第六話 不気味な手招
「そ、それで…わ、私たちは…な、何をすれば…?」
図書館に着くと、桜がそわそわした様子で流雨に問いを投げかけた。
「ああ、えっとまず…あそこの語学系の本のコーナーからラテン語の資料を持ってきてほしいのと…」
流雨は椅子に腰を下ろし、例の本を机に置き、指先で軽く叩きながら言葉を続ける。
「できれば、瞬間移動や炎を出現させる力に関する本も持ってきてほしい。探せる範囲で構わない」
「あー、稲荷対策ですか?」
「それもあるが、奴の能力のトリックも今のうちにある程度暴いておきたい。同じような力を使う敵が仮に出てきたときに、何もできないと嫌だしな」
藍葉が「分かりました」と即答し、桜と共に語学書コーナーへと足を運ぶ。
並ぶ背表紙を目で追い、ラテン語関係の資料を探す。
「ラテン語、ラテン語…あった!」
藍葉が素早く目当ての本を引き抜き、好奇心に駆られてパラパラとめくる。しかし、複雑な記号のような文章に、彼の眉間にはすぐ深い皺が寄った。
「雨宮さん」
「ひゃっ!な、なに…?」
「流雨さんって、イタリア語とかフランス語とか齧ってるって、いったいどんな人なんです?頭が物凄くいい人ってのは分るんですけど」
「あー…え、えっとね…?せ、説明むず…難しいなぁ…」
桜は小首を傾げて考え込む。そしてふと思い出したように口を開いた。
「あ…り、流雨君…他の隊員から、こ…こう言われてるの、見たこと…あ、あるよ…?」
「どう言われてたんですか?」
「え、えっと——」
『歩く百科事典』
その異名を聞き、藍葉は無意識に流雨の方へ視線を向ける。
そこでは資料も何も参照せず、ノートを広げて黙々と解読に没頭する流雨の姿があった。ペン先は迷うことなく走り続け、まるで彼の脳が直接紙へと言葉を書き写しているかのようだ。
二人がラテン語の資料を机に置いても、流雨は一切気づく気配を見せない。その集中力は尋常ではなく、周囲の雑音など一切耳に入っていないかのようだ。
「ラテン語は屈折語……語尾変化によって主語や目的語が決まる。イタリア語やフランス語に比べて、語順の自由度が高い……名詞は格変化、動詞は人称と時制ごとに語形が変化する。つまり、この記述に頻発する特殊語尾は……通常のラテン文法では説明できない。おそらく造語か、儀式的なコードだな……」
低く呟かれる独り言に、藍葉は思わず息を呑んだ。ただの独学者ではない。語学の体系を丸ごと呑み込み、自分の頭の中で即座に比較・解析している。
「凄い……!」
その感嘆の声で、ようやく流雨は顔を上げた
「ああ、すまん。資料、ありがとう」
「お言葉ですが、流雨さん」
「ん?」
「資料要ります?」
藍葉は、彼のノートにびっしりと書かれた文字列を指差した。まるで研究者の論文の草稿のような量と密度だった。流雨は小さく笑みを浮かべ、首を横に振る。
「いや、これは俺の考察でしかない。独自に導いた推測が正しいかどうかは、資料と突き合わせて初めて分かるだろ?だから、資料は必要なんだ」
そう言うと再び資料を開き、書き写した文と照らし合わせていく。瞳は紙面に釘付けで、ペンの音だけが静かな図書館に響いた。桜はその集中を乱すまいと、藍葉の袖を引いた。
「の、能力の本探そう…?」
「そうですね」
二人は能力関連の本を探しに別の棚へと移動する。そのコーナーはどうやらオカルト本コーナーのようで、背表紙には「オカルト」「心霊現象」「超心理学」など雑多な文字が書かれた本が並び、まるで半信半疑の知識を寄せ集めたような雰囲気が漂っている。
「と言っても、具体的にどんな本がいいのか分からないですね」
「…そ、そうだね……ま、漫画とかでも…い、いいのかな…?」
桜は緊張を誤魔化すように、手当たり次第に本を引き抜き、中身を確かめる。だが内容は民俗学の解説や奇譚の記録ばかりで、実用性があるとは思えなかった。
一方、藍葉の目が一冊の本に止まる。
「…超能力……?」
彼が思わず呟くと、桜が振り向く。
「…ん…?ど、どうした、の…?」
「あ、いや。これ、まさに目的の物じゃないですか?」
