兎」
そう言われてしまうと、まどかは複雑な気持ちになる。それが顔に出たのだろう。宇佐神は首を傾げた。
「誉めているんだよ?」
一瞬だけ、迷いが生じる。
正直に口にするべきかどうか。
まどか自身、動けずにいると、あまい香りが鼻をかすめる。
つられたのだろうか。
気がつけば、まどかは口を開いていた。
「どうでもいい相手にーー人間に好かれても、喜びようがありませんから」
きっぱり、言い放つ。
それが自分にとっての本音。
少なくとも、まどかはそう思っていた。
その言葉に、宇佐神は息をつく。
「どうでもいい、か。そう言われると、少し悲しくなるなあ」
あおぐように、顔をあげる。
雲一つない空だった。
「まどかはもともと、人間だったのに」
宇佐神の瞳は、少しさみしげだった。
「とうに捨てた身です」
空に放つように口にする。
宇佐神は腕を組んだ。それから、澄んだ声で問いかける。
「――本当に、そう思ってる?」
もちろん。
頭ではわかっているのに、言葉に、声にならない。
まどかは再び動けなくなった。
「ま、いいか」
先ほどの声とは裏腹に、宇佐神が軽く微笑む。
「答えは自ずと出るだろうから」
言い切った途端、まどかは違和感を察する。
足もとを見ると、宇佐神の姿が徐々に薄れていくところだった。
「もう少し、楽しむといいよ。こっちの世界を、ね」
風が、吹いた。
まどかは一瞬、目を閉じる。
気がつけば、宇佐神はいなくなっていた。
まどかはあたりを見まわすものの、気配は完全に消えていた。
「……やっちゃった」
油断していた。
せっかく見つけたのに、せっかく会えたのに、捕まえることーーもとい引き留めることができなかった。
「……なんて言おう」
彼方に、だ。
まどかが息をつくと、人影が見える。
現れたのは、時田だった。
「……よう」
まどかは再び、目を見開いた。
気がつけば胸に手を置き、彼をぼんやり、ながめていた。
お互いに、何も言わなかった。
伺うような視線に変わったのは、それからすぐのことだ。
「なん、で……」
ようやく口を開いたのは、まどかだった。
「いや、なかなか戻ってこないから、さすがに気になって」
どうやら、様子を見に来てくれたらしい。
時田の声は、いつもよりもやわらかい気がした。
まどかは伺うように、彼を見る。
これはいつからの癖だろう。
ふと、そんなふうに思っていると、
「一応、彼女だしな」
時田の声で、我に返った。
そのせいで絡まれてたんだけど。
言いたい気持ちを、なんとかこらえた。
けれどイラ立ちが晴れるわけでもなく、結局それはため息となって、吐き出される。
すると彼は、へたりこんだまどかの前にしゃがみこんだ。
「ん」
手を差し出した。
その手は無骨で、宇佐神とは違っていた。
神さまと人なのだから、あたりまえといえばそうだ。
けれどまどかは、神の手も、そして人の手も知っている。
そしてまどかは、ふしぎとその手がいやではなかった。
「最低限――じゃなかったの?」
わざとらしく、まどかは言った。
なぜ、こんなことを言ってしまうのか。
自分でも、笑ってしまいそうになるのがわかる。
「いいから、立てよ」
先につかまれて、立ちあがる。
その時だった。
再び、身体がむずむずし始める。
考えるよりも先に、まどかはその手をふり払った。
そのまま走って、どこか一人になれる場所――女子トイレへと駆けこんだ。
鍵をかけて、しゃがみこむ。
「……まにあった」
なんとか、ぎりぎりだった。
お尻に、ふわふわとしたものがあたる。
しっぽだった。
髪の毛の間からやわらかいもの――耳が、長く長くのびている。
ふわふわの耳と、しっぽ。
長いものと、まるいもの。
そのやわらかさは、忠実の証。
ただ一人、主への。
まどかはそっと、まぶたに手をやる。
きっと瞳は、あかくあかく染まっていることだろう。
それから、小さな鼻。
どんな場所にいても、主を見つけられるように。
四年前、宇佐神からもらったものだ。
それは、神さまの使いのしるし。
宇佐神の使いである、月兎の証だった。