サイドストーリー:勇者のご機嫌と聖女の地雷、我々はどちらを優先すべきか
「…大司祭、まただ」
「はぁ…。また、でございますか、陛下」
アストライア国王レオニダス三世は、執務室の重厚な玉座に深く身を沈め、こめかみを押さえた。その手には、魔法で転送されてきたばかりの羊皮紙が握られている。勇者カナデからの、定期報告書だ。
彼の向かいには、神殿の最高位に座す大司祭ピウスが、柔和な、しかし困り果てた表情で立っている。
「報告書の半分が、聖女殿への恋文になっておるではないか!『今日のリューネ様も星のように美しく、私の心は焦がれるばかりです』…知るか、そんなこと!魔王軍の動向を報告せいと言っておるのだ!」
レオニダスは、報告書をテーブルに叩きつけた。胃のあたりがキリキリと痛む。この痛みは、魔王軍の侵攻が始まった頃からずっと続いている、いわば彼の持病のようなものだった。そして最近、その痛みの原因は、魔王軍よりもむしろ、自分たちが召喚した勇者の方に傾きつつあった。
「まあまあ、陛下。お気持ちは分かりますが、勇者殿はまだお若い。恋の一つや二つ、致し方ないことかと」
「若さで済まされる問題か!そもそも、相手が悪すぎる!」
レオニダスの脳裏に、勇者一行を送り出した日の光景が蘇る。
異世界から来たという少年、カナデは、自信に満ち溢れ、絵に描いたような英雄だった。そして、その隣に立つ聖女リューネ。代々、強大な聖力を受け継ぐアスクレピオ家の娘。その美しさは、確かに人間離れしていた。だが、それ以上にレオニダスが感じたのは、彼女の底知れない「何か」だった。
まるで、深い湖の底を覗き込むような、静かで、冷たい、翠色の瞳。あの瞳に見つめられると、王である自分ですら、背筋に冷たいものが走るのだ。
「勇者殿の功績は、計り知れませぬ。彼が前線で魔王軍を食い止めてくれているおかげで、王都は平和を保てている。ここは、勇者殿のご機見を損ねないように立ち回るのが得策かと」
「分かっておる!分かってはおるが…!大司祭、貴殿も感じておるだろう?聖女殿の、あの規格外の気配を」
ピウスは、静かに目を伏せた。彼の脳裏にも、一つの記憶が焼き付いている。
それは、リューネがまだ幼い少女だった頃、神殿にその力を報告するために訪れた日のことだ。神殿の最奥にある「神々の祭壇」。そこは、並の聖職者では近寄るだけで聖なる気に当てられて気を失うほど、清浄な力で満たされている場所。
しかし、少女だったリューネは、何の苦も無くそこへ足を踏み入れ、祭壇にそっと手を触れた。その瞬間、祭壇から天を突くほどの光の柱が立ち上り、神殿中が揺れたのだ。何百年も光を失っていた古代のアーティファクトが、一斉に輝きを取り戻した。あれは、もはや人間の聖職者の力ではない。神、あるいはそれに近しい何かの御業だった。
「…ええ。聖女様は、我々の理解を遥かに超えたお方。神の寵愛を一身に受けた、と言っても過言ではございません」
「寵愛、か。儂には、神そのものが人の形を取って、気まぐれに地上を歩いておるようにしか見えんがな」
レオニダスは、大きくため息をついた。
問題は、その「神の化身」に、世間知らずの勇者が無邪気にじゃれついているという、この絶望的な状況だ。
勇者カナデは、報告書の追伸で、必ずこう書き添えてくる。
『魔王を討伐した暁には、褒美として聖女リューネ様を私の妃にお迎えしたい。どうか、お取り計らいのほど、よろしくお願い申し上げます』
最初は若気の至りと笑って見ていたが、報告のたびにその要求は具体的かつ強引になってきている。最近では「すでに彼女の了承も得ています」などという、明らかに虚偽としか思えない記述まであった。
「どうしたものか…。勇者殿を無下にすれば、へそを曲げて魔王討伐を放棄しかねん。そうなれば、世界は終わりだ。だが、聖女殿の意思を無視して勇者殿との結婚を強いるなど…そんなことをすれば、魔王より恐ろしい事態を招くことになるやもしれん…!」
レオニダスは頭を抱えた。まさに、進むも地獄、退くも地獄。魔王という巨大な脅威と、聖女という未知の地雷。その二つの爆弾の間に挟まれ、為政者としての胃は限界を迎えつつあった。
「陛下。ここは、曖昧な態度を取り続けるしかありますまい。勇者殿には『良きに計らおう』と期待を持たせつつ、聖女様には刺激を与えないよう、静観を貫く。そして、すべてが終わった後、聖女様ご自身に判断を委ねる。我々ができるのは、それだけでございます」
「…結局は、神頼み、聖女頼みか。一国の王として、情けない限りよ」
それから数ヶ月、二人の胃痛は悪化の一途を辿った。
