宣戦布告
「お前、なかなかやるな」
ポロ、ポロン…とメロディーを奏でながらエアと嵐神の会話は続いていた。幸いにも、しばらく指を休めていたお陰でシスの演奏は深刻な支障がなくなる程度には回復していた。
「上手かろうとは思ったが、予想以上だ」
「へ、えへへへ…」
エアの演奏が気に入ってくれたのか、嵐神は上機嫌に手を叩いている。こちらとしても率直にほめられると嬉しいものだから、先ほどまでの違和感はどこへやら。
もしこの状況をクージ辺りが見ていたのなら、なんと単純な…と呆れたろう。
「うんうん。あやつが下界の者との間に子を儲けたと聞いた当初は耳を疑ったものだ。ここに引き取られたと聞いたときは、更に驚いたものだが」
感慨深げにうんうん頷く。
「力が弱いとも聞いていたが、演奏は並以上だな。これは血の為せる業なのか…」
「あ、いえ。これはケゥス様に指導を受けたおかげで……もとは、その、文字通り人並み、と言われていたのほどで」
「ほお」
つらい修行の日々をつかの間思い出し、エアの目は遠くを見る。
ケゥスは普段は好々爺然とした本当に親切な優しい方なのだが、自分の仕事に対しては一切の妥協を見せない厳しい一面を持つ。その厳しさはクージも眉を顰めるくらいで、何度泣きを見たことか。
その度に歯を食いしばって乗り越えていくのだが、ある日……。
「そのような騒音を主様の耳に入れる気か?ならば腕など折ってしまいなさい」
治るころには腕の感覚が変化してまともな音が出せるかもしれませんよ、ということを饕餮も斯くやと言うほどの恐ろしい目を向けられながら事も無げに言われた。
このときはショックのあまり、エアはその日から三日間、母や神様たちがどれだけ慰めてくれても立ち直れなかった。あのクージですらエアを慰める言葉を口にしたのだから当時の落ち込みようは相当だったといえよう。
なんとか免許皆伝した今ならば、辛うじてイイ思い出、と分類できなくも無い話である。
「努力したのだな…」
「はいっ。それはもう…っ」
力を込めて肯定する。体験した地獄の日々が透けて見えるようであった。
嵐神も思う所があったのか、深くは突っ込まずにエアの努力を改めて称えた。
「そういえば、嵐の御方は神様に何かご用があったのでは?」
「まあ、用、というか。せっかくあれが帰ってきたのだから、ちょっとしたいことがあってな。残念ながら行き違いであったようだな。用意したのはいいのだが、上手く作動しているか様子を見ているのだ」
「さようですか」
ポロロン、ポロ、ポロ…
(さっきから言っている『あれ』というのはきっと神様のことなんだろうな)
目まぐるしく両手を動かしながら、昔ネイから聞いた説明を思い出す。
神々は特定の名を持たないので直接呼び合うことは無い。通常は通り名か固有性質を現す言葉でお互いを呼び合うのだ。冥神であれば『冥神』が通り名の一つに当たり、闇が性質である。クージらの呼び名にしても『クージ』『ネイ』は名前ではなく、実は序列名称であるそうだ。
本来であればエアもその様に呼ばれるはずなのだが、半身が人であるうえ人の世で生まれた為、例外的に名を持っている。
ポロン、ポ・ポ・ポ・ポ…
「反応…ですか。嵐の御方は、なにか仕掛け的なものを神様に用意していらしたので?」
「うん。たぶん、もう直ぐ動くはずなのだが…。お前も良く見ているといい。なかなかに派手で、愉快な気分になるぞ」
「そうですか?」
ポーン、ポーン、ポーン、
話しているうちに曲が終盤に差し掛かってきた。テンポが速くなるに連れて運指がより複雑に。会話ばかりに気を取られないように神経を割く。
(派手で愉快…か)
神様の帰還に合わせて用意しに来たというのだから、仕掛けと言うのは花火だろうか。あれは確かに派手だし見ていて楽しい。
ポーン、ジャンッ
「では嵐の御方は神様をびっくりさせるためにいらしたのですか」
一息に演奏し終えると、シスを膝上に立てて、立ち上がった嵐神を見上げる。御方はその通りと嬉しそうな顔で頷いていた。
「きっと気に入ってくれると思うのだ」
「随分と仲がよろしいのですね」
本当に楽しそうにお話になる。初対面の違和感を忘れてしまうほど。
こんなに親しくなさっている方が居るとは知らなかった。つられてエアも立ち上がり、にこーっと笑みを浮かべた。
それを見た嵐神は、興味深そうに口の端を吊り上げた。非常に面白いことを思いついたように。
「うん。お前を巻き込んでも面白そうだ」
「え?」
ぽん、戸肩に手を置かれ、きょとんと目を瞬く。よく聞き取れなかった。
「今、なんと…?」
おっしゃっいましたか、と続くはずだった言葉は、背後からの圧し飛ばされるような「ドンッ」という轟音に遮られた。
「!?」
「始まったな」
振り向くと、遅れてやってきた暴風に危うく吹き飛ばされそうになる。肩に置かれた手のお陰で転倒こそ免れたが、纏めていた髪が暴風によって崩れ、バタバタと激しく波打つ。
(いったい何なのっ?)
