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死面  作者: 埴輪庭
1/4

第イチ話

 ◆


 2025/07/18


 猛暑──いや、酷暑だ。


 アスファルトから立ち昇る陽炎が視界をぐにゃりと歪ませる。


 中村弘之は、電動自転車のペダルに全体重を乗せるようにして漕いだ。


 背中に貼り付けられた黒い配達バッグが汗でじっとりと重い。


 バッグの側面には、「ムーバーイーツ」という気の抜けたロゴが印刷されている。


 スマートフォンの画面に表示された配達先は、駅から徒歩十五分はかかるであろう古い木造アパートの一室だった。


 指定された部屋のドアの前で、弘之は息を整える。


 インターホンを押し、数秒の間を置いてからバッグから温かいビニール袋を取り出す。中身は大手牛丼チェーンのチーズ牛丼特盛と、生卵。


「……はい」


 ドアの向こうからくぐもった若い男の声がした。


 ガチャリ、と鍵の開く音がして、ドアがわずかに開く。隙間から伸びてきた青白い腕。弘之はその手に商品を渡し、代わりに差し出された千円札二枚を受け取った。


「お釣り、三百二十円です」


 弘之が硬貨を数えて手渡すと、腕はひっこみ、ドアは無言で閉ざされた。最後まで相手の顔を見ることはなかった。それがこの仕事の常だ。顔の見えない誰かのために食事を運ぶ──その繰り返し。


 弘之の住むアパートも、先ほどの配達先と大差ない古さだった。ぎしりと鳴る階段を上って薄汚れたドアを開けると、六畳一間のがらんとした部屋が弘之の視界に広がった。


 窓際に置かれた万年床とその枕元に鎮座するノートパソコン──それが弘之の世界のすべてだ。


 コンビニで買った弁当を掻きこみつつ、何とはなしにテレビをつけると画面には白髪の大学教授らしき男性が映っていた。


 背景のパネルには「デジタル時代の死生観──残されたデータと死者の尊厳」という文字が浮かんでいる。


 ・

 ・

 ・


「……つまり、私たちは今、人類史上初めて『死後も消えない自己』という問題に直面しているわけです」


 教授は眼鏡を押し上げながら続ける。


「SNSのアカウント、メールの履歴、クラウドに保存された写真や動画。これらは本人の死後も残り続けます。先日も話題になりましたが、亡くなった方のアカウントから自動投稿が続いたケースがありました。誕生日になると『今日は私の誕生日です!』というメッセージが──」


 教授の声が再び響く。


「デジタル・レガシー、つまりデジタル遺産の問題は単なる技術的な課題ではありません。それは『人はいつ本当に死ぬのか』という根源的な問いを私たちに突きつけているのです。肉体が滅びた後も、データとして存在し続ける──果たしてそれは尊厳ある死と言えるのでしょうか」


 ・

 ・

 ・


 くだらねえな、と弘之は内心で吐き捨てた。


 何が死者の尊厳だ、と思う。


 手元の格安弁当を見て、それから軽く部屋を見回す。


 こんな生活のどこに尊厳がある?


 (死人の尊厳なんかどうでもいいよ。生きてる人間の尊厳のほうが大事だ)


 そんな事を思いながら食事を終え、すぐにパソコンの電源を入れる。


 ◆


 弘之の日課は仕事の後にアダルト動画を見ることだ。


 それが唯一の娯楽であり、現実から逃避するための儀式でもあった。


 彼のブックマークバーは、国内外の動画サイトで埋め尽くされている。


 そしてその日も彼はいつものようにネットの海を漂っていた。


 巨大匿名掲示板「9ちゃんねる」──その中にある「裏DVD・動画総合スレ」が、彼の主な情報源だった。


 ・

 ・

 ・


 345:名無しの紳士さん

 最近、いいサイト見つからんよな。広告まみれか、ウイルス仕込まれてるかのどっちかだ


 346:名無しの紳士さん

 わかる


 347:名無しの紳士さん

 >>345

 これ、どうだ? 

