神と人【前編】
ホォーウ、ホォーウ…
夜。不吉を運ぶといわれる大墨梟の鳴き声が、霧の奥から不気味に響く。
木々の間を疎らに漂う霧の中で、月光を反射して音も無く光るものがあった。灰色狼の瞳だ。狼は獲物を探しているのか、しきりに地面の匂いを嗅いでは耳で物音を探っている。霧に身を潜めるようにして暫らく辺りを徘徊していたが、ふと頭を上げる。
斜面の上方に向かって尖った耳をぴくんと欹てた。繊細な白毛が密生した二つの耳が、徐々に近付いてくる音を捉えていたのだ。
規則的な…足音。それも二足歩行の。
狼は一瞬躊躇いを見せたが、すぐにその場を去った。
数分後。濃度を増していく霧の間から、背の高い影が一つ、姿を現した。
ツェン=ガルと呼ばれる死火山の火口には、ミサキと言う名の国があった。
少数民族である竜族の中でも、最も人口の少ないゴンの一族、通称ミサキ竜族が創った国である。建国から数千年を経た今も、先駆者の名に恥じず更なる発展を続けている。
そんなミサキの外れ。山肌に沿って築かれた、とぐろを巻く大蛇のような長城の更に下。
鬱蒼とした木々の隙間から、のこぎり型の狭間が辛うじて見える位置に、細長い布包みを抱え、厚手の外套を身に纏った男が一人、身を潜めていた。
彫りの深い目元に理知的な黒い瞳。白髪交じりではあるが艶のある黒い髪を一筋に纏めている。何より目を惹くのは人間の成人男性の二倍近くはあろうかという見上げるほどの体躯。
男の名はシバ。ミサキ竜族である。
シバは都の方角をじっと見上げていた。
横顔は、何かを押し殺すような静けさに覆われており、外輪山越しにもはっきりと見える火炎のような都の光だけが、黒い瞳に映っている。
まるで玻璃で出来ているかのように美しく荘厳。その一方で、がらんどに成りつつある内側は酷く脆い。
(砂上の楼閣、か…)
ミサキ竜族が打ち立てた、この世の頂点と称えられ、栄華を極めたミサキ。
大神殿にて覡として勤めること凡そ百年。様々な苦悩があったが、同じくらい満たされた時期もあった。
“見子”の地位を継承する際、ミサキの暗部を目の当たりにするまでは。
(いや、それだけではない)
シバは目を閉じる。
そして燃え栄える都に、生まれ育った故郷に背を向けた。
この国と、これより決別する。
捨てるのだ。見捨てるといってもよい。これから起こり来る全てを知った上で。
瞑想に訪れた地底湖で、新たな、おそらくはミサキにおいて最期の託宣を一人で受け取った瞬間から、こうなることは決まってしまったのだ。
あの時、鏡の如き双眸に見えた。
そこに宿る苛烈なまでの神意を、戦慄すべき未来を、揺ぎ無く確定されてしまった一筋の道を。
目を開いて包みを見る。やや色褪せた、深緑の質の悪い布の包みだ。
上部を解くと、白金で絡む蔦の象嵌が施された柄頭と、上質だが古びた白革が巻かれただけの持ち手が現れた。
オロチと呼ばれる、ミサキの神器である。
太古の昔、神山の巫女達が鍛えたというこの剣は、歴史の波間に失われていく数々の神器の中で、ミサキに唯一現存する最古の遺産と目されている。
本来であれば白金の蔦の合間には三粒の瓊が嵌っているはずだが、現在は白い玉になっている。今に至るまで玉を取り出した記述など無かったはずなのだが。
この神器、訳あって盗み出してきたものであるが、持ち出すのは思いのほか容易かった。なぜかというと、別に本物があるからだ。
シバの口元に皮肉な笑みが浮ぶ。
三代前の王の指示により、保存の名目で実物は隠され、代わって似ても似つかない装飾過多の模造品が公に認知されている。
理由は単純。古びた外見が衰退を呼ぶとして忌避されたためである。
下らない人の思惑が神代の遺産を廃するなど、本来であれば言語道断であろう。けれど今回ばかりは、その点に助けられたといえる。
(次代の見子か王室の者自らが蔵の、その最奥に足を踏み入れない限り、剣の紛失に気付く者は居るまい…)
ちなみに人の手がほとんど入らないかの場所は、今では蜘蛛や蜹が跋扈する魔窟と化している。よほどの物好きでも現れない限り、早々発覚することは無いと思われた。
丁寧に布を巻きなおし、解けないように紐をきっちりと結ぶ。そして外套の頭巾を深く被った。警邏の者の目を避ける目的もあるが、あと幾つかの山を越えた先は長く深い樹海を抜けなければならない。不要な怪我により虫や獣、ましてや妖魔の注意を惹く破目に陥ることは絶対に避けたいのだ。
