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婚約者のフリをするはずが、最強騎士さまに「本気で」愛されるとは聞いてません!

作者: 茉白いと

「オフィーリア!」



 家の前にある小さな庭。そこに咲いているラベンダーに水やりをやっていると、少し慌てた様子でリリーが走ってくるのが見えた。



「どうしたんですか、リリー」



 彼女は息を切らしながら、手を膝につけて呼吸を整えようとする。孤児院時代からの友人で、今はこの小さな村の村長の家で使用人として忙しなく働いている。普段は穏やかな彼女が慌てているのは珍しい。



「村長さんが今すぐに来てほしいって言ってるの。重要な話があるって」

「私にですか……?」


 自分に何か話すことがあるなんて、なにかよっぽどのことがあるのかもしれない。しかも「重要な話」だなんて。



「分かりました。すぐに行きます」



 エプロンの端で手を拭き、家の中に入って準備を整えた。どんな話が待っているのだろう。

  頭にはいくつかの可能性が浮かんだけれど、これといって思い当たる節がない。



「それにしても、オフィーリアの話し方は変わらないものね」



 リリーと共に村長の家へ向かう道すがら、私の心を落ち着けるためにかリリーが話を振った。



「この話し方以外はなんだかしっくりこないんです」

「孤児院に初めて来たときにはもうその話し方だったものね」

「ええ、よく扱えたなと思います」

「まだ六歳になったばかりじゃなかった?」



 その年齢からの付き合いになるから、リリーとはもう十年の仲になる。そういえば、その歳ぐらいだった。あの彼と初めて会ったのは。



「誰に対しても、その姿勢は変わらないわね」



 リリーの笑顔を見て、彼の存在を頭から振り払った。

 もう会うことのない人。もし再び会うことがあったとしても互いに気付かないだろう。それほど、多くの歳月を過ごしてきてしまった。



「リリーは、最初こそ嫌がっていましたもんね」

「それはそうよ。たいして年齢が変わらないのに、敬語なんて使われるから」



 昔から、気さくな少女だった。ひとつ年上だというのにお姉さんぶるというよりは、一緒になって遊んでくれる仲間に近かった。顔を合わせるたびに「ふつうに話して」としつこく言われて続けていたが、諦めたのか時期に言わなくなった。

 私にとっての「普通」が、これなのだとリリーも気づいてくれたからだ。



「今ではその話し方がオフィーリアらしいって思えるの。こうして久しぶりに会うと、なんだか懐かしくなるんだから」

「お互いに、孤児院を出てからもう一年になりますもんね」



 リリーが十七、私が十六のときだった。

 そのころにはすっかり孤児院に守ってもらう立場ではなく、子どもを守る側として、忙しくも楽しい日々を過ごしていた。

 しかし、孤児院で預かる子どもが減り、私たちがいては逆にお金がかかってしまうという理由から、一年前には自立しようという話になった。

 それからリリーは村長の使用人として住み込みで働き、私は村はずれにある小さな家に住んでいた。

 ここは昔、幼いころに住んでいた場所だ。けれど、両親がいなくなってからというもの、長い間放置されていた。村長が空き家になったこの家を買い戻してくれたと聞く。

 そういえばあの彼と会ったのも──ああ、まただ。また思い出してしまう。

 もう会えない人のことを、なぜこうも未練がましく考えたりするのだろう。

 過去には当たり前のように様々な思い出がある。けれど、あまり思い出さないようにしていた。楽しいこともあれば、胸が引き裂かれるような悲しいこともあったからだ。



「オフィーリア、心配することないわ」



 リリーが言った。

 もしかしたら私が不安になっていると心配してくれたのかもしれない。



「村長の話だって、案外大したことはないかもしれないんだから」

「……ええ、そうだといいです」



 なんとか微笑を浮かべながら、この先待ち受けていることが、どうか穏やかなものであってほしいとひっそりと祈った。

 村長の家に着くと、すぐに中へと案内された。先週会ったばかりの村長が、私を見てどこか悲しげに微笑んだ。



「オフィーリア、来てくれてありがとう。すまないね、いきなり呼び出したりして」

「いえ、とんでもありません。あの、お話があると伺いましたが……」



 そう投げかけると、村長は一度うなずいてから、ゆっくりと口を開いた。



「実はオフィーリア、君に伝えたいことがあるんだ」

「はい」

「先日、隣町のブラックウッド家から君との結婚の申し込みがあった」



 結婚。その二文字が、一瞬理解できなかった。

 そしてそれは、あのブラックウッド家からだという。

 聞き間違いでなければ、子どものときから何度も聞かされてきた悪名高い家。

 昔から大人たちに口酸っぱく言われていたきたことがある──それは、”彼らには決して逆らってはいけない”ということ。



「ど、どうして私に……?」



 冷静を装ったつもりだったが声は震えていた。

 これまで恋すらしたことがない。それなのに突然の結婚の話なんて。



「知ってはいると思うが、ブラックウッドは何世代にもわたって商業と貿易業で成功を収めてきた名門の商人家系だ。言葉ひとつで多くの人間の人生を左右するだけの力を持っている」



 それは、この村に住むものであれば誰もが知っていた。

 幼いころ、ブラックウッド家に逆らった住人が、酷い目に遭わされたという噂を耳にしたことがあった。詳細は大人たちからのこそこそ話では分からなかったが、その住人は遠い国に流されたと聞いた。つまり、海に、ということだろう。

 そこからはあまりにも恐ろしくて、その名前には注意して生きていこうと思っていたほどだ。それなのに、まさか結婚を申し込まれるなんて。



「今回の結婚がうまくいけば、わしらの村に資金援助をしてくれると言っている」

「まさか、それでオフィーリアを」



 リリーは信じられないとばかりに口元に手を当てた。彼女がおどろくのも無理はない。同じように、ブラックウッド家を恐れながら生きてきたのだから。



「……オフィーリアとの結婚が成立すれば、この村はもっと裕福になるだろう。村の皆がもっと良い暮らしができるんだ」



 村長にとっても、心苦しい話であることは、その声音を聞いていれば十分にわかる。心優しい人で、虫一匹さえも殺すどころか慈しむような人だった。そんな人が、私にこの話を持ち掛けるということは、よっぽどこの村の危機が迫っているのだろう。



「オフィーリア、こんなことを頼むのはいけないとわかっている。だが、こうするしかほかに手立てはないんだ」



 村長は私にとって第二の父のような存在だった。村の未来を託されている重責も感じているのだろう。

 その思いを感じ取りながらも、心の中で混乱が渦巻いていた。



「すみません、あの、私は……」



 自分から出てくる声は小さく、しっかりしなければと奮い立たせようとするのに何度も失敗してしまう。

 これは村のため。ずっと我が子のように育ててきてくれた村の人たちに恩返しをしたいと思っていた。孤児院で育ち、この村で支えられてきたことに感謝している。それでも、結婚ともなると……まして、相手があのブラックウッド家だ。すぐに返事ができない。



「……少しだけ、時間をください」


 きっと、そんな時間なんて残されていないのだろう。それでも今は、こう答える以外に言葉がなかった。  村長もそれに気付いているのか、ああ、とうなずいた。



「もちろんだ。だがすまない。ブラックウッド家からは返事を急かされていて、君にあげられる時間はそんなに多くはないんだ」

「いえ、少しで十分です。心を整理する時間さえいただければそれで」



 村長の家を出る前、見送りに来てくれていたリリーが私の手首を掴んだ。



「どこかへ逃げましょう」

「え……」

「オフィーリアだけが無理をすることはないんだから。大丈夫、一緒に逃げられるだけのお金はちゃんと蓄えてあるの」



 いつだって、困っているときにはリリーが助けてくれた。今も居ても立っても居られなかったことが伝わる。それだけで、もうよかった。



「リリー……ありがとうございます。でも、無理はしていないんです。こんな私でも、村の役に立てるなら、それが本望ですから」



 大丈夫。そう言い聞かせる。

 私ならどこにいたってやっていける。



「オフィーリア、本当にそれで幸せなの?」



 彼女の問いかけに、浮かべていた笑みが消えそうになった。リリーはいつだって私を心配してくれる。けれど私がここで逃げてしまえば、この村はどうなってしまうのだろう。

 村のことを思えば、村長の提案を受け入れることが最善の道だ。



「……幸せかどうかは分かりませんが、村のみんなの期待に応えなくてはなりません。だから大丈夫です」



 そう言って彼女の手を優しく解こうとした。しかし、リリーは彼女の手を離さなかった。その瞳には涙がたまっていて、いつもの快活なリリーとは違う、弱さと不安が滲み出ていた。



「オフィーリア、あなたはもっと自由でいていいんだから。自分のために生きて、幸せになってほしいの」



 その言葉に胸がきゅっと締め付けられるような痛みを覚えた。自由に生きること。自分のために選択をすること。それが今では、どこか夢物語のように感じられる。



「ありがとうございます、リリー。私は平気です」



 オフィーリアがまだなにか口を開きかけたそのとき。

 村の入り口の方から馬の蹄の音が響いてきた。振り返ると、一人の騎士が馬を駆りながら近づいてくるのが見えた。

 輝きが眩しく、風になびくマントが彼の背中で舞っていた。背は高く、まるで彫刻のように整った顔立ち。漆黒の髪は艶やかで、軽く風になびいている。その髪の下からは、深い琥珀色の瞳が光を放ち、見る者を引き込むような魅力を持っていた。

 誰だろう。

 黒髪に映える力強い眉、切れ長の瞳は綺麗な琥珀色で、鼻筋はすっと通っていた。

 彼は流れるような動きで馬から降り立った。洗練された仕立ての黒いロングコートに、深い色合いのベストを合わせたもので、その下には白いシャツがのぞいていた。

 不思議と彼から目が離せなくなる。

 どうしてこの小さな村に現れたのだろう。


「あ……」


 

