婚約破棄で処刑された前世を覚えてます? だから今世は「記憶を映す水鏡の回廊」の管理人になって、王家の隠蔽を全部暴かせていただきますね♪
「──罪人セシリア・オルフェン。婚約破棄と、王太子毒殺未遂の罪により、処刑とする」
首筋に、冷たい木枠がはまる。
断頭台。真昼の広場。
見物人の歓声。金髪の王太子が、隣の女を抱き寄せて笑っている。
その瞬間、頭の奥で、何かがカチリと嵌まった。
(……あ。思い出した)
前世。現代日本。公文書管理課で十年、書類とにらめっこして生きてきた、平凡なアラサーOL『真澄』。
締め切りとハンコと保存年限に追われる毎日。地味だけど、私はその仕事に、誇りを持っていた。
(そして今、私は――冤罪で殺されようとしている)
頭上で、刃が持ち上がる音。ぎち、ぎち、と滑車が軋む。
セシリアは、いや、真澄は、驚くほど冷静に状況を分析した。
(毒殺未遂? 私、王太子に毒なんて盛ってない。証拠として提出された「私直筆の毒物購入記録」……あれ、筆跡が微妙に違ってた。改ざんだ)
(婚約破棄の理由になった「浮気の手紙」も、日付がおかしかった。存在しない月に書かれてることになってた)
(つまり全部、でっち上げ)
ミレーユが、潤んだ瞳でこちらを見て、可憐に囁いた。
「ああ、可哀想なセシリア様……。でも、罪は償わなければなりませんわ。ねえ、殿下?」
アルヴィスが、鼻で笑う。
「その通りだ。地味で陰気なお前が、まさか毒を盛るとはな。せいぜい悔いながら死ぬがいい」
ふつふつと、腹の底から湧いてくるものがあった。
悲しみでも、恐怖でもない。
(……つーか私、記録の改ざんだけは絶対に許せない人間だったんですけど?)
公文書は、国民の財産だ。改ざんは、事実を殺す行為だ。それを十年、身体に叩き込んで生きてきた。
その私を、でっち上げの記録で殺す?
「証拠として提出された『私直筆の毒物購入記録』。筆跡が微妙に違ってましたよね。婚約破棄の理由になった手紙も、存在しない月に書かれていた。……つまり、全部でっち上げ」
「何をぶつぶつ言っている。もう遅い。刃を落とせ!」
「でっち上げの記録で、私を殺す……。ふざけるな。公文書は、事実は──嘘をついてはいけないのよ」
刃が、落ちた。
──暗転。
「……様。お嬢様! いかがなさいました! しっかりなさってください!」
目を開けると、見慣れた天井があった。
公爵家の、自室。天蓋付きのベッド。窓の外は、まだ春の光。
そばで、そばかすの残る若い侍女が、青ざめて覗き込んでいる。ネリー。私の侍女だ。
「……ネリー? ……首が、繋がってる」
「首? 何を仰るんですか、悪い夢でもご覧になったのでは……」
慌てて手鏡を引き寄せる。銀髪、青灰色の瞳、二十歳前後の顔。
刑場で見た「二十三歳の私」より、あきらかに若い。
「ネリー。今日は、何年の何月?」
「え……? オルフェリア暦五二一年、花月の三日ですが……」
指を折って数える。
「五二一年、花月……。処刑の、きっかり三年前。──まだ、何も奪われていない」
婚約も、名誉も、命も。
その時、右の手のひらが、熱を持った。
「お嬢様? あの、お手が……なにか、光って……!」
見たこともない紋章が、青白く浮かび上がる。水の波紋を象った、円環の紋。
頭の中に、涼やかな声が響いた。
《ギフト【水鏡の回廊】が発現しました》
《この地に刻まれた"過去の記憶"を、水面に映し出すことができます》
「《ギフト【水鏡の回廊】が発現しました》……過去の記憶を、水面に映す? ……それって、改ざんされる前の『本物』が、全部この地に残ってるってこと?」
心臓が高鳴った。前世で、喉から手が出るほど欲しかったもの。
改ざん不可能な、完全記録媒体。
「お嬢様、大丈夫ですか? お顔の色が……いえ、なんだか、いつもと違う笑い方を……」
「ネリー、そこの水差しを取って。銀の盥に注いで頂戴」
「は、はい。ただいま……。あの、何をなさるおつもりで?」
静かな水面に、右手をかざす。
「見せて。この屋敷が、覚えていることを」