現にここに来るまでにも狼の足跡を発見していた。用心するに越したことは無い。
シバは長旅に耐えうる丈夫な背嚢に剣を括りつけると、それなりの重量をものともせずに一息で背負う。
一度だけ輝ける都を振り仰ぐ。
変わらず煌々と夜を焦がしている。おそらく最後の瞬間までも、そう在り続けるのだろう。
シバはもう何も思わなかった。そして真っ暗闇の中、道なき道を歩み始める。
不眠不休、丸一日かけて山を二つ越え、残照を浴びながら三つ目の山の尾根を下りに掛かったところで、やっと樹海の入り口が視界に入る。開けた正面から吹きつけてくる風は冷気を孕んでいて涼しい。
シバは滴り落ちてくる汗を拭った。息は荒く、体は休息を求めてふら付いていた。
昼間の森は騒々しく、引っ切り無しに飛び回る虫や、野鳥の鳴き声が耳に痛いほどである。
「記憶が確かであれば、樹海の入り口を少し入った辺りにも川があったはず…」
そこで一度休憩を入れるべきだろう。いくらなんでも限界であった。保存食はまだあるが、水が残り少ないのは拙い。額に溜まった汗を拭いながら思う。
出奔から丸一日。追手の影は未だ見えない。単に自分が気付かないだけなのか。それとも全ての権力を取り上げたうえ初老に差し掛かっている男など、追う価値も無いと見做したのか。
どうせならば後者であれば良い、と切に祈る。
どれほど優秀な覡であっても、今のシバの身は一般の竜族とそう変わりはない。法力は身分剥奪された際、永久封印を施されたので死ぬまで使うことは不可能だ。どんなに強力な解印を使っても、この両手首と両足首に刺青された封印を消すことは出来ない。
(剣は使えるが…、)
ズザッ
「……くっ!」
咄嗟に傍にあった幹に摑まる。硬く粗い樹皮が手袋越しに刺さり、痛みが走った。
は、と息を吐く。
思索に耽るあまり足を滑らせ、危うく滑落するところであった。斜面は急で、以前に土砂崩れでもあったのか、疎らに生える下草の間から木の残骸が棘のように突き出ている。悪路とはいえ、こんなに容易く足を滑らせるとは。
「やれやれ、歳かね」
長年鍛えていたこの身体も、とうとう焼きが回ってきたのか。この期に及んで忌々しいことだ、とシバはため息混じりに小さく笑った。
樹海に入り、程なく目当ての川に辿り着いた。木陰に面した岩場に荷を降ろし、手袋を外す。流木を避けながら流れの緩くなっている箇所に手を伸ばした。深い青みを帯びた清流は、痛いほどに冷たく心地良い。シバはまず喉を潤すと、次に水筒を満たした。きつく栓を閉めて背嚢に戻したところでようやく人心地つく。
「ふう」
又の名を巨人とも呼ばれる竜族の足をもってしても、休息無しにも拘らず下山するのに丸二日掛かった。樹海を抜けて人里に下りるまでには更に十日以上を要する。
(しかし今のこの状態では)
思った以上にこの体は鈍っていたようだ。このままでは先が思い遣られる。
日は既に殆んど落ちかけ、辺りは暗い。シバの種族は夜目が利くので焦ることこそないが、疲労の溜まった今は早めに野宿に適した場所を探すべきだろう。
いつの間にか前に垂れ下がっていた髪束を後ろに跳ね除けると、シバは剣の包みの状態を確認して素早く荷を背負いなおし、立ち上がる。
重く感じる頭を起こしたとき、項がぞわりとした。
ひゅっ
飛び退くと同時、流木に一本の矢が突き立った。先ほどまでシバの背中、おそらくは頭のあった辺りに。
驚くまでも無い、追手が現れたのだ。
矢の向きからして背後、斜面もしくは樹上から射られたか。
「くっ」
前方の大岩に着地した際、苔むした岩に右足を取られ踏み外した。瞬間、鳩尾がゾッと冷えるも、あわやという所で両手が岩の窪みを捉えた。宙に浮いた片足の下では、水が轟々と音を立てて流れている。
矢は更に降り注ぐ。そのどれもが正確を極め、こめかみや手首を掠り、背嚢に突き刺さる。背中の荷が分厚くなければ、早々に致命傷を負っていたことだろう。
このままでは格好の的になるばかりだ。シバは思い切って大岩の裏側に滑り降りることを決断する。
身を捻り、岩から手を離した途端強烈な水流が両足に襲い掛かった。
大岩の裏には水避けになる岩が無かった。どれも辛うじて水面から頭を覗かせている程度で、到底足場には使えない。下手に動けば水に攫われる。
このような荒々しい流れに巻き込まれたならば、いくら竜族といえども命は無い。
更に、追い討ちを掛けるかのように前方からも矢が飛来してきた。
(囲まれていたか…!)
