第二話 世界平和は、すべて愛するあの人が穏やかに暮らすため
私の朝は、故郷の村を思い浮かべることから始まる。
ミモザ村。大陸の東の果て、穏やかな丘陵地帯に広がる小さな村。薬草の匂いが混じる優しい風、朝露に濡れた草原の輝き、そして、誰よりも大切な彼の笑顔。
リアン。私の幼馴染であり、私の世界のすべて。
彼が今日も健やかに、穏やかに目覚めていることを祈る。それが、私がこの異邦の地で聖女として立つ、唯一の理由だった。
「リューネ様、おはよう!今日の君も、まるで夜明けの女神のように美しいね!」
天幕の外から、けたたましいほど明るい声が聞こえる。勇者、カナデ・チガサキ。
異世界から来たという彼は、出会ったその日から、まるで呼吸をするかのように私に求愛の言葉を囁き続ける。その言葉には何の重みも、真実味も感じられない。ただ、やかましいだけだ。
「……おはようございます、勇者様」
私は短く返事をし、身支度を整える。純白のローブは、聖女という役割を私に押し付けるための記号のようなものだ。この服を着ている間、私は「リューネ・アスクレピオ」ではなく、ただの「聖女」でいなければならない。
私がこの旅に同行しているのは、世界の平和のためではない。ましてや、神の御心に従うためでもない。
すべては、リアンが暮らすあの村に、魔王軍の脅威が及ぶことのないようにするため。ただ、それだけ。私の世界は、あの小さなミモザ村で完結している。リアンが平和に暮らせるのなら、それ以外の場所がどうなろうと、本当はどうでもよかった。
「さあ、出発しよう!魔王城はもうすぐだ!リューネ様、俺の隣へ!」
馬上で勇者が手招きをする。私はそれを無視して、自分の馬に静かに跨った。隣では、魔法使いのフィアメッタが大きなあくびをし、戦士のヴォルフラムが無言で武具の点検を終えている。
勇者の騒がしささえなければ、この旅はもっと静かで快適なものだっただろう。彼の言葉は、私の耳をただ滑っていくだけだ。まるで、意味を持たない風の音のように。
「見てくれ、リューネ様!俺が昨日仕留めたグリフォンの羽だ!これで君に素敵な髪飾りを作ってあげよう!」
「……お気持ちだけ、頂戴いたします」
「そんなこと言わずに!君のためなら、俺はなんだってするのに!」
彼は本当に、私の話を聞いているのだろうか。私の拒絶を、なぜ好意的なものとして受け取れるのか、その思考回路はまったく理解できない。だが、いちいち彼の誤解を解いてやるのも面倒だった。どうせ、この旅が終われば二度と会うこともない人間だ。今はただ、魔王を討伐するという共通の目的のために、ビジネスパートナーとして当たり障りなく接する。それが最も効率的で、最も波風の立たない選択だった。
道中、幾度となく魔物との戦闘があった。
そのたびに、勇者は「俺に任せろ!」と勇ましく飛び出していく。彼の剣技は確かに素晴らしい。聖剣の力も相まって、並の魔物では相手にならない。ヴォルフラムの堅牢な守りと、フィアメッタの広範囲魔法がそれを支え、パーティとしての連携も悪くはない。
そして、私の役割は後方での治癒と支援。仲間が傷つけば聖なる光で癒し、強力な魔物には弱体化の呪法をかける。
誰もが、それが聖女の役目だと信じて疑わない。勇者も、フィアメッタも、ヴォルフラムも。王様も、大司祭も。
それでよかった。その方が、都合がいい。
本当は、違うのに。
私の力は、こんな生易しいものではない。
先日のオークキングとの戦闘。ヴォルフラムの盾が弾き飛ばされ、勇者が体勢を崩した一瞬の隙。オークキングの巨大な斧が、無防備な勇者の頭上へと振り下ろされた。フィアメッタの詠唱は間に合わない。誰もが死を覚悟した、その刹那。
「――静止せよ」
私は誰にも聞こえないほどの声で、そう命じた。
私の指先から放たれた不可視の聖力が、オークキングの動きを完全に縫い止める。まるで時が止まったかのように、振り下ろされた斧は空中でぴたりと静止した。
その隙に、勇者は体勢を立て直し、驚きながらも渾身の一撃を叩き込む。巨体が崩れ落ち、戦闘は終わった。
「危なかった…!何だ、今の一瞬、あいつの動きが止まったような…?」
「さあな。怯んだだけじゃないのか?ともかく、助かったぜ、勇者様」
ヴォルフラムがそう言い、勇者は「まあ、俺にかかればこんなもんだけどな!」と胸を張る。誰も、私の仕業だとは気づかない。
それでいい。勇者を「勇者」として立て、英雄として祭り上げておけば、面倒なことはすべて彼が引き受けてくれる。私はただ、彼の背後で静かに、確実に、障害を排除していくだけ。すべては、一刻も早くリアンの元へ帰るための布石に過ぎない。
夜、皆が寝静まった頃。私は一人、天幕を抜け出した。
月明かりが、森を静かに照らしている。懐から、小さな水晶の欠片を取り出す。これは、故郷を発つときにリアンがくれたお守りだ。私が聖力を込めれば、ほんのわずかな間だけ、彼と意思を繋ぐことができる。
