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第一夜 中

 


 探偵事務所までの帰り道。時刻は正午を少し過ぎた頃、ギラギラと谷間に指した太陽光線は、濛々と陽炎を生み出していた。


 ――ふわふわ、ゆらりと、ユラユラと揺れ動く何かは紫陽花の咲く路傍より道中へ飛び出した。


 ハッとそれに気が付いた白椛は「車を停めろ」と運転席に向かって言い放つ。それを受けて百合は咄嗟に減速し、車を停めた。


「どうしたんだよ? ……急に?」

訝しげに百合が白椛に問いかける。


「――何かが道路に飛び出したか思ったんだが、気付かなかったか?」

「? 俺にはさっぱり。でも春さんが気になったってなら、何か――」

 

 そこまで言って、ふと百合は不思議に思ったのだった、周囲がとても静かな事に。朝方に、この道を走っていた時も、依頼人の家に居た時も、セミが煩いくらいに鳴いていた筈だった。なのに、今は不自然な程生き物の気配を感じ無い。山道故に四方八方から聞こえていたはずの蝉の声、生き物の息吹はいつの間にか凪いでいた。百合の視線は自然と助手席より前方に戻っていき、目を凝らして道路を注視すると「よくわかんねェけど、イヤに静かだなァ」と言葉に出した。

 先程までは気付かなかった百合も、そこでようやっとナニカを視線に捉える。二十メートルほど前方に黒く薄ぼんやりとした、ヒトガタのナニカが陽炎の様にアスファルトの上で揺らめいていた。それは、道路脇に並んで点在しているポールの反射板の位置より少し高く、未就学児くらいの子供の背丈ほどあった。幻覚ではないのかと疑うほどの奇怪な光景に、脂汗が百合の額から滲みメガネにつたって流れ落ちる。車内のエアコンの音が耳に反響して、意識と肉体が中途半端に剥離し、ただ、ソレと見つめ合うことしか出来ない。


 ――十秒、二十秒、三十秒と経っただろうか? その間、二人は必要最低限の生命活動しか出来ない状況に陥ってしまったのだった。


 しかし、その膠着状態を打破する一陣の風が後方より吹き付けた。ガゴンガゴンと激しく揺れる車内で白椛は、咄嗟に運転席に腕を伸ばして百合を庇い、抱きしめる。

 暫くして、突然の突風が嘘のように止んでいき、百合の耳に周囲の健全な環境音が戻ってくる。太い腕に包まれて、ぎゅうぎゅうと苦しい中、視線だけ先程まで、気味の悪いヒトガタが揺らめいていた道の先を見ると、至って何もない平穏な田舎道に戻っていた。


 百合は、気付けと仕切り直しの為に柏手を一つ打った。パァンと、車内に響いた音は、いまだに百合をぎゅうぎゅうと締め付けていた腕の力を抜く作用がしっかりとあったようで、やっと解放される。


「……ほら、大丈夫か? オッサン、もう無事に通れそうだから車動かすぞ」

「……本当に何だったんだ?」

「知らねェよ……。……や、疲れたなァ……」

「悪い、そりゃそうだな。帰ろうか」

 

 一気に疲弊してしまった二人は、そのまま無事に探偵事務所まで帰ったのだった。


 ◇


「ゲッ、なんだコレ……?」

 事務所の車庫に駐車した後、軽く点検をしようとした百合の目に飛び込んできたのは、車のドアやら何やらに潰れて付着した蝉の死骸であった。百合の困惑した声に白椛も降りてきて、「なんだ? 大丈夫か?……コレは流石に気味が悪いな」

