冥神来訪
「ああ、エア。お前も来たか」
「ケゥス様」
シスを抱え奥宮に辿り着くと、同じように宴の準備を進めていた他の眷属たちが集まっていた。その腕には神様はもちろん冥神も好む、光の領域でしか採れない果実や酒類が抱えられている。ちなみに楽器を持っているのはエア一人だ。
「闇の御方は既に入られたか?」
「ああ、先ほどネイが先導していった」
「しかし驚きましたね」
皆で頷きあう。本来であればこのように何の連絡もなしに別の神が訪れるのは珍しい。
彼の神の気性からして気紛れなどとは考えられない。よほど急を要することが発生したのか。
エアの脳裏に先ほどケゥルが言った言葉が蘇った。
「みな来たか。入りなさい」
重厚な扉を開き、ネイが顔を出す。
「ネイ、闇の御方はどのような?」
「今は言えぬ。が、いずれ報せる」
断固として断り、ネイはエアたちを招きいれた。
界門の間よりもさらに大きく広い空間。高い天井を支える幾本もの太い円柱が、ぐるりと取り囲むように聳え立っている。
帳を引いたように暗い空間。その中心が、光の精によってほの明るくなっていた。
エアたちは円柱の影からしずしずと進み出ると、顔を伏せ跪く。
広間の中心は舞台のように迫り上がっており、そこに神様と冥神が居られる。
「ようこそ御出で下されました。我ら一同、心より御持て成しさせていただきます」
「よい。顔を上げよ」
了承を得、エアたちは不敬に当たらない程度に顔を上げた。
目の前には、跪くネイの背中。その向こうには淡く輝く光の膜が最上段より上の宙に絨毯のように広がっている。水のようにも波打つその上にて神々は話を進めているようだ。
上座には神様が片膝を立てて座り、背後にクージが控えている。神様の右隣には客である冥神が背あてに凭れてこちらを窺っていた。背後には彼の方の眷属の大柄な赤い猫が控え、三角形の尖った耳をピンと立てている。
「そう畏まらずとも良い。突然押しかけたのは我の方であるからな。さぞ驚かせたろう」
冥神はそういうと何も無い眼窩を細めた。
所謂、死後の世界にあたる神庭を支配する冥神の姿かたちは、エアが見てきた神の中でもトップクラスで恐ろしい。
全体的な印象は即身仏、即ち木乃伊である。角度によっては灰銀に輝く死蝋のような薄皮を被った異形の存在。
後頭の部分が異様に長く、湾曲した一対の長い角がすらりと伸びている。本来眼球が収まっているところにあるのは底知れない黒ばかりで、剥き出しの歯列は鋭く尖っている。肉の無い身体は華奢に見えるほど厚みがないものの、身長は座っている状態でも神様の倍近くあった。
昔、たまたま冥神の傍に立つ機会があったが、エアの身長は冥神の腰辺りにも届かなかったのを思い出す。
ヒトが見れば、神様と冥神という組み合わせは天使と魔王が並んでいるようにしか見えないだろう。しかし彼らはお勤め柄接する機会も多く意外と仲がいい。
冥神自身も、実は見た目と反比例した、たいそう穏やかで誠実な神である。実際エアを含め、神様の眷属たちも神様の次にこの冥神に敬意を抱いているものは少なくない。
「主様、こちらは先ほどお持ち帰られた果実を切り分けたものです」
「ああ、ありがとう。闇の。君もどうだ。星の果実とはいえ、なかなか美味だぞ」
「ほう?では貰おうか」
光沢の無い漆黒の衣装から骨と皮ばかりの手が現れ、小さな果実を器用に摘まむと、ぽいっと口の中に放り込む。
仕組みはわからないが、彼の方は食事の際、咀嚼もしなければ飲み込むこともない。
口の中で溶けてしまうのでは、とエアは勝手に思っている。
「ふむ。美味いな」
