エピローグ:さよなら異世界、俺の青春はここで終わりらしい
あれから、三ヶ月が経った。
俺、茅ヶ崎奏は、王城の一室で、窓の外をただぼんやりと眺めていた。あの日、リューネ…いや、聖女に壁まで吹っ飛ばされて失神した俺は、全身骨折の重傷を負い、この三ヶ月間、ベッドの上で過ごすことを余儀なくされた。
神殿の最高位の治癒術師たちが毎日治療にあたってくれたおかげで、身体の傷はもうほとんど癒えている。だが、心に負った傷は、今もズキズキと痛み続けていた。
意識を取り戻した俺に、王様と大司祭が告げた事実は、あまりにも残酷だった。
リューネは、故郷に帰った。
それだけだった。どこにある故郷なのか、どうやって帰ったのか、彼らは「我々にも分からぬ」の一点張り。ただ、彼女はもう、この国にはいないのだと。
「ふざけるな…!」
俺は何度も叫んだ。王に掴みかかろうとして、まだ完全に動かない身体の激痛に顔を歪めた。
信じられなかった。信じたくなかった。
俺のプロポーズを無視し、俺に大怪我を負わせ、そして何も言わずに消える。それが、俺が愛した女性の正体だというのか。
旅の道中、俺に見せていたあの塩対応は、照れ隠しなんかじゃなかった。ただの、本気の「無関心」と「拒絶」だったのだ。俺の一目惚れも、運命の出会いだという確信も、すべては俺一人の、滑稽な勘違いだった。
魔王を倒した英雄?世界の救世主?
笑わせる。俺は結局、ピエロだっただけじゃないか。彼女の掌の上で、いいように踊らされていた、ただの道化師だ。
王様たちの話によれば、リューネには故郷に、相思相愛の幼馴染がいるらしい。
…ああ、そうか。だからか。
夜、一人で天幕を抜け出していたのも。時折、遠くを見るような、切ない目をしていたのも。俺からのプレゼントを、頑なに受け取らなかったのも。すべて、その「幼馴染」のためだったのか。
俺の存在など、彼女の心の中には、最初から一ミリたりとも存在していなかったのだ。
その事実に気づいた時、俺の中から、怒りや憎しみといった感情が、すうっと消えていった。後に残ったのは、空っぽの、どうしようもない虚しさだけだった。
「勇者様、お食事をお持ちしました」
侍女が、豪華な食事を乗せたワゴンを押して入ってくる。
魔王を倒した後、俺の扱いは、さらに丁重なものになった。最高級の部屋、最高級の食事、最高級の衣服。望めば、金も、地位も、女も、何でも手に入った。
実際に、毎日のように貴族の令嬢たちが見舞いに訪れ、俺に熱烈な秋波を送ってくる。以前の俺なら、有頂天になっていただろう。だが、今の俺には、そのすべてが色褪せて見えた。
彼女がいないこの世界で、王様になることに何の意味がある?
俺が欲しかったのは、富や名声じゃない。ただ、リューネ、その人だけだったのに。
「…下げてくれ。食欲がない」
「しかし…」
「いいから、下げろ」
俺が低い声で言うと、侍女は怯えたように頭を下げ、静かに部屋を出て行った。
一人になった部屋で、俺は再び窓の外を見る。平和になった王都。人々は笑い、活気に満ちている。
俺が、守った世界。
だが、その世界に、俺の居場所はどこにもないように感じられた。
英雄として、この世界に残る道もあった。王様は、俺が望むなら国の要職を用意するとまで言ってくれた。だが、断った。
この世界は、俺の失恋の記憶と、惨めな勘違いの思い出で満ちている。ここにいる限り、俺は永遠に、リューネに手酷くフラれた哀れな男のままだ。
もう、うんざりだった。
パーティの仲間だったフィアメッタとヴォルフラムも、時々見舞いに来てくれた。
「…あんたも、懲りたでしょ。言わんこっちゃないわよ」
フィアメッタは、呆れたように、でもどこか同情するような目で俺を見た。
「聖女様は、最初からずっと、故郷の恋人のことしか見ていなかった。あんたが入り込む隙なんて、これっぽっちもなかったのよ」
「…分かってるよ」
「…勇者様。貴殿の功績は、誰もが認めている。胸を張られよ」
ヴォルフラムは、相変わらず口数少なかったが、その言葉には不器用な優しさが滲んでいた。
二人は、気づいていたのだ。俺だけが、気づいていなかった。いや、気づこうとしなかった。自分の都合のいいように、彼女のすべてを解釈していた。なんて、愚かで、惨めなんだろう。