と言った後にまじまじと観察し、


「頭だけ捩じ切れてやがるな、しかも全部」

と続けた。

「確かに、頭だけねェな。……悪い意味で子供っぽい所業だなァ」

「あ~、成る程。確かに、子供のようではあるな。まぁ、十中八九あの薄モヤの仕業だろうが」

「俺には、アレが黒い影で七つにはならないくらいのチビの背丈に見えた」

「俺は、ナニカ居ると確信できただけでぼんやりとしか見えなかったが、そうか」

二人がそう情報共有をしていると、


〈――じりぃぃん、じりぃぃん、じりぃぃん〉


と事務所の黒電話の音が鳴り出した。目配せした後、百合だけがその場を離れて電話に出た。電話口でのいつもの前口上を言おうと口を開いた瞬間に、あの電子音が流れ出した。


〈- --・-・ -・・・ -・・-・ ・-- ・---・ 〉


 驚きながらも、急いでジャケットのポケットからメモ帳とペンを取り出して書き付ける。そうして、今度も黒電話から、三回程流れた後、沈黙するのであった。受話器を置き、モールス信号を解読してそれを確認した百合は深々とため息をついた。そして、ガレージへととんぼ返りするのであった。


 車庫で仕事に使った車内の整理をしていた白椛は、百合がまた、戻ってきたことに気が付くと「どうした、何だったんだ?」と訪ねる。


「まァた、黒電話の野郎が意味深なメッセージを残していきやがった……」

「そりゃ、また、厄介だったな。……で、今度は何て言ってきたんだ?」

「むしはもやせ」

「ん?」

「〈蟲は燃やせ〉だとよ」

「なんて、タイミングの良い助言なんだ……」

「で、ここに空の一斗缶と着火用ライターと古新聞を用意した訳なんだが」

「……やりたい事は分かるが、余り褒められたもんじゃないぞ」

「うるせェ、知らねェ。黙っときゃバレねェし、さっさとやるぞ」

 

 百合は破れかぶれにそう言い捨て、車に積んでいたままだったチリトリと箒を取り出すと、ゴム手袋とマスクを装着して、白椛にも着けさせ、セミの死骸を集めはじめる。車にくっついていたものを、全部確認しながら一つ残らずだ。車庫内にも落ちていないかなど、二人で敷地内を隈無く確認をして、一斗缶に捨てていった。そして、道路から、また隣家からは見えにくい事務所の庭の一角にその一斗缶を設置して、クシャクシャのビリビリにした古新聞を上から被せて着火用ライターで火を付け、燃やし始めた。

 

 古新聞だけに火が付いている間はジワジワと燃えていたが、下の死骸達に延焼した時、ブワッと火柱が上がり、かと思うと、赤い筈の火が青く染まっていった。しばらくそうやってメラメラと燃えていたが、自然と鎮火する。恐る恐る百合が中を覗き込めば、一斗缶の中は空っぽになっていた。彼はマスクの下で口をへの字に曲げて「……おかしいだろ……色々」とぼやいた。白椛もついでに確認すると、百合のぼやきに頷きながら「灰すら、残らないとはな……」と言ったのだった。


 ♢


 ――それから、数週間後の事である。


「今回は、大変お世話になりました」


 依頼人である川澄さんが、調査結果と報告書を受け取りに白樺探偵事務所を訪れていた。応対する探偵と助手の二人は、感謝の意を伝えて来る依頼人に対して、それが仕事ですからと、答える。


「いえいえ、こちらこそ川澄さんのお力になれて良かったです。……それで、警察に被害届も出されたそうで」

「はい、警察の方にも来て頂いて、確かに動作中の撮影機能付きの盗聴器であるとのことでした、なのでちゃんと被害届自体は出しました……ただ」


そこまで言った後、憔悴した様子の彼女は、涙を零してしまう。


「すみません、探偵さん達には元々そういう可能性もある、と教えて頂いていたので、心積もりはしていたつもりだったんですが、――事件化は難しいって言われちゃいました」


 様々な感情が入り乱れているような震える声で女性は、そう続けたのだ。探偵はそれを受けて、言葉を選びつつ、話しはじめる。


「……やはり、そうなりましたか。川澄さんにはとてもお辛いことでしょう。そして、その盗聴器を仕込んできた相手への、処罰感情が捨てきれないというのは無理もありません」


