第二夜 上
お待たせしました、第二夜、開幕です!
第二夜も三日間に分けて投稿していきます、よろしくお願いします。
◇各エピソードに関して、実際の法令、事案、事件、機関とは一切関係はありません。あくまでフィクションとしてお願いします。
――さくり、さくり、と男が一人、雪原を踏み締める。一定に刻まれる息づかい、耳が痛く、鼻から抜ける、キン、と肺胞の隅々まで凍みるような空気は、否が応でも彼に生を感じさせた。
軽装で雪山を一人彷徨う羽目となった百合咲宗は、なぜこんなことになってしまったのかと、裸木を横目に想起する。
◇
さて、冒頭より一月程前のことである。白樺探偵事務所に一件の依頼が舞い込んだ。浮気調査の依頼である。
日本の何処の探偵事務所もそうらしいのだが、おおよそ、全体の依頼の六割以上は不貞行為の裏取りが主になる。ご多分に漏れず、この事務所の主な収入源はそういった裏切りを詳らかにすることであった。故に、所謂修羅場と呼ばれるものへの場数が増えていく為、浮気、不倫、不特定多数との不健全交友等という考え、思考の回路にその手の発想がもともと備わっていない百合は、どうにも生温い目で見がちな心中をひた隠しにしつつ、さりとて助手としての仕事には真摯に取り組んでいた。
今回、事務所まで訪ねてきた依頼人は、四十代半ばの既婚男性で新野と名乗った。
「――エエ、探偵さん。分かっとります。なんぞ、情けない話の限りです。家内が不倫しているのではないか……。ワタシはそう疑っているんです」
家庭の恥部を晒す行為となれば、それなりに経験を積んでいるだろう大の男であっても、白毛の混じった眉を寄せて、思い詰めた様子で口火を切った。
探偵事務所の主である白椛春洋は、「そう、ハッキリ仰るような、――何か、理由がお有りですか」と依頼人へ続きを促す。
「……最初は、『自分も四十に近くなってきたから、健康に気を使いたい』と、近所のジムに通い出したんです。子供たちも中学生になって大きくなったものだし。自前でパートタイムで稼いだ給料から捻出していたもんで。まぁ、運動不足解消は良い心がけですし、好きにしたら良いと思っておりました。
……ただ、通い出してた当初はスッピンに普通の動きやすそうな女性用の運動着で、向かっていたので本当に運動の為に通い出したのだなぁと思っておったのですが、……いつからか、ジムに向かうのにすっかり化粧をして、髪を整えて向かい始めたのに気付いたんです。そうして、違和感に気付いてしまえば後は芋づる式で――」
目を瞑り、疑念を訥々と語りだす新野は、憔悴した様子で話すと、
「もしかして、もしかするのではないか。普段なら、気にならない事も気になってしまい……。探偵さん、お願いします。どうか疑念を晴らして頂けないでしょうか?」
そう、締め括った。依頼人の口述をすっかり聴き取った探偵は、
「――ええ、分かりました。まずは、ウチで調査をしましょう」
と、浮気調査を開始したのだった。
◇
調査を開始して程なく、件の会員制ジムに潜入したり、夫である依頼人の協力や、調査対象である妻の職場先などに張り込みをした結果、依然決定的な証拠こそ掴めはしなかったが、状況的には、ほぼクロであると判断した。
対象の不倫相手は、同じ会員制のジムに通っていた、渡邊という三十代男性会社員であると踏んだのだ。聞き込みによれば、彼にはそもそも離婚歴が有り、元妻との間には子供が一人、元妻の方に引き取られた形でおり、養育費を支払っている状態であるとのこと。そして、離婚理由は夫側の不貞行為。本案件の調査対象である新野の妻以外にも、彼には学生時代から肉体関係のある女性の友人がいることまで判明したのだ。
「……さて、ここまで俺達で調査した結果を踏まえると、俺としては、残念なことに新野さんの疑念は的中したのだろうと考えるが、百合はどう考えている?」
白樺探偵事務所にて依頼人を挟まないで行う、調査の経過報告の二人会議で白椛は、助手にそう話を向ける。