水面が、さざなみを立てた。
映し出されたのは──幼い日の自分。誰にも褒められず、それでも書物を写し取る練習を、黙々と続ける、小さなセシリア。
「……! 水面に、小さな頃のお嬢様が……! 書物を写しておられる……。これは、いったい……」
「この地は、全部、覚えているのよ。誰が何を隠しても、書き換えても……全部ね」
「お嬢様……。私、よくわかりませんが……なんだか、とても心強いお顔をなさっています」
「ええ。十年ぶんの……ちょっとした昔を、思い出しただけ」
セシリアは、冷たく微笑んだ。
「では――記録屋の本気、見せて差し上げましょう」
◆
翌日、王城での「ギフト鑑定の儀」があった。
本来なら、処刑の一年前まで発現しなかったはずのギフト。三年前倒しで目覚めたのは、きっと前世の記憶ごと巻き戻った副産物だろう。
(まあいい。早いに越したことはない)
鑑定士の水晶が、手のひらの紋章を読み取る。
「ギフト名……【水鏡の回廊】。効果は……『過去の光景を水面に映す』……のみ」
鑑定士が、気の毒そうに眉を下げた。
広間に、失望のさざめきが広がる。
「なんだ、ただ映すだけか」
「戦闘にも使えん。魔物も倒せん」
「さすが地味なオルフェン嬢だ。ギフトまで地味とは」
くすくす、と嘲笑。
玉座の隣。金髪碧眼の王太子アルヴィスが、退屈そうに欠伸をした。その腕には、薄桃色の髪のミレーユが、しなだれかかっている。
「はずれギフトとは、セシリア嬢にお似合いだ。せいぜい、家の隅で古い記憶でも眺めていることだな」
広間が、どっと沸く。
セシリアは、静かに一礼した。
「ご忠告、痛み入ります。殿下」
(せいぜい古い記憶を眺める、ね。ええ、そうさせていただきますとも。あなた方の、全部の記憶をね)
馬車に戻ると、ネリーが憤慨していた。
「お嬢様! あんな言い方、あんまりです! お嬢様のギフトが地味だなんて、私、絶対に思いません!」
そばかすの顔を真っ赤にして、拳を握っている。
(そうだった。この子は、前世でも、私が孤立してた時、最後まで味方でいてくれた唯一の子だった)
「ネリー。あなた、記憶力はいい方?」
「え? ……は、はい。屋敷のことなら、大抵のことは覚えてます。どこに誰がいて、何を言ったか、とか……」
それだ。喉から手が出るほど欲しい人材だ。
「ちょうどいい。実はね、私のこのギフト。地味に見えて――たぶん、この国で一番『強い』の」
「え?」
「証拠は、嘘をつかない。書き換えられた記録も、この地は本物を覚えている。……つまり、誰が何を隠しても、私には全部視える」
ネリーが、ぽかんと口を開けた。
「これから、地味で地道な作業をたくさんお願いすることになるわ。屋敷の人の出入り、社交界の噂、消えた帳簿の話……とにかく、些細な違和感を全部、私に報告してほしいの」
ネリーは、戸惑いながらも、まっすぐにセシリアを見た。
「……よくは、わかりません。でも、お嬢様がそう仰るなら。私、お嬢様を信じます。全力で、お手伝いします」
(ありがとう。今度こそ、あなたを危ない目には遭わせない)
「では――始めましょうか。改ざんされる前の、真実の記録集めを」
◆
証拠集めの第一歩は、王城だった。
真犯人たちが動いた「現場」の記憶は、その場所に残る。ならば、水鏡を発動できる場所へ足を運ぶしかない。
(宰相が処刑記録を改ざんするのは、城の文書庫。ミレーユが毒を仕込むのは、王太子の茶会室。まずは下見ね)
セシリアは、公爵令嬢の立場を使って登城し、人気のない城の回廊を歩いていた。
──と。
回廊の隅。石柱の陰。
巨大な影が、うずくまっていた。
褐色の肌、筋骨隆々の長身。頭からは漆黒の角。腰には近衛騎士団長の剣。
竜人族。
(あれって……近衛騎士団長のガレス・ドラクロア? 『冷酷な竜』って呼ばれてる……)
そのガレスが。
「……っ、ぐ……」
しゃくり上げていた。大粒の涙を、ぼろぼろとこぼしながら。
手には、一冊の本。表紙には『忠犬モコと少年の物語』。
(え……絵本で号泣してる? あの冷酷の竜が?)