 ここは村長の家の前だと。

 それなら用事があるのは村長のはず。ここにいては邪魔になってしまう。

 彼が通れるようにと、道の端に行こうとしたとき──



「オフィーリア?」



 彼の声が、なぜか、私の名前を呼んだ。

 顔を上げる。どこかで知り合ったことがあったのだろうか。

 ……いや、そんなはずはない。こんなにも顔が整った人であれば、印象的で忘れることはないはず。

 そう思いながらも、目の前の男性が誰なのか思い出せない。

 彼の存在感は圧倒的で、その端正な顔立ちに心が囚われてしまう。



「オフィーリア」



 もう一度、彼が私を呼んだ。どこまでも心に響いていくような気がする。

 その音に包まれると、不思議と不安が和らいでいくのを感じた。まるで引き寄せられるように彼の顔をじっと見つめた。

 そして、その瞬間——彼が微笑んだ。

 その微笑みにどこか見覚えがあり、心の奥底にしまっていた記憶がゆっくりと浮かび上がる。

 幼いころ、一緒に過ごした記憶。もう二度と会うことはないと思っていた彼。



「……アーロ?」



 小さな声でその名を口にすると、彼の微笑みはさらに深くなった。

 目の前の男性は、あの時の少年──アーロだった。

 記憶の中で小さな少年だった彼は、今や立派な青年に成長して立っている。



「覚えてくれているんだね。久しぶり、オフィーリア」



 アーロの言葉に、胸が温かくなり、懐かしさと安堵の涙が目に浮かんだ。

 もう二度と会えることはないと思っていた。幼い頃に過ごした日々はとても短いもので、あまりにも遠いものに感じられていた。

 アーロのことを思い出すたびに、いつも楽しませてくれたことを覚えている。けれど、彼と再会するなんて夢にも思わなかった。

 どうしてこんなところにいるのだろう。あの家を離れて孤児院に入ったとき、彼もまた遠い国に引っ越してしまったと聞いていた。



「アーロ……どうしてここに?」



 琥珀色の瞳が優しく輝き、彼は穏やかに微笑んだ。



「君がここにいるって聞いて。たまたま近くを通りかかったから」

「通りかかったって……」



 懐かしくなって近くを通ったのだろうか。



「騎士団長!」



 そこへ、もうひとりの男性が現れる。彼はアーロのことを「騎士団長」と呼んだ。



「近辺に異常は見られませんでした」

「そう、よかった。なら君たちは先に戻ってくれて構わないよ」

「しかし騎士団長。すぐに戻られなければ国王が──」

「大丈夫。あとで俺から説明しておくから」



 アーロは柔らかな笑みを浮かべながら、私に近づいた。

 その背後で、騎士たちは躊躇しながらも敬礼し、馬に戻っていく。



「すみません、少し彼女とふたりにさせてもらえないでしょうか」



 アーロは、固まっていたリリーに声をかけた。彼女は少し驚いたようにアーロを見上げたが、すぐに私へと目をやり、心配そうな表情を浮かべつつも、微かに頷いて後退りした。



「分かりました。オフィーリア、私は家の中にいるから、何かあったら呼んでね」



 リリーは優しくそう言い残してから家の中に入っていった。ドアが静かに閉まり、二人だけが庭に残される。



「本当に、久しぶりだ」



 玄関扉を見つめていたら、アーロがしみじみと呟いた。その言葉に、彼の横顔をそっと見つめた。アーロの琥珀色の瞳が、過去を懐かしむように細められている。



「覚えているかな、幼いころ、君と一緒に遊んだことを」



 まだ孤児院に入る前、彼と一緒に駆け回った日々。顔を見合わせ、何度も笑い合った。



「……覚えています。かくれんぼをしたことも。そしていつも、あなたが見つけてくれることも」

「オフィーリアのことなら、どこにいたって見つける自信があるよ。こうして今も、十年ぶりだというのに君を見つけることができた」

「驚きました……あ、いえ、驚いたことといえば、あなたが騎士団長になっていることも」



 彼は少しだけ苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。



「そんな大したものでもないんだ。名ばかりの騎士団長だから」


 それは謙遜だ。名ばかりで騎士団長になれるはずがない。



「でも今も、騎士団長としての務めがあるのでは……?」



 さっきの会話からして、見回りのようなものをしていたように聞こえた。



「ここに来ると、オフィーリアに会いたくなったんだ。まさか本当に会えるとは思わなかったけどね」



 私もです、と口をついて出ていきそうになり、それから今自分が置かれていた状況がすっかり抜けてしまっていることに気付いた。



「オフィーリア?」



 アーロも察したのか、その顔には心配が浮かんでいた。


「あ……いえ、なんでもありません」


 だめだめ、こんなところで心配させるわけにはいかない。すぐに笑顔を浮かべたけれど。



「浮かない顔をしているようだけど、何かあったんじゃないか?」



 アーロにはお見通しなのか、通用しなかった。

 だからといって、話してしまっていいのだろうか。あのブラックウッド家に結婚を申し込まれているなんて。


 悩んでいると、オフィーリアと、やさしい声で呼ばれた。



「よかったら、少し散歩をしませんか?」



 柔らかな日差しが、道に降り注いでいた。道端にはこの季節ならではの花々が咲き誇り、色とりどりの花びらが風に揺れていた。遠くで子供たちの笑い声が聞こえてくる。



「……結婚を、申し込まれているのです」



 どこから切り出すべきか悩んでいたものの、結局はその表現に落ち着いてしまった。

 アーロは琥珀色の瞳を、驚きの色に染めていた。



「……その結婚は、オフィーリアが望んでいるものなのか?」

「村の人たちは、望んでくれていると思います」



 村長から話されたことを、そしてこの村にとってブラックウッド家がどういう存在なのかということも、失礼がないよう気を付けながらアーロに話した。



「ですが、恋愛ひとつしたことのない私が、いきなり結婚なんて……」



 できるのかどうか。

 いや、そんな泣き言を口にしていいはずもない。

 花の香りが風にのってやってくる。家にいればラベンダーの香りがよくするけれど、ここではデイジーの爽やかで気持ちをすっきりとさせるような香りがする。

 私の心を入れ替えるにはピッタリかもしれない。



「……すみません、こんなことをいきなり話してしまって。忘れてくだ──」

「俺と婚約してほしい」

「えっ?」


 今、何か言われたような……?



「……あの、今」

「そんな男と結婚するぐらいなら、俺と婚約することにすればいい」



 彼の表情は真剣そのもので、その提案に迷いの色は見えなかった。



「婚約、していること」

「悪いほうには捉えないでほしい。あくまでも、これはオフィーリアの結婚をなしにするためのものだ」

「……つまり、婚約のフリをする、ということですか?」

「そうすれば、村長も結婚の話を引っ込めるかもしれない」

「ですが、それは、偽りの婚約ということに」



 なるのではないか。

 そう続けようとしたとき、アーロの大きな手が私の手を握った。



「嘘をつくことに抵抗がある?」

「いえ、そういうことではなくて……アーロにそんなことを頼んでしまうのは、迷惑なんじゃないかと思って」



 騎士団長という役職は、きっと忙しいものだ。それに、アーロに婚約者がいると知られてしまったら、彼が困ったことになってしまう。



「迷惑だなんて、そんなことないよ」



 しかしアーロは優しく微笑み、それから、ふと遠くを見つめるように視線を外した。



「それに、ちょうどいいタイミングなんだ」

「いいタイミング?」

「実は俺も結婚の話をせっつかれていてね。婚約者がいると知ればそれも収まると思う」



 その話はとても納得がいく。アーロのような凛々しい騎士が結婚をせっつかれるのは当然かもしれない。


「周囲は、俺がそろそろ落ち着くべきだと言うんだよ。まだ二十だというのに」

「……放っておけないのだと思います」



 特に女性が。これだけ紳士で、なおかつ騎士団長ともなれば、結婚の申し込みは数えきれないだろう。小さな村に住んではいるものの、そのあたりのことは察しが付く。



「俺としては放っておいてほしいんだけどね。だから、オフィーリアと婚約しているフリをすることは、実は俺にとっても悪くない提案なんだ。少しだけ時間を稼げるし、それに──」



 彼の琥珀色の瞳には、優しさとほんの少しの遊び心が浮かんでいた。



「この出会いは、偶然ではないと思いたいから」



 それがどれだけ救いになっただろう。

 たとえ、村が裕福になるという問題が解消されていないとしても、ほんの少しの時間が確保されるのであれば、それはとても贅沢な選択としか思えなかった。

 結婚をしてしまえば、こうしてアーロとふたりになることもない。



「……本当に、いいのですか?」

「僕たちの目的は一致している。俺たちが婚約をすることは意味があるはずだから」



 アーロはそう言って、私の手を握り直した。



***


◇アーロ視点


 はあああああ~、好きだ。

 どうしてオフィーリアはあんなにも愛おしい存在なのだろう。あまりにも美しく、そして儚く綺麗でいる彼女を前に、冷静を保つことがどれだけ難しかったか。

 理由はどうであれ、婚約者としての地位を手に入れられたところまではよかった。

 まだまだ時間が欲しかった。彼女と共に過ごす時間が。

 ようやく、彼女に近づくことができたのだ。これまで何度、彼女の前に飛び出したいと思ってきたか。

 それでもこの計画を成功させるまでは、決して自分の姿を見せないつもりでいたというのに。

 ブラックウッド家からいよいよ動き出したと聞いたのは、ちょうど騎士団長としての役目を終えた直後だった。

 城内の執務室で鎧を脱ぎ、疲れを癒そうとしていた。そんなとき、騎士団の隊員が控えめにノックをして部屋に入ってきた。



『団長、手紙をお届けに上がりました』



 その手紙の中に、オフィーリアの村に監視役として滞在させている者からブラックウッド家の情報を手に入れた。オフィーリアを花嫁にしようとしていることも。



『ブラックウッド家か……』



 その名が何を意味するかはよく知っていた。村を救うためにと持ちかけられた話であることも理解している。しかし、だからといってオフィーリアを犠牲にすることなど、許せるはずもなかった。



『団長、いかがされましたか?』

『これからフォードに向かう』

『フォードというと、あの村はずれのですか。しかし、国王との会食が』

『後回しにすればいい。イアンにそう伝えろ』



 執務室を出ると、すぐに馬に乗り、フォードへの道を駆け出した。心の中では、様々なシミュレーションを考える。オフィーリアを長いこと見守ってきていたが、顔を合わせるのは十年ぶりだ。果たして俺のこと思い出してくれるだろうか。