藍葉が指差したのは「超能力図鑑」と書かれた背表紙だった。しかし手に取ると、その厚さは一センチにも満たない。図鑑とは名ばかりで、薄っぺらな小冊子のようだ。
「も、持っていこうか…?」
「そうですね。持っていきましょう」
二人は小さな本を抱え、流雨のもとへ戻った。
彼はラテン語の資料を広げたまま、机に突っ伏すように項垂れていた。額に滲んだ汗が、極度の集中と疲労を物語っている。
「あの大丈夫ですか?」
「ん?ああ、平気平気」
顔を上げた流雨は苦笑しながら散らかった机を片付ける。
「これ、言われた物です」
「お!助かるよ。でも、今ちょっと翻訳パートに入ってるから二人で先に見ておいてくれない?」
「あ、分かりました(ん?翻訳パート?普通、"言語理解から"翻訳に移るよな…?見て移すのを繰り返すのも出来るけど、そんな非効率的な事この人がするわけもないし…え、もうこの人、他言語を理解し終えたの?早くない?)」
心中で流雨の異常な理解の速度に驚きつつ、藍葉は本を広げ桜と共に中を見始める。
ページをめくると、そこには様々な超能力が見開きごとに記されていた。精緻な挿絵と簡潔な解説文。しかしどれも学術的というよりは「信じる者向け」といった体裁だった。
[瞬間移動/Teleportation]
自分自身を離れた空間へ移動させることのできる能力。
空間認知能力と物体を移動する能力を掛け合わせることで実現する。
使用する者はテレポーターと呼ばれ、卓越した技術と才能を持つ者だけがこの力を扱える。
「んー、あんまり情報はないですね」
「で、でも…こ、これ、二つの能力の掛け合わせって、か、書いてるから…あの人も必然的に、持ってることに…な、ならない…?」
「確かに…そうですね」
藍葉の表情が一瞬引き締まる。今まで「稲荷の能力=単独で完結する能力」と思っていたが、二つを組み合わせている可能性がある。もしそうなら、単純な対策は通用しない。
再びページを捲る。そこに目を奪う記述があった。
[発火能力/Pyrokinesis]
火を発生させることのできる能力。
制御が非常に難しく未熟な者は、誤って発生させたり、自分自身を燃やしてしまうこともある。
使用には卓越した技術が必要である。
叉、この能力の派生として、電気を操ることのできるエレクトロキネシスや、氷や冷気を操るクリオキネシスなどの超能力も存在する。
「これも説明だけで、具体的にどう使用するとか対策はどうとかはやっぱり書いてないですね」
「そ、そうだね…残念…」
桜が肩を落とし、藍葉も唇を尖らせた。期待外れ感は否めない。二人は本を閉じ、視線を流雨に戻す。
彼の手元では、ラテン語の文章が次々と日本語へと変換され、ノートへ書き写されていく。だがその内容は簡単な祈祷や呪文ではなく、固有名詞や意味不明な造語の羅列ばかりだった。
時は流れ、数時間が経過する。
「できた……できたぞ!」
ペンを置いた流雨が歓喜に満ちた声を上げた。顔は疲労で蒼白だが、瞳は強い光を放っている。
「お疲れ様です」
「ああ。よし、じゃあ内容を確認しよう」
「え?内容を確認しながら、翻訳したんじゃないんですか?」
「いや、それがな…?」
流雨はノートを彼らの前に差し出した。そこには膨大なラテン文字が整然と並んでいる。
「この本、異常に固有名詞が多い上に、辞書にも辞典にもない意味不明な言葉の羅列ばかり書いてあるせいで、完璧に内容が理解できる部分がほぼなくてな」
「え、これ…」
「た、確かに、よ、読めない…です…」
「だよな。数時間待ってもらってこれだから情けねぇ…」
「べ、別に…気にして、ないです…よ」
「そうか。ありがとう。収穫はあんまなかったが、ないってことが分かっただけまだいいかな。一旦戻ろう」
流雨は立ち上がり、桜もその後に続いた。しかし、藍葉だけはその場に立ち尽くす。彼は考え込むように宙に視線を漂わせていた。
「あ、藍葉…君?」
「あ!すみません」
「だ、大丈夫…?」
「大丈夫です!ちょっと考え事してただけなので」
「そ、そっか…」
桜に促され、慌てて二人を追いかける藍葉。
だが彼の胸中には、どうしても消えない疑問が残っていた。
(なんで二人は“読めない”なんて言ったんだ?――綺麗に翻訳できていたのに)