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SOL REGALIA  作者: angou
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第十話 疾駆ける駿馬

 胡桃に吹き飛ばされた椿は、地面を転がりながらも必死に受け身を取り、土煙を巻き上げながら立ち上がった。その身体に容赦なく迫る胡桃の足音――アスファルトを踏みしめる音がやけに近く、鋭い刃のように響く。


「急に蹴り飛ばしてくるなんて……いつからそんなに暴力的になったの」

「さあ?いつからだろう?」


 ニヤリと笑い、胡桃はわざとらしく首を傾げた。背後から差す光が彼女の輪郭を縁取り、笑みの奥に潜む狂気を際立たせる。


「でも、そんなことは今はどうでもいいの。私は稲荷様の指示に従うだけ♡だから、椿――貴女には悪いけど、そこに倒れてもらうよ♪」

「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」


 互いの眼光が激しくぶつかり合う。刹那、地を蹴る音と共に砂塵が爆ぜ、視界を覆った。


駿馬しゅんめッ!』

舞姫まいひめ!!』


 轟音。二人の脚技が空気を裂き、火花のように衝突する。大地が軋み、圧力波が路地に響き渡る。押し合い。筋肉と筋肉、意思と意思のぶつかり合い。その均衡を破ったのは椿だった。


「……はぁッ!!」


 膝から伝わる衝撃を利用し、椿が胡桃を後方へと吹き飛ばす。だが止まらない。椿は畳み掛けるように駆け、胡桃が立ち上がる隙を与えず連撃を浴びせた。


「…くっ!!」


 胡桃は歯を食いしばりながら防御に徹し、瞳の奥で僅かな綻びを待ち続ける。やがて椿の攻撃が一瞬途切れた、その刹那。


「今っ!」


 胡桃はするりと間合いを抜け、暗い路地へと飛び込む。


「逃がすかッ!」


 椿が追いすがる。しかし――


(速い…!楓ほどじゃないけど、あのスピードに追い付くのは困難!追いつくなら工夫しないと…)


 追跡する椿の目に、胡桃が裏路地へと滑り込む姿が映る。


「どこに行く気だよっ!」


 舌打ちしながら後を追う椿。だが、入り組んだ路地は迷路のようで、胡桃の姿はあっという間に消えた。息を荒くし、周囲を警戒する椿。その背後から――


天馬てんば!』


 突如、背筋を叩き割るような衝撃が走る。


「ぐあっ!」


 肺から空気が絞り出され、身体が正面に吹き飛ばされ壁へと叩きつけられる。石壁に亀裂が走り、鈍い音が空気を震わせた。


「油断したでしょ?“油断しちゃダメ”って、教わらなかった?」

「…ははっ。これは油断じゃなくて……胡桃があまりに弱っちいから、ハンデをあげただけだし」

「強がりもそこまで行くと、逆に面白いね」


 椿は唇を切り、血と唾を吐き捨てる。


「さ、続けよ」


 胡桃は愉快そうに目を細めると、無言で再び構えた。暗い路地に二人の影がぶつかり合う。だが、先程と違いここは狭い。障害物が多く、光もほとんど届かない。胡桃は壁を蹴り、瓦礫を投げ、宙を舞う。目くらましと奇襲を織り交ぜた、トリッキーな動き。


「あーもうめんどくさい戦い方するなぁ!」


 椿は翻弄され、攻め手を欠く。


(つっても、アタシがさっきの胡桃みたいに、空き地まで逃げ切るのは無理!追いつかれるか、そうじゃなくても、後ろから攻撃を喰らうのが目に見えてる…どうすれば…!)


 焦燥が胸に広がる。だが胡桃は容赦なく攻撃を繰り返す。


「さっきの強がりはどうしたのかなぁ!?」

「そっちが卑怯な戦い方するのが悪いのっ!!」


 そんな攻防が暫く続き、連撃に押され、椿は肩で息をするほど体力を奪われていた。対照的に胡桃の笑みは余裕そのものだった。やがて、胡桃の蹴りが椿の腹を打ち据え、彼女は防御もできずに転がった。


「ねぇ、どんな気持ち?」


 胡桃は椿の頭を踏みつけ、執拗に蹴り上げる。


「ねぇ!どんな気持ちって聞いてんのっ!!」

「…か、ッ——は…ぁっ!」


 肺から絞り出される苦鳴。骨に響く痛み。


「さっさと諦めなさいよ!」

「…う、ぐっ……」


 ゴンッ


「なんで何度も立とうとするの?!意味わかんない!」

「…がっは……ぁっ」


 ガンッ


「《《前》》みたいに…諦め——」


 次の一撃は届かなかった。

 椿が脚を掴み、睨み返していた。


「……《《前》》の話はもうしないって……言った、よね…?もう、思い出したくないって…何度も何度も、言ったよね?」

「―ッ!そ、それがなに!今私たちは敵同士なんだよ!そんな甘いこと言ってる暇あるの!?」

「…胡桃」


 椿の声は優しかった。懐かしさ、寂しさ、そして哀しみを含んだ声音。


「アタシさ……今は敵でも、胡桃のこと嫌いじゃないよ……?もう、あの話はやめよ。胡桃だって辛いでしょ?アタシには分かるよ……」

「…分かる?」


 胡桃の顔が歪む。怒りと悔しさが混ざり、声が震える。


「何が分かるだ!!!私じゃなくて、あの子を選んだ貴女には一生私のことなんて分かりっこないの!!」


 その叫びと共に、胡桃は大きく息を吸い込む。その所作に――稲荷の影が重なる。


(マズい……!)