薄く目を開けると、ここより離れた森の中から、見たことも無い巨大な青黒い炎が吹き上げていた。
「………へ?」
エアは、馬鹿みたいに口をぽかんと開け、目の前の俄かには信じがたい光景に見入ってしまった。
炎によって照らし出された木々が影絵のような黒い姿で踊り、爆風によって無残に千切り取られた木の葉が、燃える飛沫となって飛び散っている。
大量の火の粉を撒き散らしながらも途切れることのない様は、さながら天地を繋ぐ柱のようにエアの目に映った。
(……これ、現実…?)
自分はちゃんと目を開いているのだろうか、と疑った。もしかして、今見ている光景は全て夢で、実は何も起こっていないのでは、と。
しかし新たに発生した熱波がそれを否定する。
我に返ったエアが次に目にしたのは、己を取り囲む凄烈な赤い炎。けれど焼かれているわけではない。なぜなら円形に燃え上がる炎は、自然現象に反して外側に向かって吹き上がっていたからだ。
これは精霊達がエアを守ろうと展開したものであり、同時に青黒い不浄の炎に怒り狂う火霊達の姿であった。
「あ、嵐の御方はっ?一体どこに…」
「ふうん。守られる程度には好かれているのか」
まるで実験でもしているかのような落ち着いた声音だ。燃え盛る火の壁の向こうには、何事もなかったかのような風情で嵐神が立っていた。
しかしその姿は先ほどとは打って変わったもの。
双眸は妖しさを含んだ暗い赤紫色に。
髪や肌も見る見る色が抜けいく。
黄金色の髪は足首まで届く長さとなり、色は月光のような淡い金に。
小麦色の肌は血色が薄れ、青白いと言うほうがふさわしいものに。
裾の長い衣は金糸の装飾はそのまま、染み一つない白から闇に溶けるような、酸化鉄を思わせるどす黒い赤茶に変わる。火霊の炎をぬらりと照り返すそれは、俄かに生臭い血臭が漂うのではと思うほど、禍々しい纐纈布を連想させた。
一方、傍に佇む木々や足元の草が見る見る朽ちてゆく。
まるで水ではなく酸を吸い上げているかのように異様な速さで茶色く変色し、カラカラになって砕け散っていった。
濃密になる死の気配の中、変わらず佇むその姿は、否応無くある存在を思わせた。
(この方は…)
まさか、と思う反面、神とはこういうものなのだ、という遠い過去の実感が蘇り、震えるような寒気を伴って足元から立ち昇ってくる。
シスを抱える手に力が篭もり、厭な汗が滲んだ。
(そうよ、嵐神…嵐…)
嵐は荒しであり、嵐は乱でもある。
死山血河にあって尚、狂乱を求め餓える者。
嵐神、または乱神とも呼ばれる存在は、荒れ狂う森の中で唯一人、髪一つ乱さぬまま不適に笑う。
まるで、台風の目のように、周囲のものを容赦なく薙ぎ払いながら。
炎の結界の中で、エアは乱神と、瞬く間に火達磨になる木々を呆然と見ていたが、生木が爆ぜる「バチッ」という音で我に返る。
(だ、だめ、ぼうっとしてたら森が無くなってしまう!)