 そう話した後、用意していた調査結果を依頼人へと手渡した。


「こちらは、今回の最終的な調査結果です。相手方のSNSアカウントの特定結果も合わせて封入しております」

「……今、見ても良いんでしょうか?」

「ええ、勿論構いませんよ」

 

 彼女は、手渡された紐付き封筒を開封して内容を確認しはじめる。


「――あっ、やっぱり、この人だったんだ。私が、あの娘のドールメイクの依頼を何回かお願いしていた人ッ。同じ愛好家の人を疑いたくなかったのにッ……」

 口を戦慄させながら、そう呟き俯く彼女に、「どうか、ご無理はなさらないように」と前置きをしてから、白椛は調査結果を慎重に口頭でも説明を始める。


「盗聴器は電源タップに偽装するやり方が有名ですが、これは電源の確保が容易だからです。川澄さんの場合、相手に人形のお化粧を度々依頼されていて、それをお互いに匿名配送でやりとりをされていたようで。その際に送られてきた人形に細工を施し、その都度、電池の入れ替えをしていたのでしょう。盗聴と盗撮はリアルタイムで川澄さん宅のWi-Fiを通してデータを取得していたのだと思われます」

「はい」

「相手が、そうやって知り得た川澄さんのごく私的な情報を第三者に漏洩させたり、それを使用した犯罪行為を働いたり、といったことは我々では見つけられませんでした。なので、私としては最初に川澄さんが気になった、と仰られたSNSへのコメントだけが当該事案にあたると考えています」

「はい」


 探偵は、自身の見解も交えてそう説明し、依頼人も報告書を見ながら相槌を返す。


「――そして、我々が川澄さんにご協力出来るのがここまでになります。後は、川澄さんがまた何か相手方に行動を起こしたいとなれば、こちらの調査結果を弁護士の方に持ち込み、ご相談されて下さい。一応、私の知り合いの弁護士の名刺もお渡しします。が、彼に相談するも良し、また川澄さんでネットトラブルに強い弁護士をあらたに見繕ってもらっても構いません。……ここまでで、何か質問などありますか?」


「……大丈夫です」


 依頼人の女性は今までの情報を反芻し、深く頷いた。探偵と依頼人の会話をその場で聞いていた助手は、調査中に気になったことを「これは完全にお節介なのは承知の上なのですが」と前置きしてから、

「Wi-Fiのパスワードは出荷時の初期パスワードから変えた方が良いと思います。ある程度、心得がある人間だと簡単に突破されてしまいますので」

「はい、私も痛感しました……」

「いえ、なかなかこういうトラブルは実際に体験してみないと実感が湧きづらく対策が後手になってしまうこともあると思います。えぇ、トラブルなんて起きないのに越したことはありませんので」

 探偵が助手のトラブルなんて起きないに越したことはない、という発言に同意であると頷いた後、

「今回は、白樺探偵事務所をご利用いただきありがとうございました。今後、ご贔屓にはならないように、探偵の用向き事が起きないことを願っております」

と、大真面目にそう締め括り、事務所に来てから、ずっと硬い表情だった依頼人からフフッと笑いが少し溢れる。


「探偵さんがそんな事言っていいんですか?」

「ええ、私個人としては仕事がないのは困りますが、日常生活を送っていて探偵に依頼したいような事が起きない事が一番ですから。勿論、また依頼されたい事が起きてしまった場合は全力でご相談にのりますので」

 