ガレスが、はっと顔を上げる。金色の竜眼が、涙に濡れて揺れていた。
数秒の、沈黙。
ガレスが、勢いよく顔を背けた。ごしごしと乱暴に目元を拭う。
「…………見て、いない」
「え」
「今のは、見ていない。目に、砂が入った」
(砂。この、屋根のある回廊で。絵本を持ちながら)
あまりにも下手な言い訳に、セシリアは前世由来の軽口が漏れそうになるのを堪えた。
「……ええ。もちろん、何も見ておりませんわ。団長閣下」
ガレスが、ぴくりと肩を震わせた。そして、ぼそりと。
「……モコが、死ぬ」
「は?」
「少年を、庇って……死ぬ。忠義の犬だ。……許せん」
(強面なのに、この破壊力……)
この人は、たぶん、嘘がつけない。心が、まっすぐすぎる。
ならば――味方になってくれるかもしれない。証拠を、物理的に守ってくれる、誠実な護衛が。
だが、それは今ではない。
「では、閣下。私も何も見ておりませんので。良い一日を」
去り際、ガレスの視線が背中に刺さるのを感じた。
(覚えておこう。あの涙もろい竜人団長。……いずれ、私の記録が、あの人の心を動かす日が来る)
その予感は、正しかった。
◆
【王太子アルヴィス視点】
王太子アルヴィスは、上機嫌だった。
茶会室のソファに深く身を沈め、ワインを揺らす。
「見たか、ミレーユ。あの地味女のギフトを。『過去を映すだけ』だとよ。ハズレもいいところだ」
隣に座るミレーユが、可憐に微笑む。
「まあ、お可哀想なセシリア様。でも、しかたありませんわ。神様が、身分にふさわしいギフトをお与えになったのですもの」
「その通りだ。あんな女、俺の隣にふさわしくない。お前のように、可愛げも従順さもない」
(あの地味女が消えれば、全て上手くいく。宰相の言う通り、適当な罪をでっち上げて、婚約破棄して処刑すればいい。オルフェン公爵家の財も手に入る)
ミレーユが、くすりと笑う。その瞳の奥で、冷たい光が一瞬だけ揺れた。
「殿下。ご安心を。証拠は、わたくしがしっかり用意いたしますわ。毒物の購入記録も、筆跡を似せて。手紙も、日付を調整して。……大丈夫。証拠なんて、残るわけないでしょう?」
ミレーユは、袖の中から小さな薬包を取り出し、指先でくるりと回した。
「本物の毒は、いずれ殿下のお身体に、ほんの少しだけ。命に関わらない程度に。それを『セシリア様の仕業』にすれば――完璧ですわ」
「はは、悪い女だ」
「殿下のためですもの」
二人は、顔を寄せて笑い合った。
──その、茶会室の。
窓辺に置かれた、飾りの水盤に。
静かな水面が、二人の姿を、一言一句、映し出していることを。
彼らは、知らない。
【セシリア視点】
公爵邸の自室。
セシリアは、盥の水面に映る「茶会室の記憶」を、じっと見つめていた。
毒物購入記録の偽造。手紙の日付調整。そして――本物の毒を、いずれアルヴィス自身に盛る計画。
すべて、水鏡に完璧に記録されている。
(「証拠なんて残るわけない」、ね)
セシリアは、羽ペンを取り、静かに書き留めた。
『花月十五日、茶会室にて。ミレーユ・ラフォンティーヌ、毒物購入記録の偽造を明言。王太子アルヴィス、これを承諾。証人:水鏡の回廊による記録映像』
いつ、誰が、何を、どうしたか。
前世で叩き込まれた、証拠チェーンの基本。
「残るのよ。全部ね」
(あなたたちが「残らない」と思って動いた、その瞬間。それこそが、一番の証拠になるの)
断罪の日まで、あと三年。いや――もっと早く、終わらせてみせる。
