サイドストーリー:君からの手紙と、君のいない村の穏やかな一日
僕、リアンの一日は、窓から差し込む朝日で始まる。
鳥のさえずりが目覚まし代わりだ。ベッドから起き上がって大きく伸びをすると、開け放った窓から、僕たちの村、ミモザ村の匂いが流れ込んできた。土の匂い、朝露に濡れた草の匂い、そして、僕の家の庭で育てている薬草たちの、少しだけ甘くて爽やかな香り。
この、いつもと変わらない朝が、僕は大好きだ。
朝食は、昨日焼いたパンと、鶏が産んでくれたばかりの卵で作った目玉焼き。それから、裏の畑で採れた野菜のスープ。どれも、この村の恵みだ。食事が終わると、僕は水差しを持って庭に出る。カモミール、ミント、ラベンダー。色とりどりのハーブたちに、一つ一つ声をかけながら水をやる。
「おはよう。今日も元気だね」
ハーブたちは、応えるように風にそよいで、いい香りをあたりに振りまいてくれる。
この穏やかで、平和な日常。それが、僕にとっての宝物だ。
もちろん、この日常に、たった一つだけ足りないものがあることは分かっている。
彼女の存在だ。
リューネ。僕の幼馴染で、僕が世界で一番大切に想っている人。
彼女が聖女として王都に旅立ってから、もう一年以上が経つ。
最初は、寂しくて仕方がなかった。いつも隣にいた彼女がいない食卓、一人で歩く村の小道。すべてが色褪せて見えた。村のみんなも、僕のことを心配して、よく声をかけてくれた。
「リアン、寂しいだろうが、リューネは世界の希望なんだ。誇りに思わなきゃな」
「そうだよ。あの子なら、きっと大丈夫さ。あんなに優しくて、強い子なんだから」
みんなの言う通りだ。
リューネは、すごい人なんだ。僕なんかとは比べ物にならないくらい、大きくて、大切な使命を背負っている。彼女が、その類まれな聖なる力で、魔王に苦しめられている人々を救うために戦っている。それは、同じ村で育った者として、そして、彼女を愛する者として、何よりも誇らしいことだった。
だから、僕は寂しいなんて言っていられない。僕にできることは、この村で、彼女が安心して帰ってこられる場所を守り続けること。そして、彼女の無事を信じて、祈り続けることだ。
午前中は、村の畑仕事を手伝う。今日は、麦の収穫だ。村の男たちが総出で、黄金色に実った麦の穂を刈り取っていく。僕も鎌を手に、汗を流した。
一緒に作業をしているおじさんが、にこにこしながら話しかけてくる。
「リアンも、たくましくなったなあ。リューネが帰ってきたら、びっくりするんじゃないか?」
「だと、いいんですけど。僕なんて、ちっとも変わってませんよ」
「そんなことないさ。顔つきが、しっかりした男の顔になった。リューネも、きっと惚れ直すぞ」
からかうような言葉に、僕は少し顔が熱くなるのを感じた。
リューネは、僕のこと、どう思っているんだろう。幼い頃から、ずっと一緒にいたから、僕にとっては隣にいるのが当たり前の存在だった。でも、彼女が旅立って、離れてみて、初めて気づいた。僕が、どれだけ彼女を好きだったのか。
彼女も、僕と同じ気持ちでいてくれたら、嬉しいな。
収穫作業が一段落すると、今度はお昼ご飯の準備だ。女性たちが作ってくれた、大きなお鍋いっぱいのシチューと、焼きたてのパン。みんなで畑の真ん中に集まって、輪になって食べる。
誰かが冗談を言って、みんなで笑う。子供たちが、収穫の終わった畑を駆け回っている。
なんて、平和な光景だろう。
リューネは、この光景を守るために、今もどこか遠い場所で戦ってくれているんだ。そう思うと、胸が熱くなった。僕も、もっと頑張らないと。
午後は、薬草を摘みに、村の裏手にある森へ入った。