「そうだなァ……。俺もホテルなり、相手のアパートなりに二人で向かう写真が撮れたらもう終いだろうなァと思う」
話し合い用に淹れておいた番茶を啜りながら、百合はそう答えた後、ややあってから「ただなァ」と呟いて、
「如何せん、決定的な現場を撮れた訳じゃない。あくまでも、心象がクロってだけで俺達の当て推量に過ぎない」
と、デスクチェアに思いっきり寄りかかり、ギィと椅子が悲鳴を上げる。
「……調査の為に入会したジムでもきゃいきゃいと男に入れあげていた様子に見えた――ただの友人にしては、余りにも目に余るくらいには」
「さてな、どこからが浮気とするかだ。俺なら、今の情報だけでも真っ黒だと思うがなァ? 現状ジムの外で会っても外食、それも昼時の事だから、不貞調査の証拠としては杞憂で良いとこ止まりだろ。まァ、なんだ、いずれ尻尾を出すとは思うがな」
「ふむ、そうだな。ところで百合、渡邊の学生時代からの友人の方の調査、どうなった?」
それまで探偵と助手の二人だけの場であるからか、片手に持ったままのペンをプラプラとさせていた百合であったが、白椛の最後の問いにピタとペンを止めると、嫌なことを思い出した、と苦虫を噛み潰したような顔になる。「んァ? あ~、あれなァ」と、口を開こうとしたが、
〈――じりぃぃん、じりぃぃん、じりぃぃん〉
白樺探偵事務所に備え付けられている、骨董品どころか、最早曰く付きの黒電話が現役で鳴り始めた。
そして、開こうとした口を再び閉じた助手は、慣れた様子でおもむろに丁度三コール目で受話器を取った。
「はい、こちらは白樺探偵事務所。ご要件は何でしょうか?」
「――もしもし、新野です」
「ああ、新野さんでしたか、どうかなさいましたか?」
「エエ、はい。その後の進捗は、どうなりましたかね」
ちら、と横目で受話器からの音声が聞こえていただろう白椛に視線を向けると、無言で首を横に振ったので、取り敢えず、定型通りの返答として、
「――申し訳ありませんが、契約時にもお伝えした通り、現在調査中である場合、依頼人の方に進捗の詳細はお話しできない決まりとなっておりますので、お伝えすることができません」
と、丁寧に伝える。
「……イエ、すみません。つい」
「いえ、お伝えすることは出来ませんが、気になってしまうお気持ちは分かりますので、余りご無理はなさらないで下さい」
そこに、白椛が会話の続きを促すようにと、ジェスチャーしたのを視認した百合は頷くと、そのまま、
「それで、他に何か新野さんの方で新たに気付いたことはありましたか?」
と、水を向ける。
「エエ、……エエ。実はあります」
「そうでしたか。お話は、出来ますでしょうか?」
少しの間が入り、コクリとツバを飲み込んだような音が受話器から出た後、
「はい。それが、何やら泊まりがけの用事が出来た、と妻が話してきたのです」
と話したのだ。
「成る程、詳しくお聞かせ下さい」
「ワタシには、近々昔からの友人達とスキーに遊びに行くのだ、と、そう話すのですが、エエ、イヤな虫の知らせですよ。ピンと来まして、男と行くんじゃないかと。……その日の近辺はワタシも前々から決まっていた県外の出張があるんです。息子も、もう中学生で、ワタシの親、つまり、祖父母とも同居してますので一泊や二泊程度の旅行であれば、確かに問題はありません、が」
「どうにも胸騒ぎがすると」
「……エエ、そうなんです。一応探偵さん方にもお伝えしておこうかと」
「――分かりました。白椛にも伝えておきます。ご連絡ありがとうございます」
「イエ、お構いなく。では、よろしくお願いします」
――プツリと、通話が終わった。
しかし、切れた後一定の間隔でツーツーと鳴っていた音が、不自然にブッと雑音が入り途切れたのである。
いつぞやの既視感からか、百合の口から「ゲッ」と、遂、うめき声が漏れる。しかし、否応なしに黒電話は仕事を続け、
〈-・-・・ ・--- ・--・ -・-- -- 〉
受話器から三回ほどの信号音を繰り返し流したのである。
