残響
本当に恐ろしいものーーそれは移り変わる人の心
「私・・・花火の音が好きなの・・・あの人のことを思い出せるから」
彼女は建物の窓から見える花火を見てそう言った。
夜空に打ち上げられた花火はカラフルな光彩を放ち、黒いキャンパスに描かれた絵のような美しさを感じさせた。
彼女の容姿も花火の美しさに負けないほどの華やかさがあった。
夜空の暗闇に溶けてしまいそうな長く黒い髪。
人形のようにしなやかで細い指。
雪のように白い肌。
同じ部屋で花火を見られるだけで、幸せに感じる者もいるのだろう。
しかし、そんな花火を見る彼女の目は哀愁に満ちていた。
そんな目をしながらも椅子に座り、花火を見続ける。
彼女が細い指で窓ガラスをなぞった。
まるで花火の閃光を窓に残すように、花火が散った後を指でなぞる。
今彼女が何を考えているのかはわからない。
だけど、一つだけわかることがある。
それは彼女は今、彼のことを思い出しているのだろうということだ。
そう――彼女を置いていってしまった、不器用な男のことを・・・
***
彼女があの男と出会ったのは幼い時だった。
彼女は海の見える港町に住んでいた。
潮風が舞い、照りつける太陽が海の水を煌めかせていた良い町だった。
都会から少し離れた街だったが、彼女は裕福な暮らしをしていた。
お屋敷のような大きな家に住み、何不自由なく暮らしている。
他人から見れば彼女の生活は幸せそのものに感じるだろう。
しかし当の本人はそんな生活に飽き飽きしているように見えた。
私よりも背が小さく幼い彼女の目は鳥籠に囚われた小鳥のように、人生を諦めているように見えた。
安全で狭い世界でしか暮らせない、刺激を奪われた人生。
そんな平坦な人生だからこそあの男に惹かれたのだろう。
「外を眺めてて何が楽しいんだ?」
ふと彼女の部屋から声がした。
声がした方向を見ると、屋敷を隔てる柵の外からボサボサの髪の少年が彼女に話しかけていた。
私は少年を止めようとしたその時――。
「楽しくなんかないわ・・・ただ眺めていたの。あの近くにあるのに手が届かない海を・・・」
「じゃあ近くに行ってみようよ一緒に・・・」
少年は純粋な笑みを向けて、彼女を外の世界へと誘った。
それを聴いた彼女の顔は嬉しさに満ち溢れていた。
自身を未知の世界へと連れていってくれる人を待ち望んでいたように。
彼女は勢いよく、部屋を飛び出して外へと走っていった。
私は彼女を止めなかった。
ここで彼女を止めてしまったら、彼女の人生を買い殺される小鳥と同等の人生にしてしまう気がしたからだ。
だが彼女に何かあれば、雇い主であるご主人様に怒られるのは私だ。
私はこっそり彼女の後をつけることにした。
汗が滝のように流れるほどの暑さの中、彼女と少年は楽しそうに海辺で遊んでいた。
まるで夏の暑さなど感じてなどいないように。
そんな二人を見て、私の選択は間違っていなかったと心の中でつぶやく。
なぜならあんなにも楽しそうに笑う彼女を始めて見たからだ。
その日から彼女と少年の秘密の遊びは続いた。
暑い夏の日も、枯れ葉が落ちる秋の日も、息が白くなる冬の日も。
少年は彼女に会いに来た。
そして春になった頃、彼女と少年の関係はご主人様にバレてしまった。
彼女はご主人様に叱られた。
彼女はご主人様に言葉で自分の考えを主張したが、ご主人様はそんな言葉を聞き入れることはなかった。
「お前はこの家を継ぐためにいるのだぞ。あんな貧乏人なんかと関わるな!!」
ご主人様のその言葉を聴こえてから、彼女の声が途絶えた。
その後の彼女はまた鳥籠の中の小鳥に戻ってしまった。
ご主人様からも私に「あの少年を近づけるな」とお言葉を受けた。
それからあの少年は屋敷に来ることはなかった。
後から聴いた話によると、ご主人様があの少年の家に圧力をかけたらしい。
再び彼女は屋敷の窓から海を眺め続けた。
あの少年との思い出が残った海を見て退屈そうに頬杖をついていた。