 俺は昨日見つけて、正直ビビった。

 hTTp://****************.ne.jp/縺翫∪縺医b縺励↓縺ェ縺輔>/


 348:名無しの紳士さん

 >>347

 文字化けしてて草。釣りだろ


 349:名無しの紳士さん

 >>347

 URL踏むの怖えーw


 350:名無しの紳士さん

 >>347

 いや、マジだって。広告も会員登録も一切なし

 無修正が無限に湧いてくる感じ。マジで


 ・

 ・

 ・


 弘之の指が、マウスの上で止まった。


「縺翫∪縺医b縺励↓縺ェ縺輔>」


 意味をなさない文字列。どうせまた、悪質な広告サイトか、個人情報を抜き取るためのフィッシングサイトだろう──そう頭では理解していた。だが、スレの住民の妙に真に迫った書き込みが引っかかる。


(他にやることもないしなぁ)


 弘之はなかば自棄糞に、その文字化けしたリンクをクリックした。


 新しいタブが開く。読み込みに時間はかからなかった。表示されたのは驚くほど簡素なページだ。


 背景は黒。上部に検索窓が一つあるだけで、その下には膨大な数の女性のサムネイル画像がタイル状に整然と並んでいる。広告もバナーも警告文も何一つない。


 あまりのシンプルさに弘之は逆に戸惑った。


 ものは試しにと、一番左上に表示されていたサムネイルにカーソルを合わせる。


 若い女性が白いワンピースを着て微笑んでいるサムネイルは、アダルトサイトのサムネイルとは思えないあまりにも健全な画像だった。


 年の頃は20代半ばといった所だろうか。


(やっぱり、釣りか……)


 どうせグラビアかなにかの拾い画像だろう──そう思った弘之がタブを閉じようとした、その瞬間。


 画面が音を立てるように切り替わった。


 同じ女性が今度は全裸で暗い部屋のベッドに横たわり、男にのしかかられている。


 動画の再生が始まった。


 ローディングを示す円がくるくると回ることもなく、まるでローカルファイルを再生したかのように即座に映像が流れ出す。


 映像は無修正だ。


 それも、よくあるモザイク除去のような不自然なものではなく、最初から何もなかったかのような生々しい質感。


 湿った皮膚の擦れる音と女性のかすかな吐息はやけにリアルで、弘之はごくりと息を呑んだ。


 今まで見てきたどの動画とも違っていた。


 プロの女優が演じる「性行為」ではない。


 もっと個人的で、プライベートな記録。


(盗撮ものか……?)


 いや、それにしては、と弘之は画面を食い入る様に見る。


 盗撮ものといっても、本当に盗撮している様なものは実のところ余りない。


 実際は盗撮風の動画である場合が多い。


 しかし、その動画はやけにリアリティがある。


 他のものとなにがどう違うのかは分からないが、とにかく“それっぽい”のだ。


 覗き見てはいけないものを見ている──その背徳感が欲望を容赦なく刺激した。


 彼は夢中で他の動画もクリックした。女子高生の制服。オフィスレディのスーツ。主婦のエプロン姿。あらゆるカテゴリーの動画がそこにはあった。


 どれも広告はなく、即座に再生される。


 そしてすべてが無修正だった。


 ジャンルも豊富だ。


 人気があるとされているジャンルがしっかり揃えられており、中には酷く暴力的なものもあった。


 女優の演技も棒読み演技などではない。


 それはもうリアリティがあるというより──


 ──本物だ、これ


 弘之は再び大きく息を呑む。


 まるで、底なし沼だった。見れば見るほど渇きは癒えるどころか、さらに増していく。


 弘之は時間を忘れて動画にかじりついた。


 2025/05/22


【社会】女性が自宅マンションで死亡 東京・中野区

 25日午後3時ごろ、東京都中野区のアパートの一室で、この部屋に住む会社員の女性(26)が死亡しているのを、訪ねてきた同僚が発見し、110番通報した。警視庁によると、女性に目立った外傷はなく、部屋に荒らされた形跡もなかったという。病死の可能性が高いとみて、詳しい死因を調べている。

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