受話器を暫く胡乱な目で見つめていた助手であったが、とうとう観念したのか、そっと沈黙した黒電話に受話器を戻した。そして、現実逃避気味に「ハァ〜。浮気なんてクソだ……」とぼやいた。探偵はおもむろに近づき、項垂れる助手を宥めるように肩に手を置く。
「今のモールスは、そうか、黒電話からの忠告文だな、『きをつけよ』という意味の」
「……忠告してくれる事にケチ付けるつもりもないが、――何に気を付けたら良いんだ、刃傷沙汰かァ?」
「滅多なことを言うもんでもないよ、咲宗」
「浮気現場の修羅場といや、刃物振り回しました〜、だろ。……たく、浮気なんて大っ嫌いだ、なァ、オッサンも考えた事すらないだろ?」
問われた白椛は、きょとんとした顔になり、
「確かに、無いな」とつぶやいた。それを聞いた百合は気分が上向いたのか、ニヤリと笑いながら、
「仮にもし浮気したら、クシャクシャにするからな」
と、宣言した。
◇
依頼人から聞いた日付当日、新野宅に探偵が張り込みをしていると、アウトドア用のリュックサックを背負った調査対象が出てくるのを視認できた。
すぐに、近場で待機していた助手に連絡を取り、見失わない内に合流する。対象は路線バスを利用するようなので、最寄りのバス停の時刻表から路線を同定し、バスに対して付かず離れずな程度に車で尾行する事にしたのである。
助手の愛車であるボルカニックオレンジのミニクーパーは、雪道にとても映える車ではあるが、スキー場に向かう行楽客に紛れるならば、そこまで悪目立ちしないだろうということで選択した。
「――さて、動き出したな」
白椛は車のホルダーにセットされたスマートフォンのカメラの動作を確認しながら、そう呟くと、自身の腕時計に
「時刻は午前七時二十分移動」と録音する。
尾行後、暫くして市内の住宅地内で対象がバスより降車するのを確認すると、運転手である百合はそのまま新野の妻がカメラの視界に入るように、近隣のコンビニに停車した。
「――ちょっとコーヒー買ってくる。春さんは何か欲しいものあるか?」
怪しまれない程度に買い物を済ませようと百合がそう提案すると、
「……あぁ、そうだな。――カイロでも買っとくと良いかもな」
監視を続けながらも白椛はそう答える。
「あ〜、確かになァ。……分かった。すぐ戻る」
百合はささっとコンビニでめぼしい商品を見繕って領収書を切った後、車に舞い戻った。
「――んむ。で? 対象はまだ、待ちの状態みたいだな」
「ああ、動きはまだないが……」
白椛の視線が百合の手元、ほかほかの肉まんに集まる。
「ん? 春さんも、食べたかったのか? 悪いが俺の食べさししか渡せないが」
と、半分ほどかじった後の肉まんを横に差し出した。
「いや、それ百合が食べきれなかっただけだろう」
と、二口で白椛の口に消えた。
「ふ。いやァ、悪いなァ。それでも食べたかったもんで」
「別に構わないが。朝は小鳥のエサほどしか、口にしない咲宗にしちゃ珍しいとは思ったな」
「……うるせェ。体質だって言ってんだろ。一日通しての摂取カロリーは人並みとってるんだから」
二人が軽口の応酬をしていると、一台の乗用車が彼らの目に留まり、示し合わせた様に仕事用の空気に戻る。
見覚えのあるナンバープレート、渡邊のレクサスである。
「時刻は午前八時二十一分合流のち移動」
住宅地を抜け、段々と閑散としていく山道を走るレクサスを追い掛ける助手は、カーナビを確認しながら、概ねスキーに遊びに行くという言葉自体は嘘ではなさそうだ、と探偵と立てた目算通りで少し安堵した。
「このルートだと、確かにこの先めぼしい施設はスキー場くらいだな。や、ここから、鄙びた、よく分からない場所にある、いつからあるかも分からないラブホに向かうかもしれねェが……」
「それなら、それで証拠を押さえるだけだ」
「あの、よく分かんねぇホテル利用者って令和にも存在してんのかな……」
「……運営が成り立ってんならそうだろうよ」
「そりゃ、そうか。……ん? もしかしてオッサン、利用したことある?」