懐から素早く抜き放った短刀で叩き落とすも、度重なる疲労の為に動きが鈍い。とうとう一本の矢が右腿に突き刺さった。
「ぐぅ、く…っ」
食いしばった歯が、ぎり、と軋む。
対岸に四人の姿。弓を構えた人間の男が二人。彼らの真ん中に立つのは剣を抜いた竜族の女。少し離れた背後には外套で全身を隠し、首から天晴眼を提げた竜族の男。
シバは女の顔を見て驚愕し、男の天晴眼の意匠を認めて我が目を疑った。なぜ、と。
しかし背後から岩を蹴る音が迫ったことで瞬間的な疑問は破棄せざるを得ない。
音から推測する人数は八。射手はもちろん剣士も居るに違いない。凄腕の、神殿護士団の者達が。あの天晴眼の者は四襲の見鬼だ。それくらいの手練を集めることは容易にこなす。
一方、奔騰する川の只中に居る自分は、背後の岩の他に遮蔽物は皆無。服は水に浸かってずっしりと重く、加えて激流の只中ということで素早い動きもままならない。矢も刺さったまま。出血こそ少ないが、激痛は尚も続いている。
溜まっていた汗が眉間を伝い落ちた。
とても短刀一つで覆せる状況ではない。
(万事休す、か)
シバは己の挙動が完全に後手に回ったことを悟った。
もとよりあの者は以前から自分を狙っていた。捕らえられたうえ国宝を持ち出したと知られたならば、シバを生け捕りにし嬉々として公開磔刑に持ち込むだろう。最悪なのは剣もそのまま元の場所に封じられてしまうことだ。
(駄目だ。それだけは、あってはならない…)
逆に、彼が神器の存在を知られなければ、荷を捨てる振りを装うことで剣だけは川を下ってこの地から逃れることが出来るかもしれない。
シバは、己の果たすところを正確に把握していた。
剣を持ち主たる人物に届けること。
叶わなければ、剣だけはミサキの外に出す。
シバは静かに覚悟を決め、滑るように歩み寄ってくる男を見据えた。対する男は、唯一頭巾に隠れていない口元を歪めた。
「お久しぶりですね。シバ先生」
「ユイ…真逆とは思ったが、お前が来たか」
と、そこで背後からの追手がシバに追いつき首に剣先を宛がった。
「動かないで下さい」
聞き覚えのある声。目だけ動かすと、新たに現れた追手は男が六、女は二。全て人間である。その中の何人かの顔を認めて、シバの苦しみは増した。
「先生がお逃げにならないよう、最適の人材を集めました。どうです?」
「なぜこの者達をお前が従えている」
シバは斬るように問うた。ユイは頭巾を下ろし、整った顔立ちを晒す。そしてシバの鋭い眼光に怯むことなく微笑んだ。
心底楽しいと言うように、黒い瞳が細まる。
「単純ですよ。来なさい、ヴィサ」
ユイは背後を見やると、じっと立っていた竜族の女、ヴィサを呼んだ。
「両腕を見せなさい」
剣を収めたヴィサは、ユイの前まで歩み出ると無言で袖を捲くる。
露になったヴィサの白い両手首には、鉛色の腕輪が嵌っていた。
「!なんということを…」
効力としてはシバの封印と同種、けれど意味はまるで違う。シバの封印は強者への畏怖だが、ヴィサの腕輪は格下への侮蔑。
通称、罪人の輪。一種の拘束具であり、身に着けた者に強いるのは絶対的な隷属。
見れば、他にも着けている者が居る。シバの弟子であり部下だった者たちだ。
「何故、彼らがこのような扱いを受けている」
「何故かですって?……これは異なことを」
ユイはくすくすと笑う。そして心底冷え切った目でかつての師を見遣った。
「お忘れですか?あなたが原因でしょう?それに、ここに揃えたのは彼らだけではありません。……連れて来なさい」
どこに潜んでいたのか、ユイの背後から更に二人の竜族が現れる。一方が一方の背を押し、砂利の上に倒した。後ろ手に縛られた両手に爪は無い。何本かの指がおかしな方向に曲がっており、襟元から覗く肌は青黒い。一目で拷問を受けたのだとわかった。
「アナン…!?」
倒れた男が、腫れ上がった痣だらけの顔を弱々しく上げる。
「う、ぅ…シバ、さま…、もうし訳、ありません…」
「この者達は貴方よりも前に国を出ようとしていたので、捕らえさせていただきました」
その説明で全てに合点がいった。彼らが自分に刃を向けた訳が。