勇者一行は、破竹の勢いで魔王軍の幹部を次々と打ち破り、ついに魔王城へと迫っていく。その功績は素晴らしいの一言に尽きる。だが、それに比例して、勇者カナデからの「恋文」の熱量も増していく。
一方、聖女リューネからは、一度だけ短い伝言が届いた。
『魔王討伐後、速やかに故郷へ帰還する。引き留めは無用』
その文面から感じられる、鉄のような固い意志。レオニダスとピウスは、顔を見合わせるしかなかった。これは、もう説得の余地などない。
そして、運命の日。
魔王討伐の報が、王都を揺るがした。
歓喜に沸く民衆。鳴り響く祝賀の鐘。レオニダスも、心の底から安堵した。長年の悪夢が、ようやく終わったのだ。
だが、本当の悪夢は、これから始まることを、彼はまだ知らなかった。
祝勝会の夜。
王城の大広間は、熱気と興奮に包まれていた。英雄となった勇者カナデは、満場の前で、高らかに褒美を要求した。
そして、聖女リューネの前に跪き、プロポーズをした。
「…やめろ、馬鹿者…!」
玉座からその光景を見ていたレオニダスは、思わず声にならない悲鳴を上げた。隣のピウスは、青い顔で目を固く閉じ、神に祈りを捧げている。
最悪のシナリオだ。公開処刑にも等しい。
案の定、聖女は勇者を完全に無視し、背を向けた。逆上した勇者が彼女の腕を掴み、何やらスキルを発動させるのが見えた。
終わった。レオニダスは、すべてを悟った。
そして、次の瞬間。
世界が、音を失った。
聖女が、ただ腕を軽く振るっただけ。それだけで、頑強な鎧をまとった勇者の身体が、まるで木の葉のように吹き飛び、轟音と共に広間の壁に叩きつけられたのだ。
静寂。そして、阿鼻叫喚。
レオニダスは、震える足でどうにか玉座に座り続けていた。ピウスは、その場にへたり込みそうになるのを必死で堪えている。
広間の混乱をよそに、聖女リューネは静かに光の粒子となって消えていった。
まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。
数日後。王の執務室は、重苦しい沈黙に支配されていた。
勇者カナデは、神殿の最高位の治癒術師たちの総力をもってしても、全治数ヶ月の重傷だった。肉体的なダメージもさることながら、精神的なショックはそれ以上に深刻で、未だに意識が戻らないという。
「……やはり、こうなったか」
レオニダスが、ぽつりと呟いた。その声には、疲労と、そして諦観が滲んでいた。
「ええ…。我々が、最も恐れていた結末に」
ピウスも、この数日で一気に老け込んだように見えた。
「聖女殿の行方は?追跡はできたのか?」
「いえ、それが…。彼女が消えた後、いかなる探知魔法にも反応がございません。まるで、この世界から完全にその存在が消え失せたかのようです。おそらくは、あの一族に伝わるという、空間転移の秘術かと」
「そうか…。もう、我々の手の届かぬ場所へ行ってしまわれたか」
レオニダスは、どこか安堵している自分に気づいた。あの恐ろしい存在が、この国から去ってくれた。それは、為政者として、不謹慎ながらも喜ばしいことだったのかもしれない。
だが、問題は山積みだ。
「勇者殿が目覚めた時、何と説明したものか…」
「…ありのままを、お伝えするしかありますまい。聖女様は、ご自身の故郷へお帰りになった、と」
「それで、彼が納得すると思うか?世界の英雄だぞ?プライドをズタズタにされたのだ。逆上して、この国に牙を剥かないとも限らん」
「その時は…その時でございます。ですが陛下、勇者殿も、今回の件で学んだのではないでしょうか。世の中には、力や地位だけでは、どうにもならないことがあるのだと」
ピウスの言葉は、慰めにもなっていない。
レオニダスの胃痛は、魔王がいた頃よりも、さらに酷くなっていた。
「結局、我々は何だったのだ。ただ、二人の規格外の若者の間で、右往左往していただけではないか」
「…神々の物語に、少しだけ出演させていただいただけの、取るに足らない登場人物。といったところでしょうか」
自嘲気味に笑うピウス。
レオニダスは、窓の外に広がる、平和を取り戻した王都の景色を眺めた。
世界は救われた。だが、国を救ったはずの英雄は心身ともに打ちのめされ、もう一人の救世主は、その英雄を打ちのめして姿を消した。
こんな結末、誰が予想できただろうか。
「やれやれ、だ。本当に」
レオニダスの呟きは、誰に聞かれることもなく、静かな執務室に虚しく響いた。
これから始まる、傷心の勇者のご機嫌取りという、新たな苦行。それを思うと、レオニダスは再び、キリリと痛みだした胃を押さえるしかなかった。平和は訪れたはずなのに、彼の心労が晴れる日は、まだ当分先になりそうだった。




