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天雲秘譚  作者: 八剱ユウ
9/10

……

 ここはどこ?白くて冷たいものが降って来るよ。これは雨?


 エアは泣いていた。見たこともない場所にいきなり放り出されて、怖くてしょうがなかったのだ。

 吹き付ける風の冷たさに震え上がり、無我夢中で目の前の袖に縋り付く。

 袖の主は美しい黒髪が強風で乱されるのを気にも留めず、膝を折るとエアをそっと抱き寄せた。

 優しく頭を撫でながら微笑みかける。

 彼女の黒い瞳には、曇りのない慈しみと凛とした強さが輝いている。

 大丈夫、と柔く赤い唇が囁く。


 母が貴女を守ってあげる






「母様?」

 エアはぼんやりと目を瞬かせた。

「さむい…、……寒いっ!?」

 懐かしい夢の名残で思わず呟いたが、本当に寒いことに気がついた。

 なにやら全身が冷たいのだ。慌てて飛び起き(ここでまたしても倒れていたことに気がついた)あたり一面が雪景色であることを認識した。

 吐く息が白い。

(ここはどこ!?…下界、なんだろうけど……)

 とにかく、洒落にならないくらい寒い。瞬く間に体温が奪われ、エアはぶるぶると震え出す。

 二の腕を擦って寒さを堪えるなんて何十年振りかしらとかなんとか思っていたら、少し離れた背後からぐぐっという、雪を踏む音が聞こえた。誰かいると振り返るより早く、音の主が声を上げた。

「フォス!アルド オーサバス ライタ イ!?」

「……え!?」

 肩越しに振り返ると、エアの立つ岩から少し離れた場所に、厚着をした男が立っていた。

 片手に持った槍をこちらに向け、もう片方の手を仕切りに上下に振りながら「フォス、フォスクロ!」としきりに訴えている。

(何て言っているのかしら。フォスって何)

 向き直ったがポカンとしたままのこちらの様子に、業を煮やした男は今度は自分の背後に向かって叫びだした。

「アア~ウゥッ。アルッ、アルッ アル ヴォスカ!!アルド セイェイドルム ライヅェル!」

 声が遠くまで届くように、口元に手を添えてさらに叫ぶ。

 これは、アレだ。人を呼ぶためのジェスチャー。万国共通の。

 改めて男の服装を見る。詳細は知らないが、意匠がきっちりとしている。おそらく制服。そして手には槍。そして応援を呼んでいるということは……。

 軍人とか。

(逃げよう)

 エアはすばやく身を翻して岩から飛び降りると、男とは反対の方向に一目散に逃げ出した。

 捕まる、というのも一つの選択肢に違いないが、パニックになったエアにそんな冷静な判断など出来ようはずも無い。

 本能と直感の赴くままに逃走する。

 男の方は、まさかぼけっと突っ立っていた相手が、打って変わって脱兎のごとく逃げるとは思っていなかったようで、一瞬沈黙した後に慌てて追いかけ出した。





「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」

 自分のものではない重々しい足音が背後から迫ってくる。

 一方のエアは土地勘もない上、慣れない寒さで早々に動きが鈍くなり出していた。温暖な赫埜にいたため、薄着であったのが仇になってしまった。

 冷静になって考えれば追ってくる男に適当な事情を話し、庇護を請うのが賢かったのでは?と考える。今ならまだどうにかなるのでは。

 エアは脳裏に男の姿を思い浮かべた。険しい顔でこちらを睨みつけ、槍の穂先を向けている…。

 無理。と頭に浮かんだ考えに即答を返す。

(無理、無理、ああいうのは無理。怖い!それに逃げ出してしまったし!絶対に怪しまれてしまっているわ!)