「だろう?巽を統括する祇王に進められてね。ビネルゲルの王が是非にと献上して来たのだと」
神様は言って果実を頬張る。一方冥神は眉の辺りを顰め、低く笑った。
「たしか人間の国であったな。そなたといい、そなたの眷属の祇といい…ある一定のことでは殊の外と単純な所がある。餌付けでなければよいが……ふむ」
冥神は「ビネルゲルか」と呟き、思案するようにほっそりとした長い指で顎をひと撫ですると、卓をとんとんと叩く。
「そなたの磐座のある国の一つだな。確か先民族の時代から呼名の変わらぬ…シリウス、であったか?」
シリウス。
エアの心が僅かに波打った。シスを抱える腕に力が篭る。
(確かレクォス様もシリウスがどうのと言っていた…)
シリウスは確か、ある星の呼び名ではなかっただろうか。
救済云々も満更噂ではないかもしれない。
(うー、だめだめ。考えちゃ。何かあればクージさまが報せてくださるとケゥル様も言ってたじゃない。今は演奏に集中。集中)
エアは誰にも見えないように首を振ると、改めてシスを抱えなおし、クージの無言の合図とともに神々の前に進み出た。
「そなたは…見たことがあるな」
「勿論あるさ。覚えているか?マァルの娘だ」
「ああ。マァル、マリューシェか。そうであったな。ではそなたは…ああ、エアか」
自分よりも遥か上位の神の視線が頭上に集まり、緊張に声が震えそうになる。
「はい。エアリューサと申します。お久しゅう御座います、闇の御方」
深く頭を垂れた。そんなエアに冥神は感心したように息をつく。
「これはこれは…、成長したのだな。幼き頃は我の片手に収まるほどの背丈であったものを。…生命というのは実にせわしなく、不思議なものだ」
「それが面白い所だ。と、私は思うがね。時々獣神たちが羨ましい時があるよ。彼らには僅かながらも成長するという特質があるからな」
「うむ。確かにな」
和やかな会話の背後で、エアは静かに演奏を始める。
(落ち着いて…、いつも通りに息を吸うのよ…)
すう、と息を静かに吸い込み、ネックに指を滑らせる。そして息を吐き切り、右手で素早く弦をはじいた。
温かみのある和音が生まれ、細やかな旋律が広間を満たし闇の中を自在に駆ける。
演奏するのも好きだが、歌うのも大好きだ。
エアが弦を爪弾くと、丸い共鳴胴に音が籠もり、心地よい振動が発生する。振動の波は共鳴胴に接している腹部や肋骨を伝わっていくと、肺の中で反響を繰り返し、やがて喉に到達した。
柔らかでありながら芯の通った声音が全身から迸る。
音で満たされる。まるで自分自身が楽器になったようだ。
無心で弦を掻き鳴らす。
歌うのは、エアの故郷で永く歌い継がれていた名も無き譚詩曲。
暗き時代のなか 嘆きの魂が大地を満たす
されど救いはとうの昔に打ち砕かれて 人の嘆きは増すばかり
涙が陽を消し 悲しみが月を凍らせたとき 母なる星は目を覚ます
いと高き星は言わしめた
子らよ 泣くな
わたしの欠片を与えましょう まことに平和を望むなら
再び剣を取り 戦いなさい
わたしも共にありましょう
いと高き星の恩寵により 光が再び大地を抱く
死せるものは微笑を浮かべ 生けるものは未来を誓う
かくして世界は在るべき姿に甦らん
余韻が空気を震わせ、消えゆく。光霊たちが名残惜しいと瞬いた。
「良い腕をしている」
冥神は感じ入ったようで、しきりに頷いている。エアは無言で深く頭を下げた。
お気に召されたようだ。ほっとして胸を撫で下ろす。
(よ、よかったぁ…)
途中危ないところはあったが、ノーミスで出来た。快挙である。
「ふふ、この子のシスの腕前はケゥス仕込みだし、歌声はクージですら一目置くからね」