彼女の気持ちはわかるし、助けてあげたいが私には鳥籠を開けることはできない。
彼女が押し込められた人生の鳥籠の鍵を私は持っていなかったからだ。
それから数年が経った。
彼女は学校に通うようになり、外の世界へとようやく羽ばたく時が来た。
金持ちが通うような令嬢が入る名門の学校だったが、鳥籠の中にいた彼女にとってはそんな場所でも外の世界に触れられたことは嬉しかったのだろう。
学校から帰ってくると嬉しそうに学校での出来事を私に話してくれた。
他の令嬢から聴いた金持ち達の遊びや、自慢話。
根も歯もない噂話。
学校でのご友人の話しなどだった。
中でも関心を引いたのはこの町のヤクザの話だ。
この町に住んでいるせいか、ヤクザの話をよく学校の友人に訊かれるのだと話していた。
金持ちでもヤクザの話に興味があるのかと思ったが、もしかしたら物珍しさに話しているだけなのかもしれないと後から思った。
確かにこの町のヤクザの話は最近よく耳にする。
何でも仁義に反するからといって裏切りやミスをした部下に容赦がないことや、警察を金で黙らせ銃を所持しているなどの悪い噂を耳にする。
それが真実かどうかはわからないがこの町に住んでいるからか、それとも責任感や純粋な正義感からくるのか彼女は許せないと言っていた。
羽を毟り取られ自分では飛ぶこともできないと思っていた彼女はきちんと自分の考えを持っていたのだと私は安心した。
彼女が成長できたのも、一瞬とはいえあの少年が彼女を鳥籠の外に出してくれたおかげなのかもしれない。
学校に通うようになって数ヶ月が経ったある夏の日だった。
珍しく彼女は上機嫌な様子で帰宅した。
そして私に嬉しそうに上機嫌な理由を話してくれた。
「ねぇ覚えてる? 昔私に会いに来てくれた男の子。今日その子にあったの」
私の頭の中に少年の顔が思い浮かんだと同時に彼女が嬉しそうにしている理由を理解した。
彼女は下校途中にその男に偶然出会ったことや、男が今どういうことをしているのかを話してくれた。
男は彼女に似合う男になるように仕事をしてお金を集めているらしい。
その仕事は過酷で体に生傷が絶えないらしい。
だがそんな不器用な男のことを話す彼女の顔は今まで見たことのないほど嬉しそうな顔をしていた。
その顔はこの屋敷にいる時には一度も見たことのない顔だった、
彼女と男はその日から外でこっそり会うようになった。
ご主人様が病気を患い床に伏していたため、彼女と男が会うことを止める者はいなかった。
私も昔なら心配でこっそりついていったのだが、ご主人様の看病をせねばならないし、何より二人の時間を邪魔したくないという思いもあった。
彼女は日が暮れる前に帰ってくると、私に楽しそうに男と今日何をしたのか話してくれた。
昔のように海へといったことや、町へと出かけたこと。
この屋敷よりも海がよく見える場所を教えてくれたことなどそれは楽しそうに話した。
しかし彼は海に入ろうとせず、いつも袖の長い服を着ていため暑そうにしているらしく彼女は不思議がっていた。
私はそのことについて疑問に思ったが、彼女の楽しそうな顔を見ているとすぐに疑問はどうでもよくなった。
彼女が楽しいのならそれで良いと疑問を頭の片隅に押し込めていた。
だがその疑問は意外な形で明らかになった。
彼女が会っていたあの男はヤクザだったのだ。
町に買い物に出た時に店の主人からそのことを聴いた。
聴いた瞬間、私の身体から血の気が引いていくのを感じた。
私は買い物の途中であることを忘れ、急いで屋敷へと帰った。
いつものこの時間ならまだ屋敷にいるはず。
早くこのことを彼女に伝えなければ、あの男が彼女に何か危害を加える前に。
屋敷に帰り、彼女の部屋の前へと辿り着くとノックもせずに部屋のドアを開けた。
そこにはベッドの上でうずくまる彼女がいた。
目から涙を流し、落ち込んでいる様子だった。
私が何があったのかを訊くために口を動かそうとした瞬間――。
「あの人・・・ヤクザだったの・・・」