「……リアン」
そっと水晶に聖力を注ぎ込み、意識を集中させる。
瞼の裏に、懐かしい彼の姿がぼんやりと浮かび上がった。ランプの灯りの下で、薬草の図鑑を読んでいるのだろうか。穏やかで、優しい、私の愛する人。
『……リューネ?』
微かな、だが確かに彼の声が心に響く。ああ、今日も元気でいてくれた。それだけで、張り詰めていた心が安らぎで満たされていく。
『元気でいますか。怪我はしていませんか』
『うん、僕は大丈夫だよ。君こそ、大変だろう。無理はしないでね』
『大丈夫。もうすぐ、すべてが終わります。そうしたら、すぐにあなたの元へ帰りますから』
『うん、信じてる。ずっと、待ってるからね』
短い交信。それ以上続けると、こちらの居場所が魔王軍に探知される危険がある。私は名残惜しさを振り切るように、そっと意識を閉じた。
水晶を握りしめ、胸に当てる。リアンの温もりが伝わってくるようだった。
待っていて、リアン。必ず、帰るから。この手であなたの平和を掴み取って、あなたの隣へ帰るから。
勇者が私に贈ろうとした、高価な装飾品も、英雄の妻という地位も、私には何の価値もない。私の欲しいものは、昔からたった一つだけ。リアンと共にミモザ村で過ごす、穏やかな毎日。それだけなのだ。
王都を発つ前、王や大司祭からも、それとなく言われた。
「勇者様は、貴女に大変なご好意を寄せておられるようだ」「世界の英雄と結ばれることは、聖女としてこれ以上ない誉れであろう」
彼らは、私がこの縁談を喜んで受け入れるとでも思っているのだろうか。愚かなことだ。
私の心は、とうの昔にリアンだけのもの。他の誰かが入り込む隙間など、一ミリたりとも存在しない。
もし、彼らが魔王討伐後、私に勇者との結婚を強制しようとするならば。その時は――。
そこまで考えて、私は思考を打ち切った。今はまだ、その時ではない。
旅は続き、ついに魔王城が目前に迫った。
禍々しい瘴気を放つ、漆黒の城。その威容に、フィアメッタが息を呑み、ヴォルフラムが盾を握り直す。勇者だけは、相変わらず自信満々だった。
「いよいよだな、リューネ様!見ててくれ、俺が魔王をぶっ飛ばして、君を世界一の幸せ者にしてやる!」
「……ええ。期待しています、勇者様」
私は、初めて彼の言葉に肯定的な響きを乗せて返した。
その言葉の真意に、彼が気づくことはないだろう。
私が期待しているのは、彼が「勇者」という役目を立派に果たし、私が故郷へ帰るための大義名分となってくれること。ただ、それだけ。
さあ、始めよう。最後の仕事を。
愛しいリアンが待つ、私の世界に帰るための、最後の戦いを。
城門を突破し、城内へと突入する。無数の上級悪魔が、私達の前に立ちはだかった。
「来るぞ!フィアメッタ、援護を!」
「言われなくても!」
炎と氷の嵐が吹き荒れ、ヴォルフラムの斧が唸りを上げる。勇者の聖剣が閃光を放ち、悪魔たちを切り裂いていく。
私は後方で、的確に治癒の光を飛ばしながら、戦況を冷静に分析していた。
一体、強いのがいる。将軍クラスの悪魔だ。勇者とヴォルフラムの二人掛かりでも、押し込まれている。
「くそっ、硬い上に速い…!」
勇者が悪魔の爪を聖剣で受け止め、火花を散らす。その隙に、別の悪魔が死角からフィアメッタに迫る。
「フィアメッタ、後ろ!」
ヴォルフラムが叫ぶが、間に合わない。
仕方ない。私は小さく息をつき、ローブの袖に隠した指先を、そっとその悪魔に向けた。
「――塵芥と化せ」
聖句を紡ぐ。それは治癒の言葉ではない。存在そのものを抹消する、浄化の言霊。
フィアメッタに迫っていた悪魔が、何の兆候もなく、悲鳴を上げる間もなく、光の粒子となって霧散した。
「え…?消えた…?」
フィアメッタが驚きの声を上げるが、今は誰もその原因を追究する余裕はない。
私は再び「聖女の仮面」を被り直し、苦戦する勇者たちに加護の魔法をかける。
「勇者様、ヴォルフラム。聖なる守りをお与えします」
光のヴェールが二人を包み、悪魔の攻撃を弾き返す。その一瞬の隙を突き、勇者の聖剣が悪魔の心臓を貫いた。
最後の障害を乗り越え、私達はついに魔王の玉座へと辿り着く。
そこに鎮座していたのは、絶望を体現したかのような、巨大な異形の王。
「よくぞ来たな、勇者一行よ。だが、ここまでだ」
魔王が放つ威圧感だけで、空気が震える。
これが、リアンの平和を脅かす元凶。
ならば、消すだけだ。
「いくぞ、みんな!」
勇者の号令を合図に、最後の戦いの火蓋が切って落とされた。
私は静かに目を閉じ、意識の奥底に眠らせていた本当の力を、ゆっくりと解放し始める。
この力のすべては、ただ一人の愛する人のために。
もうすぐ会える。リアン。私の、たった一人の愛しい人。
その想いだけが、私をこの戦場に繋ぎ止める、唯一の鎖だった。