◆
証拠が集まれば集まるほど、私は危険になる。
(宰相もミレーユも、邪魔者は消す連中よ。前世の私みたいに、また闇に葬られたら終わり)
完全な記録には、それを守る「力」が要る。
セシリアは、下見と称して再び登城し、文書庫の前でガレスを待ち構えた。
ほどなく、巡回中のガレスが現れる。
「……オルフェン公爵令嬢。ここで、何を」
低い、地を這うような声。
「団長閣下。少しだけ、お時間をいただけますか。……お見せしたいものがあります」
セシリアは、携えてきた小さな水盤を石畳に置き、水を注いだ。
「無礼を承知で申し上げます。私は今から、この国の闇を、あなたにお見せします。──水鏡の回廊」
水面が、さざなみ立った。
映し出されたのは、宰相バルトロメウスが、深夜の文書庫で、王家の裏金に関する帳簿を書き換える現場。そして──偽聖女ミレーユが、毒物購入記録を偽造する声。
『証拠なんて、残るわけないでしょう?』
ガレスの、金色の瞳が、大きく見開かれた。
「彼らは、これから一人の令嬢に、ありもしない罪を着せます。婚約破棄と、毒殺未遂。でっち上げの証拠で、断頭台に送るのです」
「……その令嬢とは」
「私です」
沈黙。
ガレスの喉が、ごくりと動いた。
セシリアは、水面に、最後の光景を映した。
幼い日の自分。誰にも認められず、それでも黙々と書物を写し取る、小さな少女。孤独に、真面目に、正しくあろうとし続けた記録。
それが――何の罪もなく、殺される未来。
「……っ」
ガレスの巨体が、震えた。
褐色の頬を、大粒の涙が、ぼろぼろと伝い落ちる。
「ぐ……っ、う……」
「……団長閣下?」
「……許せん。こんな……こんなに、真面目に生きた者を……でっち上げで、殺すなど……ぐっ……許せん……!」
号泣、だった。
あの『冷酷な竜』が、石畳に膝をつき、拳を握りしめ、子供のように泣いていた。
(……本当に、涙もろい人)
前世からずっと、こんなふうに、まっすぐ怒ってくれる人は、いなかった。
ガレスが、涙を拭い、立ち上がった。金色の瞳が、まっすぐにセシリアを射抜く。
「……守る」
「え?」
「あなたの、その記録を。俺が、守る。……何があっても」
不器用な、けれど、岩のように揺るがない誓い。
「心強いですわ。では――よろしくお願いします。私の、護衛役さん」
こうして、記録と剣の、最強のコンビが誕生した。
◆
ミレーユの「聖女」としての名声は、日に日に高まっていた。
枯れた井戸に水を湧かせ、病人を癒やし、民衆の前で「奇跡」を起こす。
(けど、あの奇跡。全部インチキよ)
セシリアは、ネリーとドロテアの協力を得て、動き始めていた。
冒険者ギルドの奥の一室。深紅の短髪のギルドマスター、ドロテアが、腕を組んでセシリアを値踏みした。
「あんたが例の『記録屋令嬢』かい。証拠を見せてくれるって? 王家の裏金の流れを追ったって話、半信半疑だがね」
セシリアは、水盤に水を注ぎ、無言で水鏡を発動した。
映し出されたのは、宰相が裏金を特定の商会へ流す一部始終。そして、それを隠すために帳簿を改ざんする現場。日付、金額、関与した人物――すべて、鮮明に。
ドロテアの表情が、みるみる変わった。
「……こりゃ、たまげた。日付も金額も、商会の名前も全部揃ってる。改ざんできない証拠……商人の帳簿と同じだ。いや、それ以上か」
「ご理解が、早くて助かります」
「あんた、いい仕事するねぇ」
ドロテアは、にやりと笑った。