 これまでにもオフィーリアへの結婚の申し込みは何度かあった。

 その度に俺が阻止していたことなど、オフィーリアが知ることはないだろう。

 彼女の周りに存在するものを徹底的に調整し、いつか彼女を手にするその日まで、万全を期すつもりでいた。少し計画が早まってしまったが仕方ない。

 そうして、偶然の出会いであるかのように偽った。白々しくなかっただろうか。いや、問題はなかったはずだ。

 オフィーリアと別れ自室に戻ると、無意識のうちにポケットから革の手袋を取り出していた。その手袋はほんの数時間前、オフィーリアと再会したときに彼女に触れたものである。

 その手袋を両手でそっと広げ、丁寧に指先で撫でた。そこには彼女の柔らかな手の感触がまだ残っている気がしてならない。心の奥底に沈んでいた感情が、一瞬にして蘇ってくるのを感じる。

 オフィーリアの繊細な指が自分の手に触れた瞬間、胸が高鳴った。それは子供の頃、まだ何も知らなかったあの頃に感じた同じ胸の高鳴りだった。

 彼女が笑顔を見せたとき、周囲のすべてが光に包まれるような感覚がした。手袋を引き出しにしまった直後、部屋のドアが音もなく開いた。イアンだ。まるで俺の行動を見ていたかのように眉をひそめる。イアンの鋭い目が、引き出しに目をやり、そして俺に戻った。


「なあ、アーロ」皮肉な笑みを浮かべて言う。「お前、そんなものを大事に取っておくなんて、正直言って気味悪いぞ」

「誉め言葉として受け取っておくよ」



 イアンはため息をつき、部屋の中を歩きながら肩をすくめた。



「お前が騎士団長としてどれだけ優秀か、俺はよく知っている。だが、そんなお前があのオフィーリアのことになると、まるで別人のようになるとはな」

「彼女は特別だ」

「特別ねぇ」



 イアンが鼻で笑った。



「お前は誰よりも理性が強い男だったはずだ。それがこんなに執着するとは、俺には理解できない。しかも手袋なんかに。正直、お前が何を考えているのか、さっぱり分からないよ」



 黙ってイアンを見つめていれば「重すぎるよ、お前の愛は」と呆れられる。



「足りないぐらいだ」

「でもなあ、お前の愛情は相手を縛りつける鎖のように見えるぞ。あの子がその重さに耐えられるとは思えない」

「耐えられるように、これまで計画してきたんじゃないか」

「だから相変わらず重すぎなんだよ、お前のそれは」

「なんとでも言え」



 投げやりに近い形で返すと、イアンはふっと笑う。



「怖い怖い、紳士で爽やかな好青年は一体どこにいったんだか」

「ほう」

「お前に付き添っていた若い騎士が言ってたぞ。”別人のように優しかった”ってな」

「……いつもと変わらない」

「いいや、お前は気付いていないかもしれないが、戻ってきてからずっと顔が緩んでるぞ」



 幼少期からの幼馴染だからか、心の中をすっかり見透かしているようだった。

 オフィーリアに対して抱く特別な感情もすぐに見抜いていた。自分の表情を引き締めようと努めたが、どうにもならない。顔が自然とほころんでしまうのだ。



「そんなに好きなら、もう告白でもしたらどうだ? 見てるこっちが恥ずかしくなる」

「婚約はした」

「偽りのだろ。なんで本当に婚約しないんだ」



 その通りだ。それは自分だって分かってはいる。それでも今はそのときではない。



「はあ……まったく、あのアーロがここまで執着するなんてな」

「どういう意味だ」

「誰もが知ってる名門家の出身で、見た目も文句なしのイケメン。それに頭も切れる。勉強も剣術も、何をやらせても一番だ。しかも、騎士としての実力は王国でも随一。誰もが認める最強の騎士だってのに……」



 イアンはそこで一度言葉を区切り、俺の顔を見た。



「お前のことをずっと見てきたけどさ。お前はいつだって冷静で、何にも動じない奴だった。どんなに困難な任務でも、誰もが諦めるような状況でも、お前は一人で解決してきた。誰かに頼ったり、ましてや誰かに執着するなんて、今まで決してなかったはずだ」

「俺をなんだと思ってるんだ」

「見たままを言ってるんだよ。周囲からも冷酷だと恐れられるあのアーロが、ひとりの女のことになると、まるで別人みたいだ」

「別人か」

「これまでお前がどれほどの求婚を受けてきたかもよく知ってる。この国の女のほとんどの憧れの的であるからな。貴族の令嬢からの手紙や贈り物が後を絶たないっていうのに」

「買いかぶり過ぎだ」

「結婚なんて、お前は一生しないんじゃないかって思ってたよ」



 立っていることに飽きたのか、イアンは近くにあったソファーに座る。どうやらまだ語り足りないらしい。



「まさか、長年恋心を寄せている女性がいたなんてな」

「知っていたんじゃないか」

「実際に見ないと信じられないだろ。でも、あれだけの求婚を受けてきた男が、全ての女性をかわし続けてきた理由がやっと分かったよ」



 確かにその通りだった。心の中には、ずっとオフィーリアが居座っていた。幼い頃から彼女の存在が俺の心を占めていて、どんなに時が経っても、その思いは薄れるどころか、深く、強くなる一方だった。



「オフィーリアだけが、俺の世界を変えるんだ」



 だからこそ、この婚約はまさに天からの贈り物のようなものだった。この機会を最大限に活かすつもりだ。

 ただの偽の婚約だとしても──。



***


◇オフィーリア視点


 翌朝、私は村長の家のドアを叩いた。

 木製の重厚なドアの向こうから「入っておいで」という村長の落ち着いた声が聞こえる。深呼吸を一つし、手でドアノブを回して部屋に入った。



「オフィーリア、昨日はすまなかった。いきなり結婚の話を持ち出して」

「いえ……実はそのことでお話があるんです」



 何度も練習を重ねた。ここで失敗してしまえば、多くの人に迷惑をかけてしまうだろう。協力してくれたアーロにも申し訳ない。



「……先日、村長さんからお話をいただいた結婚の件ですが、私には……婚約者がいるんです」



 村長の表情が一瞬硬直し、驚いたように眉を上げた。



「婚約者……オフィーリア、そんな話はこれまで聞いたことがないが」

「も、申し訳ありません。昨日は気が動転してしまい打ち明けることができなかったのです」



 もっと慎重に言葉を重ねるべきだとはわかっていても、これが真実ではないという後ろめたさもあってか、どうしてもうまく言葉が出てこない。



「ですから……婚約者がいるというのに、ほかの男性と結婚することはできないんです。その……もう少し、婚約者と関係を、整理する時間をいただけませんか」



 とにかく、村を救うための手立てを見つけるまでは、時間を稼がなければならない。

 村長はしばらく黙り込み、内容を噛みしめている様子だった。

 やはり反対されてしまうだろうか。時間はないと言っていた。

 やがて彼は深くため息をつき、頷いた。



「そうか、それは……オフィーリアが言うように時間が必要になるな」

「あの、村長さん。私がもっと早くこのことを話していれば、誤解もなく済んだのに」



 村長は穏やかに微笑んで首を振った。



「いや、君が謝ることはないよ。君にも事情があるのだから。ただ、ブラックウッド家にも、そして村の人たちには君が婚約していることを伝えなければならない。それは理解してもらえるだろうか」

「はい、そうしていただいて構いません」



 ごめんなさい、村長さん。騙すことになってしまって。

 それでも必ず、この村が豊かになれるような方法を見つけます。

 口にはできないものの、心の中でそう返した。



「オフィーリア」



 村長の家からの帰り道。

 なぜかそこにはアーロがいた。



「えっ、どうしてアーロがここにいるのです」

「話をしてきたのだろう。心配だったんだ。本当は俺も付き添うべきだったのに」

「いえ、それを断ったのは私ですから」



 アーロについてきてもらっては、きっと頼ってしまうと思った。ただでさえ協力をしてもらっているというのに、自分でどうにかできる場面でもアーロ頼りになってしまうことは避けたかった。



「村長とは話ができた?」

「はい、時間をいただけるそうです。ブラックウッド家と村の人たちにも話をすると」

「……そうか、なら人目を気にすることはないな」

「え?」



 気のせいだっただろうか。なにか聞こえた気がしたが、アーロは私と目が合うと、にこりと微笑んだ。



「今日はもう仕事が休みなんだ。よかったら、デートでもしないか」

「デ、デートですか?」

「婚約者であることをアピールしないと」



 それもそうか。

 偽りであることがバレないように、それなりに工夫することは大切だ。



「どこか行きたいところはあるか?」

「い、いえ。アーロが行きたいところに」

「そうか……なら、まずはお披露目に相応しい場所に行こう」



 そうして、アーロが差し出したのは右腕だった。



「これは……?」

「婚約者らしく、腕を組んで歩いてみるのもいいかと思ってね」



 一瞬戸惑ったが、アーロの真剣な瞳を見て、その気持ちを察した。周囲の視線を気にして緊張している気持ちを少しでも安心させてくれているのかも。頬が熱くなるのを感じながら、彼の右腕にそっと手を添えた。



「こう、でしょうか……?」



 しかしアーロからの返答はない。じっと私が手を添えた場所を見つめている。なにか間違えたのだろうか。異性と腕を組むなんて初めてだから粗相をしでかしてしまったのか。



「あ、あの、アーロ。やはり腕を組むのは……」



 はっとしたような顔つきをしたアーロは、すぐにいつもの笑みを浮かべた。



「すまない。少し考えごとをしていた」

「大丈夫なんですか?」

「問題ないよ。じゃあ行こうか」



 彼の温かい声が耳に届き、肩の力を抜いた。アーロと腕を組んで歩くのは、初めての経験だったが、彼の温もりが伝わってくる。

 道を進む度に、村の人たちは注目していた。彼らの視線が集中し、ささやき声があちこちで聞こえてくる。



「見て、オフィーリアさんの婚約者らしいわよ」

「なんて素敵なの! オフィーリアさんは幸せね」

「本当にお似合いの二人だわ」



 恥ずかしさを隠しきれず、うつむき加減になったが、アーロの穏やかな笑顔を見ると、その恥ずかしさもどこか薄れていくようだった。彼の存在が、まるで自分の世界を明るく照らしてくれるようだった。