この森は、僕とリューネの遊び場だった。二人で木に登ったり、綺麗な石を探したり、かくれんぼをしたり。リュー-ネはいつも、僕の後ろをちょこちょことついてきて、僕が転ぶと、すぐに駆け寄ってきてくれた。
彼女の力は、その頃から特別だった。僕が膝を擦りむくと、彼女がその小さな手で傷に触れるだけで、痛みがすうっと引いて、傷跡もきれいに消えてしまうのだ。
村のみんなは、それを「アスクレピオ家の祝福」と呼んでいた。彼女の家系は、代々不思議な癒しの力を持っていたからだ。でも、僕は知っていた。あれは、ただの祝福なんかじゃない。彼女の、僕に対する優しくて、強い想いが起こす奇跡なんだって。
森の奥で、貴重な「月光草」を見つけた。これは、熱を下げるとても良い薬になる。慎重に根を傷つけないように掘り起こし、籠に入れた。
帰り道、ふと空を見上げる。青くて、どこまでも高い空。
リューネも、今、同じ空を見ているだろうか。
彼女は、ちゃんと食事を摂っているだろうか。夜は、ちゃんと眠れているだろうか。危険な目には、遭っていないだろうか。
考えても仕方のないことだと分かっていても、心配は尽きない。
勇者様や、他の仲間の方々が、きっと彼女を守ってくれているはずだ。僕が彼女を信じるように、彼女が選んだ仲間たちを、僕も信じよう。
村に戻ると、子供たちが僕のところに駆け寄ってきた。
「リアン!お話して!」
「リューネ姉ちゃんのお話がいい!」
子供たちは、リューネのことが大好きだ。彼女が村にいた頃は、いつも彼女の周りに集まって、甘えていた。
僕は、森の入り口にある大きな切り株に腰を下ろし、子供たちを周りに座らせる。
「じゃあ、リューネが、森の迷子の子ギツネを助けてあげた時のお話をしようか」
僕が話すのは、彼女の武勇伝なんかじゃない。彼女がどれだけ優しくて、思いやりのある人だったか、という話だ。彼女が、傷ついた小鳥を何日も看病して、元気に空へ返してあげたこと。泣いている幼い子を、優しく抱きしめて慰めてあげたこと。
子供たちは、目を輝かせながら僕の話を聞いている。
そうだ、これがリューネなんだ。彼女は、強い力を持っているけれど、決してそれをひけらかしたりしない。ただ、弱いもの、小さいもの、傷ついたものを、その大きな優しさで包み込む。それがあの子なんだ。
だから、きっと大丈夫。彼女なら、魔王だって、その優しさで諭してしまうかもしれない。なんて、そんなことを考えた。
夜。一日の仕事を終え、ランプの灯りの下で、僕は薬草の整理をする。摘んできた月光草を乾燥させるために、丁寧に紐で束ねていく。
その時だった。
机の上に置いてあった、小さな水晶の欠片が、ふわりと淡い光を放った。
「…!リューネ!」
これは、彼女が旅立つ前に、僕に渡してくれたお守りだ。彼女が聖力を込めると、こうして光って、短い間だけ、心で会話ができるんだ。
『リアン…?』
心の奥に、直接響く、懐かしい声。ああ、リューネだ。今日も、無事でいてくれたんだ。
『うん、僕だよ、リューネ。元気かい?』
『ええ、元気です。あなたのことを、想っています』
短い言葉。でも、その一言だけで、僕の心は温かいもので満たされる。
彼女が、僕のことを想ってくれている。それだけで、僕はどんなことでも乗り越えられる気がした。
『僕もだよ、リューネ。いつも、君のことを想ってる。君の無事を、毎日祈ってるからね』
『…ありがとう。もうすぐ、すべてが終わります。そうしたら、すぐにあなたの元へ帰りますから』
『うん。待ってる。ずっと、待ってるからね』
光が、すうっと消えていく。交信は、いつもあっという間に終わってしまう。
でも、それで十分だった。彼女が頑張っていること、そして、僕の元へ帰ってくることを約束してくれた。それだけで、僕は幸せだった。