「気に入った。うちのギルドは、あんたに全面協力するよ。権威主義の貴族連中には、前から反吐が出てたんだ。実力と信用で動くのが、あたしらの流儀でね」
そして、セシリアは、次の一手を打った。
ミレーユの「奇跡」の、種明かしだ。
民衆が集う広場。ミレーユが、枯れた噴水に「聖なる力」を注ごうとしていた、まさにその時。
セシリアは、広場の中央に進み出て、大きな水盤を掲げた。
「皆さん。聖女様の奇跡を、より深く知りたくはありませんか。──この地が覚えている、"準備の光景"を」
水鏡が、発動する。
広場の水面という水面に、一斉に映し出された。
昨夜、ミレーユの下男たちが、噴水に隠し水路を仕込む光景。事前に病人役の役者を雇い、台本を渡す場面。「涙は、この薬を目に差せば出るわ」と指示するミレーユの声。
ざわ、と民衆がどよめいた。
「なっ……なんだこれは……!」
「奇跡って……仕込みだったのか?」
「聖女様が……役者を雇って……?」
ミレーユの、可憐な顔が、引きつった。
「な、なにを……! そんなの、でたらめよ! 幻術だわ! セシリア様の、汚い罠よ!」
セシリアは、静かに、しかしよく通る声で言った。
「幻術ではありません。これは、この地が実際に記憶している光景です。書き換えることも、消すこともできない、真実の記録」
一歩、前に出る。
「記録は、嘘をつきません。ミレーユ様。あなたが『残るわけない』と思ったものが、全部、ここに残っているのです」
ミレーユの顔から、血の気が引いた。
民衆の熱狂は、疑念に変わり、やがて怒りへと変わっていく。
聖女の仮面に、ひびが入った音がした。
(第一段階、完了。……さあ、次は宰相と王太子。本丸よ)
セシリアの背後で、ガレスが静かに剣の柄に手を添え、彼女を守るように立っていた。
◆
そして、その日が来た。
王家主催の、大広間。
かつて――いや、まだ来ぬ未来で、セシリアが冤罪の断罪を受けるはずだった、あの場所。
だが今日、断罪されるのは、セシリアではない。
セシリアは、公爵令嬢として、堂々と中央に進み出た。
玉座には国王。その隣に、憮然とした王太子アルヴィス。青ざめたミレーユ。そして、慇懃な笑みを崩さない宰相バルトロメウス。
「セシリア・オルフェン。貴様、聖女ミレーユを貶める幻術を使ったそうだな。この場で釈明してもらおう」
アルヴィスが、居丈高に言い放つ。
セシリアは、深く一礼した。
「釈明ではなく、証明をいたします。──皆様に、真実をご覧いただきましょう」
右手を、天にかざす。
「水鏡の回廊――開廷します」
広間の大理石の床が、水面のように波打った。
天井から吊るされたシャンデリアの光が反射し、広間全体が、巨大な鏡の回廊と化す。
そして、次々と、映し出された。
──深夜の文書庫。宰相バルトロメウスが、王家の裏金を隠すために帳簿を改ざんする姿。
──茶会室。ミレーユが「証拠なんて残るわけない」と嘲笑いながら、毒物購入記録の偽造を語る声。
──王太子アルヴィスが「あの地味女が消えれば全て上手くいく」と、でっち上げの婚約破棄と処刑を承諾する場面。
広間が、静まり返った。
やがて、貴族たちのざわめきが、津波のように広がっていく。
「宰相が……裏金を……!」
「聖女は偽者だったのか……!」
「王太子殿下が、無実の令嬢を陥れようと……!」
アルヴィスの顔が、真っ青になった。
「な……こんな、こんなものは捏造だ! 幻術だ! 信じるな!」