 微笑みを浮かべて「――ありがとうございます」と返す川澄さんであったが、また表情が曇ってしまう。それに気が付いた百合は、

「どうかされましたか? まだ他に何か気になることがあれば是非、仰ってください」

と、促す。白椛も「ええ、どうぞ、構いませんよ」と告げる。


 川澄さんの視線がうろ、と少し泳いだ後、


「こんな事、お二人にお願いするのも私としてもどうかしてるとは思うのですが」


と、そして、それから意を決した様に、


「あの娘をお二人に引き取ってもらえないでしょうか?」


と、言った。


「あの娘? ですか?」

「今回、盗聴器を仕掛けられていた娘です」

「ああ、あのお嬢さん人形ですか。……えーとそりゃ、またどうしてウチに?」

「……それが、その、盗聴機器がドールアイに偽装して取付けられていたじゃないですか?」

「はい、そうでしたね」

「……あの娘は、元々、数年前にとある蚤の市でお迎えした子でした。状態もとても良くって、一目惚れしたんです。それで、素人ですけど自分で手入れや、修繕をして可愛がっていました」

 

 依頼人の女性の意外なお願いに、探偵と助手の二人は少々驚きつつも、彼女の話を静かに最後まで聞くことにした。


「あの娘自体がアンティークなので、元々嵌められていたドールアイも一点モノというか、なかなか専門店でも見ないような可愛い目をしていたはずだったんです」

 

 話しながら、段々とパタパタ涙が溢れてくる彼女に、百合は箱型ティッシュをそっと差し出す。

「盗聴器が外された後のあの娘の伽藍洞の目を見ていると私、情けなくなってッ。取り替えられたってことは、相手の手元にあの娘の本当の目があるってことでッ、でも警察の方に取り返すのは難しいって言われちゃってッ。――私、今回の件で、それが一番悔しいんです。異変に気付けなかったのが」

そこまで一息で言うと、彼女は置かれていた手元のティッシュに気付いて「すみません、お借りします」と涙を拭いた。

「あの娘が悪い訳じゃないのに、顔を見るのがつらいんです。また、違う、お似合いの目を探せば良いとは、分かってるんですが……。本当にこんな事お願いして申し訳ないのですが、どうかあの娘を大切にしてくださる方にお譲りしたくて、探偵さん達の情報網で信頼のおける方にお願いしたいんです」

我儘を言って、すみません。依頼料に上乗せして貰っても構いませんので、と女性は続けた。白椛は、隣に座っていた百合と視線で(どうする?)(マァ、良いんじゃねェの?)と会話をする。

 ふむ、と顎を撫でさすりながら、探偵は、

「こちらとしては、別途料金なんかも入りませんし、引き取るのは別に構いませんが……。川澄さんはそれで良いんでしょうか?」

と少し困惑しながらも答える。

「はい。身内には私の趣味に理解がある人って居なくて、ネットで知り合った人ぐらいしか同好の友人って居なかったんですけど、――今回の件で怖くなっちゃったので」

「――それなら、なるほど。分かりました。ただ、報告書の文面には人形の引き取りの件を一筆付け足して置きます。よろしいでしょうか?」

「はい、よろしくお願いします」


 ◇


 ――依頼人の女性が白樺探偵事務所を訪れた日の次の日。

 あの後、つつがなく依頼完了となったが、件の少女人形の受け取りはどうするかを話し合った結果、白椛と百合の二人で川澄さん宅に日を改めてから、再び赴いて取りに行くことにしたのである。

 仕事自体はもう終えているので、事業用として買っていた小型のバンではなく、百合は自身の私用の車を出そうかと、一瞬だけ考えたが、虫の死骸達が彼の頭を過っていったので、白椛に断りを入れてから事業用の車で向かうことにした。白椛も白椛で同じ事を考えたのか、今回だけは良いぞ、と許可を出すのだった。

 その日は、最近の連日の酷暑日同様の予報がされており、青空に浮かぶ雲は分厚く肥えていた。川澄さん宅へ向かう山道に入ると、幾分か涼しくなったかと感じるがすぐに湿度が高いことを如実に感じるくらいに蒸しており、どちらにせよ、余り、日中に外で活動するのが褒められたものじゃないような天候であった。

 そんな人間には厳しいような天気ではあったが、川辺に植えられた紫陽花達は、いまだに元気に咲いていた。


「ごめんください、白樺探偵事務所です」

 