脅迫したのだ。唯一の肉親である兄のアナンを人質に取られれば、ヴィサは動けなくなる。同じ要領で兄妹を盾に取り、彼等に従う者たちを服従させた。
「お解かりになったようですね。なぜこの者達に輪が着けられたのか」
ヴィサやアナン、おそらく輪を身に着けた者全員の顔がゆがんだ。
「貴方がこの国を出よと唆したからです」
「……」
「知ってはいましたが、この者はなかなか強情でね。なかなか先生の行方を話そうとしません。いっそ見せしめに首を落とそうかと思いましたが、妹君が先に折れたので助かりました」
「ユイ……ッ!!」
「動けばアナンを殺します。ヴィサでもいい。貴方に剣を突きつけるサリフでも、矢を構えるミラでもね」
ユイは氷のような無表情で宣告した。
「大人しく降伏されることです。でなければ、……お解りになりますよね」
絶対的優位者の余裕がそこにはあった。
「お前はっ!」
目も眩む怒りに一歩を踏み出そうとしたとき、シバの喉もとの刃が微かに揺れた。
「お逃げ下さい」
はっとして見ると、未だ少年の面影を残すサリフが、シバと向かい合うように剣を突きつけたまま、水音に消えないギリギリの音量で囁いた。
「我らは皆、師の追跡を命じられたときから覚悟をしていました。アナン様、ヴィサ様もご承知です」
耳を疑う言葉に、瞬時に頭が冷える。
「お前達…」
「ヴィサ様の合図が来たら、サッズさんとミラさんが道を開きます」
思わずサリフの頭越しに兄妹を見た。言葉は無くとも、彼らの黒い瞳は内に秘めた決意を雄弁に物語っていた。
輪を着けられた者は、自分より上位の者に逆らうことが出来ない。それでも逆らうというならば即座に輪の呪が彼らを拘束し、動向を監視するユイの部下が躊躇無く彼らを殺すだろう。
シバは迷った。己の命と彼らの命を天秤に掛けた。
彼らはとても優秀な兵士だ。この場でユイを裏切らなければ、恩赦を掛けられいずれ輪を外されるだろう。アナンやヴィサにしても、孤児となった経歴はあるが、元は名家の出身、同じく輪が外される可能性はある。
(私は……)
背中の剣を強く意識した。
(剣はここで流す。そしてこの身は、彼らを救う代償として差し出す。それこそが最善の選択ではないだろうか……)
ぐっと目を閉じる。
子や孫ほどにも歳若い彼らの存在に、肩紐に掛けていた手に力が籠もった。
「…ユイ、いいだろう。私は……」
ふいに、闇が落ちてきた。
同時におぞましいまでの寒気が走り、ぎょっとして目を開く。
見れば山向こうから夜が押し寄せてきていた。
日没が始まったのだ。ということは、墓荒らし(アマラ)が近くに現れたのだろうか。
一般的な妖魔の姿を思い浮かべてみたものの、どうも違和感がした。
(いや、違う…)
ぞくぞくとした感覚が更に強くなる。
この並々ならぬ気配、墓荒らしのものではない。
本能が激しく警鐘を鳴らした。すぐに逃げろと。
何かが近付いて来る。穢れに満ちた、在ってはならないもの。
次に気付いたのは、シバの警戒を間近に見たサリフだ。反射的に振り向くと、シバの視線の先を凝視した。
森に落ちる影の奥に、鬼火のような紫の光が二つ、まるで目覚めるように、ぽ…と灯った。
誰よりも森に近かったユイは気付かなかった。背を向けいていた上、大部分の注意をシバに注いでいたせいかもしれない。
そんな彼に、紫灯は急速に近づいた。
ユイは気付かない。
「!?、サリフ!何をしているっ。シバを」
「ユイッッ!!」
後ろだ、とシバが叫ぶより速く、ユイの頭は吹き飛んでいた。
「……ッ」
誰もが声を発しなかった。
否、発することが出来なかった。
首を失ったユイの体が、妖魔の歪な黒い足に踏み倒されるのを見ても。
力を失った腕が喰い千切られても……。
ユイの喉からだらだらと流れ出た鮮血が、白い河原を染める。宵闇の中、ザーと鳴り続ける清流に、パキパキという咀嚼音と生臭い血臭が混じった。
辛うじて惨状を照らし出していた陽が完全に没した時、かくして阿鼻叫喚の地獄絵図は紐解かれた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。