見えない呪縛が解けて急速に五感が戻ってくる、風は未だ吹き荒れ、ここまで飛んできた火の粉が触れた肌を刺激した。
無理やり思考を回し自分の状態を確認する。
恐怖は消えてはいないが、固まって動けなくなるほどではない。
(あの炎を止めなければ)
目の前の乱神も大事だが、赫埜の地に穢れが溢れるほうが自分にとっては大問題だった。
このときエアを突き動かしていたのは、未知への恐怖よりもとなんとしてでもこの事態を食い止めなければ、という、殆んど衝動といってもいいほどの一念のみ。
シスを“解いて”髪に梳き仕舞うと、大きく息を吸い込む。常に全身を廻っている、持って生まれた力を意識し、腹の底を中心に集中させた。
そして一旦喉の奥に溜め、息を吐くと同時に力の塊に指向性を持たせる。
『大気よっ、動いて!!』
魔声によって生み出された突風が火柱に向かって殺到する。そこに水霊と風精が力を上乗せさせ、火柱を揉み消さんばかりの大渦となった。
樹精と地霊は同属たちを呼び集め、大規模な結界を作り出そうとしていた。
(何て強力な力なの…)
青黒い禍炎はその勢いを失わず、むしろ自らを閉じ込めようとする暴風の渦を散らそうと更に威力を強めていた。
そもそも上位神の力に抗するなど、まともに出来ないことはわかっていたこと。それでも無謀だろうが自棄だろうが、何としてでも不浄の炎を今の範囲に閉じ込めなければならない。
(せめて神様たちが来るまでは…っ)
暴走を覚悟で更に力を放とうとする。エアを取り巻く火霊たちも、その身を大火に変えて大きく伸び上がると、乱神に向けて一斉に躍り掛かった。
「ははは、微々たる力だ」
乱神は、そんなエアたちの努力を事も無げに笑うと、人差し指を目前に掲げ、軽く振った。
パシッと軽い音を立てて、灼熱のようだった空気が変わる。
指を振った、たったそれだけ。
たったそれだけで、荒れていた周囲は嘘のように凪いでいた。
「う、そ…っ」
エアは絶望に目を見開いた。直ぐ傍には、無理やり散らされた精霊たちが力なくふらふらと漂っている。
(こんなに容易く……?)
乱神は至極穏やかに微笑んでいる。その顔は神様にそっくりだったが、目に浮かぶものはまるで逆。
エアの背筋に、止めようの無い戦慄が走る。
「では、邪魔が入らないうちに」
黄昏色の双眸を細め、乱神はエアに向かって伏せた手を差し伸べた。まるで指差すように。
(何をする気…)
瞬間、自身の足元に黒い影が拡がったかと思うとすぐさまいく筋もの帯となって放射状に伸びた。驚いて目で追うと、影は下から上へ勢いよく跳ね上がり、エアの頭上でまとまると球状の檻となった。
帯状の影に手をやりながら、閉じた頭上を呆然と見上げる。
(閉じ込められた?……ううん、それだけじゃない、この気配って)
嫌な予感と共に下を見た。
「なんで、どうしてこんなところに…っ」
直ぐ足元に、異界への穴が空いていた。どこへ繋がっているのか、エアの全く知らない気配が穴の奥から漂ってくる。
(界門……)
気付くと同時に、両足がずぶりと沈む。
“下”に向かって、底なし沼のように。
「くっ」
あっという間に体の半分以上が地表より下に沈んだ。
不味い、と身を捩って檻の隙間から外の岩や草に腕を伸ばし、なんとか掴まるも摩擦によって手が擦り切れる痛みと強烈な引力に堪らず離れてしまう。
とうとう肩まで沈み、最早成す術が無く呑み込まれる。
エアの目に、微笑みながらこちらを見下ろす乱神と、変わらず天を焦がす青黒い火柱が映る。
あまりの悔しさに、視界が滲む。
(いやだっ。このままじゃ、私の大好きな場所、何もかも燃えてしまう)
残った力で縋るように伸ばされた手は、しかし何も捕らえることはできなかった。
「私をどこへ…」
連れて行く気、という前にエアの体は完全に引きずり込まれた。
けれど、エアは見た。
地下に沈む寸前、閉じる影の隙間から眩い白の稲妻が乱神に向かって飛来するのを。
は、と息が漏れる。
(神様…。来てくださったのだわ)
今の自分の状態も忘れて、途方も無い安堵感に子供に戻ったように涙が出た。