「…俺、元の世界に帰ることにした」
俺がそう言うと、二人は少し驚いた顔をしたが、やがて静かに頷いた。
「…そう。それがいいかもしれないわね」
「達者でな、勇者様」
短い別れの言葉。でも、それで十分だった。
彼らには、彼らの人生がある。俺がいなくても、この世界で強く生きていくだろう。
そして今日、俺はこの世界を去る。
召喚された時と同じ、城の広間。床には、今度は元の世界へ俺を送り返すための、複雑な魔法陣が描かれていた。
見送りは、王様と大司祭、そしてフィアメッタとヴォルフラムだけ。俺が、そう望んだ。
「…勇者カナデよ。貴殿のことは、我々は決して忘れぬ。この世界の平和は、貴殿の犠牲の上にあるのだと、末代まで語り継ごう」
王様が、深々と頭を下げた。
「達者でな、奏。あんたのそのポジティブシンキングも、たまには役に立つこともあったわよ。まあ、九割九分は空回りだったけど」
「…世話になった」
フィアメッタとヴォルフラムと、短い言葉を交わし、拳を軽く突き合わせる。
俺は、魔法陣の中心に立った。
「準備はよろしいかな、勇者様」
「ああ」
大司祭が、詠唱を開始する。魔法陣が、眩い光を放ち始めた。
視界が白く染まっていく中、俺は最後に、この一年間の旅を思い返していた。
リューネに一目惚れした日のこと。彼女を口説こうとしては、空回り続けた毎日。彼女の気を引きたくて、必死で戦った魔物たちとの戦闘。
すべてが、勘違いで、独りよがりだったかもしれない。
でも、本気だった。本気で彼女を好きになって、本気で彼女と結ばれたいと願っていた。
その想いは、嘘じゃなかった。
結果は、最悪だったけど。
ああ、でも。
あの最後に見せた、彼女の本当の力。
俺を虫けらのように吹き飛ばした、あの圧倒的なまでの強さ。
あれは、すごかったな。
聖女の仮面を脱ぎ捨てた、あの冷徹で、美しい、本当の彼女の姿。
今思えば、あの姿にこそ、俺は惚れるべきだったのかもしれない。
手に入らないからこそ、より一層、輝いて見える。
皮肉なものだ。
光が、俺の全身を包み込む。
さようなら、アストライア。
さようなら、俺のくだらなくて、愛おしい、勘違いだらけの青春。
さようなら、リューネ。
あんたのこと、多分、一生忘れられないよ。
どこかの空の下で、その「幼馴染」とやらと、幸せに暮らせよ。
ちくしょう。
俺は、心の中で悪態をつきながら、そっと目を閉じた。
次に目を開けた時、俺は、見慣れた高校の教室の、自分の席に座っていた。
窓の外からは、運動部の掛け声と、吹奏楽部の拙い演奏が聞こえてくる。机の上には、読みかけのラノベが開かれたままになっている。
時間は、俺が召喚される直前の、放課後のままだった。
「…夢、だったのか…?」
呟いた声は、やけに虚しく響いた。
だが、違う。これは、夢じゃない。
制服の下のシャツをめくると、腹部に、うっすらと古傷のような跡が残っていた。リューネに吹っ飛ばされた時の、名誉の(?)負傷だ。
異世界での一年間は、確かに存在したのだ。
俺は、ふっと自嘲気味な笑みを漏らした。
魔王を倒し、世界を救い、そして、大失恋をして帰ってきた。なんて壮大な物語だ。誰に話しても、信じてもらえないだろう。
「おーい、茅ヶ崎!帰んねーの?またラノベ読んでんのかよ」
クラスメイトが、呆れたように声をかけてくる。
いつもと変わらない、平凡な日常。
少し前までの俺なら、この退屈な日常にうんざりしていただろう。
でも、今は違う。
この、何も起きない平和な日常が、少しだけ愛おしく感じられた。
「…ああ、今帰る」
俺はラノベを閉じ、カバンにしまうと、席を立った。
失恋の傷は、まだ痛む。
でも、まあ、いいか。
異世界で、世界を救うなんて大それたことをやってのけたんだ。
日本で、新しい恋の一つや二つ、見つけられないわけがない。
次は、勘違いしないように、ちゃんと相手の気持ちを考えられる男になろう。
うん、そうしよう。
俺は、がらんとした教室を後にして、夕焼けに染まる廊下を歩き出した。
勇者カナデの物語は、終わった。
今日からまた、ただの高校生、茅ヶ崎奏としての、新しい日常が始まる。
それはきっと、剣も魔法もない、退屈な毎日だろう。
でも、もう一度、始めてみるのも悪くない。
そんな気がした。