セシリアは、静かに首を振った。
「記録は、嘘をつきません。書き換えたつもりでも、この地は全部覚えている」
凛と、澄んだ声。怒鳴りもせず、ただ淡々と。
「あなた方が『なかったこと』にしようとした真実は、消えません。人の想いも、罪も、この水鏡が全部、覚えているのです」
宰相バルトロメウスが、初めて笑みを消した。
そして、低く、命じた。
「……衛兵。この女を捕らえよ。その水盤も、証拠とやらも、全て握りつぶせ。記録などいくらでも書き換えられる」
数人の衛兵が、動こうとする。
だが。
「──残念でした、宰相閣下」
セシリアは、微笑んだ。
「この記録、すでに複製済みです。冒険者ギルド、各領主、そして隣国にまで、同じ映像記録が配布されています。今この瞬間、この場を握りつぶしても――もう、手遅れなのですよ」
広間の扉が、開いた。
入ってきたのは、ギルドマスターのドロテア。腕を組み、不敵に笑う。
「ギルド中に配ったよ。各領主にも早馬を出した。隣国の使者も、もう写しを持ってる。──あんたの裏金、天下に晒されたねぇ、宰相さんよ」
バルトロメウスの、老獪な顔が、初めて崩れた。
「ば、馬鹿な……たかが一枚の記録を、複製など……!」
「一枚じゃない。何十枚も。──バックアップって言うんですよ」
セシリアは、静かに告げた。
「一つの真実を守るには、たくさんの写しを、たくさんの場所に。それが、私の流儀です」
宰相が、がくりと膝をついた。
「では――記録屋の本気、ご覧いただけましたか?」
◆
断罪は、あっけないほど静かに完結した。
宰相バルトロメウス・ヴェインは、裏金の隠蔽と公文書改ざん、そして無実の令嬢を陥れようとした罪で、全財産を没収の上、投獄された。
偽聖女ミレーユ・ラフォンティーヌは、聖女詐称と毒物準備の罪で、修道院の地下牢へ。民衆の熱狂は、そのまま憎悪に反転した。
そして、王太子アルヴィス・オルフェリアは、王位継承権を剥奪され、辺境の塔へ幽閉されることが決まった。
引き立てられていくアルヴィスが、ふと、セシリアを見た。
その顔からは、あの傲慢な余裕は、もう跡形もなく消えていた。
「……セシリア。なぜ、お前は……こんなに、有能だったんだ。俺は……お前の何を、見ていたんだ」
セシリアは、静かに彼を見返した。
「殿下は、私を『地味な女』としか、見ていませんでした。私が何を積み重ねてきたかも、何を大切にしていたかも、一度も」
「……本当に、必要だったのは……お前だったのに……」
アルヴィスが、崩れるように呟いた。
失ってから、気づいた。
だが、もう遅い。
セシリアは、憐れみも、勝ち誇りもせず、ただ淡々と背を向けた。
(哀れね。でも、それだけよ。あなたを憎む時間さえ、私にはもったいない)
広間を出ると、ネリーが駆け寄ってきた。目に涙を溜めている。
「お嬢様……! お嬢様は、ずっと、正しかった……!」
「ネリー。あなたのおかげよ。あなたの集めた情報が、証拠を完璧にしてくれた」
「私、なにも……ただ、お嬢様を信じただけで……」
「それが、一番、難しくて、一番、尊いことなの」
セシリアは、ネリーの頭を、そっと撫でた。
そして、国王が、セシリアに向き直った。
「セシリア・オルフェン。此度の働き、まことに天晴れであった。望みがあれば、なんなりと申すがよい。公爵位も、新たな婚約も――」
セシリアは、深く一礼して、微笑んだ。
「恐れながら、陛下。私は、公爵位も、婚約も、お断りいたします」