「あ? ――利用したことはない。……前職で少しだけ関わったことがある」
「話せないやつか?」
「話せないやつだな」
「そっか。なら、仕方ねェな。許そう」
「そうか、許されたか」
今日は積雪状況も良く、快晴。平日ではあるが、それなりの人数がウィンタースポーツを楽しむ為にスキー場に向かっている様であった。
そのうち、追跡していたレクサスもスキー場の一つに入っていったのを確認する。少し離れた位置に助手も車を停めて、調査対象を不自然にならない程度に観察した。
すると、車内で渡邊と新野の妻が、スキーウェアを着用し始めたのが見えたので、
「じゃあ、手筈通りに、俺が、一式借りてくるから! 春さんは、ドクターストップだからな!」
「分かってる、分かってる。ここで待ってるからな」
ヒラヒラと手のひらを振る白椛を置いて百合は一人で、スキー場のレンタルショップに行く。種類がそこまである訳ではないので、ざっくりと、ウェアや小物を、何から何まで選び、借りる手続きをした。
如何にも恋人同士の逢瀬であると言わんばかりに、きゃらきゃらと準備を進めていた調査対象二人よりも、先に派手な蛍光イエローのトップにグレーのボトムなスキーウェアを着用した百合がガツン、ガツンとスキーブーツを踏み鳴らして戻って来る方が速かった。
「ほら、カメラ着けてやるからこっち来い」
白椛は、助手のチェスト部分にアクションカメラを「苦しくないか」「ないない」と取り付ける。
「そう言えば、メガネはどうするんだ?」
「ん~? コンタクトも持ってきてはいたけど、レンタルの受付に行ったらメガネ用のゴーグルの貸し出しもあったから、それ借りてきた」
「そうか」
そうこうしている内に、調査対象の二人がゲレンデに移動を始めたので、尾行を開始する。
漏れ聞こえる会話によると、二人ともウェアは自前で用意して、スノーボードはレンタルする様で、受付に向かっていった。
百合は突き刺して置いておいた、借りているスキー板とストックを回収し、リフトエリア近くで、白椛と持ち場の確認をする。
「じゃあ、俺が滑ってくるから、春さんはセンターハウスで留守番だな」
「……はぁ。まぁ、百合なら大丈夫だろうが、任せた。俺も、同行できたら良かったんだがな」
「寛解した歩行障害の症状を悪化させる気か????」
「悪かった、悪かった」
「許さない」
「コレは許されないのか……。そうか」
徐に、ガバリと白椛が百合を抱き締めてきて、ウェアが、がさりと音を立てる。
百合が突然の事に目を白黒させている内に白椛の少しカサついた温かい頬が接触し、スリと擦り合わせてきた。――頬擦りである。
「楽しんでこいよ」
と、ニカリと、小憎たらしく笑う白椛の意図を一瞬で察した百合は、とびきりの笑顔で、
「勿論」
と返した。
そう、紛れもなくバカップルの図の完成である。
探偵が、周囲に二人の関係の属性の開示をする事で詮索されにくくし、仕事をスムーズにこなす為に行ったのだ、多分。後、下心。
「何かあったら、連絡しろよ」
と、白椛はこの場を去っていった。ポツポツといる、周囲のスキーヤー達の生温い目を尻目に百合を置いていったのだ。
ほどなくして、入れ替わる様に調査対象の二人がリフトエリアまで来たので、百合は、しれっと、身繕いをした振りをしてタイミングを合わせて、次のペアリフトに乗り込める様に調整をした。
――心中では、スカしたオッサンをタコ殴りにしつつ。
レーンに一人で並び、誘導員に見守られながら、滑走して対象のリフトから空席一つ挟んですぐのリフトに乗り込む事が出来た。
グォンと、身体が持ち上がる感覚と共に降りてきたバーに足を乗せ、一息ついた。
百合は、ゴーグルに隠れているだろうと横着して生温い目を隠そうともせず、前方の二人を観察する。ズルズルとワイヤーの巻かれる音、ゲレンデのスピーカーから流れる往年のヒット曲メドレーの合間から、途切れ途切れに聴こえてくる会話をスマートフォンにメモしていく。