 アーロは腕を組んだまま、村の中心広場へと向かった。そこには大きな噴水があり、水しぶきが陽の光を受けて輝いていた。広場はいつもにぎわっていて、特に今日は市場の日で、色とりどりの花や新鮮な果物が並び、香りが漂っている。

 村人たちはもうすでに村長から話を聞いているらしい。疑惑を向ける目もあったが、アーロは堂々とした佇まいを見せていた。



「懐かしいな、ここにも一度来たことがある」



 アーロは楽しそうに笑いながら言った。その笑顔は村の女性たちの心をさらにときめかせ、囁き合う声が耳に入ってきた。



「あんなかっこいい人、見たことがないわ」



 婚約者として見てもらえるか不安だったが、今のところ心配はしなくてもいいらしい。

 けれどここまで注目されてしまうと、アーロの腕に寄り添うことが恥ずかしくなってきた。それなのに、アーロはまるで気にしていないようで、しっかりと私の手を握り続けていた。



「オフィーリア、この美味しそうな匂いはどこからするものなのかな」

「あ……それでしたら、近くにクロワッサンが有名なお店があるんです」

「へえ、クロワッサンか。いいね、食べてみたい」



 どことなく少年のような顔つきになり、思わず笑みがこぼれた。「案内しますよ」と言えば、されに子どもっぽい笑顔で「ありがとう」とアーロが返す。

 向かったのは村一番のパン屋で、ふわふわのクロワッサン以外にも、新鮮なパンが並べられ、香ばしい匂いが漂っている。

 二人分のクロワッサンを買うと、近くのベンチに座った。



「お金を……」

「いいんだ。婚約者としてかっこつけたかっただけだから」



 もう十分かっこいいというのに、さらにかっこよくなられては困ってしまう。

 誤魔化すようにクロワッサンにかぶりつくと、サクサクとした食感とバターの風味が口の中に広がった。アーロも満足したようで「美味しい」と何度か口にしていた。



「広場で必要なものはない?」



 食べ終えるとアーロが聞いた。



「そうですね……今度で大丈夫です。量も多くなりますし」



 買い物ぐらいならひとりの時にでもできる。今は婚約者として村の人たちに知ってもらうことが目的なのだから。



「だったら、付き合ってもいいかな? 俺でよければ荷物持ちぐらいはできるよ」

「そ、そんな……大丈夫です。あの、本当に些細なものなので」

「オフィーリアがどんなものを買うのか知りたいんだよ。結婚に向けていろいろと揃えなければならないし」



 結婚。ううん、これはあくまで偽装工作であって、ただ周囲の人に婚約していると思ってもらうための時間。だから、わざわざ胸が高鳴るようなことは必要ないというのに。



「オフィーリアが奥さんになってくれるのを、俺は楽しみで仕方ないんだ」

「……それじゃあ、お願いします」

「うん」



 市場の角を曲がり、雑貨店に入ると、生活で必要なものを買い終えると、日用品や食料品が詰まった大きな袋はこれでもかと重たくなった。

 これをいつもひとりで運ぶものの、正直言ってとても重たい。けれどアーロは袋を手に取り、まるで羽のように軽々と持ち上げた。



「ほかにもある?」

「いえ、これで最後です。あの……本当にありがとうございます」

「僕はオフィーリアの騎士だから、これくらいのことは当然だよ」


 何気ない言葉に、いちいち心臓が高鳴ってしまう。

 でもこれは、あくまでも婚約者のフリであって、本気になってはいけない。

 もう十分だ。ここまでしてもらえば、村の人も信じてくれただろう。

 あとはブラックウッド家と結婚をしなくても、この村が豊かになる方法を見つけなければいけない。


 しかし翌朝、家の前に置かれていた小さなブーケを見て時間が止まった。

 もしかしてこれはアーロが……?

 特別な日ではない。それに私の家は村の中でもいちばん外れに位置する場所。滅多に村人が通ることもない。ましてや、騎士団長である彼が、こんな些細なことのために時間を割くとは考えられないこと。

 持ち上げると小さなメッセージカードが挟まっていることに気付いた。



『気に入ってもらえるとうれしい。また会いに来るよ』



 花の香りに混じって、アーロの匂いがするような気がした。そっと嗅ぐと、そこに彼がいるように思える。そこまで考えて、冷静になる。これは偽りの関係。私たちは同盟を組んでいるだけのこと。



「お花は、もう大丈夫ですから」



 その二日後。今日も婚約者のフリをするため、村にある丘へと来ていた。広がる草原が見渡せる場所で、遠くに山並みも見える。村の人々が散歩や休息のためによく訪れる場所であり、婚約者として振る舞うにはもってこいの場所だ。爽やかな風が吹き抜け、草の香りが漂っていた。


 アーロに会ってすぐ、家の前に置かれていたブーケがどれだけ嬉しかったかを語り、そして丁寧に礼を告げ、最後に花はもう必要ないということを伝えた。

 彼があそこまですることはない。偽りの婚約なのに、アーロは協力を惜しまない。だからこそいつまでも甘えていてはいけないとも分かっていた。



「迷惑だったかな?」

「そんなことはありません。本当に嬉しかったんです。一度もらえたらそれで」

「俺は、オフィーリアに花を贈りたかった。ただそれだけのことなんだ」

「アーロ……」

「でもこれからは少し控えるとするよ。やりすぎも、かえって信用を失ってしまうかもしれないから」



 そう言われてほっとした。これからはアーロも私に時間を使うことも少なくなるだろう。その間にも村の問題は放置されたままだ。いつまでも婚約者としての時間を持つわけにもいかない。



 けれど、その後も一人で過ごしていると、決まってアーロは何かと理由をつけてやって来るようになった。家の前で庭仕事をしていると、遠くから馬の足音が聞こえ、顔を上げると、そこにはアーロが馬に乗って現れる姿があった。

 彼はゆっくりと馬を止め、オフィーリアに向かって笑みを浮かべた。



「アーロ? 今日は騎士団の仕事で忙しいはずでは」

「近くの警備をしていたんだ」



 アーロは馬から降りると、オフィーリアのそばに歩み寄り、優しく彼女の頬に触れた。



「もしよかったら手伝わせてくれないかな」

「そんな……ただの庭仕事ですから」



 しかしアーロは首を振った。



「俺がそうしたい気分なんだよ」



 そう言うと、アーロは私の手から庭仕事の道具を取り上げ、草を刈り始めた。彼の動きは驚くほど手際がよく力強い。こういう姿を見ると、アーロは立派な男性になったのだと思う。


 ……だから、いちいちときめいていたらダメなのに。


 あるときは、夜になってアーロが訊ねてくることもあった。

 その日、窓の外を見て、ふとため息をついていた。子どもの頃、この村では毎年ランタン祭りが行われていたけれど、今ではもう長い間行われていない。ランタンが灯る夜空の光景を懐かしく思い出していたとき、ドアをノックする音が聞こえた。


 ……こんな時間に誰だろう?

 不審に思いながらもドアを開けると、そこには笑顔のアーロが立っていた。



「アーロ!」



 彼は小さなランタンを差し出した。



「特別な夜を用意したんだけど、一緒に過ごしてくれないか」



 アーロについていくと、そこには、数え切れないほどの小さなランタンが吊り下げられていた。庭全体が、優しい光に包まれ、まるで星空の中にいるかのようだった。



「これ全部、アーロが用意してくれたんですか?」

「昔、君と見たランタン祭りの思い出を少しでも再現したかったんだ」



 子どものころに過ごしたアーロとの時間はとても短い。それでもこのランタン祭りを見たことはハッキリと覚えていた。



「でも──」



 そこまで言いかけて、口を閉じた。

 どうしてここまでやってくれるのですか?

 私とあなたは、ただの偽りの関係なのに。



***


◇アーロ視点



 はああああ、可愛い。好きだ。愛している。

 オフィーリアと別れ部屋に戻ってから、彼女と過ごした時間を思い返し、とめどない愛にどうにかなってしまいそうだった。



「アーロ」

「いたのか、イアン」

「人の気配に敏感なお前が俺に気付かないはずがない。最初から分かってただろ」



 もちろん分かっていた。だがイアンよりも、頭の中はオフィーリアのことでいっぱいだった。あの幸せな時間にいつまでも浸っていたい。


 こほん、と咳払いをしてイアンに向き合う。



「待たせて悪かったな」

「お前……どう考えても漏れてるだろ」

「ああ、すまない。音楽が大きかったな」

「お前の声だよ」



 頭を抱えるイアンの姿はここのところよく見る。はあ、とひとつ息をつくと切り替えたのか、はたまた諦めたのか、俺の机に広がっていたものを見た。



「どうやらランタン祭りは成功したようだな」

「ああ、オフィーリアも喜んでくれていた」

「その準備で、ここしばらくは寝ていないだろう。ただでさえお前の業務は多いっていうのに」

「心配してくれているのか。あのイアンが」

「引いてるんだよ、お前の溺愛ぶりに」



 溺愛か。言われてみればそうかもしれない。この十年、彼女にはなにもできなかった。

 近づくことさえ、許されてはいなかったのだ。全ては俺に力がなかったから。



「オフィーリアはお前のことをどこまで知ってるんだ」

「幼少期のころと、騎士団長をしているとこまでは把握させている」



 イアンが口角の片方を上げた。用意周到。おそらくそう思っているのだろう。



「オフィーリアにまで情報の調節をしているのか」

「すべてを知る必要はない」

「ならほとんどお前のことを知らないのも同然じゃないか」



 当たり前だ。彼女にとってノイズとなるものをあえてこちらから伝えることはないのだから。今はただ、俺のことを意識するだけの時間にしてくれればいい。



「そろそろブラックウッド家が黙っていないんじゃないか。お前がオフィーリアの婚約者として自慢げに歩いているところは多くの住人に目撃されているだろう」

「そのことなら問題ない。ブラックウッド家に伝わる情報も調整済みだ」

「そもそも噂の広がりは調整できるもんでもねえんだよ」



 そうだろうか。首を傾げればイアンは「そういうとこだよ」と言う。



「アーロ、お前は自分が思い描いた通りにすべてはうまくいくと思ってるんだろう」

「実際にそうだからな」

「それならもし、あの計画がオフィーリアに伝わったらどうする。彼女はお前を拒絶するかもしれないんだぞ」



 緊張しながらも精一杯俺の婚約者としての務めを果たそうとしてくれている彼女を思い出す。もしあの顔に、拒絶の色でも見てしまったら、俺はおそらく生きていけないだろう。

 だが──。



「それも見込んでの計画だ」

「拒絶されることもか」



 ああ、とうなずいてみせる。強がりなのではない。実際にそれも、オフィーリアを手に入れるため、長年温めてきた計画の一部として存在している。避けられるものであれば、おそらく避けるべきなのだろうが、しかしスパイスも時には必要材料となる。