 白椛が、女性の家のインターホンを鳴らした後、そう名乗りを上げる。

「はーい」と家の中から微かに返事が聞こえたかと思えば、すぐに彼女が、玄関の扉を開けた。


「こんにちは、お待ちしてました」

「はい、こんにちは。川澄さんはおかわりはないようで」

「ええ、大丈夫です、ありませんでした。ご心配お掛けしてすみません。えっと、それで、彼女は既に彼女用のトランクケースに詰めて用意してるので、取ってきますね」

「ええ、はい。分かりました。お待ちしてます」


 玄関先で探偵と助手の二人で、待たせてもらっていると、暫くして川澄さんが横長のトランクケースを持って来る。


「はい、先日話した通りこの娘用のトランクも一緒にお譲りしますので、よろしくお願いします。――お別れの前にもう一度、私も姿だけ確認したいので、ちょっと開けますね」

「分かりました」

 

 ワインレッド色のトランクを一度、床に下ろして広げると確かに件の少女人形が、眠っているような形で横たわっていた。それを見た女性は、「ごめんね」と小さな声でつぶやくと、ゆっくりと閉める。


「探偵さん方、この娘のこと、よろしくお願いします」


そう、深々と頭を下げた川澄さんであった。



 川澄さん宅を後にする二人であったが、後部座席がなく、丸々荷台な中古のバンで来た為に頼まれた人形をどう運ぶか悩み、その末に助手席に座る探偵が抱えて運ぶことを選んだ。

 来た道から戻ろうと、谷間の山道を下っていると、道路に霧がかかってくる。百合が、不思議に思うと間もなく、辺り一面が真っ白になってしまった。



「なァ、春さん。イヤな予感しねェか……」

「あ~、同意したくないが、そうだな」

 

 じっとりとした空気が重く二人に伸し掛かる。川辺の山間部とはいえ、日中にこれ程の濃い霧が夏場に発生するのだろうか。百合の頭の中で警鐘が鳴り響く。

 

 路面と、脇に咲いている紫陽花達の薄らぼんやりとした丸い、色とりどりのシルエットだけが視界に浮かび上がり、その中を後退する訳にもいかずに車を走らせるしか無かった。

 警戒だけは怠らず、前方には勿論、後方からも他車両の気配を感じられないので徐行運転に切り替えて霧の中を進む二人。

 

 ――緩慢とした空気の霧の中、変化のない奇妙な景色に、それこそ虫の知らせか、俄に異変を察知した百合はブレーキを踏んだ。すると、ぼんやりと見えていた四葩達は既に無く、代わりに欄干が両側に延びていた事に気がつく。気づかぬうちに、橋の上で一時停止をしていたのである。橋の緑青色のアーチに見覚えの合った百合は、狐につままれた様な顔をして、


「……は? 俺ちゃんと事務所に向かう、山を下りる方面で走ってたよな?」


と、自身の正気を疑い助手席の男に問いかける。それに対して男も苦虫を噛み潰したような顔で、


「ああ。道は間違えちゃいなかった筈だ」

と答えた。


「なら、どうして俺たちは事務所とは反対方向の山奥にある筈のダム湖の上なんだ?」

「……なんでだろうなぁ」


 ダム湖の上にかけられた橋の上に立ち往生する二人は、途方に暮れる。不可思議な現象のせいではあるが、確かこの橋は一般車両立ち入り禁止だったはずで、それが書かれた立て看板も橋の前にはあった筈なのにどこで見落としたってんだ、と百合のこめかみがズキズキと痛みはじめた。


――バァン!!!! バンッ! バンッ! バンッ!