「そなたのクージが?それは素晴らしい」
クージの厳しさは冥神の知る所でもあるようだ。
(…クージ様、よそ様の神庭でも知られるほど、厳しい方だったのね…)
エアは改めてクージの偉大さを身にしみて感じた。
その後数曲を歌い、合流したケゥルらとともに隅に下がるとエアは楽団の一人に徹した。
この距離では神々の会話の内容は聞こえてこない。
暫らくするとクージが無言で手を振り、エアたちを下がらせた。
内密な話し合いを始められるようだ。
(お勤めの話かしら)
出てきたばかりの扉を振り返る。
(シリウス、ビネルゲル、≪悪意の種≫……そして今、ネイ様が持っていかれていた…あれは剣、よね)
退室の間際、入れ違いで近付いてきたネイの手にには剣のようなものがあった。実体ではないようで、輪郭は薄ぼんやりとし、向こうがうっすらと透けて見える。
ただなんとなくだが、近寄りがたいものを感じた。それがひどく気に掛かる。
(神様…)
エアは暗く沈んだ奥宮の屋根を、少しの間無言で仰いだ。
眷属たちの退室を見届けた後、冥神はおもむろに立ち上がり、赤猫を呼んだ。
尖った耳を僅かに揺らすと、音もなく傍に寄る。
「クレス、あれをここへ」
「承知」
一つ頷くと、赤猫は空中からあるものを銜え出すと、冥神の骨ばった手に届けた。
「白の。そなたの所望していたものだ。これで良いか」
冥神の大きな手のひらにたやすく収まる、蒼水晶製の小さな小瓶。中には白い光が二つ、ぷかぷかと浮いている。
「早いな。ついこのあいだ頼んだばかりなのに。なかなか面倒な作業だったろう?」
「なに。仕事の合間の、息抜き代わりよ。普段の勤めに比べれば容易きこと。しかし残り一つはまだかかるゆえ、後日渡そう。……それにしても」
冥神は少し皮肉気に口を開いた。
「そなた前より鋭くなったな」
「…丸くなったのではなく?」
「程好く棘が出て来たと言うのだ。仕事熱心ではあったが、今までは随分と平淡であったように感じたのでな。此度はまた随分と入れ込んでいるではないか」
「ふむ。そうかね?」
「うむ。そうだ」
三眼の神はその言葉にやや困った笑みを浮かべると、冥神の手から小瓶を受け取った。
「確かに、否定はしない。クージ、例のものを」
「はい」
差し出されたのは一振りの長剣だった。先ほどまでネイの手にあり、エアが目撃したもの。
先ほどのエアの推察どおり、剣は実体ではなく陽炎のように絶えず揺らめいている。
鞘はなく、むき出しの刀身はほんのりと翠色に輝いていた。
「……影、か。確か、実物はそなたが目を掛けていたという覡に預けていたのだったかな」
よく覚えているな、と三つの目が冥神ほうにくるりと向く。
「もう頃合だ。ことが大きくなる前に下界に戻そうと思う。…影の無い剣なぞ、魔炎も恐れぬ」
三眼の神は立ち上がると、剣を垂直に持つ。
至高の天と評される双眸と夜明けの輝きを湛える額の目を刃に向け、ひたと据える。
「我が恩寵を賜いし剣よ。今ひとたび目覚めよ」
剣はその言葉に呼応するように淡く輝き出す。
「眠らせておったか」
「念のため、だ…」
今度は剣を水平に持ち替え、小瓶の蓋を片手で開ける。研ぎ澄まされた刀身の上に白い光を二つ、無造作に落とした。
「剣よ、我が命を聞け」
実体の無い剣が激しく波打つ。まるで意思を持って応えるように。
「これはお前の生まれし星の雫。受け容れ、定めを全うせよ」
白い光は刀身のあたりでゆっくりと拡がる。伸ばすように手を振っていると、刃の表面に赤い光の薄膜が五層現れる。膜は反発するかのように何度か瞬いたが、白い光はゆっくりとすり抜けていき、最終的に二つの文字の形になると刃に滲み込んでいった。