「大丈夫だよ、イアン。オフィーリアは必ず俺を心の底から愛してくれるから」

「……お前が怖いよ」



***


◇オフィーリア視点


 陽の光が木々の間から差し込み、公園の花壇が美しい色彩で彩られている。手に小さなバスケットを持ち、摘み取ったばかりのハーブや花々をそっと入れていた。アーロはその隣を歩き、時折、私に視線を向けては微笑んでいた。



「今日は天気が良くて気持ちがいいですね」

「そうだね、オフィーリアが一緒だともっと特別な日になる」



 するとアーロは何かに気付いたような顔を見せ、私の髪に手を伸ばした。



「花びらがついていた。よっぽどオフィーリアが気に入ったみたいだ」

「そ、そうでしょうか……?」

「俺はこの花の気持ちがよく分かるよ」アーロはさらに微笑んだ。



 公園のベンチには数人の女性たちが座っており、その光景を遠巻きに見ていた。彼女たちの目はアーロに向けられており、憧れと羨望の色を隠せないでいる。



「アーロ様って、本当に素敵な方ね」

「ええ、あの優しさと気遣い……まるで夢のようだわ」

「オフィーリアさんが羨ましいわ。あんなに溺愛されて一体どんな気持ちなのかしら」



 その時、アーロが急に立ち止まり、私の腕を優しく掴んだ。



「待って、オフィーリア。君の靴紐がほどけている」



 彼は躊躇うことなく地面に片膝をつき、私の靴紐を手際よく結び直した。



「あ、ありがとうございます、アーロ。でも、自分でできますよ」

「婚約者の俺には靴紐を触らせてくれはないのかい?」



 アーロは真剣な表情で言った。その言葉に何も言えなくなり、ただ彼の瞳の中に引き込まれていくような感覚に囚われていた。ただ小さく「いえ……」と恥じらいが出てくるだけ。

 ベンチに座る女性たちは、アーロが見せるその完璧な騎士のような振る舞いに心を奪われた。彼女たちはため息をつき、互いに視線を交わし合った。



「アーロ様のような人に愛されるなんて、なんて幸運なのかしら」

「そうね。私たちも、彼のような人に出会えたらいいのに」



 これも全ては、私たちが婚約していると信じてもらうための偽装工作。

 特別な感情など、どこにもないはずなのに。どうしてこうも、アーロのそばにいると心が浮足立つような気持ちになるのだろう。



「そうだ、オフィーリア。これから予定がなければ、僕に付き合ってくれないかな」

「え……?」

「紹介したいところがあるんだ」



 夕暮れ時、アーロに連れられたのはとある訓練場だった。そこには多くの騎士たちが汗を流していた。



「もしかしてここは……」

「普段はここで過ごすことも多いんだ。身体を動かしていないと鈍ってしまうからね」



 ということは、アーロにとって大切な場所といっても過言ではない。まさかこの場所を紹介したいと言ってくれるなんて。



「来たんだな」



 するとそこへ、ブラウンの長髪の髪をした男が近付いてきた。がっしりとした身体つきはアーロとはまた体格の良さを感じる。



「オフィーリア、紹介する。彼はイアンだ」

「初めまして、オフィーリア。お噂はかねがね」

「は、初めまして。あの、噂と言いますと……?」

「アーロがずいぶんと惚れ込んでいるとね」



 たとえそれがお世辞だったとしても、素直に嬉しいと感じてしまった。



「そういえばアーロ、国王が呼んでいたぞ。直々に話があるとかで」



 その瞬間、二人の間には言い表すことのできない緊張感が走ったように見えた。しかしアーロはすぐに私を見ると、穏やかに微笑んだ。



「すまない、少しイアンと待っていてくれないかな。すぐに戻ってくるから」

「わ、分かりました」



 急用だろうか。アーロを送り出すと、その場にはイアンと私だけが残った。



「アーロとは子どものころからの付き合いだそうですね」

「え……あ、はい。子どものころといっても、ごくわずかな時間でしたけど」

「それからは一度も会うことはなかったとか」

「ええ、十年ぶりに会ったばかりで」

「よく彼のことが分かりましたね」



 それは、自分でも思っていたことだった。アーロと再会するまでは、彼と会っても分かる自信などこれっぽちもなかったのだ。それなのに、なぜ彼がアーロだと分かったのか。



「……笑顔が、変わっていなかったんです」

「へえ、笑顔ですか」

「なんと言ったらいいのか……ただ、私に向けるその顔を見て、すぐにアーロだと気付きました」



 オフィーリアと名前を呼んでくれた彼が、すぐにあのときの少年だと気付くまでにはそう時間もかからなかった。



「だからまたこうして、一緒にいられるのは嬉しいです」

「偽りの婚約をしてでもですか」



 イアンにはそのことが伝えられているのかと知った。それなら、変に誤魔化す心配もなさそうだ。



「はい。もう一度、また会いたいと思っていましたから」

「けれどあいつは──」



 そこまで言いかけて、イアンは口を噤んだ。足音が聞こえたからだ。



「副団長」



 若い騎士たちが近づいてきて、イアンに声をかけた。私を見ると、その顔には「一体だれなのだろう」と探るような視線があった。



「アーロの大事な人だ」



 イアンは何でもないことのようにさらりと言った。かなり誤解を招くような言い方ではあったが、それだけで若い騎士たちは納得したようだった。彼らは微笑みを浮かべて、何か秘密を共有したような感じで頷いた。



「実はさっきアーロ団長の指導を受けていたんですが、本当にすごいんです。剣技の精度はもちろん、あの判断力と落ち着き、どうしたらあんなふうになれるんでしょうか」



 ひとりの騎士が興奮気味に話し始めた。それに続いて、別の騎士も同意するように言葉を重ねる。



「まるで戦場の中にいても、何も恐れないかのような落ち着きぶり。副団長、アーロ団長が戦闘で手傷を負ったところなんて、見たことありますか?」



 若い騎士たちはイアンを見つめ、彼の返事を待った。イアンは少し笑ってから答えた。



「いや、アーロがそんなことになるのを見たことはないな。どんな相手でも冷静に対処して、最終的には勝利を収めている。それがアーロだ」



 騎士たちは感嘆の声を漏らし、さらに話題が広がった。彼らのアーロへの尊敬と羨望の念は一目瞭然だった。



「アーロは騎士団長になる前から、我々の中で一番だった。どんな訓練も、どんな任務も、完璧にこなしてきたし、それ以上に仲間を大切にしてきた」



 イアンの言葉に、若い騎士たちは目を輝かせながら頷く。



「そうですよね。アーロ団長がいると、どんなに厳しい任務でも安心できます。団長の存在だけで、我々全員が士気を高められるんですから」

 


 騎士のひとりがそう言うと、他の騎士たちも声を揃えて同意する。



「ただ、ものすごく怖い方ではありますのでお近づきにはなかなかなれませんが」

「怖い? アーロが……?」



 思わず口に出してしまった。私の知っているアーロは、いつも優しく微笑んでいて、どんな時でも穏やかな声で話しかけてくれる。そんな彼が怖いだなんて、想像もつかなかった。



「団長は、戦場や厳しい状況になるとまるで別人のようになります」



 ひとりの騎士が真剣な表情で答えた。



「それに、規律違反や、隊員同士の不和があれば容赦なく指摘されます怒られてばかりなので、近づくのにはやはり勇気がいりますね」

「そうだったんですね……少し意外です」



 彼がそんなに厳しい一面を持っているとは知らなかった。でも、それもまた彼が持つ責任感の表れなのかもしれない。騎士団の団長として、皆を守り、導くためには、優しさだけでは足りないのだろう。



 イアンが微笑みながら私に目を向けた。



「怖らがないでやってください。厳しいのは俺たちだけで、あなたに厳しくするようなことはないでしょうし」

「ふふ……そうだといいですね」

「待たせてすまない」



 そこへアーロが戻ってくる。



「国王の話はどうだった」

「ただの世間話だったよ」



 苦笑するアーロが私を見た。



「オフィーリア、そろそろ時間だね。君を家まで送るよ」



 アーロの差し出す手に自然と手を重ねた。

 彼と一緒に歩き出すと、騎士たちは少し驚いたようにこちらを見つめていたが、何も言わなかった。さすがにここでも婚約者のフリを徹底させるのは良くなかったのかもしれない。