彼女の口から私が伝えようとしていた言葉が出てきた。
驚きのあまり目を丸くする私に彼女は言葉を紡ぎ続けた。
「あの人嘘をつくのが下手だから嘘をついていたのはわかっていたの・・・だけど私は知らないフリをしていたの」
彼女の声は今までに聴いたことのないほど暗く、低く、そして悲しさが伝わってきた。
「それで今日海に行った時に見てしまったの・・・服の下の刺青を・・・」
私は何と声をかければいいかわからず、ただ呆然と部屋の入り口に立ち尽くしていた。
「問い詰めたら私に似合う男になりたくて、ヤクザになったんだって・・・それに暮らしていくにはそれしか道がなかったって・・・」
知らなかったとはいえ彼女をあの男と引き合わせてしまったのは私だ。
私にも責任があるはずなのに、私に今できることは彼女の悲哀の詩を聴いてあげることしかできない。
「私に似合う男になるって夢を話すように言ってたのに・・・誰かを困らせてまで私は幸せになりたくないわ・・・・・・私はもうあの人と会うのはやめます」
涙を流しながら、自分の気持ちと折り合いをつけるように決断を下した彼女を私は優しく包み込んだ。
まるで我が子を抱くように――。
彼女は子供の頃ように私の胸の中で泣き続けた。
溜まっていた涙を全て吐き出すようように、一晩中泣き続けた。
それからもあの男は屋敷の前まで来たが、いつしかその姿は見えなくなった。
彼女を諦めたのか、それともヤクザの抗争に巻き込まれて死んだのかはわからない。
だが彼女の前からあの男は姿を消した。
一年後の夏が来るまでは。
七月の上旬。梅雨が終わり迎え、夏の太陽が地面に照りつける年だった。
彼女は学校の卒業を控えていた。
彼女は将来何をするのかは決まっていなかった。
その理由は彼女は今自由を手にしているからだ。
彼女父親・・・つまりご主人様は昨年の冬に亡くなられた。
奥様にも先立たれ、屋敷を継ぐ者は彼女のみとなった。
他の使用人が屋敷を辞めていく中、私は彼女の元に残った。
後ろめたさや、同情からではない。
彼女の側にいてあげたい、彼女を支えてあげたい。
その思いから私は屋敷に残り、使用人兼付き人として屋敷を管理している。
彼女はこの一年で立派に成長した。
ご主人様が亡くなった後、彼女はこの屋敷から逃げることはなかった。
上流階級の礼節を学び、ほかの財閥などとパイプを作ったり傷病者の支援などを行った。
もう縛るものは何もないのに、なぜもっと広い外の世界に羽ばたこうとしないのか私は不思議だった。
私は興味本意で自分のしたいことをもっとするべきだと彼女に話した。
すると彼女は優しい笑みを浮かべて私にこう言った。
「確かに・・・私を縛るものはもう何もありません。ここから逃げ出すことだってできる。だけど・・・私のこの立場で救えるものがあるかもしれない。幼い頃の私の心を救ってくれたあの人のように」
彼女の覚悟を聴いて納得する自分と、彼女の中にはあの男が残っていることを知った。
彼女にとってあの男はどんな形であれ、彼女を救ってくれた恩人なのだろう。
彼女の心には幼き頃のあの男がいるのだろう。
残響のように彼女の心に思い出として残り続けているのだ。
そんな折だった、話を聴いたその日は町の花火大会の日だった。
自由になった彼女は毎年花火を屋敷の窓から眺めていたが、今年は外で見たいと言っていた。
私はそれを快く了承した。
彼女を拘束するものは何もない。
なら彼女の願いを拒む理由などないのだから。
私はこの屋敷から花火を見ることにした。
理由は自分でもよくわからない――もしかしたら彼女が見ていた景色を自分の視点で見たかったのかもしれない。
もしかしたらこの屋敷から離れることに怖かったのかもしれない。
だがなんとなくだが私は花火を彼女の部屋から見てみたくなった。
黒一色に塗り尽くされたキャンパスに色彩豊かな閃光が飛び交う。
花火が打ち上がるとともに、腹に響くような音が聴こえてくる。
花火が再び打ち上がり始めた。
花火は海辺の砂浜で打ち上げているのだろう。