 椿は反射的に物陰に飛び込んだ。


雪女ゆきおんな


 次の瞬間、白銀の吐息が放たれ、路地全体が凍りつく。地面も壁も瞬時に氷結し、空気そのものが凍てついた。真夏の路地は一瞬にして冬の山岳と化し、椿の肌を鋭く裂いた。

 氷気を吐き終えた後、胡桃は咳をひとつして言葉を紡ぐ。


「椿は私を選ばなかった。でも稲荷様は選んでくれた。だから私はあの人に返したくても返し切れないほどの恩があるの。その恩をほんの少しでも返すために、貴女には倒れてもらわないと困る…」

「悪いけど、アタシも胡桃から情報を聞き出さないと困るの」

「じゃあ——私を負かせてみてよ」


 再び対峙する二人の少女。氷に覆われた舞台で、脚を構えた。


「また正面から来るの?一辺倒で面白く——っ!?」


 椿が跳躍。太陽を背に、影を重ねて放つ渾身の蹴り。


「喰らえええぇぇぇ!!!!」


明星みょうじょうっ!!!』


 胡桃は防御を試みるが、光に紛れた蹴りは軌道を読めない。直撃。後頭部に鋭い衝撃が走り、胡桃の視界が反転した。


 ドゴォォン!!


 轟音が裏路地を震わせ、地面がたわみ、壁に貼りついた氷の結晶がバラバラと砕け散る。視界が白く反転し、上下がひっくり返るような感覚に襲われる。

 胡桃はその場でフラフラと二歩、三歩と前へ進んだ。やがてその瞳から力が抜け、意識を手放したように後ろへ崩れ落ちる。


「おっと…!」


 椿が素早く抱きとめる。氷の破片と白い吐息が舞う中、胡桃の身体はぐったりと椿の腕に収まった。

——静寂。だが、その静寂こそが戦いの終わりを告げていた。


やがて夕日が傾き始めた頃、胡桃は椿の膝の上でゆっくりと目を開いた。どうやら膝枕をされていたらしい。赤い陽光に縁取られた椿の顔が、彼女を覗き込んでいた。


「お、起きた」

「……っはぁ……い、痛っ……!」


胡桃は頭を押さえ呻く。椿は小さく笑い、肩を竦めた


「あんま動かない方がいいと思うよ。さっきまでぶっ倒れてたんだから」

「……」


 胡桃は素直に抵抗を諦め、再び椿の脚に頭を預ける。氷に冷やされた体温が、椿の温もりにじわじわと溶かされていく。


「ねぇ胡桃…」

「……なに」

「あの時のこと…ごめ――」

「何も言わないで」


胡桃は目を閉じたまま、小さく首を振る。


「気にしてないわけじゃないけど、もう、私には私を選んでくれた人がいるから。だからもういい」

「…胡桃」

「私こそごめんね。傷を広げるようなこと言って…」

「別にいいよ。あれは…アタシが全面的に悪かったから…」


 沈黙が流れる。だがその沈黙は、不思議と心地よかった。

 やがて椿が切り出した。


「それでさ、稲荷って奴とはどんな関係なの?」

「稲荷様は…《《例の事件》》の後、私に手を差し伸べてくれたの。あの人は私に色々教えてくれた。さっきの氷の息だって、あの人に教わったの」

「その息って…どういう原理なの?」

「それは教えられない。秘密を守ることを条件に、私はあの人と繋がってるから。だから、何をされても何も吐かないよ」

「…そっか」


椿は力なく笑った。胡桃は逆に、少しからかうような笑みを返す。


「やけにあっさりしてるのね」

「いや、なんかもう疲れちゃって」


二人の笑い声が、凍った壁に反響した。やがて氷が陽に照らされ、水滴が雫となって滴り落ちる。


 しばらくして胡桃が起き上がった。


「ちょっと!」

「大丈夫だから……。私は稲荷様のことは話せない。でも、それ以外なら一つくらいなら教えてあげてもいい」

「一つ〜?せめて三つに増やしてよ」

「ダメ。一つだけ」


 椿が考え込む。やがて「じゃあ——」と口にし、何かを質問する。胡桃は少し渋ったが答える。それを聞き、椿はふむふむと頷いた。その時——遠くから自分を探す湊の声が聞こえてくる。


「あ、アタシ行かないと」


 椿が立ち上がる。その背を胡桃が呼び止めた。


「ねぇ……あの子は、今どんな感じ?」


 寂しそうで、困ったような表情が胡桃の顔に浮かぶ。振り返った椿は、乾いた笑いをこぼしながら答えた。


「…まだ、ダメ」

「そっか」


 胡桃は一度大きく息を吐き、微笑む。


「じゃ、またね」

「うん、また」


 二人は凍った雫が光を反射する路地で、静かに別れを告げた。


「おーい!」


 声に導かれ椿が路地を抜けると、やっと空き地へ戻ってきた。そこにはボロボロの三人の仲間がいた。魔累巣の残党は、既に散り散りになったらしい。


「椿ちゃん、大丈夫?」

「アタシは大丈夫だけど…」


 椿はそう言うと、三人を見渡す。


「僕は大丈夫。昴は幾つか骨折してて、楓ちゃんもだいたい同じ」

「お前は異常だ…なんでそんなボロボロなのに骨折一つしてねえんだよ…」

「逆に怖い…」

「あはは、褒めても何も出ないよ~」

「褒めてねぇ」


 そんないつも通りでくだらなく、それでいて穏やかなやり取りに、椿はふっと笑い声を漏らした。


「椿、どうしたの?」

「いや!なんでもない!」


 そう言いながら、いつもより清々しい笑みを浮かべる。楓は少し不思議そうに椿を見つめるが、彼女はもうルンルンと三人の先を歩き出していた。


「さ、帰ろ」


 傾く夕日に背を押されながら、彼らは神社へと歩みを進めた。

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