 その時、車内に一際大きな音が鳴り響いた。続けて、叩きつけるような音が何度も繰り返され、驚いた二人はすぐさま音の方向に見当をつけ、車の天井部に目を向け、警戒を強めた。そして、ふと、白椛は違和感に気付く、派手な音を立てている割に振動も何もないことに。探偵は少し考えて、


「――バックでいい。車を動かせるか?」

と運転席に話しかける。それに助手は、目を瞬かせると、「試してみる」とギアを変えて車を後退させた。

 

 ――が、すぐに白椛が目の色を変えて、車に念の為に積んでいた杖を咄嗟に掴みブレーキペダルを杖の先で突いて押さえ込んだ。すると、車は既の所で止まり、欄干にぶつからずに済んだ。百合は、一瞬何が起きたのかと呆けた顔をしたがすぐに状況を理解して、自身もアクセルから足を外してブレーキペダルに踏み変えた。


「、悪いッ!! 気付かなかった!」

「いや、俺も、直前まで違和感にゃ気づかなかった」

 

 白椛は渋面を作り、助手のミスではないと言い含める。しかし、さてこれからどう動くべきかと思案していると、カタカタと窓が小刻みに揺れたかと思えば、突然、横殴りの突風に見舞われる。百合は咄嗟にサイドブレーキを上げ、急激な横揺れに耐える様に身を低くした。それに白椛は上から覆いかぶさり、天井に片手を添えて支える。


 あの時の一陣の風よりも、それは長く強風が続いた。それはまるで、頑固な油汚れをこそげ落とそうとする様に執拗に。


 それでも、次第に風は落ち着いていき、辺りに静寂が訪れる。アレだけしつこかった、天井からの殴打音もいつの間にか止んでいたのだ。

 百合がそっと、顔を上げ周囲を見渡すと、べったりと辺り一面に発生していた霧が晴れ、ぽつんと橋の上に車だけが取り残されていた。同じく白椛も警戒しつつ外を見て、安全かどうか確認する。


「……俺は、外を確認してくる。咲宗は、車の中で待ってるか?」

「いや、俺も行く」

 

 周辺の異常を調べるために、車外に出る百合と白椛。白椛は車外に出る前に傍に置いておいたトランクがひっくり返っていない事を確かめると、荷台に積んでいた新品のタオルで包んで、後部座席の足元に置き直した。

 

 外に出た百合は、以前に訪れたことのある、記憶通りの橋そのものであると、ダム湖の有り様から、遠景に見える山並みから感じ取る。超常現象の類を普段、そんな事もあるのかも知れないなァ程度の人並みにしか信奉しない様にしている彼は、最近の奇怪な体験にほとほと気疲れを起こしていた。何故だか、人並みよりかは縁があるのか、ごくたまに巻き込まれて、なんやかんやで解決しているが、普通に慣れはしないし肝も大層冷やすのでやめて欲しいんだがなァと、百合の脳内がそんな愚痴っぽい思考のまま、車の裏手を確認する為に欄干に近づく。本当にギリギリ白椛が、止めてくれたおかげで擦らずに済んだこと、まして、勢い良く欄干にぶつかることを回避できたことが分かると、彼から苦笑が溢れてしまう。

 

 ――その時、少しだけ警戒が緩んでしまった百合の腕をナニカがギリギリと掴む。


「、ッ!?」

 

 咄嗟に振り払おうとするが、その力は万力の様に強く、子供のようなシルエットの黒いモヤが、欄干のその先へと引きずり倒そうとしてくる。百合の心臓が早鐘を打ち、言いようの無い嫌悪感から、脂汗が滲む。視界の先では、危機に気づいた白椛が駆け寄ってきていたが、突如として凪いでいた筈の風が、勢い良く百合に吹き付け、不意のそれに体勢を崩し、欄干のその先へとそのまま躍り出そうになった。


 ところが、


ーーパシリとナニカに掴まれていた反対方向の腕を白椛が掴んで、力づくで橋の上に百合を引き戻したのだ。

 だが、強風が吹き荒ぶ最中のこと、今度は白椛が煽られ、百合の眼の前で湖にそのまま落ちていってしまうのだった。


 一連のほんの瞬きの様な間の出来事に、百合は激昂すると、急いでジャケットと靴を脱ぎ捨て、眼鏡を外した後、


「――ッオイ! しっかりしろ!」

 