***


◇アーロ視点


 はああああああああ、可愛いな、本当に可愛い。どこまでも可愛い。この世に存在しているということが罪なのではないか。

 オフィーリアを無事に家まで送り届けると、イアンが俺を待っていた。


「これであの子は安心しただろうな」

「なんのことだ」

「国王に呼ばれたことは想定外だったが、それまでは全部シナリオ通りにしてやっただろ」

「オフィーリアはどんな反応をしていた」

「驚いていたいたな。アーロのことを見直したんじゃないか」

「俺をよく言い過ぎたのか」

「いや、お前が出来る男だというのは事実だろ。嘘は言っていない」



 それならいい。帰り道だってオフィーリアの変化はなかった。

 このまま俺のことを知り、そして愛してくれる可能性には着実に近づいているはずだ。



「もしかして、あれだけの溺愛ぶりも全て計算のうちか?」

「いや、それは本心だ」

「だろうな」



 それは最初から分かっているとでも言いたげな顔だった。可愛げがないのは今に始まったことではないが、協力者としてはこの上なく逸材だ。

 彼がいなければオフィーリアとの時間を確保することもできなかった。



「とはいえ、少しは休んだらどうだ」



 イアンの言葉にふっと笑う。



「いつからそんな過保護になったんだ」

「騎士団としての仕事を疎かにするどころか、完璧にこなしているだろう。それに加えてあの子だ。どう考えても両立できるものじゃない」

「できるさ。今のところ支障はない」

「これからは分からないだろ。お前が倒れたと聞けば国王だって黙ってはない」

「……そうかもしれないな」



 オフィーリアを訓練所に連れてきた直後にあった出来事を思い出す。

 イアンにオフィーリアを託し、俺は城の広間に立っていた。国王の前に直立不動の姿勢で控える。国王は威厳のある老齢の男性だ。



『アーロ、聞いたところによると、村で少々目立つ行動をしているようだな』

『見回りの範囲を広げたいと思っての行動です』

『責めているわけではない。ただ、騎士団長として、無闇に目立つ行動は慎むべきだとは思わんか』



 やはりそうきたか。お説教を聞いている時間はない。さっさとオフィーリアの隣に戻りたい。



『承知しております。あくまでも、私が行っていることは村の安全と平和を守るために行っていることですので、ご理解いただけないでしょうか』



 国王はしばらく黙っていたが、その後すぐにため息をついた。



『よかろう。だが、無用な噂が広まらぬよう、慎重に行動するように。騎士団長たるもの、そして私の右腕となるよう、常に国の利益を第一に考えねばならぬ』

『ご忠告、感謝いたします』



 そろそろ来るころだろうとは思っていたが、やはり国王の耳には入っていたか。

 俺を野放しにしたくないのは、やはり十年前の一件があるからだろう。それでも、この十年大人しくしていたのだから、少しは自由にしてほしいものだ。

 国を守るために尽力はする。だが、最優先事項はオフィーリアだ。



***


◇オフィーリア視点


「ブラックウッド家がこれから来るそうよ」



 その日、早朝から駆け込んできたのはリリーだった。ブラックウッド家、その名を聞いて背筋が凍るような思いだった。


「すぐに村長の家に」と言われ慌てて支度した。アーロにも知らせたかったが、これから手紙を書いたとしても間に合うはずがない。かといってリリーに頼むわけにもいかなかった。

 とにかくすぐ、村長の家に向かわなければならない。おそらく、私に残されている時間はもう少ないのだから。



「驚きましたよ、まさか結婚の話を先延ばしにするなんて」



 村長の家にはすでに、ブラックウッド家の次男、リチャードが到着していた。私を見るや否、言い回しこそはオブラートでも、棘のある言葉を投げてきた。



「申し訳ありません」



 頭を下げても、リチャード気は治まらないらしい。これ見よがしに貧乏ゆすりを続けている。これまで、彼の存在を忘れたわけではなかった。むしろどうにかすべきだと思っていたものの、ずるずると伸ばしてしまったのは事実だ。



「僕が寛大だから時間を設けていることを忘れてもらっては困るねえ。これでも僕は忙しいんだ。それでも君のためにどれだけの労力を割いていると思っているのか」



 リチャードの冷たい視線が私を射抜いた。彼がここまで怒る理由が分からないわけではないが、私にはどうすることもできない。



「本当に、申し訳ありません。ただ、私には……」



 必死に言葉を絞り出そうとするが、うまく説明できる自信はなかった。リチャードの家柄や地位を考えると、彼の機嫌を損ねることがどれほどのリスクを伴うかは理解している。それでも、アーロとの偽りの婚約が頭をよぎると、自然と彼を守りたい気持ちが勝ってしまう。



「ただでさえブラックウッド家が君に興味を持っているのは、君にとって一生に一度のチャンスだろう? それなのに僕を拒むなんて、考え違いもいいところだよ」



 リチャードは肩をすくめ、ため息をついた。



「しかも、君には婚約者がいるそうじゃないか。最近では僕への当てつけのように仲良くしていると聞くよ」

「それは……」

「言ったはずだ、僕は寛大だと。そんなことでは怒りはしない。けれど、賢明な選択をしてほしいとは思っているんだ」



 リチャードの言葉に何も返せず、私は俯いたまま肩を震わせた。なぜ私なのだろう。顔を合わせたこともない。それでも、どこかで顔を知られるタイミングがあったのかもしれない。リチャードは私を見てすぐに、オフィーリアだと分かったのだから。

 そのとき、重い足音が玄関先から響いてきた。



「ご歓談中、失礼します」



 顔を上げると、アーロがそこに立っていた。目が合うと「大丈夫」とやさしく頷いてくれた。



「話はそれくらいにしてもらえませんか」



 アーロは笑顔を浮かべていたけれど、どこか冷たさが含まれていた。リチャードも一瞬驚いた表情を見せたが、すぐににやりと笑みを浮かべた。



「これは、騎士団長殿。お久しぶりですな。まさか、あなたがここにいるとは」

「オフィーリアに無礼な言動をとる者を見過ごすことはできないものですから」



 リチャードは一瞬、アーロの言葉に反応を見せたが、次の瞬間には顔を真っ赤にして怒りを露わにした。



「無礼? 僕が? それを言うならそちらでしょう。婚約者だかなにか知らないが、僕との縁談が決まっている以上は身を引くべきではないのかな」

「縁談……それは一方的なものでも、そう呼ぶのですね。勉強になります」



 アーロは微動だにせず、冷静なまなざしでリチャードを見据えた。しかしリチャードも黙ってはいない。



「どういう意味だ?」



 リチャードの声はさらに険しくなった。彼はアーロに詰め寄り、拳を握りしめたまま睨みつける。



「僕はブラックウッド家の次男だ。僕の意志が一方的だと言いたいのか?」



 アーロは落ち着いた表情のまま、口元に微笑を浮かべた。



「いいえ、立場を理解した上での発言です。しかし、結婚とはひとりでするものでもないでしょう。彼女が望まない縁談を押し付けることは、愛とは言えないのではないですか」

「愛だと? 君がそれを口にするとは滑稽だな。君が本当にオフィーリアのことを考えているなら、身を引くべきだ。君の存在が彼女を傷つけることになるのだから」

「オフィーリアのために身を引くことが彼女の幸せに繋がるなら、私は喜んでそうするでしょう」



 しかし、とアーロは冷たく言った。



「私も、彼女を愛しています。そのことは理解してもらいたものです」



 リチャードは顔を歪め、嫌悪感をあらわにした。



「君の言うことなど、誰も信じはしない。結局のところ、君はただの騎士に過ぎないのだから。僕は貴族だ。僕の言葉のほうが重みがあるのは当然だ」

「そうかもしれません。ですが、オフィーリアにとって、何が重要なのかを決めるのは彼女自身です。私の言葉が軽くても、彼女の心には届くと信じています」



 リチャードの顔はますます赤くなり、怒りのあまり言葉を失ったようだった。アーロの冷静さと揺るぎない態度に対して、何も言い返すことができないように見える。彼は苛立ちを抑えきれず、舌打ちをしてその場を立ち去ろうとした。



「覚えておけ、アーロ」去り際、リチャードは振り返りざまに低く言った。



「このままでは済まさない。僕の名誉を傷つけることがどういうことか、いずれ思い知ることになるだろう」



 アーロはその言葉に対して何も反応せず、ただ静かにリチャードの背中を見送った。彼が完全に視界から消えると、アーロはため息をついて私のほうを振り返った。その表情には一瞬だけ疲れが見えたが、すぐに優しさに変わった。



「嫌な思いをさせてしまったね」

「いえ、助けていただいて……ありがとうございました」

「俺はなにも」



 それから、今までを見守っていた村長やリリーにも同様に詫びを入れた。迷惑をかけてしまったことを私も同じく頭を下げながら「あと少しだけ時間をください」と口にした。

 もう時間などないことを分かっている。これまではリチャードと結婚しなくとも、村が豊かになる方法を考えていた。けれど、リチャードの態度を見て察した。このままでは、私以外の誰かが傷つくことになってしまう。そしてアーロにも、迷惑をかけてしまうだろう。



「婚約者のフリは、もう終わりにしましょう」



 家までの帰り道、言い出せなかったことをアーロに告げた。

 静かな夜道に、風が木々の葉を揺らす音だけが響いている。その音の中で、アーロが短く息を吸ったのが気配で分かった。



「……リチャードのことなら、気にする必要はない」

「嘘は、よくなかったんです」


 周囲を欺くために、そして一番は、私自身の気持ちを優先させてしまった。

 結婚をしたくないと言った私に、アーロは今日まで本当に親身になって助けてくれていた。けれど、これ以上はもう、悪足搔きをしてはいけない。

 そのとき、砂利が擦れるような音がすぐ近くから聞こえた。アーロも同じだったのか、咄嗟に私を抱き寄せては周囲を警戒している。



「……もしかして、誰かに聞かれたのでしょうか」

「今日のところはここまでにしよう。婚約の期間はまだ続けてもいいと思うんだ」



 さ、お入り、とアーロは家に入るよう私の背中をそっと押した。



「警備の者をつけよう。本当は俺がついていたいけど、よからぬ噂を流されてしまうのも避けたいからね」



***


◇アーロ視点


 はあああああ~可愛い。だめだ、可愛い。なぜあんなにも怯えているオフィーリアが可愛く見えてしまうのだろう。俺という人間を心底嫌悪する。しかし、どうか許してほしい。



「だから漏れてんだって。あと、はああああ、から始まるの、デジャブなのか」

「なんの話だ」

「いきなりスンとすんなよ」



 イアンも今日も呆れた顔を披露する。懲りないのか、と向こうも言いたげだ。



「若い騎士に聞いたぞ。リチャードは、さも自分が忙しい人間であるかのように振る舞っていたらしいな」



 ああ、そういえばそんなようなことも聞こえていたな。

 イアンが皮肉めいた顔で口元を歪めた。リチャードの「忙しさ」などというものが、いかにあてにならないかを知っているからだ。



「リチャードが忙しいだなんて、よほど重要なことでもあるらしい」

「まあ、本人いわく、彼の一日はとても充実しているんだとよ。例えば、鏡の前で自分の髪を整える時間だけで、朝の半分を使っているとか」イアンが肩をすくめて続けた。

「それから、村を散策しては、村人たちに自分の偉業を語って聞かせているらしいぞ。どれだけ『勇敢な行い』をしたか、どれだけ『重要な決断』を下したか、まるで国全体を背負っているかのように」

「あの男の口から出てくる話は、聞くたびに新しい英雄譚ができているようだな」

「お前の伝記でも書いているのかと思うほどだ」



 伝記か。そんなものはこの世に決して残すべきものではない。

 ただオフィーリアと共に過ごせればそれでいい。



「けれど──そろそろ潮時かもしれないな」



 イアンが首を傾げる。



「お前の完璧な計画が?」

「ああ、材料をすべて出さずとも、ことはうまくいくはずだ」



***


◇オフィーリア視点



「お集まりの皆さん、聞いていただきたいことがある!」



 広場に買い物へ来ると、なぜか中央に人だかりができていた。声には聞き覚えがある。人だかりの隙間から見えたのは、毅然とした態度で立つリチャードの姿。

 彼の声が広場に響くと、その場にいた人々の視線がさらに集まった。彼は一瞬の沈黙の後、口を開いた。



「皆さんもご存知の通り、オフィーリアとアーロの婚約について噂が広まっています。しかし、私は信頼できる情報筋から驚くべき事実を知りました」



 リチャードは満足げに微笑んで続けた。



「彼らの婚約は偽物です。恋人同士ではないのです! 今まで見せられていたものは、ただの演技にすぎません」



 ……うそ、なんで知っているの?