「手馴れたものだな。五乗封印を解かずして仕込むとは」
「流石に四度目ともなればな。一々解除と再封印を繰り返すほうが面倒だ。手間が省けるのならその方が良い」
剣を掲げ、様々な角度から一応の出来を確認する。相変わらず不安定な状態ではあるが、存在感は確実に増していた。
「そなたもなかなか気鬱が晴れぬな。…あれも懲りぬ奴よ」
「言うだけ無駄だな」
剣を控えていたクージに預ける。
「此度も頼むぞ。我が民が増えるは構わぬが、彼らの嘆きは身に堪える…」
「善処する。幸いシリウスにはなかなか良さそうな人材が生まれてきているのでね。なるようになろう」
「あの者も?」
「あの者も」
冥神は、矢張りそうか、と軽く頷く。
「それは良い。此度こそ決着をつけねばならぬ」
ふと、冥神は数刻前の演奏を思い出した。
この神の眷属はその主に倣い、皆一様に淡い金の髪に薄青の瞳をしている。
けれど一人だけ、異なる者が居た。
青い髪、黒い瞳の、異神の娘。
「エア……といったか」
おもむろだな、と友の三つの目が問うていた。冥神は先程の歌を挙げる。
「あの歌も確か、彼奴が関わっている時代のものであったな。確か二周半前の」
「よく覚えているな」
「そなた確か、あの星の主神で無い癖に関わっていたろう。余計な首を突っ込まさせるなと、我の処にまで苦情が来よった」
「…要らぬことも覚えている」
「それがそなたの性質なのだろうと言っている。それ故ヒトはそなたを救世の神と崇め、同属は鬼神と畏れる。金のやつめはさぞ苦労しておるのではないか?」
「…そのようなことは無い」
フッ、と冥神は笑う。
「≪白の厳霊≫とは、よく言ったものだな」
「…≪冥の番人≫よ。それは厭味か?」
三つの目がじろりと冥神を見るが、相手は低く笑うのみ。
「…ふん。鬼神呼ばわりとは。…生憎と、もとより角は無いのだがな」
少し面白くなかったようだ。三眼の神は顔を背け、杯を手に取ると一息に仰いだ。
「まあ言うな。我とても好き好んで冥神などと呼ばれておる訳ではないのだぞ?確かに冥の性質ではあるがな」
冥神は鋭い黒爪で卓をトンと叩く。
「地獄呼ばわりが一番気に入らぬ。まるであれの神庭と同一視されているようだ。忌々しいことよ」
「違いない」
互いに顔を合わせ、笑みを浮かべる。
「…あと、わかっているとは思うが、あの娘は純粋なそなたの眷属ではない。そなたの理には適わぬぞ」
「…それが?」
承知している、という返答だ。
しかし冥神が言いたいのはそういうことではない。
「聞け。あの娘、そなたをよく慕うている。が、半身が人である故なかなか不安定だ。あまり心労をかけさせぬようにせよ」
「…驚いたな。お前がそのような口を出すとは」
「ヒトの心情は同属よりも伝わりやすいのよ。それに、彼らの感情は我にとっては身近なもの。なかなかどうして。気になってしまうのだよ。人で云う親心、というものかも知れぬな」
「興味深い」
本心からそう感じたようだ。珍しく額の瞳が青さを増している。
三眼の神はふと目を伏せると、やわらかく微笑んだ。
「そうだな。あの子はいつも私を驚かせる」
そなたもよく我を驚かせるさ。と冥神は口に出さず呟いた。
(星を食い潰そうとした同族を消し炭にしたと思えば身寄りの無い母子を拾う。時々我は、そなたの気が知れぬわ…)
冥神は口には出さずに言うと、やや人間くさく首を振った。
冥神の眷属はカラカルをイメージしております。
予断ですが、みてみんのほうに冥神イメージ画像があります。参考までに。