 泣きそうになりながら走り続け、名も知らない川の傍までたどり着いたとき、とうとう足がもつれ、冷たい雪の中に倒れ伏してしまった。

 荒い息の合間をつくように、口の中にたまった唾をごくりと飲み込む。

 はあー、と意識して長く息を吐いた。

(どうしよう、どこへ行ったら…)

 不安でいっぱいだった。

 足も腕もだるく、感覚が無い。まるで水の衣を纏ったように全身がひやりと冷たい。

 男はまだ諦めていなかったのか足音が徐々に、そして数を増やしながら確実に近づいてくる。

 早く立ち上がらねばと思うのだが。足が鉛に変わってしまったかのように重く、ゆうことを聞かない。何とか前に進もうと雪の中でもがいていると、ふと、視線の先、対岸に一羽の鳥を見つけた。

鶺鴒せきれい…?)

 尾羽をヒョコヒョコと上下に動かし、鶺鴒は寒さもなんのその、川岸の枯れ果てた草むらの中をちょこまかと平気で歩いている。

(そっか、これなら…)

 少しして、先ほどの男を筆頭に、同じ格好をした数人の男たちが現れた。

 川岸には人の影は無く、近くの木に二羽の小鳥が羽を休めているだけだ。

 男たちはエアが倒れた跡である窪みを確認し、そこから伸びる、這いずったと思われる跡が川へ続いているのを見て青ざめた。

「イマ!アル マロス!…ウルケ、イクゥトー…」

「アーワ、イクゥトー エリマロック…?」

 しきりに川下を眺めるが影も形も見えないので、いよいよ蒼白になって顔を見合わせた。

「はー…、イクゥトー エリマロス?…オーア ラーラ」

「アア、ラーラ」

「ラーラ…、…オゥ」

 エアを追ってきた男は片手で顔をがりがりと掻いた。隣の男がぽんと肩を叩く。

 そんな男たちの一連の動きを見下ろし続ける小鳥たち。

 大して珍しくも無い二羽の鳥に注意を向けるものはいない。見ていれば多少の違いには気付いたかもしれない。

 一羽は普通の鶺鴒だが、もう一羽は妙に丸っこく、青みを帯びている。

 青っぽい鶺鴒=エアは、男たちが捜索を諦めたのを見て、やっと全身から力を抜いた。緊張で逆立っていた羽毛が空気が抜けたようにしぼむ。

『はあー、どうなることかと思ったわ』

 男たちはこちらに気付くことなく、会話を続けていた。

 まあ、まさか今まで自分たち追っていた人間の娘が、まさか小鳥に変身したとは思うまい。

 彼らは急に姿を消したエアが川に落ちて流されたと思ったようで、川下を気にしている。

 本気で心配している様子なので、なんだか申し訳ない。思っていたのと違い、いい人たちだったようだ。相変わらず何を言っているのか解らないが。

(というよりも、もし言語問題これがこれからも続くようならこの先かなり思いやられるわね)

 帰る手段がまったく見当も付かないのだから。それなりの時間をここで過ごす可能性が高い。

(自力では下界の外には出られないし)

 どうにかして外に近い場所を探り当て、連絡をとらねばならない。

 これはもしかしたら、かなり時間が掛かるかも、とエアは少し気が重くなった。

(けど、完全に丸腰で旅、というわけでもないし、自分が出来ることもわかっているから。なんとかなるわ、きっと…。うん、なる。なる!)

 絶対なる、と強く自分に言い聞かせながら、後ろ向きな気持ちを宥める。

(まずは出来ることをしよう。やっぱり言葉は大事なのよね……普通に学習すると相当時間が掛かるから、やっぱりアレ、やるしかないわね。……自信ないけど)

 エアは気合を入れるとアレをやるために、まずは会話を続ける男の一人を注視した。

 三十代前半くらいの男だ。ちょうど枝に留まるエアと相対するような位置に立っている。

 当然だが男はこちらを見ていない。けれど、エアはかまうことなく男を木の上からじっと見下ろした。

 自分の中にある力を意識する。

 それは量こそ少ないが、緩やかに全身を覆い、長年の修行によって自在に動かすことが出来る。エアは力の一部をまとめると、触手を伸ばすように男のほうへ力を向けた。

 男とエアが力を通して繋がる。

 男はふと上を向いた。両者の目がかちりと合う。

 エアの意識はその瞬間男の目の中にするりと入り込むと、意識領域に潜り込んで一時的に同調した。

(よし、上手く入れたわ。え~と、言葉は…)