すると、会話が盛り上がったからなのか、対象の二人の頭が重なったのだ。
――胸元のアクションカメラは起動中、ということでデータさえ取れていれば、これが証拠になる。
ただ、二人ともウェアや帽子を着込んだ状態なので、人物の特定が映像では難しい可能性もあった。故に念の為、調査は続行かァと、百合はぶすくれた気持ちになりつつも、真面目に仕事をこなしていた。
彼等とは接触しない程度に滑走し、観察していたが、どうやら渡邊がスノーボード初心者の新野の妻にスノーボードを教える、という体で、スキー場に来たようである。
若い男女のカップルにはありがちな、転んだりなんだりしながら、滑り方のレクチャーをしていた。……学生どころか不倫カップルではあるが。
ウィンタースポーツのデートとはこういうものだったか? と、百合は、自身の学生時代を思い出そうとしても、大学生の頃は実習に参加できなくなるような大怪我に繋がりやすいスポーツは避けていた。高校生の頃に至っては、家族と来た程度である。ようは、見た事はあっても経験したことはなかったな……。と、百合には結局、分からないことが分かった程度であった。
百合としては、実に高校ぶりのスキーではあったが、片方が完全に初心者の二人を尾行するのは割に容易なくらいの腕前なので、難なく怪しまれずにセンターハウスまで降りてこれた。
さて、助手は漏れ聞こえた会話から次に二人が滑るコースを特定し、ゲレンデの大きな案内図から調べて、二人と下流の方で合流する、中・上級者コースのかまいたちラインとやらを次に滑る事にした。そこそこ滑れる人間が、初心者と同じコースを何度も滑るのは流石に不自然であるので。
百合は、スキー板を外して、ゴンドラの側面に預けてから、素早く乗り込む。他の乗客は、二人おり、同じく一人客同士のスキーヤーと同乗する事になった。ゴンドラから危なげなく降りて、少しひらけた場所でスキー板を嵌める。
そうして、暫く滑走していると、ストックを振り回して合図する人間を見つけた。
咄嗟に、調査の事が百合の頭を過るが、明らかに自身に向けての合図の様にも見えてしまい、無視をするのもどうなんだと、減速しながら近づくのだった。
――シュルル、と減速してから止まり、
「どうかしました?」
と、上下黒色のウェアで分かりづらいが、百合より少し背丈のあって体格も良さそうな、百八十後半程の身長に見える男に話しかける。
「あ~、ゴメンなぁ? 話しかけて、――ちょっと気になることが合ってさ」
「はぁ、気になること」
男に、こっちこっちと手招きされて指差した路面の先には、なにやら、動物の足跡がくっきり残っていた。
「クマやろうなぁ、と思うんだけど、兄さんはどう思う?」
「――俺も詳しくないが、大型の獣の足跡のように見えます」
「そうかい」
ふと、その時、差し込んだ雲の隙間から差し込んだ強烈な太陽光に百合の目が眩んだ。
チカチカと閃輝暗点で二進も三進もいかない中、男の顔が捉えられない事に気がついてしまったのだ。
――見ていられない、というより、顔がある筈の位置に、焦点を定められない。
そんな疑問もすぐに突発的な偏頭痛に襲われた事によって、強制的に脳内から霧散させられた。百合は咄嗟の反応としてしゃがみ込むと、〈ざんねん〉と鼓膜を直に震わすような音が聞こえてくる。
「まあ、兄さん。気いつけてね」
そんな声と共にゆらりと、揺らめいて気配が消えた。ギシギシと痛む頭と心臓に怒りさえ覚えたが、それでも、遠く聞こえていた、ゲレンデに流れる安っぽいラブソングが直に百合の耳に戻って来ると、酷く安堵した。彼は頭を緩慢に降り、ゆっくりと立ち上がる。どうやら、男が文字通り霧のように消えた以外の異変はなさそうである。
とりあえず、アクションカメラにも録画できているとは思うが、念の為、ウェアの胸ポケットからスマートフォンを取り出してクマの足跡を撮影する。
「ハ〜〜。帰りてェ……」
しなびた茄子のようなシワシワな心で、雪山を再び滑っていく百合であった。