 もしかしたら、あの気配は彼だったのかもしれない。



「オフィーリアはアーロに愛されているわけではないということはお判りいただけますか。彼女が村の利益のために結婚を拒むための口実として、この偽りの婚約が使われているだけなのです」



 彼の言葉が広場中に広がり、次第に人々の不信感が募っていくのが感じられた。リチャードは笑みを浮かべた。



「そんな話、信じられるか?」



 群衆の中から一人が声を上げた。人々の中には眉をひそめ、リチャードの話に疑念を抱く者もいたが、彼はそのまま話を続けた。



「信じられないのも無理はありません。しかし、皆さん考えてみてください。アーロは騎士団長という立場にある男です。彼が婚約者を選ぶなら、それ相応の貴族の令嬢を選ぶはず。オフィーリアは、ただの村娘に過ぎない。アーロが彼女を本当に愛しているというのなら、なぜ公に発表しないのでしょうか?」



 彼の言葉に、再びざわめきが広がる。

 どうしよう。私のことはどれだけ悪く言われてもいい。でもアーロのことは守りたい。



「私は、この村の未来を案じているだけです。オフィーリアが本当に村のためを思っているのなら、偽りの婚約などせず、正々堂々とリチャード家との縁談を受け入れるべきだ。そうすれば、村はリチャード家の支援を得て、より繁栄することができるのです」



 確かに、リチャード家との結びつきは村にとって有益かもしれないと考え始めた者もいるだろう。



「でも、オフィーリアはどう思っているの?」



 また別の声が上がる。群衆の視線が揺れ動く中、リチャードはその声を無視するように続けた。



「オフィーリアも、この村の未来を考えれば理解してくれるはずです。だからこそ、私は彼女に真実を伝えるため、ここに立っているのです。アーロにとって、オフィーリアはただのお遊びでしかないと」



 ──お遊び。その言葉がやけに耳の奥へと響いた。

 そんはずはない。けれど、リチャードが言っていたことをすべて跳ねのけてしまうのも違うように思える。ただ子どものころ、短い時間を過ごしただけの仲。それだけの理由でどうしてここまで付き合ってくれるのか。

 それは、やはり遊びも含まれていたのかもしれない。



「嘘だったのか…?」

「本当に恋人じゃなかったの?」

「あんなに幸せそうに見えたのに……」

 


 するとひとりが、私の存在に気付いた。「オフィーリア」と名を呼ばれると、一斉に視線を浴びた。



「今の話、どういうことなの⁉」

「私たちを見捨てて、自分だけ幸せになろうとしてるの!?」

「騙すなんてひどいぞ!」



 言葉が詰まり、次が出てこない。視線が刺すように感じ、足元が揺らぐような錯覚に陥る。

 やっぱり、これは嘘をついてしまった罰なんだ。

 せめて、アーロの評判だけは守りたい。

 その時、すっと肩に温かい手が置かれた。


「……アーロ!?」

「オフィーリア、ここは俺に任せて」



 穏やかな声だった。この人はどうして、私が困ったときに颯爽と現れてくれるのだろう。アーロは一歩前に出て、広場の人々に向き直った。



「皆さん、どうか聞いてください。オフィーリアは決して村を見捨てるような人間ではありません。彼女は常に皆さんのことを思い、自分の身を犠牲にしてでも村を守りたいと願っています」



 騎士団長としての威厳なのか、リチャードの発言とは言葉の重みが違うように聞こえる。



「あの男が言ったことは事実ではありません。彼は自分の利益のために偽りの情報を流しているのです」



 けれど納得した者は誰一人としていなかった。



「オフィーリアが結婚しなければ、我々は捨てられたも同然だ!」

「今までの恩を仇で返すつもりか!」



 それはそうだ。私はこの村の人たちに助けてもらった。孤児院に食べ物を分けてくれた人もいれば、勉強を教えてくれる人もいた。それなりに不自由なく過ごせたのは、この村の人たちのおかげと言っても過言ではない。私がきちんと説明しないと。

 けれどそれは、アーロの手によって制止された。



「彼女が仇で返す人ではないと、皆さんのほうがよくご存知ではないのですか。それに、オフィーリアと私は偽りの婚約をしているわけではない。私たちは互いを大切に思い合っている。どうかそのことを理解してください」



 アーロが毅然とした態度で言うと、リチャードの顔には苛立ちが浮かんでいた。



「嘘だ! アーロ、お前が何を言おうと俺は信じない。それとも、お前にはこの村を救える手段でも持っているとでもいうのか」



 リチャードの言葉に群衆の視線が再び集まり、アーロは一瞬だけ私の方を振り返った。そして、私の手を取り、しっかりと握りしめた──かと思ったのに。

 アーロと目が合う。「ごめん」と小さく呟いたそれを、聞き逃してしまいそうだった。

 どうして謝るの……?

 聞く前に、アーロが意を決したように前を見た。そして、その手はゆっくりと解かれた。私の手は今、寂しく宙に取り残されている。



「この土地のことなら、心配することはありません。私が引き受けましょう」



 なにを言っているの。そんなこと、アーロに出来るはずはない。この村を救えるだけの財産は、ブラックウッド家ぐらいしかないというのに。いくらアーロでも、そこまでのことができるわけはない。



「引き受ける? ただの騎士団長のお前が、この村ごと救えるとでも言うのか」



 リチャードが鼻で笑う。しかしアーロは動揺することなく、目を閉じ、そして再び私を見た。「オフィーリア」呼びかけられるその声は、いつにも増して悲しみが詰まっていた。



「君に、伝えていなかったことがある」

「……え」



 どうしたの、アーロ。それは言葉にならなかった。



「俺は……国王の息子だ。だから、この村を救うことはできてしまうんだよ」



 国王? 

 今、アーロはそう言ったの?

 信じられない。

 まさか彼がそんな立場にあるなんて、想像したこともなかった。でもアーロの顔には真剣な表情が浮かんでいて、冗談を言っているようには見えない。



「嘘でしょう?」私は思わず問いかけた。「だって、アーロが王子なんて……」



 アーロはゆっくりと首を振り、私の目を真っ直ぐに見つめた。



「今まで隠していたのは、君を巻き込みたくなかったからだ。王子であるという立場が、必ずしも幸せを意味するわけではないからね。君には普通の生活を送ってほしかった。だが、もうそれを隠しておくわけにはいかない状況になってしまったんだ」



 彼の言葉には隠し切れない苦悩がにじんでいた。私のために、ずっと自分を偽ってきたのだろう。そんな彼の姿に胸が痛んだ。



「だから、これで君は結婚をする理由もなくなる」

「そんな」

「今まで騙していてすまない。オフィーリアと一緒に過ごしたかったんだ。でも、これ以上巻き込むわけにはいかない」



 アーロが優しく微笑んだ。


「幸せになってくれ。」



 そして、二度と私を見ることはなかった。

 幸せに、その言葉が合図だったかのように、多くの若い騎士たちが馬に乗って駆け寄ってくる。その中には、以前、訓練所で会った人たちもいる。

 たしかにアーロは王子のようだった。初めて会ったときから、その印象は変わらない。

 けれど今、騎士たちはアーロを見て「団長」とは呼ばない。



「このお方は、第一王子、アーロ・オルレアン様である。直々にこの村の視察に参られ、寄付をするべきかどうかを検討されていた」



 彼がここに来た意味。それらをつらつらと並べられるけれど、私の耳にはすんなりと入ってはこない。遠くでリチャードが一足早くこの場を逃げていくのが見えた。でも、そんなことはどうだってよかった。



「諸々の審議を行い、寄付に値する村だということが今日決定された。よって、リチャードとオフィーリアの結婚については無効とする」



 無効。つまり私はリチャードと結婚する必要はなくなった。

 でも、これでいいの?

 本当にこれでよかったの?

 アーロは背を向けて去って行こうとした。その姿を見送りながら、胸が締め付けられるような痛みを感じた。



「待って、アーロ!」



 思わず叫んでいた。アーロが立ち止まり、振り返る。



「あなたが王子だってこと、知りませんでした。偽りの婚約も、寄付の話も、全部私を守るためにしてくれたのは分かります。でも、私は……」



 リチャードとの縁談が無効になっても、村は確かに救われる。だけど、それで私たちの関係が終わってしまうの? また会えなくなるの?