広間が、どよめいた。
「私が望むのは、ただ一つ。自由に、記録を管理する立場です」
凛と、まっすぐな声。
「私はもう、誰かの都合で、書き換えられたりしません。──自分の記録は、自分で書きます」
◆
断罪劇の、数日後。
セシリアは、城の外れにある、古い回廊の跡地に立っていた。
かつて、王家に不都合とされ、記録から抹消された人々。冤罪で消された者たち。隠蔽された真実。
そのすべてが眠る、忘れられた場所。
セシリアが手をかざすと、水鏡が発動し、朽ちた回廊の水たまりに、次々と光景が浮かび上がった。
──かつて、正しさゆえに罪を着せられ、名を消された役人。
──真実を告発しようとして、闇に葬られた記録係。
──そして、前世の自分。断頭台に消えた、もう一人のセシリア。
「みんな、ここにいたのね」
セシリアは、静かに呟いた。
「なかったことにされた記憶は、消えていなかった。ただ、映してくれる人を、待っていただけ」
隣に立つガレスが、また、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
「……っ、う……」
「団長、また泣いてます」
「……泣いて、いない」
「絶対泣いてますよね」
「……砂が」
「屋根、ないですけど。今度は空ですね」
ガレスが、ぐっと顔を背けた。その不器用さが、セシリアには、もうすっかり愛おしい。
セシリアは、朽ちた回廊を見渡し、宣言した。
「決めました。この場所を――『水鏡の回廊』。忘れられた者たちのための、記録館にします」
断罪の道具ではなく。
消された人々の想いを蘇らせ、真実を鎮魂する、静かな場所へ。
「記録は、誰かを裁くためだけのものじゃない。忘れないため、繰り返さないため、そして――ちゃんと、覚えているため。私の、本当の仕事は、これだったのかもしれない」
ガレスが、涙を拭って、頷いた。
「……いい、場所だ」
「でしょう?」
──その時。
水鏡の奥、いちばん深い水面が、ふいに、ぞわりと波打った。
セシリアが、映そうともしていない光景。
うっすらと浮かび上がったのは――遥か昔、王国が建国された、その時の断片。
炎。血。そして、誰かが、必死に何かを「なかったことにしよう」としている、巨大な気配。
《この地の"最古の記憶"に、封印を検知しました》
《これは――王国建国にまつわる、最大の隠蔽です》
「……なに、これ」
セシリアの背筋が、ぞくりとした。
これまでの断罪など、比較にならない。国家そのものの、根幹に関わる闇。
まだ、映しきれない。何かが、強大な力で、それを封じている。
(……面白いじゃない)
前世の真澄の、職業魂が疼いた。
未整理の、最古の未解決案件。それを、この手で暴いてみたい。
「ガレス。まだ、終わりじゃないみたい。これから先、もっと危険なものに、手を伸ばすことになるかも」
ガレスが、ゆっくりと、大きな手を差し出した。
褐色の、傷だらけの、けれど、どこまでも優しい手。
「……次も」
金色の竜眼が、まっすぐにセシリアを見つめる。
「次も、俺が護る」
セシリアは、その手を見つめ、そして、ふわりと微笑んだ。
「──ええ。よろしくお願いします」
その手を、そっと取る。
消された記録を暴く令嬢と、涙もろい竜の騎士。
二人の、新しい物語が――今、始まる。
水鏡の回廊の奥で、最古の記憶が、静かに、二人を待っていた。
(さあ。記録屋の本気、まだまだこれからよ)