神様が来られたのならば、あのような火など直ぐに消えるだろう。美しい森や大地も、これ以上焼かれることは無い。
聖域は守られたのだ。
じゃあ、もう大丈夫なのね、と思いながらエアの意識は闇と共に沈んだ。
乱神は、水が蒸発するように静かに消えていく影を、不満げに見下ろしていた。しばし目を細めて娘の手が消えた箇所を眺めやる。
だがそれも長く続くことはなく、ややあって気を取り直すと、半分に欠けてしまった顔のまま肩越しに背後を見た。
「やあ、やっと来たかい?親愛なるさかしまの君」
しかし手荒なことをする、と溢しながら乱神は光の靄に覆われた欠けた顔部分に手を添えた。今しがたの落雷によって消失した部分である。
「一足遅かったな。もう風穴は閉じてしまったよ。それにしても、冥の、君は帰ったのではなかったかな?」
乱神の背後には、三眼の神と冥神が佇んでいた。そして距離は置いているが、赫埜の上位眷属が彼らを油断無く取り囲んでいる。みなの瞳は一様に凍えるような真紅に染まっている。
「……我もそう思うていたが、妙なものが紛れ込んでいるようだったのでな。途中で気が変わったまでよ」
「ふうん?それにしてもお前達、散々私の悪口を言っていたろう。聞こえていたよ」
「……どういうつもりだ」
このとき押し黙っていた三眼の神が唐突に口を開いた。口調も表情も冷静そのものであったが、三眼だけは眷属たちと同じ、否、彼ら以上の、氷河のように冷たく、混じり気無しの紅に染まっていた。
乱神は残った片目を細める。
「見たままだ。あれを混ぜると面白いことになりそうだ。なあ、それにしても」
クックッ…と、乱神は肩を震わせて笑った。
「随分怒っているな。私が憎らしいか?消してもいいぞ。変化身だから意味はないが」
まあ、そもそも、この程度の欠損なら本体であっても大した傷ではないが、と言いながら乱神が靄を撫でる。すると、何事も無かったように元通りになった顔が表れた。
三眼の神は静かに目を閉じ、開いた。
「お前の好きにはさせないよ」
瞳は紫に変化し、口元に、やや好戦的とも取れる笑みが浮かぶ。
「ふん、知っている。お前達、あの一瞬で介入したな?娘の行き先がずれたぞ」
漸く乱神が口をへの字に曲げると、逆に三眼の神の笑みが一層深くなる。背後で冥神がやはりこうなるか、と呟きながら溜息をついた。
そのとき、両者の間に、ひらり、と一匹の蝶が顕れる。
銀で縁取られた、美しい白の揚羽蝶だ。
「『眠れる君』の眼が来たか」
冥神が手を差し出すと、白揚羽はゆっくりと人差し指に留まった。
乱神は目だけを動かして白揚羽を見る。対して白揚羽は、乱神の方を向いたまま、黙って羽を揺らしている。
冥神がこの蝶を目と評したとおり、機神は今この小さな蝶を通して乱神を見ているのだ。
「……流石は『終焉と再誕の繭』。勘が鋭い。もう眷族を寄越すとは」
乱神は白揚羽に目をやったまま、くすくすと笑う。
「此度の争い、はて機神は、これをどう編み直す?」
ピクリと白揚羽が羽を震わせる。
「お前も随分と出しゃばる。眠れるものは眠れるものらしく、目を閉じたまま、ただ夢を紡いでいれば良いものを」
乱神がにやりと笑んだとき、飛来した赤い稲光が乱神に直撃した。
その威力は凄まじく、白い稲光のときはあれほどの余裕を見せていた乱神の体が、一瞬で靄に変わる。
だが、乱神の密やかな笑い声は木霊のように続く。
≪見ているがいい。今度こそ、我らはあの星を手に入れる。否、それだけに留ることはないだろうよ。そして、来る弥終に、我らは勝利する……≫
靄が霧散すると声も弱まり、やがて消えた。やがて白揚羽も飛び立ち、明金の方角へ去っていく。
「…始まったな」
冥神が伺うように三眼の神を見下ろすと、三眼の神はおもむろに片手を上げた。
すると、あれ程の威勢を誇っていた火柱が、燃え上がる姿のまま凍りつく。
「…ああ」
二神の背後で、巨大な氷柱が音を立てて崩れ落ち、蒸発して消え去った。
「だが、好きにはさせぬさ」
三眼の神の瞳の先に、朱金の輝きを放つ星が映る。
次はようやく地上に戻ります。