 同調を保ちながら、男の現在から過去に意識を向け、記憶をざっと浚う。目まぐるしく流れる記憶領域から音の情報を辿り、その中から言語に関する知識を見つけ、抽出し、己が知識として飲み込む。

 あと地理の情報も欲しいとさらに手を伸ばそうと、意識の焦点が僅かにずれる。その瞬間、しょうの抜けた糸のように、ふつりと集中が切れてしまった。

(ああ、やってしまった。クージ様がいたら注意散漫が直ってないって怒られるわね…)

 激しく神経を磨耗する一連の流れは、半神のエアには荷が勝ちすぎて非常に難しい。ミヴァ神族の血を引くせいか、音に関する読み込みだけは上手くいく確率が高いが。

 今回のようにもう一つ、もう二つ、となると途端にこれだ。

 もう一度試みようと集中したが、遅れてやってきた無意識下での男の拒絶反応と、一度切れた力を修復しても維持ができないという時間切れで男の体からはじき出されてしまった。

 エアの意識が急速に体に戻る。

 時間にして瞬き一つほどの間だったろう。

「おれ、カゼでも引いたかな。いま背筋がゾクゾクしたわ」

 エアが見つめていた男は気分が悪そうに服越しに首筋をさすった。

「大丈夫かい?まあこんな雪ばかりの季節ならなあ。おお寒い」

「見回りも済んだし、早く戻ろう」

 先程とは打って変わり、男たちの会話の内容がするすると頭に入ってくる。

 言語情報の取得は問題なく出来たようだ。

(あああでも、どうして集中を切らしてしまったのかしら。もしかしたら今回は上手く出来たかも知れないのに……。うう、でも、上出来なほうと思っておこ…)

 本当にダメなときは相手の意識に同調どころか何も起こらないこともあるのだから。

 知らない間に他人の頭の中のものを勝手に読む、という後ろめたさも若干無くもないエアは草々に頭を切り替えた。

 ちなみにさっき男が言っていた「フォス」は「下りろフォス

「アルド セイェイドルム、ライヅェル」は

不審者アルド禁足地にイェイド入りルム込んでいるライヅェル

 ということだったようだ。

 というかエアが倒れていたのは彼らの守る磐座ライヅェルの上だったらしい。焦るわけである。エアも今焦った。

(どうして気付かなかったのかしら…。どなたのか解らないけれどごめんなさい)

 兎にも角にも、言葉が分かるようになれたので不安要素が一つなくなった。

 つかまっている木の枝に腹を付けるようにしてぐったりと座り込む。

(でも、すごく疲れた。これとっても集中しないと出来ないのだもの)

 知恵熱を出し時と同じように、頭がのぼせたように熱い。

 人の姿であれば手で顔を煽ぎたいところだ。

 クージらであれば瞬間で言語情報どころかその人間を構成する総記憶と知識、経験、それに付随する感情等が何もかもすべて見える。さらに意識すれば、相手の記憶の中にいる人物の目を通じてその当時その人物の頭の中にあった情報も取得できるらしい。そのやり方を応用すれば現在の人間だけでなく、遥か過去を生きた人間の意識を見ることも出来るとか。

 一度に一人(しかも範囲が限定的)が限度のエアには想像も出来ない。もしも同じ事をしようと思っても、かなり早い段階で頭がショートするだろうし、と去っていく男たちの背中を眺めながら考えた。

 ちなみに、勘のいい人間の中には同じようなことが出来る者もいる。対峙し、無意識に相手が発している考えを読み取るのだ。それは記憶であったり、表面的な思考であったりとさまざまではあるが。