「…おかえり、リューネ」
僕は、誰もいない部屋で、そう呟いてみた。彼女が帰ってきたら、なんて言って迎えようか。
「おかえり、大変だったね」だろうか。それとも、「おかえり、会いたかった」かな。
ううん、きっと、言葉なんて出てこないかもしれない。ただ、彼女を力いっぱい抱きしめてしまうかもしれないな。
そんなことを考えて、一人で顔が赤くなる。僕は、水晶をそっと握りしめ、胸に当てた。
彼女の温もりが、伝わってくるような気がした。
それから、数週間が過ぎたある夜のことだった。
その日も、僕はいつもと同じように、薬草の整理を終え、そろそろ寝ようかとベッドに向かった時だった。
何の兆候もなかった。
突然、家のドアが、ギィ、と音を立てて開いたのだ。
風で開いたのかと思った。でも、その向こうに、人影が見えた。夕闇と、家の中のランプの光に照らされて、その人影はぼんやりとしていた。
でも、僕には、それが誰なのか、一瞬で分かった。
「……リューネ?」
僕の口から、掠れた声が漏れた。
人影は、ゆっくりと一歩、家の中へと足を踏み入れる。
旅立つ前と同じ、プラチナブロンドの長い髪。大きな翠色の瞳。白い肌。
間違いなく、彼女だった。
でも、その姿は、僕の知っているリューネとは、少しだけ違って見えた。王都へ行く前よりも、少しだけ大人びて、そして、何よりも、その瞳に宿る光が、比べ物にならないくらい強く、深くなっている気がした。
「っ…!リューネ!本当に、君なのかい!?」
僕は、椅子を倒すのも構わずに、彼女の方へ駆け寄った。夢じゃない。これは、現実だ。
彼女は、僕が駆け寄ってくるのを見て、ふわりと、花が綻ぶように微笑んだ。僕が、世界で一番大好きな、彼女の笑顔。
でも、その頬には、一筋の涙が伝っていた。
「……ただいま、リアン」
その声を聞いた瞬間、僕の心のダムが決壊した。
一年以上、ずっと胸の中に溜め込んでいた、会いたいという気持ち、心配していた気持ち、愛しいという気持ち。そのすべてが、涙になって溢れ出した。
「おかえり、リューネ!本当によく、頑張ったね…!」
僕は、彼女の華奢な身体を、壊さないように、でも、力いっぱい抱きしめた。
ああ、温かい。生きている。ちゃんと、僕の腕の中にいる。
彼女の身体は、少しだけ震えていた。僕の胸に顔を埋めて、彼女も泣いているのが分かった。
もう、何も言葉はいらなかった。
ただ、こうして、お互いの存在を確かめ合えるだけで、十分だった。
世界を救う旅は、きっと、僕の想像もつかないほど、大変で、辛いものだったに違いない。
でも、彼女は、やり遂げたんだ。そして、約束通り、僕の元へ帰ってきてくれたんだ。
これからは、僕が彼女を支える番だ。彼女が背負ってきたものを、少しでも軽くしてあげたい。
もう二度と、彼女を一人にはしない。ずっと、僕が隣にいる。
「疲れただろう。さあ、こっちへ。温かいハーブティーを淹れるよ」
僕は、彼女の手を取り、暖炉のそばの椅子へと導いた。
彼女は、こくんと頷いて、素直に椅子に座る。その姿は、まるで、長い旅路を終えた小鳥のようだった。
僕は、彼女のために、心を落ち着かせる効果のあるカモミールと、リラックスできるラベンダーをブレンドする。
お湯を注ぐと、優しい香りが部屋いっぱいに広がった。
彼女が、僕の淹れたハーブティーを、静かに飲む。その横顔を、僕はただ、愛おしい気持ちで見つめていた。
僕たちの時間は、一度止まってしまったけれど、また今日から、ゆっくりと動き始める。
これからは、ずっと一緒だ。
僕の穏やかで平和な日常に、一番大切な、最後のピースが、ようやくはまったのだ。