黒い海に花火が反射して写っている。
波の上に反射した花火は歪な形に歪んでいるように見えた。
海に反射した花火を見るためにふと下を向いた時だった。
屋敷の外の木陰に人影があった。
ボサボサの髪をして、腕には刺青がある男。
――あの男だ。
彼女が合わないと決めたあの男が再び私の前に帰ってきた。
男は花火の閃光で照らされた私の顔を確認すると、屋敷の外へと走り出した。
私は自分から遠ざかっていく男を見て安心を覚えるよりも先に、彼女の顔が浮かんできた。
あの男は屋敷に彼女がいないか確認しにきたのだ。
頭の中ですぐにそのことを理解した。
そして理解した次の瞬間にはあの男を追うように屋敷を飛び出していた。
あの男は彼女の元へと向かったのだろう。
あの男の方が彼女の居場所を知っているが、私は彼女がどこにいるのか知らない。
私は闇雲に花火が見える場所を探し走り回った。
花火の閃光が暗闇を照らし、私の声をその響き渡る音で消し去っていく。
私の声が周りに聴こえるのは、花火の音が止んだ残響音の後にしか響かない。
私はいつの間にか町中を離れ、海沿いにある高台に来ていた。
ここは花火がよく見えるし、彼女と男が遊んでいた海辺に近い。
もしかしたらこの近くにいるかもしれない。
根拠のない確信を持ちながら、私は闇雲に彼女の名を呼び探し回った。
花火の閃光が地上を照らしたその時だった。
――バンッ。
花火の音に混じって何か乾いた音が聴こえてきた。
私はその音を聴いて最悪な想像が脳裏に浮かんだ。
今のは拳銃の発砲音だ。
音のした方向へと私は無我夢中で走った。
獣道もない草木を掻き分けひたすら音の方向へと進み続ける。
そして先ほどの音の発生場所に辿り着いた時、最悪の光景が広がっていた。
虚ろな目で地面に横たわり、側頭部から赤い血を流しているあの男と、それを力無く地面に座り見つめている彼女だった。
男の手には血の指紋がべったりとついた拳銃が握られていた。
座り込んだ彼女の美しい彼女の顔と細い指には、男の血と思われる血痕が付着していた。
彼女は私のほうをゆっくりと向いた。
「彼・・・私と心中しようとしたの・・・先に待ってるって言って彼は自分の頭を拳銃で撃ち抜いたの・・・」
彼女は落ち着いたように私にあったことを説明し始めた。
それはまるで子供に物語を読み聴かせるように、ゆっくりとした口調で――。
「私は・・・彼の後を追うことができなかった・・・私は彼を想う気持ちはあるけれど、彼と一緒にはいけなかったの・・・」
彼女の表情は悲しみに包まれるでもなく、目の前で起こったことに驚愕するわけでもない。
まるで魂が抜けた抜け殻のように無表情で私を見つめていた。
私は冷たくなりつつあった彼の遺体を拳銃とともに海へと投げ捨てた。
そして彼女を屋敷に連れ帰り、彼女を休ませた。
後から聴いた話によるとあの男は仕事を失敗し、ヤクザに追われていたらしい。
恐らく彼女とともにあの世へと逃げたかったのだろう。
心から好きになった人とすら生きられない。
なんて不器用な男なのだろうか。
ヤクザにならずにもっと別の生き方をしていれば、こんな結末にはならなかったはずなのに――。
***
それから彼女は生まれ育った港町から離れ、大きな街へと移り住んだ。
あの男の思い出がある場所にいるのが辛かったのだろう。
あの後、男の遺体が引き上げられたことや発見されたなどの噂は聞かなかった。
恐らくヤクザに遺体を回収されたのだろう。
この街にはもう、彼女を知る者はいない。
彼女は本当の自由を手にすることができた。
しかし、彼女は今も悲哀に満ちた目で花火を窓から眺めている。
花火の残響音が耳に届くたびに彼女は思い出しているのだろう。
彼女の中に思い出として響き続け、そして忘れたくても忘れられないほどに後悔として残り続けるのだ。
彼女の心に残響となってこれからも彼女の胸の奥で響き続けるのだろう。
――例えそれが自らが選んだ結末だとしても。