 ただ、人であるゆえ見える範囲は現在進行形リアルタイムがほとんどだそうだ。人間では他人の過去の思考までは覗けない。

 人の意識は高い次元で、見えない糸で繋がっているという。意識するしないにも拘わらず。

 その糸を辿り、時間さえ掛ければこの世のすべての人間の知識を掌握できるなど、まさに神の業だ。

 特に意味が無いから、暇でしょうがない、あるいは必要に迫られない限りやらない。とも言っていたが。

 神々の深遠なる知識の源泉を垣間見た気がして、思わず鳥の姿のまま、人間じみたため息をつく。

 エアは振り返ると、尾羽をヒョコンと振る。

『匿ってくれてありがとう。本当は縄張りに入れるのも嫌だったでしょうに』

 鶺鴒は「別に」というように短く鳴くと、その場を飛び去っていった。腹を満たせるほどの目ぼしい虫がいなかったらしい。

 寛大な態度を見せた鶺鴒に改めて礼を言うと、エアはその場から去ることにした。鶺鴒は縄張り意識が強く、長居して気分を損ねると悪いと思ったのだ。

 それに、鳥に姿を変えたことで全身モコモコの温かい羽毛に包まれ、ちょっぴり元気が戻っていた。

(それにしても…本当に、どこへ行ったらいいのかしら…)

 あてどなく林の中を彷徨う。

 捕まる、という危機は脱したが、それ以前に、ここがいったいどういったところかも分からない。広い範囲での目星は付いているが。

(そもそもなぜ私をここへ落としたのかしら)

 面白そうだ、と言っていた嵐神の意図がまるで解らなかった。少なくともエアは自分ひとりがここに紛れ込んでも何も面白くないし何も起こらないと思う。

 少し疲れたので、手近にあった岩に降りる。

 岩はたくさんの粉雪が積もっており、着地すると軽い鳥の足がもこりと沈んだ。

 あらどうしようともぞもぞと足を動かすと、逆に体が沈んでいく。普段なら焦るべきところだが、さんざん追い回されてたうえ、力を使って集中力も無くなっていた。疲れきり、羽ばたく気力も無い。雪に埋もれたことで再び体温が下がった今は、どうも正常な判断が出来なくなってきているようだった。

 胸の下辺りまで雪に埋もれてきた段階で、腹部の羽毛から伝わってくる冷たさが水の上に浮いているような感触に近くなり、だんだんと心地よくなる。

(ちょっとこのまま休憩しようかしら。ちょっとだけ……)

 エアはウトウトと目を閉じる。

 周囲は沈黙に満ちている。生き物の気配も無い完全な一人きり。

 雪に埋もれかけた小鳥の上に、再び雪が舞い降り始めた。




 それから数十分後、一人の人物が林の奥から現れた。

 厚手のマントを羽織り、付随の頭巾を被って雪を避けている。奇妙なことに、その人物は頭巾を被っているにもかかわらず、さらに覆面をしていた。余程寒いのか、あるいは顔を人目につけないようにするためか……。

 さらには背には身の丈に不釣合いな大きな剣を背負っていた。

 マントの人物はふと、ひとつの岩に目を留めた。その岩はその人物にとって遭難を避けるための目印であり、普段から目にするように心掛けていたものだ。

 ほかの岩に比べてやや高さがある以外は何の変哲も無い岩だったが、今日は違った。

 小さな鳥が蹲っていたのだ。小鳥は死んでいるのか、刻一刻と体に降り積もっていく雪にも微動だにしない。たとえ生きていたとしても、このまま放置すれば嵩を増した雪で埋没し、遠からず窒息てしまうだろう。

 なんとなく、放っておくのも気が引け、小鳥を雪の中から掬い上げる。軽く雪を払うと、閉じられていた翼がピクリと動いた。

「生きている…」

 わずかに逡巡したうち、小鳥を持っていた手巾にくるみ、つぶさないよう慎重に懐に入れた。

 そのまま帰路に着こうとし、足を踏み出した。

 が、数歩も歩かないうちに勢いよく体を反転させた。

 手を背中の剣の柄に掛かけたまま、しばし目を細め、雪の降りしきるなかで林の奥を睨む。が、灰色になりつつあるそのあたりに何もいないことを確認すると、ようやく肩の力を抜いた。

 ただし警戒は怠らずに。頭巾を引っ張ってさらに深く被ると、足早にその場を去った。

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