「私はあなたを利用してしまったのですか……?」



 教えてほしい。あなたはどうして、私の前に現れたのか。



「私のために、あなたが王子であることまで隠して……それは、あなたにとって辛い時間にはなりませんでしたか」



 アーロは一瞬目を伏せたが、すぐに私に向かってゆっくりと歩み寄った。



「オフィーリア、俺は、ただのアーロでいられることが本当に嬉しかったんだよ」

「……そんな」

「けれど、王子であることが知られてしまったからには、もうオフィーリアと一緒にいることはできない。それが、この村を救うために必要なことなんだ」

「……どういう、ことですか」

「君と離れることが、この村を救う条件だったから」



 その言葉が、私の胸に鋭く突き刺さった。



「……条件? どうして私と離れることが、村を救うことになるのですか?」



 声が震えていた。けれどアーロの表情は変わらないまま、優しさと悲しみをたたえた瞳で私を見つめていた。



「この村が寄付を受けるためには、俺が王子としての役割を果たし、王国の利益を最優先に考えることが求められる。リチャードとの縁談がなくなり、村が救われるためには、私が村から身を引く必要があるんだ。王子としての義務を果たすために、そして君の名誉を守るために」



 彼の言葉を理解するのに、少し時間がかかった。彼は村のために、そして私のために、自らを犠牲にしようとしている。それは、彼の優しさの表れだった。それが私にとっては耐え難い事実だった。



「アーロ……私は──」

「俺がいなくても、君は幸せになれる。そう信じているよ」



 アーロはそう言って、私から一歩離れた。その姿が遠ざかるのを見て、私は手を伸ばしたくなったが、何もできずに立ち尽くしていた。彼の背中が見えなくなるまで、その場に立ち続けた。


 アーロが姿を現さなくなって数日が経った。

 村は以前と変わらず、いつもの日常を続けていたけれど、私の心はどこか空虚で、まるで時間が止まってしまったかのような気がしていた。

 朝起きても、目の前に広がる景色に色がなく、耳に入る鳥のさえずりさえも遠く感じる。村の人々と交わす言葉も上の空で、彼らの笑顔を見ても心から笑えなくなってしまった。

 彼がいなくなったことで、村の寄付の話が進んでいることは知っている。それでも、その寄付が私たちにとってどれほど重要なものか、理解しようとする意欲すら失ってしまっていた。

 彼が私のそばにいないことが、私にとって何よりも重要だったのだから。



「オフィーリア、大丈夫?」



 声に気づいて顔を上げると、リリーが心配そうにこちらを見ていた。



「……ありがとうございます、リリー。今日も来てくれたんですね」

「村長がこれを持って行けって……食べられるか分からないけれど」



 リリーは毎日のように食材を持って来てくれる。村長が気にかけてくれるのは本当だと思うけど、彼女が一番心配してくれているのだろう。

 ねえ、オフィーリアと彼女がりんごを拭きながら言った。



「アーロ様がいなくなってから、元気をなくしているのはみんな知ってるわ。今でも、あなたたちが偽りの婚約を結んでいたなんて信じられないもの。あれは本当に愛し合っていた二人だから」

「……そう見えてくれていたら成功ですね」



 偽りだった。婚約者のフリをすることで、お互いが協力関係を結んだ。

 本当に愛し合っていたなんて、そんなはずはない。



「オフィーリアのためを想って、アーロ様がこの村を離れることを選んだのよね」

「ええ、とても優しい方で……」

「オフィーリアはアーロ様を愛してはいなかったの?」



 直球過ぎるその問いかけに、息が止まった。



「……それは」

「私は、あなたに幸せになってもらいたい。その幸せは、アーロ様の隣で得られるものだと思っているのよ」



 隣、となぞる。けれど私が彼の隣にいることは許されない。彼はこの国の王となられる人なのかもしれないのだから。そんな人に、私が近付くことなどあってはならない。



「私は、気持ちを伝えることはいいと思う」

「リリー」

「だって、オフィーリアはアーロ様を愛しているでしょう」



 はっとした。愛している。そんなはずはない。そんなはずは──本当に?

 愛していなかったのなら、この喪失感はなんと言えばいいの。アーロが会えない日々をこんなにも憂いているのはなぜなの。私は彼を──「愛していました」

 涙が出た。頬を伝うそれを、リリーがそっと拭ってくれる。



「それなら、もう答えは決まっているじゃない。アーロ様に会いに行かないと」



 そのとき、足音が聞こえた。玄関扉をノックする音。そこにはイアンがいた。どうして彼がここに。



「呼ばれたような気がしてね」



 ふっと笑った彼は、後ろに控えていた馬を見る。



「寄付のことで村に寄っていたんだ。残念ながらアーロはいないけど」



「……あの、私」

「アーロのもとに行きたいんだろう」



 イアンの言葉に胸が高鳴る。アーロのもとに行く。その考えが頭の中でぐるぐると回り、次第にそれが唯一の選択肢のように思えてきた。けれど、不安もあった。彼を追いかけることが正しいのだろうか。



「オフィーリア、あのアーロ様が、あなたを拒むわけがないわ。彼がどれだけあなたを大切に思っているか、誰よりも分かっているはずよ。それに、たとえ拒まれたとしても、あなたの気持ちを伝えることは大事よ」



 リリーの言葉は、私の心を少しだけ軽くしてくれた。それでも恐怖は完全に消えることはなかった。イアンが一歩前に出て、真剣な眼差しで私を見つめた。



「オフィーリア、君が迷っているのは分かる。でも、アーロのことを愛しているなら、行動を起こすべきだ。彼も君のことをずっと思っている。だから、君が彼のもとに行けば、きっと喜ぶはずさ」



 彼はアーロの側近として、私以上にアーロの気持ちを理解しているのかもしれない。その彼が言うなら、信じてみる価値がある。アーロのために、そして自分のために。



「……お願いします。私をアーロのもとに連れて行ってください



***



◇アーロ視点


 オフィーリアと会えなくなってからというもの、世界は灰色と化していた。見るもの全てに嫌気が差してくる。これまで、彼女のことだけを考えて生きてきた。



『ここにいたんですね』



 あの日。彼女と初めて会った日のことを思い出す。

 王家の人間であること、そして将来、この国を背負わなければいけないこと、それらを全部捨ててしまいたくなった。城を抜け出したのは、ここにいては自分が自分ではなくなると思ったからだった。

 幼いころから、王になるためだけに教育をされ、生かされて続けてきた。俺は、王にはなりたくない。その一心で走り続けた先が、オフィーリアがいる村だった。

 とにかくなにもなく、そして寂れた村だった。こんな場所で生きられるのかと思ったほどだ。そんな場所で、俺という存在が浮いていたのもたしかだ。身なりが金になると思ったのだろう。ごろつきに狙われ、いよいよ逃げ場をなくしていたとき、オフィーリアが言った言葉が「ここにいたんですね」だった。



『すぐそこまでお父様が探しに来ています。一緒に戻りましょう』



 悪そうな男たちに臆することなく、オフィーリアは微笑み俺の手を取った。その手が震えていることに気付いたとき、この子はとても怖い思いをしているのだと知った。

 見ず知らずの俺を助ける勇気。そんなもの、俺にはなかった。

 男たちは親の存在を疑ったが、あまりにもオフィーリアが穏やかさを装うものだから、諦めて去って行った。お父様が、もしかしたら国王なのかと怖くなったが、そんなことはなかった。「嘘をついてしまいました」そう言った彼女の笑顔に、俺は落ちていた。

 とても短い間だった。国王に、俺が村に入り浸っているという情報が流れるまで、俺は毎日のようにオフィーリアのもとに足を運んだ。一緒にいられないことは分かっていた。

 彼女の暮らしはとても裕福とは言えなかったからだ。それでも彼女は健気で、そして俺をどこまでも癒してくれた。

 国王から、オフィーリアのことが知られてしまってからというのも、彼女とは二度と会うことは許されなかった。そのとき、彼女の両親が不慮の事故で亡くなり、オフィーリアが孤児院に入ったということも知った。すぐにでも駆け付けたかった。けれど幼い俺には許されるはずもなかった。

 力をつけよう。彼女の隣に相応しい男にならなければならない。

 より一層、稽古に励み騎士団長という肩書を持つころには、王も俺を信頼していた。その間にも、オフィーリアのことを忘れなかった。彼女の一番近くにいるリリーという少女を知ったときはチャンスだと思った。

 彼女を利用しよう。俺という名前を伏せ、オフィーリアの近況を知らせる手紙を送るように伝えた。彼女にはとても感謝している。

 何度かオフィーリアを見にも行った。もちろん遠巻きではあったけれど、彼女の姿を見ることで自分を奮起させていた。いつか迎えに行くよ。そのときが来るまで、君はずっと、他の男のものにはならないで。

 オフィーリアに近づこうとする男の情報が入れば、すぐに始末した。取引を持ち掛ければ、男たちは簡単にオフィーリアを諦めた。それぐらいの気持ちでしかない男ばかりだった。

 だが、リチャードは違った。オフィーリアを一目見て惚れ、執拗に彼女へ付きまとうようになった。オフィーリアには気づかれないような距離で。見ていて腹立たしかった。すぐに始末することもできたが、俺の計画に必要な男のようにも思えてきた。

 オフィーリアを俺だけのものにする。

 その計画に、あの男を使おう。結婚を申し込ませたのも、今ならオフィーリアが結婚を考えるかもしれないと、ブラックウッド家をそそのかしたからだ。リチャードはすぐに動いた。とても滑稽だった。

 俺との再会を、オフィーリアは疑うこともなかった。俺が今までオフィーリアを見てきたことも当然知らないようだった。それでいい。今は──。

 足音が聞こえてくる。ああ、彼女だ。やはり来てくれた。

 ここまで全て、君を手に入れるための計画だと話したら、どんな顔をするのだろうか。あえて距離を取ったことまで計算だったとすれば。

 それでも、俺は彼女がほしい。どこまでも、彼女だけを求めている。

 会えなくなる期間はたしかに灰色でしかなかったが、数日の我慢だと言い聞かせた。

 あとはリリーやイアンが計画通りに動いてくれるだろうと見込んでいた。やはり二人を残しておいてよかった。素晴らしい協力者たちだ。



「アーロ」



 扉越しに彼女のか弱い声が聞こえる。待っていた、このときを。きっと君は、俺に愛を囁いてくれるだろう。そうしてくれないと困る。だってこれほどまでに愛しているのだから。



「オフィーリア、愛しているよ。どこまでも」



 そっと囁いてから、俺は扉へと近づいた。

 もうずっと、離さない。だから俺と結婚しよう。そう言えば、どんな顔をするだろうか。


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