 そう声を張り上げ、湖に飛び込み、自分を庇って落ちた春洋を助けに行く。知識の中に合った水難事故において助けに向かった人間の二次被害率なんていうものは、彼の頭から吹き飛んでしまっていた。


 急いで、急いで、いそいで。


 彼は焦燥感に駆られ、服が纏わりついて、動きが鈍ろうとも二の次だといわんばかりに駆け寄って、服を掴む。

 

 その時、掴んだ腕を叩かれた事で正気が幾分か戻ってきた。よく見ればその場から動けずとも、柔軟に浮上行動が取れていた春洋を確認して、咲宗は今度こそ頭が冷え、彼の声に耳を傾けられるくらいには冷静になった。


「わかった、から! 良い加減に落ち着け!」

「――元気そう、で、何よりじゃねェの?」

「あぁ。俺が悪かったから、いじけるんじゃない」

 

 自身の性根はこんな非常時でもへそ曲がりなのか、どうにも減らず口を叩いてしまうと、百合はばつの悪い心境であった。


「溺れそうになったオッサンはさっさと俺の腕でも掴んでろよ。岸まで泳ぐからなッ」

「ほら、掴んだし、助かったから。そう泣かないでくれ、困っちまう」

「ッ、泣いてねェよ! 水引っ被ったのと見間違えてんじゃねェ」

 

 夏場とはいえ、山の中にあるダム湖だ、それなりに冷たいなと白椛には減らず口を叩きつつも、そう百合は頭の中で考えていた。そんな冷たい水に急に入水させられた春洋は、とある事件の後遺症のせいで冷えに弱い。酷く痛み、足を動かすのはとても辛いだろうに、どうにも自身のそんな現状の弱音を吐かない男に対して百合はムカムカしながらも岸辺を目指す。幸いにもあれ程強かった風は止み、然程の力も使わずに湖岸へとたどり着いた。


「っ、オラッ」と引き揚げて男二人、岸辺の草むらの上に横たわる。百合はゲホゲホと噎せたが、生きている証拠だと安堵もした。


「……オッサンは無事だよなァ????」

「……あぁ。何とかなったな」


しかし、と白椛の視線は百合の腕をに移る。

「咲宗、その腕は大丈夫なのか?」


 百合の腕には、小さな、掌の様な痕がくっきりと残っていたのだ。彼は「ア?」と苛立った声を出した後、自分の腕に内出血がみられることに気づき、片眉をあげる。暫く見分していたが、骨に異常は無さそうだと、本当に内出血を起こして青痣になっているだけな様なので「この程度、今のオッサンよりも心配するもんじゃねェな」と答えた。


「そうか、なら問題ないな」

「は?? 問題大アリだが?? オレを庇って落ちやがったオッサンの方が問題なんだが?」

「……それなんだが、車に戻るときは肩貸してくれないか」

「……バカ野郎がよ。あァ、介助は任せとけ」

「助かる」

 

 百合はフン、と鼻を鳴らし、お互い濡れ鼠なのでさっさと帰ろうと白椛を立ち上がらせて、肩を貸しながら、まだ登れそうな緩やかな箇所を探して、二人で協力して攀じ登ったのだった。


 橋の袂に辿り着くと、支柱が腐って折れてしまっている、道脇に投げ捨てられた車両進入禁止看板を見つけてしまい、百合は口を戦慄させた。白椛もそれを視認すると、「まぁ、帰ってから役所に電話するか」と疲れを滲ませた声で呟いた。

 

 やっとの思いで、車まで舞い戻ると車自体には異常は無さそうで、安堵のため息が百合の口から漏れる。荷台に念の為にと複数枚と積んでいたタオル達を取り出して、お互いに大雑把にだが身体を拭いていく。百合は、地面に置きっぱなしにしていたジャケットと靴を回収して、眼鏡は髪をかき上げてから、かけ直す。車に乗り込み、切り返しながらのバックで今度こそ、県道に戻ってこれたので、ホッと胸を撫で下ろした。

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